それなりに引用するけれど、學校ではサービスが使へず、しかし學校でしか書籍體のものは使へないので、家で使ふためにひと月といふことで契約。引用しにくい。
aqua-skkで遊んでゐる。ATOKとはだいぶ考へかたが異るなあ。
23:55
キリスト教概説。申命記6:4とか、4資料説とか。
中世。復元された今樣を聞く。ふむ。はあ。
くづし字は狩野本伊曾保を讀んだ。印刷が鮮明でないので苦勞する。書陵部本とはこまごまとした表現が異なる模樣。
ある程度廣い範圍の言語現象を記録するといふことはどういふことなのだらうと、ウィキペディアの近畿方言の項目を讀みながら考へる。いま、われわれが手にしうる記述は、なにか、代表させうるものを共有してゐるものの「まとまり」を代表させながら書いてゐるのに過ぎないのだけれども、それでないものも、その代表させられたものとちかしさを持つために、代表だけでも記述されてゐることは有意義であり、どの代表にちかしいかで線が引かれてしまふことも有意義なのではあつて、しかし、その「まとまり」を獨立させてしまつたときに生ずる、この捉へきれてゐないと思ふ感覺はどういふことなのだらう。土地のものが、じぶんのことばと隣人のことばとに懸隔を認めて、方言區劃に抗する、それともまた異なるこの感覺は、たとへば、よくいふ、大阪ではけえひん、京都ではきいひんといふのの、それが近畿方言を記述するにあたつて、なにをか物語るのか、といふことを問ふてしまふ感覺と同じい。近畿方言として云へることは、-ひんといふ助詞があるといふこと、なのであらうか。しかし、それはなんのための方言記述なのだらうか。
23:55
三馬。發表。このままでは喉が潰れさうだなあ。このまへもひとしきり話しこんだあと、喉が痛かつた。
ポータブルHDDを衝動がひするが、どこをどう動かせばこのせまい内藏HDDの負擔が減るのかといふことはよくわからない。とりあへずiTunesの音源が10GBに達してゐるのを(Apple Losslessが大半なので、曲數としてはそんなにない)動かすべきか?
23:48
音韻。琉球語が別れたとされる年代は1400〜1700年まへ?なの? 室町ごろではといふ説をどこかで見たけどそれはさすがに遲いやうな氣がするけれど、上代以前の分岐なのかはよくわからない。
80s。スイス。分裂と統合。頭はいいし好きではあるんだけど。
23:55
タフツ大學などの支援を受けてタフツ大學を中心にホストしてゐるPerseusといふ西洋古典人文學のための電子圖書館があつて、それなりに信頼のおけるテクストと、辭書類や語形分析などの機能が提供されてゐる。近年ではPerseus 4.0になつて、ラテン語・ギリシア語のみであるが、テクストのそれぞれの語をクリックすると、前接語を利用して語形のありさうなかたちを推定して(なにかの統計に基づくやうだが、詳細は調べてゐない)、その分析結果を表示し、同時に辭書の記述も參照できるといふ、それはそれは便利なしろものになつたのであるが、しかし、この機能が、ラテン語學習初期段階においてはなんとも使ひにくいしろものでもあるやうに思ふのである(附言して曰く、もちろん、分析結果はありうるかたちを示すだけであるから、前後のかたちをよく見て判定しなければ、かならず讀みちがつてしまふ、すなはち、まつたくの初學者には縁がないものである)。
知られるとほり、印歐語の屈折は相や法、性數などによつて定まるのであり、曲用は品詞、數と格などによつて定まる。これまでの學習法では、どんな活用パターンを示す語で、そのなかのどれにあたるのかといふことを、學習者は全體から考へなければならない、とされてきた(これからもさうだと思はれる;日本語の語形變化にどのやうな持論があらうとしても、語形變化の大綱を教へずして非母語としての日本語教育はできなからうやうに)。ところが、活用表が教へないことがやまほどある以上に、この分析結果は教へない。ひつかかることを學ぶ機會をわざわざ捨ててしまふやうなものではなからうか。
では、活用表が自由に思ひうかべられるやうになつてしまへば、このツールは至便なのであらうか。それはあるかもしれない。曲用や屈折の類別がすぐに見えない語といふのも多いし(primoはadv.かn., sg., abl.か?)、忘れることだつてある。なにより、辭書をすぐ引けるのがよい。A Latin Dict., Elem. Latin Dict.ともども、親切な辭書ではないが(使ひたふしてもゐないのでかゆいところに手が屆くやうな氣の利いたものかもわからない)。といふところで、いかに利用すべきかといふ盡きないとひへと戻る。
23:55
三馬。あんまりいい見本にはなれなかつたなあ、と反省ひとしきり。まあ、移動してはじめてで要求されるものがなんなのかいまいちわからなかつたのもあるけど。
圖書館の新藏書を眺める。4F大型のところに活字關係の本が4册竝んでゐて奇妙(アイディア『活字集成』、『アステ』影印本、精興社『報告書』、そして通常判型本印刷の棚には『視軸』と『廻廊』があるのだ)。科學コミュニケーターの先人といへるのか(理科基礎といふ高校のときの教科で、このひとの文章を讀み、宗教觀にえらく反撥した記憶があるが、どう反撥してそれをどう教師に表現したのかいまいち記憶にない、あまり理解されなかつたことだけ覺えてゐる)、板倉聖宣氏が變體假名を學ぶ本を出したやうでへえと思つた。歴史的な觀點からして最後の部分で建てられた問題といふのそれじたいに問題なしとしないことがあるのはともかく、おもしろくは思つた。『歴史學大事典』最終卷「コミュニケーション」でいろいろ見たことのある名前があるなあと思ふ。とりあへず、あの先生に生成文法を書かせるのは厭がられると思ふのだ。なんだかんだコミュニケーションの學に參入しようとしてゐるのだといへるのだらうか。そのわりにはコミュニケーションといふことを假名に譯せないが。
23:55
Intoroductium repente retextus est.
文學史。キリシタン版學が點々としかし着實に研究されてきた不思議を思つた。天理圖書館全盛期くらゐしかはつきりとしたネットワークは生まれなかつたのではなかつたか。
くづし字。ものほんをだれも讀まないのであらすぢで「???」なところがあつても「まあ」で進んでいく。「宛てられないところは分かるのね」。
なんだかんだで空まはりしててもほかのひとはひとの苦勞をしらで進んでいつてしまふものであり、つまり、砂はタイヤが空轉することがあるのである。車がみなか、みなが大地か(意味不明)。
23:55
案内係に驅りだされかけたわけでもあり、完全なお客さまではなかつたけれど、仕事をしない格好で行つて、客席に坐つたのははじめてでしたが、全體的にとてもよい演奏會だなあと完全なお客さま氣分でした。みなさま、おつかれさまでした。
それにしても、今回、宴會での立ち居ふるまひが巧くいかず、終電が目の前で去るのを許すなどもし、今後の課題です。
23:55
あれはひどかつた。あのときは信用もなくしたらしいよ? 飮み會もいいけれど、朝歸りもわるくはないけれど、體力が戻らないまま、仕事が進まないのが最大の問題ですね。
まあ、いまひいこら云つてゐるのは、火曜の發表準備で、春のときと違つて見とほしが立つてゐるので、あれほど悲慘にはならないのではないかと願つてゐる。
23:58
講義がどれもやすみを取つたので、澑つてゐたことどもをこなす(日記を書くのも一環)。
カラオケに行つてDAMであたらしく配信されたPollyannaを歌はうとするも、うつかりJAMの部屋に案内されてしまつた。しかたがないのでほかの曲を歌ふ。同行してくれた友人に感謝。
中務哲郎『イソップ寓話集』岩波文庫、岩波書店、1999.3。
を買ふ。對照表が便利。變換してゐて思つたことだけれど、なかつかさといふ姓については、務と努が通用するんだなあと。
22:11
この日記について、さいきんいろいろと質問を受けることが多いので、すこし説明をしてみたいと思います(いわゆる現代表記で)。
さいきんの、とりわけ、平日の内容については、受けた講義・ゼミのメモが内容のほとんどを占めています。受けた・出た・発表した感想だけではなく、じぶんに引きつけてその講義・ゼミにありながら感じたこと、たとえばじぶんじしんの勉強に益すること、思いついたこと、講義やゼミの設計(教えることを避けられなさそうな進路を考えているので)などをあまり詳細でなく――ここのあたり、隠しすぎに近いのですが、まあ、隠すようなことを書くわけではないけれど、本人に云わずに書いているのでもあり、まあ、研究ノートがマル秘のようなもので――書いています。題名はそれぞれ、その講義・ゼミを象徴する語を選んでいます。それ以外のできごとについては、メモのうしろに簡単に記してあります。まあ、だいたい買ったものを書くくらいなのですが。
というわけで、私的な日記を堂々とウェブで付けているようなもので社会性にだいぶ欠けるきらいがあります。
ついで、表記なのですが、高校生で始めたときは、もちろん能動的に始めたのですが、いまではほとんど惰性でしているこの表記、とうぜん現代日本語口語体で書いているので、表記のレヴェルの問題として、歴史的仮名遣ひ・正漢字を用いていると私は主張するのですが、とうぜん異論がおありかと思いますが、私としては、止めるつもりはさらさらないのです。私がにくからず思い講究したく思っている、日本語およびそれを書くこと、それを極めていく手段として現代仮名づかい・常用漢字はもっとも劣悪な素材であると確信していますし、どうせふみ台にするのであれば、うるわしく問題に富むほうを選びたいというのがその理由ならぬ理由です。
変換はどうしているのとたまに聞かれるのですが、現代仮名づかいで入力し、歴史的仮名遣ひに書きかえ、そうして得られたものを略字→正字フィルタに掛けています。フィルタが使えない環境についても、仮名遣いだけは改めています。反応速度が大事なチャットのたぐいはそのようなてまひまを掛けませんが……。
これがわが行く道なのであろうか、うむむ。
23:55
今日、腕が痛むので病院で見てもらふと、きみの右手は左手に比べて弱いね、といはれる。そんなつもりはなかつたので驚いたが、しかし、思ひかへしてみれば、滅多にやらない(これがまづいのだと思ふけれど)指の訓練でまづ痛むのは右腕だし、不思議でもなかつたわけだなあ。
明日は註文してゐた『古活字本研究資料』が屆くはず。たのしみ。
23:06
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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