ウィキニュース:利用規約#著作権によると、ウィキニュース日本語版はCCの歸屬 2.1以降で配布されるさうである。En Wnはpublic domain。ほう。
11:39
この日記にはてなブックマークのRSSを讀み込んで表示する擴張を施さうとしたが、うまくいかなかつた(まあ、原因はわかつてゐるのだが、對處が樂さうでない)。
ところで、Y!のオークションに活版印刷の一式セットを最低價格五萬で募集してゐる。錦精社の活字ださうである。URIはブックマーク參照(おい)。
20:32
どうにも付點が矢鱈大きい。びつくりしたよ。m118の症状だが、起動して初囘保存時に、
Error loading BASIC of Document file:///略/share/basic/FormWizard/script.xlb/: General Error. General Input/Output Error.Error loading BASIC of Document file:///略/share/basic/FormWizard/dialog.xlb/: General Error. General Input/Output Error.
といふ二つのエラー(ただし問題はないやうである)が必ず出る。あと、テンプレートから文書を作り、もとのテンプレートを變更したときに、變更を適用するかといふのをYesを選んだのにも關はらず次囘以降も聞いてくる(Noを選ぶと聞いてこなくなる)。
しかしこんな場所でいふなんて非效率なことだが(でもどこに言へば)。
00:45
先日讀んだ言葉が心に殘る(うろ覺えなのではある)――「戰後になつて戰前は間違つてゐたとよくいはれるやうになつたが、しかし、さういへるほど我々は賢くなつたのか?」
明治のもの、昭和のものは、温故知新の對象とはしえないのは、温故しうるほどに「古く」ないものを、無理やり過去のものにしたからであり、温故知新の眞似事をしても上ツ面を撫でるだけなのである。
21:36
イワタ明朝體オールドの記號は、太さがミスマッチなのが氣になる。いい惡いはあちらに置いて、金井美惠子『小説論』(岩波書店)をもとにしてゝと々を作字。ただ、々はうまく作字できなくて、どうにも。所詮9pt大で、インクジェットで印刷するのだからそこまで氣にすることはない、とはわかるのだが。
20:39
書き了へてから、たいしたことがないものを大したものであるやうに振舞つてゐるのに氣づいて澑息をつく。けれども、否定を禁止するといふ試みは、しばらく續けようと思ふのだ。
扨、これから『一册の本』(朝日新聞社)の年間購讀の申し込みと金井美惠子の所謂目白四部作の内二作を本屋に買ひにいかう。こんなんだからお金が澑まらんのだなあ。
13:33
緑も押し付けがましい夏の盛りももう翳りを帶びてそれでも日は容赦がなくて雲に大方隱れても増幅された熱光線は絶え間なく地表を熱して暑いなかを、松戸週間は始まるのであつた。
ところで古本屋で本を讀んだくらゐで立ち讀みはご遠慮くださいと店員がいふのは氣分がいいものではない。立ち讀みをして讀みきつて買ふ本だつてあるのだ、といふか、さうでないと財布が持たない(特殊な個人的事情)。
23:16
ようよう涼しくなりけるなかに、歩き囘りもせで紀伊國屋書店にこもれば、『目白雜記』の殘り『舊かな入門』の消えたりを見つ。さらに讀みいけば、『徹底抗戰! 文士の森』とかいふ、文士なるとうに消えたる商ひを戀ふは哀れなれど、その中に書かれたる、あさましき目次に大塚某を輕蔑もする心地にぞなれる。
23:05
珍しく半袖で出かけたら、冷房にやられて外のベンチで二時間ほど療養して囘復。その間に古本屋に行きP.D.ジェームズ(早川の表記だとジェイムズなのだが、まあいい)『女の顔を覆え』『黒い塔』『罪なき血』(早川書房)を買ふ。百圓づつ。
家に歸ると、月刊の『一冊の本』(朝日新聞社)が屆いてゐて、讀む。まさかもしやこれはマティスとかいふやつですか、といふ感想はいいとして(確かめてない)、これで年間千圓、しかも送料は向かふ持ちといふのだから、これは隱しておいたほうがいい雜誌だ。ところで、2005年6月號90ページに橋本治を日本を代表する知性と書いてある新刊案内があつたのですが?
22:58
森茉莉の懷かしむ時代は特殊な時代であつたか。嫩者がゐた、と森は書く。移行時期にきちんとできなかつたら、そこの部分はなかなか對應できないものだが、まあ、パーツの問題ではないのだから、これこれがかういふ風に惡かつたといふのはいへないのだけど。
見識のない保守なんてただの依怙地の異稱に過ぎない。
自分の作品を讀んでをもしろいと思へるひとが羨ましいが、自分でも、とつぜん思ひうかんだものを急いで書いたものは自分で讀んで中々だ、といふことがままある。
P.D.ジェイムズ『黒い塔』(小泉喜美子譯、早川書房)讀了。岩田なのだが、印字がよくない。廣告ページはまともなので、寫植印字の問題かな。信毎書籍印刷。たとへば、ま、岩田では二畫目が三角形のやうだが、この本では最後の撥ねがのびきらない。
……て、それ丈ではなくて、ジェームズ節とかなんとやらだなあとか。意味不明。
『目白雜記』のジャケットの折返しに、本文組版金井久美子とあつて、それを金井美惠子と勘違ひして、やけに感心したものだつた。大日本。
23:34
やうやく長い松戸週間も終り、且つ樂しみ且つ退屈する、しかし前者をどうにかして優先したい日々がただ一囘の助言タイムを過ぎて始まる……のでせう。しかしよりによつて最後の日だけ雨に降られるとはねえ?
事項のほうが覺えやすいといふのは、なかなか理解しがたいことである。どう考へても人の流れのほうが面白いし覺えやすい。しかし、疑問符がつけられてゐることについて、さうなのだと斷言されると戸惑ふなあ。
23:07
『神が一緒、と断定されると戸惑ふ。イスラムに三位一体ないやん?』はてなブックマーク - 思いて学ばざれば - 25日前のデイヴもそうだったのだ
とコメントに書いたものだが、ムスリムから見ればイエスも預言者の一人なのだから、神樣は同じでいいのだらう。クリスチャンから見れば、違ふ。
21:17
鹿島茂といふひとが『一冊の本』(朝日新聞社)に「ドーダの近代史」といふのを連載してゐて、私が購讀を始めた2005年6月號では、山本七平の分析を參考に、「太平洋戦争の問題のすべては、すでに西南戦争の中に露呈して」ゐると書く(鹿島茂「ドーダの近代史–陰ドーダの誕生(その十二)」『一冊の本』第10卷6號、朝日新聞社、2005)。
そしてそれは「それ(十五年戰爭:引用者註)を「陰ドーダ」の思考図式に基づく「革命」であったと見なすと、一から十まで理解可能になるのである」といふ(鹿島茂「ドーダの近代史–陰ドーダの誕生(その十三)」『一冊の本』第10卷7號、朝日新聞社、2005)。「陰ドーダ」とは、「物量において劣っていても、大義において正しければ、精神力一つで物量を凌駕できるし、たとえ敗れても勝ちだ」といふ「公式」である(引用前掲)。
面白い連載であると思ふので、朝日新聞に千圓くらゐ送ると雜誌が送られてくるから(一年にわたつて!)、まあ、本にまとまるならそれでもいいが、讀んでみてください。
22:51
「後ろは前に併せて」「ぢやあ、2.5cmほど……」
そんなに細かくなくて良いです。髮を切るのは一大事、ほんに(三ヶ月に一囘しか行かない所爲もあり)。
18:34
と書いて、自己の行爲について去來することが少なからずあつたが、さうではなくて、今囘の芥川龍之介賞の選評を見て、さう思つたのである。
芥川賞は特殊な賞である。なんで受賞者から銓衡者を選ばねばならぬのだらうか。なぜ受賞作を出すかどうかで議論せねばならないのか。前者は全ての賞銓衡全部にいへることだが、後者は、「今囘もまた」と云つた趣で、成程「文藝の衰退」を殊更云ふ輩もをるらんとは思ひつつ(賞の下讀みの質が下がつてるだけでないの?とか芥川賞受賞者が今まで書いてきたやうな、或は芥川賞を受賞するに足るべき資質が備はる、との賞關係者が信ずる概念に沿つた作品が減つてゐるだけではないの?とは思ふ)、結局受賞作をよいとするのは黒井千次一人で、愼太郎は三角といつた所、他は軒竝み受賞作なしにでもしたいやうな雰圍氣であつた。池澤夏樹などは、「小説には他者が必要だと勉強した」なる旨書くし、なんのための銓衡だとはあんまり思はないのだが、芥川賞を過去に受賞した人で、いい物を出してゐるひとも、この現在の賞の濫發の煽りで、芥川賞受賞を理由に敬遠されたら、とつても哀しいことであると思ふのであつた。
21:42
勞働者を甘やかす、と他國(和蘭)の勞働事情を傳へる記事に忍び込ませるのはいかがなんでせうか、讀賣新聞さん。
23:43
極まり切つたことをできず、恥を振りまいてゐた方面ではやうやく自分が何をしてゐるのかわかりはじめた氣分になり、しかし根氣が足りず人に結局頼るのだが(そしてもう相手にされない時分なのだが)、落著きがあるのではなくてただ表情に出ないだけである私は、結局悟つた風にしてゐるしかない氣がする今現在。といふか頼つてるみなさますいませんありがたうございます(誰に)。といふかこんなことしか書くことがない何もしなかつた一日。ORADANO、最新版を眺めてゐて、ゞと々のアウトラインを見比べていろいろ思ひつつ、漢字がああなら、かなもスキャンしたそのままでいいんでないかなあ、とか(といふか復刻作業をするほうとしてはそのほうがやりやすいとかなんとか)、kgの記號で、gのアウトライン重複が處理されてないなあとか(その後非漢字グリフを全部見たら、g單體でないのは全部さうであるやう)、ミリなどの單位のグリフは舊いORADANOのかなで、イワタ明朝體オールドみたいだなとか、古いのに比べて増えただけでなくて減つてゐるものもあるんだなあとか、下衆なことを考へた。ゆとβがかはつて(替る、變る)ゐるのを確認しました。あと、今更なんなのですが、ωにも變なアウトラインが混ぢつてゐました……。これもどうでもいいことですが、ダーシに罫線類が假想ボディをはみ出してますね。中心からずれたものもある模樣です。
21:30
こんな、支配階級と被支配階級の時代の用語を引き摺りだす時點で、その論は見る價値がないのかもしれないが、某が「政府に出來て民間に出來ないのは失禮だ」といふ民間は、一人一人ではなく、また、ゆるやかな地域の統合體(縣などの公共團體、とは違ふ、文化圈)でもなく、ただの大企業であり大資本家であるからには、郵便を一人でまかなふことのできぬ一人一人は、某はサラリーマンは税を取る量が少ないと云つて憚らない某評論家を雇ふてをりしかも搾取といふ形容の似合ふこの事業を平氣でやらうとしてゐるのだし、黄色い聲を出してゐる暇はないのだと、思ふ(サラリーマン増税。農奴化とは言はずとも)。
22:47
正字、といふとまづ想起されるらしい戰前の漢字遣ひは、我々から(たとへ正字主義者であつてさへ)失はれて久しいのだから、それについて何かをいひたいのであれば、それらの時代の文字状況を知つてゐなければ、話を聞くに値しない。最低限の智識として、『明朝體活字字形一覽』や『聚珍録』の資料を總覽しないことには、「野蠻な温故知新」を呼び起こすだけである。
「所謂」康煕字典體は康煕字典に拘束された規範であり、白川氏のいふ正字は甲骨文字や金文に拘束された規範である。戰後は當用漢字表或は常用漢字表であるが、戰前は、といふと實に多樣な規範意識があつたとしか、今の私にはいへないのであるが、少なくとも、單字置き換へで濟む状況は全く存在しなかつたのに、それで濟むと考へる人間のなんと多いことか。
今の自分を否定して、するのは勝手だが、その間に生まれた空ろをしかし彼らはどうする積りであるのだらう。
20:40
まだ殘つてゐるかしらん。
14:16
フロベール『ボヴァリー夫人』(村上菊一郎譯、角川書店<角川文庫>、1950、再版)を、水曜あたりに買つたのだが、角川文庫からは落ちてゐる模樣。帶はモーリヤックの『愛の砂漠』に『テレーズ・デスケイルウ』、マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒險』などが見える。東洋印刷。岩田と晃文堂が混ぢつてゐる。大日本や、築地の細くしたのさへ混ぢつてゐるか? いや、私がわからんだけか。――「彼女はもう死んでいた! 何とまあ!」
22:04
眠いけど眠らないうちに、目が覺めた氣になつたあと。緊張が高まつて氣の動轉が治まつたとき。つまり、心のざわつきどころでなくなつたときといふことか。或はいろいろなものに手をだせないときかもしれない。テストとか。分析してゐるひまがあるなら汝の爲すべき事を爲せですか(違。
20:53
代
表的な字体異体字対正字といふのと、著目點で同一なのである。正字も參照されたい。 字形は、書體とその字を書く場面に依存してゐる。そのときにあるのは、その字形を一つにまとめる捨象の仕方であり、この場合字體といふのは限りなく具體的な形を持たない。對して、代表しうる字體があつて、それから字形が求められるのだ、といふのは、當用漢字や常用漢字、または、所謂康煕字典體、唐代の開成石經などの科擧標準字形、または、甲骨文字、金文や大篆から導かれた字形を根據にしなければ成り立たない。そして、そこには傳統といふ概念はないのだから、一對一の關係のみが成立し、異體字は特例的に生き殘ることができるのである。しかし、前者では異體字といふ概念は成立せず、ただ實裝の違ひのみがある。 JIS X 0213がいま使はれてゐる日本語を符號化するにはどうしたらいいか、といふ發想で起草されたからには、この兩者の中間を行くしかない。實裝するほうの問題だといふのは、むしろ卑怯でもなんでもなく、當然の姿なのではないか? 舊字だの正字だのも一つのコードしか與へないで、Adobe-Japan1-5 のやうな、グリフアクセスを勘案することで對處する、といふのが、要するに一番望ましいのではないか、といふことである。 13:04
スペイン領メキシコで初めて活字印刷を行つた人物に、Juan Pablosなる人物がをるさうなのだけど、スペイン人なのかイタリア人なのかよくわからない。Juan Pablosならスペイン名なのだらうが、イタリア人だつたらGiovanni Paoloといふ名前がネイティブであらう。コロンブスみたいなものなのだらうか。イタリア人なんてありえない、と斷言できないあたりややこしい(日本語のウェブページだと、Juanの出生はイタリアとするところしかなく(手持ちの本にはでてゐない)、英語のページだと、spanish printerとのみするページも多いが、出生はどの地方と明示するのは、イタリア出生説のページのみなのである。だから、イタリア生まれかも知らんなあといふ思ひはあるが)。ところで、pablosはイタリア語でpaoloでいいんですか?
22:51
小宮山さんや片塩さんはMotogiと言ひ(小宮山さんは本木家オランダ文書の自筆サインは「Motogi」となっていますので、「もとぎ」と濁るのが正しいと思われます。もじくみ仮名書体について
と書き、片塩さんはどこだつたか忘れたが、印刷博物館の「活字文明開化」展での本木のローマ字表記がMotogiであることを嬉しがつてゐた)、しかし『活字文明開化–本木昌造が築いた近代』(印刷博物館、2003)に掲載されてゐる、「本木昌造を生み出した長崎通詞の世界」(杉本つとむ、p.41)の註では、「本木家の読みにはモトキとモトギの両者があるが、幕末嘉永元(千八百四十八)年、長崎に保護されたR・マクドナルドの著書“Japan / story of Adventure”に、彼から英語を習った一人、Motoke Sayemonの名がみえる。これは正栄の子にあたる本木昌左衛門と思われるので、本木はモトキとよばれていた証拠になる」とあり、どちらも本木家のローマ字表記に據つてをり、長崎通詞の資料を讀んだ事のない身としては、わからないーといふよりない。
22:23
旧字は覽に作り、監︵かん︶+見。監は鑑の初文で、監は水
盥︵みずたらい︶︵皿︶の上に顔を出して面を映す形。その映る面を見
ることを覽という﹃CD-ROM版 字通﹄︵白河静、平凡社、200
3︶。字音はらん。 どうして覽のみ新舊の別があるのかと前から氣になつてはゐたが、かういふわけだつたらしい。 拾遺。﹃聚珍録﹄本文歐文書體はBembo。Granjonはいづこに? 引用︵といふか轉載︶で、著作權の切れてゐるものといふのは、それが記載されてゐるものの著作權を氣にする必要があるのだらうか。特に圖や寫眞など。﹃聚珍録﹄の圖は缺けがあつたりして、別の用に使ふにはあまり向かないが、﹃秀英体研究﹄なら耐える、と思ふのであるが。 19:43
梅原猛が「梅原日本學」と呼ばれて「折口民俗學」だのと比して喜んでゐたが、おだてに弱いなあと思ふのは、誰々の何々學といふ呼稱は、その人の説が「特殊な」學説で、(我々)正統派と區別して置かう、といふ意圖を感じるからなのだが、穿つた見方なのだらうか。
一と昔に話題になつた『ラブ&ボディBook』とやらを反對派のサイトで見たのだが、極めて穩當な内容だと感じたのはなぜだらう。そのサイトを眺めていくと、小學生に教へてもわかつてもらへないで、「貞操派」を勢ひづかせるだけではないかと強く思はせるのもの([1]、[2])もあつたのだが。といふか、小二のときの教室に[2]のやうな本があつて、「エロいー」だの云はれてゐただけだつたから、事實さうなのだらう。
23:15
フレームを使ふと、その擧動の意味不明さに惱む。PDF出力で、Type1のフォントを指定したら別のTrueTypeフォントに勝手に變へられる。 Swiss 721をArialにするのはまだわからんでもないが、ZurichをNewsGothicMTにするといふのはどういふエンジンなんだか。しかも Type1からTruetypeに入れ替へても直らないし。
14:39
ルビを入れてまともな組版をするには、Edit Paragraph Styleから行間をFixedにする。追出しで組むと、」!っなど餘計なものも追出すので、文章を調節できるなら書き直して工面する(待て)。ボックスを配置するときは、Entire Pageでできるならさうしたほうが樂。PDF出力では無理やりフォントを埋め込まうとするくせに、Truetypeしか埋め込めないやうなので注意する(何)。しかし畫像にして出力しても印刷すると灰色がうつすら出る(死)。見たところTimes New Roman, Arial, NewsGothicMTなどを埋め込みたがる。和文だとMS明朝。使つてないはづなのにPDFの文書のプロパティにはMS-Minchoとあつて何がいけないのかわからなくて惱まないこと。一文字だけ書體を變へてゐたりするとたまにあるぞ。字間調整がうまくいかないので、散文で四分アキの組版はできません。といふか、句讀點が。
今囘Bitstreamが駄目、Monotype Garamondは好きだけど氣が進まない、でefont serifを遣ひましたが、本文サイズだとSlab Serifみたいな感じで、難しい書體だなと思ひました。
20:35
田舍と都市部の丁度いい眞ん中に住まつて(と思つてゐるのだが、都會と田舍とで兩方から異論が出てきさうな氣もする)、家の中が靜まると、この時期は蟲の音ばかり聞こえる。初夏に鳴きはじめ、盛夏は默り、八月の半ば頃からか、再び鳴きはじめる。リーリーだかキーキーだか殆ど一樣に響き渡るのだが、耳を澄ますとときをりコロコロ鳴くのもをり、夜更かしで机に向かひ作業して、やうやく心定まり集中する體に心地よく染み渡るものだ。
21:21
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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