3日あまりも費やしたのだから、けふはしばらく閑居友のことをおいておいて、小説を讀んでみた。いや發心集も讀んだな、まあ、おほむね。
まづ3時くらゐから『停電の夜に』をよむ。あぢはひ深く珠玉の短編集。評語はさまざま與へられようが、蛇足以外にはならない類。夕食には鱈の照燒とキャベツの煮物が出て、發心集をいくらか讀んで、いまは『東京の昔』を讀んでゐる。『金澤』よりも身近な贅澤さが出てゐるやうに思はれる。古木君は本は讀めなくても文獻には詳しいやうだつた。
やれおつかないぢやないか。
23:55
4時間ほどかけて下調べをして取組んだとある書物の奧書の讀下し・翻譯が、しかしきたる發表においてどれだけの重要さを持合せるかといへば、その奧書があるといふだけで十分な氣がした。夢中になる前に考へればよかつたかな。
23:55
文章を組むときに(組版ではなくて述べつつしかも編輯しつつあることを、いま、文章を組むとのべておく)、述べらるべき要素を打ち込んではまたべつの文言を求め求めしてゐるうちに、要素のひとつを忘れてしまつたりして、のちのちに讀み返して拙いなどと反省するのである。しかし、この話題、既視感がある。まへにも書いたか?
23:55
寄る邊なき濫讀の一通過點には、しかし鮮やかなることばに醉ふ瞬間があつて、さひはひにも、けふはふたつの論攷のなかにそれを見いだし得た。
ひとつは長田俊樹「日本語系統論はなぜはやらなくなったのか 日本語系統論の現在・過去・未来」アレキサンダー・ボビン、長田俊樹編『日本語系統論の現在』、日文研叢書31、京都: 国際日本文化研究センター、2003.12、373-417のなかにあつた。鈴木廣光が書いた變な論文(長田がなぜ鈴木がかう變に書いたか意圖をとらへきれてゐないやうにも感じるのであとで鈴木の論文をゆつくり讀んで考へたい;なほ、鈴木はたしかに誤つたことを書いてゐる)や、日本語とナショナリズムを分析する書籍におほくある言語學の方法への無智(イや安田にもあるので一種どうしようもない)も勉強になることながら、まさに現状を總括しきる鮮やかさに感服。日本語を中心に言語系統論まるわかりといふ趣がある。上田萬年研究への新視座をせまるものとしても重要。
その次が青柳悦子「反=記憶装置としての小説 弛緩する散文的宇宙」および「コラム 「文学理論」とは何か」土田知則・青柳悦子『文学理論のプラクティス 物語・アイデンティティ・越境』、ワードマップ、新曜社、2001.5で、「……フィクションを読むという行為は、ジョン・サールらによって確立された言語行為(スピーチアクト)論による定義――虚構テクストとは、その内容の真実性が問われないような言表である――とは正反対に、フィクションの内容の真偽や事実性を、真剣に問う行為にほかならないのではないか」(161)、「……「文学理論」は文学研究の姿勢を表わすものであって、研究の対象として存在するのではなく、いわんや研究の成果としてなんらかの文学理論を抽出するなどということは想定外」(165)とあつて、前者にははつとさせられるものがあり(なにぶん佛教説話文學に通じるので)、後者にも、うかつにも、鮮やかに階段から突き落とされた感じがした。
長田のまどろつこしさすらある文體には鮮やかさはないかもしれないが、まとめる手際といふのは、一個一個の文の奇拔さでは見拔きえないと信ずる。
23:55
たとへ研究において一次資料を引用するといふ場合であつても、誤讀による引用といふことはつきまとふ。それにより研究に生彩が生まれたとしても、だれもそんなことはきいてゐないのであつて、單にあやまりと捨ておかれるのが落ちである。
もしこれがおはなしの類であればどうだらう。たとへば説法で如是我聞をそれ以外に言ひかへたつてなんのおもしろみもないだらうけれども、たとへば法然が大無量壽經に施した誤讀はどうだらうか。おもしろみといふこととは違ふかもしれないが、讀み手のテーマでテクストを傷めつけることは、あるテクストを踏まえることとは異なり、傷めつけられたテクストの「世界」を再構築してからこれからあらはれるべきテクストに連れこむ。あるいはこれらは程度の問題なのかもしれない。「踏まへ」とて先行テクストをあるがままに取りこむものではなく、強引に先行テクストの「世界」にわがテクストを、力の差こそあれ、ねぢ込むことである。先行テクストに唯々諾々と從つてゐるやうな國語教科書でさへ、その本を編むに作業でのそのテクストの最初の讀み手、すなはち編者がどれだけ編者側の「世界」に先行テクストをねぢ込んでゐるかは、たとへば石原千秋の國語教科書を對象とした諸研究に一端を伺ふことができる。
そのテクストに醉ふ者として、われわれはそのテクストについてなにを述べえるだらうか? 素面で、あたかも採點係のごとく、ここが先行テクストを改竄してゐる、などと述べていかうか? 私としては、どちらにも醉つてみたいものである。
23:55
アメリカ構造主義言語學からも生成文法からも疎んじられて省みられない、といふ一端を英語版ウィキペディアでうかがひえた氣がしました。覺え書(のつづり)もなければバイイらの改竄もない。ううむ。フランス語版も似たやうなもので、いくらなんでもあんまりではないかと思ひました。
やり殘しはできるかぎり遺したくはないものだけれど、まあ、命短し戀せよ乙女だしな、と思ひました。やはり北大や東京外語、信大に進路を見いだすことになるのだらうかとしばし。
大祭の後始末をおそまきながらはじめる。……前途險し。
23:55
・とてもとてもとても重くてお茶を取りに行かうかと思ふときがある
・急にかな入力ができなくなるときがある
といふ問題がいよよ鬱陶しくなつてきたので、プロファイルを作りなほしてみました。ブックマークも作りなほし。これで駄目なら辛いなあ。
23:44
假名の體系。シニフィアンの更に一歩外側をおほふ書體の體系。ラングへの不關與性。體系への混入としての混植。書體デザインの變化は文字體系にどのやうに影響するか。わねれ攷。日本イエズス會版ではすでに崩れてゐる。漢字に即して假名の形をあやまりといへるか。古い父型を遺して作り直された活字。新父型はどこに? 曲尺はなぜ選ばれたか? 書體を輸入した者としなかつた者。囘りが早いやうでてんで殘らない(氣がした)燗。
23:55
ここでいふメタ言語とは言語學の用語で、言語行動それじたいに言及する言語行動をいふが、私は、ウィキペディアについて、世にあるやうな一般の出版物に比して、よりメタ言語が多用されてゐるといふ感覺を持つてゐる。たとへば、「〜の歴史」とページが名づけられてゐれば、その冒頭には「〜の歴史について述べる。」であるとか、「〜の歴史について説明する。」だとかあつて、もしかしたらそこには「〜の歴史」とだけあるのかもしれない。また、たとへばこの項目は未完成です、だの、記述が信用できません、だの、日本法に基づいて書いてあります、だの、〜プロジェクトのテンプレートを使用してゐます、だの、やたらと「本筋」にかかはらないことが書いてある。これもメタ言語に内包される。これは「(かなりを)素人が書いてゐること」+「紙ではない形態」が影響してゐるのだと考へられると思ふのだが、メタ言語が使はれてゐる箇所、頻度をだれか研究しないかなと思つて、いろいろと書いてみた。
22:06
本とW-ZERO3と動法の日々: 石川九楊著『中国書史』読了に引用してあつて、ほんたうに久しぶりに讀んだのだが、あまりに無意味でしらけた。不勉強もいいところだし、文もなんのおもしろみもない。第一引用、スタイルこそ美とか、生半可にソシュールでも讀んだだけぢやねえかとしか思へないし、石川が最近の作品を讀む力がないことを露呈しながら平然としてゐて唖然。きちんと讀んでゐないのであまり根據のある批判ができないのだが、第二引用では、言葉についての認識不足が露呈してゐる。石川の理論では、垂線は天からきたさうだが、天は垂線、すなはち二足歩行の誕生によつてうまれたものなのであるといふ點で第三引用は意味をなさない。第四引用では、仰々しすぎて却つて眞實がぼやけ(字が書きにくいで十分ぢやないか;それに、例外はいくらでもあるので、下手に普遍化もできない、といふか、いまのところ、文字について普遍化された體系があつたか?)、第五引用も用語が適當なので記述が分解してをり(演繹と歸納を理解してゐないらしい)、以下略以下略。つくる會の教科書は貴重な時代資料だが、この本はなんになるのか?
丸山圭三郎『ソシュールを読む』岩波セミナーブックス2、岩波書店、1983.6、ほとんど讀了。人間學の章は、それまでに比べて冗談にしか思へないのだが、ソシュールはそのやうな思想を展開してゐたのだらうか。
23:55
話しのおちつかせどころを探しあぐねて云々。ハースのひきかたはおもしろいな。結局どこまでをその論攷における限界とするか、なのだらうか?(有效性も重要だが……)
戰友が風邪にたふれたとのことでとりあへず元氣になつて書き上げてください。ちやんとした耳にあてるスピーカーがほしい。iPod Nano附屬のだと耳がなんだか氣持わるい。
23:55
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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