閑居友はそろそろフェードアウトを開始し(まだ後始末があるのだが)、キリシタン學史に頭を戻すためにあれこれ讀んでゐるものの、なんとなく樂しくないのでどうしたものだか。行詰り感なるものか?
23:48
西尾光一先生のご述懷。しかし卒論書いたら博くらゐまではその論題はつきまとふのではないのだらうか。
小松一派は機能至上主義だからくだらないんだなと思ひけり。
廢棄寸前といふことで
『月刊言語』20.3 (1991)
を入手。
23:50
友人に指摘されてことなかれ願望のつよさを確認してみる。ことあれかしとは、すくなくとも、あやまりと明々白々におもはれないかぎりではおもはない。あやまりとおもつてもことあらしめがたくてのみこむこともあるけれども。
23:55
圖書館で本を借りるときは自動貸出機を使ふのですが、はじめて借りだしてそれで滿足して歸つてしまふといふ事態になりました。迂闊すぎる……。
山田孝雄『假名遣の歴史』寶文館、1929.7。1952.8。
迫野虔徳「仮名遣いの発生と展開」、林史典編『文字・書記』、朝倉日本語講座2、2005.4、147-70に感心する。
23:55
讀み落とす自由がない散文なんてつまらない。讀み落とすことがないところを取りあげてゐるのではないあら筋なんて役目を果たしてゐない。かくのごときアンビヴァレンスさを背負つてまで、あら筋を提供とする必要はあるのだらうか?
23:55
暖房を效かせすぎなのだらう、三菱東京UFJはとても暑くて、着込んでゐる私は汗をかいてしまつたのだが、二囘目にかいたのはあきらかに冷や汗であつた。
なんとなく抱いてゐた不安が、まさにそのとほりであつたので、困つてゐる。管理はきちんと……。
町田健がなぜか通常期間にくるあふりで次の木金金とこれから5*1.5*15時間ちかく拘束されてしまふ。なんでだらう。13, 14で圖書館が廢棄處分の本を學生に配布するとのことで、それに行きたいのだが。
23:55
書かれてしまつたテクストの織り目をなすであらうそのフォントの、テクスチャーとなるまへのその糸はどのやうにつむがれたものか。
ひとつたりとて無駄にできないが踏みつけられることが決定されてゐるその文字の一字一字は。
23:55
新村出に數編の研究あり。新村は天草版に憑かれたによつていろいろとものしてゐる。なほ、繪卷物があつたが外國に流れたといふ(「西洋文學翻譯の嚆矢」)。民末漢譯が日本にも入つてきてゐるだらうとのはなしもあるさうである(禁教輸入禁止書目にあるとの由)(「伊曾保物語の漢譯」)。福島邦道『キリシタン資料と国語研究』に天草本と古活字・整版本系との關係についてすこし書いてある。
なほ、伊曾保と同綴の平家の物語の表紙繪には、獅子が描かれてゐるが、しかし畫工に智慧なきゆゑに獅子にならで犬になつてしまつたとのことである。
日本でわかりやすく、といふよりも、禁教下で販賣するためには西洋色の脱色が當然されねばならなかつたが、どのやうな經路を經たのかは想像すらできない。
22:55
目録は底本では最後に綴ぢられてゐるが、目録末尾
に﹁第一 どちりいな﹂とあること、どちりいなの章にはこれがないこ
と、同内容ローマ字本では目録が序の後ろについてゐることを理由として錯簡があるとした。この結論は變はつてゐないが、攷究を加ふべきぶぶんを見つけたので、備忘程度に書き殘しておかう。 まづ、目録の入力の不備なのであるが、以下の部分が拔けてゐた。第十二とヴィニェットの間に記さるるべき文言である‥ 以上 左にくるすの下にあるべきことばはらちんの口と心得べし 現存本では最終丁である目録の、最後から2行目にこの文言はあるが、最終行は以前の翻刻にあるやうに、﹁第一どちりいな﹂であつて、†はない︵ダガーは十字架でないといふのは入力の都合であるので措く︶。すなはち、本來は左にいろいろと續いてゐたはずなのであつて、ゆゑにかく置かれたのであるとするのが自然に違ひない。しかし、目録に目を轉ずると、次のやうなことに氣づく‥ 第八九 御母さんたゑけれじやの御おきての事 これはいかなることなるべしと本文を檢ずれば、第七の次が第九なのである。すなはち、ナンバリングの誤りである。これは目録が先にあつたとすれば不可解なことで、エラトラでもないが、索引をあとから作るやうに目録をあとから作つたと考へるのが、これも、自然ではないかと考へるのである。されば、ヴァティカン圖書館に現存される本を綴ぢるときに後刷なれど先にくべき本丁の順序をあやまつたか、綴ぢおはつたところにあらたに綴ぢたかのいづれかであらう︵そして、この場合、あやまりに氣づいてつくりなほしてあらたに綴ぢたこともありうるかとも考へるのである︶。原本を見る機會はおそらくないが、原本の綴ぢ方の調査によらずば、かうなつた原因は明らかになるまいと思ふのである。 さて、今囘は、第六をおさめる。﹁新出﹂顛倒活字を見いだしたやうであるので報告すると、﹁まてりあと云事は一るひなれども﹂といふ語句が途中にあるが、この﹁一﹂は顛倒してゐるごとく見える。 中途よりスペースが増えるが、認定がいまだ一貫しないので、これまでより多いとするものではないことを注意せられたい。また、印字されず讀めない箇所は岩波文庫本により推定を補つた。
自己の權利を確立するに際しては迷惑をかけませんからといはされるが、迷惑に對する忌避が自己の權利の確立とともに増大してゐるのであれば、そのやうに權利といふものが確立してゐるといふことなのだらうか?(なんにも云つてゐない文のやうな)
23:55
・Rumania Montevideoはどうしてかうも素人つぽいのか?
・仕事をおへてから食事といふのは體にわるいといふけれど、勤務中に拔けられるならかういふことにはならないのではなからうか。
・日本イエズス會版を出版事業とする規定は私だけなのかな。キリシタン版の定義をめぐる諸家の齟齬はここらへんの認識の不徹底に端緒を發してはゐまいか。
・例によつてもたもたして家をでるのに遲れる。歸りはもしかしたら今年最後なのかもしれないのに特に挨拶もなしに別れる。
・日本語學概説bの課題が「自身の日本語音聲の特徴について」といふのは、どういふことなのかしら? 特徴といふからには、ほかにはないといふことなのかね。
・古典ギリシア語の詩脚の勉強をしながら、「語頭にたつことができる複數の子音は」なる規定が音節の要件にあることに氣づいた。……語末に立てない音素は知つてをりますけれど、語頭はどこに書いてあるんでせうか?
・ウィキペディアの未来は、執筆者、閲覧者、それぞれのなかにある。やわからく「フリー」なかたちで。
23:55
Barker, Nicolas. "Obituaries: Henri-Jean Martin." Independent Online Edition. Feb 9, 2007.
Chartier, Roger. "Obituary: Henri-Jean Martin." School of Literature, Languages and Cultures. Univ. of Edinburgh. Mar 1, 2007.
『書物の出現』でのリュシュアン・フェーヴルとの共著(監修と執筆者のやうな關係だつたらしいのですが)で有名。
今年の1月にガンで死去とか(英語版ウィキペディアによる)。『書物の出現』を讀んだのは去年の9月で、そのころは鬪病でもなさつてゐたのでせうか。なかなかかういふことも知る機會がなく、1/13はなにをしてゐただらうかとも思ふばかりです。
02:49
開始時間がわからなかつたので、9:40に行つたらだれもゐませんでした。この講師にして學生あり……。
結局くねくねしつつ(偏見)、言語がいまかうである理由を探つてゐるのでせう。ありうべき事態の數の計算は私には理解しかねたのですが。ムード=モダリティなのかなあ、さうなのかなあとは思ひましたが。inidicative, subjunctive, optative, imperativeの順に話者の判斷のつよさをしめすと云つてたのはだれだつたかな……。
テスト後はサークルで内輪コンサート。彈ける曲を増やさないとなあと思ひぬ。Marche Écossaiseは二臺ピアノらしいので忘れる。安田の全集第8卷で適當に探さう……。
さいきん古本をてんで買つてゐないので、反省。
23:55
PHSのバッテリが壽命に近づいてゐるらしいのでウィルコムプラザなるところで購入。機種變更のしがひがなかつたので……。
Fx2.0.0.9をアップデートしたら2.0.0.4になり、もういちどしたら2.0.0.11になりました。はてな?
6號を横組みでつかふと、わるいものではない氣がするものの、小書き假名に違和感があるので、すこし檢討してみる。
22:55
・出す相手が年々減つていきます。抑も去年は誰に出したのか?
・あしたはケーキを食べる日です。
・ひさびさに髮を切りに行くかもしれません。しかし今年は一つの店に2囘以上行つてゐない。
・金田一春彦「国語史と方言」『講座国語史』第1巻『国語史総論』、1977.5、111-200をよむ。言語の新舊についておもふことおほかり。しかれども、いまだ體系にいたらず。
・言語學の常識世間の「不」常識。單なる啓蒙といふことは意味がない。かといつて、助産術もむつかしいといふもので、なにをどうしたものなのか。ソシュールの問題點をのべると佛文から總攻撃だと町田先生が仰つてゐました。これを聞いて笑つてしまつたのは私だけでせうか?
23:55
信仰上かなりの民間行事には傍觀的なのですが(かといつて自分の信仰のはうの儀式には熱心かといふとてんで知らない)、ケーキをみなで(普段よりよいものを)食べるといふのは、わるくない習慣だと思ふのです。といふかけふはそれしかしてゐません。
23:55
おもしろからといふ理由でとつておいてゐた講義資料などを處分。不動産的有限性といふのならば、講義資料を遺してゐられない原因たる無用な書籍を處分せよとの聲があるかもしれない。しかし、活字の資料にもならず、讀みもせずといふ書籍はそんなにないと思つてゐるのですが(甘)。
23:55
昔讀んだ遠藤周作『深い河』では、ラストちかくでインディラ・ガンディーが銃殺されたニュースが飛び込んできたものでしたが、それに比されるやうな事件がこの年の瀬にあつて、イスラーム國だからキリスト教國のニュー・イヤーなぞ無縁なのかもしれないけれど、ともかくも、立場といひ、最期といひ、ガンディーとベーナズィール・ブットーはよく似てゐる。いろいろなニューズを讀んでブットーの顏寫眞もいろいろ見たけれど、なんだか、田中眞紀子に似てゐる氣がしないでもなかつた。田中に銃殺される未來があるとは思はないが……。
ウィキペディアを運營してゐるウィキメディア財團の寄付よびかけ月間もまもなく終ります。ウィキペディアのやうなものがあるのもよいことだな、と思つてくださるかたは、ご支援いただけるとありがたいです。
23:55
傳統主義を隱れ蓑とするとまでいへば失當であるものの、歴史的假名遣をさうたらしめる思想はどんなものであるのかは、あまり重視されてこなかつた。しかし、歴史的假名遣のたちばがなければ、どういふ假名遣が眞に歴史的假名遣の名の下にもちゐられるべきなのか不明となる。どこまでも語源にさかのぼるたちばといふことはできない。なぜならば、8世紀ごろの文獻は歴史的假名遣の枠組みでは完全な對應をとれないからである。だからこそ歴史的假名遣は平安前期の發音を反映したなどといはれる。しかし、これはひらがなのしくみといふべきであつて、歴史的假名遣はひらがなと完全に重なるやうな概念では元來ない。もちろんひらがなは歴史的假名遣の上位に來るもので、すなはち歴史的假名遣を制約する。しかし、歴史的假名遣は想像して、平安の世にはすでに融合してゐた違ひを8世紀に遡つてみづからを定めることがある。つくえなどその例だつたはずである。また、もともとが平安にはなかつた語形は、音韻の融合をできるかぎり利用してもとの語形の假名遣を保たうとする。すなはち、にてが縮約したでは元の假名遣を保てないが、そのでを含むではないかが縮約したぢやないかではぢとじといふ融合した音韻を利用してでが殘されてゐる。このやうな操作を、可能とするのはどんな背景思想か?
ちなみに、日本式ローマ字が優れてゐるといふ主張はただの五十音表至上主義。
23:55
"When it is darkest, men see the stars." Will the man who passed near the darkest see his future?
18:01
散々苦勞して片付けた部屋がまた散らかりはじめてゐるのですが、それはともかく年の暮れももう極つて、あと一日をのこすばかりとなりました。個人で取組んでゐることとこよみとはほぼ接點がないので、歴史上のどの1點にあるかの指標といふ意味以上のものはありません。2月の合宿、8月のWikimania、11月の寒いなかの大祭など、對外的にはいろいろとこよみを氣にしながら生きてゐるものですが。といふわけで、私には今年の總括といふものをするつもりがまつたくないのですが、とりあへず、新年になる一瞬くらゐは、きれいな自室にしたいです。
23:55
——貪欲と嫌惡と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失ふのを恐れることなく、犀の角のやうにただ獨り歩め
(中村元譯『ブッダの言葉 スッタニパータ』74詩、岩波書店、1984)
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