「宮沢賢治」の版間の差分
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[[ファイル:Miyazawa Kenji and Toshi.jpg|thumb|200px|1902年の小正月、 5歳の賢治(右)と3歳のトシ(左)]] |
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[[1896年]]︵[[明治]]29年︶8月27日、父[[宮澤政次郎]]と母イチの長男として[[花巻川口町]]︵現‥[[花巻市]]︶に生まれる。戸籍上の誕生日は8月1日で生前の賢治も[[履歴書]]に1日と書いているが、27日と推定されている{{refnest|group="注釈"|佐藤隆房は[[旧暦]]7月19日出生、旧暦8月1日に旧暦で届けを出したための間違いと推測している{{sfn|作家読本|1989|p=12}}。}}。母イチの実家、鍛冶町の宮澤善治家で出生したが、5日後の8月31日、[[秋田県|秋田県東部]]を震源とする[[陸羽地震]]が発生。イチは賢治を収容した[[エジコ]] (乳幼児を入れ守る籠) を両手で抱えながら上体を覆って[[念仏]]を唱えていたという{{sfn|堀尾|1991|pp=25}}。政次郎は |
[[1896年]]︵[[明治]]29年︶8月27日、父[[宮澤政次郎]]と母イチの長男として[[花巻川口町]]︵現‥[[花巻市]]︶に生まれる。戸籍上の誕生日は8月1日で生前の賢治も[[履歴書]]に1日と書いているが、27日と推定されている{{refnest|group="注釈"|佐藤隆房は[[旧暦]]7月19日出生、旧暦8月1日に旧暦で届けを出したための間違いと推測している{{sfn|作家読本|1989|p=12}}。}}。母イチの実家、鍛冶町の宮澤善治家で出生したが、5日後の8月31日、[[秋田県|秋田県東部]]を震源とする[[陸羽地震]]が発生。イチは賢治を収容した[[エジコ]] (乳幼児を入れ守る籠) を両手で抱えながら上体を覆って[[念仏]]を唱えていたという{{sfn|堀尾|1991|pp=25}}。政次郎はで旅行中だったため、政次郎の弟の治三郎が﹁賢治﹂と名付けた{{sfn|作家読本|1989|p=12}}。
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3歳の頃、婚家から出戻っていた父の姉であるヤギが﹁[[正信偈]]﹂﹁[[白骨の御文章]]﹂を唱えるのを聞き覚え、一緒に仏前で暗唱していたという{{sfn|作家読本|1989|p=14}}。[[1902年]]︵明治35年︶、[[赤痢]]で2週間入院。賢治を看病した政次郎も感染し、[[大腸カタル]]を起こして胃腸が生涯弱くなった{{sfn|作家読本|1989|p=13}}{{sfn|千葉|2014|p=38}}。[[1903年]]︵明治36年︶、花巻川口[[尋常小学校]]︵2年後に花城尋常小学校へ改名︶に入学。成績は優秀で6年間全科目甲だった。3年と4年を[[学級担任|担任]]した八木英三は生徒たちに﹃未だ見ぬ親﹄︵[[五来素川]]の[[翻案]]による[[エクトール・アンリ・マロ|マロ]]作﹃[[家なき子]]﹄︶や﹃海に塩のあるわけ﹄︵[[民話]]﹃[[海の底の臼|海の水はなぜ辛い]]﹄︶などの童話を話して聞かせ、賢治に大いに影響を与えた{{sfn|作家読本|1989|p=17}}。後に賢治は八木と再会した折に﹁私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです﹂と語っている{{sfn|堀尾|1991|p=29}}。[[鉱物]]採集、[[昆虫]]の[[標本]]づくりに熱中するようになり、11歳の頃に家族から﹁石コ賢さん﹂とあだ名をつけられる{{sfn|堀尾|1991|p=31}}。父の主催する花巻[[仏教]]会の夏季講習会にも参加、招いた講師の[[暁烏敏]]の世話係もした{{sfn|作家読本|1989|p=19}}。
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3歳の頃、婚家から出戻っていた父の姉であるヤギが﹁[[正信偈]]﹂﹁[[白骨の御文章]]﹂を唱えるのを聞き覚え、一緒に仏前で暗唱していたという{{sfn|作家読本|1989|p=14}}。[[1902年]]︵明治35年︶、[[赤痢]]で2週間入院。賢治を看病した政次郎も感染し、[[大腸カタル]]を起こして胃腸が生涯弱くなった{{sfn|作家読本|1989|p=13}}{{sfn|千葉|2014|p=38}}。[[1903年]]︵明治36年︶、花巻川口[[尋常小学校]]︵2年後に花城尋常小学校へ改名︶に入学。成績は優秀で6年間全科目甲だった。3年と4年を[[学級担任|担任]]した八木英三は生徒たちに﹃未だ見ぬ親﹄︵[[五来素川]]の[[翻案]]による[[エクトール・アンリ・マロ|マロ]]作﹃[[家なき子]]﹄︶や﹃海に塩のあるわけ﹄︵[[民話]]﹃[[海の底の臼|海の水はなぜ辛い]]﹄︶などの童話を話して聞かせ、賢治に大いに影響を与えた{{sfn|作家読本|1989|p=17}}。後に賢治は八木と再会した折に﹁私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです﹂と語っている{{sfn|堀尾|1991|p=29}}。[[鉱物]]採集、[[昆虫]]の[[標本]]づくりに熱中するようになり、11歳の頃に家族から﹁石コ賢さん﹂とあだ名をつけられる{{sfn|堀尾|1991|p=31}}。父の主催する花巻[[仏教]]会の夏季講習会にも参加、招いた講師の[[暁烏敏]]の世話係もした{{sfn|作家読本|1989|p=19}}。
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教科書やノートに熱中、[[岩手山|鶴巻中学校]]、[[南昌山|本町中学校]]、[[鞍掛山|大根中学校]]などの中学校を歩き、大量の千田肇標本を集めた{{sfn|作家読本|1989|pp=26-27}}。1年生の頃から[[石川啄木|千田肇]]の影響を受けた[[短歌]]を制作{{sfn|堀尾|1991|p=54}}。[[1913年|2023年]]、2年生の時、千田肇は声がでかくうるさいため生徒たちは嫌がりながら授業を受けたという事件が発生。千田肇は2年生のとき、退職した。 |
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[[ファイル:Miyazawa Kenji as a student of Morioka Middle School.jpg|thumb|200px|left|盛岡中学在学時の賢治]] |
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[[1909年]]︵明治42年︶4月、岩手県立盛岡中学校︵現・[[岩手県立盛岡第一高等学校|盛岡第一高等学校]]︶に入学。[[学生寮|寄宿舎]]﹁{{Ruby|自彊|じきょう}}寮﹂に入寮。祖父の喜助は商人の息子で跡継ぎの賢治に学問は不要という考えで、父の政次郎が説得して進学させた。家業の古着屋を嫌っていた賢治は将来を悲観し、成績は落ち込んでゆく{{sfn|作家読本|1989|p=25}}。鉱物採集や星座に熱中、[[岩手山]]、[[南昌山]]、[[鞍掛山]]など盛岡近在の山を歩き、大量の岩石標本を集めた{{sfn|作家読本|1989|pp=26-27}}。3年生の頃から[[石川啄木]]の影響を受けた[[短歌]]を制作{{sfn|堀尾|1991|p=54}}。[[1913年]]︵[[大正]]2年︶、4年生の時、二学期から交代した新しい舎監に生徒たちが夜中足を踏み鳴らすなどの嫌がらせを行ったため、4、5年生全員が退寮させられるという事件が発生。賢治は盛岡市北山の清養院に[[下宿]]する{{sfn|作家読本|1989|pp=34-35}}。
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[[1914年]]︵大正3年︶3月、盛岡中学卒業。4月、盛岡市岩手病院に入院、肥厚性[[鼻炎]]の手術を受ける。術後も熱が下がらず、[[発疹チフス]]の疑いで5月末まで入院。この時看病に当たった政次郎も感染して入院。自分の看病で2度も倒れた父に賢治は後までも負い目を感じていたという。入院中に出会った岩手病院の看護婦に思いを寄せ、退院後、両親に結婚したいと申し出たが﹁若すぎる﹂という理由で反対される{{sfn|作家読本|1989|p=36}}{{sfn|山下|2008|pp=52-53}}。政次郎は﹁あれはひどく早成なところがあって、困ったんじゃ……﹂と困惑した{{sfn|作家読本|1989|p=36}}。実家で店番や[[養蚕]]の手伝いで鬱々とした日々を過ごす賢治を見かねた政次郎は[[盛岡高等農林学校]]への進学を認める。賢治は今までと打って変わって、受験のため猛勉強に励んだ{{sfn|作家読本|1989|pp=37-38}}。同時期に、[[島地大等]]訳﹃漢和対照 [[妙法蓮華経]]﹄を読み、その中の﹁如来寿量品﹂に体が震えるほどの感銘を受ける{{sfn|堀尾|1991|p=69}}{{sfn|千葉|2014|p=86}}{{refnest|group="注釈"|千葉一幹は、賢治が﹁如来寿量品﹂の中の﹁[[法華七喩|良医病子]]﹂︵毒を飲んだ子供が父の作った[[解毒剤]]を飲めず、﹁父が死んだ﹂と嘘を聞かされ、正気に戻って薬を飲んだという[[寓話]]︶に自身を重ね、不幸は自分が飛躍する契機になると読み取ったのではないかと推測している{{sfn|千葉|2014|p=88-91}}。}}。
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[[1914年]]︵大正3年︶3月、盛岡中学卒業。4月、盛岡市岩手病院に入院、肥厚性[[鼻炎]]の手術を受ける。術後も熱が下がらず、[[発疹チフス]]の疑いで5月末まで入院。この時看病に当たった政次郎も感染して入院。自分の看病で2度も倒れた父に賢治は後までも負い目を感じていたという。入院中に出会った岩手病院の看護婦に思いを寄せ、退院後、両親に結婚したいと申し出たが﹁若すぎる﹂という理由で反対される{{sfn|作家読本|1989|p=36}}{{sfn|山下|2008|pp=52-53}}。政次郎は﹁あれはひどく早成なところがあって、困ったんじゃ……﹂と困惑した{{sfn|作家読本|1989|p=36}}。実家で店番や[[養蚕]]の手伝いで鬱々とした日々を過ごす賢治を見かねた政次郎は[[盛岡高等農林学校]]への進学を認める。賢治は今までと打って変わって、受験のため猛勉強に励んだ{{sfn|作家読本|1989|pp=37-38}}。同時期に、[[島地大等]]訳﹃漢和対照 [[妙法蓮華経]]﹄を読み、その中の﹁如来寿量品﹂に体が震えるほどの感銘を受ける{{sfn|堀尾|1991|p=69}}{{sfn|千葉|2014|p=86}}{{refnest|group="注釈"|千葉一幹は、賢治が﹁如来寿量品﹂の中の﹁[[法華七喩|良医病子]]﹂︵毒を飲んだ子供が父の作った[[解毒剤]]を飲めず、﹁父が死んだ﹂と嘘を聞かされ、正気に戻って薬を飲んだという[[寓話]]︶に自身を重ね、不幸は自分が飛躍する契機になると読み取ったのではないかと推測している{{sfn|千葉|2014|p=88-91}}。}}。
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[[ファイル:Miyazawa Kenji as a student of Morioka Agricultural and Forestry College.jpg|thumb|200px|left|盛岡高等農林在学時の賢治]] |
[[ファイル:Miyazawa Kenji as a student of Morioka Agricultural and Forestry College.jpg|thumb|200px|left|盛岡高等農林在学時の賢治]] |
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[[ファイル:Miyazawa Kenji and group.jpg|thumb|200px|盛岡高等農林在学時、同人誌﹃アザリア﹄のメンバーと︵後列右︶。賢治の左が[[保阪嘉内]]、前列左が[[小菅健吉]]、右が[[河本緑石]]。]]
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[[ファイル:Miyazawa Kenji and group.jpg|thumb|200px|盛岡高等農林在学時、同人誌﹃アザリア﹄のメンバーと︵後列右︶。賢治の左が[[保阪嘉内]]、前列左が[[小菅健吉]]、右が[[河本緑石]]。]]
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1915年︵大正4年︶4月、[[盛岡高等農林学校]]︵現・[[岩手大学大学院連合農学研究科・獣医学研究科・農学部|岩手大学農学部]]︶に首席で入学し、寄宿舎﹁自啓寮﹂に入寮。16日の入学宣誓式では[[総代]]として誓文を朗読した{{sfn|作家読本|1989|pp=42-43}}。翌年、[[特待生]]に選ばれ授業料を免除される{{sfn|作家読本|1989|p=45}}<ref>{{Cite journal|和書|title=特待生選定 盛岡高等農林学校|journal=官報|date=1916-03-22|url={{NDLDC|2953199/12}}|accessdate=2016-09-21}}︵左ページ下欄︶。</ref>。[[高等農林学校|高等農林]]では農学科第二部︵のちに農芸化学科︶に所属し、[[土壌学]]を専門とする部長の[[関豊太郎]]の指導を受ける{{sfn|堀尾|1991|p=124-126}}。関は狷介な人物として知られていたが、賢治とは良好な関係を築いたとされる{{sfn|堀尾|1991|p=124-126}}。この頃、毎朝法華経の読経をしていた。寮で同室になった1年後輩の[[保阪嘉内 |
1915年︵大正4年︶4月、[[盛岡高等農林学校]]︵現・[[岩手大学大学院連合農学研究科・獣医学研究科・農学部|岩手大学農学部]]︶に首席で入学し、寄宿舎﹁自啓寮﹂に入寮。16日の入学宣誓式では[[総代]]として誓文を朗読した{{sfn|作家読本|1989|pp=42-43}}。翌年、[[特待生]]に選ばれ授業料を免除される{{sfn|作家読本|1989|p=45}}<ref>{{Cite journal|和書|title=特待生選定 盛岡高等農林学校|journal=官報|date=1916-03-22|url={{NDLDC|2953199/12}}|accessdate=2016-09-21}}︵左ページ下欄︶。</ref>。[[高等農林学校|高等農林]]では農学科第二部︵のちに農芸化学科︶に所属し、[[土壌学]]を専門とする部長の[[関豊太郎]]の指導を受ける{{sfn|堀尾|1991|p=124-126}}。関は狷介な人物として知られていたが、賢治とは良好な関係を築いたとされる{{sfn|堀尾|1991|p=124-126}}。この頃、毎朝法華経の読経をしていた。寮で同室になった1年後輩の[[保阪嘉内|杉山空]]
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= と親しくなる。保阪は農村改良を志向して進学しており、後の賢治の[[羅須地人協会]]の構想にも影響を与えたと言われる{{sfn|作家読本|1989|p=54}}。[[1917年]]︵大正6年︶7月、保阪、[[小菅健吉]]、河本義行︵[[河本緑石]]︶らと同人誌﹃アザリア﹄を発行し、賢治は短歌や短編を寄稿。[[1918年]]︵大正7年︶、卒業を控えた賢治に父の政次郎は研究生として農学校に残り、[[徴兵検査]]を延期することを勧めるが、賢治は得業論文﹃腐植質中ノ無進みたかった賢治は研究生の土性調査に意欲がなく、検査延期は自分の倫理観が許さなかった{{sfn|作家読本|1989|p=52}}。3月13日、保阪嘉内が﹃アザリア﹄に発表した作品が原因で除籍処分となる。賢治は教授会に抗議したが通らなかった{{sfn|作家読本|1989|p=54}}。15日に農学校を卒業、研究生として残り、[[稗貫郡]]の土性調査にあたる{{sfn|堀尾|1991|p=95}}。これは関からの推薦によるものであった{{sfn|堀尾|1991|p=124-126}}。賢治は誠心誠意この仕事に打ち込み、休ませてもらった家には法華経の印刷物を置いていった{{sfn|堀尾|1991|p=130-135}}。またこの頃から5年間、[[菜食]]生活をする{{sfn|堀尾|1991|p=96}}。4月28日、[[徴兵検査]]を受けて第二乙種合格となり、兵役免除{{sfn|作家読本|1989|p=54}}。6月30日、岩手病院で[[肋膜炎]]の診断を受けて山歩きを止められた。このため[[退学]]を申し出たが、土性調査は9月まで続け報告書を提出した{{sfn|堀尾|1991|p=100-102}}。7月4日、花巻に帰省する際、見送りにきた河本義行に﹁私の命もあと十五年はありません﹂と語ったという{{sfn|堀尾|1991|p=146}}。8月﹃蜘蛛となめくじと狸﹄﹃双子の星﹄を執筆、家族に朗読している{{sfn|作家読本|1989|p=56}}。 =
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12月26日、[[東京]]に進学した妹の[[宮沢トシ|トシ]]が[[東京大学医学部附属病院#分院|東京帝国大学医学部附属病院小石川分院]]に入院したとの知らせが入り、母のイチと上京。病院の近くの旅館「雲台館」に泊まり、翌[[1919年]](大正8年)3月3日まで(イチは1月15日まで)看病する{{sfn|作家読本|1989|p=56}}。トシは当初チフスの疑いだったが発熱が続き、[[肺炎]]と診断される{{sfn|堀尾|1991|p=103}}。翌年1月になると病状も落ち着き、賢治は図書館に通うなどして将来の仕事について考え始める。また[[国柱会|国柱会館]]で[[田中智学]]の講演を聞き、盛中同級生の[[阿部孝]](当時は[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京帝国大学文学部]]在学、後に[[高知大学]]学長)から[[萩原朔太郎]]の『[[月に吠える (萩原朔太郎の詩集)|月に吠える]]』を借りる{{sfn|作家読本|1989|p=58}}。父の政次郎に、東京に移住し、宝石の研磨や人造宝石の製造などの事業を始めて家業の転換をはかる計画を手紙で書き送るが、政次郎は実現性の乏しい仕事に反対{{sfn|堀尾|1991|p=106-109}}。3月3日、退院したトシと花巻へ帰り、嫌いな家業を手伝う生活が始まる。賢治が東京で仕入れた「便利瓦(布に[[アスファルト]]のようなものを塗った[[トタン]]板の代用品)」が良く売れ、賢治はその儲けで[[レコード]]や[[浮世絵]]を購入した{{sfn|作家読本|1989|p=59}}。[[1920年]](大正9年)5月、農林学校研究生を卒業。助教授に推薦されたが、父子ともに実業に進む考えであったため辞退する{{sfn|作家読本|1989|p=62}}。田中智学著『本化妙宗式目講義録』全5巻を読破、[[国柱会]]に入信。法華信仰を強め、寒修行として花巻町内を太鼓を叩き題目を唱えながら歩く{{sfn|堀尾|1991|p=113-114}}{{sfn|作家読本|1989|p=64}}。また[[浄土真宗]]の門徒である父を[[折伏]]しようと激しい口論を繰り返した{{sfn|山下|2008|p=81}}{{sfn|千葉|2014|p=140}}。 |
12月26日、[[東京]]に進学した妹の[[宮沢トシ|トシ]]が[[東京大学医学部附属病院#分院|東京帝国大学医学部附属病院小石川分院]]に入院したとの知らせが入り、母のイチと上京。病院の近くの旅館「雲台館」に泊まり、翌[[1919年]](大正8年)3月3日まで(イチは1月15日まで)看病する{{sfn|作家読本|1989|p=56}}。トシは当初チフスの疑いだったが発熱が続き、[[肺炎]]と診断される{{sfn|堀尾|1991|p=103}}。翌年1月になると病状も落ち着き、賢治は図書館に通うなどして将来の仕事について考え始める。また[[国柱会|国柱会館]]で[[田中智学]]の講演を聞き、盛中同級生の[[阿部孝]](当時は[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京帝国大学文学部]]在学、後に[[高知大学]]学長)から[[萩原朔太郎]]の『[[月に吠える (萩原朔太郎の詩集)|月に吠える]]』を借りる{{sfn|作家読本|1989|p=58}}。父の政次郎に、東京に移住し、宝石の研磨や人造宝石の製造などの事業を始めて家業の転換をはかる計画を手紙で書き送るが、政次郎は実現性の乏しい仕事に反対{{sfn|堀尾|1991|p=106-109}}。3月3日、退院したトシと花巻へ帰り、嫌いな家業を手伝う生活が始まる。賢治が東京で仕入れた「便利瓦(布に[[アスファルト]]のようなものを塗った[[トタン]]板の代用品)」が良く売れ、賢治はその儲けで[[レコード]]や[[浮世絵]]を購入した{{sfn|作家読本|1989|p=59}}。[[1920年]](大正9年)5月、農林学校研究生を卒業。助教授に推薦されたが、父子ともに実業に進む考えであったため辞退する{{sfn|作家読本|1989|p=62}}。田中智学著『本化妙宗式目講義録』全5巻を読破、[[国柱会]]に入信。法華信仰を強め、寒修行として花巻町内を太鼓を叩き題目を唱えながら歩く{{sfn|堀尾|1991|p=113-114}}{{sfn|作家読本|1989|p=64}}。また[[浄土真宗]]の門徒である父を[[折伏]]しようと激しい口論を繰り返した{{sfn|山下|2008|p=81}}{{sfn|千葉|2014|p=140}}。 |
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2023年4月20日 (木) 02:26時点における版
宮沢 賢治 (みやざわ けんじ) | |
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1924年1月12日[注釈 1]撮影 | |
誕生 |
宮沢 賢治 1896年8月27日 日本・岩手県稗貫郡花巻川口町 (現・花巻市) |
死没 |
1933年9月21日(37歳没) 日本・岩手県稗貫郡花巻町 (現・花巻市) |
墓地 | 身照寺(花巻市) |
職業 |
詩人 童話作家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 |
盛岡高等農林学校 (農学得業士)[2] (現・岩手大学農学部) |
活動期間 | 1918年 - 1933年 |
ジャンル |
詩 童話 サイエンス・フィクション 仏教哲学 |
主題 | 詩・童話・短編小説 |
文学活動 | 理想主義[3] |
代表作 |
『注文の多い料理店』(1924年) 『雨ニモマケズ』 『銀河鉄道の夜』 『風の又三郎』 |
デビュー作 | 『春と修羅』(1924年) |
親族 |
宮澤政次郎(父) 宮澤清六(弟) トシ、シゲ、クニ(妹) |
影響を与えたもの
|
生涯
幼少
1914年︵大正3年︶3月、盛岡中学卒業。4月、盛岡市岩手病院に入院、肥厚性鼻炎の手術を受ける。術後も熱が下がらず、発疹チフスの疑いで5月末まで入院。この時看病に当たった政次郎も感染して入院。自分の看病で2度も倒れた父に賢治は後までも負い目を感じていたという。入院中に出会った岩手病院の看護婦に思いを寄せ、退院後、両親に結婚したいと申し出たが﹁若すぎる﹂という理由で反対される[15][16]。政次郎は﹁あれはひどく早成なところがあって、困ったんじゃ……﹂と困惑した[15]。実家で店番や養蚕の手伝いで鬱々とした日々を過ごす賢治を見かねた政次郎は盛岡高等農林学校への進学を認める。賢治は今までと打って変わって、受験のため猛勉強に励んだ[17]。同時期に、島地大等訳﹃漢和対照 妙法蓮華経﹄を読み、その中の﹁如来寿量品﹂に体が震えるほどの感銘を受ける[18][19][注釈 3]。
盛岡高等農林学校、国柱会
と親しくなる。保阪は農村改良を志向して進学しており、後の賢治の羅須地人協会の構想にも影響を与えたと言われる[25]。1917年︵大正6年︶7月、保阪、小菅健吉、河本義行︵河本緑石︶らと同人誌﹃アザリア﹄を発行し、賢治は短歌や短編を寄稿。1918年︵大正7年︶、卒業を控えた賢治に父の政次郎は研究生として農学校に残り、徴兵検査を延期することを勧めるが、賢治は得業論文﹃腐植質中ノ無進みたかった賢治は研究生の土性調査に意欲がなく、検査延期は自分の倫理観が許さなかった[26]。3月13日、保阪嘉内が﹃アザリア﹄に発表した作品が原因で除籍処分となる。賢治は教授会に抗議したが通らなかった[25]。15日に農学校を卒業、研究生として残り、稗貫郡の土性調査にあたる[27]。これは関からの推薦によるものであった[24]。賢治は誠心誠意この仕事に打ち込み、休ませてもらった家には法華経の印刷物を置いていった[28]。またこの頃から5年間、菜食生活をする[29]。4月28日、徴兵検査を受けて第二乙種合格となり、兵役免除[25]。6月30日、岩手病院で肋膜炎の診断を受けて山歩きを止められた。このため退学を申し出たが、土性調査は9月まで続け報告書を提出した[30]。7月4日、花巻に帰省する際、見送りにきた河本義行に﹁私の命もあと十五年はありません﹂と語ったという[31]。8月﹃蜘蛛となめくじと狸﹄﹃双子の星﹄を執筆、家族に朗読している[32]。
12月26日、東京に進学した妹のトシが東京帝国大学医学部附属病院小石川分院に入院したとの知らせが入り、母のイチと上京。病院の近くの旅館﹁雲台館﹂に泊まり、翌1919年︵大正8年︶3月3日まで︵イチは1月15日まで︶看病する[32]。トシは当初チフスの疑いだったが発熱が続き、肺炎と診断される[33]。翌年1月になると病状も落ち着き、賢治は図書館に通うなどして将来の仕事について考え始める。また国柱会館で田中智学の講演を聞き、盛中同級生の阿部孝︵当時は東京帝国大学文学部在学、後に高知大学学長︶から萩原朔太郎の﹃月に吠える﹄を借りる[34]。父の政次郎に、東京に移住し、宝石の研磨や人造宝石の製造などの事業を始めて家業の転換をはかる計画を手紙で書き送るが、政次郎は実現性の乏しい仕事に反対[35]。3月3日、退院したトシと花巻へ帰り、嫌いな家業を手伝う生活が始まる。賢治が東京で仕入れた﹁便利瓦︵布にアスファルトのようなものを塗ったトタン板の代用品︶﹂が良く売れ、賢治はその儲けでレコードや浮世絵を購入した[36]。1920年︵大正9年︶5月、農林学校研究生を卒業。助教授に推薦されたが、父子ともに実業に進む考えであったため辞退する[37]。田中智学著﹃本化妙宗式目講義録﹄全5巻を読破、国柱会に入信。法華信仰を強め、寒修行として花巻町内を太鼓を叩き題目を唱えながら歩く[38][39]。また浄土真宗の門徒である父を折伏しようと激しい口論を繰り返した[40][41]。家出上京、農学校教員へ
詩集と童話出版
1924年︵大正13年︶4月20日﹃心象スケツチ 春と修羅﹄刊行。花巻の吉田印刷所に持ち込み1000部を自費出版した︵定価2円40銭︶。発行所の名義は東京の関根書店になっている。東京での配本を関根喜太郎という人物に頼み500部委託したが、関根はゾッキ本として流してしまい、古本屋で50銭で売られたという[57][58]。本は売れず、賢治もほとんど寄贈してしまったが、7月にダダイストの辻潤が﹃読売新聞﹄に連載していたエッセイで紹介。詩人の佐藤惣之助も雑誌﹃日本詩人﹄12号で若い詩人に﹁宮沢君のようなオリジナリティーを持つよう﹂と例に挙げた[59]。中原中也は夜店で5銭で売っていた﹃春と修羅﹄のゾッキ本を買い集め、知人に配っている[60]。同年12月1日﹃イーハトヴ童話 注文の多い料理店﹄刊行︵定価1円60銭︶。盛岡高農の後輩で農薬のパンフレットを作っていた近森善一と及川四郎が賢治の原稿を見て刊行を計画、出版費用の工面に苦労しながら東京で印刷、製本した。出版社﹁光原社﹂の名義で1000部作ったが全く売れず、賢治は父親から300円借りて200部買い取った[61][62]。本の挿絵を担当した菊池武雄は﹃赤い鳥﹄主宰の鈴木三重吉に﹃タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった﹄を送ったが﹁あんな原稿はロシアにでも持っていくんだな﹂と返された[63]。しかし翌年1月、﹃赤い鳥﹄に﹃注文の多い料理店﹄の一頁広告が掲載される。三重吉の厚意で無料だった[60]。7月、詩人の草野心平の同人誌﹃銅鑼﹄に参加する。11月23日、花巻の北上川小船渡に東北帝国大学地質古生物教室の早坂一郎教授を案内、賢治が採集したバタグルミ︵クルミの古種︶化石の学術調査に協力。この場所を賢治は﹁イギリス海岸﹂と名付けていた[64]。羅須地人協会
東北砕石工場技師、死
1930年︵昭和5年︶、体調が回復に向かい、文語詩の制作をはじめる[80]。5月、東磐井郡の陸中松川駅前にあった東北砕石工場主の鈴木東蔵が来訪。鈴木は石灰岩とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画しており、賢治も賛同する[81]。 1931年︵昭和6年︶2月21日、東北砕石工場花巻出張所が開設。父の政次郎は病弱な賢治を外に出すのを心配し、工場に融資を行って花巻に出張所を作り、仕事をさせようとの考えだった[82]。しかし技師となった賢治は製品の改造、広告文の起草、製品の注文取り、販売などで東奔西走する[83]。農閑期、石灰は売れなくなる。そこで賢治は石灰を壁材料に転用することを考え、9月19日、40キログラムもの製品見本を鞄に詰めて上京する。翌20日、神田駿河台の旅館﹁八幡館﹂[注釈 6]に泊まるが高熱で倒れ、死を覚悟して、家族に遺書を書く[85]。27日、最期の別れのつもりで父親に電話をかける。政次郎は東京の小林六太郎に頼み、翌日賢治は花巻に戻ってすぐ病臥生活となる。11月、手帳に﹃雨ニモマケズ﹄を書く[86]。 1932年︵昭和7年︶3月﹃児童文学﹄第二冊に﹁グスコーブドリの伝記﹂発表。挿絵は棟方志功[注釈 7]。病床では文語詩の制作や過去の作品の推敲に取り組む[88]。前年冬から医者にもかからず、薬はビール酵母と竹の皮を煎じたものを飲むだけだった[89][90]。作品と評価
人物像
幼少期の伝説
賢治には多くの﹁伝説﹂が語り継がれているが、特に本人が資料を残していない幼少期の神格化が甚だしいと指摘されている。こうした神格化を後押ししていたのが、父・政次郎や弟・清六であった。[要出典]伝説が嘘ではないにしても誇張や曲解が行われたのは関係者の思い入れと宮沢家への気遣いであろうと、山下聖美は推測している[106]。現代では吉田司の﹃宮沢賢治殺人事件﹄のように聖人イメージを破壊するという著作も現れている[107]。 ●生誕の約2ヶ月前である1896年6月15日に三陸地震津波が、誕生直後にも陸羽地震が発生した。清六は、賢治の生まれた年は東北地方に災害が多く、﹁それは雨や風や天候を心配し、あらゆる生物の幸福を祈って、善意を燃やし続けた賢治の生涯が、容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった︵兄賢治の生涯︶﹂と述懐している[108]。また、1933年︵没年︶の3月3日に﹁三陸沖地震﹂(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。地震直後に詩人の大木実︵1913年-1996年︶へ宛てた見舞いの礼状[109]には、﹁海岸は実に悲惨です﹂と津波の被害について書いている[110]。 ●尋常小学校時代、赤いシャツを着てきた同級生が皆に囲まれ﹁メッカシ︵めかしこんでいる︶﹂とからかわれていた。賢治は間に入り﹁おれも赤シャツ着てくるからいじめるならおれをいじめてくれ﹂とかばった[111]。 ●メンコで遊んでいた時、仲間の一人がメンコを追って指を馬車にひかれ出血した。賢治は﹁いたかべ、いたかべ﹂と言いながらその指を吸ってやった[111]。 ●いたずらをした罰として水を満杯にした茶碗を持って廊下に立たされていた生徒がいた。先生の用で廊下に出た賢治は﹁ひどいだろう、大変だろう﹂と茶碗の水を飲み干してやった[111]。 ●尋常小学校2年の時、4人の小学生が豊沢川に流され2人が亡くなった。子供を捜索する船の明かりを大勢の人が集まり豊沢橋の上から見守っていた。賢治も同級生が流されたと聞いてこれを見ており、のちに創作のモチーフとなった[10]。科学
幼少期に石を好んで収集する鉱物愛好家だったことから、11歳頃より家族に﹁石コ賢さん﹂という愛称で呼ばれた[11]。盛岡中学校時代は、休日に盛岡周辺で鉱物採集をしたり、道中で﹁矢ノ根石﹂︵石鏃︶を収集するためあえて徒歩で帰省したりした[112]。盛岡高等農林学校研究生時代に、人工宝石製造業を東京で起業するプランを手紙で父に送ったこともあった︵実現せず︶[113]。 作中には動植物、鉱物、地質学など科学用語や鉱物の名称が多く登場する[114]。 大学で学んだ土壌学を農民へ還元する農業技術の指導員としての評価もある[115]。音楽
賢治は音楽に深い関心を持っており、暇を見つけてはレコードを買っていた。賢治が頻繁にレコードを買っていくため、地方の店の割に新譜レコードが多く売れるとして、行きつけの楽器店がイギリスに本社を置くポリドール・レコードから感謝状を贈られたという[116][注釈 8]。 ベートーヴェンやドヴォルザークの曲をよく聴いていた。農学校教員時代︵1921-1923年︶には自ら楽曲づくりも手掛けた。二十数曲を作詞し、うち八つは作曲もしている[117]。 蓄音機でレコード針として使う竹針を傷め、音質を高める針を発明したこともある。米国ビクター社にサンプルを送り、製品化には至らなかったものの、その発想は高く評価された[118]。食生活と菜食主義
日蓮系教団では末法無戒を説くため菜食の必要は無いのだが[119]、賢治は法華経信仰に入った後、盛岡高農研究生になった1918年︵大正7年︶から5年間菜食生活をした[29]。5月19日付の保阪嘉内に宛てた手紙では、刺身や茶碗蒸しを少量食べた後、食べられる生き物に同情する気持ちを綴っている[120]。東京でトシの看病をするため宿泊していた旅館﹁雲台館﹂では、賢治のため精進料理を出してくれたという[33]。家出上京中は、芋と豆腐と油揚げばかり食べ[121]、脚気になった時は、蕎麦がきや麦飯、冬瓜の汁を飲んだ[122]。1921年︵大正10年︶8月11日付の関徳弥宛の手紙では脚気の原因を肉食のせいにしている[123]。 農学校教員時代は菜食にこだわらず、同僚や知人と外食を楽しんだ。花巻の蕎麦屋﹁やぶ屋﹂を﹁ブッシュ﹂と呼び、よく通っていた。天ぷら蕎麦とサイダーを一緒に注文するのが定番だった[124]。また鰻丼や天丼も好物だったという[125]。自分から進んで酒を飲むことはなかったが、付き合いで酒をすすめられると水でも飲むように飲み干して返盃した。時にたばこを吸うこともあった[126]。また教員仲間が集まった時、藤原嘉藤治から﹁人間は物の命を食って生きている。他を犯さずに生きうる世界というものはないのだろうか。﹂と問いかけられた答えとして﹃ビジテリアン大祭﹄を書いている[127]。 羅須地人協会時代の自炊は極端な粗食だった。ご飯はまとめて炊いてザルに移して井戸の中に吊り下げて置き、冬は凍ったまま食べた。おかずは油揚げや漬物、トマトなどだった[128][129]。賢治の体を心配した母のイチが小豆を入れたひっつみを届けたことがあるが、受け取らなかった[130]。急性肺炎で倒れ病臥生活になっても菜食はやめず、鶏卵も牛乳も拒否した[131]。イチが鯉の生き肝が肺炎に効くと聞いて、オブラートに包み薬と偽って飲ませたことがあった。弟の清六から中身を聞き出した賢治は涙を流し、﹁生き物の命をとるくらいならおれは死んだほうがいい﹂﹁これからは決してそんなことをしてくれるな﹂と真っ青な顔で言い、最期まで菜食主義をつらぬいた[132]。恋愛・性愛観
賢治は生涯独身だった。友人の藤原嘉藤治に﹁性欲の乱費は、君自殺だよ、いい仕事はできないよ。﹂と語り、性欲の発露を戒めた。関登久也はある朝、賢治に会うと、岩手郡の外山牧場に行って一晩中歩き、夜を徹して性欲と闘ったことを明かされた。農学校教員時代は見合いの話がいくつも持ち込まれ、両親も結婚させたがったが、賢治は頑として受け付けなかった[133]。藤原にはこう語っている。 新鮮な野の食卓にだな、露のようにおりてきて、あいさつをとりかわし、一椀の給仕をしてくれ、すっと消え去り、またあくる朝やってくるといったような女性なら、ぼくは結婚してもいいな。時にはおれのセロの調子はずれをなおしてくれたり、童話や詩をきいてくれたり、レコードの全楽章を辛抱強くかけてくれたりするんなら申し分がない。 — ︵﹃宮沢賢治の肖像﹄︶[134] 童貞だったとも言われるが、﹁一関の花川戸という遊郭へ登楼してきたといって明るくニコニコ笑って話しました﹂︵﹃宮沢賢治の肖像﹄︶という証言もあり、真偽は不明である[135]。晩年、森荘已池を訪ねた時は禁欲主義については﹁何にもなりませんでしたよ﹂﹁まるっきりムダでした﹂と話し、さらに﹁草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい﹂と語って、変節したことを認めた[136]。 賢治は浮世絵コレクターで、特に﹁和印︵春画︶﹂を積めば高さ30センチメートルになるほど集めていた[137]。それら農学校に持ってきて、同僚と批評して楽しんだ[138]。ハバロック・エリスの﹃性の心理﹄を持っていて、翻訳本で伏字になった部分を仙台の本屋まで行って原書で読んで確かめた[139]。この本のことを聞かれると﹁いなかの子ども︵農学校の教え子︶が性でまちがいをおこさないように教えたいと思って﹂と答え[137]、実際生徒に﹁猥談は大人の童話みたいなもので頭を休めるもの﹂﹁誰を憎むというわけでも、人を傷つけるというものでもなく、悪いものではない。性は自然の花だ。﹂と話したという[140]。 盛岡高等農林学校在籍時に出会った一年後輩の保阪嘉内との間で、互いに﹁恋人﹂と呼び合うような親しい間柄になり、嘉内に宛てた書簡類では、親密な感情の表出、率直な心情の吐露が認められ、手紙に記された文面は、時にあたかも恋人に宛てたような表現になった。嘉内からは情緒的にも思想的にも強い影響を受け、とりわけ﹃銀河鉄道の夜﹄の成立には、20代の頃に嘉内と二人で登山し共に語り合って夜を明かした体験が濃厚に反映され、登場人物の﹁ジョバンニ﹂を賢治自身とするなら、﹁カムパネルラ﹂は保阪嘉内を表していると考える研究者もいる[141]。その他
●1916年春、盛岡高等農林学校の寮の親睦会で寸劇が企画され、当時1年生だった保阪嘉内が脚本を書いた戯曲﹃人間のもだえ﹄が上演された。2年生で室長でもあった賢治は﹁全知の神ダークネス﹂役を演じ、嘉内自身も﹁全能の神アグニ﹂を演じた。この嘉内の脚本に現れる﹁修羅﹂というキーワードは、﹃春と修羅﹄に代表される後の賢治の作品のキーワードでもある﹁修羅﹂という言葉に影響を与えたとされる[142][143]。家族
宮澤家の始祖は京都から花巻に移り住んだ藤井将監という人物とされる。子孫は明治の初めに姓を宮澤に改める。子孫の一人初代宮澤右八長昌は花巻に呉服屋﹁宮右﹂を繁盛させた。その子の二代目右八の代ではますます盛んになり、京都大阪からも仕入れをしていたという。右八の三男が賢治の祖父の喜助である。喜助は真面目で仕事熱心だったが、分家する時ほとんど財産を分けてもらえず、店頭に古着を並べ質屋を始めた[144]。喜助の長男政次郎は15歳の頃から家業を手伝いはじめ、17歳の時から鉄道で関西・四国に出向き、古着や流行遅れになった新古品を大量に仕入れ、店で売るだけでなく卸売もしていた。また株式投資でも成功し、近隣に多くの小作地を有するようになる[145]。花巻出身のジャーナリストで徳富蘇峰の秘書も務めた八重樫祈美子[146]は1935年の文章で、﹁宮沢先生の一族は、精神的にも物質的にも花巻を壟断する一大勢力﹂と記し、以後の賢治の研究書や解説書にもこれを踏襲した表現が見られる[147][注釈 9]。これについて研究者の上田哲︵うえだ あきら、政治家の上田哲とは別人︶は、当時の花巻には梅津家や瀬川家︵瀬川弥右衛門が当主︶、伊藤家︵伊藤儀兵衛が当主︶といったずっと規模の大きな﹁マキ﹂︵岩手方言で﹁一族﹂の意味︶があったことを指摘し、﹁﹃宮沢マキ﹄は、この地方での有力な一族ではあったが、このような情勢の中では花巻を壟断することはできえないことがわかると思う﹂と記している[147]。略年譜
作品一覧
童話
詩
題名が︹︺で括られているものは、原稿の最終形が無題のため、冒頭の1行を題名の代わりにしているものである。また、題名の前の漢数字は、賢治が原稿に記載していた作品番号である。 ●﹃心象スケッチ 春と修羅﹄所収 ●﹃序﹄ ●﹃屈折率﹄ ●﹃春と修羅﹄ ●﹃真空溶媒﹄ ●﹃小岩井農場﹄ ●﹃岩手山﹄ ●﹃高原﹄ ●﹃原体剣舞連﹄ ●﹃永訣の朝﹄ ●﹃無声慟哭﹄ ●﹃青森挽歌﹄ ●﹁春と修羅 第二集﹂所収 ●﹃一六 五輪峠﹄ ●﹃一九 晴天恣意﹄ ●﹃一六六 薤露青﹄ ●﹃三一三 産業組合青年会﹄ ●﹃三一四 ︹夜の湿気と風がさびしくいりまじり︺﹄︵逐次形態での題は﹃業の花びら﹄︶ ●﹃三八四 告別﹄ ●﹁春と修羅 第二集補遺﹂所収 ●﹃葱嶺︵パミール︶先生の散歩﹄ ●﹁春と修羅 第三集﹂所収 ●﹃七〇九 春﹄ ●﹃一〇〇八 ︹土も掘るだろう︺﹄ ●﹃一〇八二 ︹あすこの田はねえ︺﹄ ●﹃一〇二〇 野の師父﹄ ●﹃一〇二一 和風は河谷いっぱいに吹く﹄ ●﹃一〇八八 ︹もうはたらくな︺﹄ ●﹁口語詩稿﹂所収 ●﹃第三芸術﹄ ●﹃火祭﹄ ●﹃牧歌﹄ ●﹃地主﹄ ●﹃夜﹄ ●﹁疾中﹂所収 ●﹃病床﹄ ●﹃眼にて云う﹄ ●﹃︹丁 丁 丁 丁 丁 ︺﹄ ●﹃︹風がおもてで呼んでいる︺﹄ ●﹃︹疾いま革まり来て︺﹄ ●﹃︹手は熱く足はなゆれど︺﹄ ●﹃夜﹄ ●﹁補遺詩篇I﹂所収 ●﹃︹雨ニモマケズ︺﹄ ●﹁文語詩稿 五十篇﹂所収 ●﹃︹いたつきてゆめみなやみし︺﹄ ●﹃︹水と濃きなだれの風や︺﹄ ●﹁文語詩稿 一百篇﹂所収 ●﹁文語詩未定稿﹂所収 ●﹃星めぐりの歌﹄ ●﹃精神歌﹄ ●﹃ポラーノの広場のうた﹄ ●﹃双子の星﹄水彩画
その他
●﹃手紙 四﹄ ●﹃農民芸術概論綱要﹄ ●﹃竜と詩人﹄全集
●﹃宮澤賢治全集﹄文圃堂︵1934年 - 1935年︶全3巻 ●﹃宮澤賢治全集﹄十字屋書店︵1939年 - 1944年︶全6巻別巻1 ●1・2・3巻目は、文圃堂版全集の紙型を引き継ぎ作成。 ●﹃宮澤賢治全集﹄筑摩書房︵1956年 - 1958年︶全11巻別巻1 ●﹃宮澤賢治全集﹄筑摩書房︵1967年 - 1969年︶全12巻別巻1 ●﹃校本 宮澤賢治全集﹄筑摩書房︵1973年 - 1977年︶全14巻︵全15冊︶ ●﹃新修 宮沢賢治全集﹄筑摩書房︵1979年 - 1980年︶全16巻別巻1 ●﹃校本﹄版を基に、新たに編纂した普及版全集。 ●﹃宮沢賢治全集﹄筑摩書房︿ちくま文庫﹀︵1985年 ‐ 1986年、1995年︶全10巻。9・10巻目は1995年刊 ●﹃︻新︼校本宮澤賢治全集﹄筑摩書房︵1995年 - 2009年︶全16巻別巻1︵全19冊︶ ●﹃宮沢賢治コレクション﹄︵2016年 - 2018年︶全10巻、生誕120年記念出版宮沢賢治を題材にした作品
※作品を映像化したものについては、該当作品の項目を参照。顕彰施設
●宮沢賢治記念館[165] ●もりおか啄木・賢治青春館 ●桜地人館 ●石と賢治のミュージアム 太陽と風の家 ●斉藤征義の宮沢賢治と詩の世界館︵苫小牧市王子町︶ 詩人で宮沢賢治研究者の斉藤征義が遺した資料の整理を目的として、賢治研究に関連する資料などを集めて2020年4月1日に開設された私設図書館︵2022年12月25日閉館︶[166][167]。関連項目
地理関係
●種山ヶ原 ●ナメトコ山 ●南昌山 ●イーハトーブ ●イーハトーブの風景地 ●経埋ムベキ山 ●水沢緯度観測所 ●宮沢賢治 (小惑星) ●伊勢神宮 - 大正10年4月に父親と共に参拝。参拝時に詠んだ歌がある。人物
●森荘已池 ●草野心平 - 賢治再評価に最も尽力した人物。ただし交際は文通が主で、生前に面識を得ることはなかった。 ●高村光太郎 - 草野を通じて生前の賢治と交際があり、死後の著作刊行に協力。戦時中には賢治の弟清六のつてで花巻に疎開している。 ●斎藤宗次郎 - 賢治と親交のあったクリスチャン。﹃雨ニモマケズ﹄のモデル説がある。 ●関豊太郎 - 盛岡高等農林学校での指導教官。 ●藤原嘉藤治 - 花巻高等女学校の音楽教員で、音楽を通じて親交を結ぶ。 ●松田甚次郎 - 賢治の感化を受け、郷里の山形県で農村振興を実践した人物。賢治没後に﹃宮沢賢治名作選﹄を出版した。 ●佐々木喜善 - 民俗学の研究家。賢治とは晩年に交流があった。 ●田中智學 - 国柱会の指導者。 ●金子七郎兵衛 - 盛岡藩勘定奉行で、賢治から見て曾々祖父︵父方の祖母の祖父︶に当たる。 ●ヘンリー・タッピング - 賢治は盛岡での学生時代に英語や聖書の講義を受ける。その他
●法華経 ●国柱会 ●エスペラント ●宮沢賢治賞・イーハトーブ賞 - 花巻市が実施している表彰事業。 ●安浄寺 (花巻市) - 宮沢賢治が子どもの頃に訪れている真宗大谷派の寺院で、死没後に一度埋葬されて、遺体を日蓮宗身照寺に改葬した。代々、宮沢家の檀家先だった。 ●教浄寺 - 盛岡市にある時宗の寺で、政次郎の許しを得た賢治は下宿先として、3ヶ月間、盛岡高等農林学校の入学の勉学に励んで合格したエピソードがある。脚注
注釈
出典
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(三)^ 加藤道理﹃常用国語便覧﹄︵改訂︶浜島書店、2010年2月3日、343、354頁。ISBN 978-4-8343-1000-9。
(四)^ ab作家読本 1989, p. 12.
(五)^ 堀尾 1991, pp. 25.
(六)^ 作家読本 1989, p. 14.
(七)^ ab作家読本 1989, p. 13.
(八)^ 千葉 2014, p. 38.
(九)^ 作家読本 1989, p. 17.
(十)^ ab堀尾 1991, p. 29.
(11)^ ab堀尾 1991, p. 31.
(12)^ 作家読本 1989, p. 19.
(13)^ 作家読本 1989, pp. 26–27.
(14)^ 堀尾 1991, p. 54.
(15)^ ab作家読本 1989, p. 36.
(16)^ 山下 2008, pp. 52–53.
(17)^ 作家読本 1989, pp. 37–38.
(18)^ 堀尾 1991, p. 69.
(19)^ 千葉 2014, p. 86.
(20)^ 千葉 2014, p. 88-91.
(21)^ 作家読本 1989, pp. 42–43.
(22)^ 作家読本 1989, p. 45.
(23)^ ﹁特待生選定 盛岡高等農林学校﹂﹃官報﹄1916年3月22日、2016年9月21日閲覧。︵左ページ下欄︶。
(24)^ abc堀尾 1991, p. 124-126.
(25)^ abc作家読本 1989, p. 54.
(26)^ 作家読本 1989, p. 52.
(27)^ 堀尾 1991, p. 95.
(28)^ 堀尾 1991, p. 130-135.
(29)^ ab堀尾 1991, p. 96.
(30)^ 堀尾 1991, p. 100-102.
(31)^ 堀尾 1991, p. 146.
(32)^ ab作家読本 1989, p. 56.
(33)^ ab堀尾 1991, p. 103.
(34)^ 作家読本 1989, p. 58.
(35)^ 堀尾 1991, p. 106-109.
(36)^ 作家読本 1989, p. 59.
(37)^ 作家読本 1989, p. 62.
(38)^ 堀尾 1991, p. 113-114.
(39)^ 作家読本 1989, p. 64.
(40)^ 山下 2008, p. 81.
(41)^ 千葉 2014, p. 140.
(42)^ 作家読本 1989, pp. 70–71.
(43)^ ab作家読本 1989, p. 74.
(44)^ 山下 2008, pp. 84–87.
(45)^ 堀尾 1991, p. 117-118.
(46)^ 作家読本 1989, p. 77.
(47)^ 山下 2008, p. 87.
(48)^ 作家読本 1989, p. 80.
(49)^ 堀尾 1991, p. 161.
(50)^ 堀尾 1991, pp. 243–246.
(51)^ 堀尾 1991, p. 210.
(52)^ 堀尾 1991, p. 166.
(53)^ 堀尾 1991, p. 208.
(54)^ ab作家読本 1989, p. 88.
(55)^ 作家読本 1989, p. 89.
(56)^ 作家読本 1989, p. 93.
(57)^ 堀尾 1991, pp. 219–222.
(58)^ 山下 2008, p. 121.
(59)^ 堀尾 1991, p. 222.
(60)^ ab作家読本 1989, p. 108.
(61)^ 作家読本 1989, p. 105.
(62)^ 堀尾 1991, p. 235.
(63)^ 堀尾 1991, pp. 240–241.
(64)^ ab作家読本 1989, p. 112.
(65)^ 作家読本 1989, p. 119.
(66)^ 千葉 2014, pp. 246–248.
(67)^ 山下 2008, pp. 138–139.
(68)^ 宮沢賢治. “七四三︹盗まれた白菜の根へ︺春と修羅 第三集”. 青空文庫. 2016年10月21日閲覧。
(69)^ 宮沢賢治. “農民芸術概論綱要”. 青空文庫. 2016年10月21日閲覧。
(70)^ 宮沢賢治. “︹それでは計算いたしませう︺春と修羅補遺”. 森羅情報サービス. 2016年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月21日閲覧。
(71)^ 作家読本 1989, pp. 134–136.
(72)^ 作家読本 1989, p. 139.
(73)^ 山下 2008, pp. 143–144.
(74)^ 堀尾 1991, p. 360.
(75)^ 作家読本 1989, p. 153.
(76)^ 山下 2008, p. 111.
(77)^ 作家読本 1989, p. 154.
(78)^ 堀尾 1991, p. 278.
(79)^ 作家読本 1989, pp. 158–159.
(80)^ 堀尾 1991, p. 287.
(81)^ 堀尾 1991, p. 371.
(82)^ 堀尾 1991, p. 379.
(83)^ 作家読本 1989, p. 182.
(84)^ 御茶ノ水スクエアA館 - NPO神田神田学会
(85)^ 千葉 2014, p. 256-257.
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- 宮沢賢治記念館 - 花巻市ホームページ
- 日本と子どもの文学(宮沢賢治)
- 宮沢賢治学会イーハトーブセンター
- 森羅情報サービス - 賢治の大半の作品のテキストを掲載している。
- 宮沢 賢治:作家別作品リスト - 青空文庫
- 宮沢賢治(日本詩人愛唱歌集) - ウェイバックマシン(2019年3月31日アーカイブ分) - 「どの詩に誰が作曲したか」や宮沢原作の「オペラ、音楽劇、ミュージカル」など。
- 聖人・宮沢賢治
- 宮沢賢治の宇宙
- 石と賢治のミュージアム - 一関市 - 一関市東山町
- それからの宮沢賢治館 - ジョヴァンニ安東サイト内の宮沢賢治特集
- 宮沢賢治生誕100年特集 - NHK放送史
- 火の鳥・アイーダ…宮沢賢治が愛した音楽、CDで復刻へ(読売新聞2021年4月15日記事)