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経歴
生い立ち
1970年代の活動
1980年代の活動
病と死去
1988年、深作欣二監督の時代映画﹃華の乱﹄では、国民的女優吉永小百合と共に主役を演じる。この撮影をしている頃から、松田は尿が出なくなり腹がパンパンに張っていたという。その後、遺作ともなったアメリカ映画﹃ブラック・レイン﹄に出演し、念願のハリウッドデビューを飾る。同映画の撮影時点で自身が癌に侵されている事を知るが、延命治療を拒み、撮影に挑んだ︵妻の松田美由紀によると、癌の診断を信用せず次々に医師を変え、治療に進まなかったため知己の医師に﹁今は癌ではないが放置すると癌になる﹂と説得してくれるよう頼んでいたという︶。なお、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも堅く口止めがされていた。
1989年8月頃から腰が痛いと言い始め[3]、10月6日、第3回東京国際映画祭で来日中の﹃ブラック・レイン﹄のリドリー・スコット監督に﹁どうしても挨拶したい﹂と出席したが[3]、舞台挨拶を断り帰宅[3]。これが公に見せた最後の姿だった[3]。翌10月7日、東京都武蔵野市にある西窪病院 ︵現在の武蔵野陽和会病院︶に入院[3]。
1989年11月6日午後6時45分、入院中の西窪病院で膀胱癌の腰部転移により死去。40歳没[注釈 8]。法名は、﹁天真院釋優道﹂。墓所は、東京都あきる野市の築地本願寺西多摩霊園。所属事務所の後輩で、松田が弟の様に可愛がっていた仲村トオルは松田の遺体の前で﹁優作さん!起きてください!早すぎるよ!!﹂と泣き叫んだ。葬儀には萩原健一、倍賞美津子らも参列した。萩原健一は妻の松田美由紀の手を取り、涙ながらに弔意を述べていた。
没後
2000年の発表の『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の12位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」でも第12位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本男優6位となっている[21]。
日本郵便が2006年10月10日に発行した特殊切手「日本映画II」(現代の名作)(1980年 - 2000年代公開)は、代表的な日本映画10作品を選定しているが、その1本に松田主演の映画『蘇える金狼』が選ばれた[22]。
人物
●公称・身長185cmの長身︵妻・美由紀証言では実身長183cm︶と発表されていたが石原裕次郎が公称181cmとなっており、183cmでは身長差がないので185cmと発表したとプロデューサーが言っていた。1975年に本人に取材した記事では186cmと述べている[8]。番組ではタフなキャラクター、抜群の運動神経と長い手足を生かしたその動きはそれまでの俳優にはない独自のものであり、基本的にアクション・スタント シーンにスタントマンを使うことはなかった︵﹃探偵物語﹄のバイクジャンプシーンなど、度を越した危険なシーンなどではスタントマンを起用している︶。萩原健一と並んで同時代を代表するスターである。
●初期のプロフィールには空手2段と書かれていたが、国際空手道連盟・極真会館機関誌には1969年6月20日付、4級合格者として記録されている。同日付では第1回世界大会優勝者・佐藤勝昭と一緒であり最終的な昇級昇段は不明である。
●デビュー前の大学生時代にTVドラマ﹁ワイルド7﹂にエキストラ出演しており、最終話﹁スパイダーの最後﹂でその姿を確認する事が出来る。ゴールド・サタン‥山本麟一のボディーガード役で後ろに立っている。
●デビュー時はアクションスターとして注目されたが、演出家に対して徹底して食いついて演出面にも追求︵カップに注がれた消え物のコーヒーについて﹁なぜ湯気が立っているんだ!﹂﹁これは誰が飲むものなんだ!﹂など︶するなど芝居に対して非常に勉強熱心で、個性派俳優として次第に役の幅を広げていった。強烈なカリスマ性をもつ俳優であり、松田の演じるキャラクターや、本人そのものをイメージした格好を真似る若者を産み、また同業者である後輩にも、彼のスタイルを踏襲した俳優︵古尾谷雅人、又野誠治など︶も登場した。
●自分の仲間を非常に大事にし、金子正次、中村雅俊、丸山昇一、佐藤蛾次郎、萩原流行など優作と親交が深かった多数の友人が優作の伝記で彼の人となりを熱く語っている。佐藤は後年﹁優作ほど先輩を立てる役者はいなかった﹂と振り返っている。店で打ち上げをやっていた時に、同じ店に来ていた他の客がバカにしたような口調で佐藤に﹁蛾次郎ー﹂と、囃し立てると松田は激怒し本気でその客に殴りかかりそうになったというエピソードもある。
●文学座の先輩の西岡徳馬によると、﹃太陽にほえろ!﹄で当人が﹁ジーパン刑事﹂役になったのは自分︵西岡︶がきっかけだという。親交のあった6代目市川染五郎︵後の9代目松本幸四郎、現‥2代目松本白鸚︶一家とハワイ旅行に出掛けた時のショッピングで、当時まだ日本ではレアなものだったジージャンとジーパンに上下セットを見つけ、これを買って帰国して着ていたところ、文学座のマネージャーに﹁自分も欲しい﹂といった興味を示され、食い下がるマネージャーのために西岡も心当たりを探したがなかなか見つからず、それで他の店で似た物を見つけて購入し、松田はこれを着させられた。その後松田本人がジージャンとジーパンの上下のままで﹃太陽にほえろ!﹄のスタッフに会ったなどのことは不明だが、その後ジーパン刑事と名付けられて活躍することになる[23]。
●大都会シリーズで監督を務めた舛田利雄は、台本に無いセリフを連発したり、台本に無い演技をする松田について、﹁ああいう役者は好きな様にやらせておけばいい、そうでないと使う意味が無い。﹂と評した[24]。
●元妻の松田美智子の話によると、優作は遊郭の一角で生まれ育ったことや、韓国国籍であることを死活問題のように悩んでいたという。また、美智子は﹁ファンが語る優作は、どこか漫画的です。[25]﹂と語っている。
●麻雀が非常に強かったと関係者は語っている。また後の自身の主演映画﹃最も危険な遊戯﹄の冒頭の雀荘のシーンにて﹁その強さ﹂を自身の役柄である殺し屋・鳴海の口から語らせている。
●﹃太陽にほえろ!﹄を降板する際、後任の勝野洋へなにかアドバイスをと求められて、﹁走る姿を研究しろよ﹂と答えたという。そもそも松田の前任だったマカロニ刑事役の萩原健一を番組出演へと説得する際に、監督の竹林進が言った﹁走ってる姿を撮りたい﹂を基本コンセプトに、﹁走る﹂事は同番組の代名詞として後々まで受け継がれた。
●﹃大都会PARTII﹄の撮影中、ロケ現場ではしゃいでいる子供にからかわれた事があり、その際﹁考えると俺達って昼間からこんなおかしい事をやっているんだよな…﹂と自分が一般とは違う世界で生きているのに気づき、それを期に﹁よし、誰にも文句を言わせない作品を撮るぞ!﹂と決心し、それが後のモチベーションにつながった。
●六月劇場の研修生だったころ、黒澤明監督の自宅を訪問し、3日間座り込んで弟子入りを迫った。しかし、3日経っても黒澤に会う事は出来ず追い返されてしまう。後に松田は、﹁俺は一生かかっても必ず有名になってみせる。だが有名になっても黒澤監督の映画にだけは決して出んからな﹂と語っていた。
●下積み時代、﹁俺が売れないのは一重瞼だからだ﹂とコンプレックスをもらしており、後に瞼を二重に整形している[26]。金銭面で困窮していた時期であったが何とか手術費用を捻出した。当時の二重瞼の手術の主流は切開法であり、術後約1週間で抜糸を行うが﹁費用がまた何万円もかかるのではないか…﹂と懸念した松田は抜糸予定日に病院へは行かず、自宅で鏡を見ながら裁縫用の小さなハサミを用いて抜糸をしたと語っている。その際、無理に糸を引き抜き、消毒も十分にしなかったため後々まで跡が残った。実際は抜糸までが手術費用に含まれており、再診でかかる費用はせいぜい消毒代と化膿止めの薬代、数千円程度であったと後に知り、後悔したと言う。
●松田美由紀は松田を﹁普段のファッションには無頓着で、放っておいたら何を着だすか分からない程だった﹂と言う。近視で、普段掛けていた眼鏡も上部が黒縁のいわゆるオヤジ眼鏡だった。
●﹃太陽にほえろ!﹄出演当時は運転免許を有していなかった為、車の運転場面は全て代役である。勝野洋や下川辰平も同様であった。後の﹃探偵物語﹄1979年︵昭和54年︶ではベスパに乗っているが、自動二輪免許は所有していた。さらに後には4輪免許も取得 ︵文学座時代から親しかった重松収によれば、普通自動車免許は、﹃ブラック・レイン﹄の撮影がすべて終わり、帰国したのと同時に取得[27]。松田優作本人が自動車の運転をしている作品は、遺作﹁華麗なる追跡 THE CHASER﹂となる︶。ドラマでベスパを使用することを助言したのは、友人の岩城滉一。当時の松田は中型自動二輪免許︵現‥普通二輪︶を取得したばかりで、プライベートではホンダGL400に乗っていたが岩城の﹁それダサイよ﹂の一言で、ベスパを使う決心をしたと云われている[28]。そのベスパは後に松田の私物になり、松田の没後も長年、自宅の地下室に安置されていた。2023年11月にベスパは、探偵物語の監督を務めた村川透の生家に開設された山形県村山市の私設多目的ホール﹁アクトザールM.﹂の展示室に移したことが妻の松田美由紀のインスタグラムにて報告されている[29]。
●角川春樹によれば、要領が良い反面、臆病な一面があり、映画﹃人間の証明﹄のニューヨークでのロケ撮影中に傷害沙汰を起こし、角川が示しをつけるためホテルに呼び出した際、入室直後に﹁何をされても結構です﹂と土下座を噛まし、タイミングの可笑しさで角川の怒りを治めてしまったが、その後の飲み会でダウンタウンに行った際、黒人しかいない店に入ると終始怯えた表情を取り、﹁怖いのか?﹂と角川が訊くと、﹁いえ﹂と強張りながら飲み続けていたという。また、角川とは毎年、赤坂のフグ料理屋で2人だけの忘年会を行い、最後の〆にフグ雑炊を松田が、自分の手で作るのが恒例だったという[30]。
●ロバート・デ・ニーロは映画﹃ブラック・レイン﹄での松田の演技を絶賛、共演したいと松田にオファーを出したが、亡くなった事を知り落胆したという話がある。
●一日100本以上のヘビースモーカーであった。しかし、尊敬する渡哲也が﹁大都会PARTII﹂の撮影で出番以外禁煙を始めた事を受け、優作自身は禁煙まで行かなかったが一日15本まで減らしたという。
●1980年︵昭和55年︶4月29日放送の﹃徹子の部屋﹄に出演した際は、飲酒、喫煙しながらトークをおこなった[31]︵もっとも、当時同番組において同様の例は他のゲストでも多く見られた︶。
●長らくCM出演を固辞していた松田初めてのCMは、1982年麒麟麦酒﹁キリンライトビール﹂が最初だが[32]、1976年の﹃曽根崎心中﹄以降、役者付いていた宇崎竜童が原田芳雄と親しくなり、弟分の松田とも親しくなっていた1982年に大手広告代理店から、宇崎・原田・松田の3人が共演するCMを作りたいと依頼された[32]。今でこそ知名度の高いタレントが複数登場するCMは当たり前だが、当時の業界の常識は、知名度が高いタレントが単独で登場するからこそインパクトが強いと考えられていて、複数の芸能人が共演することはなく、その常識を覆すCMであった[32]。松田も原田芳雄もCM出演はそれまでなく、麒麟麦酒がアメリカではシェア50%以上を占める﹁ライトビール﹂がこれからは日本でも主流となるだろうと先読みし、思い切ったCMをやりたいと考案したものであった[32]。しかし宇崎に送られて来た絵コンテを見ると﹃8時だョ!全員集合﹄のようなコントそのものの内容[32]。演出サイドが意外性を狙い過ぎているのは分かったが、原田と松田がこれに同意するとは思えないし、まあ企画会議の席上で異を唱えればいいか、と宇崎は考えて、原田と松田には連絡しなかった[32]。すると企画会議の前日︵当日の︶深夜2時過ぎに宇崎宅へ電話があり、松田が地の底から響くような声で﹁おい!殺すぞ!!﹂と宇崎に言った。激怒しているときの松田に取り付く島もないことを宇崎も承知しているため、言い分を聞くと、宇崎は絵コンテを承諾したと制作サイドに伝えられており、﹁明日の企画会議であんたを殺す。それがイヤだったら、屈強なボディガードを3人ほど用意しておくんだな!﹂と捨て台詞を残し一方的に電話を切った[32]。企画会議では宇崎の無実が明らかになり、松田は何10枚も自分で書いてきた絵コンテを次々と繰り出し熱意のあるプレゼンを展開した。企画会議終了後に松田は宇崎に﹁オレの誤解でした。本当に失礼なことを言って申し訳ありませんでした﹂と深々と頭を下げて謝罪した[32]。同CMは鈴木清順の演出で1982年夏にハワイロケが行われたが、タキシードの衣装が暑すぎて撮影の合間に冷房の効いたロケバスで休んでいた。すると隣のロケバスのカーテンの隙間から熟睡しているプロデューサーの姿が見えた。スタッフにも自分と同じ熱量を求める松田は﹁あの昼寝野郎…﹂と呟き怒りを露わにした。この時は何とか収まったが、CM本編の撮影が全て終了し、ポスター撮影の段階になった時、またまた松田が独自案を披露した。これが制作サイドとは正反対の内容で、一からロケハンをやり直さなければならないものだった。松田が熱く説明をしていると、先の昼寝プロデューサーが面倒くさそうに﹁分かりましたよ﹂と適当にあしらったことで松田は激怒し、テーブルを乗り越えて対面に座っていたプロデューサーを平手打ち、さらにカメラマンにも﹁あんたも同じだ!﹂と続けざまに平手打ちをした[32]。完成したCMは好評を博し、続編の声も上がったが、平手打ちをされたカメラマンがこの後﹁暴行事件﹂として週刊誌に暴露し、続編はなくなった[32]。
●2009年︵平成21年︶、松田優作本人が穿いていたジーンズをイメージして作られた特製ジーンズ︵股下38インチ、左フロントポケットはライターの定位置だったために四角形に色落ち︶が20回忌となる11月6日にフルカウントより発売された。
●吉田拓郎のファン[33]。
家族
出演
映画
テレビドラマ
1969年(昭和44年) - 1971年(昭和46年)
1972年(昭和47年) - 1973年(昭和48年)
1973年(昭和48年) - 1974年(昭和49年)
- 太陽にほえろ!・NTV・東宝 - 市役所福祉課職員 役(第35話)、柴田純(通称・ジーパン)刑事 (第53話 - 第111話)
1974年(昭和49年) - 1975年(昭和50年)
1975年(昭和50年)
1976年(昭和51年)
1977年(昭和52年) - 1978年(昭和53年)
1977年(昭和52年) 10月 - 11月
1978年(昭和53年)
- 大追跡、NTV・東宝 - 最終回ラストシーンにゲスト出演
1979年(昭和54年)
1979年(昭和54年) - 1980年(昭和55年)
1982年(昭和57年)
1982年(昭和57年) - 1983年(昭和58年)
- あんちゃん、NTV - 第15話・第16話ゲスト出演 山本倉三
1983年(昭和58年)
1984年(昭和59年)
1986年(昭和61年)
1988年(昭和63年)
- 土曜ワイド劇場、桜子は微笑う ラストエンペラーに仕掛けられた妖しい女の罠、ANB - 梔子玲三
1989年(平成元年)
ドキュメンタリー
広告・テレビコマーシャル
●マンダム﹁GATSBY︵ギャツビー︶﹂‥ハイチで撮影されたが、優作はハイチのラム酒を手みやげに持ち帰った。そのラム酒が店の定番になったと、レディジェーンの大木店長は述懐している。また80年代に海外でCM撮影した際には、タンゴで使用する楽器、バンドネオンを購入してきたという。︵1985年 − 1988年︶
●キッコーマン﹁トライアングル﹂
●麒麟麦酒﹁キリンライトビール﹂
●日本ビクター︵現‥JVCケンウッド︶
●サッポロ飲料︵現‥ポッカサッポロフード&ビバレッジ︶﹁JACK﹂− 没後に制作。
●Schick - 没後に制作。﹁探偵物語﹂の工藤俊作をメインキャラクターにキャンペーンを展開 ︵2008年︶
●グンゼ ﹁The GUNZE﹂- 没後に制作。﹁探偵物語﹂の工藤俊作をキャラクターとしたコマーシャルを作成
など
映画主題歌担当
ディスコグラフィ
シングル
アルバム
オリジナル・アルバム
発売日
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規格
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規格品番
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タイトル
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東宝レコード
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1976年7月25日
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LP
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AX-5001
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まつりうた
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ビクターレコード/ビクターエンタテインメント
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1978年8月25日
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LP
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VIH-6028
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Uターン
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1980年5月1日
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LP
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VIH-6070
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TOUCH
Side:A
- 壁
- 三面記事
- UPWARD MORE
- ミッドナイト
- YOKOHAMA HONKY TONK BLUES
Side:B
- 白昼夢
- 雨の日にはBlues
- ボヘミアン
- 戦い続ける男達へ
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1997年2月21日
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CD
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VICL-15060
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1981年5月21日
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LP
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VIH-28039
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HARDEST DAY
Side:A
- 灰色の街
- Bay City Blues
- Shake Your Blues
- マリーズ・ララバイ
Side:B
- ブラザーズ・ソング
- Wondering Road
- Lady
- Get Along
- 天国は遠くの町
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1997年2月21日
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CD
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VICL-15061
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1982年11月21日
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LP
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VIH-28106
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INTERIOR
Side:A
「OPEN YOUR EYES SIDE Performed with EX」
- ルポタージュReportage
- ローリング・トゥエンティーズRoaring Twenties
- マリエルMariel
- サウスボーダー South Border
- 246の幾何学 Geometry246
Side:B
「CLOSE YOUR EYES SIDE Performed with KATSUO OHNO BAND」
- きめてやる今夜 Gonna Make It Tonight
- 副作用 Side Effects
- シンギング・リバーサイド Singing Riverside
- ダーリンすべてを忘れようじゃないか Let's Forget All Darling
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1997年2月21日
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CD
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VICL-15063
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1985年3月21日
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LP
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VIH-28210
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DEJA-VU
※ 松田優作 with EX
Side:A
- One From The Heart
- BERLINからのリハーサル<LessonⅠ>
- Dusky Town〔ダスキータウン〕
- Platinum Night〔プラチナムナイト〕
- Red Wind〔赤い風〕
- BERLINからのリハーサル<LessonⅡ>
Side:B
- Night Performance〔ナイトパフォーマンス〕
- No Where No
- Ku’ Damm〔クーダム〕
- BERLINからのリハーサル<LessonⅢ>
- DEJA-VU
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1997年2月21日
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CD
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VICL-15064
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1987年4月21日
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LP
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VIH-28287
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D.F. NUANCE BAND
Side:A
- 月光
- ハートブレイククーニャン
- デューン
- アメリカ
Side:B
- チャイナモルゲン
- インシェ
- オデッサ
- サイゴン
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1997年2月21日
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CD
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VICL-15065
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ライブ・アルバム
発売日
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規格
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規格品番
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タイトル
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備考
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ビクターエンタテインメント
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1981年11月21日
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LP
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VIH-28068
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HARDEST NIGHT LIVE
Side:A
- 灰色の街
- Bay City Blues
- Shake Your Blues
- 雨の日にはBlues
- YOKOHAMA HONKY TONK BLUES
Side:B
- ホンキー・トンク・ウーマン
- Bony Moronie
- Try Me Tonight
- Midnight Rambler
- マリーズ・ララバイ
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1997年2月21日
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CD
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VICL-15062
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2017年3月8日
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CD(紙ジャケ)
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VICL-64746
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2021年2月3日
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CD
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FJSP417
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LAST LIVE
1987年5月12日 大阪サンケイホールでの模様を収録。
Disc1
- Bay City Blues
- 夢・誘惑
- 灰色の街
- プラチナム・ナイト
- マリエル
- イザラ
- 月光
- ナイト・パフォーマンス
- ワン・フロム・ザ・ハート
- アメリカ
- インシェ
- Deja-Vu
Disc 2
- 1.チャイナ モルゲン
- ハートブレイク クーニャン
- ローリング・トゥウェンティーズ
- サウスボーダー
- 246の幾何学
- 赤い風
- オデッサ
- MC
- サイゴン
- No Where No
- デューン
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初回限定盤
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ベスト・アルバム
発売日
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規格
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規格品番
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タイトル
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ビクターエンタテインメント
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1990年2月21日
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CD
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VICL-22009
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Yusaku Matsuda 1978-1987
- 灰色の街
- BAY CITY BLUES
- ブラザーズ・ソング
- マリーズ・ララバイ
- YOKOHAMA HONKY TONK BLUES
- ルポルタージュ
- 夢・誘惑
- マリエル
- 246の幾何学
- DEJA-VU
- ナイト・パフォーマンス
- インシェ
- アメリカ
- クーダム
- ONE FROM THE HEART
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1997年2月21日
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CD
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VICL-2180
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2021年3月10日
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UHQCD
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VICL-77009
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2021年3月10日
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UHQCD
+CD
+DVD
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VIZL-1868
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Yusaku Matsuda 1978-1987
Disc1
- 灰色の街
- BAY CITY BLUES
- ブラザーズ・ソング
- マリーズ・ララバイ
- YOKOHAMA HONKY TONK BLUES
- ルポルタージュ
- 夢・誘惑
- マリエル
- 246の幾何学
- DEJA-VU
- ナイト・パフォーマンス
- インシェ
- アメリカ
- クーダム
- ONE FROM THE HEART
Disc2
- 月光(アナザー・ヴァージョン)
- ハートブレイク クーニャン(アナザー・ヴァージョン)
- チャイナ モルゲン(アナザー・ヴァージョン)
Disc3『YUSAKU MATSUDA SOUL VIBRATION 1990.02.21』
※ 1990/2/21にビクタースタジオで行われた追悼ライヴ・イベント。約55分。
※ 黒田征太郎のライヴ・ペイティングの模様、脚本家・丸山昇一のMCなども収録。
- YOKOHAMA HONKY TONK BLUES/新井英一
- BAY CITY BLUES/原田芳雄&FLOWERTOP
- 246の幾何学/原田芳雄&FLOWERTOP
- マリーズ・ララバイ/石橋凌
- ブラザーズ・ソング/THE ROCK BAND、Shy
- 灰色の街/李世福コネクション
- Georgia On My Mind/竹田和夫、アイ高野、橋本洋子
- 月のあかり/桑名正博、原田喧太
- 人間の証明のテーマ/ジョー山中
- 1989・REQUIEM/宇崎竜童
- 天国は遠くの町/全員
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企画アルバム
発売日
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規格
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規格品番
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タイトル
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ビクターエンタテインメント
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2008年6月11日
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CD
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VIZL-274
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コンプリートボックス「SLOW NUANCE」
※ 松田優作が残したアルバム8枚を紙ジャケCDにて再現。
※ 人気ブランド SATORU TANAKA による特製Tシャツつき
※ フォトカード3枚つき
DISC-1 『まつりうた』
DISC-2 『Uターン』
DISC-3 『TOUCH』
DISC-4 『HARDEST DAY』
DISC-5 『HARDEST NIGHT LIVE』
DISC-6 『INTERIOR』
DISC-7 『DEJA-VU』
DISC-8 『D.F NUANCE BAND』
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関連人物
●萩原健一 - ﹁ええ、ぼくは……愛してるっていうか、尊敬してるっていうかね、あの人のことは……﹂﹁もちろん、生きているから神じゃないけど、どっちかっていうと人間と神のあいだみたいなとこまで (ショーケンの) レベルは上がっちゃってるんじゃないかと思うね。この国であれくらいのレベルの人は、あの年齢でいないんじゃないすか?﹂[36]。松田が常に意識し、憧れた同時代唯一の俳優、歌手だった。
●原田芳雄 - 松田が公私ともに兄貴と慕う俳優。その慕いっぷりは半端ではなく、自宅も原田の隣に構えるほどであった。優作が70年代後半にサングラスをかけていたのは、原田を模倣したものである。クリスマスや正月等は原田・松田両家で友人を呼んでの盛大なパーティーを開いていたが参加者がかなり重なっていて彼らの行き来が大変だったため、松田が﹁いっその事、家の間の垣根を取っ払いましょうか﹂と提案したという逸話がある。それに対する原田の答えは﹁幾ら俺たちの間でも、それはけじめがなさ過ぎるだろう﹂というものだった。
●勝新太郎 - ﹁原田芳雄は、サングラスを取るタイミングを間違えた。優作はショーケンのマネをしすぎた﹂と発言。
●岸田森 - 松田が尊敬する俳優。松田は、岸田らが主宰する六月劇場の研修生だった。﹃探偵物語﹄などで共演もしている。岸田の葬儀に列席した際には号泣しながら﹁あの人のことを愛してましたからね、僕は。俳優としても人間としても﹂とのコメントを発している。
●安岡力也 - 松田の盟友。松田の生前に、撮影関係者でただ一人病気のことを告白されていた。
●村川透 - 遊戯シリーズの他、遺作である﹁華麗なる追跡 THE CHASER﹂を監督。よく知った仲。松田は村川のことを﹁監督﹂ではなくおどけて﹁トンカク﹂と呼んでいたらしい。
●森田芳光 - ﹁家族ゲーム﹂﹁それから﹂を監督。
●長谷川和彦- 長谷川が﹁太陽を盗んだ男﹂を撮影している時、同じ撮影所で﹁蘇える金狼﹂を撮影していた松田が見学に訪れている。危険なストーリーに魅せられた松田に、﹁長谷川さん、俺にもこんな作品作ってくださいよ﹂と頼まれたが、その依頼が実現する前に松田は亡くなってしまった。
●丸山昇一 - 松田と出会って才能を開花させた脚本家。映画製作においてコンビを組むことが多く、松田のアイデアを的確に脚本化できる重要な存在だった。丸山にとって松田は畏怖と尊敬の念が入り混じる存在で、脚本をアップする度に松田からどの様なチェックが入るか戦々恐々としていたそうである。
●石原裕次郎 - ﹃太陽にほえろ!﹄でジーパン刑事役として出演していた松田の役者性に早くから注目。松田の暴力事件では警視庁に情状酌量を願い出て、干された状態だった松田を﹃大都会 PARTII﹄の徳吉刑事役にブッキングするなどお気に入りだった。当時松田は刑事役はもうしないと決めており、当初は出演を断ったが、石原裕次郎が自ら出向き出演を依頼して実現した[37]。
●渡哲也 - ﹃大都会パートII﹄などで共演。松田が非常に尊敬していた俳優の一人。松田の行きつけのスナックに呼び出され、﹁もっと映画に出るべきだ!﹂と説教をされ、それを﹁楽しい記憶﹂と語っている。
●沢田研二 - 沢田研二20周年パーティに訪れたが、沢田とは仕事をしたことがなかった。不思議に思ったリポーターにつながりを聞かれ、﹁こちらが一方的にファンですから。同じ世代っていうか同じ時代に生きられるのは本当に幸せですよ。それぐらい好きです﹂と答えている。また沢田が内田裕也に提供した曲﹁きめてやる今夜﹂を松田はカバーしている。
●桃井かおり - 文学座の一期先輩。﹁優作ちゃんの演技はオーバーなのよー﹂と茶化した折、優作が悔し涙を流したというエピソードがある。﹃竜馬暗殺﹄﹃太陽にほえろ!︵桃井がゲスト出演︶﹄﹃熱帯夜﹄﹃春が来た﹄で共演。
●中村雅俊 - 文学座の一期後輩。﹃われら青春!﹄の主役に中村を推薦したのが松田だと言われている。1975年︵昭和50年︶には﹃俺たちの勲章﹄でダブル主演を果たした。
●水谷豊 - 売れない時代から付き合いのある仲間であり、﹁優作ちゃん﹂と呼ぶほどの大の親友。
●片桐竜次 - 東映作品などの悪役で有名。同郷で﹃探偵物語﹄や﹃大都会 PARTII﹄、映画でもよく共演しており、松田優作との共演作﹁新宿25時﹂という刑事モノの企画もあったが流れてしまった。
●又野誠治 - 同郷で風貌がよく似ていたこともあり、松田を意識した役づくりをしていた後輩俳優。﹃太陽にほえろ!﹄のブルース刑事は、ジーパン刑事を意識した役柄だった。松田は弟分としてかわいがっており、自身が原田芳雄と比較されて苦労した事を又野に話し、﹁時間はかかるかもしれないが、役者を続けていけ﹂と激励していた。
●古尾谷雅人 - 松田を﹁兄貴﹂と呼ぶ俳優。﹃噂の探偵QAZ﹄など、松田をイメージしたキャラクターの作品を演じた。この作品には、﹃探偵物語﹄のレギュラーキャラである松本刑事役の山西道広が、﹁松本警部﹂として登場している。
●山西道広 - ﹃探偵物語﹄の松本刑事役。文学座付属演技研究所研究生時代から、松田と同じ時間を共有した俳優のひとり。奥さんが嫉妬するほどの仲が良かったという。また、デビューアルバムに楽曲を提供している。
●小林旭 - 松田がファンだったという日活アクション映画のスター。ドラマ﹃探偵物語﹄は小林のアクション・コメディに影響されているという[38][39]
●高倉健 - 松田の遺作である﹃ブラック・レイン﹄で共演。松田が非常に尊敬していた俳優の一人であり、松田が一緒に写真を撮って下さいとお願いした唯一の俳優でもある。撮影後、松田が世界をまたにかけて活躍する事を期待し、2カ国仕様のロレックスを松田へ渡すべく準備していたが、本人の手に渡ることはなかった。
●伊藤洋三郎 - 元々は役者になるつもりではなかったが、学生時代に松田と出会い、現場の付き人を経験した。
●金子正次 - 松田の盟友。金子主演による自主制作映画﹁竜二﹂の出資金を募るため、各所に根回しをしたとされる。奇しくも命日が松田と同じ11月6日である。
関連著書他
●﹃NHK 知るを楽しむ 私のこだわり人物伝﹄2006年︵平成18年︶4・5月号、5月放送分・語りと著・リリー・フランキー
●﹃松田優作+丸山昇一 未発表シナリオ集﹄(幻冬舎: のち幻冬舎アウトロー文庫)
●﹃松田優作全集 改訂版﹄ (松田美由紀編、幻冬舎)
●﹃越境者 松田優作﹄ (松田美智子、新潮社: のち新潮文庫。﹃永遠の挑発 松田優作との21年﹄︵リム出版︶に加筆訂正したもの)
●﹃松田優作DVDマガジン﹄︵2015年5月26日創刊、全41巻、講談社︶ - ﹃探偵物語﹄全話と、アンケートの結果による人気映画作品を収録[40]。映像特典やマガジンに関係者へのインタビューなどを収録。
脚注
注釈
(一)^ 美由紀との長女︵#家族参照︶。
(二)^ 戸籍上では1950年︵昭和25年︶9月21日生まれになっており、本来の学年より1年遅れで義務教育を終了している。その為、萩原健一や中村雅俊は本来は1学年下だが、戸籍上では同じ年に義務教育を終了している同学年である。
(三)^ 第53回から登場。青木英美も登場している。
(四)^ 事件の真相は、鹿児島市内の飲食店でスタッフが地元のOLを交えて打ち上げをしていた時、解散近くになってスタッフとOLとの一組のカップルができあがった。打ち上げ終了後、このカップルがタクシーを拾おうとしているのをOLの友人が見つけ、カップルについて行こうとした。そこで松田とEが﹁野暮なことをするなよ﹂と引き止めようとしたところ、彼女と押し問答になり、それを目撃した予備校生が木刀を持って駆けつけ、松田に木刀を振り上げた。そこで松田とEが予備校生に反撃した、ということだったという (出典は脚注4)。[疑問点 – ノート]
(五)^ 鈴木清順が監督。
(六)^ 併映は澤井信一郎監督作品﹃めぞん一刻﹄。
(七)^ この作品は石橋凌、寺島進の映画デビュー作品でもある。ここで役者に開眼した石橋は松田を師と仰ぐ事となり、音楽活動と平行して俳優業にも力を入れていくことになる。
(八)^ ただし前述のとおり戸籍上は1950年9月21日生まれとなっていたため、多くのメディアは松田の没年齢を﹁39歳﹂と報じている。
(九)^ 2019年3月現在、本人のTwitterアカウントのプロフィールでは﹁Yuki Matsuda﹂および﹁ゆう姫﹂と表記されている[35]。
(十)^ 映画﹁ヨコハマBJブルース﹂主題歌。
(11)^ 松田優作 with EX。
出典
参考文献
- 岡田晋吉『太陽にほえろ!伝説 : 疾走15年私が愛した七曲署』(増補決定版)日本テレビ放送網、2003年9月。ISBN 4820398660。
関連項目
外部リンク
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