セイレーン
セイレーン︵古希: Σειρήν, Seirḗn︶は、ギリシア神話に登場する海の怪物である[1]。複数形はセイレーネス︵古希: Σειρῆνες, Seirênes︶。上半身が人間の女性で、下半身は鳥の姿とされるが後世には魚の姿をしているとされた[2]。海の航路上の岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせる。歌声に魅惑された挙句セイレーンに喰い殺された船人たちの骨は、島に山をなしたという[1]。
その名の語源は﹁紐で縛る﹂、﹁干上がる﹂という意味の Seirazein ではないかという説が有力である[2][3][要検証]。長音符省略表記のセイレンでも知られるが、長音記号付き表記も一般的である。
上記のギリシア語はラテン語化されてシーレーン︵Siren, 複数形シーレーネス Sirenes︶となり、そこから、英語サイレン︵Siren[注釈 1]︶、フランス語シレーヌ︵Sirène︶、ドイツ語ジレーネ︵Sirene︶、イタリア語シレーナ︵Sirena︶、ロシア語シリェーナ︵Сирена︶、ウクライナ語シレーニ︵Сирени︶といった各国語形が派生している。英語では﹁妖婦﹂という意味にも使われている。
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの1891年の作品﹃オデュッ セウスとセイレーンたち﹄。ヴィクトリア国立美術館所蔵。
セイレーンは、ホメーロスの﹃オデュッセイア﹄に登場する。オデュッセウスの帰路の際、彼は歌を聞いて楽しみたいと思い、船員には蜜蝋で耳栓をさせ、自身をマストに縛り付け決して解かないよう船員に命じた。歌が聞こえると、オデュッセウスはセイレーンのもとへ行こうと暴れたが、船員はますます強く彼を縛った。船が遠ざかり歌が聞こえなくなると、落ち着いた船員は初めて耳栓を外しオデュッセウスの縄を解いた[27]。ホメーロスはセイレーンのその後を語らないが、ヒュギーヌスによれば、セイレーンが歌を聞かせて生き残った人間が現れた時にはセイレーンは死ぬ運命となっていたため、海に身を投げて自殺した[22]。死体は岩となり、岩礁の一部になったという。
﹃アルゴナウティカ﹄にも登場する。イアーソーンらアルゴナウタイがセイレーンの岩礁に近づくと、乗組員オルペウスがリラをかき鳴らして歌を打ち消すことができた。しかしブーテースのみは歌に惹かれて海に飛び込み泳ぎ去ってしまった[28]。
概要[編集]
セイレーンは河の神アケローオスとムーサのメルポメネー[5][6][7][8]、テルプシコラー[9][10]、カリオペー[11][12]、あるいはカリュドーン王ポルターオーンの娘ステロペーとの娘であり[13]、2人、3人、4人、あるいは5人姉妹であるとされている[14][15]。 構成員には諸説あり、2人の場合はヒーメロペー︵古希: Ίμερόπη, Himeropê、﹁優しい声﹂の意︶とテルクシエペイア︵古希: Θελξιεπεια, Thelxiepeia、﹁魅惑的な声﹂︶[16]。3姉妹説ではアポロドーロスがペイシノエー︵古希: Πεισινοη, Peisinoê、﹁説得的﹂︶・アーグラオペーメー︵古希: Aglaopêmê、﹁美しい声﹂︶・テルクシエペイアを挙げ[6]、ガイウス・ユリウス・ヒュギーヌスもまた﹃ギリシャ神話集﹄で、テルクシエペイア・モルペー︵古希: Μολπη, Molpê、﹁歌﹂︶・ペイシノエーを挙げている[7]。あるいはレウコーシアー︵古希: Λευκωσια, Leukôsia、﹁白﹂︶・リゲイア︵古希: Λιγεια, Ligeia、﹁金切り声﹂[要検証]︶・パルテノペー︵古希: Παρθενοπη, Parthenopê、﹁処女の声﹂︶からなるともいわれる[17][18]。4姉妹説ではテレース︵古希: Θελες, Telês︶・ライドネー︵古希: Ραιδνη, Raidnê︶・テルクシオペー︵古希: Θελξιόπη, Thelxiopê︶・モルペーで構成されている[19]。 元はニュンペー︵河の神︶[20]で、ペルセポネーに仕えていたが、ペルセポネーがハーデースに誘拐された後にペルセポネーを探すために自ら願って鳥の翼を得た[21][15]。ほか、ヒュギーヌスでは誘拐を許したことをケレースに責められ、鳥に変えられたとされる[22]。﹃オデュッセイア﹄エウスタティウス注では、誘拐を悲しんで恋愛をしようとしなかったためアプロディーテーの怒りを買い、鳥に変えられたとされる[14]。パウサニアースの﹃ギリシア案内記﹄ではヘーラーの要請でムーサと歌で競い合い、勝負に負けてムーサの冠を作るために羽をむしり取られたとされる[23]。 彼らの住む島については、ホメーロスは魔女キルケーの住むアイアイエー島と、プランクタイの岩礁あるいはカリュブディスとスキュラの棲む海域の間にあると述べている[24]。またヘーシオドスはセイレーンたちはゼウスによってアンテモエッサ島(Ἀνθεμόεσσα, Anthemoessa)を与えられたとし、島の名前についても言及しており[25]、ロドスのアポローニオスも﹃アルゴナウティカ﹄でそれを踏襲している[26]。物語[編集]
中世以降の変化[編集]
中世以降は半人半鳥でなく、人魚のような半人半魚の怪物として記述されている[29]。文献で確認できる鳥から魚への変化の最初の例は7世紀から8世紀頃の﹃怪物の書﹄と言われている。この変化が起きた理由として挙げられているものに、言語上の類似による誤解がある。ギリシア語では羽根と鱗は同じ πτερύγιον であり、またラテン語も羽根 pennis と鱗 pinnis はよく似ている。そこで下半身が羽根に覆われた姿から鱗に覆われた姿に変化したのではないかと考えられる[30][要検証]。また北方の魚の尾を持つ妖精や怪物を呼ぶ際にセイレーンの語が当てられたという説もある[31]。あるいは古代において海岸の陸地を目印に航海していたのに対し、中世に羅針盤が発明されて沖合を遠くまで航海できるようになったことから、セイレーンのイメージが海岸の岩場の鳥から大海の魚へと変化したためではないかと考えられている[32]。この頃には、海でセイレーンに会ったという記述が旅行記に記されるようになる[29]。 ゲーテの﹃ファウスト﹄などに登場し、怪物としての性格が強まった。後世には、人魚や水の精などとも表現されるようになり、西洋絵画においてはとりわけ世紀末芸術で好まれる画題となった。 セイレーンを描いた図像には、二又に分かれた鰭を備えた魚の下半身となっているものがしばしばみられる。20世紀のフランスの美術史家ユルギス・バルトルシャイティスによれば、セイレーンのこうした図像の構図は古代のアジアで既にみられており、アジア起源の構図がヨーロッパに伝えられてさまざまな図像で用いられたという[4]。西洋絵画[編集]
西洋絵画ではセイレーンはしばしば描かれてきたが、特にラファエル前派以降のイギリスの画家たちが男たちを誘惑する甘美なセイレーンの姿を描いている。フランス象徴主義の画家ギュスターヴ・モローも﹃セイレーンたち﹄︵1882年︶、﹃詩人とセイレーン﹄︵1893年︶と言った作品を描いたが、ギュスターヴ=アドルフ・モッサは﹃飽食のセイレーン﹄︵1905年︶でむしろ人を殺す残酷な一面を描いている。そのほか、パウル・クレーの﹃セイレーンの卵﹄︵1937年︶、ポール・デルヴォーの﹃セイレーンたちの村﹄︵1942年︶、﹃偉大なるセイレーンたち﹄︵1947年︶、パブロ・ピカソの﹃オデュッセウスとセイレーンたち﹄︵1947年︶といった作品がある。ギャラリー[編集]
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エドワード・バーン=ジョーンズ 『セイレーン』 1875年 南アフリカ国立美術館所蔵
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フレデリック・レイトン 『漁夫とセイレーン』 1856年-1858年 個人所蔵
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エドワード・ポインター 『セイレーン』 1864年頃 個人所蔵
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シャルル・ランデル 『セイレーン』 1879年 ラッセルコーツ美術館&博物館所蔵
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ギュスターヴ・モロー 『オデュッセウスとセイレーンたち』 1885年頃 ギュスターヴ・モロー美術館所蔵
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ギュスターヴ・モロー 『詩人とセイレーン』 1893年 個人所蔵
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フェリックス・ジアン『セイレーンたちの呼び声』 19世紀 個人所蔵
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ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作『セイレーン』 1900年 個人所蔵
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フランチェスコ・プリマティッチオ 『セイレーンたちとユリシーズ』 1560年 個人所蔵
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グスタフ・ヴェルトハイマー 『セイレーンの口づけ』 1882年 インディアナポリス美術館所蔵
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レオン・ベリー 『セイレーンたちとユリシーズ』 1867年 サントメール市立美術館所蔵
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マリー=フランソワ・フィルマン=ジラール 『ユリシーズとセイレーンたち』 1868年頃 個人所蔵
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エドワード・アーミティジ 『セイレーン』 1888年 リーズ市立美術館所蔵
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ヘンリエッタ・レイ 『セイレーンたち』 1903年 個人所蔵
現代におけるセイレーン[編集]
セイレーンの名は、カート・ヴォネガットの小説『タイタンの妖女』の原題にも普通名詞として複数形で使用されている。
セイレーンはまた、アメリカ合衆国で創業したコーヒーチェーン店のスターバックスのロゴマークにも描かれている。そこでのセイレーンの下半身は魚で、鰭は二又に分かれている[4][33]。ロゴのデザインの参考になったのはギリシア神話ではなく、創業時のスタッフが見つけた、ノルウェーの古い木版画に描かれていた二又の鰭を持つセイレーンであるという[33][34]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ ab﹃図説ヨーロッパ怪物文化誌事典﹄108頁。
(二)^ ab﹃図説ヨーロッパ怪物文化誌事典﹄111頁。
(三)^ ﹃幻想世界の住人たち﹄201頁。
(四)^ abc﹃図説ヨーロッパ怪物文化誌事典﹄110頁。
(五)^ アポロドーロス、1巻3・4。
(六)^ abアポロドーロス、摘要︵E︶7・18。
(七)^ abヒュギーヌス、序。
(八)^ ヒュギーヌス、125話。
(九)^ ﹃アルゴナウティカ﹄4巻895行-896行。
(十)^ ノンノス﹃ディオニューソス譚﹄13巻313行。
(11)^ ウェルギリウス﹃アエネーイス﹄5巻864行へのセルウィウスの註。
(12)^ 高津春繁﹃ギリシア・ローマ神話辞典﹄100頁。
(13)^ アポロドーロス、1巻7・10。
(14)^ ab高津春繁﹃ギリシア・ローマ神話辞典﹄140頁。
(15)^ ab﹃世界幻想動物百科﹄224頁。
(16)^ マイケル・グラント﹃ギリシア・ローマ神話事典﹄277頁。
(17)^ カール・ケレーニイ、p.62-63。
(18)^ 呉茂一、254頁。
(19)^ ロバート・グレーヴス、170章s。
(20)^ フェリックス・ギラン、192頁。
(21)^ ﹃変身物語﹄5巻552行-563行。
(22)^ abヒュギーヌス、141話。
(23)^ パウサニアス、9巻34・3。
(24)^ ﹃オデュッセイア﹄12巻33行-126行。
(25)^ ヘーシオドス断片24︵﹃アルゴナウティカ﹄4巻892行への古註︶。
(26)^ ﹃アルゴナウティカ﹄4巻892行。
(27)^ ﹃オデュッセイア﹄12巻151行-200行。
(28)^ ﹃アルゴナウティカ﹄4巻891行-920行。
(29)^ ab﹃図説ヨーロッパ怪物文化誌事典﹄109頁。
(30)^ ﹃教会の怪物たち﹄120頁。
(31)^ ﹃教会の怪物たち﹄261頁-262頁。
(32)^ ﹃ドキドキ!モンスター博物館﹄42頁。
(33)^ abニナ・シェン・ラストギ (2011年1月7日). “スタバ新ロゴは脱コーヒー戦略の表れ?”. ニューズウィーク日本版 2015年11月10日閲覧。
(34)^ “スターバックスコーヒーのロゴデザインに隠された秘密 - 広報さんに聞いてみた”. マイナビニュース. (2013年3月31日) 2015年11月10日閲覧。