啓蒙書を批判するといふのは、わかりやすく傳へやうとする筆者の努力を無視して、内容の正誤だけを論じる高踏的なものである、といふ意見もわからないではないものの、一つの書物として扱つて何が惡いのかともおもふのであり、それに、私は著者の認識について論じたいのである。
言葉の問題は、文部官僚が考え出した案を上から押し付けるだけでは解
決しない。国民一人一人が考え実行してはじめて解決できる
といふのに、まづ疑問を呈したいのだが、この、﹁國語元年﹂或は﹁日本語元年﹂といふ﹁事態﹂は、まさに押しつけられて發生した事態であつた[1]。さうでなければ、ことさら人爲的に他人の言語に政策的に干渉する必要もなく、だからこそこれまでそんなことはなかつたのであつた。さうしたときに總意[2]としての言語を假想して作業することは可能だらうか。本書V章にもふれられてゐる通り、どの地方からも不満のでない共
通語なるものを短時間に作り上げることは、至難
どころか、だれからも滿足がいく理想的な、といふことで考へると、どれだけ時間をかけても不可能なのであり[3]、著者のこの感動的な書出しは、なんともあやしいものが滿ちてゐるといふことが知られよう。
言靈の世界の理解も皮相的である。話し言葉だけの社会では、言葉の威
力が極めて強かった。﹁無事ですよ﹂と高らかに宣言すれば、発せられ
た言葉どおりの状態を実現できると考えていた。
また、万葉集3254番の歌を……私が宣言したのですから大丈夫。
といふやうにするのは當らない。呪歌はさうあらしめんとしてうたふのであり、相手への強い働きかけである[4]。それを、言葉は、単なる記号ではなく、それが表
す状態を実現してしまう霊力を持っている
といふのは、素朴を古代に假託するやうな行爲ではないかと危ぶむ。
文字史の理解にも疑問があるが、取分け出来上がってそれなりに完成し
ている物を作り変えるという作業は、実は新品を作るよりもある意味で
は大変だということに、日本人は気づきませんでした。
といふ理解は危うく、次の行にというより、……すべてを取り入れ、吸収せざるを得な
かったといった方がいい
とはするものの、よくも考えずに日本が漢字を
借りてしまう
と書いてしまふのである。それなり、といふのも失禮な話であるし楷書が唐に至つて完成するまでもう僅かといふところなのだから、ほとんど完成に等しい状態で漢字が到來したのに違ひあるまいのだが、ただ﹁もし自分で文字を作るやうにできてゐたらよかつたのにねえ﹂といひたいだけなのを﹁よくも考へずに﹂などと書いたのならば、ひどい話である。すでにある文字の改變ではなく、創作がおこなはれたのはほとんどない[5]。しかも、古事記序の有名な語句をそのまま鵜呑みにしたやうに、借り物の漢字では、うまく日本語を書き表せないもどか
しさ苦しさが切々と語られています
といふのは、今後幾度か出てくる筆者の言文一致に對する考へかたがはじめて出てきたやうなものであるが、この文言は本文を見る限りにはかには信じがたいのである。歌謠が所謂万葉假名による表記であるのを捕へて、これだけは漢文にし得なかつたといふ人もゐるが、太安万侶の創作にかかる文體にだまされたのだらうと私は考へてゐる。
紙幅に制限はないが、かけられる時間には制限がある。230ページある本書の1/10に達してもゐないところだが、睡眠の都合があるのでやめにする。しかし、本書の最大の問題は、本文がリュウミン、帶は游築36ポ+リュウミンといふことである︵違︶。
[1] 小野光代﹁標準語の諸問題 日本の﹁国語﹂とドイツの“Nationalsprache”﹂関西外国語大学、関西外国語大学短期大学部﹃関西外国語大学研究論集﹄第78号、2003.8、pp. 57-73。
[2] ここに、總意とはだれの﹁總意﹂か、といふ問題が本來發生してをかしくないのだが、問はずにおく。
[3] ﹁標準語﹂と呼べるような理想的な言語など存在しません。存
在するのは、日本全国に通じる﹁共通語﹂なのです。
[4] 前期万葉の時代は、なお古代的な自然観の支配する時期であり、
人びとの意識は自然と融即的な関係のうちにあった。自然に対する態度
や行為によって、自然との交渉をよび起こし、霊的に機能させることが
可能であると考えられていたのである。
[5] 現在使はれてゐる文字體系で、ヒエログリフを淵源としない文字は漢字・トンパ文字・ハングル・假名くらゐである。それ以外はすべてヒエログリフの下に收る。A. C. ムーアハウス﹃文字の歴史﹄︵ねずまさし譯、岩波書店︿岩波新書﹀、1956.3︶のp. 96などを參照せよ。表意式から……いくつかの書体が存続している。これ
らにたいして一般的に﹁アルファベット以前﹂という言葉があてはまる
だろう。……漢字という例外を除くと、これらの書体は、すでにそれぞ
れ全盛時代を終り、今では古代史の資料の一部を形成しているにすぎな
い。
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