「上皇后美智子」の版間の差分
身位が「上皇后」であるため、他の皇族と表記を統一。また、即位をしているのではないため「在位」は不自然である。 タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
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[[File:Empress_Michiko_199011_1.jpg|thumb|210px|五衣・唐衣・裳姿の美智子]] |
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'''上皇后美智子'''(じょうこうごうみちこ、[[1934年]]〈[[昭和]]9年〉[[10月20日]] - )は、[[日本]]の[[皇族]]。第125代[[天皇]]・[[明仁]]の[[皇后]]。[[身位]]は[[上皇后]]。[[敬称]]は[[陛下]]<ref>[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]第四条第二項「上皇后に関しては、[[皇室典範]]に定める事項については、[[皇太后]]の例による。」</ref>。[[お印]]は[[白樺]]。[[勲等]]は[[勲一等]]。旧名は'''正田 美智子'''(しょうだ みちこ)。 |
'''上皇后美智子'''(じょうこうごうみちこ、[[1934年]]〈[[昭和]]9年〉[[10月20日]] - )は、[[日本]]の[[皇族]]。第125代[[天皇]]・[[明仁]]の[[皇后]]。[[身位]]は[[上皇后]]。[[敬称]]は[[陛下]]<ref>[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]第四条第二項「上皇后に関しては、[[皇室典範]]に定める事項については、[[皇太后]]の例による。」</ref>。[[お印]]は[[白樺]]。[[勲等]]は[[勲一等]]。旧名は'''正田 美智子'''(しょうだ みちこ)。 |
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[[徳仁|第126代・今上天皇(徳仁)]]の母。 |
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[[明治時代]]以降初めての民間出身<ref group="注釈">ただし、それ以前にも民間出身の皇后は多数存在する。皇族以外で初めて立后したのは、奈良時代の聖武天皇の后の[[光明皇后|光明皇后(藤原光明子)]]である。光明皇后は父親が[[藤原不比等]]、母親が県犬養橘三千代の、いずれも民間人の子である。それ以降、公家から皇后・中宮を出す慣例ができた。しかし、民間人の前例があるとはいえども、「庶民」から立后したのは上皇后美智子が初めてだと思われる。</ref><ref group="注釈">非[[皇族]]かつ非[[華族]]、旧[[士族]]以下の意。ただし、実家の正田家は[[源義家]]の孫[[源義重|新田義重]]の重臣[[生田重幸]]の子孫と伝わっており、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]まで遡ると家格は決して低くない{{要出典|date=2021年12月}}。</ref>の皇后ならびに皇族。現[[皇室典範]]下で立后した初めての皇后でもある。2019年の明仁の[[退位]]に伴い、新たに設けられた身位である'''[[上皇后]]'''となった。 |
[[明治時代]]以降初めての民間出身<ref group="注釈">ただし、それ以前にも民間出身の皇后は多数存在する。皇族以外で初めて立后したのは、奈良時代の聖武天皇の后の[[光明皇后|光明皇后(藤原光明子)]]である。光明皇后は父親が[[藤原不比等]]、母親が県犬養橘三千代の、いずれも民間人の子である。それ以降、公家から皇后・中宮を出す慣例ができた。しかし、民間人の前例があるとはいえども、「庶民」から立后したのは上皇后美智子が初めてだと思われる。</ref><ref group="注釈">非[[皇族]]かつ非[[華族]]、旧[[士族]]以下の意。ただし、実家の正田家は[[源義家]]の孫[[源義重|新田義重]]の重臣[[生田重幸]]の子孫と伝わっており、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]まで遡ると家格は決して低くない{{要出典|date=2021年12月}}。</ref>の皇后ならびに皇族。現[[皇室典範]]下で立后した初めての皇后でもある。2019年の明仁の[[退位]]に伴い、新たに設けられた身位である'''[[上皇后]]'''となった。 |
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一方、もと内親王であり、美智子妃の義理の姉にあたる[[東久邇成子]]より自宅のホームパーティーに招待されるなど、好意的な旧皇族も存在した。 |
一方、もと内親王であり、美智子妃の義理の姉にあたる[[東久邇成子]]より自宅のホームパーティーに招待されるなど、好意的な旧皇族も存在した。 |
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[[1960年]]︵昭和35年︶[[2月23日]]に第一子・第一男子[[徳仁|徳仁親王]]︵浩宮︶が誕生した。出産後、[[昭和天皇]]、[[香淳皇后]]より﹁ごくろうさまでした。しっかり、静養するように﹂と労いの言葉をかけられた。また、後の第126代天皇となる浩宮徳仁の命名は祖父・昭和天皇が行った。親王の存在は美智子妃の心の支えとなった。美智子妃は当時、側近である[[黒木従達]]東宮侍従に﹁どのようなときでも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの﹂との言葉を語っている。同年[[9月22日]] - [[10月7日]]、[[幕末]]より数えての[[日米修好通商条約|日米修好]]百周年を記念し、[[アメリカ合衆国連邦政府]]より招待され訪米。[[ホワイトハウス]]にも招待され、[[ドワイト・アイゼンハワー]]大統領夫妻と会談した。この折、浩宮は出生後7か月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称﹁[[ナルちゃん憲法]]﹂を与えて養育を委ねる。
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[[1960年]]︵昭和35年︶[[2月23日]]に[[坂元正一]]男性産婦人科医師を担当主治医として第一子・第一男子[[徳仁|徳仁親王]]︵浩宮︶が誕生した。出産後、[[昭和天皇]]、[[香淳皇后]]より﹁ごくろうさまでした。しっかり、静養するように﹂と労いの言葉をかけられた。また、後の第126代天皇となる浩宮徳仁の命名は祖父・昭和天皇が行った。親王の存在は美智子妃の心の支えとなった。美智子妃は当時、側近である[[黒木従達]]東宮侍従に﹁どのようなときでも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの﹂との言葉を語っている。同年[[9月22日]] - [[10月7日]]、[[幕末]]より数えての[[日米修好通商条約|日米修好]]百周年を記念し、[[アメリカ合衆国連邦政府]]より招待され訪米。[[ホワイトハウス]]にも招待され、[[ドワイト・アイゼンハワー]]大統領夫妻と会談した。この折、浩宮は出生後7か月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称﹁[[ナルちゃん憲法]]﹂を与えて養育を委ねる。
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[[1963年]](昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ<ref>『朝日新聞』1963年3月23日「美智子妃お疲れのかげに‥興味本位の雑誌記事 “守られぬ皇室の人権”」</ref>。1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同年3月10日の香淳皇后の還暦祝いを欠席し、同11日に[[小山いと子]]が美智子妃の生い立ちを書いた、雑誌『平凡』連載の小説『美智子さま』の連載と単行本発行中止を宮内庁が[[マガジンハウス|平凡出版]]に申し入れ、連載は中止された<ref name="itagaki34">{{Harv|板垣|2006|pp=34-40}}</ref>。直後の3月22日に[[宮内庁病院]]に緊急入院、[[胞状奇胎]]と診断され翌23日の午後に[[流産]]の処置手術が行われた<ref name="itagaki34" />。全国紙各紙は美智子妃の不調を週刊誌報道や小説問題と関連づけ、『平凡』ほか雑誌をバッシングしたが、胞状奇胎がストレスで起こることはなく、小説の内容は東宮御所筋から得ていたと小山は証言しており、対立する宮内庁側からの圧力とされる<ref name="itagaki34" />。このとき流産の件をある宮妃に責められることがあったため、その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月間ひとりで静養する事態となった<ref name="itagaki41">{{Harv|板垣|2006|pp=41-49}}</ref>。7月8日から皇太子・皇孫浩宮とともに軽井沢で過ごしたあと、9月1日に帰京し、9月13日の[[第18回国民体育大会]](山口国体)から、段階的に公務に復帰した。 |
[[1963年]](昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ<ref>『朝日新聞』1963年3月23日「美智子妃お疲れのかげに‥興味本位の雑誌記事 “守られぬ皇室の人権”」</ref>。1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同年3月10日の香淳皇后の還暦祝いを欠席し、同11日に[[小山いと子]]が美智子妃の生い立ちを書いた、雑誌『平凡』連載の小説『美智子さま』の連載と単行本発行中止を宮内庁が[[マガジンハウス|平凡出版]]に申し入れ、連載は中止された<ref name="itagaki34">{{Harv|板垣|2006|pp=34-40}}</ref>。直後の3月22日に[[宮内庁病院]]に緊急入院、[[胞状奇胎]]と診断され翌23日の午後に[[流産]]の処置手術が行われた<ref name="itagaki34" />。全国紙各紙は美智子妃の不調を週刊誌報道や小説問題と関連づけ、『平凡』ほか雑誌をバッシングしたが、胞状奇胎がストレスで起こることはなく、小説の内容は東宮御所筋から得ていたと小山は証言しており、対立する宮内庁側からの圧力とされる<ref name="itagaki34" />。このとき流産の件をある宮妃に責められることがあったため、その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月間ひとりで静養する事態となった<ref name="itagaki41">{{Harv|板垣|2006|pp=41-49}}</ref>。7月8日から皇太子・皇孫浩宮とともに軽井沢で過ごしたあと、9月1日に帰京し、9月13日の[[第18回国民体育大会]](山口国体)から、段階的に公務に復帰した。 |
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*妹・'''恵美子''' - [[昭和電工]]社長・[[安西孝之]]の夫人。 |
*妹・'''恵美子''' - [[昭和電工]]社長・[[安西孝之]]の夫人。 |
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* 弟:'''[[正田修]]''' - 日清製粉グループ本社取締役会長、[[東武鉄道]]監査役、[[花王]]取締役。夫人は[[華族]]・[[野津道貫]][[侯爵]]の孫。 |
* 弟:'''[[正田修]]''' - 日清製粉グループ本社取締役会長、[[東武鉄道]]監査役、[[花王]]取締役。夫人は[[華族]]・[[野津道貫]][[侯爵]]の孫。 |
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* 伯父‥'''[[正田建次郎]]''' - 数学者。[[大阪大学]]6代総長、[[武蔵大学]]学長、[[勲一等瑞宝章]]<ref>{{ |
* 伯父‥'''[[正田建次郎]]''' - 数学者。[[大阪大学]]6代総長、[[武蔵大学]]学長、[[勲一等瑞宝章]]<ref>{{Cite web|url=http://www.osaka-u.ac.jp/eng/about/history.html|title=History|accessdate=|publisher=University of Osaka|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090302001539/http://www.osaka-u.ac.jp/eng/about/history.html|archivedate=2009-03-02|url-status=dead|url-status-date=2018-04-16}}</ref>。
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* 従兄:'''[[正田彬]]''' - [[慶應義塾大学]]名誉教授、[[上智大学]]教授。[[公正取引委員会]]顧問。 |
* 従兄:'''[[正田彬]]''' - [[慶應義塾大学]]名誉教授、[[上智大学]]教授。[[公正取引委員会]]顧問。 |
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*従兄:'''[[脇村春夫]]''' - 東京大学助教授、[[東洋紡績]]専務。 |
*従兄:'''[[脇村春夫]]''' - 東京大学助教授、[[東洋紡績]]専務。 |
2024年7月5日 (金) 00:34時点における最新版
美智子 | |
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![]() 2016年(平成28年)1月26日 撮影 | |
第125代天皇后 | |
皇后 | 1989年(昭和64年)1月7日 |
上皇后 | 2019年(令和元年)5月1日 |
誕生 |
1934年10月20日(89歳)![]() (現:東京都文京区本郷) 東京帝国大学医学部附属病院 |
諱 | 美智子(みちこ) |
旧名 | 正田 美智子(しょうだ みちこ) |
印 | 白樺 |
氏族 | 正田家 |
父親 | 正田英三郎 |
母親 | 正田富美子 |
配偶者 | 明仁(第125代天皇・上皇) |
結婚 | 1959年(昭和34年)4月10日 |
子女 | |
身位 |
上皇后 (←皇后) (←皇太子妃) |
栄典 |
一覧参照
|
役職 | |
皇居 |
皇居 御所 東京都千代田区千代田1-1 |
称号:上皇后 | |
---|---|
![]() | |
敬称 |
陛下 Her Majesty the Empress Emerita[1] |
皇室 |
---|
![]() |
|
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/50/Empress_Michiko_199011_1.jpg/210px-Empress_Michiko_199011_1.jpg)
来歴[編集]
少女時代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/62/Shoda_Michiko_1940.jpg/200px-Shoda_Michiko_1940.jpg)
結婚への反発[編集]
皇太子妃時代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/10/Crown_Prince_%26_Princess_%26_Emperor_Showa_%26_Empress_Kojun_wedding_1959-4.jpg/220px-Crown_Prince_%26_Princess_%26_Emperor_Showa_%26_Empress_Kojun_wedding_1959-4.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/3/30/Michiko_at_NMWA_1960.jpeg/160px-Michiko_at_NMWA_1960.jpeg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a3/Staatsbezoek_Japans_kroonprinselijk_paar.jpg/220px-Staatsbezoek_Japans_kroonprinselijk_paar.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5b/Yo-Yo_Ma_performs_for_President_Ronald_Reagan.jpg/220px-Yo-Yo_Ma_performs_for_President_Ronald_Reagan.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c6/031164_-_Crown_Prince_and_Empress_meet_teams_Tokyo_Games_-_3b_-_Scan.jpg/220px-031164_-_Crown_Prince_and_Empress_meet_teams_Tokyo_Games_-_3b_-_Scan.jpg)
皇后時代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Empress_Michiko.jpg/180px-Empress_Michiko.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fb/Laura_Bush_Asia_Trip_2002_01.jpg/180px-Laura_Bush_Asia_Trip_2002_01.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6e/Akihito_090710-1600a.jpg/180px-Akihito_090710-1600a.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b7/Emperor_Akihito_and_Empress_Michiko_20090715_1.jpg/220px-Emperor_Akihito_and_Empress_Michiko_20090715_1.jpg)
上皇后時代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ee/The_Imperial_Family_of_Japan%2C_2021.jpg/220px-The_Imperial_Family_of_Japan%2C_2021.jpg)
年譜[編集]
●1934年︵昭和9年︶10月20日、東京府東京市本郷区︵現・東京都文京区本郷︶の東京帝国大学医学部附属病院にて誕生。 ●1939年︵昭和14年︶、大和郷幼稚園に入園︵文京区本駒込︶。 ●1939年︵昭和14年︶、雙葉学園雙葉小学校附属幼稚園に編入園︵千代田区六番町︶。 ●1941年︵昭和16年︶、雙葉学園雙葉小学校に入学。 ●1944年︵昭和19年︶、乃木高等女学校附属小学校︵現・湘南白百合学園小学校︶に編入学︵神奈川県藤沢市︶。 ●館林南国民学校︵現・館林市立第二小学校︶に編入学。 ●1945年︵昭和20年︶5月、軽井沢第一国民学校︵現・軽井沢町立東部小学校︶に編入学。 ●1947年︵昭和22年︶3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業。 ●1953年︵昭和28年︶3月、聖心女子学院中等科を卒業。 ●1955年︵昭和30年︶3月、聖心女子学院高等科を卒業。 ●1957年︵昭和32年︶、聖心女子大学文学部外国語外国文学科︵現・英語英文学科英語英文学専攻︶を卒業。 ●1959年︵昭和34年︶4月10日、皇太子明仁親王︵当時︶と成婚。皇太子妃冊立。 ●同日付で勲一等宝冠章を受章。 ●1960年︵昭和35年︶2月23日、浩宮徳仁親王︵第1子/長男、第126代天皇︶を出産。 ●1965年︵昭和40年︶11月30日、礼宮文仁親王︵第2子/次男、秋篠宮︶を出産。 ●1969年︵昭和44年︶4月18日、紀宮清子内親王︵第3子/長女、黒田清子︶を出産。 ●1989年︵昭和64年︶1月7日、義父の昭和天皇崩御。皇太子明仁親王の皇位継承による第125代天皇践祚に伴い皇后冊立︵立后︶。 ●2019年︵令和元年︶5月1日、明仁の退位に伴い︵皇室典範特例法による上皇︶、上皇后となる。外国訪問[編集]
単独訪問[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/71/Akihito_and_Michiko_at_Andrews_Air_Force_Base_1987.jpg/220px-Akihito_and_Michiko_at_Andrews_Air_Force_Base_1987.jpg)
![スイスの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f3/Flag_of_Switzerland.svg/20px-Flag_of_Switzerland.svg.png)
![ベルギーの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Flag_of_Belgium.svg/23px-Flag_of_Belgium.svg.png)
明仁との訪問[編集]
皇太子妃時代[編集]
年 | 出国 | 帰国 | 訪問地 | 同行 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1953 | 3月30日 | 10月12日 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() (立寄りした国は合計13カ国) |
英エリザベス2世女王戴冠式参列、天皇名代 | |
1960 | 9月22日 | 10月 | 7日![]() |
皇太子妃 | 日米修好100年記念 |
11月12日 | 12月 | 9日![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
皇太子妃 | 国際親善(名代) | |
1962 | 1月22日 | 2月10日 | ![]() ![]() |
皇太子妃 | 国際親善(名代) |
11月 | 5日11月10日 | ![]() |
皇太子妃 | 国際親善(名代) | |
1964 | 5月10日 | 5月17日 | ![]() ![]() |
皇太子妃 | 国際親善(名代) |
12月14日 | 12月21日 | ![]() |
皇太子妃 | 国際親善(名代) | |
1967 | 5月 9日 | 5月31日 | ![]() ![]() ![]() |
皇太子妃 | 国際親善(名代) |
1970 | 2月19日 | 2月28日 | ![]() ![]() |
皇太子妃 | 国際親善 |
1971 | 6月 3日 | 6月12日 | ![]() ![]() ![]() |
皇太子妃 | 国際親善(名代) |
1973 | 5月 6日 | 5月23日 | ![]() ![]() |
皇太子妃 | 国際親善 |
10月11日 | 10月22日 | ![]() ![]() ![]() |
皇太子妃 | 国際親善 | |
1975 | 2月20日 | 2月28日 | ![]() ![]() ![]() |
皇太子妃 | ネパール国王戴冠式参列 |
1976 | 6月 8日 | 6月25日 | ![]() ![]() ![]() ![]() |
皇太子妃 | 国際親善 |
1978 | 6月12日 | 6月27日 | ![]() ![]() ![]() |
皇太子妃 | ブラジル移住70周年記念式典参列 |
1979 | 10月 | 5日10月14日 | ![]() ![]() ![]() ![]() |
皇太子妃 | 国際親善 |
1981 | 2月27日 | 3月 7日 | ![]() ![]() ![]() ![]() |
皇太子妃 | 国際親善 |
7月26日 | 8月 2日 | ![]() ![]() |
皇太子妃 | 英チャールズ皇太子結婚参列 差遣 | |
1983 | 3月10日 | 3月25日 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
皇太子妃 | 国際親善 |
1984 | 2月25日 | 3月 8日 | ![]() ![]() ![]() ![]() |
皇太子妃 | 国際親善 |
1985 | 2月23日 | 3月 9日 | ![]() ![]() ![]() ![]() |
皇太子妃 | 国際親善 |
6月 1日 | 6月15日 | ![]() ![]() ![]() ![]() |
皇太子妃 | 国際親善 | |
1987 | 10月 | 3日10月10日 | ![]() |
皇太子妃 | 国際親善 |
皇后時代[編集]
年 | 出国 | 帰国 | 訪問地 | 同行 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1991年 (平成3) |
9月26日 | 10月 | 6日![]() ![]() ![]() |
皇后 | 国際親善 各国からの招待 |
1992年 (平成4) |
10月23日 | 10月28日 | ![]() |
皇后 | 国際親善 中国からの招待 |
1993年 (平成5) |
8月 6日 | 8月 9日 | ![]() |
皇后 | 国王ボードゥアン1世の国葬参列 |
9月 3日 | 9月19日 | ![]() ![]() ![]() ![]() |
皇后 | 国際親善 各国からの招待 | |
1994年 (平成6) |
6月10日 | 6月26日 | ![]() |
皇后 | 国際親善 アメリカからの招待 |
10月 | 2日10月14日 | ![]() ![]() ![]() |
皇后 | 国際親善 両国からの招待 | |
1997年 (平成9) |
5月30日 | 6月13日 | ![]() ![]() ![]() ![]() |
皇后 | 国際親善 両国からの招待 |
1998年 (平成10) |
5月23日 | 6月 5日 | ![]() ![]() ![]() |
皇后 | 国際親善 両国からの招待 |
2000年 (平成12) |
5月20日 | 6月 1日 | ![]() ![]() ![]() ![]() |
皇后 | 国際親善 両国からの招待 |
2002年 (平成14) |
7月 6日 | 7月20日 | ![]() ![]() ![]() ![]() |
皇后 | 国際親善 両国からの招待 |
2005年 (平成17) |
5月 7日 | 5月14日 | ![]() ![]() |
皇后 | 国際親善 ノルウェーからの招待 |
6月27日 | 6月28日 | ![]() |
皇后 | 平和祈念 戦没者慰霊 | |
2006年 (平成18) |
6月 8日 | 6月15日 | ![]() ![]() ![]() |
皇后 | 国際親善 シンガポールからの招待 タイ国王即位60年記念式典臨席 |
2007年 (平成19) |
5月21日 | 5月30日 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
皇后 | 国際親善 各国からの招待[44] |
2009年 (平成21) |
7月 3日 | 7月17日 | ![]() ![]() |
皇后 | 国際親善 カナダからの招待 ハワイ州皇太子明仁親王奨学金財団50周年記念行事[45] |
2012年 (平成24) |
5月16日 | 5月20日 | ![]() |
皇后 | 女王エリザベス2世即位60周年の記念午餐会招待[46] |
2013年 (平成25) |
11月30日 | 12月 | 6日![]() |
皇后 | 国際親善 インド政府からの招待[47] |
2015年 (平成27) |
4月 8日 | 4月 9日 | ![]() |
皇后 | 戦没者慰霊 平和祈念 パラオ国の招請[48] |
2016年 (平成28) |
1月27日 | 1月30日 | ![]() |
皇后 | 国際親善 フィリピン政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念[49] |
2017年 (平成29) |
2月28日 | 3月 6日 | ![]() ![]() |
皇后 | 国際親善 ベトナム政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念 タイ国前国王プミポン・アドゥンヤデートの弔問[50] |
皇子孫[編集]
皇子女[編集]
諱 | 誕生時の身位 | 生年月日 | 御称号 | 続柄 | 現在[51] | |
---|---|---|---|---|---|---|
![]() |
親王 | 昭和35年(1960年) 2月23日(64歳) |
第1皇男子(第1子) | 今上天皇(第126代天皇) 小和田雅子と結婚。后妃:皇后雅子 子女:1女(1人)。 | ||
![]() |
親王 | 昭和40年(1965年) 11月30日(58歳) |
第2皇男子(第2子) | 秋篠宮文仁親王 秋篠宮家(あきしののみや)当主かつ皇嗣(皇位継承順位第1位) 川嶋紀子と結婚。后妃:(皇嗣妃) 文仁親王妃紀子 子女:1男2女(3人)。 | ||
![]() |
内親王 | 昭和44年(1969年) 4月18日(55歳) |
第1皇女子(第3子) | 黒田慶樹と結婚。 黒田家に降嫁し皇籍離脱[52]以後、黒田清子(姓読み:くろだ)。 子女:無し。 |
皇孫[編集]
1男3女の孫がいる。
諱 | 誕生時の身位 | 生年月日 | 御称号 | 続柄 | 現在[51] | |
---|---|---|---|---|---|---|
![]() |
内親王 | 平成13年(2001年) 12月1日(22歳) |
今上天皇第1皇女子(第1子) | |||
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内親王 | 平成3年(1991年) 10月23日(32歳) |
皇嗣秋篠宮文仁親王第1女子(第1子) | 小室圭と結婚。 小室家に降嫁し皇籍離脱[52]以後、小室眞子(姓読み:こむろ)。 子女:無し。 | ||
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内親王 | 平成6年(1994年) 12月29日(29歳) |
皇嗣秋篠宮文仁親王第2女子(第2子) | |||
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親王 | 平成18年(2006年) 9月6日(17歳) |
皇嗣秋篠宮文仁親王第1男子(第3子) | 皇位継承順位第2位 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f5/Crown_Prince_Akihito_and_Crown_Princess_Michiko_with_three_children%3B_Prince_Naruhito%2C_Prince_Fumihito_and_Princess_Sayako._%28September_1969%29.jpg/220px-Crown_Prince_Akihito_and_Crown_Princess_Michiko_with_three_children%3B_Prince_Naruhito%2C_Prince_Fumihito_and_Princess_Sayako._%28September_1969%29.jpg)
生家・正田家[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c8/Syouda_Family.jpg/320px-Syouda_Family.jpg)
系譜[編集]
●﹃正田貞一郎小伝﹄9 - 21頁によると、 ●﹁徳川家の菩提所である群馬県新田郡世良田長楽寺の伝えるところによれば、正田家の祖先は新田義重の家臣生田隼人[注釈 7]となっている。天正年間、生田義豊は徳川家康に謁し、新田、徳川の郷土に関する旧記由緒を上申して知行を受け、命により生田を正田と改めた。 ●後世、世良田にいた正田家の人が館林に移って商人となり、これが館林における正田家の始まりである。それは、延享、寛政のころといわれ、四代を経て正田文右衛門と称し、以後累代これを襲名した。 ●正田家は代々﹁米文﹂の暖簾のもとに米問屋を家業とし、上州館林藩および近郊きっての富商であった。﹁米文﹂の名声は江戸はいうまでもなく、大阪方面まで聞こえていた。弘化のころ︵1844年 - 1847年︶には名主の職にあり、名字帯刀を許されていた。 ●文政元年︵1818年︶7月に生まれた文右衛門︵3代目︶は正田家﹁中興の祖﹂といわれている。文右衛門は明治6年︵1873年︶米穀商を辞め、醤油醸造業を始めたという。 ●神一行 ﹃閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜﹄︵角川書店、2002年︶385-386頁によると、 ●﹁そもそも正田家のルーツは群馬県館林の在。“開かれた皇室”を実現すべく、皇太子妃を選ぶにあたって尽力した小泉信三は、正田家を300年前までさかのぼって調べたという。 ●郷土史家によれば﹁正田家の祖先は源義家の孫、新田義重の重臣、生田隼人[注釈 7]までいきあたる﹂というが、入手した文献で確認できるのは、300年前の庄田六三郎︵天和2年没︶からである。 ●この六三郎が館林における正田家の始祖である。四代を経て正田文右衛門という人物が登場し、庄田を正田にあらため以後代々、正田家の当主は文右衛門を襲名するに至っている。江戸時代は﹁米文﹂の屋号で代々米問屋を営んでいたようで、江戸深川や大阪堂島の米相場を動かす、近郊きっての豪商だったと伝えられる。大繁盛した米問屋であったが、明治6年、正田英三郎の曾祖父にあたる三代目文右衛門は突然家業をやめ、﹁亀甲正﹂という商号で新しく醤油醸造業を始めたという。正田家の系図[編集]
文右衛門(3代目) |
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文右衛門(4代目) |
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文右衛門(5代目) |
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きぬ |
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明一郎 |
| はる |
| 建次郎 |
| ? |
| 勅子 |
| 英三郎 |
| 冨美子 |
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| 祐子 |
| 順四郎 |
| 篤五郎 |
| 和子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 彬 |
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| 巌 |
| 美智子 |
| 恵美子 |
| 修 |
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正田邸[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5a/Shoda_Mansion_in_1958.jpg/200px-Shoda_Mansion_in_1958.jpg)
栄典[編集]
日本[編集]
●勲一等宝冠章︵宝冠大綬章︶ -![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/56/JPN_Hokan-sho_1Class_BAR.svg/55px-JPN_Hokan-sho_1Class_BAR.svg.png)
外国[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8d/Emblem_of_Japanese_Empress_%28Order_of_Charles_III%29.svg/200px-Emblem_of_Japanese_Empress_%28Order_of_Charles_III%29.svg.png)
![オーストリアの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/41/Flag_of_Austria.svg/25px-Flag_of_Austria.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a5/AUT_Honour_for_Services_to_the_Republic_of_Austria_-_1st_Class_BAR.png/55px-AUT_Honour_for_Services_to_the_Republic_of_Austria_-_1st_Class_BAR.png)
![ベルギーの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Flag_of_Belgium.svg/23px-Flag_of_Belgium.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a5/Ordre_de_L%C3%A9opold_GC_ribbon.svg/55px-Ordre_de_L%C3%A9opold_GC_ribbon.svg.png)
![デンマークの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9c/Flag_of_Denmark.svg/25px-Flag_of_Denmark.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e4/Order_of_the_Elephant_Ribbon_bar.svg/55px-Order_of_the_Elephant_Ribbon_bar.svg.png)
![エチオピアの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Flag_of_Ethiopia_%281897%E2%80%931974%29.svg/25px-Flag_of_Ethiopia_%281897%E2%80%931974%29.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d2/Order_of_The_Queen_of_Sheba_%28Ethiopia%29_ribbon.gif/55px-Order_of_The_Queen_of_Sheba_%28Ethiopia%29_ribbon.gif)
![ドイツの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/ba/Flag_of_Germany.svg/25px-Flag_of_Germany.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/92/GER_Bundesverdienstkreuz_9_Sond_des_Grosskreuzes.svg/55px-GER_Bundesverdienstkreuz_9_Sond_des_Grosskreuzes.svg.png)
![リトアニアの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/11/Flag_of_Lithuania.svg/25px-Flag_of_Lithuania.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/32/LTU_Order_of_Vytautas_the_Great_-_Grand_Cross_BAR.png/55px-LTU_Order_of_Vytautas_the_Great_-_Grand_Cross_BAR.png)
![ルクセンブルクの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/da/Flag_of_Luxembourg.svg/25px-Flag_of_Luxembourg.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a6/Ord.Lion.Nassau.jpg/55px-Ord.Lion.Nassau.jpg)
![マレーシアの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/66/Flag_of_Malaysia.svg/25px-Flag_of_Malaysia.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a9/MY_Darjah_Utama_Seri_Mahkota_Negara_%28Crown_of_the_Realm%29_-_DMN.svg/55px-MY_Darjah_Utama_Seri_Mahkota_Negara_%28Crown_of_the_Realm%29_-_DMN.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/72/Flag_of_Nepal_%281743%E2%80%931962%29.svg/13px-Flag_of_Nepal_%281743%E2%80%931962%29.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8f/Ord.Rajanya.Nepal-Ribbon.gif/55px-Ord.Rajanya.Nepal-Ribbon.gif)
![オランダの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/20/Flag_of_the_Netherlands.svg/25px-Flag_of_the_Netherlands.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a1/NLD_Order_of_the_Dutch_Lion_-_Grand_Cross_BAR.png/55px-NLD_Order_of_the_Dutch_Lion_-_Grand_Cross_BAR.png)
![ノルウェーの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d9/Flag_of_Norway.svg/25px-Flag_of_Norway.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/57/St_Olavs_Orden_storkors_stripe.svg/55px-St_Olavs_Orden_storkors_stripe.svg.png)
![フィリピンの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/99/Flag_of_the_Philippines.svg/25px-Flag_of_the_Philippines.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d2/PHL_Order_of_Gabriela_Silang.png/55px-PHL_Order_of_Gabriela_Silang.png)
![ポーランドの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/12/Flag_of_Poland.svg/25px-Flag_of_Poland.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b9/POL_Order_Or%C5%82a_Bia%C5%82ego_BAR.svg/55px-POL_Order_Or%C5%82a_Bia%C5%82ego_BAR.svg.png)
![ポルトガルの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5c/Flag_of_Portugal.svg/25px-Flag_of_Portugal.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/19/PRT_Order_of_Prince_Henry_-_Grand_Cross_BAR.png/55px-PRT_Order_of_Prince_Henry_-_Grand_Cross_BAR.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/21/PRT_Order_of_Saint_James_of_the_Sword_-_Grand_Cross_BAR.svg/55px-PRT_Order_of_Saint_James_of_the_Sword_-_Grand_Cross_BAR.svg.png)
![スペインの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9a/Flag_of_Spain.svg/25px-Flag_of_Spain.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1c/ESP_Isabella_Catholic_Order_GC.svg/55px-ESP_Isabella_Catholic_Order_GC.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/89/ESP_Charles_III_Order_GC.svg/55px-ESP_Charles_III_Order_GC.svg.png)
![スウェーデンの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Flag_of_Sweden.svg/25px-Flag_of_Sweden.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c7/Order_of_the_Seraphim_-_Ribbon_bar.svg/55px-Order_of_the_Seraphim_-_Ribbon_bar.svg.png)
![ギリシャの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5c/Flag_of_Greece.svg/25px-Flag_of_Greece.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/41/GRE_Order_Redeemer_1Class.png/55px-GRE_Order_Redeemer_1Class.png)
![タイ王国の旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a9/Flag_of_Thailand.svg/25px-Flag_of_Thailand.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cf/Order_of_the_Royal_House_of_Chakri_%28Thailand%29_ribbon.svg/55px-Order_of_the_Royal_House_of_Chakri_%28Thailand%29_ribbon.svg.png)
![モロッコの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2c/Flag_of_Morocco.svg/25px-Flag_of_Morocco.svg.png)
名誉役職[編集]
●日本赤十字社名誉総裁[93][94]‥1989年︵昭和64年︶1月7日 – 2019年︵平成31年︶4月30日 ●国際児童図書評議会名誉総裁 ●国際児童図書館名誉会員著作[編集]
和歌・発言集[編集]
●﹃ともしび-皇太子同妃両殿下御歌集﹄ 宮内庁東宮職編、婦人画報社、1986年12月 ●﹃瀬音-皇后陛下御歌集﹄ 大東出版社、1997年4月、ISBN 4-500-00633-8 / 新装版 2007年、ISBN 978-4-500-00724-0 ●﹃あゆみ-皇后陛下お言葉集﹄ 宮内庁侍従職監修、海竜社、2005年10月、ISBN 4759309004 ●改訂版 2010年3月、ISBN 978-4-7593-1097-9/増訂版 2019年3月、ISBN 978-4-7593-1617-9 ●﹃道--天皇陛下御即位十年記念記録集﹄ 宮内庁編、日本放送出版協会、1999年10月 ISBN 4-14-080467-X / 新装版 2009年、ISBN 978-4-14-081390-4 ●﹃道--天皇陛下御即位二十年記念記録集﹄ 宮内庁編、日本放送出版協会、2009年9月、ISBN 978-4-14-081389-8 ●﹃道--天皇陛下御即位三十年記念記録集﹄ 宮内庁編、NHK出版、2019年3月、ISBN 978-4-14-081775-9児童関連楽曲・書籍[編集]
●﹃はじめての やまのぼり﹄絵・武田和子 至光社 1991年、ISBN 9784783401995 ●﹃五木の子守唄 鮫島有美子﹄ Denon、1992年︵作詞した﹁ねむの木の子守歌﹂を収録︶ ●﹃愛のゆりかご 日本の子守歌﹄ 中目徹編、東亜音楽社、1995年︵楽譜、19曲目に作詞曲を収録︶ ●﹃どうぶつたち (The Animals)‥まど・みちお詩集﹄ 選・英訳‥皇后美智子、絵‥安野光雅、すえもりブックス、1992年9月、ISBN 978-4-915777-06-6 ●﹃ふしぎなポケット (The Magic Pocket)‥まど・みちお詩集﹄ 選・英訳‥皇后美智子、絵‥安野光雅、すえもりブックス、1998年6月、ISBN 4-915777-21-9 ●﹃橋をかける--子供時代の読書の思い出﹄ すえもりブックス、1998年11月 ISBN 4-915777-22-7 / 文春文庫特装版、2009年4月、ISBN 978-4-16-775381-8 ●﹃バーゼルより--子どもと本を結ぶ人たちへ﹄ すえもりブックス、2003年2月、ISBN 4-915777-34-0︵第2版︶作詞[編集]
●ねむの木の子守歌︵作曲‥山本正美︶ ●1966年、吉永小百合︵ビクター︶と梓みちよ︵キング︶、天地総子︵コロムビア︶の競作でシングルレコードとして発売。 ●鮫島有美子や横内美知代をはじめ多くの歌手にカバーされている。逸話[編集]
少女時代[編集]
●非常に優れた運動神経の持ち主で、学生時代にはリレーの選手などに選ばれることが多かった。この当時は勝気な性格であったと伝えられる。 ●学生時代に学校において出会ったアイルランド人のカトリック教会修道女たちに深い思いを寄せており、一人ひとりの顔と名前を今なお鮮明に思い出すことができるという。 ●10代の頃、終戦後に発刊された少女雑誌﹃ひまわり﹄の読者欄に自作の詩を投稿し続けていた時期があり、同じ常連の投稿者には同い年の中村メイコがいて、お互いに顔や人物を見知らぬままに一席二席を競う好敵手の間柄であった。正田美智子︵当時︶の作品の印象は、中村には﹁とっても綺麗なしっとりとした良い詩﹂であった。後々になって中村は、投稿時に詩の選者をしていた竹内てるよから告げられて、かつて同誌上で一席二席に名前を並べていた少女が皇太子妃殿下︵当時︶と同一人物であることを知ったという[95]。天皇に関するもの[編集]
●2009年︵平成21年︶11月6日に皇居の宮殿石橋の間で行われた﹁天皇陛下御即位二十年に際しての天皇皇后両陛下の記者会見﹂での自身の発言より。 ●﹁戦後新憲法︵日本国憲法第1章︶により、天皇のご存在が﹃象徴﹄という、私にとっては不思議な言葉で示された1947年︵昭和22年︶、私はまだ中学に入ったばかりで、これを理解することは難しく、何となく意味の深そうなその言葉を、ただそのままに受け止めておりました。御所に上がって50年がたちますが、﹃象徴﹄の意味は、今も言葉には表し難く、ただ、陛下︵=自身の夫︶が﹃国の象徴﹄また﹃国民統合の象徴﹄としての在り方を絶えず模索され、そのことをお考えになりつつ、それにふさわしくあろうと努めておられたお姿の中に、常にそれを感じてきたとのみ、答えさせていただきます。﹂[96]。皇后に関するもの[編集]
●2002年︵平成14年︶10月20日、自身の68歳の誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書での回答[33]より。 ●﹁皇后の役割の変化ということが折々に言われますが、私はその都度、明治の開国期に、激しい時代の変化の中で、皇后としての役割をお果たしになった昭憲皇太后のお上を思わずにはいられません。﹂ ●﹁御服装も、それまでの五衣や袿袴に、皇室史上初めて西欧の正装が加えられ、宝冠を着け、お靴を召されました。そのどちらの御服装の時にも、毅然としてお美しいことに胸を打たれます。外国人との交際も、それまでの皇室に前例のないことでした。新しい時代の女子教育にもたずさわられ、日本初期の留学生、津田梅子、大山捨松、石井筆子始め一人一人の上に、当時の皇后様のお気持ちが寄せられていたと思われます。皇室における赤十字との関係も明治の時代に作られました。﹂ ●﹁欧化思想とそれに抗する思想との渦巻く中で、日本の伝統を守りつつ、広く世界に御目を向けられた昭憲皇太后の御時代に、近代の皇后のあり方の基本が定まり、その後、貞明皇后、香淳皇后がそれぞれの時代の要請にこたえ、さらに沢山の新しい役割をお果たしになりました。どの時代にも皇后様方のお上に、歴代初めての体験がおありになり、近年では、香淳皇后の、皇后のお立場での外国御訪問が、皇室史上例のない画期的なことでございました。先の時代を歩まれた皇后様方のお上を思いつつ、私にも時の変化に耐える力と、変化の中で判断を誤らぬ力が与えられるよう、いつも祈っています。﹂女性皇族に関するもの[編集]
●2002年︵平成14年︶10月20日、自身の68歳の誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書での回答[33]より。 ●﹁これからの女性皇族に何を望むかという質問ですが、人は皆個性を持っていることであり、どなたに対しても類型的な皇族像を求めるべきではないと思います。それぞれの方らしく、御自分の求める女性像を、時と思いをかけて完成していっていただくことが望ましいのではないでしょうか。そして皇室の長い間のしきたりであり、また、日本人のしきたりでもある御先祖のお祀りを皆して大切にし、これまでどおり、それぞれのなさり方で陛下をお支えになって下されば、私は大層心強く思います。﹂成婚に関するもの[編集]
●1955年︵昭和30年︶- 1956年︵昭和31年︶ごろ、東京・銀座の小料理店﹁井上﹂2階にて、独身時代の三島由紀夫と見合い風の対面をしている︵同店女将・井上つる江談。[97][98][99]) ●三島は﹁こんなに素晴らしい女性はいない﹂と前向きであったが、破談となり大いに傷ついたという。後に成婚パレードで馬車に向かって投石した少年について、三島は﹁僕には気持ちがわかる﹂としたためている[100]。 ●皇室に嫁ぐ際、お印が白樺に決まると、実家の庭に軽井沢から取り寄せたその苗木を自ら植えた[21]。 ●成婚に際しては作曲家の團伊玖磨が﹁祝典行進曲﹂を作曲した。この曲はのちに長女の紀宮清子内親王が民間家庭へ降嫁する際、皇居から帝国ホテルへ出発する内親王を送迎するためにも演奏された。 ●国民から盛大な歓迎と祝福を受けたが、このことに関し2004年︵平成16年︶の誕生日に次のように発表した[101]。 ●﹁私は今でも、昭和34年のご成婚の日のお馬車の列で、沿道の人々から受けた温かい祝福を、感謝とともに思い返すことがよくあります。東宮妃として、あの日、民間から私を受け入れた皇室と、その長い歴史に、傷をつけてはならないという重い責任感とともに、あの同じ日に、私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大勢の方々の期待を無にし、私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもまた、その後の歳月、私の中に、常にあったと思います﹂。 ●結婚の儀当日天皇から授けられた守り刀は、1955年︵昭和30年︶に、刀剣では最初の重要無形文化財保持者︵人間国宝︶に認定された刀工高橋貞次の作。浩宮徳仁親王・礼宮文仁親王の守り刀も彼の作である。家庭・育児に関するもの[編集]
●成婚時に﹁殿下にお料理を作って差し上げたい﹂と希望し、新造の東宮御所奥公室に小さな厨房を設置。のちに幼少期の浩宮徳仁親王、礼宮文仁親王、紀宮清子内親王らの離乳食や弁当もこの厨房で自ら作ったこともある。 ●皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止。3人の子をすべて自らの手で育てた。とりわけ浩宮徳仁親王は誕生に際し、母子手帳が発給されたことでも知られ、﹁乳が足りない際には︵乳母を立てず︶人工栄養で育てるよう﹂指示がなされた。なお、のちの礼宮文仁親王、紀宮清子内親王の誕生の際には︵母親学級に参加する際の警備上の問題などもあって︶、母子手帳の発給を受けることはなかった。 ●いわゆる﹁ナルちゃん憲法﹂に関して、皇后自身は﹁書き溜めたメモの溜まったものに過ぎない﹂としている[101]。祭祀・公務などに関するもの[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/16/TennoTanjobiM1085_detail.jpg/220px-TennoTanjobiM1085_detail.jpg)
他の妃・皇孫に対するもの[編集]
●自身の嫁にあたる皇后雅子は同じく旧皇族・旧華族以外の出身であり、彼女に対してそれまでの自分の経験を話し、助言をしていると言われている。彼女の皇太子徳仁親王︵当時︶との婚約が内定した際には、﹁またひとつ宝物が増えました﹂との感想を発表している。 ●皇太子徳仁親王︵当時︶の結婚の際には、皇太子妃雅子︵当時︶にルビーの指輪を贈った。この指輪は自身の結婚の際、姑の香淳皇后から贈られたものであった。また、秋篠宮文仁親王の結婚の際には、同妃紀子に真珠の指輪を贈った。 ●2006年︵平成18年︶2月、秋篠宮妃紀子の第三子懐妊時には、友人に秋篠宮および同妃が、一人で悩んでいる天皇の胸中を思って懐妊を決断したのだろうという、天皇への思いを語ったとされる。また、紀子妃が前置胎盤で帝王切開が必要なことが分かると、それを心配する言葉を寄せた。 ●無事に自身の4人目の孫にあたる悠仁親王が誕生すると、祖母の皇后は白いベビーシューズを携えて見舞いに訪れた。このベビーシューズは秋篠宮家で大切に保管されていたとみられ、悠仁親王の1歳の誕生日写真においてソファ脇の机に飾られていた[104]。 ●また、同年の誕生日においては、敬宮愛子内親王との面会や彼女の﹁着袴の儀﹂を楽しみにしている旨を発表[105]。なお、この年を境に、コメント・会見の際に﹁敬宮︵読み‥としのみや︶﹂と呼ばずに﹁愛子︵読み‥あいこ︶﹂と呼んでいる。その他[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9f/Rosa_%27Princess_Michiko%27_1966.jpg/180px-Rosa_%27Princess_Michiko%27_1966.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4a/Nancy_Reagan_in_red_with_Princess_Michiko.jpg/180px-Nancy_Reagan_in_red_with_Princess_Michiko.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/Shoda_Michiko1958.jpg/200px-Shoda_Michiko1958.jpg)
発言[編集]
成婚前・皇太子妃時代︵昭和︶[編集]
●﹁とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました﹂ - 1958年︵昭和33年︶11月27日、婚約決定記者会見での明仁親王評。 ●﹁難しいこともたくさんありましたし、辛いこともあります。いつになったら慣れるのか見当がつきません。︵中略︶時には八方ふさがりのような気持ちになることもあります﹂ - 1960年︵昭和35年︶4月11日、結婚一周年の記者会見で。 ●﹁わたくしも差し上げるのならお点ではなく、感謝状を﹂ - 1984年︵昭和59年︶4月10日、銀婚記者会見にて。明仁親王の﹁点数をつけることはできないが努力賞ということで﹂をふまえ。皇后時代︵平成︶[編集]
●﹁平成初めての大会にあたり、1947年︵昭和22年︶以来、42年の長い年月にわたって名誉総裁の責務をお果たしになった皇太后陛下に、わたくしどもの深い感謝をお奉げしたいと思います﹂ - 1989年︵平成元年︶5月31日、平成元年全国赤十字大会にて。 ●﹁皇室も時代と共に存在し、各時代、伝統を継承しつつも変化しつつ、今日に至っていると思います。この変化の尺度を量れるのは、皇位の継承に連なる方であり、配偶者や家族であってはならないと考えています。伝統がそれぞれの時代に息づいて存在し続けるよう、各時代の天皇が願われ、御心をくだいていらしたのではないでしょうか。きっと、どの時代にも新しい風があり、またどの時代の新しい風も、それに先立つ時代なしには生まれ得なかったのではないかと感じています﹂﹁︵皇室観について︶私の目指す皇室観というものはありません。ただ、陛下のお側にあって、全てを善かれと祈り続ける者でありたいと願っています﹂ - 以上、1994年︵平成6年︶10月20日、還暦文書回答にて、﹁皇后美智子が天皇とともに皇室に新風を吹き込んだ﹂という指摘に対して。 ●﹁国民の叡智がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するよう祈り続けていることが、皇室存在の意義、役割を示しているのではないかと考えます﹂ - 1995年︵平成7年︶10月20日、誕生日の文書回答にて ●﹁常に国民の関心の対象となっているというよりも、国の大切な折々に、この国に皇室があってよかったと、国民が心から安堵し喜ぶことのできる皇室でありたいと思っています﹂ - 1996年︵平成8年︶10月20日、誕生日の文書回答にて。 ●﹁不思議な波が、私たちの少し前で何回かとまり、左手の子供たちが、心配そうにこちらを見ておりましたので、どうかしてこれをつなげなければと思い、陛下のお許しをいただいて加わりました﹂ - 1998年︵平成10年︶10月20日、誕生日の文書回答にて、長野パラリンピックでのウェーブ参加に関して[108]。 ●﹁どの時代にも皇后様方のお上に、歴代初めての体験がおありになり︵中略︶先の時代を歩まれた皇后様方のお上を思いつつ、私にも時の変化に耐える力と、変化の中で判断を誤らぬ力が与えられるよう、いつも祈っています。これからの女性皇族に何を望むかという質問ですが、人は皆個性を持っていることであり、どなたに対しても類型的な皇族像を求めるべきではないと思います﹂ - 2002年︵平成14年︶10月20日、誕生日の文書回答にて[33]。 ●﹁清子は、私が何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしているときに、まずそばに来てドンマーインと、のどかに言ってくれる子どもでした﹂ - 2005年︵平成17年︶10月20日、誕生日文書回答にて、数日後に控えた清子内親王の降嫁を前に[109]。 ●﹁東宮妃の公務復帰については、専門医の診断を仰ぎながら、妃自身が一番安心できる時を待って行われることが大切だと思います。あせることなく、しかし、その日が必ず来ることに希望をもって、東宮妃も、また東宮も、それまでの日々、自分を大切にして過ごしてほしいと祈っています﹂ - 2006年︵平成18年︶10月20日、誕生日の文書回答にて[110] ●﹁︵かくれみのを用いて︶混雑する駅の構内をスイスイと歩く練習をし、その後、学生のころよく通った神田や神保町の古本屋さんに行き、もう一度長い時間をかけて本の立ち読みをしてみたいと思います﹂ - 2007年︵平成19年︶5月14日、欧州諸国歴訪前の記者会見にて、﹁身分を隠し好きなところで一日を過ごすとしたら﹂という問いに対し[111]。 ●﹁皇太子妃の健康についての質問ですが︵中略︶妃は皇太子にとり、また、私ども家族にとり、大切な人であり、﹃妃の快復を祈り、見守り、支えていきたい﹄という、私の以前の言葉に変わりはありません﹂ ●﹁このごろ愛子と一緒にいて、もしかしたら愛子と私は物事や事柄のおかしさの感じ方が割合と似ているのかもしれないと思うことがあります。周囲の人のちょっとした言葉の表現や、話している語の響きなど、﹃これは面白がっているな﹄と思ってそっと見ると、あちらも笑いを含んだ目をこちらに向けていて、そのようなとき、とても幸せな気持ちになります。思い出してみると、眞子や佳子が小さかったころにも、同じようなことが、たびたびありました﹂ - 2008年︵平成20年︶10月20日、誕生日の文書回答にて[112]。 ●﹁このたびも私はやはり感謝状を、何かこれだけでは足りないような気持ちがいたしますが、心を込めて感謝状をお贈り申し上げます﹂ - 2009年︵平成21年︶4月8日、結婚50周年記者会見にて。先の25周年記者会見での発言をふまえ[113] ●﹁東宮も秋篠宮も孫として昭和天皇のおそばで過ごす機会をたびたびにいただき、また成人となってからは、陛下をお助けするなかでそのお考えに触れ、日々のお過ごしようをつぶさに拝見し、それぞれの立場への自覚を深めてきたことと思います。これからも二人がお互いを尊重しつつ、補い合って道を歩み、家族も心を合わせてそれを支えていってくれることを信じ、皇室の将来を、これからの世代の人々の手にゆだねたいと思います﹂ - 2009年︵平成21年︶11月11日、天皇即位20年に際する記者会見にて[114] ●﹁80年前、私に生を与えてくれた両親はすでに世を去り、私は母の生きた齢︵とし︶を越えました。嫁ぐ朝の母の無言の抱擁の思い出とともに、同じ朝﹃陛下と殿下の御心に添って生きるように﹄と諭してくれた父の言葉は、私にとり常に励ましであり指針でした。これからもそうあり続けることと思います﹂ - 2014年︵平成26年︶10月20日、皇后誕生日に際し、80年の傘寿を迎えて[115]譲位︵上皇明仁の退位︶に関して[編集]
●﹁8月に陛下の御放送があり、現在のお気持ちのにじむ内容のお話が伝えられました。私は以前より、皇室の重大な決断が行われる場合、これに関わられるのは皇位の継承に連なる方々であり、その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので、皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も、謹んでこれを承りました。ただ、新聞の一面に﹃生前退位﹄という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。私の感じ過ぎであったかもしれません。﹂- 2016年︵平成28年︶10月20日、82歳の皇后誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書回答[116]より。 ●﹁陛下の御譲位については、多くの人々の議論を経て、この6月9日、国会で特例法が成立しました。長い年月、ひたすら象徴のあるべき姿を求めてここまで歩まれた陛下が、御高齢となられた今、しばらくの安息の日々をお持ちになれるということに計りしれぬ大きな安らぎを覚え、これを可能にして下さった多くの方々に深く感謝しております。﹂ - 2017年︵平成29年︶10月20日、83歳の皇后誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書回答[117]より。 ●﹁約30年にわたる、陛下の﹃天皇﹄としてのお仕事への献身も、あと半年程で一つの区切りの時を迎えます。これまで﹃全身﹄と﹃全霊﹄双方をもって務めに当たっていらっしゃいましたが、加齢と共に徐々に﹃全身﹄をもって、という部分が果たせなくなることをお感じになり、政府と国民にそのお気持ちをお伝えになりました。5月からは皇太子が、陛下のこれまでと変わらず、心を込めてお役を果たしていくことを確信しています。﹂ ●﹁陛下は御譲位と共に、これまでなさって来た全ての公務から御身を引かれますが、以後もきっと、それまでと変わらず、国と人々のために祈り続けていらっしゃるのではないでしょうか。私も陛下のおそばで、これまで通り国と人々の上によき事を祈りつつ、これから皇太子と皇太子妃が築いてゆく新しい御代の安泰を祈り続けていきたいと思います。﹂ ●﹁24歳の時、想像すら出来なかったこの道に招かれ、大きな不安の中で、ただ陛下の御自身のお立場に対するゆるぎない御覚悟に深く心を打たれ、おそばに上がりました。そして振り返りますとあの御成婚の日以来今日まで、どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの、というその時に伺ったお言葉のままに、陛下はこの60年に近い年月を過ごしていらっしゃいました。義務を一つ一つ果たしつつ、次第に国と国民への信頼と敬愛を深めていかれる御様子をお近くで感じとると共に、新憲法で定められた﹃象徴﹄︵皇太子時代は将来の﹃象徴﹄︶のお立場をいかに生きるかを模索し続ける御姿を見上げつつ過ごした日々を、今深い感慨と共に思い起こしています。﹂ ●﹁皇太子妃、皇后という立場を生きることは、私にとり決して易しいことではありませんでした。与えられた義務を果たしつつ、その都度新たに気付かされたことを心にとどめていく - そうした日々を重ねて、60年という歳月が流れたように思います。学生時代よく学長が﹃経験するだけでは足りない。経験したことに思いをめぐらすように﹄と云われたことを、幾度となく自分に云い聞かせてまいりました。その間、昭和天皇と香淳皇后の御姿からは計り知れぬお教えを賜り、陛下には時に厳しく、しかし限りなく優しく寛容にお導き頂きました。3人の子ども達は、誰も本当に可愛く、育児は眠さとの戦いでしたが、大きな喜びでした。これまで私の成長を助けて下さった全ての方々に深く感謝しております。﹂ ●﹁陛下の御譲位後は、陛下の御健康をお見守りしつつ、御一緒に穏やかな日々を過ごしていかれればと願っています。そうした中で、これまでと同じく日本や世界の出来事に目を向け、心を寄せ続けていければと思っています。例えば、陛下や私の若い日と重なって始まる拉致被害者の問題などは、平成の時代の終焉と共に急に私どもの脳裏から離れてしまうというものではありません。これからも家族の方たちの気持ちに陰ながら寄り添っていきたいと思います。﹂ ●﹁先々には、仙洞御所となる今の東宮御所に移ることになりますが、かつて30年程住まったあちらの御所には、入り陽の見える窓を持つ一室があり、若い頃、よくその窓から夕焼けを見ていました。3人の子ども達も皆この御所で育ち、戻りましたらどんなに懐かしく当時を思い起こす事と思います。﹂ ●﹁赤坂に移る前に、ひとまず高輪の旧高松宮邸であったところに移居いたします。昨年、何年ぶりかに宮邸を見に参りましたが、両殿下の薨去よりかなりの年月が経ちますのに、お住居の隅々まできれいで、管理を任されていた旧奉仕者が、夫妻2人して懸命にお守りして来たことを知り、深く心を打たれました。出来るだけ手を入れず、宮邸であった当時の姿を保ったままで住みたいと、陛下とお話しし合っております。﹂ ●﹁公務を離れたら何かすることを考えているかとこの頃よく尋ねられるのですが、これまでにいつか読みたいと思って求めたまま、手つかずになっていた本を、これからは1冊ずつ時間をかけ読めるのではないかと楽しみにしています。読み出すとつい夢中になるため、これまで出来るだけ遠ざけていた探偵小説も、もう安心して手許に置けます。ジーヴス[118]も2、3冊待機しています。﹂ ●﹁また赤坂の広い庭のどこかによい土地を見つけ、マクワウリを作ってみたいと思っています。こちらの御所に移居してすぐ、陛下の御田の近くに1畳にも満たない広さの畠があり、そこにマクワウリが幾つかなっているのを見、大層懐かしく思いました。頂いてもよろしいか陛下に伺うと、大変に真面目なお顔で、これはいけない、神様に差し上げる物だからと仰せで、6月の大祓の日に用いられることを教えて下さいました。大変な瓜田に踏み入るところでした[119]。それ以来、いつかあの懐かしいマクワウリを自分でも作ってみたいと思っていました。﹂ ●﹁皇太子、天皇としての長いお務めを全うされ、やがて85歳におなりの陛下が、これまでのお疲れをいやされるためにも、これからの日々を赤坂の恵まれた自然の中でお過ごしになれることに、心の安らぎを覚えています。﹂ ●﹁しばらく離れていた懐かしい御用地が、今どのようになっているか。日本タンポポはどのくらい残っているか、その増減がいつも気になっている日本蜜蜂は無事に生息し続けているか等を見廻り、陛下が関心をお持ちの狸の好きなイヌビワの木なども御一緒に植えながら、残された日々を、静かに心豊かに過ごしていけるよう願っています。﹂ - 2018年︵平成30年︶10月20日、84歳の皇后として最後の誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書回答[120]より。出典・注釈[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
●保阪正康﹃皇后四代―明治から平成まで﹄︵中央公論新社、2002/10︶ ●板垣, 恭介﹃明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか 元宮内庁記者から愛をこめて﹄︵初版第1刷︶大月書店、2006年1月20日。ISBN 4-272-21086-6。 ●森暢平・河西秀哉編﹃皇后四代の歴史: 昭憲皇太后から美智子皇后まで ﹄︵吉川弘文館、2018/5/20︶ ●﹃皇后美智子さまの御歌(みうた)﹄ 割田剛雄(著)、小林 隆 (著)、パイインターナショナル、2015年1月、ISBN 978-4756245816上皇后美智子を取り上げた主な作品[編集]
以下、主に﹁平成﹂から﹁令和﹂への改元︵代替わり︶に際して放送されたテレビ特番。 NHKドキュメンタリー ●﹃天皇 運命の物語 第2話﹁いつもふたりで﹂﹄ - ︻語り︼山根基世、︻朗読︼原康義、坂口芳貞︵NHK総合、2018年12月24日放送︶ ●﹃天皇 運命の物語 第4話﹁皇后 美智子さま﹂﹄ - ︻語り︼山根基世︵NHK総合、2019年3月30日放送︶ ●﹃皇后四代〜思いは時を超えて〜﹄ - ︻語り︼羽田美智子、濱中博久︵NHKBSプレミアム、2019年4月29日放送︶ ●明治時代の昭憲皇太后、大正時代の貞明皇后、昭和時代の香淳皇后、そして平成時代の上皇后美智子と、近代・現代史上において皇后四代がどう役割を果たしてきたのかを描いたNHK製作のドキュメンタリー特番。 テレビドラマ ●﹃プリンセス美智子さま物語 知られざる愛と苦悩の軌跡﹄ ●2019年4月30日18時30分から5月1日0時55分にフジテレビ︵FNN系列︶で放送された報道特別番組﹃FNN報道スペシャル 平成の大晦日 令和につなぐテレビ 知られざる皇室10の物語﹄内で放送された、上皇后美智子が自身で手記していたノートの内容を元にフジテレビが製作したドキュメントドラマ。関連項目[編集]
●祝典行進曲 ●吉川重国 ●明仁から徳仁への皇位継承外部リンク[編集]
- 宮内庁ホームページ
- 海外ニュース映像 日本のロイヤルウエディング(1959年) - British Pathe
- 皇太子妃 正田美智子さんに決まる - NHK放送史
- 上皇ご夫妻ご婚約 正田美智子さんと両親の記者会見 - YouTube(TBS NEWS)
- 皇太子さまご結婚 - NHK放送史
- 上皇さま上皇后さま ご結婚「朝見の儀」「結婚パレード」 - YouTube(TBS NEWS)
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