「中山博道」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
(17人の利用者による、間の39版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{Infobox 人物 |
{{Infobox 人物 |
||
|氏名 =中山 博道 |
|氏名 =中山 博道 |
||
|画像 = |
|画像 =Nakayama Hakudō.jpg |
||
|画像サイズ =250px |
|画像サイズ =250px |
||
|画像説明 = |
|画像説明 = |
||
|生年月日 =[[ |
|生年月日 =明治5年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]([[1872年]][[3月19日]]) |
||
|生誕地 =[[石川県]][[金沢市]] |
|生誕地 =[[石川県]][[金沢市]] |
||
|没年月日 = |
|没年月日 ={{死亡年月日と没年齢|1872|3|19|1958|12|14}} |
||
|死没地 = |
|死没地 = |
||
|墓地 =天真寺([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[南麻布]]) |
|墓地 =[[天真寺 (東京都港区)|天真寺]]([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[南麻布]]) |
||
|記念碑 =中山範士之碑(天真寺) |
|記念碑 =中山範士之碑(天真寺) |
||
|国籍 ={{JPN}} |
|国籍 ={{JPN}} |
||
|別名 =[[幼名]]:乙吉(於兎吉)、別名:資信 |
|別名 =[[幼名]]:乙吉(於兎吉)、別名:資信 |
||
|職業 =[[ |
|職業 =[[武道|武道家]] |
||
|雇用者 = |
|雇用者 = |
||
|団体 = |
|団体 = |
||
|著名な実績 = |
|著名な実績 = |
||
|業績 = |
|業績 = |
||
20行目: | 20行目: | ||
|身長 =160cm |
|身長 =160cm |
||
|体重 =60kg |
|体重 =60kg |
||
| |
|肩書き =[[剣道]][[範士]]、[[居合道|居合術]]範士、[[杖道|杖術]]範士 |
||
|配偶者 = |
|配偶者 = |
||
|子供 =[[中山善道]] |
|子供 =[[中山善道]] |
||
|親 =中山源之丞(実父)<br />[[根岸信五郎]](養父) |
|||
|親 = |
|||
|親戚 = |
|親戚 = |
||
|受賞 =[[全日本剣道連盟]][[剣道殿堂|剣道殿堂顕彰]] |
|受賞 =[[大日本武徳会]][[功労章|一等功労章]]<br />[[全日本剣道連盟]][[剣道殿堂|剣道殿堂顕彰]] |
||
|補足 = |
|補足 = |
||
}} |
}} |
||
'''中山 博道'''︵なかやま はくどう / ひろみち、[[1872年]] |
'''中山 博道'''︵なかやま はくどう / ひろみち、[[1872年]]3月19日︿[[明治]]5年{{refnest|group=注釈|息子の[[中山善道]]が作成した資料では1872年︵明治5年︶とされているが、生前の博道はすべての記録で[[1873年]]︵明治6年︶としている<ref>﹃新装版 中山博道剣道口述集﹄23頁。</ref>。明治6年は[[戸籍]]上で実際は明治5年まれともいわれる。}}[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]﹀ - [[1958年]]︿[[昭和]]33年﹀[[12月14日]]︶は、[[日本]]の[[武道|武道家]]。[[流派]]は神伝重信流、[[神道無念流|神道無念流剣術]]、[[神道夢想流杖術]]。[[剣道の段級位制|称号]]は[[剣道]][[範士]]、[[居合道|居合術]]範士、[[杖道|杖術]]範士。[[大日本武徳会]]から史上初めて剣・居・杖の三道で[[範士]]号を授与された人物である<ref>﹃新装版 中山博道剣道口述集﹄22頁。</ref>。
|
||
== 概説 == |
== 概説 == |
||
旧[[加賀藩|加賀]][[藩士]]︵[[祐筆]]役︶中山源之丞の八男として、[[石川県]][[金沢市]]に生まれる。[[明治維新]]の混乱で家が零落し、5歳のとき一家で[[富山県]]に移住。8歳で同市の[[商家]]へ[[丁稚奉公]]に出され、働きながら[[剣術]]、[[柔術]]を学ぶ。
|
旧[[加賀藩|加賀]][[藩士]]︵[[祐筆]]役︶中山源之丞の八男として、現在の[[石川県]][[金沢市]]に生まれる。[[明治維新]]の混乱で家が零落し、5歳のとき一家で[[富山県]][[富山市]]に移住。8歳で同市の[[商家]]へ[[丁稚奉公]]に出され、働きながら[[剣術]]、[[柔術]]を学ぶ。
|
||
18歳 |
18歳のとき[[東京府]][[神田区|神田]]西小川町の[[有信館]]道場︵[[神道無念流]]・[[根岸信五郎]]︶に入門。23歳で順免許、27歳で[[免許]]、28歳で[[師範代]]を許され、根岸の[[養子]]となる。中山家に復したのち、[[本郷区|本郷]]真砂町に道場を建て、神道無念流・有信館を継承する。
|
||
[[神道夢想流杖術]]を[[内田良五郎]] |
[[神道夢想流杖術]]を[[内田良五郎]]に、[[無雙神傳英信流|無双神伝英信流居合]]を[[細川義昌]]に学ぶ。その後、[[大日本武徳会]]から前人未到の[[剣道]]・[[居合道|居合術]]・[[杖道|杖術]]の三[[範士]]号を授与され、[[昭和]]初期の剣道界において[[高野佐三郎]]と並ぶ最高権威者となった。
|
||
[[大日本武徳会]]から前人未到の[[剣道]]・[[居合術]]・[[杖術]]の三[[範士]]号を授与され、[[大正]]から[[昭和]]初期の剣道界において[[高野佐三郎]]と双璧をなした。 |
|||
[[太平洋戦争]]後、[[戦犯者|戦犯容疑者]]として一時収監される。戦後は剣を捨てたが、武道団体の[[名誉職]]にあり、晩年の口述集が残された。「[[昭和の剣聖]]」、「最後の[[武芸 (日本)|武芸者]]」と評される。 |
[[太平洋戦争]]後、[[戦犯者|戦犯容疑者]]として一時収監される。戦後は剣を捨てたが、武道団体の[[名誉職]]にあり、晩年の口述集が残された。「[[昭和の剣聖]]」、「最後の[[武芸 (日本)|武芸者]]」と評される。 |
||
43行目: | 41行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
=== 剣道 === |
=== 剣道 === |
||
[[ファイル:大日本帝国剣道形.jpg|thumb|250px|[[高野佐三郎]]と中山博道]] |
[[ファイル:大日本帝国剣道形.jpg|thumb|250px|[[日本剣道形|剣道形]]を演武する[[高野佐三郎]]と中山博道]] |
||
少年時に |
少年時に[[富山市]]で[[斎藤理則]]から[[山口流]]︵山口一刀流︶を学び[[目録]]を授かる。また、14歳のとき[[囲碁]]の[[囲碁の段級位制|段位]]を取得する。17歳で上京。その目的は囲碁であったとも剣術であったともいわれる。[[1890年]]︵明治23年︶4月、18歳で[[神道無念流]]・[[根岸信五郎]]の道場・[[有信館]]の[[内弟子]]となる。身長160cm、体重60kg足らずの貧弱な体格から、到底ものにはならないだろうと言われたが、睡眠時間を4時間に削り、死ねばそれまでといわれる厳しい修行をして実力を付けた。[[1902年]]︵明治35年︶、[[免許皆伝]]を得て根岸の[[養子]]となり、神道無念流・有信館を継承した。
|
||
17歳で上京。その目的は囲碁であったとも剣術であったともいわれる。[[1890年]]︵明治23年︶4月、18歳で[[神道無念流]]・[[根岸信五郎]]の道場・[[有信館]]の[[内弟子]]となる。身長160cm、体重60kg足らずの貧弱な体格から、到底ものにはならないだろうと言われたが、睡眠時間を4時間に削り、死ねばそれまでといわれる厳しい修行をして実力を付けた。[[1902年]]︵明治35年︶、[[免許皆伝]]を得て根岸の[[養子]]となり、神道無念流・有信館を継承した。
|
|||
[[1906年]]︵明治39年︶、[[大日本武徳会]]から[[精錬証]]を授与され、[[1908年]]︵明治41年︶には剣道[[教士]]に昇進する。[[1912年]]︵明治45年︶、剣道形制定委員︵全国で25名︶の一人に選ばれ、師の根岸信五郎︵主査委員︶と共に[[日本剣道形#大日本帝国剣道形|大日本帝国剣道形]]制定に尽力する。[[1920年]]︵[[大正]]9年︶、最高位の[[範士]]に昇進。
|
|||
[[1912年]]︵明治45年︶、剣道形制定委員︵全国で25名︶の一人に選ばれ、師の根岸信五郎︵主査委員︶と共に[[日本剣道形#大日本帝国剣道形|大日本帝国剣道形]]制定に尽力する。昭和初期の剣道界で[[高野佐三郎]]︵[[中西派一刀流]]︶と並ぶ権威を持ち、複数回の[[昭和天覧試合]]でも模範演武など<ref group="注釈">形と居合の模範演武の他、模範試合、審判員、詮衡委員など。</ref>をつとめている。
|
|||
[[1929年]]︵昭和4年︶、[[1934年]]︵昭和9年︶、[[1940年]]︵昭和15年︶、[[昭和天覧試合|天覧試合]]で[[高野佐三郎]]と共に剣道形を演武し、[[審判員]]を務めた。
|
|||
[[太平洋戦争]]後、[[戦犯者|戦犯容疑者]]として一時収監される。戦後は形式的に剣道団体の[[名誉職]]に名を留める。[[1957年]]︵昭和32年︶ |
[[太平洋戦争]]後、[[戦犯者|戦犯容疑者]]として一時収監される。戦後は形式的に剣道団体の[[名誉職]]に名を留める。[[1957年]]︵昭和32年︶、[[全日本剣道連盟]]から初の﹁[[五人の剣道十段|剣道十段]]﹂授与を打診されたが、十段制度に反対し、受け取らなかった。
|
||
剣道が[[スポーツ]] |
[[剣道|現代剣道]]の成立に強い影響を与えた指導者とされるが、博道自身は[[スポーツ]]的な現代剣道には批判的であった。晩年に[[全日本剣道選手権大会]]を見て、﹁選士連の[[竹刀]]捌きは、私から見て器用につきてはいるが、所詮あれは竹刀捌きで、忌憚なく申し述べれば、及第点をつけられる者は只の一人といない。よって竹刀選手権と改称されたがいいとさえ存じている。あんな攻防は[[日本刀]]ではとても思いもよらぬことであって、非常識も甚だしい。︵中略︶剣道が竹刀踊りの遊戯化したものに落ちないことを願う﹂と手厳しく批判している<ref>﹃新装版 中山博道剣道口述集﹄133頁。</ref>。
|
||
また、﹁竹刀競技で少しも差し支えない、難しいことはいうな、と一部の人々は言うが、元来この二つ︵注 |
また、﹁竹刀競技で少しも差し支えない、難しいことはいうな、と一部の人々は言うが、元来この二つ︵注‥[[竹刀稽古]]と[[形稽古]]︶は昔時においては一本であって、この一本が武道といわれた。二つに分けたことがそもそもの誤りで、武道に新古はない。この区別は大変な誤りで、竹刀即ち剣道も[[古武道]]即ち各流の形も皆一体となるのが当然である。恐らく今日の若い修業者は、竹刀で稽古を修めていることと、形や居合等の他の各流の教えとは別個なものであると考えられるに相違ない。これは私等の重大な責任と深く御詫び申しあげて置く次第である﹂とも述べている<ref>﹃新装版 中山博道剣道口述集﹄64-65頁。</ref>。
|
||
=== 居合 === |
=== 居合 === |
||
博道が[[抜刀術|居合]]を志したのは、一説に後援者・[[渋沢栄一]]の居合に触発されたからといわれる。また、博道を[[ |
博道が[[抜刀術|居合]]を志したのは、一説に後援者・[[渋沢栄一]]の居合に触発されたからといわれる。また、博道を[[慶應義塾]]剣道師範に任じた[[福澤諭吉]]も居合の達人であった。[[明治時代]]末期、﹁[[高知県]]︵旧[[土佐国]]︶に神伝重信流という一世唯一伝授が掟の居合が伝わっていると[[板垣退助]]と言っていた﹂と聞いた博道は、[[土佐藩]]出身の政治家で、[[無双直伝英信流]]第15代宗家・[[谷村自雄|谷村亀之丞自雄]]の親族でもある[[板垣退助]]を訪ね、その口利きで、神伝重信流︵神伝重信流下村派︶の[[細川義昌]]に入門し、細川から[[免許]]を允可された。
|
||
博道は居合道界の傾向について、「居合自体は一術と雖も対者を予想しない形はないが、普通に於いては一人術の如く主客共に自然に思いがちであり、術も簡単である様考えられ、そこに安易感が生じ、只抜き切り差し納めが練れて三、四十本の本数を覚えた程度で、これが居合だとする考え方が多く、しかも一人での修行のため、優劣というか勝敗を目的にしていないいわゆる競争的刺激がない故、一寸ばかり慣れてくると、はや一角の器用者然として己れの刀法をと慢じないまでも、其れに近い考えになる傾きが非常に多い」と述べ<ref>『新装版 中山博道剣道口述集』43頁。</ref>、居合修行者が陥りやすい自己満足を戒めている。 |
|||
[[長谷川英信]]流居合の教えを求めて[[高知県]]に渡ったが、門外不出の掟に阻まれ苦労する。その後、[[板垣退助]]の知遇を得て、[[1909年]]︵明治42年︶に[[衆議院議員]]でもある[[細川義昌]]に入門し、[[無雙神傳英信流|無双神伝英信流]]を学ぶ。[[1922年]]︵大正11年︶、細川から[[免許]]を允可された。その後、[[森本兎久身]]に[[無双直伝英信流]]を学ぶ。博道が門人に教授した居合は、無双神伝英信流に独自の工夫が加えられ、﹁[[夢想神伝流]]﹂と称される。全伝を授けた門人は少ない。
|
|||
=== 試し斬り === |
|||
博道は居合道界の傾向についても危惧しており、「居合自体は一術と雖も対者を予想しない形はないが、普通に於いては一人術の如く主客共に自然に思いがちであり、術も簡単である様考えられ、そこに安易感が生じ、只抜き切り差し納めが練れて三、四十本の本数を覚えた程度で、これが居合だとする考え方が多く、しかも一人での修行のため、優劣というか勝敗を目的にしていないいわゆる競争的刺激がない故、一寸ばかり慣れてくると、はや一角の器用者然として己れの刀法をと慢じないまでも、其れに近い考えになる傾きが非常に多い」と述べ<ref>堂本昭彦『中山博道 剣道口述集』、スキージャーナル</ref>、居合修行者が陥りやすい自己満足を戒めている。 |
|||
[[試し斬り]]も積極的に稽古したが、あくまで居合完成としての試し斬りを行い、単なる据え物斬りや[[曲芸]]斬りを批判している<ref>『新装版 中山博道剣道口述集』58頁。</ref>。 |
|||
[[ |
[[第二次世界大戦|第二次大戦]]中は[[日本軍|陸海軍]]からの依頼で一日に500振り以上の[[軍刀]]の試し斬りを行った。自身は200振りくらい持っていたが、出征する門人たちに贈呈したために、戦後はほとんど手元に残らなかった。門人は戦地で功績を挙げた者も多かったが、その一方で、刀の平だったため敵を切れず殴りつける結果となった、であるとか、自分の刀で自分を斬ってしまった、といった失敗も多かった。これについて博道は、﹁剣道の修業者が刀を振って自分で自分の刀に切られ、刀を棒に代えて使用したのでは、全く暗然たらざるを得ない。竹刀で練習充分だから日本刀も同様だと考える多くの人に対する警告の実例﹂と嘆いている<ref>﹃新装版 中山博道剣道口述集﹄132頁。</ref>。
|
||
=== 杖術 === |
=== 杖術 === |
||
[[神道夢想流杖術]]を[[内田良五郎]]︵[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]の父︶から学んだ |
[[神道夢想流杖術]]を[[内田良五郎]]︵[[玄洋社]]初代社長[[平岡浩太郎]]の実兄、[[黒龍会]]創始者[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]の父︶から学んだ。杖術を学んだことによって剣道の裏が分かり、杖の技が剣に大いに役立ったという。現代剣道、居合道と並ぶ[[杖道|現代杖道]]普及の端緒を開いた。
|
||
=== 柔術 === |
=== 柔術 === |
||
博道は﹁故郷︵[[富山 |
博道は、﹁故郷︵[[富山市]]︶においては剣道ではなく、[[柔術]]を9歳頃から17歳ぐらいまで修行した﹂と述べている<ref>﹃明治剣客伝 日本剣豪譚﹄261頁。</ref>。師は[[高山藤吉]]という人物であったという<ref>﹃中山博道有信館﹄27頁。</ref>。その後柔術を人前で見せることはなかったようであるが、同じ根岸門下であった[[稲村幸次郎]]の道場を訪れた際には、稲村と様々な柔術流派の技を試し合ったという。
|
||
[[合気道]]創始者の[[植芝盛平]]と親交があり、弟子を植芝の道場[[合気会|皇武館]]に派遣して剣道を指導させたり、高弟の[[中倉清]]を植芝の[[婿養子]]にするなどした。 |
[[合気道]]創始者の[[植芝盛平]]と親交があり、弟子を植芝の道場[[合気会|皇武館]]に派遣して剣道を指導させたり、高弟の[[中倉清]]を植芝の[[婿養子]]にするなどした。 |
||
大学生時代に有信館の門人であった[[空手道|空手家]]の[[小西康裕 (空手家)|小西康裕]]([[神道自然流]]空手創始者)によれば、当時、本土に伝わった[[唐手]](空手)を低級な武道と見なす武道家が多い中、博道は唐手の真価を見抜き、「唐手は素手による[[剣術]]である」と評価したという。 |
また、大学生時代に有信館の門人であった[[空手道|空手家]]の[[小西康裕 (空手家)|小西康裕]]([[神道自然流]]空手創始者)によれば、当時、本土に伝わった[[唐手]](空手)を低級な武道と見なす武道家が多い中、博道は唐手の真価を見抜き、「唐手は素手による[[剣術]]である」と評価したという。 |
||
=== 異種稽古 === |
=== 異種稽古 === |
||
; 弓術 |
; 弓術 |
||
: [[弓術]]を28歳頃から55歳頃まで稽古した。屋外16[[間]]で稽古し、[[的 (弓道)|的前]]より[[巻藁 (弓道)|巻藁]]を専らとして、[[弦 (弓)|弦]]目は最高4[[匁]]5[[分 (数)|分]]までに達し、総がけのみを心がけて、1寸1分までに至った。45歳のときに[[アメリカ海軍|アメリカ艦隊]]が[[横浜港|横浜]]に入港した際、﹁弓道対剣道﹂という[[異種試合]]があり、剣道側として出場した。[[木刀]]を持った博道に対し、弓道[[教士]]3人掛かりで[[おしろい|白粉]]のついた[[タンポ]][[矢]]を発射した。不利な条件であったが、[[袴]]に2ヶ所白粉が付く程度で済んだという。この経験から﹁[[飛び道具]]を相手にするときは体を動かすことが最大の防御手段である﹂と述べている<ref>﹃ |
: [[弓術]]を28歳頃から55歳頃まで稽古した。屋外16[[間]]で稽古し、[[的 (弓道)|的前]]より[[巻藁 (弓道)|巻藁]]を専らとして、[[弦 (弓)|弦]]目は最高4[[匁]]5[[分 (数)|分]]までに達し、総がけのみを心がけて、1寸1分までに至った。45歳のときに[[アメリカ海軍|アメリカ艦隊]]が[[横浜港|横浜]]に入港した際、﹁弓道対剣道﹂という[[異種試合]]があり、剣道側として出場した。[[木刀]]を持った博道に対し、弓道[[教士]]3人掛かりで[[おしろい|白粉]]のついた[[タンポ]][[矢]]を発射した。不利な条件であったが、[[袴]]に2ヶ所白粉が付く程度で済んだという。この経験から﹁[[飛び道具]]を相手にするときは体を動かすことが最大の防御手段である﹂と述べている<ref>﹃新装版 中山博道剣道口述集﹄110-111頁。</ref>。
|
||
; 西洋剣術 |
; 西洋剣術 |
||
: [[西洋剣術]]を研究して、[[1937年]](昭和12年)に長男の[[中山善道]]と共著で『日本剣道と西洋剣技』を著した。 |
: [[西洋剣術]]を研究して、[[1937年]](昭和12年)に長男の[[中山善道]]と共著で『日本剣道と西洋剣技』を著した。 |
||
; 銃剣術 |
; 銃剣術 |
||
: [[雖井蛙流 |
: [[雖井蛙流|雖井蛙流剣術]]宗家の[[山根幸恵]]は[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]剣道教官時代に博道から対[[銃剣道|銃剣術]]の技を伝授され、その後は銃剣術を相手に苦しむことはなくなったという<ref>﹃[[月刊剣道日本]]﹄1999年8月号、スキージャーナル</ref>。
|
||
; 槍術 |
; 槍術 |
||
: [[太平洋戦争]]中、[[倉敷市|倉敷]]の[[海軍飛行予科練習生|海軍予科練]]の剣道教師をしていた[[羽賀忠利]]︵[[羽賀準一]]の弟︶が、戦局の悪化による物資不足で海軍司令から[[槍術]]の指導を命じられ、羽賀は槍術の経験がなかったため博道のもとに2週間寄宿して槍術の指導を受けた。羽賀が突くと、博道は槍を脇と肘の関節で挟んで封じ、いくら引っ張ってもびくともしなかったという<ref>﹃[[月刊剣道日本]]﹄1988年4月号、スキージャーナル</ref>。
|
: [[太平洋戦争]]中、[[倉敷市|倉敷]]の[[海軍飛行予科練習生|海軍予科練]]の剣道教師をしていた[[羽賀忠利]]︵[[羽賀準一]]の弟︶が、戦局の悪化による物資不足で海軍司令から[[槍術]]の指導を命じられ、羽賀は槍術の経験がなかったため博道のもとに2週間寄宿して槍術の指導を受けた。羽賀が突くと、博道は槍を脇と肘の関節で挟んで封じ、いくら引っ張ってもびくともしなかったという<ref>﹃[[月刊剣道日本]]﹄1988年4月号、スキージャーナル</ref>。
|
||
89行目: | 87行目: | ||
=== 晩年 === |
=== 晩年 === |
||
[[ファイル:全日本剣道連盟結成 記念写真.jpg|thumb|300px|[[1952年]]︵昭和27年︶、[[全日本剣道連盟]]結成。前列中央[[木村篤太郎]]、隣中山博道]]
|
[[ファイル:全日本剣道連盟結成 記念写真.jpg|thumb|300px|[[1952年]]︵昭和27年︶、[[全日本剣道連盟]]結成。前列中央[[木村篤太郎]]、隣中山博道]]
|
||
[[日本の降伏|日本の敗戦]]後、[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍︵GHQ︶]] |
[[日本の降伏|日本の敗戦]]後、[[大日本武徳会]]は[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍︵GHQ︶]]の指令により[[解散]]し、剣道の組織的活動は禁止された。博道は[[戦犯者|戦犯容疑]]をかけられ、[[横須賀]][[拘置所]]に収監された。[[無罪]]釈放されたが、高齢でもあったため疲弊し、戦後の混乱で有信館道場も人手に渡ってしまった。戦後は形式的に武道団体の[[名誉職]]に就くにとどまった。
|
||
[[1950年]]︵昭和25年︶頃から |
[[1950年]]︵昭和25年︶頃から入退院を繰り返し、[[脳軟化症]]と診断された。[[1958年]]︵昭和33年︶、死去。享年86。[[全日本剣道連盟]]会長[[木村篤太郎]]が葬儀委員長を務め、[[青山斎場]]において日本剣道葬が執行された。[[正力松太郎]]、[[笹森順造]]、[[小川金之助]]、[[持田盛二]]など名士が参列した。[[戒名]]は大雄院殿無双博道大居士。師・根岸信五郎と同じ[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[南麻布]]の[[天真寺 (東京都港区)|天真寺]]に葬られた。
|
||
== 段位称号 == |
|||
*[[1893年]](明治26年)、[[神道無念流]][[目録]] |
|||
*[[1902年]](明治35年)、神道無念流[[免許皆伝]] |
|||
*[[1906年]](明治39年)、[[大日本武徳会]]剣道[[精錬証]] |
|||
*[[1908年]](明治41年)、大日本武徳会剣道[[教士]] |
|||
*[[1920年]](大正9年)、大日本武徳会剣道[[範士]]及び[[居合道|居合術]]範士 |
|||
*[[1922年]](大正11年)、[[無雙神傳英信流|無双神伝英信流]]抜刀術[[免許]] |
|||
*[[1927年]](昭和2年)、大日本武徳会[[杖道|杖術]]範士 |
|||
*[[1957年]](昭和32年)、[[全日本剣道連盟]]からの[[五人の剣道十段|剣道十段]]を辞退 |
|||
== エピソード == |
== エピソード == |
||
; 学歴 |
; 学歴 |
||
: 博道は[[小学校]]に入学しておらず、[[学歴]]がなかった。ただし武道の |
: 博道は[[小学校]]に入学しておらず、[[学歴]]がなかった。ただし武道の研究には熱心であり、弟子の質問に対し﹁知らぬ﹂と言ったことがなく、[[故事]]や実例をあげ、納得いくまで解説した<ref name="#1">﹃明治剣客伝 日本剣豪譚﹄245頁。</ref>。全国の剣道家の特徴、長所、短所をそらんじていた。
|
||
; 高野佐三郎との関係 |
; 高野佐三郎との関係 |
||
: 博道と[[高野佐三郎]]は近代剣道の双璧と評されるが、高野が10歳年上である。博道が上京した当時、高野は既に[[修道学院|明信館]]という道場を |
: 博道と[[高野佐三郎]]は近代剣道の双璧と評されるが、高野が10歳年上である。博道が上京した当時、高野は既に[[修道学院|明信館]]という道場を経営しており、[[根岸信五郎]]の[[有信館]]と近い場所︵ともに現在の[[千代田区]]︶にあった。博道がもし明信館に入門していれば高野佐三郎の弟子になっていたことになり、博道は生前に高野とよくこのことを話し合い、﹁縁とは面白いものだ﹂と語っていた<ref>﹃明治剣客伝 日本剣豪譚﹄263頁。</ref>。
|
||
: 高野が[[東京高等師範学校]]に奉職し[[嘉納治五郎]]の下で[[体育]]的な剣道を打ち立てたのに対し、博道はあくまで古流に依拠し、剣道が[[スポーツ]]になりつつある状況を危惧していた。両者の剣道の方針は |
: 高野が[[東京高等師範学校]]に奉職し[[嘉納治五郎]]の下で[[体育]]的な剣道を打ち立てたのに対し、博道はあくまで古流に依拠し、剣道が[[スポーツ]]になりつつある状況を危惧していた。両者の剣道の方針は同じとは限らなかった。 |
||
: なお、両者の[[試合]]記録はないとされるが、『[[月刊剣道日本]]』1984年5月号において、同紙編集者が[[笹森順造]]のノートに、[[済寧館]]で博道と高野が試合をして、高野が[[五行の構え#上段の構え|上段]]から博道の[[小手]]を見事に打ち勝負が決まった、との内容が書かれていたのを見たことがあると述べている<ref name="kendonippon1984">『[[月刊剣道日本]]』1984年5月号55-56頁、スキージャーナル</ref>。これについて[[小川忠太郎]]は、「高野先生は中山先生とやりたがりませんでした。あれはいつだったかなあ、こんなことがありましたよ。中山先生は高野先生とぜひ立合いたい。で、[[宮内省]]のお役人さんを動かして…(中略)それで高野先生は「やる」と承知したんですよ。(中略)[[大島治喜太]]先生に聞いたんですが、その試合の二、三組くらい前になったら、高野先生が『中山さん、私は右の[[膝]]が悪いからできない』と、ぱっと断っちゃった。(中略)これはどうかと思うな。高野先生が悪いですよ。引き受けた以上はやらなくちゃ」と述べている<ref name="kendonippon1984"/>。 |
|||
; 短い竹刀 |
; 短い竹刀 |
||
: 博道の[[竹刀]]は[[1920年]]︵[[大正]]9年︶頃までは普通の竹刀と同じ長さであったが、[[打刀|刀]]と同じ尺度に切り詰めることを思い立ち、12、3年かけて、2[[尺]]8[[寸]]まで短くした。これを試合に用いた感想として、﹁遠間から勝つには相当苦労したが、近間に入れば返し技が至極よく決まった。今の私には、長い竹刀は無駄であるとしか考えられない﹂と述べている。
|
: 博道の[[竹刀]]は[[1920年]]︵[[大正]]9年︶頃までは普通の竹刀と同じ長さであったが、[[打刀|刀]]と同じ尺度に切り詰めることを思い立ち、12、3年かけて、2[[尺]]8[[寸]]まで短くした。これを試合に用いた感想として、﹁遠間から勝つには相当苦労したが、近間に入れば返し技が至極よく決まった。今の私には、長い竹刀は無駄であるとしか考えられない﹂と述べている<ref>﹃新装版 中山博道剣道口述集﹄148頁。</ref>。
|
||
; 体当たり |
; 体当たり |
||
: 身長160cm、体重60kg足らずの小柄な体格であったが、剣道の稽古 |
: 身長160cm、体重60kg足らずの小柄な体格であったが、剣道の稽古では[[体当たり]]で倒されたことがなかったという。逆に、[[大相撲]]引退後に有信館に入門した元[[横綱]]・[[大錦卯一郎]]を体当たりで倒したことがある<ref>﹃[[月刊剣道日本]]﹄1988年4月号、スキージャーナル。</ref>。その理由は抜群の足さばき、体さばきにあったという。
|
||
; 80歳まで若者に負けない |
; 80歳まで若者に負けない |
||
: 剣道 |
: 剣道は、正しく修行した者ならば80歳までは若者に負けることはないという。 |
||
{{Quotation|年を取れば体力も劣ってくるし、敏活な動作も鈍るのは当たり前ではあるが、剣道には[[竹刀]]という特別な介在物があることを忘れてはいけない。この竹刀にかけられた積年の労が効果を発揮し、若い力や、若い動や、若い術に十分対応し、年齢より来る衰えを防護してくれるのである。これは絶対その通りとはいえないが、大体順当に正しく修業した者は、年齢からくる衰えと八十歳までは完全に対抗できるものである、と体験で確信している。中山は老人だから手加減して、といわれたことは絶対無かった。八十歳をもって限界点とするならば、人間の年齢から看て生涯不変と申して良い。即ち、九分九厘まで若い者に敗れることはない。これは断定してもいい。ここに剣道の特色があるのだと公言できる| |
{{Quotation|年を取れば体力も劣ってくるし、敏活な動作も鈍るのは当たり前ではあるが、剣道には[[竹刀]]という特別な介在物があることを忘れてはいけない。この竹刀にかけられた積年の労が効果を発揮し、若い力や、若い動や、若い術に十分対応し、年齢より来る衰えを防護してくれるのである。これは絶対その通りとはいえないが、大体順当に正しく修業した者は、年齢からくる衰えと八十歳までは完全に対抗できるものである、と体験で確信している。中山は老人だから手加減して、といわれたことは絶対無かった。八十歳をもって限界点とするならば、人間の年齢から看て生涯不変と申して良い。即ち、九分九厘まで若い者に敗れることはない。これは断定してもいい。ここに剣道の特色があるのだと公言できる。|﹃新装版 中山博道剣道口述集﹄152-153頁。}}
|
||
: 小説家の[[戸部新十郎]]は中学生時代に博道の稽古を目にしたことがあり、次のように証言している。 |
|||
{{Quotation|じつのところ、筆者も金沢で中学生のころ、博道師に稽古をつけていただいたことがある。むろん、稽古とよべるかどうかわからないが、じっさいに竹刀を交えたという一事は、いまにして思えば貴重であり、たぶんもっとも最後の年代に属するだろう。当時、こちらに博道師を偉大な剣士という認識はなく、師もまた何万人のうちの下級者の一人として、談にあるように柔らかく受けてくれたが、驚いたのは、あと師に掛かった各剣道教師たちが、数合にして息があがってしまったことである。それら教師たちは、いつもわれわれが掛かっていくと、たちまちこちらの息があがり、教師とはいえ、なんと強剛なものかと思わせられていたのに、博道師の前では、みなわれわれ同然になっているのだった|[[戸部新十郎]]﹃明治剣客伝 日本剣豪譚﹄}}
|
|||
; 指導 |
; 指導 |
||
: 弟子への指導は厳しく、[[範士]]・[[教士]]であっても打ち据え、﹁出来損ないめ﹂と叱咤した。特に実子[[中山善道|善道]]に厳しかった。自分が師の[[根岸信五郎]]から褒められたことがなかったことから、弟子を褒めることは滅多になかった。その反面、門外の者には甘く、よく褒めた。試合や昇段審査 |
: 弟子への指導は厳しく、[[範士]]・[[教士]]であっても打ち据え、﹁出来損ないめ﹂と叱咤した。特に実子[[中山善道|善道]]に厳しかった。自分が師の[[根岸信五郎]]から褒められたことがなかったことから、弟子を褒めることは滅多になかった。その反面、門外の者には甘く、よく褒めた。試合や昇段審査では、門外の者を優先して、弟子を後回しにした。博道の[[審判員|審判]]で弟子が勝ちを得るのは数えるほどしかなかった<ref name="#1"/>。
|
||
; 白道着 |
; 白道着 |
||
: [[道場]]内の衛生に気を遣い、白色の[[道着|稽古着]]、[[袴]]を採用した。白色は汚れが目立つため洗濯する者が増え、衛生状態が良くなったという。当時白袴は[[神官]]が履くもので剣道家が履くのは奇異とされたが、その後普及した。現在も[[皇宮警察本部|皇宮警察]]の剣道家は白道着・白袴を正装としている。
|
: [[道場]]内の衛生に気を遣い、白色の[[道着|稽古着]]、[[袴]]を採用した。白色は汚れが目立つため洗濯する者が増え、衛生状態が良くなったという<ref>﹃新装版 中山博道剣道口述集﹄194頁。</ref>。当時白袴は[[神官]]が履くもので剣道家が履くのは奇異とされたが、その後普及した。現在も[[皇宮警察本部|皇宮警察]]︵[[済寧館]]︶の剣道家は白道着・白袴を正装としている。
|
||
; 長男・中山善道 |
; 長男・中山善道 |
||
: 長男の[[中山善道]] |
: 長男の[[中山善道]]は博道の後継者として嘱望されていたが、博道の死と前後して剣道界から消息を絶った<ref>﹃中山博道有信館﹄7頁。</ref>。﹃[[剣道日本]]﹄からの依頼で博道の[[伝記]]を執筆することになった[[堂本昭彦]]は手を尽くして善道の消息を求め、取材に至った。善道は、これまで沈黙して淀んでいたものが一挙に吹き出る感じで話し始めたという。堂本はこの取材をもとに﹃中山博道 剣道口述集﹄、﹃中山博道有信館﹄などを著し、これらは現在、博道に関する一級資料となっている。
|
||
== |
== 雇用先 == |
||
[[官 |
[[官庁]]、[[企業]]、[[大学]]に剣道[[師範]]として招聘され、多いときは1日5回以上稽古していた。 |
||
* [[大日本帝国海軍|海軍]]([[勅任官|勅任]][[技官]]) |
* [[大日本帝国海軍|海軍]]([[勅任官|勅任]][[技官]]) |
||
* [[警視庁 (内務省)|警視庁]](主席師範) |
* [[警視庁 (内務省)|警視庁]](主席師範) |
||
* |
* [[皇宮警察 (宮内省)|宮内省皇宮警察部]] |
||
* [[鉄道省]] |
* [[鉄道省]] |
||
* [[三井財閥]] |
* [[三井財閥]] |
||
* [[三菱財閥]] |
* [[三菱財閥]] |
||
* |
* 慶應義塾 |
||
* [[中央大学]] |
* [[中央大学]] |
||
* [[東京大学|東京帝国大学]] |
* [[東京大学|東京帝国大学]] |
||
132行目: | 146行目: | ||
== 交流のあった人物 == |
== 交流のあった人物 == |
||
交流のあった人物は多い。Wikipedia内に記事が存在する人物を中心に記載する。 |
交流のあった人物は多い。Wikipedia内に記事が存在する人物を中心に記載する。(五十音順) |
||
=== |
=== 武道家 === |
||
* [[植芝盛平]]([[合気道]]創始者。博道の高弟[[中倉清]]を養子とした) |
|||
* [[山本忠次郎]]([[1926年]]の[[台覧試合]]、[[1934年]]の[[昭和天覧試合|天覧試合]]で優勝) |
|||
* [[植田平太郎]](博道と同時期の[[細川義昌]]門人、[[無双神伝抜刀術兵法]]十七代宗家) |
|||
* [[羽賀準一]]([[一剣会羽賀道場]]、[[日本剣道協会]]の祖) |
|||
* [[大浦兼武]](政治家。[[大日本武徳会]]会長) |
|||
* [[中倉清]](戦前の剣道試合で69連勝。剣道・居合道範士九段) |
|||
* [[ |
* [[大錦卯一郎]](大相撲第26代[[横綱]]。引退後、有信館に入門) |
||
* [[勝瀬光安]]([[水鴎流|水鷗流]]第14代。博道が「碧雲館」道場を命名) |
|||
* [[中山善道]](博道の実子) |
|||
* [[ |
* [[紙本栄一]](居合道範士九段、剣道範士八段) |
||
* [[木村栄寿]]([[長州藩]]伝神道無念流、夢想神伝重信流抜刀術) |
* [[木村栄寿]]([[長州藩]]伝神道無念流、夢想神伝重信流抜刀術) |
||
* [[木村篤太郎]](政治家。[[全日本剣道連盟]]初代会長。[[東京大学|東京帝国大学]]の剣道部で博道に学んだ) |
|||
* [[黒田泰治]]([[富山県]]出身の同郷にあたる) |
|||
* [[小西康裕 (空手家)|小西康裕]]([[神道自然流]]空手創始者) |
|||
* [[今裕]]([[医学博士]]。[[慈恵大学]]教授時代有信館に入門) |
|||
* [[正力松太郎]](政治家。[[柔道]]十段。富山県出身の同郷にあたる) |
|||
* [[末次留蔵]](有信館で学んだ夢想神伝流を九州に広めた) |
|||
* [[末弘厳太郎]](東京帝国大学法学部教授。有信館で剣道を学んだ) |
|||
* [[桂川質郎|檀崎友彰]]([[大相撲]][[前頭]]筆頭。戦後、居合道範士九段) |
* [[桂川質郎|檀崎友彰]]([[大相撲]][[前頭]]筆頭。戦後、居合道範士九段) |
||
* [[山蔦重吉]]([[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]。居合道範士九段、剣道範士八段) |
|||
* [[紙本栄一]](居合道範士九段、剣道範士八段) |
|||
* [[寺井知高]]([[大村藩]]伝神道無念流) |
* [[寺井知高]]([[大村藩]]伝神道無念流) |
||
* [[中倉清]](昭和の[[宮本武蔵|武蔵]]とよばれた。剣道・居合道範士九段) |
|||
* [[小西康裕 (空手家)|小西康裕]]([[神道自然流]]空手創始者) |
|||
* [[中島五郎蔵]]([[警視庁]]剣道師範。剣道・居合道範士九段) |
|||
* [[中村吉右衛門 (初代)|中村吉右衛門]]([[歌舞伎]]役者。機会あるごとに博道を訪ね、居合を学んだ) |
|||
* [[中山善道]](博道の実子) |
|||
* [[野間清治]]([[講談社]]創業者。[[野間道場]]を開き、博道を歓待した) |
|||
* [[野間恒]](講談社第2代社長。[[昭和天覧試合]]優勝) |
|||
* [[羽賀準一]]([[一剣会羽賀道場]]、[[日本剣道協会]]の祖) |
|||
* [[橋本統陽]](有信館[[幹事長]]) |
|||
* [[橋本正武]](統陽の甥。有信館に住み込みながら[[東京大学|東京帝国大学]]を卒業) |
|||
* [[福島小一]](剣道範士、居合道範士九段、杖道範士) |
|||
* [[細田謙蔵]](大学教授。博道に有信館への入門を勧めた) |
|||
* [[望月稔]]([[養正館武道]]創始者) |
* [[望月稔]]([[養正館武道]]創始者) |
||
* [[森寅雄]](全米[[フェンシング]]選手権準優勝) |
|||
* [[大錦卯一郎]](大相撲第26代[[横綱]]。引退後、有信館に入門) |
|||
* [[山蔦重吉]](『夢想神伝流居合道』を著す) |
|||
* [[木村篤太郎]](政治家。[[全日本剣道連盟]]初代会長。[[東京大学|東京帝国大学]]の剣道部で博道に学んだ) |
|||
* [[山本忠次郎]]([[1926年]]の[[台覧試合]]、[[1934年]]の[[昭和天覧試合|天覧試合]]で優勝) |
|||
* [[末弘厳太郎]](東京帝国大学法学部教授) |
|||
* [[今裕]]([[医学博士]]) |
|||
* [[中村吉右衛門 (初代)|中村吉右衛門]]([[歌舞伎]]役者) |
|||
=== 知人 === |
|||
* [[渡邊昇|渡辺昇]](政治家。元[[練兵館]]塾頭。[[根岸信五郎]]の兄弟子) |
* [[渡邊昇|渡辺昇]](政治家。元[[練兵館]]塾頭。[[根岸信五郎]]の兄弟子) |
||
* [[大浦兼武]](政治家。[[大日本武徳会]]会長) |
|||
* [[細田謙蔵]](大学教授。博道に有信館への入門を勧めた) |
|||
* [[植田平太郎]](博道と同時期の[[細川義昌]]門人) |
|||
* [[野間清治]]([[講談社]]創業者。[[野間道場]]を開き、博道を歓待した) |
|||
* [[植芝盛平]]([[合気道]]創始者。博道の高弟[[中倉清]]を養子とした) |
|||
* [[正力松太郎]]([[柔道]]家、政治家。[[富山県]]出身の同郷にあたる) |
|||
* [[黒田泰治]](武術家。富山県出身の同郷にあたる) |
|||
* 勝瀬光安([[水鴎流]]第14代。博道が「碧雲館」道場を命名) |
|||
=== 後援者 === |
=== 後援者 === |
||
有信館には、[[パトロン|後援者]]として政財界の人物も参加していた |
有信館には、[[パトロン|後援者]]として政財界の人物も参加していた。門人を兼ねる者もいた。 |
||
* [[早川千吉郎]] |
|||
* [[三井八郎右衛門]] |
|||
* [[小室三吉]] |
|||
* [[岩崎小弥太]] |
|||
* [[今村繁三]] |
|||
* [[服部金太郎]] |
|||
* [[赤星鉄馬]] |
* [[赤星鉄馬]] |
||
* [[三 |
* [[今村繁三]] |
||
* [[岩崎小弥太]] |
|||
* [[岡田啓介]] |
|||
* [[小室三吉]] |
|||
* [[近藤滋弥]] |
|||
* [[渋沢栄一]] |
|||
* [[奈良武次]] |
|||
* [[野口遵]] |
* [[野口遵]] |
||
* [[畠山一清]] |
* [[畠山一清]] |
||
* [[ |
* [[服部金太郎]] |
||
* [[浜口雄幸]] |
* [[浜口雄幸]] |
||
* [[ |
* [[早川千吉郎]] |
||
* [[林銑十郎]] |
* [[林銑十郎]] |
||
* [[三井八郎右衛門]] |
|||
* [[三井高泰|三井守之助]] |
|||
* [[森村市左衛門]] |
* [[森村市左衛門]] |
||
* [[ |
* [[渡辺七郎]] |
||
* [[近藤滋弥]] |
|||
* [[奈良武次]] |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
=== 注釈 === |
=== 注釈 === |
||
{{ |
{{Reflist|group="注釈"}} |
||
=== 出典 === |
=== 出典 === |
||
{{ |
{{Reflist|2}} |
||
== 参考 |
== 参考資料 == |
||
=== 文献 === |
|||
*[[堂本昭彦]]編著、中山善道・稲村栄一原著『新装版 中山博道剣道口述集』、スキージャーナル |
|||
*堂本昭彦『中山博道 |
*[[堂本昭彦]]編著、[[中山善道]]・稲村栄一原著『新装版 中山博道剣道口述集』、スキージャーナル |
||
*堂本昭彦『中山博道有信館』島津書房、1993年。ISBN 4882180480 |
|||
*[[戸部新十郎]]『明治剣客伝 日本剣豪譚』、[[光文社文庫|光文社]] |
|||
*[[戸部新十郎]]『明治剣客伝 日本剣豪譚』〈[[光文社文庫]]〉光文社、1996年。 |
|||
*庄子宗光『剣道百年』、[[時事通信社]] |
|||
*[[庄子宗光]]『剣道百年』[[時事通信社]]、1966年。 |
|||
*中山博道『剣道手引草』、体育とスポーツ出版社 |
|||
*中山博 |
*中山博道『剣道手引草』体育とスポーツ出版社、2002年。 |
||
*中山博道・中山善道『日本剣道と西洋剣技』体育とスポーツ出版社、2002年。ISBN 4884581342 |
|||
*『達人の秘術と剣聖の心 植芝盛平と中山博道』(DVD)、クエスト |
|||
=== DVD === |
|||
*『[[昭和天覧試合]]』(DVD)、クエスト |
|||
*『剣聖 |
*『達人の秘術と剣聖の心 植芝盛平と中山博道』クエスト |
||
*『[[昭和天覧試合]]』クエスト |
|||
*『時代をつなぐ剣の道 ~剣道殿堂顕彰者 その足跡と功績~』(DVD)、[[全日本剣道連盟]] |
|||
*『剣聖と極意 日本剣道形』クエスト |
|||
*『時代をつなぐ剣の道 ~剣道殿堂顕彰者 その足跡と功績~』[[全日本剣道連盟]] |
|||
{{剣道殿堂}} |
|||
{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:なかやま はくとう}} |
{{DEFAULTSORT:なかやま はくとう}} |
||
[[Category:武術家]] |
[[Category:武術家]] |
||
[[Category:大日本武徳会の武道家]] |
[[Category:大日本武徳会の武道家]] |
||
[[Category:剣客]] |
[[Category:剣客]] |
||
[[Category:男性剣道家]] |
|||
[[Category:剣道範士]] |
[[Category:剣道範士]] |
||
[[Category:神道無念流剣術]] |
[[Category:神道無念流剣術]] |
||
[[Category:居合]] |
[[Category:居合]] |
||
[[Category:神道夢想流杖術]] |
[[Category:神道夢想流杖術]] |
||
[[Category:警視庁剣道の人物]] |
|||
[[Category:宮内省剣道の人物]] |
|||
[[Category:昭和天覧試合出場者]] |
|||
[[Category:石川県出身の人物]] |
[[Category:石川県出身の人物]] |
||
[[Category:1872年生]] |
[[Category:1872年生]] |
2022年7月4日 (月) 21:28時点における最新版
中山 博道 | |
---|---|
![]() | |
生誕 |
明治5年2月11日(1872年3月19日) 石川県金沢市 |
死没 | 1958年12月14日(86歳没) |
墓地 | 天真寺(東京都港区南麻布) |
記念碑 | 中山範士之碑(天真寺) |
国籍 |
![]() |
別名 | 幼名:乙吉(於兎吉)、別名:資信 |
職業 | 武道家 |
流派 | 神道無念流、夢想神伝流、神道夢想流 |
身長 | 160 cm (5 ft 3 in) |
体重 | 60 kg (132 lb) |
肩書き | 剣道範士、居合術範士、杖術範士 |
子供 | 中山善道 |
親 |
中山源之丞(実父) 根岸信五郎(養父) |
受賞 |
大日本武徳会一等功労章 全日本剣道連盟剣道殿堂顕彰 |
概説[編集]
旧加賀藩士︵祐筆役︶中山源之丞の八男として、現在の石川県金沢市に生まれる。明治維新の混乱で家が零落し、5歳のとき一家で富山県富山市に移住。8歳で同市の商家へ丁稚奉公に出され、働きながら剣術、柔術を学ぶ。 18歳のとき東京府神田西小川町の有信館道場︵神道無念流・根岸信五郎︶に入門。23歳で順免許、27歳で免許、28歳で師範代を許され、根岸の養子となる。中山家に復したのち、本郷真砂町に道場を建て、神道無念流・有信館を継承する。 神道夢想流杖術を内田良五郎に、無双神伝英信流居合を細川義昌に学ぶ。その後、大日本武徳会から前人未到の剣道・居合術・杖術の三範士号を授与され、昭和初期の剣道界において高野佐三郎と並ぶ最高権威者となった。 太平洋戦争後、戦犯容疑者として一時収監される。戦後は剣を捨てたが、武道団体の名誉職にあり、晩年の口述集が残された。﹁昭和の剣聖﹂、﹁最後の武芸者﹂と評される。経歴[編集]
剣道[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8a/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%89%A3%E9%81%93%E5%BD%A2.jpg/250px-%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%89%A3%E9%81%93%E5%BD%A2.jpg)
居合[編集]
博道が居合を志したのは、一説に後援者・渋沢栄一の居合に触発されたからといわれる。また、博道を慶應義塾剣道師範に任じた福澤諭吉も居合の達人であった。明治時代末期、﹁高知県︵旧土佐国︶に神伝重信流という一世唯一伝授が掟の居合が伝わっていると板垣退助と言っていた﹂と聞いた博道は、土佐藩出身の政治家で、無双直伝英信流第15代宗家・谷村亀之丞自雄の親族でもある板垣退助を訪ね、その口利きで、神伝重信流︵神伝重信流下村派︶の細川義昌に入門し、細川から免許を允可された。 博道は居合道界の傾向について、﹁居合自体は一術と雖も対者を予想しない形はないが、普通に於いては一人術の如く主客共に自然に思いがちであり、術も簡単である様考えられ、そこに安易感が生じ、只抜き切り差し納めが練れて三、四十本の本数を覚えた程度で、これが居合だとする考え方が多く、しかも一人での修行のため、優劣というか勝敗を目的にしていないいわゆる競争的刺激がない故、一寸ばかり慣れてくると、はや一角の器用者然として己れの刀法をと慢じないまでも、其れに近い考えになる傾きが非常に多い﹂と述べ[5]、居合修行者が陥りやすい自己満足を戒めている。試し斬り[編集]
試し斬りも積極的に稽古したが、あくまで居合完成としての試し斬りを行い、単なる据え物斬りや曲芸斬りを批判している[6]。 第二次大戦中は陸海軍からの依頼で一日に500振り以上の軍刀の試し斬りを行った。自身は200振りくらい持っていたが、出征する門人たちに贈呈したために、戦後はほとんど手元に残らなかった。門人は戦地で功績を挙げた者も多かったが、その一方で、刀の平だったため敵を切れず殴りつける結果となった、であるとか、自分の刀で自分を斬ってしまった、といった失敗も多かった。これについて博道は、﹁剣道の修業者が刀を振って自分で自分の刀に切られ、刀を棒に代えて使用したのでは、全く暗然たらざるを得ない。竹刀で練習充分だから日本刀も同様だと考える多くの人に対する警告の実例﹂と嘆いている[7]。杖術[編集]
神道夢想流杖術を内田良五郎︵玄洋社初代社長平岡浩太郎の実兄、黒龍会創始者内田良平の父︶から学んだ。杖術を学んだことによって剣道の裏が分かり、杖の技が剣に大いに役立ったという。現代剣道、居合道と並ぶ現代杖道普及の端緒を開いた。柔術[編集]
博道は、﹁故郷︵富山市︶においては剣道ではなく、柔術を9歳頃から17歳ぐらいまで修行した﹂と述べている[8]。師は高山藤吉という人物であったという[9]。その後柔術を人前で見せることはなかったようであるが、同じ根岸門下であった稲村幸次郎の道場を訪れた際には、稲村と様々な柔術流派の技を試し合ったという。 合気道創始者の植芝盛平と親交があり、弟子を植芝の道場皇武館に派遣して剣道を指導させたり、高弟の中倉清を植芝の婿養子にするなどした。 また、大学生時代に有信館の門人であった空手家の小西康裕︵神道自然流空手創始者︶によれば、当時、本土に伝わった唐手︵空手︶を低級な武道と見なす武道家が多い中、博道は唐手の真価を見抜き、﹁唐手は素手による剣術である﹂と評価したという。異種稽古[編集]
弓術 弓術を28歳頃から55歳頃まで稽古した。屋外16間で稽古し、的前より巻藁を専らとして、弦目は最高4匁5分までに達し、総がけのみを心がけて、1寸1分までに至った。45歳のときにアメリカ艦隊が横浜に入港した際、﹁弓道対剣道﹂という異種試合があり、剣道側として出場した。木刀を持った博道に対し、弓道教士3人掛かりで白粉のついたタンポ矢を発射した。不利な条件であったが、袴に2ヶ所白粉が付く程度で済んだという。この経験から﹁飛び道具を相手にするときは体を動かすことが最大の防御手段である﹂と述べている[10]。 西洋剣術 西洋剣術を研究して、1937年︵昭和12年︶に長男の中山善道と共著で﹃日本剣道と西洋剣技﹄を著した。 銃剣術 雖井蛙流剣術宗家の山根幸恵は海軍兵学校剣道教官時代に博道から対銃剣術の技を伝授され、その後は銃剣術を相手に苦しむことはなくなったという[11]。 槍術 太平洋戦争中、倉敷の海軍予科練の剣道教師をしていた羽賀忠利︵羽賀準一の弟︶が、戦局の悪化による物資不足で海軍司令から槍術の指導を命じられ、羽賀は槍術の経験がなかったため博道のもとに2週間寄宿して槍術の指導を受けた。羽賀が突くと、博道は槍を脇と肘の関節で挟んで封じ、いくら引っ張ってもびくともしなかったという[12]。晩年[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/75/%E5%85%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%89%A3%E9%81%93%E9%80%A3%E7%9B%9F%E7%B5%90%E6%88%90_%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg/300px-%E5%85%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%89%A3%E9%81%93%E9%80%A3%E7%9B%9F%E7%B5%90%E6%88%90_%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%86%99%E7%9C%9F.jpg)