「宮沢賢治」の版間の差分

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{{Infobox 作家

{{Infobox 作家

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|notable_works = 『[[注文の多い料理店]]』[[1924年]]<br />『[[雨ニモマケズ]]』<br />『[[銀河鉄道]]』<br />『[[又三郎]]』

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'''宮沢 賢治'''(みやざわ けんじ、[[正字]]: '''宮澤 賢治'''、[[1896年]]〈[[明治]]29年〉[[8月27日]] - [[1933年]]〈[[昭和]]8年〉[[9月21日]])は、[[日本]]の[[詩人]]、[[童話作家]]。

'''宮沢 賢治'''(みやざわ けんじ、[[正字]]: '''宮澤 賢治'''、[[1896年]]〈[[明治]]29年〉[[8月27日]] - [[1933年]]〈[[昭和]]8年〉[[9月21日]])は、[[日本]]の[[詩人]]、[[童話作家]]。



[[仏教]]([[法華経]])信仰と[[農家|農民]]生活に根ざした創作を行った。作品中に登場する架空の[[理想郷]]に、郷里の[[岩手県]]を[[モチーフ]]として[[イーハトーブ|イーハトーヴ]](Ihatov、イーハトヴやイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られる。彼の作品は生前ほとんど一般には知られず無名に近く、没後、[[草野心平]]らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていき、今でも日本には広く愛好者が存在する。主な作品は[[宮沢賢治#作品一覧|後節]]を参照。

[[仏教]]([[法華経]])信仰と[[農家|農民]]生活に根ざした創作を行った。作品中に登場する架空の[[理想郷]]に、郷里の[[岩手県]]を[[話題|モチーフ]]として[[イーハトーブ|イーハトーヴ]](Ihatov、イーハトヴやイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られる。彼の作品は生前ほとんど一般には知られず無名に近く、没後、[[草野心平]]らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていき、今でも日本には広く愛好者が存在する。主な作品は[[宮沢賢治#作品一覧|後節]]を参照。



== 生涯 ==

== 生涯 ==

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[[ファイル:Miyazawa Kenji01s3200.jpg|thumb|250px|生家<br/>(賢治在世当時の建物は現存しない)]]

[[ファイル:Miyazawa Kenji01s3200.jpg|thumb|250px|生家<br/>(賢治在世当時の建物は現存しない)]]

[[ファイル:Miyazawa Kenji and Toshi.jpg|thumb|200px|1902年の小正月、 5歳の賢治(右)と3歳のトシ(左)]]

[[ファイル:Miyazawa Kenji and Toshi.jpg|thumb|200px|1902年の小正月、 5歳の賢治(右)と3歳のトシ(左)]]

[[1896年]]([[明治]]29年)8月27日、父[[宮澤政次郎]]と母イチの長男として[[花巻川口町]](現:[[花巻市]])に生まれる。戸籍上の誕生日は8月1日で生前の賢治も[[履歴書]]に1日と書いているが、27日と推定されている{{refnest|group="注釈"|佐藤隆房は[[旧暦]]7月19日出生、旧暦8月1日に旧暦で届けを出したための間違いと推測している{{sfn|作家読本|1989|p=12}}。}}。母イチの実家、鍛冶町の宮澤善治家で出生したが、5日後の8月31日、[[秋田県|秋田県東部]]を震源とする[[陸羽地震]]が発生。イチは賢治を収容した[[エジコ]] (乳幼児を入れ守る籠) を両手で抱えながら上体を覆って[[念仏]]を唱えていたという{{sfn|堀尾|1991|pp=25}}。政次郎は仕事で旅行中だったため、政次郎の弟の治三郎が「賢治」と名付けた{{sfn|作家読本|1989|p=12}}。

[[1896年]]([[明治]]29年)8月27日、父[[宮澤政次郎]]と母イチの長男として岩手県[[花巻川口町]](現:[[花巻市]])に生まれる。戸籍上の誕生日は8月1日で生前の賢治も[[履歴書]]に1日と書いているが、27日と推定されている{{refnest|group="注釈"|佐藤隆房は[[旧暦]]7月19日出生、旧暦8月1日に旧暦で届けを出したための間違いと推測している{{sfn|作家読本|1989|p=12}}。}}。母イチの実家、鍛冶町の宮澤善治家で出生したが、5日後の8月31日、[[秋田県|秋田県東部]]を震源とする[[陸羽地震]]が発生。イチは賢治を収容した[[エジコ]] (乳幼児を入れ守る籠) を両手で抱えながら上体を覆って[[念仏]]を唱えていたという{{sfn|堀尾|1991|pp=25}}。政次郎は仕事で旅行中だったため、政次郎の弟の治三郎が「賢治」と名付けた{{sfn|作家読本|1989|p=12}}。



3歳の頃、婚家から出戻っていた父の姉であるヤギが「[[正信偈]]」「[[白骨の御文章]]」を唱えるのを聞き覚え、一緒に仏前で暗唱していたという{{sfn|作家読本|1989|p=14}}。[[1902年]](明治35年)、[[赤痢]]で2週間入院。賢治を看病した政次郎も感染し、[[大腸カタル]]を起こして胃腸が生涯弱くなった{{sfn|作家読本|1989|p=13}}{{sfn|千葉|2014|p=38}}。[[1903年]](明治36年)、花巻川口[[尋常小学校]](2年後に花城尋常小学校へ改名)に入学。成績は優秀で6年間全科目甲だった。3年と4年を[[学級担任|担任]]した八木英三は生徒たちに『未だ見ぬ親』([[五来素川]]の[[翻案]]による[[エクトール・アンリ・マロ|マロ]]作『[[家なき子]]』)や『海に塩のあるわけ』([[民話]]『[[海の底の臼|海の水はなぜ辛い]]』)などの童話を話して聞かせ、賢治に大いに影響を与えた{{sfn|作家読本|1989|p=17}}。後に賢治は八木と再会した折に「私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです」と語っている{{sfn|堀尾|1991|p=29}}。[[鉱物]]採集、[[昆虫]]の[[標本]]づくりに熱中するようになり、11歳の頃に家族から「石コ賢さん」とあだ名をつけられる{{sfn|堀尾|1991|p=31}}。父の主催する花巻[[仏教]]会の夏季講習会にも参加、招いた講師の[[暁烏敏]]の世話係もした{{sfn|作家読本|1989|p=19}}。

3歳の頃、婚家から出戻っていた父の姉であるヤギが「[[正信偈]]」「[[白骨の御文章]]」を唱えるのを聞き覚え、一緒に仏前で暗唱していたという{{sfn|作家読本|1989|p=14}}。[[1902年]](明治35年)、[[赤痢]]で2週間入院。賢治を看病した政次郎も感染し、[[大腸カタル]]を起こして胃腸が生涯弱くなった{{sfn|作家読本|1989|p=13}}{{sfn|千葉|2014|p=38}}。[[1903年]](明治36年)、花巻川口[[尋常小学校]](2年後に花城尋常小学校へ改名)に入学。成績は優秀で6年間全科目甲だった。3年と4年を[[学級担任|担任]]した八木英三は生徒たちに『未だ見ぬ親』([[五来素川]]の[[翻案]]による[[エクトール・アンリ・マロ|マロ]]作『[[家なき子]]』)や『海に塩のあるわけ』([[民話]]『[[海の底の臼|海の水はなぜ辛い]]』)などの童話を話して聞かせ、賢治に大いに影響を与えた{{sfn|作家読本|1989|p=17}}。後に賢治は八木と再会した折に「私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです」と語っている{{sfn|堀尾|1991|p=29}}。[[鉱物]]採集、[[昆虫]]の[[標本]]づくりに熱中するようになり、11歳の頃に家族から「石コ賢さん」とあだ名をつけられる{{sfn|堀尾|1991|p=31}}。父の主催する花巻[[仏教]]会の夏季講習会にも参加、招いた講師の[[暁烏敏]]の世話係もした{{sfn|作家読本|1989|p=19}}。



[[ファイル:Miyazawa Kenji as a student of Morioka Middle School.jpg|thumb|200px|left|盛岡中学在学時の賢治]]

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[[1921年]](大正10年)1月23日夕方、東京行きの[[汽車]]に乗り[[家出]]。翌朝、[[上野駅]]に到着して[[鶯谷]]の国柱会館を訪ね「下足番でも[[チラシ|ビラ]]張りでもする」と頼みこむが、応対した高知尾智耀になだめられ、父の知人の小林六太郎家に身を寄せる{{sfn|作家読本|1989|pp=70-71}}。[[本郷 (文京区)|本郷]]菊坂町に下宿し、東大赤門前の[[謄写版]]印刷所「文信社」に勤める{{refnest|group="注釈"|文信社には、[[太平洋戦争]]後に[[釜石市]]長となった[[鈴木東民]]がおり、当時の模様を「筆耕のころの賢治」(筑摩書房版宮澤賢治全集別巻『宮澤賢治研究』、1958年)として書き残している。}}。高知尾の勧めで「法華文学」の創作に取り組む{{refnest|group="注釈"|「雨ニモマケズ手帳」に高知尾から「法華文学」の制作を勧められたというメモが残っているが、高知尾によればそのような記憶はなく、ただ法華経修行は[[出家]]することではなく、農家は[[鋤]][[鍬]]、商人は[[そろばん|ソロバン]]、文学者はペンを持ってそれぞれの道で法華経を広めるのが正しい修行と説いたという{{sfn|作家読本|1989|p=74}}。}}。1か月に三千枚もの原稿を書いたという。食事は[[ジャガイモ|じゃがいも]]と豆腐と油揚げで、夜は国柱会館の講話を聞き、昼間の街頭布教にも参加した{{sfn|山下|2008|pp=84-87}}。保阪嘉内には入信を勧める手紙を度々送った。心配した父の政次郎が[[小切手]]を送ったが送り返した{{sfn|作家読本|1989|p=74}}。4月、政次郎と[[伊勢]]、[[比叡山]]、[[奈良]]を旅する。政次郎は法華経と国柱会への固執を見直させようとしたが、賢治の心は変わらなかった{{sfn|堀尾|1991|p=117-118}}。7月、保阪と決裂、以後は疎遠になる。8月中旬、「トシビョウキスグカエレ」の[[電報]]を受け取り、原稿を[[トランク]]に詰めて花巻に戻る{{sfn|作家読本|1989|p=77}}。家族には原稿を「{{Ruby|童子|わらし}}こさえるかわりに書いたのだもや」と語ったという{{sfn|山下|2008|p=87}}。

[[1921年]](大正10年)1月23日夕方、東京行きの[[汽車]]に乗り[[家出]]。翌朝、[[上野駅]]に到着して[[鶯谷]]の国柱会館を訪ね「下足番でも[[チラシ|ビラ]]張りでもする」と頼みこむが、応対した高知尾智耀になだめられ、父の知人の小林六太郎家に身を寄せる{{sfn|作家読本|1989|pp=70-71}}。[[本郷 (文京区)|本郷]]菊坂町に下宿し、東大赤門前の[[謄写版]]印刷所「文信社」に勤める{{refnest|group="注釈"|文信社には、[[太平洋戦争]]後に[[釜石市]]長となった[[鈴木東民]]がおり、当時の模様を「筆耕のころの賢治」(筑摩書房版宮澤賢治全集別巻『宮澤賢治研究』、1958年)として書き残している。}}。高知尾の勧めで「法華文学」の創作に取り組む{{refnest|group="注釈"|「雨ニモマケズ手帳」に高知尾から「法華文学」の制作を勧められたというメモが残っているが、高知尾によればそのような記憶はなく、ただ法華経修行は[[出家]]することではなく、農家は[[鋤]][[鍬]]、商人は[[そろばん|ソロバン]]、文学者はペンを持ってそれぞれの道で法華経を広めるのが正しい修行と説いたという{{sfn|作家読本|1989|p=74}}。}}。1か月に三千枚もの原稿を書いたという。食事は[[ジャガイモ|じゃがいも]]と豆腐と油揚げで、夜は国柱会館の講話を聞き、昼間の街頭布教にも参加した{{sfn|山下|2008|pp=84-87}}。保阪嘉内には入信を勧める手紙を度々送った。心配した父の政次郎が[[小切手]]を送ったが送り返した{{sfn|作家読本|1989|p=74}}。4月、政次郎と[[伊勢]]、[[比叡山]]、[[奈良]]を旅する。政次郎は法華経と国柱会への固執を見直させようとしたが、賢治の心は変わらなかった{{sfn|堀尾|1991|p=117-118}}。7月、保阪と決裂、以後は疎遠になる。8月中旬、「トシビョウキスグカエレ」の[[電報]]を受け取り、原稿を[[トランク]]に詰めて花巻に戻る{{sfn|作家読本|1989|p=77}}。家族には原稿を「{{Ruby|童子|わらし}}こさえるかわりに書いたのだもや」と語ったという{{sfn|山下|2008|p=87}}。



12月3日、稗貫郡立稗貫農学校(翌年に岩手県立花巻農学校へ改称)の[[教諭]]となる。地元では「桑っこ大学」と呼ばれた小さな学校だった{{sfn|作家読本|1989|p=80}}。雑誌『愛国婦人』12月号と翌年[[1922年]](大正11年)1月号に「雪渡り」掲載。この時受け取った原稿料5円が生前唯一の原稿料という{{sfn|堀尾|1991|p=161}}。農学校の給料80円はレコード、書籍の購入、飲食などにあてた。下宿代として家に20円入れていたが、それも何かと理屈をつけてまきあげる。それでも3日ももてばいいほうで、本屋でツケで買った上、現金を借りることもあった。同僚の奥寺五郎(1924年死去)が[[結核]]になると毎月30円送っている{{sfn|堀尾|1991|pp=243-246}}。また花巻高等女学校の音楽教師・[[藤原嘉藤治]]と親交を結び、レコード鑑賞や飲食を楽しんだ{{sfn|堀尾|1991|p=210}}。

12月3日、稗貫郡立稗貫農学校(翌年に岩手県立花巻農学校へ改称、現在の[[岩手県立花巻農業高等学校]])の[[教諭]]となる。地元では「桑っこ大学」と呼ばれた小さな学校だった{{sfn|作家読本|1989|p=80}}。雑誌『愛国婦人』12月号と翌年[[1922年]](大正11年)1月号に「雪渡り」掲載。この時受け取った原稿料5円が生前唯一の原稿料という{{sfn|堀尾|1991|p=161}}。農学校の給料80円はレコード、書籍の購入、飲食などにあてた。下宿代として家に20円入れていたが、それも何かと理屈をつけてまきあげる。それでも3日ももてばいいほうで、本屋でツケで買った上、現金を借りることもあった。同僚の奥寺五郎(1924年死去)が[[結核]]になると毎月30円送っている{{sfn|堀尾|1991|pp=243-246}}。また花巻高等女学校の音楽教師・[[藤原嘉藤治]]と親交を結び、レコード鑑賞や飲食を楽しんだ{{sfn|堀尾|1991|p=210}}。



[[1922年]](大正11年)11月27日、結核で病臥中のトシの容態が急変、午後8時30分死去。賢治は[[押入れ]]に顔を入れて「とし子、とし子」と号哭し{{sfn|堀尾|1991|p=166}}、亡骸の乱れた髪を[[火箸]]で梳いた{{sfn|堀尾|1991|p=208}}。『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』を書く。29日の葬儀は[[真宗大谷派]]の寺で行われたため賢治は出席せず、出棺の時に現れて棺を担ぎ、持参した丸い缶にトシの遺骨半分を入れた。この遺骨は後に国柱会本部に納めた{{sfn|作家読本|1989|p=88}}。それから半年間、[[詩]]作をしなかった{{sfn|作家読本|1989|p=89}}。[[1923年]](大正12年)7月、農学校生徒の就職依頼で[[樺太]]を旅行。『青森挽歌』『樺太挽歌』などトシを思う詩を書く{{sfn|作家読本|1989|p=93}}。

[[1922年]](大正11年)11月27日、結核で病臥中のトシの容態が急変、午後8時30分死去。賢治は[[押入れ]]に顔を入れて「とし子、とし子」と号哭し{{sfn|堀尾|1991|p=166}}、亡骸の乱れた髪を[[火箸]]で梳いた{{sfn|堀尾|1991|p=208}}。『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』を書く。29日の葬儀は[[真宗大谷派]]の寺で行われたため賢治は出席せず、出棺の時に現れて棺を担ぎ、持参した丸い缶にトシの遺骨半分を入れた。この遺骨は後に国柱会本部に納めた{{sfn|作家読本|1989|p=88}}。それから半年間、[[詩]]作をしなかった{{sfn|作家読本|1989|p=89}}。[[1923年]](大正12年)7月、農学校生徒の就職依頼で[[樺太]]を旅行。『青森挽歌』『樺太挽歌』などトシを思う詩を書く{{sfn|作家読本|1989|p=93}}。

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=== 羅須地人協会 ===

=== 羅須地人協会 ===

[[ファイル:Rasuchijin.jpg|thumb|250px|羅須地人協会に使われた建物([[岩手県立花巻農業高等学校|花巻農業高校]]内)]]

[[ファイル:Rasuchijin.jpg|thumb|250px|羅須地人協会に使われた建物([[岩手県立花巻農業高等学校|花巻農業高校]]内)]]


[[1926]]15331退{{sfn||1989|p=119}}413{{sfn||1989|p=112}}4[[]][[]]{{sfn||2014|pp=246-248}}{{sfn||2008|pp=138-139}}<ref>{{Cite web |url=http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/47028_46742.html |author=|title=  |publisher=|accessdate=2016-10-21}}</ref>[[]][[]]6稿<ref>{{Cite web |url=http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html|author=|title= |publisher=|accessdate=2016-10-21}}</ref>

[[1926]]15331退{{sfn||1989|p=119}}413{{sfn||1989|p=112}}4[[]][[]]{{sfn||2014|pp=246-248}}{{sfn||2008|pp=138-139}}<ref>{{Cite web||url=http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/47028_46742.html |author=|title=  |publisher=|accessdate=2016-10-21}}</ref>[[]][[]]6稿<ref>{{Cite web||url=http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html|author=|title= |publisher=|accessdate=2016-10-21}}</ref>

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<ref>{{Cite web||url=http://why.kenji.ne.jp/sonota1/soredeha.html|author=|title=|publisher=|accessdate=2016-10-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161028000158/http://why.kenji.ne.jp:80/sonota1/soredeha.html |archivedate=2016-10-28}}</ref>


12月2日、上京。[[タイプライター]]、[[チェロ|セロ]]、[[オルガン]]、[[エスペラント|エスペラント語]]を習い、観劇をする。資金は父親頼みだった。18日、[[高村光太郎]]を訪ねている。年末帰花{{sfn|作家読本|1989|pp=134-136}}。

12月2日、上京。[[タイプライター]]、[[チェロ|セロ]]、[[オルガン]]、[[エスペラント|エスペラント語]]を習い、観劇をする。資金は父親頼みだった。18日、[[高村光太郎]]を訪ねている。年末帰花{{sfn|作家読本|1989|pp=134-136}}。

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=== 東北砕石工場技師、死 ===

=== 東北砕石工場技師、死 ===

[[1930年]](昭和5年)、体調が回復に向かい、文語詩の制作をはじめる{{sfn|堀尾|1991|p=287}}。5月、[[東磐井郡]]の[[陸中松川駅]]前にあった東北砕石工場主の鈴木東蔵が来訪。鈴木は[[石灰岩]]とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画しており、賢治も賛同する{{sfn|堀尾|1991|p=371}}。

[[1930年]](昭和5年)、体調が回復に向かい、文語詩の制作をはじめる{{sfn|堀尾|1991|p=287}}。5月、[[東磐井郡]]の[[陸中松川駅]]前にあった東北砕石工場主の鈴木東蔵が来訪。鈴木は[[石灰岩]]とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画しており、賢治も賛同する{{sfn|堀尾|1991|p=371}}。


[[1931]]6221{{sfn||1991|p=379}}西{{sfn||1989|p=182}}9194020[[駿]]{{refnest|group=""|[[|]]<ref>[http://www.kandagakkai.org/gallery/page.php?no=16 A] - NPO</ref>}}[[]]{{sfn||2014|p=256-257}}2711[[]]{{sfn||1989|p=191}}

[[1931]]6221{{sfn||1991|p=379}}西{{sfn||1989|p=182}}[[]]9194020[[駿]]{{refnest|group=""|[[|]]<ref>[http://www.kandagakkai.org/gallery/page.php?no=16 A] - NPO</ref>}}[[]]{{sfn||2014|p=256-257}}2711[[]]{{sfn||1989|p=191}}


[[1932年]](昭和7年)3月『児童文学』第二冊に「[[グスコーブドリの伝記]]」発表。挿絵は[[棟方志功]]{{refnest|group="注釈"|のちに棟方はこの仕事の記憶がほとんどないと回想している{{sfn|作家読本|1989|p=195}}。}}。病床では文語詩の制作や過去の作品の推敲に取り組む{{sfn|作家読本|1989|p=199}}。前年冬から医者にもかからず、薬は[[ビール]][[酵母]]と竹の皮を煎じたものを飲むだけだった{{sfn|作家読本|1989|p=198}}{{sfn|堀尾|1991|p=462}}。

[[1932年]](昭和7年)3月『児童文学』第二冊に「[[グスコーブドリの伝記]]」発表。挿絵は[[棟方志功]]{{refnest|group="注釈"|のちに棟方はこの仕事の記憶がほとんどないと回想している{{sfn|作家読本|1989|p=195}}。}}。病床では文語詩の制作や過去の作品の推敲に取り組む{{sfn|作家読本|1989|p=199}}。前年冬から医者にもかからず、薬は[[ビール]][[酵母]]と竹の皮を煎じたものを飲むだけだった{{sfn|作家読本|1989|p=198}}{{sfn|堀尾|1991|p=462}}。

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死去から49年後の1982年、花巻市矢沢の胡四王山に花巻市立宮沢賢治記念館が開館している<ref>[http://www.city.hanamaki.iwate.jp/bunkasports/501/miyazawakenji/p004116.html 宮沢賢治記念館] - 花巻市</ref>。

死去から49年後の1982年、花巻市矢沢の胡四王山に花巻市立宮沢賢治記念館が開館している<ref>[http://www.city.hanamaki.iwate.jp/bunkasports/501/miyazawakenji/p004116.html 宮沢賢治記念館] - 花巻市</ref>。



草稿調査によって、賢治の遺稿はほぼ調べ尽くされたと見られていたが、生家の[[土蔵]]から未発表の詩の草稿1枚(地形図の裏に書かれたもの)が発見されたことが2009年4月に公表され『新校本 宮澤賢治全集』別巻(筑摩書房)に収録された<ref>{{Cite web|url=http://book.asahi.com/news/TKY200904080264.html|title=宮沢賢治、地図の裏に未発表詩 三十数年ぶりの新作|publisher=asahi.com|date=2009-4-8|accessdate=2016-10-13|archivedate=2016-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161013104434/http://book.asahi.com/news/TKY200904080264.html}}</ref>。


稿調稿調[[]]稿120094 <ref>{{Cite web||url=http://book.asahi.com/news/TKY200904080264.html|title= |publisher=asahi.com|date=2009-4-8|accessdate=2016-10-13|archivedate=2016-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161013104434/http://book.asahi.com/news/TKY200904080264.html}}</ref>


広く作品世界を覆っているのは、作者自らの裕福な出自と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ[[贖罪]]感や[[自己犠牲]]精神である。また幼い頃から親しんだ仏教も強い影響を与えている。その主な契機としては[[浄土真宗]]の[[暁烏敏]]らの講話・説教が挙げられる。特に18歳の時に同宗の学僧である[[島地大等]]編訳の法華経を読んで深い感銘を受けたと言われる。この法華経信仰の高まりにより、賢治は後に[[国粋主義]]的な法華宗教団「国柱会」に入信するが、法華宗は当時の宮沢家とは宗派違いであったので、父親との対立を深めることとなった。弱者に対する献身的精神、強者への嫌悪などの要素は、これらの経緯と深い関わりがあると思われる。また、良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感は、以後の作品に特有の陰影を加えた。

広く作品世界を覆っているのは、作者自らの裕福な出自と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ[[贖罪]]感や[[自己犠牲]]精神である。また幼い頃から親しんだ仏教も強い影響を与えている。その主な契機としては[[浄土真宗]]の[[暁烏敏]]らの講話・説教が挙げられる。特に18歳の時に同宗の学僧である[[島地大等]]編訳の[[法華経]]を読んで深い感銘を受けたと言われる。この法華経信仰の高まりにより、賢治は後に[[国粋主義]]的な法華宗教団「国柱会」に入信するが、法華宗は当時の宮沢家とは宗派違いであったので、父親との対立を深めることとなった。弱者に対する献身的精神、強者への嫌悪などの要素は、これらの経緯と深い関わりがあると思われる。また、良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感は、以後の作品に特有の陰影を加えた。



また、童話作品においては[[擬声語]]を多用し、作品によっては[[韻文]]にも近いリズム感を持った文体を使用したことも大きな特徴である。賢治の童話は同時代に主流とされた『赤い鳥』に掲載されるなどしていた児童文学作品とはかなり異質なものであった。

また、童話作品においては[[擬声語]]を多用し、作品によっては[[韻文]]にも近いリズム感を持った文体を使用したことも大きな特徴である。賢治の童話は同時代に主流とされた『赤い鳥』に掲載されるなどしていた児童文学作品とはかなり異質なものであった。

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賢治の作品には[[コスモポリタニズム|世界主義]]的な雰囲気があり、岩手県という[[郷土愛|郷土への愛着]]こそあれ、[[軍国主義]]や[[ナショナリズム|民族主義]]的な要素を直接反映した作品はほとんど見られない。ただ、24歳の時に国柱会に入信してから、時期によって活動、傾倒の度合いに差はあるものの、生涯その一員であり続けたため、その社会的活動や自己犠牲的な思想について当時の[[ファシズム]]的風潮との関連も議論されている。晩年には遺作『[[銀河鉄道の夜]]』に見られるように[[キリスト教]]的な[[救済]]信仰をも取り上げ、全人類への宗教的寛容に達していたことが垣間見られる。宗教学者からは、賢治のこうした考え方の根本は、法華経に基づくものであると指摘されている<ref>{{cite video |url=http://www.youtube.com/watch?v=OQnEDI-QYhA&list=PL29809B3CE9F5C44B |title=宮澤賢治はなぜ浄土真宗から法華経信仰へ改宗したのか |people=[[正木晃]](話者)|publisher=日蓮宗 |date=2012-08-26}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=[[定方晟]] |title=『銀河鉄道の夜』と法華経 |journal=東海大学紀要. 文学部 |volume=64 |pages=110-88 |publisher=東海大学文学部 |location=東京|date=1995|url=https://opac.time.u-tokai.ac.jp/webopac/TC20001999 |issn=05636760 |naid=110001048402 |accessdate=2016-09-21}}110頁。</ref>。この宗教的思想と自然科学の融合した独自の世界観は[[第二次世界大戦]]後に日本国外の研究者からも評価され、[[1996年]]9月、宮沢賢治生誕100周年を記念して花巻市にて開催された宮沢賢治国際学会では20ヶ国程の研究者、翻訳者が集ったことを[[歴史家]]の[[色川大吉]]は著書で言及している<ref>{{Citation|和書|last=色川|first=大吉|title=歴史家の見た宮沢賢治の光と闇|journal=色川大吉歴史論集:近代の光と闇|publisher=日本経済評論社|date=2013-01-18|page=2|isbn=978-4-8188-2254-2|ncid=BB11426978}}</ref>。

賢治の作品には[[コスモポリタニズム|世界主義]]的な雰囲気があり、岩手県という[[郷土愛|郷土への愛着]]こそあれ、[[軍国主義]]や[[ナショナリズム|民族主義]]的な要素を直接反映した作品はほとんど見られない。ただ、24歳の時に国柱会に入信してから、時期によって活動、傾倒の度合いに差はあるものの、生涯その一員であり続けたため、その社会的活動や自己犠牲的な思想について当時の[[ファシズム]]的風潮との関連も議論されている。晩年には遺作『[[銀河鉄道の夜]]』に見られるように[[キリスト教]]的な[[救済]]信仰をも取り上げ、全人類への宗教的寛容に達していたことが垣間見られる。宗教学者からは、賢治のこうした考え方の根本は、法華経に基づくものであると指摘されている<ref>{{cite video |url=http://www.youtube.com/watch?v=OQnEDI-QYhA&list=PL29809B3CE9F5C44B |title=宮澤賢治はなぜ浄土真宗から法華経信仰へ改宗したのか |people=[[正木晃]](話者)|publisher=日蓮宗 |date=2012-08-26}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=[[定方晟]] |title=『銀河鉄道の夜』と法華経 |journal=東海大学紀要. 文学部 |volume=64 |pages=110-88 |publisher=東海大学文学部 |location=東京|date=1995|url=https://opac.time.u-tokai.ac.jp/webopac/TC20001999 |issn=05636760 |naid=110001048402 |accessdate=2016-09-21}}110頁。</ref>。この宗教的思想と自然科学の融合した独自の世界観は[[第二次世界大戦]]後に日本国外の研究者からも評価され、[[1996年]]9月、宮沢賢治生誕100周年を記念して花巻市にて開催された宮沢賢治国際学会では20ヶ国程の研究者、翻訳者が集ったことを[[歴史家]]の[[色川大吉]]は著書で言及している<ref>{{Citation|和書|last=色川|first=大吉|title=歴史家の見た宮沢賢治の光と闇|journal=色川大吉歴史論集:近代の光と闇|publisher=日本経済評論社|date=2013-01-18|page=2|isbn=978-4-8188-2254-2|ncid=BB11426978}}</ref>。



賢治は自ら学んだエスペラントでも詩作を試みたが、公表されたのは1953年である。これらの作品のほとんどは自らの作品のエスペラントへの翻訳、改作である<ref>{{Cite web|url=http://www.hh.e-mansion.com/~sibazyun/ali-trad/poe-miyazawa0.htm|title=宮沢賢治・自訳エスペラント詩集 |accessdate=2016-09-03}}(このサイトには公表状態でなく、校訂された作品が掲載されている)</ref>。

賢治は自ら学んだエスペラントでも詩作を試みたが、公表されたのは1953年である。これらの作品のほとんどは自らの作品のエスペラントへの翻訳、改作である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hh.e-mansion.com/~sibazyun/ali-trad/poe-miyazawa0.htm|title=宮沢賢治・自訳エスペラント詩集 |accessdate=2016-09-03}}(このサイトには公表状態でなく、校訂された作品が掲載されている)</ref>。



[[1998年]]頃に、[[山折哲雄]]がある[[小学校]]で授業をした際に、賢治の3つの作品『[[風の又三郎]]』『[[注文の多い料理店]]』『[[銀河鉄道の夜]]』を示し、これらに共通する問題があり、それは何だと子供たちに問い、自らは[[風]]がすごく大きな役割を果たしている、この3つの童話の中心的大問題は「風」だと力説した。この時、子供の一人が「[[猫]]」だと言おうとしたが、山折が「風」と言ったのであれっと思ったが、山折の話を聞く内にやっぱり「風」だと思った。ところがこの[[エピソード]]を聞いた[[河合隼雄]]は、賢治作品における猫の役割の重要性をずっと考えていたため、「猫と風」というヒントから、風のつかまえどころの無さと優しさと荒々しさの同居、少しの隙間でも入り込んでくる点など猫との共通点を感じ、賢治作品に登場する猫は、正にそのような性格を持って登場すると論じている。賢治の『猫』という短編には「私は猫は大嫌いです。猫のからだの中を考えると吐きそうになります」という一節が見られる<ref name="neko">[[河合隼雄]] 『猫だましい』 新潮社、2000年5月20日。{{要ページ番号|date=2016年9月}}</ref>。しかし、この「猫」は[[高瀬露]]が転嫁された表現であり、実際に賢治が猫嫌いだったわけではないという指摘もある([[ますむらひろし]]著『イーハトーブ乱入記―僕の宮沢賢治体験』{{要ページ番号|date=2019年5月}})。

[[1998年]]頃に、[[山折哲雄]]がある[[小学校]]で授業をした際に、賢治の3つの作品『[[風の又三郎]]』『[[注文の多い料理店]]』『[[銀河鉄道の夜]]』を示し、これらに共通する問題があり、それは何だと子供たちに問い、自らは[[風]]がすごく大きな役割を果たしている、この3つの童話の中心的大問題は「風」だと力説した。この時、子供の一人が「[[猫]]」だと言おうとしたが、山折が「風」と言ったのであれっと思ったが、山折の話を聞く内にやっぱり「風」だと思った。ところがこの[[エピソード]]を聞いた[[河合隼雄]]は、賢治作品における猫の役割の重要性をずっと考えていたため、「猫と風」というヒントから、風のつかまえどころの無さと優しさと荒々しさの同居、少しの隙間でも入り込んでくる点など猫との共通点を感じ、賢治作品に登場する猫は、正にそのような性格を持って登場すると論じている。賢治の『猫』という短編には「私は猫は大嫌いです。猫のからだの中を考えると吐きそうになります」という一節が見られる<ref name="neko">[[河合隼雄]] 『猫だましい』 新潮社、2000年5月20日。{{要ページ番号|date=2016年9月}}</ref>。しかし、この「猫」は[[高瀬露]]が転嫁された表現であり、実際に賢治が猫嫌いだったわけではないという指摘もある([[ますむらひろし]]著『イーハトーブ乱入記―僕の宮沢賢治体験』{{要ページ番号|date=2019年5月}})。

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== 人物像 ==

== 人物像 ==

=== 幼少期の伝説 ===

=== 幼少期の伝説 ===

{{要出典範囲|賢治には多くの「伝説」が語り継がれているが、特に本人が資料を残していない幼少期の[[神格化]]が甚だしいと指摘されている。こうした神格化を後押ししていたのが、父・政次郎や弟・清六であった。|date=2021-07}}伝説が嘘ではないにしても誇張や曲解が行われたのは関係者の思い入れと宮沢家への気遣いであろうと、[[山下聖美]]は推測している{{sfn|山下|2008|p=30-34}}。現代では[[吉田司]]の『宮沢賢治殺人事件』のように聖人イメージを破壊するという著作も現れている{{sfn|千葉|2014|pp=2-3}}。

{{要出典範囲|賢治には多くの「伝説」が語り継がれているが、特に本人が資料を残していない幼少期の[[神格化]]が甚だしいと指摘されている。こうした神格化を後押ししていたのが、父・政次郎や弟・清六であった。|date=2021-07}}伝説が嘘ではないにしても誇張や曲解が行われたのは関係者の思い入れと宮沢家への気遣いであろうと、[[山下聖美]]は推測している{{sfn|山下|2008|p=30-34}}。現代では[[吉田司]]の『宮沢賢治殺人事件』のように[[聖人]]イメージを破壊するという著作も現れている{{sfn|千葉|2014|pp=2-3}}。

* 生誕の約2ヶ月前である1896年6月15日に[[明治三陸地震|三陸地震津波]]が、誕生直後にも[[陸羽地震]]が発生した。清六は、賢治の生まれた年は東北地方に災害が多く、「それは雨や風や天候を心配し、あらゆる生物の幸福を祈って、善意を燃やし続けた賢治の生涯が、容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった(兄賢治の生涯)」と述懐している{{sfn|作家読本|1989|p=11}}。また、1933年(没年)の3月3日に「[[昭和三陸地震|三陸沖地震]]」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。地震直後に詩人の大木実([[1913年]]-[[1996年]])へ宛てた見舞いの礼状<ref>{{Cite web |url=http://www.kenji.gr.jp/kaiho/kaiho31/index.html#L |title=詩人大木実あて書簡 宮沢賢治学会・会報31号 |publisher=宮沢賢治学会 |accessdate=2010-11-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060207002502/http://kenji.gr.jp/kaiho/kaiho31/index.html |archivedate=2006-2-7 |deadlinkdate=2014-12-18}}</ref>には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている<ref>{{Cite book |和書 |author=勉誠出版株式会社 |authorlink= |date=2010-07 |title=月光 |volume=2 |publisher=勉誠出版 |page= |isbn=978-4-585-05226-5}}{{要ページ番号|date=2016年9月}}</ref>。

* 生誕の約2ヶ月前である1896年6月15日に[[明治三陸地震|三陸地震津波]]が、誕生直後にも[[陸羽地震]]が発生した。清六は、賢治の生まれた年は東北地方に災害が多く、「それは雨や風や天候を心配し、あらゆる生物の幸福を祈って、善意を燃やし続けた賢治の生涯が、容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった(兄賢治の生涯)」と述懐している{{sfn|作家読本|1989|p=11}}。また、1933年(没年)の3月3日に「[[昭和三陸地震|三陸沖地震]]」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。地震直後に詩人の大木実([[1913年]]-[[1996年]])へ宛てた見舞いの礼状<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kenji.gr.jp/kaiho/kaiho31/index.html#L |title=詩人大木実あて書簡 宮沢賢治学会・会報31号 |publisher=宮沢賢治学会 |accessdate=2010-11-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060207002502/http://kenji.gr.jp/kaiho/kaiho31/index.html |archivedate=2006-2-7 |deadlinkdate=2014-12-18}}</ref>には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている<ref>{{Cite book |和書 |author=勉誠出版株式会社 |authorlink= |date=2010-07 |title=月光 |volume=2 |publisher=勉誠出版 |page= |isbn=978-4-585-05226-5}}{{要ページ番号|date=2016年9月}}</ref>。

* 尋常小学校時代、赤いシャツを着てきた同級生が皆に囲まれ「メッカシ(めかしこんでいる)」とからかわれていた。賢治は間に入り「おれも赤シャツ着てくるからいじめるならおれをいじめてくれ」とかばった{{sfn|堀尾|1991|p=36}}。

* 尋常小学校時代、赤いシャツを着てきた同級生が皆に囲まれ「メッカシ(めかしこんでいる)」とからかわれていた。賢治は間に入り「おれも赤シャツ着てくるからいじめるならおれをいじめてくれ」とかばった{{sfn|堀尾|1991|p=36}}。

* [[めんこ|メンコ]]で遊んでいた時、仲間の一人がメンコを追って指を馬車にひかれ出血した。賢治は「いたかべ、いたかべ」と言いながらその指を吸ってやった{{sfn|堀尾|1991|p=36}}。

* [[めんこ|メンコ]]で遊んでいた時、仲間の一人がメンコを追って指を馬車にひかれ出血した。賢治は「いたかべ、いたかべ」と言いながらその指を吸ってやった{{sfn|堀尾|1991|p=36}}。

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=== 食生活と菜食主義 ===

=== 食生活と菜食主義 ===

[[日蓮]]系教団では[[末法無戒]]を説くため菜食の必要は無いのだが<ref>鎌田としき「[http://ihatov.la.coocan.jp/bizi.htm 宮沢賢治「ビヂテリアン大祭」考]」</ref>、賢治は法華経信仰に入った後、盛岡高農研究生になった1918年(大正7年)から5年間[[菜食主義|菜食生活]]をした{{sfn|堀尾|1991|p=96}}。5月19日付の保阪嘉内に宛てた手紙では、[[刺身]]や[[茶碗蒸し]]を少量食べた後、食べられる生き物に同情する気持ちを綴っている<ref>{{Cite web|url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/63.html |title=1918年5月19日 保阪嘉内あて 封書(封筒ナシ)|publisher=宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス |accessdate=2016-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160916120804/http://why.kenji.ne.jp:80/shiryo/shokan/63.html |archivedate=2016-09-16}}</ref>。[[東京]]でトシの看病をするため宿泊していた旅館「雲台館」では、賢治のため[[精進料理]]を出してくれたという{{sfn|堀尾|1991|p=103}}。家出上京中は、[[芋]]と[[豆腐]]と[[油揚げ]]ばかり食べ{{sfn|作家読本|1989|p=68}}、[[脚気]]になった時は、[[蕎麦がき]]や[[麦飯]]、[[冬瓜]]の汁を飲んだ{{sfn|堀尾|1991|p=456}}。1921年(大正10年)8月11日付の関徳弥宛の手紙では脚気の原因を肉食のせいにしている<ref>{{Cite web|url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/197.html |title=(1921年8月11日)関徳彌あて 封書|publisher=宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス |accessdate=2016-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141223092757/http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/197.html |archivedate=2014-12-23}}</ref>。


[[]][[]]<ref>[http://ihatov.la.coocan.jp/bizi.htm ]</ref>191875[[|]]{{sfn||1991|p=96}}519[[]][[]]<ref>{{Cite web||url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/63.html |title=1918519  |publisher= |accessdate=2016-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160916120804/http://why.kenji.ne.jp:80/shiryo/shokan/63.html |archivedate=2016-09-16}}</ref>[[]]宿[[]]{{sfn||1991|p=103}}[[]][[]][[]]{{sfn||1989|p=68}}[[]][[]][[]][[]]{{sfn||1991|p=456}}192110811<ref>{{Cite web||url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/197.html |title=1921811 |publisher= |accessdate=2016-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141223092757/http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/197.html |archivedate=2014-12-23}}</ref>


農学校教員時代は菜食にこだわらず、同僚や知人と[[外食]]を楽しんだ。花巻の蕎麦屋「やぶ屋」を「ブッシュ」と呼び、よく通っていた。[[天ぷら]][[蕎麦]]と[[サイダー]]を一緒に注文するのが定番だった<ref>{{Cite web|url=http://www.yabuya.jp/ybyhpg3.htm |title=宮澤賢治とやぶ屋 |publisher=岩手花巻名物わんこそば やぶ屋 |accessdate=2016-09-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170702013605/http://www.yabuya.jp:80/ybyhpg3.htm |archivedate=2017-01-02}}</ref>。また[[鰻丼]]や[[天丼]]も好物だったという{{sfn|山下|2008|pp=156-157}}。自分から進んで[[酒]]を飲むことはなかったが、付き合いで酒をすすめられると[[水]]でも飲むように飲み干して返盃した。時に[[たばこ]]を吸うこともあった{{sfn|作家読本|1989|p=97}}。また教員仲間が集まった時、[[藤原嘉藤治]]から「人間は物の命を食って生きている。他を犯さずに生きうる世界というものはないのだろうか。」と問いかけられた答えとして『[[ビジテリアン大祭]]』を書いている{{sfn|堀尾|1991|p=214}}。


[[]][[]][[]][[]]<ref>{{Cite web||url=http://www.yabuya.jp/ybyhpg3.htm |title= |publisher=  |accessdate=2016-09-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170702013605/http://www.yabuya.jp:80/ybyhpg3.htm |archivedate=2017-01-02}}</ref>[[]][[]]{{sfn||2008|pp=156-157}}[[]][[]][[]]{{sfn||1989|p=97}}[[]][[]]{{sfn||1991|p=214}}


羅須地人協会時代の自炊は極端な粗食だった。[[ご飯]]はまとめて炊いてザルに移して[[井戸]]の中に吊り下げて置き、冬は凍ったまま食べた。[[おかず]]は油揚げや[[漬物]]、[[トマト]]などだった{{sfn|作家読本|1989|p=142}}{{sfn|山下|2008|pp=152-153}}。賢治の体を心配した母のイチが[[小豆]]を入れた[[ひっつみ]]を届けたことがあるが、受け取らなかった{{sfn|千葉|2014|pp=36-30}}。急性肺炎で倒れ病臥生活になっても菜食はやめず、[[鶏卵]]も[[牛乳]]も拒否した<ref>{{Cite web|url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/419.html|title=1932年6月1日(森佐一あて) 下書|publisher=宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス |accessdate=2016-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161014060119/http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/419.html |archivedate=2016-10-14}}</ref>。イチが[[鯉]]の生き肝が肺炎に効くと聞いて、[[オブラート]]に包み薬と偽って飲ませたことがあった。弟の清六から中身を聞き出した賢治は涙を流し、「生き物の命をとるくらいならおれは死んだほうがいい」「これからは決してそんなことをしてくれるな」と真っ青な顔で言い、最期まで菜食主義をつらぬいた{{sfn|堀尾|1991|p=459-462}}。


[[]][[]][[]][[]][[]]{{sfn||1989|p=142}}{{sfn||2008|pp=152-153}}[[]][[]]{{sfn||2014|pp=36-30}}[[]][[]]<ref>{{Cite web||url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/419.html|title=193261 |publisher= |accessdate=2016-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161014060119/http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/419.html |archivedate=2016-10-14}}</ref>[[]][[]]{{sfn||1991|p=459-462}}


=== 恋愛・性愛観 ===

=== 恋愛・性愛観 ===

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{{quotation|新鮮な野の食卓にだな、露のようにおりてきて、あいさつをとりかわし、一椀の給仕をしてくれ、すっと消え去り、またあくる朝やってくるといったような女性なら、ぼくは結婚してもいいな。時にはおれのセロの調子はずれをなおしてくれたり、童話や詩をきいてくれたり、レコードの全楽章を辛抱強くかけてくれたりするんなら申し分がない。|(『宮沢賢治の肖像』){{sfn|山下|2008|pp=145-146}}}}

{{quotation|新鮮な野の食卓にだな、露のようにおりてきて、あいさつをとりかわし、一椀の給仕をしてくれ、すっと消え去り、またあくる朝やってくるといったような女性なら、ぼくは結婚してもいいな。時にはおれのセロの調子はずれをなおしてくれたり、童話や詩をきいてくれたり、レコードの全楽章を辛抱強くかけてくれたりするんなら申し分がない。|(『宮沢賢治の肖像』){{sfn|山下|2008|pp=145-146}}}}



[[童貞]]だったとも言われるが、「[[一関市|一関]]の花川戸という[[遊廓|遊郭]]へ登楼してきたといって明るくニコニコ笑って話しました」(『宮沢賢治の肖像』)という証言もあり、真偽は不明である{{sfn|山下|2008|p=105}}。晩年、森荘已池を訪ねた時は禁欲主義については「何にもなりませんでしたよ」「まるっきりムダでした」と話し、さらに「草や木や自然を書くように[[エロティシズム|エロ]]のことを書きたい」と語って、変節したことを認めた{{sfn|作家読本|1989|p=186}}。

[[童貞]]だったとも言われるが、「[[一関市|一関]]の花川戸という[[遊廓|遊郭]]へ登楼してきたといって明るくニコニコ笑って話しました」(『宮沢賢治の肖像』)という証言もあり、真偽は不明である{{sfn|山下|2008|p=105}}。晩年、森荘已池を訪ねた時は[[禁欲主義]]については「何にもなりませんでしたよ」「まるっきりムダでした」と話し、さらに「草や木や自然を書くように[[エロティシズム|エロ]]のことを書きたい」と語って、変節したことを認めた{{sfn|作家読本|1989|p=186}}。



賢治は浮世絵コレクターで、特に「和印([[春画]])」を積めば高さ30センチメートルになるほど集めていた{{sfn|堀尾|1991|p=355}}。それら農学校に持ってきて、同僚と批評して楽しんだ{{sfn|作家読本|1989|p=69}}。[[ハヴロック・エリス|ハバロック・エリス]]の『性の心理』を持っていて、翻訳本で[[伏字]]になった部分を[[仙台]]の本屋まで行って原書で読んで確かめた{{sfn|山下|2008|p=106}}。この本のことを聞かれると「いなかの子ども(農学校の教え子)が性でまちがいをおこさないように教えたいと思って」と答え{{sfn|堀尾|1991|p=355}}、実際生徒に「[[猥談]]は大人の童話みたいなもので頭を休めるもの」「誰を憎むというわけでも、人を傷つけるというものでもなく、悪いものではない。性は自然の花だ。」と話したという{{sfn|山下|2008|p=107}}。


[[]]30{{sfn||1991|p=355}}{{sfn||1989|p=69}}[[|]][[]][[|]]{{sfn||2008|p=106}}{{sfn||1991|p=355}}[[]]{{sfn||2008|p=107}}


盛岡高等農林学校在籍時に出会った一年後輩の保阪嘉内との間で、互いに「恋人」と呼び合うような親しい間柄になり、嘉内に宛てた書簡類では、親密な感情の表出、率直な心情の吐露が認められ、手紙に記された文面は、時にあたかも恋人に宛てたような表現になった。嘉内からは情緒的にも思想的にも強い影響を受け、とりわけ『銀河鉄道の夜』の成立には、20代の頃に嘉内と二人で登山し共に語り合って夜を明かした体験が濃厚に反映され、登場人物の「ジョバンニ」を賢治自身とするなら、「カムパネルラ」は保阪嘉内を表していると考える研究者もいる<ref>{{Citation|和書|last=菅原|first=千恵子|title=宮沢賢治の青春: “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって|publisher=宝島社|edition=初|date=1994-08-05|page=265|isbn=4-7966-0839-7}}</ref>。

盛岡高等農林学校在籍時に出会った一年後輩の保阪嘉内との間で、互いに「恋人」と呼び合うような親しい間柄になり、嘉内に宛てた書簡類では、親密な感情の表出、率直な心情の吐露が認められ、手紙に記された文面は、時にあたかも恋人に宛てたような表現になった。嘉内からは情緒的にも思想的にも強い影響を受け、とりわけ『銀河鉄道の夜』の成立には、20代の頃に嘉内と二人で登山し共に語り合って夜を明かした体験が濃厚に反映され、登場人物の「ジョバンニ」を賢治自身とするなら、「カムパネルラ」は保阪嘉内を表していると考える研究者もいる<ref>{{Citation|和書|last=菅原|first=千恵子|title=宮沢賢治の青春: “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって|publisher=宝島社|edition=初|date=1994-08-05|page=265|isbn=4-7966-0839-7}}</ref>。

310行目: 309行目:

* 『[[さるのこしかけ (小説)|さるのこしかけ]]』

* 『[[さるのこしかけ (小説)|さるのこしかけ]]』

* 『[[祭の晩]]』

* 『[[祭の晩]]』


* {{refnest|group=""|[[1923]]126[[]][[西]][[]]<ref>{{Cite journal | |last= |first= |author-link= |year=1997 |month=2 |title= :  |periodical=[[]] |volume=56 |issue=2 |pages=21-39 |naid=AN00017940 }}</ref><ref>{{Cite||author=[[]]|title=|publisher=[[]]|date=2012-10|pages=98|isbn=978-4-16-375750-6|ncid=BB10774414}}</ref>}}

* {{refnest|group=""|[[1923]]126[[]][[西]][[]]<ref>{{Cite journal | |author= |author-link= |year=1997-02 |title= :  |periodical=[[]] |volume=56 |issue=2 |pages=21-39 |id={{NCID|AN00017940}} }}</ref><ref>{{Cite||author=[[]]|title=|publisher=[[]]|date=2012-10|pages=98|isbn=978-4-16-375750-6|ncid=BB10774414}}</ref>}}


=== 詩 ===

=== 詩 ===

410行目: 409行目:

*『「銀河鉄道の夜」の旅〜1923宮沢賢治サハリン紀行の謎』

*『「銀河鉄道の夜」の旅〜1923宮沢賢治サハリン紀行の謎』

:1995年の[[ドキュメンタリー]]。制作:[[テレコムスタッフ]]/[[TBSテレビ|TBS]]。1995年度[[ギャラクシー賞|ギャラクシー奨励賞]]、第13回(1996年) [[全日本テレビ番組製作社連盟|ATP賞テレビグランプリ]] ベスト20番組をそれぞれ受賞。

:1995年の[[ドキュメンタリー]]。制作:[[テレコムスタッフ]]/[[TBSテレビ|TBS]]。1995年度[[ギャラクシー賞|ギャラクシー奨励賞]]、第13回(1996年) [[全日本テレビ番組製作社連盟|ATP賞テレビグランプリ]] ベスト20番組をそれぞれ受賞。

* 『ACT 宮沢賢治』

:[[1996年]]に上演された舞台。演出は[[加藤直]]。宮沢役で主演は[[沢田研二]]。

*『[[賢治のほほえみ]]』

*『[[賢治のほほえみ]]』

:[[1996年]]の[[テレビドラマ]]。[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]が『[[ドラマ新銀河]]』で[[7月8日]]から[[7月11日]]まで放送。

:[[1996年]]の[[テレビドラマ]]。[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]が『[[ドラマ新銀河]]』で[[7月8日]]から[[7月11日]]まで放送。

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*:[[太陽と風の家]]

*:[[太陽と風の家]]

* 斉藤征義記念 宮沢賢治ライブラリ「虔十庵(けんじゅうあん)」

* 斉藤征義記念 宮沢賢治ライブラリ「虔十庵(けんじゅうあん)」


*: 17002023521<ref name="hokkaido-np20230522">{{Cite web |title=  1700 |url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/849527/ |website= |access-date=2023-05-22 |language=ja}}</ref><ref name="hokkaido-np20230522" />20204120221225<ref>{{Cite web |title= No.131 |url=http://www.tomakomai-lib.jp/wp-content/uploads/2020/05/papyrus131.pdf |website= |access-date=2022-12-28 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=  |url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/780541/ |website= |access-date=2022-12-28 |language=ja}}</ref>

*: 17002023521<ref name="hokkaido-np20230522">{{Cite web||title=  1700 |url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/849527/ |website= |access-date=2023-05-22 |language=ja}}</ref><ref name="hokkaido-np20230522" />20204120221225<ref>{{Cite web||title= No.131 |url=http://www.tomakomai-lib.jp/wp-content/uploads/2020/05/papyrus131.pdf |website= |access-date=2022-12-28 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web||title=  |url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/780541/ |website= |access-date=2022-12-28 |language=ja}}</ref>


== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

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* [https://www.kenji.gr.jp/ 宮沢賢治学会イーハトーブセンター]

* [https://www.kenji.gr.jp/ 宮沢賢治学会イーハトーブセンター]

* [http://why.kenji.ne.jp 森羅情報サービス] - 賢治の大半の作品のテキストを掲載している。

* [http://why.kenji.ne.jp 森羅情報サービス] - 賢治の大半の作品のテキストを掲載している。

* [https://www.project-archive.org/0/100.html 宮沢賢治「遺書(2通)」] - ARCHIVE

* {{青空文庫著作者|81|宮沢 賢治}}

* {{青空文庫著作者|81|宮沢 賢治}}


* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/scaffale00410/kenjitop.htm |title= |date=20190331150736}} - 

* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/scaffale00410/kenjitop.htm |title= |date=20190331150736}} - 

2024年5月8日 (水) 19:56時点における版

宮沢 賢治
(みやざわ けんじ)
1924年1月12日[注釈 1]撮影
誕生 宮沢 賢治
(1896-08-27) 1896年8月27日
日本の旗 日本岩手県稗貫郡花巻川口町
(現・花巻市
死没 (1933-09-21) 1933年9月21日(37歳没)
日本の旗 日本・岩手県稗貫郡花巻町
(現・花巻市)
墓地 身照寺(花巻市)
職業 詩人
童話作家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 盛岡高等農林学校
(農学得業士[2]
(現・岩手大学農学部
活動期間 1918年 - 1933年
ジャンル
童話
サイエンス・フィクション
仏教哲学
主題 詩・童話・短編小説
文学活動 理想主義[3]
代表作注文の多い料理店』(1924年)
銀河鉄道の夜
風の又三郎
ポラーノの広場
グスコーブドリの伝記
よだかの星
セロ弾きのゴーシュ
雨ニモマケズ
デビュー作春と修羅』(1924年)
親族 宮澤政次郎(父)
宮澤清六(弟)
トシ、シゲ、クニ(妹)
テンプレートを表示

  :  1896︿29827 - 1933︿8921

Ihatov (Ihatovo) 


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1904 (37)
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19327
3 - 

19338
921 - 37

童話












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鹿



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[ 12]


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1958



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1993[ 13]



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1995TBS1995131996 ATP 20

ACT 

1996



1996NHK78711

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1996NHK86

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1996NHK824

 

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 - 宿3

注釈



(一)^ [1]

(二)^ 71981[4]

(三)^ 寿[22]

(四)^ (1958)

(五)^ [45]

(六)^ [86]

(七)^ [89]

(八)^  1999

(九)^  1989[150]

(十)^ [149]便[149][154]1915[149]

(11)^ [160]

(12)^ 1923126西[161][162]

(13)^ RPG

出典



(一)^  16 2001p.303

(二)^ ab 1319183192016921 

(三)^ 便201023343354ISBN 978-4-8343-1000-9 

(四)^ ab 1989, p. 12.

(五)^  1991, pp. 25.

(六)^  1989, p. 14.

(七)^ ab 1989, p. 13.

(八)^  2014, p. 38.

(九)^  1989, p. 17.

(十)^ ab 1991, p. 29.

(11)^ ab 1991, p. 31.

(12)^  1989, p. 19.

(13)^  1989, p. 25.

(14)^  1989, pp. 2627.

(15)^  1991, p. 54.

(16)^  1989, pp. 3435.

(17)^ ab 1989, p. 36.

(18)^  2008, pp. 5253.

(19)^  1989, pp. 3738.

(20)^  1991, p. 69.

(21)^  2014, p. 86.

(22)^  2014, p. 88-91.

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