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Project Archive (会話 | 投稿記録) 宮沢賢治の死後、トランクから発見された遺書(2通)を収録した外部リンクを付記した。底本は『校本宮澤賢治全集第十三巻』。 |
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{{Infobox 作家 |
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[[1921年]]︵大正10年︶1月23日夕方、東京行きの[[汽車]]に乗り[[家出]]。翌朝、[[上野駅]]に到着して[[鶯谷]]の国柱会館を訪ね﹁下足番でも[[チラシ|ビラ]]張りでもする﹂と頼みこむが、応対した高知尾智耀になだめられ、父の知人の小林六太郎家に身を寄せる{{sfn|作家読本|1989|pp=70-71}}。[[本郷 (文京区)|本郷]]菊坂町に下宿し、東大赤門前の[[謄写版]]印刷所﹁文信社﹂に勤める{{refnest|group="注釈"|文信社には、[[太平洋戦争]]後に[[釜石市]]長となった[[鈴木東民]]がおり、当時の模様を﹁筆耕のころの賢治﹂(筑摩書房版宮澤賢治全集別巻﹃宮澤賢治研究﹄、1958年)として書き残している。}}。高知尾の勧めで﹁法華文学﹂の創作に取り組む{{refnest|group="注釈"|﹁雨ニモマケズ手帳﹂に高知尾から﹁法華文学﹂の制作を勧められたというメモが残っているが、高知尾によればそのような記憶はなく、ただ法華経修行は[[出家]]することではなく、農家は[[鋤]][[鍬]]、商人は[[そろばん|ソロバン]]、文学者はペンを持ってそれぞれの道で法華経を広めるのが正しい修行と説いたという{{sfn|作家読本|1989|p=74}}。}}。1か月に三千枚もの原稿を書いたという。食事は[[ジャガイモ|じゃがいも]]と豆腐と油揚げで、夜は国柱会館の講話を聞き、昼間の街頭布教にも参加した{{sfn|山下|2008|pp=84-87}}。保阪嘉内には入信を勧める手紙を度々送った。心配した父の政次郎が[[小切手]]を送ったが送り返した{{sfn|作家読本|1989|p=74}}。4月、政次郎と[[伊勢]]、[[比叡山]]、[[奈良]]を旅する。政次郎は法華経と国柱会への固執を見直させようとしたが、賢治の心は変わらなかった{{sfn|堀尾|1991|p=117-118}}。7月、保阪と決裂、以後は疎遠になる。8月中旬、﹁トシビョウキスグカエレ﹂の[[電報]]を受け取り、原稿を[[トランク]]に詰めて花巻に戻る{{sfn|作家読本|1989|p=77}}。家族には原稿を﹁{{Ruby|童子|わらし}}こさえるかわりに書いたのだもや﹂と語ったという{{sfn|山下|2008|p=87}}。
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[[1921年]]︵大正10年︶1月23日夕方、東京行きの[[汽車]]に乗り[[家出]]。翌朝、[[上野駅]]に到着して[[鶯谷]]の国柱会館を訪ね﹁下足番でも[[チラシ|ビラ]]張りでもする﹂と頼みこむが、応対した高知尾智耀になだめられ、父の知人の小林六太郎家に身を寄せる{{sfn|作家読本|1989|pp=70-71}}。[[本郷 (文京区)|本郷]]菊坂町に下宿し、東大赤門前の[[謄写版]]印刷所﹁文信社﹂に勤める{{refnest|group="注釈"|文信社には、[[太平洋戦争]]後に[[釜石市]]長となった[[鈴木東民]]がおり、当時の模様を﹁筆耕のころの賢治﹂(筑摩書房版宮澤賢治全集別巻﹃宮澤賢治研究﹄、1958年)として書き残している。}}。高知尾の勧めで﹁法華文学﹂の創作に取り組む{{refnest|group="注釈"|﹁雨ニモマケズ手帳﹂に高知尾から﹁法華文学﹂の制作を勧められたというメモが残っているが、高知尾によればそのような記憶はなく、ただ法華経修行は[[出家]]することではなく、農家は[[鋤]][[鍬]]、商人は[[そろばん|ソロバン]]、文学者はペンを持ってそれぞれの道で法華経を広めるのが正しい修行と説いたという{{sfn|作家読本|1989|p=74}}。}}。1か月に三千枚もの原稿を書いたという。食事は[[ジャガイモ|じゃがいも]]と豆腐と油揚げで、夜は国柱会館の講話を聞き、昼間の街頭布教にも参加した{{sfn|山下|2008|pp=84-87}}。保阪嘉内には入信を勧める手紙を度々送った。心配した父の政次郎が[[小切手]]を送ったが送り返した{{sfn|作家読本|1989|p=74}}。4月、政次郎と[[伊勢]]、[[比叡山]]、[[奈良]]を旅する。政次郎は法華経と国柱会への固執を見直させようとしたが、賢治の心は変わらなかった{{sfn|堀尾|1991|p=117-118}}。7月、保阪と決裂、以後は疎遠になる。8月中旬、﹁トシビョウキスグカエレ﹂の[[電報]]を受け取り、原稿を[[トランク]]に詰めて花巻に戻る{{sfn|作家読本|1989|p=77}}。家族には原稿を﹁{{Ruby|童子|わらし}}こさえるかわりに書いたのだもや﹂と語ったという{{sfn|山下|2008|p=87}}。
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12月3日、稗貫郡立稗貫農学校︵翌年に岩手県立花巻農学校へ改称︶の[[教諭]]となる。地元では﹁桑っこ大学﹂と呼ばれた小さな学校だった{{sfn|作家読本|1989|p=80}}。雑誌﹃愛国婦人﹄12月号と翌年[[1922年]]︵大正11年︶1月号に﹁雪渡り﹂掲載。この時受け取った原稿料5円が生前唯一の原稿料という{{sfn|堀尾|1991|p=161}}。農学校の給料80円はレコード、書籍の購入、飲食などにあてた。下宿代として家に20円入れていたが、それも何かと理屈をつけてまきあげる。それでも3日ももてばいいほうで、本屋でツケで買った上、現金を借りることもあった。同僚の奥寺五郎︵1924年死去︶が[[結核]]になると毎月30円送っている{{sfn|堀尾|1991|pp=243-246}}。また花巻高等女学校の音楽教師・[[藤原嘉藤治]]と親交を結び、レコード鑑賞や飲食を楽しんだ{{sfn|堀尾|1991|p=210}}。
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12月3日、稗貫郡立稗貫農学校︵翌年に岩手県立花巻農学校へ改称、現在の[[岩手県立花巻農業高等学校]]︶の[[教諭]]となる。地元では﹁桑っこ大学﹂と呼ばれた小さな学校だった{{sfn|作家読本|1989|p=80}}。雑誌﹃愛国婦人﹄12月号と翌年[[1922年]]︵大正11年︶1月号に﹁雪渡り﹂掲載。この時受け取った原稿料5円が生前唯一の原稿料という{{sfn|堀尾|1991|p=161}}。農学校の給料80円はレコード、書籍の購入、飲食などにあてた。下宿代として家に20円入れていたが、それも何かと理屈をつけてまきあげる。それでも3日ももてばいいほうで、本屋でツケで買った上、現金を借りることもあった。同僚の奥寺五郎︵1924年死去︶が[[結核]]になると毎月30円送っている{{sfn|堀尾|1991|pp=243-246}}。また花巻高等女学校の音楽教師・[[藤原嘉藤治]]と親交を結び、レコード鑑賞や飲食を楽しんだ{{sfn|堀尾|1991|p=210}}。
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[[1922年]](大正11年)11月27日、結核で病臥中のトシの容態が急変、午後8時30分死去。賢治は[[押入れ]]に顔を入れて「とし子、とし子」と号哭し{{sfn|堀尾|1991|p=166}}、亡骸の乱れた髪を[[火箸]]で梳いた{{sfn|堀尾|1991|p=208}}。『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』を書く。29日の葬儀は[[真宗大谷派]]の寺で行われたため賢治は出席せず、出棺の時に現れて棺を担ぎ、持参した丸い缶にトシの遺骨半分を入れた。この遺骨は後に国柱会本部に納めた{{sfn|作家読本|1989|p=88}}。それから半年間、[[詩]]作をしなかった{{sfn|作家読本|1989|p=89}}。[[1923年]](大正12年)7月、農学校生徒の就職依頼で[[樺太]]を旅行。『青森挽歌』『樺太挽歌』などトシを思う詩を書く{{sfn|作家読本|1989|p=93}}。 |
[[1922年]](大正11年)11月27日、結核で病臥中のトシの容態が急変、午後8時30分死去。賢治は[[押入れ]]に顔を入れて「とし子、とし子」と号哭し{{sfn|堀尾|1991|p=166}}、亡骸の乱れた髪を[[火箸]]で梳いた{{sfn|堀尾|1991|p=208}}。『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』を書く。29日の葬儀は[[真宗大谷派]]の寺で行われたため賢治は出席せず、出棺の時に現れて棺を担ぎ、持参した丸い缶にトシの遺骨半分を入れた。この遺骨は後に国柱会本部に納めた{{sfn|作家読本|1989|p=88}}。それから半年間、[[詩]]作をしなかった{{sfn|作家読本|1989|p=89}}。[[1923年]](大正12年)7月、農学校生徒の就職依頼で[[樺太]]を旅行。『青森挽歌』『樺太挽歌』などトシを思う詩を書く{{sfn|作家読本|1989|p=93}}。 |
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=== 羅須地人協会 === |
=== 羅須地人協会 === |
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[[ファイル:Rasuchijin.jpg|thumb|250px|羅須地人協会に使われた建物([[岩手県立花巻農業高等学校|花巻農業高校]]内)]] |
[[ファイル:Rasuchijin.jpg|thumb|250px|羅須地人協会に使われた建物([[岩手県立花巻農業高等学校|花巻農業高校]]内)]] |
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[[1926年]]︵大正15年︶3月31日、花巻農学校を依願退職。弟宛ての手紙では校長の転任に伴って義理でやめると書いている{{sfn|作家読本|1989|p=119}}が、前年4月13日杉山芳松宛ての手紙では﹁来春はやめてもう本統の百姓になります﹂と辞職の決意をしている{{sfn|作家読本|1989|p=112}}。4月、実家を出て、かつてトシが療養生活をしていた下根子桜の別宅に移り、改装。周囲を開墾して畑と花壇を作った。ここで白菜、とうもろこし、トマト、セロリ、アスパラガスなど野菜を栽培するとともに、チューリップや[[ヒヤシンス]]の花を咲かせた。賢治は野菜を[[リヤカー]]で売り歩いたが、当時の農民にはリヤカーは高級品で、賢治の農業は金持ちの道楽とみられてしまう{{sfn|千葉|2014|pp=246-248}}。野菜を勝手に持っていかれても笑って許していた。農村の水路修理などの共同作業も参加せず金を包んで済ませている{{sfn|山下|2008|pp=138-139}}。また畑の白菜を全て盗まれるという嫌がらせにあった話を詩に残している<ref>{{Cite web |
[[1926年]]︵大正15年︶3月31日、花巻農学校を依願退職。弟宛ての手紙では校長の転任に伴って義理でやめると書いている{{sfn|作家読本|1989|p=119}}が、前年4月13日杉山芳松宛ての手紙では﹁来春はやめてもう本統の百姓になります﹂と辞職の決意をしている{{sfn|作家読本|1989|p=112}}。4月、実家を出て、かつてトシが療養生活をしていた下根子桜の別宅に移り、改装。周囲を開墾して畑と花壇を作った。ここで白菜、とうもろこし、トマト、セロリ、アスパラガスなど野菜を栽培するとともに、チューリップや[[ヒヤシンス]]の花を咲かせた。賢治は野菜を[[リヤカー]]で売り歩いたが、当時の農民にはリヤカーは高級品で、賢治の農業は金持ちの道楽とみられてしまう{{sfn|千葉|2014|pp=246-248}}。野菜を勝手に持っていかれても笑って許していた。農村の水路修理などの共同作業も参加せず金を包んで済ませている{{sfn|山下|2008|pp=138-139}}。また畑の白菜を全て盗まれるという嫌がらせにあった話を詩に残している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/47028_46742.html |author=宮沢賢治|title=七四三︹盗まれた白菜の根へ︺春と修羅 第三集 |publisher=青空文庫|accessdate=2016-10-21}}</ref>。﹁[[羅須地人協会]]﹂として農学校の卒業生や近在の篤農家を集め、農業や[[肥料]]の講習、レコードコンサートや音楽楽団の練習を始めた。6月﹃農民芸術概論綱要﹄起稿<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html|author=宮沢賢治|title=農民芸術概論綱要 |publisher=青空文庫|accessdate=2016-10-21}}</ref>。﹁世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない﹂として農民芸術の実践を試みた。
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また肥料設計事務所を開設、無料で肥料計算の相談に応じた。この様子は﹁それでは計算いたしませう﹂という詩に書かれている<ref>{{Cite web |
また肥料設計事務所を開設、無料で肥料計算の相談に応じた。この様子は﹁それでは計算いたしませう﹂という詩に書かれている<ref>{{Cite web|和書|url=http://why.kenji.ne.jp/sonota1/soredeha.html|author=宮沢賢治|title=︹それでは計算いたしませう︺春と修羅補遺|publisher=森羅情報サービス|accessdate=2016-10-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161028000158/http://why.kenji.ne.jp:80/sonota1/soredeha.html |archivedate=2016-10-28}}</ref>。
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12月2日、上京。[[タイプライター]]、[[チェロ|セロ]]、[[オルガン]]、[[エスペラント|エスペラント語]]を習い、観劇をする。資金は父親頼みだった。18日、[[高村光太郎]]を訪ねている。年末帰花{{sfn|作家読本|1989|pp=134-136}}。
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12月2日、上京。[[タイプライター]]、[[チェロ|セロ]]、[[オルガン]]、[[エスペラント|エスペラント語]]を習い、観劇をする。資金は父親頼みだった。18日、[[高村光太郎]]を訪ねている。年末帰花{{sfn|作家読本|1989|pp=134-136}}。
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死去から49年後の1982年、花巻市矢沢の胡四王山に花巻市立宮沢賢治記念館が開館している<ref>[http://www.city.hanamaki.iwate.jp/bunkasports/501/miyazawakenji/p004116.html 宮沢賢治記念館] - 花巻市</ref>。 |
死去から49年後の1982年、花巻市矢沢の胡四王山に花巻市立宮沢賢治記念館が開館している<ref>[http://www.city.hanamaki.iwate.jp/bunkasports/501/miyazawakenji/p004116.html 宮沢賢治記念館] - 花巻市</ref>。 |
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草稿調査によって、賢治の遺稿はほぼ調べ尽くされたと見られていたが、生家の[[土蔵]]から未発表の詩の草稿1枚︵地形図の裏に書かれたもの︶が発見されたことが2009年4月に公表され﹃新校本 宮澤賢治全集﹄別巻︵筑摩書房︶に収録された<ref>{{Cite web|url=http://book.asahi.com/news/TKY200904080264.html|title=宮沢賢治、地図の裏に未発表詩 三十数年ぶりの新作|publisher=asahi.com|date=2009-4-8|accessdate=2016-10-13|archivedate=2016-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161013104434/http://book.asahi.com/news/TKY200904080264.html}}</ref>。
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草稿調査によって、賢治の遺稿はほぼ調べ尽くされたと見られていたが、生家の[[土蔵]]から未発表の詩の草稿1枚︵地形図の裏に書かれたもの︶が発見されたことが2009年4月に公表され﹃新校本 宮澤賢治全集﹄別巻︵筑摩書房︶に収録された<ref>{{Cite web|和書|url=http://book.asahi.com/news/TKY200904080264.html|title=宮沢賢治、地図の裏に未発表詩 三十数年ぶりの新作|publisher=asahi.com|date=2009-4-8|accessdate=2016-10-13|archivedate=2016-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161013104434/http://book.asahi.com/news/TKY200904080264.html}}</ref>。
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広く作品世界を覆っているのは、作者自らの裕福な出自と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ[[贖罪]]感や[[自己犠牲]]精神である。また幼い頃から親しんだ仏教も強い影響を与えている。その主な契機としては[[浄土真宗]]の[[暁烏敏]]らの講話・説教が挙げられる。特に18歳の時に同宗の学僧である[[島地大等]]編訳の[[法華経]]を読んで深い感銘を受けたと言われる。この法華経信仰の高まりにより、賢治は後に[[国粋主義]]的な法華宗教団「国柱会」に入信するが、法華宗は当時の宮沢家とは宗派違いであったので、父親との対立を深めることとなった。弱者に対する献身的精神、強者への嫌悪などの要素は、これらの経緯と深い関わりがあると思われる。また、良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感は、以後の作品に特有の陰影を加えた。 |
広く作品世界を覆っているのは、作者自らの裕福な出自と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ[[贖罪]]感や[[自己犠牲]]精神である。また幼い頃から親しんだ仏教も強い影響を与えている。その主な契機としては[[浄土真宗]]の[[暁烏敏]]らの講話・説教が挙げられる。特に18歳の時に同宗の学僧である[[島地大等]]編訳の[[法華経]]を読んで深い感銘を受けたと言われる。この法華経信仰の高まりにより、賢治は後に[[国粋主義]]的な法華宗教団「国柱会」に入信するが、法華宗は当時の宮沢家とは宗派違いであったので、父親との対立を深めることとなった。弱者に対する献身的精神、強者への嫌悪などの要素は、これらの経緯と深い関わりがあると思われる。また、良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感は、以後の作品に特有の陰影を加えた。 |
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賢治の作品には[[コスモポリタニズム|世界主義]]的な雰囲気があり、岩手県という[[郷土愛|郷土への愛着]]こそあれ、[[軍国主義]]や[[ナショナリズム|民族主義]]的な要素を直接反映した作品はほとんど見られない。ただ、24歳の時に国柱会に入信してから、時期によって活動、傾倒の度合いに差はあるものの、生涯その一員であり続けたため、その社会的活動や自己犠牲的な思想について当時の[[ファシズム]]的風潮との関連も議論されている。晩年には遺作『[[銀河鉄道の夜]]』に見られるように[[キリスト教]]的な[[救済]]信仰をも取り上げ、全人類への宗教的寛容に達していたことが垣間見られる。宗教学者からは、賢治のこうした考え方の根本は、法華経に基づくものであると指摘されている<ref>{{cite video |url=http://www.youtube.com/watch?v=OQnEDI-QYhA&list=PL29809B3CE9F5C44B |title=宮澤賢治はなぜ浄土真宗から法華経信仰へ改宗したのか |people=[[正木晃]](話者)|publisher=日蓮宗 |date=2012-08-26}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=[[定方晟]] |title=『銀河鉄道の夜』と法華経 |journal=東海大学紀要. 文学部 |volume=64 |pages=110-88 |publisher=東海大学文学部 |location=東京|date=1995|url=https://opac.time.u-tokai.ac.jp/webopac/TC20001999 |issn=05636760 |naid=110001048402 |accessdate=2016-09-21}}110頁。</ref>。この宗教的思想と自然科学の融合した独自の世界観は[[第二次世界大戦]]後に日本国外の研究者からも評価され、[[1996年]]9月、宮沢賢治生誕100周年を記念して花巻市にて開催された宮沢賢治国際学会では20ヶ国程の研究者、翻訳者が集ったことを[[歴史家]]の[[色川大吉]]は著書で言及している<ref>{{Citation|和書|last=色川|first=大吉|title=歴史家の見た宮沢賢治の光と闇|journal=色川大吉歴史論集:近代の光と闇|publisher=日本経済評論社|date=2013-01-18|page=2|isbn=978-4-8188-2254-2|ncid=BB11426978}}</ref>。 |
賢治の作品には[[コスモポリタニズム|世界主義]]的な雰囲気があり、岩手県という[[郷土愛|郷土への愛着]]こそあれ、[[軍国主義]]や[[ナショナリズム|民族主義]]的な要素を直接反映した作品はほとんど見られない。ただ、24歳の時に国柱会に入信してから、時期によって活動、傾倒の度合いに差はあるものの、生涯その一員であり続けたため、その社会的活動や自己犠牲的な思想について当時の[[ファシズム]]的風潮との関連も議論されている。晩年には遺作『[[銀河鉄道の夜]]』に見られるように[[キリスト教]]的な[[救済]]信仰をも取り上げ、全人類への宗教的寛容に達していたことが垣間見られる。宗教学者からは、賢治のこうした考え方の根本は、法華経に基づくものであると指摘されている<ref>{{cite video |url=http://www.youtube.com/watch?v=OQnEDI-QYhA&list=PL29809B3CE9F5C44B |title=宮澤賢治はなぜ浄土真宗から法華経信仰へ改宗したのか |people=[[正木晃]](話者)|publisher=日蓮宗 |date=2012-08-26}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=[[定方晟]] |title=『銀河鉄道の夜』と法華経 |journal=東海大学紀要. 文学部 |volume=64 |pages=110-88 |publisher=東海大学文学部 |location=東京|date=1995|url=https://opac.time.u-tokai.ac.jp/webopac/TC20001999 |issn=05636760 |naid=110001048402 |accessdate=2016-09-21}}110頁。</ref>。この宗教的思想と自然科学の融合した独自の世界観は[[第二次世界大戦]]後に日本国外の研究者からも評価され、[[1996年]]9月、宮沢賢治生誕100周年を記念して花巻市にて開催された宮沢賢治国際学会では20ヶ国程の研究者、翻訳者が集ったことを[[歴史家]]の[[色川大吉]]は著書で言及している<ref>{{Citation|和書|last=色川|first=大吉|title=歴史家の見た宮沢賢治の光と闇|journal=色川大吉歴史論集:近代の光と闇|publisher=日本経済評論社|date=2013-01-18|page=2|isbn=978-4-8188-2254-2|ncid=BB11426978}}</ref>。 |
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賢治は自ら学んだエスペラントでも詩作を試みたが、公表されたのは1953年である。これらの作品のほとんどは自らの作品のエスペラントへの翻訳、改作である<ref>{{Cite web|url=http://www.hh.e-mansion.com/~sibazyun/ali-trad/poe-miyazawa0.htm|title=宮沢賢治・自訳エスペラント詩集 |accessdate=2016-09-03}}(このサイトには公表状態でなく、校訂された作品が掲載されている)</ref>。 |
賢治は自ら学んだエスペラントでも詩作を試みたが、公表されたのは1953年である。これらの作品のほとんどは自らの作品のエスペラントへの翻訳、改作である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hh.e-mansion.com/~sibazyun/ali-trad/poe-miyazawa0.htm|title=宮沢賢治・自訳エスペラント詩集 |accessdate=2016-09-03}}(このサイトには公表状態でなく、校訂された作品が掲載されている)</ref>。 |
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[[1998年]]頃に、[[山折哲雄]]がある[[小学校]]で授業をした際に、賢治の3つの作品『[[風の又三郎]]』『[[注文の多い料理店]]』『[[銀河鉄道の夜]]』を示し、これらに共通する問題があり、それは何だと子供たちに問い、自らは[[風]]がすごく大きな役割を果たしている、この3つの童話の中心的大問題は「風」だと力説した。この時、子供の一人が「[[猫]]」だと言おうとしたが、山折が「風」と言ったのであれっと思ったが、山折の話を聞く内にやっぱり「風」だと思った。ところがこの[[エピソード]]を聞いた[[河合隼雄]]は、賢治作品における猫の役割の重要性をずっと考えていたため、「猫と風」というヒントから、風のつかまえどころの無さと優しさと荒々しさの同居、少しの隙間でも入り込んでくる点など猫との共通点を感じ、賢治作品に登場する猫は、正にそのような性格を持って登場すると論じている。賢治の『猫』という短編には「私は猫は大嫌いです。猫のからだの中を考えると吐きそうになります」という一節が見られる<ref name="neko">[[河合隼雄]] 『猫だましい』 新潮社、2000年5月20日。{{要ページ番号|date=2016年9月}}</ref>。しかし、この「猫」は[[高瀬露]]が転嫁された表現であり、実際に賢治が猫嫌いだったわけではないという指摘もある([[ますむらひろし]]著『イーハトーブ乱入記―僕の宮沢賢治体験』{{要ページ番号|date=2019年5月}})。 |
[[1998年]]頃に、[[山折哲雄]]がある[[小学校]]で授業をした際に、賢治の3つの作品『[[風の又三郎]]』『[[注文の多い料理店]]』『[[銀河鉄道の夜]]』を示し、これらに共通する問題があり、それは何だと子供たちに問い、自らは[[風]]がすごく大きな役割を果たしている、この3つの童話の中心的大問題は「風」だと力説した。この時、子供の一人が「[[猫]]」だと言おうとしたが、山折が「風」と言ったのであれっと思ったが、山折の話を聞く内にやっぱり「風」だと思った。ところがこの[[エピソード]]を聞いた[[河合隼雄]]は、賢治作品における猫の役割の重要性をずっと考えていたため、「猫と風」というヒントから、風のつかまえどころの無さと優しさと荒々しさの同居、少しの隙間でも入り込んでくる点など猫との共通点を感じ、賢治作品に登場する猫は、正にそのような性格を持って登場すると論じている。賢治の『猫』という短編には「私は猫は大嫌いです。猫のからだの中を考えると吐きそうになります」という一節が見られる<ref name="neko">[[河合隼雄]] 『猫だましい』 新潮社、2000年5月20日。{{要ページ番号|date=2016年9月}}</ref>。しかし、この「猫」は[[高瀬露]]が転嫁された表現であり、実際に賢治が猫嫌いだったわけではないという指摘もある([[ますむらひろし]]著『イーハトーブ乱入記―僕の宮沢賢治体験』{{要ページ番号|date=2019年5月}})。 |
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=== 幼少期の伝説 === |
=== 幼少期の伝説 === |
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{{要出典範囲|賢治には多くの「伝説」が語り継がれているが、特に本人が資料を残していない幼少期の[[神格化]]が甚だしいと指摘されている。こうした神格化を後押ししていたのが、父・政次郎や弟・清六であった。|date=2021-07}}伝説が嘘ではないにしても誇張や曲解が行われたのは関係者の思い入れと宮沢家への気遣いであろうと、[[山下聖美]]は推測している{{sfn|山下|2008|p=30-34}}。現代では[[吉田司]]の『宮沢賢治殺人事件』のように[[聖人]]イメージを破壊するという著作も現れている{{sfn|千葉|2014|pp=2-3}}。 |
{{要出典範囲|賢治には多くの「伝説」が語り継がれているが、特に本人が資料を残していない幼少期の[[神格化]]が甚だしいと指摘されている。こうした神格化を後押ししていたのが、父・政次郎や弟・清六であった。|date=2021-07}}伝説が嘘ではないにしても誇張や曲解が行われたのは関係者の思い入れと宮沢家への気遣いであろうと、[[山下聖美]]は推測している{{sfn|山下|2008|p=30-34}}。現代では[[吉田司]]の『宮沢賢治殺人事件』のように[[聖人]]イメージを破壊するという著作も現れている{{sfn|千葉|2014|pp=2-3}}。 |
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* 生誕の約2ヶ月前である1896年6月15日に[[明治三陸地震|三陸地震津波]]が、誕生直後にも[[陸羽地震]]が発生した。清六は、賢治の生まれた年は東北地方に災害が多く、﹁それは雨や風や天候を心配し、あらゆる生物の幸福を祈って、善意を燃やし続けた賢治の生涯が、容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった︵兄賢治の生涯︶﹂と述懐している{{sfn|作家読本|1989|p=11}}。また、1933年︵没年︶の3月3日に﹁[[昭和三陸地震|三陸沖地震]]﹂(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。地震直後に詩人の大木実︵[[1913年]]-[[1996年]]︶へ宛てた見舞いの礼状<ref>{{Cite web |
* 生誕の約2ヶ月前である1896年6月15日に[[明治三陸地震|三陸地震津波]]が、誕生直後にも[[陸羽地震]]が発生した。清六は、賢治の生まれた年は東北地方に災害が多く、﹁それは雨や風や天候を心配し、あらゆる生物の幸福を祈って、善意を燃やし続けた賢治の生涯が、容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった︵兄賢治の生涯︶﹂と述懐している{{sfn|作家読本|1989|p=11}}。また、1933年︵没年︶の3月3日に﹁[[昭和三陸地震|三陸沖地震]]﹂(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。地震直後に詩人の大木実︵[[1913年]]-[[1996年]]︶へ宛てた見舞いの礼状<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kenji.gr.jp/kaiho/kaiho31/index.html#L |title=詩人大木実あて書簡 宮沢賢治学会・会報31号 |publisher=宮沢賢治学会 |accessdate=2010-11-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060207002502/http://kenji.gr.jp/kaiho/kaiho31/index.html |archivedate=2006-2-7 |deadlinkdate=2014-12-18}}</ref>には、﹁海岸は実に悲惨です﹂と津波の被害について書いている<ref>{{Cite book |和書 |author=勉誠出版株式会社 |authorlink= |date=2010-07 |title=月光 |volume=2 |publisher=勉誠出版 |page= |isbn=978-4-585-05226-5}}{{要ページ番号|date=2016年9月}}</ref>。
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* 尋常小学校時代、赤いシャツを着てきた同級生が皆に囲まれ﹁メッカシ︵めかしこんでいる︶﹂とからかわれていた。賢治は間に入り﹁おれも赤シャツ着てくるからいじめるならおれをいじめてくれ﹂とかばった{{sfn|堀尾|1991|p=36}}。
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* 尋常小学校時代、赤いシャツを着てきた同級生が皆に囲まれ﹁メッカシ︵めかしこんでいる︶﹂とからかわれていた。賢治は間に入り﹁おれも赤シャツ着てくるからいじめるならおれをいじめてくれ﹂とかばった{{sfn|堀尾|1991|p=36}}。
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* [[めんこ|メンコ]]で遊んでいた時、仲間の一人がメンコを追って指を馬車にひかれ出血した。賢治は﹁いたかべ、いたかべ﹂と言いながらその指を吸ってやった{{sfn|堀尾|1991|p=36}}。
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* [[めんこ|メンコ]]で遊んでいた時、仲間の一人がメンコを追って指を馬車にひかれ出血した。賢治は﹁いたかべ、いたかべ﹂と言いながらその指を吸ってやった{{sfn|堀尾|1991|p=36}}。
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=== 食生活と菜食主義 === |
=== 食生活と菜食主義 === |
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[[日蓮]]系教団では[[末法無戒]]を説くため菜食の必要は無いのだが<ref>鎌田としき﹁[http://ihatov.la.coocan.jp/bizi.htm 宮沢賢治﹁ビヂテリアン大祭﹂考]﹂</ref>、賢治は法華経信仰に入った後、盛岡高農研究生になった1918年︵大正7年︶から5年間[[菜食主義|菜食生活]]をした{{sfn|堀尾|1991|p=96}}。5月19日付の保阪嘉内に宛てた手紙では、[[刺身]]や[[茶碗蒸し]]を少量食べた後、食べられる生き物に同情する気持ちを綴っている<ref>{{Cite web|url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/63.html |title=1918年5月19日 保阪嘉内あて 封書︵封筒ナシ︶|publisher=宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス |accessdate=2016-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160916120804/http://why.kenji.ne.jp:80/shiryo/shokan/63.html |archivedate=2016-09-16}}</ref>。[[東京]]でトシの看病をするため宿泊していた旅館﹁雲台館﹂では、賢治のため[[精進料理]]を出してくれたという{{sfn|堀尾|1991|p=103}}。家出上京中は、[[芋]]と[[豆腐]]と[[油揚げ]]ばかり食べ{{sfn|作家読本|1989|p=68}}、[[脚気]]になった時は、[[蕎麦がき]]や[[麦飯]]、[[冬瓜]]の汁を飲んだ{{sfn|堀尾|1991|p=456}}。1921年︵大正10年︶8月11日付の関徳弥宛の手紙では脚気の原因を肉食のせいにしている<ref>{{Cite web|url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/197.html |title=︵1921年8月11日︶関徳彌あて 封書|publisher=宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス |accessdate=2016-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141223092757/http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/197.html |archivedate=2014-12-23}}</ref>。
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[[日蓮]]系教団では[[末法無戒]]を説くため菜食の必要は無いのだが<ref>鎌田としき﹁[http://ihatov.la.coocan.jp/bizi.htm 宮沢賢治﹁ビヂテリアン大祭﹂考]﹂</ref>、賢治は法華経信仰に入った後、盛岡高農研究生になった1918年︵大正7年︶から5年間[[菜食主義|菜食生活]]をした{{sfn|堀尾|1991|p=96}}。5月19日付の保阪嘉内に宛てた手紙では、[[刺身]]や[[茶碗蒸し]]を少量食べた後、食べられる生き物に同情する気持ちを綴っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/63.html |title=1918年5月19日 保阪嘉内あて 封書︵封筒ナシ︶|publisher=宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス |accessdate=2016-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160916120804/http://why.kenji.ne.jp:80/shiryo/shokan/63.html |archivedate=2016-09-16}}</ref>。[[東京]]でトシの看病をするため宿泊していた旅館﹁雲台館﹂では、賢治のため[[精進料理]]を出してくれたという{{sfn|堀尾|1991|p=103}}。家出上京中は、[[芋]]と[[豆腐]]と[[油揚げ]]ばかり食べ{{sfn|作家読本|1989|p=68}}、[[脚気]]になった時は、[[蕎麦がき]]や[[麦飯]]、[[冬瓜]]の汁を飲んだ{{sfn|堀尾|1991|p=456}}。1921年︵大正10年︶8月11日付の関徳弥宛の手紙では脚気の原因を肉食のせいにしている<ref>{{Cite web|和書|url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/197.html |title=︵1921年8月11日︶関徳彌あて 封書|publisher=宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス |accessdate=2016-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141223092757/http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/197.html |archivedate=2014-12-23}}</ref>。
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農学校教員時代は菜食にこだわらず、同僚や知人と[[外食]]を楽しんだ。花巻の蕎麦屋﹁やぶ屋﹂を﹁ブッシュ﹂と呼び、よく通っていた。[[天ぷら]][[蕎麦]]と[[サイダー]]を一緒に注文するのが定番だった<ref>{{Cite web|url=http://www.yabuya.jp/ybyhpg3.htm |title=宮澤賢治とやぶ屋 |publisher=岩手花巻名物わんこそば やぶ屋 |accessdate=2016-09-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170702013605/http://www.yabuya.jp:80/ybyhpg3.htm |archivedate=2017-01-02}}</ref>。また[[鰻丼]]や[[天丼]]も好物だったという{{sfn|山下|2008|pp=156-157}}。自分から進んで[[酒]]を飲むことはなかったが、付き合いで酒をすすめられると[[水]]でも飲むように飲み干して返盃した。時に[[たばこ]]を吸うこともあった{{sfn|作家読本|1989|p=97}}。また教員仲間が集まった時、[[藤原嘉藤治]]から﹁人間は物の命を食って生きている。他を犯さずに生きうる世界というものはないのだろうか。﹂と問いかけられた答えとして﹃[[ビジテリアン大祭]]﹄を書いている{{sfn|堀尾|1991|p=214}}。
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農学校教員時代は菜食にこだわらず、同僚や知人と[[外食]]を楽しんだ。花巻の蕎麦屋﹁やぶ屋﹂を﹁ブッシュ﹂と呼び、よく通っていた。[[天ぷら]][[蕎麦]]と[[サイダー]]を一緒に注文するのが定番だった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yabuya.jp/ybyhpg3.htm |title=宮澤賢治とやぶ屋 |publisher=岩手花巻名物わんこそば やぶ屋 |accessdate=2016-09-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170702013605/http://www.yabuya.jp:80/ybyhpg3.htm |archivedate=2017-01-02}}</ref>。また[[鰻丼]]や[[天丼]]も好物だったという{{sfn|山下|2008|pp=156-157}}。自分から進んで[[酒]]を飲むことはなかったが、付き合いで酒をすすめられると[[水]]でも飲むように飲み干して返盃した。時に[[たばこ]]を吸うこともあった{{sfn|作家読本|1989|p=97}}。また教員仲間が集まった時、[[藤原嘉藤治]]から﹁人間は物の命を食って生きている。他を犯さずに生きうる世界というものはないのだろうか。﹂と問いかけられた答えとして﹃[[ビジテリアン大祭]]﹄を書いている{{sfn|堀尾|1991|p=214}}。
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羅須地人協会時代の自炊は極端な粗食だった。[[ご飯]]はまとめて炊いてザルに移して[[井戸]]の中に吊り下げて置き、冬は凍ったまま食べた。[[おかず]]は油揚げや[[漬物]]、[[トマト]]などだった{{sfn|作家読本|1989|p=142}}{{sfn|山下|2008|pp=152-153}}。賢治の体を心配した母のイチが[[小豆]]を入れた[[ひっつみ]]を届けたことがあるが、受け取らなかった{{sfn|千葉|2014|pp=36-30}}。急性肺炎で倒れ病臥生活になっても菜食はやめず、[[鶏卵]]も[[牛乳]]も拒否した<ref>{{Cite web|url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/419.html|title=1932年6月1日(森佐一あて) 下書|publisher=宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス |accessdate=2016-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161014060119/http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/419.html |archivedate=2016-10-14}}</ref>。イチが[[鯉]]の生き肝が肺炎に効くと聞いて、[[オブラート]]に包み薬と偽って飲ませたことがあった。弟の清六から中身を聞き出した賢治は涙を流し、「生き物の命をとるくらいならおれは死んだほうがいい」「これからは決してそんなことをしてくれるな」と真っ青な顔で言い、最期まで菜食主義をつらぬいた{{sfn|堀尾|1991|p=459-462}}。 |
羅須地人協会時代の自炊は極端な粗食だった。[[ご飯]]はまとめて炊いてザルに移して[[井戸]]の中に吊り下げて置き、冬は凍ったまま食べた。[[おかず]]は油揚げや[[漬物]]、[[トマト]]などだった{{sfn|作家読本|1989|p=142}}{{sfn|山下|2008|pp=152-153}}。賢治の体を心配した母のイチが[[小豆]]を入れた[[ひっつみ]]を届けたことがあるが、受け取らなかった{{sfn|千葉|2014|pp=36-30}}。急性肺炎で倒れ病臥生活になっても菜食はやめず、[[鶏卵]]も[[牛乳]]も拒否した<ref>{{Cite web|和書|url=http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/419.html|title=1932年6月1日︵森佐一あて︶ 下書|publisher=宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス |accessdate=2016-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161014060119/http://why.kenji.ne.jp/shiryo/shokan/419.html |archivedate=2016-10-14}}</ref>。イチが[[鯉]]の生き肝が肺炎に効くと聞いて、[[オブラート]]に包み薬と偽って飲ませたことがあった。弟の清六から中身を聞き出した賢治は涙を流し、﹁生き物の命をとるくらいならおれは死んだほうがいい﹂﹁これからは決してそんなことをしてくれるな﹂と真っ青な顔で言い、最期まで菜食主義をつらぬいた{{sfn|堀尾|1991|p=459-462}}。
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=== 恋愛・性愛観 === |
=== 恋愛・性愛観 === |
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*:[[太陽と風の家]] |
*:[[太陽と風の家]] |
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* 斉藤征義記念 宮沢賢治ライブラリ「虔十庵(けんじゅうあん)」 |
* 斉藤征義記念 宮沢賢治ライブラリ「虔十庵(けんじゅうあん)」 |
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*: 斉藤征義の宮沢賢治と詩の世界館︵苫小牧市王子町︶の閉館後にその蔵書約1700冊を引き継ぎ、苫小牧市音羽町の妙見寺が2023年5月21日に寺内に開設<ref name="hokkaido-np20230522">{{Cite web |
*: 斉藤征義の宮沢賢治と詩の世界館︵苫小牧市王子町︶の閉館後にその蔵書約1700冊を引き継ぎ、苫小牧市音羽町の妙見寺が2023年5月21日に寺内に開設<ref name="hokkaido-np20230522">{{Cite web|和書|title=宮沢文学伝承の拠点再び 苫小牧・妙見寺に開設 作品や解説書1700冊 |url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/849527/ |website=北海道新聞 |access-date=2023-05-22 |language=ja}}</ref>。原則毎月一回第一土曜日に開館<ref name="hokkaido-np20230522" />。旧所蔵館の斉藤征義の宮沢賢治と詩の世界館は、詩人で宮沢賢治研究者の斉藤征義が遺した資料の整理を目的として、賢治研究に関連する資料などを集めて2020年4月1日に開設された私設図書館だった︵2022年12月25日閉館︶<ref>{{Cite web|和書|title=苫小牧市立中央図書館報 No.131 |url=http://www.tomakomai-lib.jp/wp-content/uploads/2020/05/papyrus131.pdf |website=苫小牧市立中央図書館 |access-date=2022-12-28 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=宮沢賢治関連の蔵書多数 苫小牧の﹁詩の世界館﹂閉館 |url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/780541/ |website=北海道新聞 |access-date=2022-12-28 |language=ja}}</ref>。
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [https://www.kenji.gr.jp/ 宮沢賢治学会イーハトーブセンター] |
* [https://www.kenji.gr.jp/ 宮沢賢治学会イーハトーブセンター] |
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* [http://why.kenji.ne.jp 森羅情報サービス] - 賢治の大半の作品のテキストを掲載している。 |
* [http://why.kenji.ne.jp 森羅情報サービス] - 賢治の大半の作品のテキストを掲載している。 |
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* [https://www.project-archive.org/0/100.html 宮沢賢治「遺書(2通)」] - ARCHIVE |
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* {{青空文庫著作者|81|宮沢 賢治}} |
* {{青空文庫著作者|81|宮沢 賢治}} |
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* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/scaffale00410/kenjitop.htm |title=宮沢賢治︵日本詩人愛唱歌集︶ |date=20190331150736}} - ﹁どの詩に誰が作曲したか﹂や宮沢原作の﹁オペラ、音楽劇、ミュージカル﹂など。
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* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/scaffale00410/kenjitop.htm |title=宮沢賢治︵日本詩人愛唱歌集︶ |date=20190331150736}} - ﹁どの詩に誰が作曲したか﹂や宮沢原作の﹁オペラ、音楽劇、ミュージカル﹂など。
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2024年5月8日 (水) 19:56時点における版
宮沢 賢治 (みやざわ けんじ) | |
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1924年1月12日[注釈 1]撮影 | |
誕生 |
宮沢 賢治 1896年8月27日 日本・岩手県稗貫郡花巻川口町 (現・花巻市) |
死没 |
1933年9月21日(37歳没) 日本・岩手県稗貫郡花巻町 (現・花巻市) |
墓地 | 身照寺(花巻市) |
職業 |
詩人 童話作家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 |
盛岡高等農林学校 (農学得業士)[2] (現・岩手大学農学部) |
活動期間 | 1918年 - 1933年 |
ジャンル |
詩 童話 サイエンス・フィクション 仏教哲学 |
主題 | 詩・童話・短編小説 |
文学活動 | 理想主義[3] |
代表作 |
『注文の多い料理店』(1924年) 『銀河鉄道の夜』 『風の又三郎』 『ポラーノの広場』 『グスコーブドリの伝記』 『よだかの星』 『セロ弾きのゴーシュ』 『雨ニモマケズ』 |
デビュー作 | 『春と修羅』(1924年) |
親族 |
宮澤政次郎(父) 宮澤清六(弟) トシ、シゲ、クニ(妹) |
影響を与えたもの
|
生涯
幼少期・少年期
盛岡高等農林学校、国柱会
家出上京、農学校教員へ
詩集と童話出版
1924年︵大正13年︶4月20日﹃心象スケツチ 春と修羅﹄刊行。花巻の吉田印刷所に持ち込み1000部を自費出版した︵定価2円40銭︶。発行所の名義は東京の関根書店になっている。東京での配本を関根喜太郎という人物に頼み500部委託したが、関根はゾッキ本として流してしまい、古本屋で50銭で売られたという[59][60]。本は売れず、賢治もほとんど寄贈してしまったが、7月にダダイストの辻潤が﹃読売新聞﹄に連載していたエッセイで紹介。詩人の佐藤惣之助も雑誌﹃日本詩人﹄12号で若い詩人に﹁宮沢君のようなオリジナリティーを持つよう﹂と例に挙げた[61]。中原中也は夜店で5銭で売っていた﹃春と修羅﹄のゾッキ本を買い集め、知人に配っている[62]。同年12月1日﹃イーハトヴ童話 注文の多い料理店﹄刊行︵定価1円60銭︶。盛岡高農の後輩で農薬のパンフレットを作っていた近森善一と及川四郎が賢治の原稿を見て刊行を計画、出版費用の工面に苦労しながら東京で印刷、製本した。出版社﹁光原社﹂の名義で1000部作ったが全く売れず、賢治は父親から300円借りて200部買い取った[63][64]。本の挿絵を担当した菊池武雄は﹃赤い鳥﹄主宰の鈴木三重吉に﹃タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった﹄を送ったが﹁あんな原稿はロシアにでも持っていくんだな﹂と返された[65]。しかし翌年1月、﹃赤い鳥﹄に﹃注文の多い料理店﹄の一頁広告が掲載される。三重吉の厚意で無料だった[62]。7月、詩人の草野心平の同人誌﹃銅鑼﹄に参加する。11月23日、花巻の北上川小船渡に東北帝国大学地質古生物教室の早坂一郎教授を案内、賢治が採集したバタグルミ︵クルミの古種︶化石の学術調査に協力。この場所を賢治は﹁イギリス海岸﹂と名付けていた[66]。羅須地人協会
東北砕石工場技師、死
1930年︵昭和5年︶、体調が回復に向かい、文語詩の制作をはじめる[82]。5月、東磐井郡の陸中松川駅前にあった東北砕石工場主の鈴木東蔵が来訪。鈴木は石灰岩とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画しており、賢治も賛同する[83]。 1931年︵昭和6年︶2月21日、東北砕石工場花巻出張所が開設。父の政次郎は病弱な賢治を外に出すのを心配し、工場に融資を行って花巻に出張所を作り、仕事をさせようとの考えだった[84]。しかし技師となった賢治は製品の改造、広告文の起草、製品の注文取り、販売などで東奔西走する[85]。農閑期、石灰は売れなくなる。そこで賢治は石灰を壁材料に転用することを考え、9月19日、40キログラムもの製品見本を鞄に詰めて上京する。翌20日、神田駿河台の旅館﹁八幡館﹂[注釈 6]に泊まるが高熱で倒れ、死を覚悟して、家族に遺書を書く[87]。27日、最期の別れのつもりで父親に電話をかける。政次郎は東京の小林六太郎に頼み、翌日賢治は花巻に戻ってすぐ病臥生活となる。11月、手帳に﹃雨ニモマケズ﹄を書く[88]。 1932年︵昭和7年︶3月﹃児童文学﹄第二冊に﹁グスコーブドリの伝記﹂発表。挿絵は棟方志功[注釈 7]。病床では文語詩の制作や過去の作品の推敲に取り組む[90]。前年冬から医者にもかからず、薬はビール酵母と竹の皮を煎じたものを飲むだけだった[91][92]。作品と評価
人物像
幼少期の伝説
賢治には多くの﹁伝説﹂が語り継がれているが、特に本人が資料を残していない幼少期の神格化が甚だしいと指摘されている。こうした神格化を後押ししていたのが、父・政次郎や弟・清六であった。[要出典]伝説が嘘ではないにしても誇張や曲解が行われたのは関係者の思い入れと宮沢家への気遣いであろうと、山下聖美は推測している[108]。現代では吉田司の﹃宮沢賢治殺人事件﹄のように聖人イメージを破壊するという著作も現れている[109]。 ●生誕の約2ヶ月前である1896年6月15日に三陸地震津波が、誕生直後にも陸羽地震が発生した。清六は、賢治の生まれた年は東北地方に災害が多く、﹁それは雨や風や天候を心配し、あらゆる生物の幸福を祈って、善意を燃やし続けた賢治の生涯が、容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった︵兄賢治の生涯︶﹂と述懐している[110]。また、1933年︵没年︶の3月3日に﹁三陸沖地震﹂(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。地震直後に詩人の大木実︵1913年-1996年︶へ宛てた見舞いの礼状[111]には、﹁海岸は実に悲惨です﹂と津波の被害について書いている[112]。 ●尋常小学校時代、赤いシャツを着てきた同級生が皆に囲まれ﹁メッカシ︵めかしこんでいる︶﹂とからかわれていた。賢治は間に入り﹁おれも赤シャツ着てくるからいじめるならおれをいじめてくれ﹂とかばった[113]。 ●メンコで遊んでいた時、仲間の一人がメンコを追って指を馬車にひかれ出血した。賢治は﹁いたかべ、いたかべ﹂と言いながらその指を吸ってやった[113]。 ●いたずらをした罰として水を満杯にした茶碗を持って廊下に立たされていた生徒がいた。先生の用で廊下に出た賢治は﹁ひどいだろう、大変だろう﹂と茶碗の水を飲み干してやった[113]。 ●尋常小学校2年の時、4人の小学生が豊沢川に流され2人が亡くなった。子供を捜索する船の明かりを大勢の人が集まり豊沢橋の上から見守っていた。賢治も同級生が流されたと聞いてこれを見ており、のちに創作のモチーフとなった[10]。科学
幼少期に石を好んで収集する鉱物愛好家だったことから、11歳頃より家族に﹁石コ賢さん﹂という愛称で呼ばれた[11]。盛岡中学校時代は、休日に盛岡周辺で鉱物採集をしたり、道中で﹁矢ノ根石﹂︵石鏃︶を収集するためあえて徒歩で帰省したりした[114]。盛岡高等農林学校研究生時代に、人工宝石製造業を東京で起業するプランを手紙で父に送ったこともあった︵実現せず︶[115]。 作中には動植物、鉱物、地質学など科学用語や鉱物の名称が多く登場する[116]。 大学で学んだ土壌学を農民へ還元する農業技術の指導員としての評価もある[117]。音楽
賢治は音楽に深い関心を持っており、暇を見つけてはレコードを買っていた。賢治が頻繁にレコードを買っていくため、地方の店の割に新譜レコードが多く売れるとして、行きつけの楽器店がイギリスに本社を置くポリドール・レコードから感謝状を贈られたという[118][注釈 8]。 ベートーヴェンやドヴォルザークの曲をよく聴いていた。農学校教員時代︵1921-1923年︶には自ら楽曲づくりも手掛けた。二十数曲を作詞し、うち八つは作曲もしている[119]。 蓄音機でレコード針として使う竹針を傷め、音質を高める針を発明したこともある。米国ビクター社にサンプルを送り、製品化には至らなかったものの、その発想は高く評価された[120]。食生活と菜食主義
日蓮系教団では末法無戒を説くため菜食の必要は無いのだが[121]、賢治は法華経信仰に入った後、盛岡高農研究生になった1918年︵大正7年︶から5年間菜食生活をした[31]。5月19日付の保阪嘉内に宛てた手紙では、刺身や茶碗蒸しを少量食べた後、食べられる生き物に同情する気持ちを綴っている[122]。東京でトシの看病をするため宿泊していた旅館﹁雲台館﹂では、賢治のため精進料理を出してくれたという[35]。家出上京中は、芋と豆腐と油揚げばかり食べ[123]、脚気になった時は、蕎麦がきや麦飯、冬瓜の汁を飲んだ[124]。1921年︵大正10年︶8月11日付の関徳弥宛の手紙では脚気の原因を肉食のせいにしている[125]。 農学校教員時代は菜食にこだわらず、同僚や知人と外食を楽しんだ。花巻の蕎麦屋﹁やぶ屋﹂を﹁ブッシュ﹂と呼び、よく通っていた。天ぷら蕎麦とサイダーを一緒に注文するのが定番だった[126]。また鰻丼や天丼も好物だったという[127]。自分から進んで酒を飲むことはなかったが、付き合いで酒をすすめられると水でも飲むように飲み干して返盃した。時にたばこを吸うこともあった[128]。また教員仲間が集まった時、藤原嘉藤治から﹁人間は物の命を食って生きている。他を犯さずに生きうる世界というものはないのだろうか。﹂と問いかけられた答えとして﹃ビジテリアン大祭﹄を書いている[129]。 羅須地人協会時代の自炊は極端な粗食だった。ご飯はまとめて炊いてザルに移して井戸の中に吊り下げて置き、冬は凍ったまま食べた。おかずは油揚げや漬物、トマトなどだった[130][131]。賢治の体を心配した母のイチが小豆を入れたひっつみを届けたことがあるが、受け取らなかった[132]。急性肺炎で倒れ病臥生活になっても菜食はやめず、鶏卵も牛乳も拒否した[133]。イチが鯉の生き肝が肺炎に効くと聞いて、オブラートに包み薬と偽って飲ませたことがあった。弟の清六から中身を聞き出した賢治は涙を流し、﹁生き物の命をとるくらいならおれは死んだほうがいい﹂﹁これからは決してそんなことをしてくれるな﹂と真っ青な顔で言い、最期まで菜食主義をつらぬいた[134]。恋愛・性愛観
賢治は生涯独身だった。友人の藤原嘉藤治に﹁性欲の乱費は、君自殺だよ、いい仕事はできないよ。﹂と語り、性欲の発露を戒めた。関登久也はある朝、賢治に会うと、岩手郡の外山牧場に行って一晩中歩き、夜を徹して性欲と闘ったことを明かされた。農学校教員時代は見合いの話がいくつも持ち込まれ、両親も結婚させたがったが、賢治は頑として受け付けなかった[135]。藤原にはこう語っている。 新鮮な野の食卓にだな、露のようにおりてきて、あいさつをとりかわし、一椀の給仕をしてくれ、すっと消え去り、またあくる朝やってくるといったような女性なら、ぼくは結婚してもいいな。時にはおれのセロの調子はずれをなおしてくれたり、童話や詩をきいてくれたり、レコードの全楽章を辛抱強くかけてくれたりするんなら申し分がない。 — ︵﹃宮沢賢治の肖像﹄︶[136] 童貞だったとも言われるが、﹁一関の花川戸という遊郭へ登楼してきたといって明るくニコニコ笑って話しました﹂︵﹃宮沢賢治の肖像﹄︶という証言もあり、真偽は不明である[137]。晩年、森荘已池を訪ねた時は禁欲主義については﹁何にもなりませんでしたよ﹂﹁まるっきりムダでした﹂と話し、さらに﹁草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい﹂と語って、変節したことを認めた[138]。 賢治は浮世絵コレクターで、特に﹁和印︵春画︶﹂を積めば高さ30センチメートルになるほど集めていた[139]。それら農学校に持ってきて、同僚と批評して楽しんだ[140]。ハバロック・エリスの﹃性の心理﹄を持っていて、翻訳本で伏字になった部分を仙台の本屋まで行って原書で読んで確かめた[141]。この本のことを聞かれると﹁いなかの子ども︵農学校の教え子︶が性でまちがいをおこさないように教えたいと思って﹂と答え[139]、実際生徒に﹁猥談は大人の童話みたいなもので頭を休めるもの﹂﹁誰を憎むというわけでも、人を傷つけるというものでもなく、悪いものではない。性は自然の花だ。﹂と話したという[142]。 盛岡高等農林学校在籍時に出会った一年後輩の保阪嘉内との間で、互いに﹁恋人﹂と呼び合うような親しい間柄になり、嘉内に宛てた書簡類では、親密な感情の表出、率直な心情の吐露が認められ、手紙に記された文面は、時にあたかも恋人に宛てたような表現になった。嘉内からは情緒的にも思想的にも強い影響を受け、とりわけ﹃銀河鉄道の夜﹄の成立には、20代の頃に嘉内と二人で登山し共に語り合って夜を明かした体験が濃厚に反映され、登場人物の﹁ジョバンニ﹂を賢治自身とするなら、﹁カムパネルラ﹂は保阪嘉内を表していると考える研究者もいる[143]。その他
●1916年春、盛岡高等農林学校の寮の親睦会で寸劇が企画され、当時1年生だった保阪嘉内が脚本を書いた戯曲﹃人間のもだえ﹄が上演された。2年生で室長でもあった賢治は﹁全知の神ダークネス﹂役を演じ、嘉内自身も﹁全能の神アグニ﹂を演じた。この嘉内の脚本に現れる﹁修羅﹂というキーワードは、﹃春と修羅﹄に代表される後の賢治の作品のキーワードでもある﹁修羅﹂という言葉に影響を与えたとされる[144][145]。家族
宮澤家の始祖は京都から花巻に移り住んだ藤井将監という人物とされる。子孫は明治の初めに姓を宮澤に改める。子孫の一人初代宮澤右八長昌は花巻に呉服屋﹁宮右﹂を繁盛させた。その子の二代目右八の代ではますます盛んになり、京都大阪からも仕入れをしていたという。右八の三男が賢治の祖父の喜助である。喜助は真面目で仕事熱心だったが、分家する時ほとんど財産を分けてもらえず、店頭に古着を並べ質屋を始めた[146]。喜助の長男政次郎は15歳の頃から家業を手伝いはじめ、17歳の時から鉄道で関西・四国に出向き、古着や流行遅れになった新古品を大量に仕入れ、店で売るだけでなく卸売もしていた。また株式投資でも成功し、近隣に多くの小作地を有するようになる[147]。花巻出身のジャーナリストで徳富蘇峰の秘書も務めた八重樫祈美子[148]は1935年の文章で、﹁宮沢先生の一族は、精神的にも物質的にも花巻を壟断する一大勢力﹂と記し、以後の賢治の研究書や解説書にもこれを踏襲した表現が見られる[149][注釈 9]。これについて研究者の上田哲︵うえだ あきら、政治家の上田哲とは別人︶は、当時の花巻には梅津家や瀬川家︵瀬川弥右衛門が当主︶、伊藤家︵伊藤儀兵衛が当主︶といったずっと規模の大きな﹁マキ﹂︵岩手方言で﹁一族﹂の意味︶があったことを指摘し、﹁﹃宮沢マキ﹄は、この地方での有力な一族ではあったが、このような情勢の中では花巻を壟断することはできえないことがわかると思う﹂と記している[149]。略年譜
作品一覧
童話
詩
題名が︹︺で括られているものは、原稿の最終形が無題のため、冒頭の1行を題名の代わりにしているものである。また、題名の前の漢数字は、賢治が原稿に記載していた作品番号である。 ●﹃心象スケッチ 春と修羅﹄所収 ●﹃序﹄ ●﹃屈折率﹄ ●﹃春と修羅﹄ ●﹃真空溶媒﹄ ●﹃小岩井農場﹄ ●﹃岩手山﹄ ●﹃高原﹄ ●﹃原体剣舞連﹄ ●﹃永訣の朝﹄ ●﹃無声慟哭﹄ ●﹃青森挽歌﹄ ●﹁春と修羅 第二集﹂所収 ●﹃一六 五輪峠﹄ ●﹃一九 晴天恣意﹄ ●﹃一六六 薤露青﹄ ●﹃三一三 産業組合青年会﹄ ●﹃三一四 ︹夜の湿気と風がさびしくいりまじり︺﹄︵逐次形態での題は﹃業の花びら﹄︶ ●﹃三八四 告別﹄ ●﹁春と修羅 第二集補遺﹂所収 ●﹃葱嶺︵パミール︶先生の散歩﹄ ●﹁春と修羅 第三集﹂所収 ●﹃七〇九 春﹄ ●﹃一〇〇八 ︹土も掘るだろう︺﹄ ●﹃一〇八二 ︹あすこの田はねえ︺﹄ ●﹃一〇二〇 野の師父﹄ ●﹃一〇二一 和風は河谷いっぱいに吹く﹄ ●﹃一〇八八 ︹もうはたらくな︺﹄ ●﹁口語詩稿﹂所収 ●﹃第三芸術﹄ ●﹃火祭﹄ ●﹃牧歌﹄ ●﹃地主﹄ ●﹃夜﹄ ●﹁疾中﹂所収 ●﹃病床﹄ ●﹃眼にて云う﹄ ●﹃︹丁 丁 丁 丁 丁 ︺﹄ ●﹃︹風がおもてで呼んでいる︺﹄ ●﹃︹疾いま革まり来て︺﹄ ●﹃︹手は熱く足はなゆれど︺﹄ ●﹃夜﹄ ●﹁補遺詩篇I﹂所収 ●﹃︹雨ニモマケズ︺﹄ ●﹁文語詩稿 五十篇﹂所収 ●﹃︹いたつきてゆめみなやみし︺﹄ ●﹃︹水と濃きなだれの風や︺﹄ ●﹁文語詩稿 一百篇﹂所収 ●﹁文語詩未定稿﹂所収 ●﹃星めぐりの歌﹄ ●﹃精神歌﹄ ●﹃ポラーノの広場のうた﹄ ●﹃双子の星﹄水彩画
その他
●﹃手紙 四﹄ ●﹃農民芸術概論綱要﹄ ●﹃竜と詩人﹄全集
●﹃宮澤賢治全集﹄文圃堂︵1934年 - 1935年︶全3巻 ●﹃宮澤賢治全集﹄十字屋書店︵1939年 - 1944年︶全6巻別巻1 ●1・2・3巻目は、文圃堂版全集の紙型を引き継ぎ作成。 ●﹃宮澤賢治全集﹄筑摩書房︵1956年 - 1958年︶全11巻別巻1 ●﹃宮澤賢治全集﹄筑摩書房︵1967年 - 1969年︶全12巻別巻1 ●﹃校本 宮澤賢治全集﹄筑摩書房︵1973年 - 1977年︶全14巻︵全15冊︶ ●﹃新修 宮沢賢治全集﹄筑摩書房︵1979年 - 1980年︶全16巻別巻1 ●﹃校本﹄版を基に、新たに編纂した普及版全集。 ●﹃宮沢賢治全集﹄筑摩書房︿ちくま文庫﹀︵1985年 ‐ 1986年、1995年︶全10巻。9・10巻目は1995年刊 ●﹃︻新︼校本宮澤賢治全集﹄筑摩書房︵1995年 - 2009年︶全16巻別巻1︵全19冊︶ ●﹃宮沢賢治コレクション﹄︵2016年 - 2018年︶全10巻、生誕120年記念出版宮沢賢治を題材にした作品
※作品を映像化したものについては、該当作品の項目を参照。顕彰施設
●宮沢賢治記念館[167] ●もりおか啄木・賢治青春館 ●桜地人館 ●石と賢治のミュージアム 太陽と風の家 ●斉藤征義記念 宮沢賢治ライブラリ﹁虔十庵︵けんじゅうあん︶﹂ 斉藤征義の宮沢賢治と詩の世界館︵苫小牧市王子町︶の閉館後にその蔵書約1700冊を引き継ぎ、苫小牧市音羽町の妙見寺が2023年5月21日に寺内に開設[168]。原則毎月一回第一土曜日に開館[168]。旧所蔵館の斉藤征義の宮沢賢治と詩の世界館は、詩人で宮沢賢治研究者の斉藤征義が遺した資料の整理を目的として、賢治研究に関連する資料などを集めて2020年4月1日に開設された私設図書館だった︵2022年12月25日閉館︶[169][170]。関連項目
地理関係
●種山ヶ原 ●ナメトコ山 ●南昌山 ●イーハトーブ ●イーハトーブの風景地 ●経埋ムベキ山 ●水沢緯度観測所 ●宮沢賢治 (小惑星) ●伊勢神宮 - 大正10年4月に父親と共に参拝。参拝時に詠んだ歌がある。人物
●森荘已池 ●草野心平 - 賢治再評価に最も尽力した人物。ただし交際は文通が主で、生前に面識を得ることはなかった。 ●高村光太郎 - 草野を通じて生前の賢治と交際があり、死後の著作刊行に協力。戦時中には賢治の弟清六のつてで花巻に疎開している。 ●斎藤宗次郎 - 賢治と親交のあったクリスチャン。﹃雨ニモマケズ﹄のモデル説がある。 ●関豊太郎 - 盛岡高等農林学校での指導教官。 ●藤原嘉藤治 - 花巻高等女学校の音楽教員で、音楽を通じて親交を結ぶ。 ●松田甚次郎 - 賢治の感化を受け、郷里の山形県で農村振興を実践した人物。賢治没後に﹃宮沢賢治名作選﹄を出版した。 ●佐々木喜善 - 民俗学の研究家。賢治とは晩年に交流があった。 ●田中智學 - 国柱会の指導者。 ●金子七郎兵衛 - 盛岡藩勘定奉行で、賢治から見て曾々祖父︵父方の祖母の祖父︶に当たる。 ●ヘンリー・タッピング - 賢治は盛岡での学生時代に英語や聖書の講義を受ける。その他
●法華経 ●国柱会 ●エスペラント ●宮沢賢治賞・イーハトーブ賞 - 花巻市が実施している表彰事業。 ●安浄寺 (花巻市) - 宮沢賢治が子どもの頃に訪れている真宗大谷派の寺院で、死没後に一度埋葬されて、遺体を日蓮宗身照寺に改葬した。代々、宮沢家の檀家先だった。 ●教浄寺 - 盛岡市にある時宗の寺で、政次郎の許しを得た賢治は下宿先として、3ヶ月間、盛岡高等農林学校の入学の勉学に励んで合格したエピソードがある。脚注
注釈
出典
参考文献
●堀尾青史﹃年譜宮沢賢治伝﹄中央公論社︿中公文庫﹀、1991年。ISBN 4122017823。 ●山内修 編﹃年表作家読本 宮沢賢治﹄河出書房新社、1989年。ISBN 4309700519。 ●千葉一幹﹃宮沢賢治‥すべてのさいはひをかけてねがふ﹄ミネルヴァ書房、2014年。ISBN 9784623072453。 ●山下聖美﹃宮沢賢治のちから﹄新潮社︿新潮新書280﹀、2008年。ISBN 9784106102806。関連文献
伝記を概括的に扱った書籍もしくは辞典形式の書籍
●佐藤泰正︵編︶﹃別冊国文学No.6 宮沢賢治必携﹄学燈社、1980年 ●﹃宮沢賢治﹄新潮社︿新潮日本文学アルバム12﹀、1984年。ISBN 9784106206122 ●﹃︻新︼校本宮澤賢治全集﹄第16巻(下)筑摩書房、2001年︵伝記資料、年譜を収載︶ ●渡部芳紀︵編︶﹃宮沢賢治大事典﹄勉誠出版、2007年。ISBN 9784585060505 ●天沢退二郎・金子務・鈴木貞美(編)﹃宮澤賢治イーハトヴ学事典﹄弘文堂、2010年。ISBN 9784335950377 ●原子朗﹃定本 宮澤賢治語彙辞典﹄筑摩書房、2013年。ISBN 9784480823670 ●中村節也︵編曲︶‥﹁イーハトーヴ歌曲集‥宮澤賢治の歌﹂、マザーアース、2006年2月15日 ●中村節也︵編曲︶‥﹁イーハトーヴ歌曲集 宮沢賢治の歌﹂、マザーアース、2006年11月 ●中村節也︵編曲︶‥﹁イーハトーヴ歌曲集2‥宮沢賢治の歌﹂、マザーアース、2010年9月1日 ●中村節也︵編曲︶‥﹁イーハトーヴ歌曲集 宮澤賢治歌曲全集 2 (宮澤賢治の歌)﹂、マザーアース、2014年3月 ●中村節也︵編曲︶‥﹁宮澤賢治歌曲全集 イーハトーヴ歌曲集1﹂、マザーアース、2015年7月27日作品論・作家論
●宮沢清六﹃兄のトランク﹄筑摩書房、1987年。ISBN 4480812466/ちくま文庫、1991年。ISBN 9784480025746 ●畑山博﹃教師宮沢賢治のしごと﹄小学館、1988年。ISBN 409837191X/小学館ライブラリー29、1992年。ISBN 4094600299/小学館文庫、2017年。ISBN 9784094063974 ●吉本隆明﹃宮沢賢治﹄筑摩書房﹁近代日本詩人選﹂、1989年。ISBN 4480139133/ちくま学芸文庫、1996年。ISBN 4480082794 ●吉本隆明﹃宮沢賢治の世界﹄筑摩選書、2012年。講演集 ●鈴木健司﹃宮沢賢治‥幻想空間の構造﹄蒼丘書林、1994年。ISBN 4915442578 ●菅原千恵子﹃宮沢賢治の青春 “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって﹄角川書店︿角川文庫﹀、1997年。ISBN 4043433018 ●見田宗介﹃宮沢賢治‥存在の祭りの中へ﹄岩波書店︿岩波現代文庫﹀、2001年。ISBN 400602035X ●岡澤敏男﹃賢治歩行詩考‥長篇詩﹁小岩井農場﹂の原風景﹄未知谷、2005年。ISBN 4896421450 ●宮下隆二﹃イーハトーブと満洲国‥宮沢賢治と石原莞爾が描いた理想郷﹄PHP研究所、2007年。ISBN 9784569692463 ●高山秀三﹃宮澤賢治 童話のオイディプス﹄未知谷、2008年。ISBN 9784896422092 ●斎藤文一﹃科学者としての宮沢賢治﹄平凡社︿平凡社新書533﹀、2010年。ISBN 9784582855333 ●鈴木健司﹃宮沢賢治文学における地学的想像力‥︿心象﹀と︿現実﹀の谷をわたる﹄蒼丘書林、2011年。ISBN 9784915442865 ●グレゴリー・ガリー﹃宮澤賢治とディープエコロジー‥見えないもののリアリズム﹄平凡社︿平凡社ライブラリー818﹀、2014年。ISBN 9784582768183 ●鈴木貞美﹃宮沢賢治‥氾濫する生命﹄左右社、2015年。ISBN 9784865281224 ●人見千佐子﹃リアルなイーハトーヴ‥宮沢賢治が求めた空間﹄新典社︿新典社選書72﹀、2015年。ISBN 9784787968227 ●信時哲郎﹁宮沢賢治とハヴロック・エリス﹂、﹃神戸山手大学環境文化研究所紀要﹄、2002年 ●今野勉﹃宮沢賢治の真実‥修羅を生きた詩人﹄新潮社、2017年。ISBN 9784103506812/新潮文庫、2020年。ISBN 9784101019710 ●中村節也﹃宮沢賢治の宇宙音感‥音楽と星と法華経﹄コールサック社、2017年。ISBN 9784864353045 ●中村節也﹁作曲家・賢治の宇宙音感﹂﹃日本経済新聞﹄朝刊、2018年7月17日付︵文化面︶。 ●谷口義明﹃天文学者が解説する宮沢賢治‥﹁銀河鉄道の夜﹂と宇宙の旅﹄光文社︿光文社新書1076﹀、2020年。ISBN 9784334044831 ●﹃わたしの宮沢賢治シリーズ﹄ソレイユ出版刊行。第1巻〜現在既刊第8巻まで。享受論・受容論
●鈴木健司﹃宮沢賢治という現象‥読みと受容への試論﹄蒼丘書林、2002年。ISBN 4915442659 ●米村みゆき﹃宮沢賢治を創った男たち﹄青弓社、2003年。ISBN 4787291696 ●宮沢賢治没後七十年﹁修羅はよみがえった﹂刊行編集委員会︵編︶﹃修羅はよみがえった‥宮沢賢治没後七十年の展開(あゆみ)﹄宮沢賢治記念会、2007年。ISBN 9784835480671 ●村山龍﹃︿宮澤賢治﹀という現象‥戦時へ向かう一九三〇年代の文学運動﹄花鳥社、2019年。ISBN 9784909832047 ●構大樹﹃宮沢賢治はなぜ教科書に掲載され続けるのか﹄大修館書店、2019年。ISBN 9784469222692外部リンク
- 宮沢賢治記念館 - 花巻市ホームページ
- 日本と子どもの文学(宮沢賢治)
- 宮沢賢治学会イーハトーブセンター
- 森羅情報サービス - 賢治の大半の作品のテキストを掲載している。
- 宮沢賢治「遺書(2通)」 - ARCHIVE
- 宮沢 賢治:作家別作品リスト - 青空文庫
- 宮沢賢治(日本詩人愛唱歌集) - ウェイバックマシン(2019年3月31日アーカイブ分) - 「どの詩に誰が作曲したか」や宮沢原作の「オペラ、音楽劇、ミュージカル」など。
- 聖人・宮沢賢治
- 宮沢賢治の宇宙
- 石と賢治のミュージアム - 一関市 - 一関市東山町
- それからの宮沢賢治館 - ジョヴァンニ安東サイト内の宮沢賢治特集
- 宮沢賢治生誕100年特集 - NHK放送史
- 火の鳥・アイーダ…宮沢賢治が愛した音楽、CDで復刻へ(読売新聞2021年4月15日記事)