鵠沼
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鵠沼︵くげぬま︶は、神奈川県藤沢市の南部中央にある地域の地区名。1908年、高座郡藤沢大坂町・明治村と合併する前の旧鵠沼村の村域とほぼ重なる。北は旧東海道付近、東は境川、西は引地川に囲まれた地域である。南は相模湾に面しており、人口は5万人を遙かに超す。年間を通して湘南海岸に多くの観光客が訪れる。
概要
発祥は奈良時代、(烏森)皇大神宮を中心に高座郡土甘郷が置かれた頃である。 平安時代末期には鎌倉景政により拓かれ、伊勢神宮に寄進された荘園大庭御厨︵おおばのみくりや︶の一部となり、鵠沼郷と呼ばれるようになった。 江戸時代には旗本布施家と大橋家︵2代のみ︶の領地と幕府領に分かれ、南部に幕府の砲術射撃場︵相州炮術調練場︶が置かれた。東海道藤沢宿に隣接するため、助郷村でもあった。 江戸末期までは周辺地区と同様に農漁村であったが、1887年の鉄道東海道本線開通前後から海水浴場や日本で最初の計画別荘地として開発が始まった。1902年に江ノ電が開通し、沿線は別荘地として急速に発展する。 1923年の関東大震災では相応の被害が出たが、より被害が深刻だった都内から政治家、官僚、企業家、高級将校等が続々と転居してくることにより、鵠沼は別荘地から住宅地へと変貌することになる。 震災からの復興は急ピッチで進められた。人力車の時代から自動車の時代への転換は、道路整備を要求するものであったが、この時期は公共投資による道路整備は鵠沼地区の外縁部にすぎず、中心部では私営の道路建設が行われたに過ぎなかった。そのため、旧別荘地の道路は未だに信号機が一つもなく、歩道もほとんど見られない。 1929年の小田急江ノ島線開通をきっかけに、別荘地と農村部の中間地帯には、耕地整理の名を借りた宅地開発が行われ、建て売り住宅の建設が進められた。この段階での住宅地は100坪以上の敷地を有し、現在も東京近郊の高級住宅地の一つとして有名である。 1930年代は神奈川県の手で湘南海岸の国際観光地化が図られた。折しも世界恐慌の時代と重なるが、失業対策事業という名目も加わってインフラストラクチャー整備が進められた。 主な事業としては、県営湘南水道、湘南遊歩道︵鎌倉郡片瀬町-中郡大磯町 現国道134号︶敷設、さらに引地川の河川改修と鵠沼堰の建設などである。 また、鉄道省海の家開設、幻の東京オリンピック (1940年)を見越した県営︵後に藤沢町に移管︶鵠沼プール︵後の鵠沼プールガーデン︶の建設が加わった。 日中戦争が泥沼化し、日本が国際社会から孤立化すると、﹁国際観光地﹂としてのもくろみは画餅に帰したが、国内有数の海水浴場として、つかの間の賑わいを見せるようになった。しかし、東屋が廃業した1939年ころから、次第に軍国主義の陰が覆うようになってくる。 皇紀2600年を国を挙げて祝った1940年10月1日、藤沢町は市制を敷き、藤沢市となる。それから1年余、太平洋戦争に突入する。戦争が激化すると、鵠沼の人口は激増した。疎開先に選ばれたからである。重爆撃機による空襲はほとんどなかったが、艦載機による機銃掃射は日常的になった。 戦後もしばらくは南東部の旧別荘地には松の翠が色濃く残り、北西部の農村地帯は村落共同体としての伝統が脈々と受け継がれていた。 1960年代の高度経済成長期に入ると、農村部を分断して湘南新道︵県道30号線︶・鵠沼新道が相次いで開通し、畑地の乱開発による宅地化が進められた。鉄道沿線には工場が誘致され、公害問題が起こったりした。旧別荘地では相続税問題などから宅地の細分化が進み、かつて高級住宅地のシンボルだった松が急速に失われた。それに伴い、行き止まり道路が増え、踏切の拡幅も遅れたため、緊急車両が入れないなど災害の危険度は増した。周辺の広い道路に面する部分では、中層の集合住宅が建てられるようになった。 海岸部では湘南海岸公園の整備が進められたが、1990年代にはいると、津波対策のかさ上げが行われ、公園全体の再開発が行われた。 海岸周辺は年間を通じて多くの観光客・サーファーなどで賑わっており、国道134号線沿いは海水浴客目当ての店舗が集中している。また、鵠沼海岸︵現‥片瀬西浜海水浴場︶は日本におけるビーチバレー発祥の地であり、スポーツカイト、ビーチアルティメットの全国大会も鵠沼から始まった。旅館東屋
この辺りに別荘が多く建ち始め、観光客が多くなってきた頃、旅館も建ち始めた。その中でもとりわけ有名なのが﹁旅館東屋﹂である。東屋は、かつて小田急線鵠沼海岸駅近くにあり、この辺りの海岸を開拓した伊東将行が1897年頃開業した旅館で、斎藤緑雨、谷崎潤一郎、志賀直哉、武者小路実篤、徳冨蘆花、与謝野鉄幹・与謝野晶子、岸田劉生、芥川龍之介といった、明治から昭和の文人墨客が寓居・逗留し、執筆活動をした旅館である。彼らは当時の作品中に折々の鵠沼風物を描写し、それが﹁鵠沼風﹂と呼ばれて大きな評判を得た。 ﹁旅館東屋﹂は、そうした文化人の社交施設の役割を果たした。 日本画家でわが国初のフレスコ壁画を描いた長谷川路可は、東屋二代目女将タカの一人息子である。 東屋は1923年9月1日の関東大震災で倒壊し、翌年再建されたが、1939年に旅館業を廃業した。現在、東屋跡地の一画に佐江衆一の筆になる﹁文人の逗留した 東屋の跡﹂という石碑が建てられている。 なお、戦後になって1950年から1995年末まで、伊東将行の孫で養子の伊東将治が旅館東屋跡から西方、鵠沼ホテル跡地に割烹料亭﹁東家﹂を開いていたので、旅館東屋と混同されることが多い。地域の特色
首都圏にありながら名勝江ノ島が至近に望める風光明媚な砂浜を抱き、クロマツの木が各所に生い茂る、総じて起伏の少ない平坦な地形である。 温暖な気候・風土から、海浜レジャー等の観光地として高い人気がある一方、住宅地としても、明治半ばからの別荘地開発に伴うインフラ整備や大正期以降の高級住宅地化によって、鵠沼地区の住環境は早い時期から成熟・安定しており、今日においても概ね高い水準を維持している。小田急江ノ島線と境川に囲まれた一帯には、県条例に基づいた﹁鵠沼風致地区﹂が指定され、建ぺい率や建造物の高さ、色彩に至るまで厳しい規制が掛けられており、閑静な旧別荘地の風情が特に色濃く残されている。 現在の住民は高度経済成長期以降に、郊外住宅を求めて移住してきた世代とその二世・三世が多くを占めてきているが、多数の住宅地の中から鵠沼を選んだ理由として、この地域の住環境の良さを挙げる例がよく見受けられる。 彼ら新住民もマスコミによって創作された湘南という漠然としたイメージより、﹁鵠沼地区に居住していること﹂そのものにアイデンティティーを持ち、自らの住環境の保全・美化向上に対する手間を惜しまない。 例えば、日本のサーフィン発祥地として鵠沼海岸が挙げられているが、地元のサーファー(ローカルサーファー)による日常的な海岸清掃活動も、そのような愛着や誇りに裏付けられた行動であるといえる。 これは近郊の茅ヶ崎・鎌倉・逗子・葉山の各沿岸地域でも同様の傾向が見られる。 地域の道路は国道134号線・市道鵠沼海岸線︵鵠沼新道︶等の幹線道を除き、その多くが狭隘で複雑に入り組んでおり、地元住民も迷うほどで自動車の往来に支障を来たすこともしばしばである。ことに夏場の観光シーズンの休日ともなると生活道路にまで海水浴客の車が入り込み、交通マヒ状態になることもあるが、その﹁迷路﹂状態が幸いしてか、住宅地域の治安はその人口に比して良好ではある。 なお、公共交通機関については、地区をほぼ南北に結ぶ二本の私鉄や、豊富なバス路線網により通勤・通学の利便性は高い。歴史
鵠沼地区の歴史は、小田急線付近を境に北西部の鵠沼神明・本鵠沼は約1100年の伝統を持つが、南西部の開発は東海道線の開通がきっかけで、110年ほどの歴史しかない。この2地域はあらゆる面で対照的な関係にある。上古
●縄文時代は縄文海進により、鵠沼を含む湘南砂丘地帯は浅い海底であった。従って鵠沼地区には縄文時代の遺跡はない。 ●弥生時代から古墳時代、海面が下がり北部から陸化が進んだ。鵠沼地区北部の横須賀遺跡・西宮越遺跡などから弥生式土器や須恵器・土師器が出土しているが、まとまった集落遺跡や大規模な古墳は見つかっていない。 ●735年閏11月10日 - 相模国司、相模国封戸租交易帳を作成し中央政府に報告。鵠沼付近を表す土甘郷50戸が見られる。 ●808年 - 現在の神明宮の位置に延喜式内社石楯尾(いわだてお)神社が創建された。 ●832年 - 石楯尾神社鎮座地に(烏森)皇大神宮が創立し、社殿が造立された。 ●905年 - 現在の鵠沼、辻堂、大鋸、西富が合併され、相模国土甘郷となる。このことにより皇大神宮は郷の総社に列せられ、相模国土甘郷総社神明宮と称される。 ●1104年 - 相模国の住人鎌倉景政(平景正=鎌倉権五郎)、高座郡の私領を開発、伊勢神宮に寄進を企画→大庭御厨(おおばのみくりや) ●1116年 - 大庭御厨、国司により正式に認められ、御厨の田畑の検注がなされる。 ●1144年 - 鎌倉にいた源義朝が大庭御厨に乱入。神人8人死傷、鵠沼郷の魚・大豆・小豆等を奪取と伊勢神宮の記録天養記に出てくる。これが鵠沼という地名の初出である。中世
1180年4月10日 - 源頼朝が鎌倉に入って以来鵠沼は幕府の直轄となる。 1180年10月23日 - 大庭庄司平景義(景能)、大庭御厨の本領を源頼朝より安堵される。しかし、その子大庭景兼は和田合戦で和田一族に与して戦死したため、所領大庭御厨は幕府に没収された。鵠沼南部の﹁藤原遺跡﹂﹁八部︵はっぺ︶遺跡﹂からは鎌倉時代の遺物が出土していることから、﹁本村﹂と呼ばれる9集落は鎌倉時代までには完成していたと思われる。日本の政治の中心となった鎌倉の上方︵かみがた︶側に隣接する鵠沼郷は、以前に比べると人々の往来も増えたに違いない。だが、このあたりは﹁砥上︵とがみ︶ヶ原﹂と呼ばれる寂しい砂原で、その寂しさが歌人の心を惹いたためか西行、源実朝、鴨長明、冷泉為相らが砥上ヶ原を詠み込んでいる。 ●1245年 - 荒木源海(俗名:安藤駿河守隆光)、鵠沼に清光山(鵠沼山)万福寺(浄土真宗)を開基創建 ●1333年5月18日 - 鎌倉討伐の新田義貞軍、経路の民家に放火しつつ鵠沼付近を通過。 ●室町時代には鎌倉に関東管領が置かれ、大庭御厨はその支配下に入った。 ●1411年10月6日 - 上杉禅秀の乱。上杉(犬懸)持氏・憲基、鵠沼付近を通過して小田原に敗走。 ●関東管領の一族扇谷上杉家が大庭御厨を支配することになる。その家臣太田道灌が大庭の地に大庭城を修理築城したと伝えられる。 ●1512年 - 上杉朝長の大庭城、北条早雲により落城。 ●1559年 - 鵠沼村、岩本太郎左衛門定次(北条家御馬廻役)の知行地となる。 ●1565年 - 金堀山空乗寺(浄土真宗高田派)、了受の開山、大橋武部卿龍慶の開基により創建(ただし、大橋龍慶(旗本大橋重保の出家後の名)はこの段階では誕生前)。江戸時代
●1590年 - 鵠沼村、徳川氏支配となる→幕領。 ●1601年3月 - 鵠沼村の幕領の一部220石が譜代旗本(1500石鉄炮頭)布施孫兵衛重次知行地となる。残りは幕領。 ●1617年 - 鵠沼村(300石)・大庭折戸村他の幕領分500石、旗本大橋長左衛門重保(幕府右筆)知行地となる。同年、密厳山遍照院普門寺(真言宗)、元朝阿闍梨が本尊不動明王を勧請し、現在地に再開基(中世末期に平塚に創建された) 。 ●1649年 - 地頭大橋重政、采地(石上付近)のうち9石余を空乗寺に寄進し、将軍家光より御朱印を賜る。 ●1655年 - 布施氏知行地に鵠沼新田完成。 ●1672年 - 鵠沼村の旗本大橋氏知行分が重政死亡により上知、幕領(代官成瀬五左衛門重治)となる。 ●1694年 - 鵠沼村他43か村、藤沢宿の助郷村に確定する。 ●1728年 - 幕府鉄炮方=井上左太夫貞高、享保の改革の一環として湘南砂丘地帯に相州炮術調練場︵鉄炮場︶を設置する。鵠沼村には角打︵近距離射撃︶打小屋が置かれた。 ●1858年 - 鵠沼村、細川越中守(熊本藩)預り地となる。 ●1859年 - 鵠沼村、幕領(代官所管)に復する。明治
●1868年6月29日 - 高座郡諸村、韮山県の管轄下におかれる(県知事:江川太郎左衛門英武)。 ●1868年9月21日 - 神奈川府を神奈川県と改称(県知事:井関盛良)。韮山県の管轄下の高座郡諸村、神奈川県管轄下におかれる。 ●1871年12月 - 東海道各宿の助郷が廃止される。 ●1872年7月12日 - 鵠沼学舎(→鵠沼小学校)、鵠沼普門寺脇の寺の物置を校舎に開設。 ●1873年5月1日 - 区・番組制施行、鵠沼村は第17大区・第2小区となる。小字・番地の制定。 ●1974年7月6日 - 区番組制を改め大小区制を実施する。鵠沼村は第18大区第2小区。区長、戸長等は区番組制下と同一人。 ●1878年12月 - 神奈川県、大小区制廃止→高座郡鵠沼村となる。 ●1886年7月18日 - ﹁鵠沼海岸海水浴場﹂が開設される。 ●1887年7月11日 - 東海道本線の横浜・国府津間が開通。藤沢停車場が開設される。これを機に鵠沼村南東部の旧鉄炮場の砂原︵大給子爵家所有地︶に日本で最初の計画別荘地としての開発が始まった。 ●1889年4月1日 - 市制町村制施行、鵠沼村は連合組織から分れ1村で独立、役場を字中井におく。 ●1902年9月1日 - 江ノ島電鉄の藤沢駅から片瀬駅︵現‥江ノ島駅︶が開業。鵠沼村内に石上、川袋、藤ヶ谷、鵠沼各停留所が開設される。沿線は別荘地として急速に発展する。 ●1903年 - 下鰯の細川家別邸内に慈教庵(本真寺の前身)建立。開山は颯田本眞尼(1845-1928) ●1908年4月1日 - ﹁藤沢大坂町﹂・﹁鵠沼村﹂・﹁明治村﹂が合併して﹁高座郡藤沢町﹂が誕生する。大正
●1913年 - 神田淡路町大給子爵邸の三七稲荷を東屋主人伊東将行らが鵠沼に移築、賀来神社となる。 ●1921年4月20日 - 県立湘南中学校(→神奈川県立湘南高等学校)開校。 ●1923年9月1日 - 関東大震災(震源:相模湾東部、M=7.9) 藤沢町被害 家屋3200戸 死者104名 重傷者216名 ●1925年5月 - 高瀬彌一らによる鵠沼新道(橘通り・高瀬通り・熊倉通り)開通昭和︵戦前)
●1929年4月1日 - 小田急江ノ島線が開通。本鵠沼駅、鵠沼海岸駅開業。別荘地と農村部の中間地帯には、耕地整理の名を借りた宅地開発が行われ、建て売り住宅の建設が進められた。 ●1931年7月27日 - 藤沢町の働きかけで鵠沼海水浴場に﹁鉄道省海の家﹂が開かれた。藤沢駅と海の家を結ぶバス路線も開通した。 ●1933年3月12日 - 日本メソヂスト藤沢補助教会(現日本基督教団藤沢教会)、新会堂建設・献堂式。陣屋小路から鵠沼へ移転。 ●1933年4月2日 - 私立湘南学園開校。初代園長=小原國芳。 ●1933年7月 - 東屋の西方に洋風の﹁鵠沼ホテル﹂が開業した。与謝野晶子宿泊の記録がある。 ●1933年11月14日 - 藤沢高等小学校(現﹁藤沢市立第一中学校)開校 ●1934年2月 - 引地川改修事業完成。﹃紀功碑﹄、鵠沼海岸2-17地先引地川河畔に造立。 ●1935年7月27日 - 湘南遊歩道(湘南大橋を除く区間)開通。﹁渚橋﹂﹁鵠沼橋﹂落成、渡り初め。 ●1936年 - 松竹大船撮影所開設以来鵠沼にも多くの映画人が居住し、また、1950年代にかけて﹁松竹大船調﹂映画の舞台にもなった。 ●1938年7月 - 県立鵠沼プール開場、藤沢町に管理を委託。 ●1940年10月1日 - 藤沢町に市制が敷かれ﹁藤沢市﹂となる。 ●1943年5月12日 - 鵠沼伏見稲荷神社、京都市伏見区の伏見稲荷大社の分霊を勧請して創立(宮司‥高山昇)。昭和︵戦後︶
●1946年8月10日 - 藤沢市立鵠洋国民学校(→鵠洋小学校)竣工式並びに開校式 ●1947年4月1日 - ﹁鎌倉郡片瀬町﹂が藤沢市に合併 ●1947年5月5日 - 新制の藤沢市立第一中学校(旧藤高国民学校)、藤沢市立鵠沼中学校(鵠沼小学校の一部を借りて)発足。 ●1948年4月1日 - 県立湘南中学校、新制高等学校神奈川県立湘南高等学校として再発足。同日湘南学園新制中学発足。 ●1950年4月15日 - 湘南学園高等学校発足。 ●1957年1月19日 - 藤嶺学園女子高等学校(→鵠沼女子高等学校→鵠沼高等学校)商業実践室完成→遊行寺境内より鵠沼に移転 ●1958年2月14日 - 鵠沼公民館落成 ●1960年7月13日 - 県立湘南海岸公園完成 ●1961年5月29日 - 神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線(湘南新道)竣工 ●1963年 - 藤沢市道鵠沼海岸線(鵠沼新道)開通 ●1964年4月28日 - 藤沢警察署、現在地(本鵠沼4-1-8)に移転。 ●1964年8月1日 - 鵠沼の一部(鵠沼海岸1~4丁目・鵠沼松が岡1~5丁目)で新住居表示を実施。 ●1965年1月1日 - 鵠沼の一部(鵠沼藤が谷1~4丁目・鵠沼桜が岡1~4丁目)で新住居表示を実施。片瀬地区との境界線変更。 ●1965年10月1日 - 鵠沼の一部(鵠沼神明1~5丁目・本鵠沼1~5丁目・鵠沼海岸5~7丁目)で新住居表示を実施。 ●1968年9月25日 - 藤沢市民会館、開館。 ●1970年4月1日 - 藤沢市立鵠南小学校開校 ●1982年8月29日 - 鵠沼の一部(鵠沼東・鵠沼石上1~3丁目・鵠沼花沢町・鵠沼橘1~2丁目)で新住居表示を実施。平成
●2003年5月15日 - 鵠沼市民センター、鵠沼公民館を増設して開設 ●2003年12月1日 - 鵠沼市民センター内に市内初の公設民営展示施設﹁鵠沼郷土資料展示室﹂オープン ●2008年2月1日 - 昭和初期に建てられた旧後藤医院の建物を一部改修し、鵠沼橘市民の家として活用地名
1908(明治41)年、旧鵠沼村は、藤沢大坂町・明治村と合併して高座郡藤沢町となり﹁藤沢町鵠沼﹂と総称された。 鵠沼地区の公的な地名には3つの成立段階がある。伝統的な旧集落名
現在でも町内会名などに残る。 ●神明宮氏子集落、8月17日の祭礼に集落ごとの人形山車を出す 宮ノ前、上村︵かむら︶、清水、宿庭︵しゅくにわ︶、苅田、大東、仲東︵中東︶、原、堀川 ●石上神社(現在は諏訪神社)氏子集落 石上︵旧くは砥上と書いた) ●新田宮の氏子集落︵江戸時代中期に開闢の鵠沼新田に関わる集落︶ 新田︵しんでん︶、納屋︵なんや︶ ●八坂神社(羽鳥)氏子集落 車田、引地 ●集落名以外の明治以前からの地名︵現在はほぼ消滅︶ 砥上ヶ原、地蔵袋、鰯干場︵やしば︶、奈須野ヶ原、一本松、六本松、茂兵衛台︵もえんだ︶、新田山、紋十郎河岸1873(明治6)年制定の小字
●現在はバス停や公園名などに残る。特段記載なければ大字鵠沼である。 砥上︵いしがみ︶、内田、大源太︵おおげんた、大字片瀬︶、奥田、上鰯︵かみいわし︶、上岡、上藤ヶ谷、川袋、桜小路︵大字片瀬︶、下ノ沢︵したのさわ︶、下鰯︵しもいわし︶、下岡、下藤ヶ谷、高根、大道東︵大字藤沢︶、中井、中岡、中横須賀︵大字藤沢︶、長塚、中藤ヶ谷、西宮越、八部︵はっぺ︶、花立、原、東花立、東原、東横須賀︵大字藤沢︶、引地、藤原、堀南、南宮越、柳原、横須賀 ●戦前は鵠沼西海岸・鵠沼東海岸・鵠沼南海岸という区分もあり、﹃鵠沼西海岸﹄は阿部昭の小説名になった。 ●別荘地・住宅開発により生まれ、現在も慣行的に用いられることのある地名 大曲、松島苑、宮崎町、小川町、百両山戦後行われた住居表示改訂によって制定された現行地名
●1964年8月1日制定の新住居表示 ●鵠沼松が岡1~5丁目 ●鵠沼海岸1~4丁目 ●1965年1月1日制定の新住居表示 ●鵠沼桜が岡1~4丁目 ●鵠沼藤が谷1~4丁目 ●1965年10月1日制定の新住居表示 ●鵠沼海岸5~7丁目 ●鵠沼神明1~5丁目 ●本鵠沼1~5丁目 ●1982年8月29日制定の新住居表示 ●鵠沼石上1~3丁目 ●鵠沼橘1~3丁目 ●鵠沼花沢町 ●鵠沼東 ●新住居表示が確定していない地区 ●鵠沼地名の由来
かつてこの辺りには沼が多くあり、そこに鵠︵くぐい︶が多く飛来していたことが﹁鵠沼﹂の由来と言われている︵鵠とは白鳥のこと︶。施設
- 行政施設
- 消防施設
- 郵便施設
- 鵠沼駅前郵便局
- 藤沢橘通郵便局
- 鵠沼海岸郵便局
- 鵠沼桜が岡郵便局
- 公立保育・集会施設
- 学校教育施設
- 主な公園
- 主な観光施設
- 医療施設
- 病院
- クローバーホスピタル
- 病院
- 宗教施設
文化財・名数など
- 指定・登録文化財
※重要無形文化財﹁友禅﹂保持者︵人間国宝︶田島博︵比呂子︶は鵠沼在住。
●藤沢市名誉市民
●(故)加藤東一(日本画家)1997年
●田島 博︵比呂子︶︵友禅作家︶1999年
●岡崎洋(前神奈川県知事)2003年
●葉山峻︵元藤沢市長︶2004年
●名数
●鵠沼皇太神宮の風流山車 かながわの民俗芸能50選 神奈川県教育委員会 1977年
●烏森神社のまつり かながわまつり50選 県商工労働部商業観光流通課 1982年
●鵠沼松が岡界隈 かながわのまちなみ100選 神奈川県都市整備公園課 1986年
●鵠沼行 志賀直哉 かながわの文学100選 1987年
●子供部屋 阿部昭 かながわの文学100選 1987年
●引地川 ふるさとの川モデル事業 建設省 1987年
●湘南海岸 日本の白砂青松100選 日本の松の緑を守る会 1987年
●引地川の川べり遊歩道 手づくり郷土賞やすらぎとうるおいのある歩道30選 建設省1988年
●旧近藤邸 かながわの建築物100選 神奈川県県土整備部建築指導課 1989年
●湘南海岸のマツ林 かながわの美林50選 神奈川県環境農政部森林課 1989年
●鵠沼、金木犀の住宅街 かおり風景100選 環境省 2001年
●江ノ電 かながわ未来遺産100 神奈川県・神奈川新聞社 2001年
●県立湘南海岸公園 関東の富士見百景 国土交通省 関東地方整備局 2005年
●湘南の生しらす かながわの名産100選 2006年
●鵠沼の名がついた生物(鵠沼の特産というわけではない)
●ホウネンエビ(学名:Branchinella kugenumaensis(ISHIKAWA)) 発見・命名‥石川千代松(1892年発見・命名された。1960年代、水田の消滅とともに鵠沼では絶滅したと思われる。藤沢市内には現在も生息が確認されている。)なお、中国ではこの学名から﹁鵠沼枝額蟲﹂とも呼ばれている。
●クゲヌマラン(学名:Cephalanthera erecta var.shizuoi) 発見:服部静夫・命名: 前川文夫(1936年発見・命名された。一時絶滅したと考えられていたが、1983年辻堂で再発見され、現在鵠沼にも自生が確認されている。)
居住した主な著名人(故人)
皇族・政治・司法
●秩父宮雍仁親王 1952~1953 鵠沼の別邸で薨去 ●広田弘毅 外交官・外相・首相・A級戦犯として文民唯一の絞首刑 1930~1945 ●安倍能成 哲学 教育者・評論家・文部大臣 学習院総長 1916~1918 晩年鵠沼海岸に別荘を構える ●田中二郎 行政法学 東大教授・最高裁判事 1973~1982 鵠沼で没 ●杉原千畝 外交官・後半生は貿易商など 1945~1977 西鎌倉へ転居学術
●阿部次郎 美学・哲学 評論家・東北帝大教授 1914~1915 ●天野芳太郎 考古学 天野博物館(ペルー リマ︶創設者 1943~1950 捕虜交換船で強制帰国 ●宇野弘蔵 マルクス経済学 1949~1977 鵠沼で没 ●宇野哲人 東洋思想史 東京帝国大学教授 1930~1974 鵠沼で没 ●江口朴郎 国際政治史 東京大学教授 1923~1941/1947~1989 鵠沼で没 墓所は鵠沼万福寺 ●大類伸 歴史学 東北大→日本女子大 1944~1975 鵠沼で没 ●金杉英五郎 医学 東京慈恵会医大学長、貴族院議員 大正期、別荘を構える ●葛巻義敏 小説家・文学研究家 1968~1985 鵠沼で没 ●辻直四郎 インド学者・東京大学教授 1943~1979 鵠沼で没 ●新関良三 ドイツ文学、演劇史 1955~1979 鵠沼で没 ●野呂栄太郎 マルクス経済学 1927~1932 結核療養 ●林達夫 思想評論家・翻訳家・編集者 1922~1984 鵠沼で没 ●林巳奈夫 東洋考古学 京都大学教授 1925年林達夫の長男として鵠沼で生まれ、京都に住んだが、定年退官後鵠沼に戻り、2006年没 ●土方定一 美術評論家 1966~1976 ●逸見重雄 マルクス経済学 法政大学教授 1951~1975 鵠沼で没 ●村川堅固 西洋史 東京帝国大教授 戦前、別荘を構える ●村川堅太郎 西洋史 東京大学教授 1937~1952 ●室伏高信 編集者 戦前~戦後(明細地図に記載あり)詳細不明 ●森銑三 書誌学 1945~1985 鵠沼で没 墓所は鵠沼万福寺(分骨) ●和辻哲郎 倫理学 東洋→京都帝国→東京大 1911~1918文芸
●芥川龍之介 小説家 1926~1927 ●阿部昭 小説家 1941~1971 墓所は鵠沼本真寺 ●江口渙 小説家、児童文学者、歌人、評論家 1921~1921 ●鹿地亘 小説家、評論家 1946~1951 1951年11月25日鹿地事件 ●川口松太郎 小説家 1960年別荘を構え、仕事場とする ●斎藤緑雨 小説家 明治期、東屋に長期滞在。東屋の女中と結婚し小田原に住む ●子母澤寛 小説家 1945~1968 鵠沼で没 ●高橋元吉 詩人 1963~1965 病気療養、鵠沼で没 ●立原正秋 小説家 1969~1970 ●田中澄江 劇作家・小説家・随筆家 田中千禾夫の妻 1934~1944 ●田中千禾夫 劇作家 田中澄江の夫 1934~1944 ●茅野雅子 歌人 1921~1921 ●内藤千代子 小説家 1896~1925 鵠沼で没 墓所は鵠沼万福寺 ●中村武羅夫 小説家 1919~1929 ●南條範夫 小説家、大学教授 1954~1957 ●日夏耿之介 詩人、評論家、英文学者 1932~1933 ●福永武彦 小説家、詩人、評論家、大学教授 1943~1944 ●武者小路実篤 小説家、劇作家 1915~1915美術
●小穴隆一 洋画家 俳人 1926~1927 芥川龍之介と交流 ●各務鑛三 ガラス工芸家 カガミクリスタル創業者 1944~1985 鵠沼で没 ●加藤東一 日本画家 藤沢市名誉市民 戦後~1996 鵠沼で没 ●加山又造 日本画家 1984~2004 鵠沼にアトリエを構える ●岸田劉生 洋画家 1917~1923 最盛期を鵠沼に暮らす。﹁麗子像﹂のほとんどは鵠沼で描かれた ●黒崎義介 日本画家 童画家 1952~1984 鵠沼で没 墓所は藤沢市大庭台墓地 ●杉浦非水 グラフィックデザイナー 戦後~1965 鵠沼で没 ●内藤多仲 建築家 戦前、鵠沼に別荘を構える ●中川一政 洋画家 書家 歌人 1917~1923 岸田劉生家の食客として出入り ●長谷川路可 日本画家/フレスコ・モザイク作家/服飾史 籍は1907年から鵠沼にあったが、住んだのは1927~1937舞台・映像
●赤木圭一郎 日活アクションスター ゴーカート事故で夭折 1952~1958 ●芥川比呂志 新劇俳優 芥川龍之介の長男 1945~1949 家族の疎開先に復員する ●芥川也寸志 作曲家 芥川龍之介の三男 1926~1927/1945~1948 ●大川橋蔵 時代劇俳優 1946~1948 ●岡田時彦 二枚目スター 岡田茉莉子の父 1925~1933 ●尾上菊五郎_(6代目) 歌舞伎の名優 1946~1948 ●川口浩 俳優 小説家川口松太郎・女優三益愛子の息子 妻は女優野添ひとみ 1960年以降 ●木村功 映画俳優 1948~1954 ●小坂一也 C&W・ロカビリー歌手、俳優 1958~1997 鵠沼で没 ●小森和子 映画評論家 戦前から戦後にかけて活動期を鵠沼に住む ●佐分利信 映画俳優 女優黒木ひとみの夫 1935~ ●渋谷実 松竹映画監督 戦後~1980 鵠沼で没 ●志摩夕起夫 アナウンサー、ディスクジョッキーの草分け、音楽評論家 戦後 ●東海林太郎 流行歌手 昭和30年代 ●徳山璉 オペラ歌手、流行歌手 1935~ ●南部圭之助 映画評論家 戦前戦後に跨って住む ●長谷川一夫 二枚目スター 1955年別荘を構える ●葉山三千子 女優 1966~1986 ●福永陽一郎 オペラ指揮者、編曲家 1962~1982 ●水木かおる 作詞家 1981~1998 鵠沼で没 ●三益愛子 女優 小説家川口松太郎の妻 1960~夫の仕事中別荘で過ごす ●萬屋錦之介 時代劇俳優 1966~1997?スポーツ
●織田幹雄 陸上競技三段跳び 日本人初の五輪金メダル受賞者 晩年を鵠沼の老人ホームに暮らし、1997年没 ●鯱ノ里一郎 大相撲関取 戦時中疎開経済界
●伊東將行 鵠沼海岸別荘地開発功労者。鵠沼館・東屋経営 ●田中平八 相場師=田中平八(天下の糸平)の長女=登羅の婿で三代目平八を継ぐ。糸平不動産・田中鉱山を興す 鵠沼海岸に別荘 ●益田孝 三井財閥最高経営者 鵠沼松が岡に別荘 ●馬越恭平 三井物産、三井呉服店理事を経て大日本麦酒㈱社長 鵠沼松が岡に別荘 ●郷誠之助 東京株式取引所理事長、帝國商工銀行頭取、商工会議所会頭 鵠沼松が岡に別荘 ●田中銀之助 田中銀行・田中鉱業・日本製鋼所各取締役。日本ラグビーの父 鵠沼海岸に別荘 ●岩垂邦彦 日本電気㈱創業者 鵠沼松が岡に別荘 ●松園尚巳 ヤクルト社長 鵠沼松が岡に在住 鵠沼で没ゆかりのある著名人
●聶耳 後に中華人民共和国の国歌となる﹁義勇軍行進曲﹂作曲者 1935年 鵠沼海岸で水死 記念碑がある ●師正王 東久邇宮稔彦王第二王子 1923年9月1日 鵠沼で避暑中関東大震災による遭難死 記念碑がある鵠沼を舞台にした作品
小説
●芥川龍之介 ﹁蜃気楼――或は﹁続海のほとり﹂――﹂ ﹁歯車﹂ ﹁鵠沼雑記﹂ ﹁死後﹂ ﹁悠々荘﹂﹁文藝的な、余りに文藝的な﹂ ●阿部昭 ﹁花火﹂﹁千年﹂﹁十年﹂﹁一日の労苦﹂﹁子供部屋﹂﹁子供の墓﹂﹁鵠沼西海岸﹂﹁単純な生活﹂﹁大いなる日﹂﹁父と子の連作﹂ ●岡本かの子 ﹁鶴は病みき﹂ ●河本勝昭 ﹁長い陰﹂ ●貴志祐介 ﹁青の炎﹂ ●志賀直哉 ﹁鵠沼行﹂﹁好人物の夫婦﹂﹁或る朝﹂﹁荒絹﹂﹁大津順吉 ; 范の犯罪﹂ ●志村有弘 ﹁罠の怪﹂ ●子母澤寛 ﹁愛猿記﹂ ●城山三郎 ﹁落日燃ゆ﹂ ●神西清 ﹁鎌倉の女﹂ ●立原正秋 ﹁湘南道路﹂﹁花のいのち﹂ ●谷崎潤一郎 ﹁悪魔﹂ ●式田ティエン ﹁沈むさかな﹂ ●内藤千代子 ﹁田舎住居の処女日記﹂﹁まつかぜ﹂﹁スヰートホーム﹂﹁ホネームーン﹂﹁生ひ立ちの記﹂ ●長崎透 ﹁漁火﹂ ●原雅子 ﹁鵠沼﹂ ●響高綱 ﹁ハウスキーパーもラクじゃない!?﹂ ●森志げ ﹁死の家﹂ ●武林無想庵 ﹁性慾の觸手﹂ ●吉屋信子 ﹁片瀬心中﹂﹁失楽の人々﹂ ●永井龍男 ﹁コチャバンバ行き﹂︵講談社文芸文庫︶ノンフィクション・エッセイなど
●芥川文子 ﹁追想芥川龍之介﹂ ●飯島晴子 ﹁葛の花﹂エッセイ集 ●今井達夫 ﹁昔の鵠沼抄﹂ ●江上冴子 ﹁エデンを遠く離れて-波音の楽園﹂﹁湘南番外編﹂ ●小穴隆一 ﹁二つの絵﹂﹁影照﹂ ●大塚楠緒子 ﹁鵠が沼たより﹂(心の花) ●大類伸 ﹁鵠沼随想﹂ ●奥田操 ﹁鵠沼海岸﹂ ●尾崎秀樹 ﹁鵠沼閑話﹂ ●勝部真長 ﹁青春の和辻哲郎﹂﹁若き日の和辻哲郎﹂ ●河井酔茗 ﹁鵠沼海岸﹂ ●川本三郎 ﹁我もまた渚を枕 : 東京近郊ひとり旅﹂ ●岸田劉生 ﹁鵠沼日記﹂ ●岸田麗子 ﹁鵠沼に住んでいた頃 (名作のモデル)﹂ ●小林尹夫 ﹁窓は夢想 : 芥川龍之介を巡る文学・詩歌の旅﹂ ●高木和男 ﹁鵠沼海岸百年の歴史﹂ ●高瀬笑子 ﹁鵠沼断想﹂﹁ゆく河の流れ-ふたつの国に生きて﹂ ●高三啓輔 ﹁鵠沼・東屋旅館物語﹂︵博文館新社︶ ●竹屋雅子 ﹁鵠沼村に遊ぶ記﹂ ●立原正秋 ﹁立原正秋の鎌倉―立原幹と歩く﹂ ●田中隆尚 ﹁桃園譜﹂ ●茅野雅子 ﹁鵠沼の家﹂﹁蟹﹂ ●徳冨蘆花 ﹁思出の記﹂﹁相模灘の落日﹂ ●野口喜久子 ﹁砂のいろ﹂ ●長谷川郁夫 ﹁美酒と革嚢 : 第一書房・長谷川巳之吉﹂ ●羽仁説子 ﹁半生を語る﹂ ●原健 ﹁サマーデイズ—伝説のサーファー大野薫・スタイルの記憶﹂ ●日夏耿之介 ﹁鵠沼之記﹂ ●松岡磐木 ﹁ひよどり凪の海﹂ ●村上春樹 ﹁村上朝日堂 スメルジャコフ対織田信長家臣団﹂ ●和辻照 ﹁和辻哲郎の思い出﹂﹁わがひとり﹂﹁七十八の賀﹂﹁同行二人﹂詩
●北村初雄 ﹁相模灘﹂ ●高橋元吉 ﹁高橋元吉詩集﹂第五巻短歌
●与謝野晶子 ﹁太陽と薔薇﹂﹁冬柏﹂ ●高瀬笑子 ﹁秋から冬へ﹂﹁くげぬま﹂ ●山口茂吉 ﹁鎌倉鵠沼﹂ ●川田順 ﹁心の花﹂ ●深尾須磨子 ﹁氷雨の谷 鵠沼にて﹂ ●荻野綾子 ﹁湘南にて﹂俳句
●新関一杜 ﹁鵠沼抄﹂ ●持田まさお ﹁句集鵠沼﹂写真
●福地誠一 ﹁鵠沼の五十年 : 福地誠一写真集﹂ ●百瀬篤 ﹁鵠沼海岸象景-1996-2001 百瀬篤写真集﹂映画
●小津安二郎 ﹁戸田家の兄妹﹂1941年松竹 ●小津安二郎 ﹁晩春﹂1949年松竹 ●木下惠介 ﹁破れ太鼓﹂1949年松竹 ●渋谷実 ﹁自由学校﹂1951年松竹 ●市川崑 ﹁青春怪談﹂1955年、日活 ●木下惠介 ﹁今日もまたかくてありなん﹂1959年松竹 ●小沼勝 ﹁NAGISA-なぎさ-﹂2000年フィルム・シティ ●喜多一郎 ﹁ライフ・オン・ザ・ロングボード﹂2005年オフィス キタ ●小泉徳宏 ﹁タイヨウのうた﹂2006年松竹 ●青の炎 特別版 ●青の炎 二宮和也コレクターズエディション 切ない殺人者編 ●青の炎 松浦亜弥コレクターズエディション 十七歳の恋愛編コミック
音楽
- 島根恵 組曲「湘南鵠沼海岸の想い出」 1.お兄ちゃん 2.いっこちゃん
- TUBE 「湘南My Love」
- 伊藤宜二(音楽)「戸田家の兄妹」~鵠沼の母娘
- 「5050」 「真夏の鵠沼」
- ASIAN KUNG-FU GENERATION 「鵠沼サーフ」