松方巌
松󠄁方 巖 | |
---|---|
| |
生年月日 | 1862年5月4日 |
出生地 |
日本 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下 (現・鹿児島県鹿児島市) |
没年月日 | 1942年8月9日(80歳没) |
出身校 | ライプツィヒ大学 |
前職 | 実業家 |
称号 |
勲四等旭日小綬章 従四位 |
配偶者 | 松方保子 |
子女 | 養子・松方三郎 |
親族 |
父・松方正義(内閣総理大臣) 弟・松方幸次郎(衆議院議員) 義弟・岩永裕吉(貴族院議員) 娘婿・黒木三次(貴族院議員) |
在任期間 | 1924年9月1日 - 1927年12月6日 |
松方 巌︵まつかた いわお、旧字体‥松󠄁方 巖、1862年5月4日︵文久2年4月6日[1]︶- 1942年︵昭和17年︶8月9日[1][2]︶は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院公爵議員、十五銀行頭取。
経歴[編集]
薩摩国鹿児島郡鹿児島城下で薩摩藩士・松方正義の長男として生まれる[1][3]。父の死去に伴い1924年︵大正13年︶9月1日、公爵を襲爵し[1][4]、貴族院公爵議員に就任した[2][5]。 1883年︵明治16年︶、ドイツ帝国に留学し、ライプツィヒ大学等で学んだ[2][3][6]。帰国後の1886年︵明治19年︶、交際官試補となるが実業界へ転身[2][3]。十五銀行副頭取、同頭取、東京銀行集会所副会頭、東京商業会議所特別議員、泰昌銀行頭取、横浜正金銀行取締役、帝国倉庫運輸取締役などを務めた[2][3]。 1927年︵昭和2年︶4月、昭和金融恐慌で十五銀行が事実上経営破綻、その責任を感じて資産490万円を提供した[6]ほか、三田の本邸、那須の農場、熱海の別荘、多数の骨董など私財の大半を放出の上、同年11月29日に宮内省に対し爵位返上を申し入れた[7]。同年12月6日、貴族院公爵議員を辞職[8][9]して爵位を返上し[1]、一切の公職から退いた[6]。墓所は青山霊園。 1942年︵昭和17年︶死去。家督は松方正義十三男の三郎が養嗣子となり継いだ[10]。栄典[編集]
- 1884年(明治17年)10月3日 - 従五位[11]
- 1891年(明治24年)6月16日 - 正五位[12]
- 1898年(明治31年)6月20日 - 従四位[13]
- 1916年(大正5年)1月4日 - 勲四等旭日小綬章[14]
- 1920年(大正9年)1月28日 - 銀杯一個[15]
- 1923年(大正12年)12月28日 - 金杯一個[16]
親族[編集]
脚注[編集]
(一)^ abcdefghij﹃平成新修旧華族家系大成 下巻﹄576-579頁。
(二)^ abcde﹃議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑﹄11頁。
(三)^ abcd﹃人事興信録 第7版﹄ま33頁。
(四)^ ﹃官報﹄第3610号、大正13年9月3日。
(五)^ ﹃貴族院要覧︵丙︶﹄昭和21年12月増訂、32頁。
(六)^ abc﹃華族総覧﹄572頁。
(七)^ 松方侯爵、爵位返上を申し出る﹃大阪毎日新聞﹄昭和2年11月30日︵﹃昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年﹄本編p104 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年︶
(八)^ ﹃貴族院要覧︵丙︶﹄昭和21年12月増訂、36頁。
(九)^ ﹃官報﹄第286号、昭和2年12月10日。
(十)^ 千田稔﹃華族総覧﹄講談社現代新書、2009年7月、572頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
(11)^ ﹃官報﹄第382号﹁賞勲叙任﹂1884年10月4日。
(12)^ ﹃官報﹄第2391号﹁叙任及辞令﹂1891年6月20日。
(13)^ ﹃官報﹄第4491号﹁叙任及辞令﹂1898年6月21日。
(14)^ ﹃官報﹄第1026号﹁叙任及辞令﹂1916年1月6日。
(15)^ ﹃官報﹄第2486号﹁彙報 - 褒賞﹂1920年11月13日。
(16)^ ﹃官報﹄第3411号﹁叙任及辞令﹂1924年1月9日。
(17)^ 松方幸次郎 ﹃人事興信録﹄データペース、第8版 [昭和3(1928)年7月]
(18)^ 平成新修旧華族家系大成下576-579
参考文献[編集]
●人事興信所編﹃人事興信録 第7版﹄人事興信所、1925年。 ●﹃貴族院要覧︵丙︶﹄昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。 ●霞会館華族家系大成編輯委員会﹃平成新修旧華族家系大成 下巻﹄霞会館、1996年。 ●衆議院・参議院編﹃議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑﹄大蔵省印刷局、1990年。 ●千田稔﹃華族総覧﹄講談社︿講談社現代新書﹀、2009年。日本の爵位 | ||
---|---|---|
先代 松方正義 |
公爵 松方家第2代 1924年 - 1927年 |
次代 爵位返上 |