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「松平定敬」の版間の差分

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この人事と同時に、長州征伐のため軍事総裁に転じていた実兄・[[松平容保]](会津藩主)の[[京都守護職]]への復帰も発令され、兄弟2人で京都守護を担う体制が形成されたことになる。

この人事と同時に、長州征伐のため軍事総裁に転じていた実兄・[[松平容保]](会津藩主)の[[京都守護職]]への復帰も発令され、兄弟2人で京都守護を担う体制が形成されたことになる。



直前の3月には[[徳川慶喜]]が朝廷から新設の[[禁裏御守衛総督]]・摂海防禦指揮に任命されており、雄藩勢力との対抗を通じて連携を深めた定敬・容保・慶喜の3者は、幕府から半ば独立して朝廷を援護する勢力を形成し、[[大政奉還]]に至るまでの中央政局を主導することになる([[一会桑政権]])。


3[[]][[]]3[[]][[]][[]][[]]退[[]]

同年の[[禁門の変]]では会津藩と共に[[長州藩]]兵を撃退し、水戸[[天狗党の乱]]でも出兵している。髪を総髪にし、洋装で馬に乗り都大路を闊歩した。



慶応3年([[1867年]])4月には、営中に限り[[老中]]同様の業務を執り行うよう命ぜられ、事実上の在京閣老としての役割も担うこととなった。

慶応3年([[1867年]])4月には、営中に限り[[老中]]同様の業務を執り行うよう命ぜられ、事実上の在京閣老としての役割も担うこととなった。



=== 戊辰戦争 ===

=== 戊辰戦争 ===

慶応3年12月の[[王政復古 (日本)|王政復古]]政変では、容保・定敬の京都守護職・京都所司代解職問題を巡って政変参加者間で紛糾するが([[小御所会議]])、新政府の決定を待たずに徳川慶喜が両職を罷免することで決着した<ref>高橋秀直「「公議政体派」と薩摩倒幕派 : 王政復古クーデター再考」『京都大學文學部研究紀要』 (2002), p.65。</ref>。

慶応3年12月の[[王政復古 (日本)|王政復古]]政変では、畿内における徳川方の最大の軍事勢力である会津藩・桑名藩の撤兵問題が主要な課題となった。[[小御所会議]]は容保・定敬の京都守護職・京都所司代解職の是非を巡って政変参加者間で紛糾するが、新政府の決定を待たずに徳川慶喜が両職を罷免することで決着した<ref>高橋秀直「「公議政体派」と薩摩倒幕派 : 王政復古クーデター再考」『京都大學文學部研究紀要』 (2002), p.65。</ref>。



慶応4年([[1868年]])に[[鳥羽・伏見の戦い]]が起こり[[戊辰戦争]]が始まると、慶喜に従い江戸[[霊巌寺 (江東区)|霊巌寺]]にて謹慎した。桑名藩は会津と並んで新政府から敵視され(朝敵5等級の認定のうち、第1等が[[徳川慶喜]]、第2等が[[松平容保]]と定敬<ref>『柏崎市史 下巻』P8、市史編さん委員会、1990年</ref>)、国元では新政府軍が押し寄せてくる懸念から、先代当主の遺児・万之助(定教)を担いで恭順することを家老たちが決めていた。そのため、徹底抗戦派と見られていた定敬の帰国は困難な状況となった。


4[[1868]][[]][[]][[ ()|]]51[[]]2[[]]<ref> P81990</ref>


定敬は[[大久保一翁]]から桑名藩の飛び地領である[[越後国]][[柏崎市|柏崎]]へ赴くことを勧められ、[[横浜港|横浜]]から[[プロイセン王国|プロイセン]]船「コスタリカ号」で柏崎へ渡る。[[鯨波戦争]]では後方連絡の都合から指揮を家臣に任せて柏崎から会津へ移動した。その後は[[若松城|会津若松城]]で兄の容保と再会し、[[仙台港|仙台]]から[[榎本武揚]]の艦隊で[[函館市|箱館]]へ渡った。この頃、一色三千太郎(いしき みちたろう)と名乗っていた<ref>[[河合敦]]『殿様は「明治」をどう生きたのか』(洋泉社、2014年)p.27</ref>。

定敬は[[大久保一翁]]から桑名藩の飛び地領である[[越後国]][[柏崎市|柏崎]]へ赴くことを勧められ、[[横浜港|横浜]]から[[プロイセン王国|プロイセン]]船「コスタリカ号」で柏崎へ渡る。[[鯨波戦争]]では後方連絡の都合から指揮を家臣に任せて柏崎から会津へ移動した。その後は[[若松城|会津若松城]]で兄の容保と再会し、[[仙台港|仙台]]から[[榎本武揚]]の艦隊で[[函館市|箱館]]へ渡った。この頃、一色三千太郎(いしき みちたろう)と名乗っていた<ref>[[河合敦]]『殿様は「明治」をどう生きたのか』(洋泉社、2014年)p.27</ref>。


2021年9月11日 (土) 17:03時点における版

 

凡例

松平 定敬
松平定敬(徳川林政史研究所蔵、1862年)
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 弘化3年12月2日1847年1月18日
死没 明治41年(1908年7月21日
改名 銈之助(幼名)、定敬
別名 一色三千太郎
戒名 大心院殿[注釈 1]
墓所 東京都豊島区駒込染井霊園
官位 従五位下越中守従四位下侍従左近衛権中将従二位
幕府 江戸幕府溜間詰京都所司代
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
伊勢桑名藩
氏族 高須松平家(四谷松平家)久松松平家定勝
父母 父:松平義建、養父:松平定猷
兄弟 源之助、徳川慶勝武成、整三郎、徳川茂徳容保定敬、鐡丸、義勇、幸
正室:初子松平定猷の娘)
側室:別所儀兵衛の娘
正雄定晴、文子
養子:定教
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函館戦争中の松平定敬
高須四兄弟(1878年9月撮影)
左から定敬、容保、茂栄、慶勝

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 20081998




西









3






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脚注

注釈

  1. ^ 墓石には以下「大心院殿恭蓮社善□□晴山大居士」と刻まれ、欠字(□□)部分は未詳[1]
  2. ^ 蜂須賀茂韶夫人となった随子と同一人物とされるが[9]、「後室」初子とは明治5年2月に結婚しているのに対して「先室」隋子との離婚は明治12年とあり矛盾がある点や、定敬が桑名藩を継いだ経緯から見ても、この結婚自体に疑念がある。

出典



(一)^ 

(二)^  ,   , pp. 98-104

(三)^  :  (2002), p.65

(四)^  P81990

(五)^ 殿2014p.27

(六)^ 196-197

(七)^ 99

(八)^  75221908723

(九)^ 

関連項目