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「芥川龍之介」の版間の差分

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== 生涯 ==

== 生涯 ==

[[東京市]][[京橋区]]入船町8丁目(現・[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[明石町 (東京都中央区)|明石町]])に[[牛乳]]製造販売業を営む[[新原敏三]]、フクの長男として生まれる<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 19頁。</ref>。[[人の始期|出生]][[時刻]]については資料がないため不明である。 [[戸籍]]上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や[[東京都立両国高等学校・附属中学校|府立三中]]、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]、[[東京大学]]関係の名簿類では「龍之助」になっている。芥川自身は「龍之助」の表記を嫌った。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。

[[東京市]][[京橋区]]入船町8丁目(現・[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[明石町 (東京都中央区)|明石町]])に[[牛乳]]製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 19頁。</ref>。[[人の始期|出生]][[時刻]]については資料がないため不明である。 [[戸籍]]上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や[[東京都立両国高等学校・附属中学校|府立三中]]、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]、[[東京大学]]関係の名簿類では「龍之助」になっている。芥川自身は「龍之助」の表記を嫌った。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。



生後7か月ごろに母フクが精神に異常をきたしたため<ref group="*">長女の急死が原因であったと推測されることがある。</ref>、東京市[[本所区]]小泉町(現・東京都[[墨田区]][[両国 (墨田区)|両国]])にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母のフキに養育される。11歳のときに母が亡くなる。翌年に叔父・[[芥川道章]](フクの実兄)の[[養子縁組|養子]]となり、芥川姓を名乗ることになった。[[旧家]]の[[士族]]である芥川家は[[江戸時代]]、代々[[徳川氏|徳川家]]に仕えた奥坊主(御用部屋坊主)の家である。家中が芸術・演芸を愛好し、江戸の[[文人]]的趣味が残っていた。

生後7か月ごろに母フクが精神に異常をきたしたため<ref group="*">長女の急死が原因であったと推測されることがある。</ref>、東京市[[本所区]]小泉町(現・東京都[[墨田区]][[両国 (墨田区)|両国]])にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母のフキに養育される。11歳のときに母が亡くなる。翌年に叔父・[[芥川道章]](フクの実兄)の[[養子縁組|養子]]となり、芥川姓を名乗ることになった。[[旧家]]の[[士族]]である芥川家は[[江戸時代]]、代々[[徳川氏|徳川家]]に仕えた奥坊主(御用部屋坊主)の家である。家中が芸術・演芸を愛好し、江戸の[[文人]]的趣味が残っていた。


2023年9月26日 (火) 07:02時点における版

芥川 龍之介
(あくたがわ りゅうのすけ)
誕生 1892年3月1日
日本における郵船商船規則の旗 日本東京府東京市京橋区
(現:東京都中央区
死没 (1927-07-24) 1927年7月24日(35歳没)
日本における郵船商船規則の旗 日本・東京府(現:東京都北区田端)
墓地 日蓮宗慈眼寺
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本における郵船商船規則の旗 日本
教育 文学士
最終学歴 東京帝国大学英文科
ジャンル 短編小説
主題 近代知識人の苦悩
文学活動 新現実主義
代表作羅生門』(1915年)
』(1916年)
戯作三昧』(1917年)
地獄変』(1918年)
奉教人の死』(1918年)
藪の中』(1922年)
河童』(1927年)
歯車』(1927年)
配偶者 塚本文1919年 - 1927年
子供 芥川比呂志(長男)
芥川多加志(次男)
芥川也寸志(三男)
親族 塚本善五郎(義父)
芥川貴之志(孫)
芥川麻実子(孫)
公式サイト 田端文士村記念館
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

  1892︿2531 - 1927︿2724


8[1] 簿216

7[* 1]11

1898311910439[* 2]191043[* 2][* 2][* 2][* 2][* 2][* 2]2宿[2]13[* 3]19132
1916542
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1914323稿10[* 4]19154101

1916545202[* 5]12[3][4][* 6]511

19187西[5]191983稿[6]190740

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192211118(

19231291[8][9][10]
その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○(※編注:検閲箇所)さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、「うそだよ、君」と一喝した。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや譃だらう」と云ふ外ほかはなかつた。しかし次手ついでにもう一度、何なんでも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。
再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬものである。(大正十二年九月一日の大震に際して)

また「或自警団員の言葉」においても日本社会について皮肉めいた記述をしている[11]

我我は互に憐まなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは、――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である。我我は互に憐まなければならぬ。ショオペンハウエル厭世観の我我に与えた教訓もこう云うことではなかったであろうか?(「或自警団員の言葉」より)

1924年(大正13年)、芥川は『桃太郎』を発表した。芥川にとっての桃太郎観というものは、『女性改造』連載「僻見」1924(大正13)年4月1日発行第3巻第4号に見出すことができる。芥川は上海章炳麟(章太炎先生)から聞いた話を次のように引用した。(「僕」が芥川、「予」が章炳麟)

その時先生の云つた言葉は未だに僕の耳に鳴り渡つてゐる。――「予の最も嫌悪する日本人は鬼が島を征伐した桃太郎である。桃太郎を愛する日本国民にも多少の反感を抱かざるを得ない。」先生はまことに賢人である。僕は度たび外国人の山県公爵を嘲笑し、葛飾北斎を賞揚し、渋沢子爵を罵倒するのを聞いた。しかしまだ如何なる日本通もわが章太炎先生のやうに、桃から生れた桃太郎へ一矢を加へるのを聞いたことはない。のみならずこの先生の一矢はあらゆる日本通の雄弁よりもはるかに真理を含んでゐる。(「僻見」より)

章炳麟は、侵略者としての桃太郎と日本の帝国主義による植民地政策を重ね合わせたのであり、芥川はそれを理解して自らの作品『桃太郎』を執筆したのである[12]。当時の売れっ子作家であり表層では国家の優等生でもあった芥川は、一方でバーナード・ショーへの傾倒など社会主義のよき理解者であった[13]1925年(大正14年)制定の治安維持法に至る法案策定過程に関して彼ははっきりと不快感を示している。それは1922年(大正11年)『新潮』4月号掲載「澄江堂雑記」に次のように主張された。

社会主義は、理非曲直の問題ではない。単に一つの必然である。僕はこの必然を必然と感じないものは、恰(あたか)も火渡りの行者を見るが如き、驚嘆の情を禁じ得ない。あの過激思想取締法案とか云ふものの如きは、正にこの好例の一つである。(「澄江堂雑記: 十一 火渡りの行者」より)

19104352519114421[14][14]

192514712

192514192615222720-47-2簿稿 920-4西稿-44

192721西[* 7]西4[15]

724西36︿35[16][17][18]

1927

西





[19][20][21]19349[22]



1180








簿

Doppelgänger

  


19272724 6姿[23] 使[24] (Veronal) 



7[25]



禿



[26]

8

25[27]
二三年(にさんねん)の後いよいよ自殺の決意を固められた時に、死の姿の一つとして、あの吉原の池に累々と重なつた醜い死骸は必ず故人の頭に甦つて来たにちがひないと思ふ (川端康成「芥川龍之介氏と吉原」、『サンデー毎日』 1929年1月13日 第8年3号より)

菊池寛による弔辞

  • 菊池寛は第一高等学校での同級生以来の付き合いであり、友人総代として弔辞を読んでいる。菊池は読み上げている最中に感極まって慟哭、しばらくの間、霊前に泣き伏せてしまった[28]

芥川龍之介君よ
君が自ら擇み 自ら決したる死について 我等 何をか云はんや
たゞ我等は 君が死面に 平和なる微光の漂へるを見て 甚だ安心したり
友よ 安らかに眠れ!
君が夫人 賢なれば よく遺兒を養ふに堪ふるべく
我等 亦 微力を致して 君が眠の いやが上に安らかならん事に努むべし
たゞ悲しきは 君去りて 我等が身辺 とみに蕭篠たるを如何せん
                                     友人總代 菊池寛

  • なお、芥川の死について、菊池寛は「芥川の事ども」という文章を残している[29]

河童忌


7241930517[30]

1976515075[30]90201729[31]


()202320186[32]




稿

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37192421宿1925稿

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  1927

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1850 - 1919 -  ()1869退椿椿1875[38]1882[39]18831860-1912宿[38][40]18991904[40]1918[40]宿1919

1849 - 1928 - 1904[41]1857 - 1937[41]



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 - 194520413[42]

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姿

SP



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1885 - 189145

家系図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

細木香以

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新原敏三

 

フク

 

芥川道章 (養父)

 

トモ (養母)

 

塚本善五郎

 

(女)

 

山本喜誉司

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

葛巻義定

 

ヒサ

 

西川豊

 

 

芥川龍之介

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

葛巻義敏

 

瑠璃子

 

比呂志

 

多加志

 

間所紗織

 

也寸志

 

草笛光子

 

江川真澄

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

耿子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

麻実子

 

貴之志

 

 

 

 

 

 

脚注

注釈



(一)^ 

(二)^ abcdefg31

(三)^ 簿

(四)^ 189219151973

(五)^ 退30

(六)^ 退2010

(七)^ 西2

出典



(一)^  52009 19

(二)^  43-44132
^  44-452126
^  -23118
^  2-3310

(三)^ , 36

(四)^ , 38.178

(五)^  1992, p. 213

(六)^  19193

(七)^ , p. 73

(八)^  2010, p. 52

(九)^  

(十)^  - plus

(11)^  2015, p. 58

(12)^  2017, p. 46

(13)^  2010, p. 54

(14)^ ab 2010, pp. 4447

(15)^ [], 511

(16)^   2008 - 

(17)^   1981p.170

(18)^ 27262 -3p3   1994

(19)^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1172662/15 1939}

(20)^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1180947/16 1927}

(21)^ , 40.177

(22)^ , 178-179

(23)^ 27252 -3p3   1994

(24)^  19277

(25)^ 201210152-153

(26)^  ︿︿, 2017--

(27)^  2013, p. 172

(28)^ 27282 -3p3   1994

(29)^  19279

(30)^ ab) 2017201-208 

(31)^ .   . 201924

(32)^  201867201867

(33)^ ab 2006, p. 15-16

(34)^  

(35)^  19966

(36)^ abcd379-381 

(37)^ ab .  . 2022812

(38)^ ab20200804

(39)^  282017331

(40)^ abc

(41)^ ab

(42)^ 20076ISBN 978-4103049715 

(43)^ 20078152008420MAP


19797ISBN 456200892X NCID BN02178993https://books.google.co.jp/books/about/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%85%B5%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%89%A9%E8%AA%9E.html?id=rmVDAQAAIAAJ&redir_esc=y 

 198910ISBN 4-10-368402-X 

1993

2006ISBN 978-4-10-610167-0https://books.google.co.jp/books?id=jnSaAAAACAAJ&redir_esc=y 

1992ISBN 978-4-46-922088-9https://books.google.co.jp/books?id=s5oqAQAAIAAJ&redir_esc=y 

2003

 32010103040-55doi:10.24544/ocu.20171208-078NAID 110007811383 

201518ASIN B00RXHZ4M2https://books.google.co.jp/books?id=yEgYBgAAQBAJ&redir_esc=y&hl=ja 

 : . 66201645-58ISSN 0288-3031NAID 120006030914 

831929113 

 : 1201310171-175ISSN 2187-8307NAID 120005352457