大東亜会議
大東亜会議︵だいとうあかいぎ、旧字体‥大東亞會議︶は、1943年︵昭和18年︶11月5日 - 11月6日に東京で開催されたアジア地域の首脳会議。同年5月31日に御前会議[1]で決定された大東亜政略指導大綱に基づき開催された。
当時の日本の同盟国や、日本が大東亜戦争で旧宗主国を放逐したことにより独立されたアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた。そこでは、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言が採択された。日本は第2回目の大東亜会議を開催する計画を持っていたが、戦局の悪化に伴って開催困難となり、昭和20年︵1945年︶4月には代替として駐日特命全権大使や駐日代表による﹁大使会議﹂が開催された[2]。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a0/Greater_East_Asia_Conference_Map.PNG/400px-Greater_East_Asia_Conference_Map.PNG)
日本︵濃い赤︶と参加国︵赤︶を表した地図
大東亜会議当時に、日本の同盟国もしくは日本が旧宗主国を放逐した後に独立した各国が参加した。なおこの内インドはオブザーバーとして参加した。その理由は日本がインドを大東亜共栄圏に組み込まないという意思を明確にしていたからである[9]。
大日本帝国‥東條英機内閣総理大臣
中華民国︵汪兆銘政権︶‥汪兆銘国民政府主席
満洲国‥張景恵国務総理大臣
フィリピン‥ホセ・ラウレル大統領
ビルマ国‥バー・モウ内閣総理大臣
タイ‥ワンワイタヤーコーン親王︵首相代理︶
●インド‥この時点では本土がまだイギリスの植民地支配下にあったインドからは、日本と協力しインド全土のイギリス︵
イギリス領インド帝国︶からの完全独立を目指していた亡命政権である
自由インド首班のチャンドラ・ボースが参加した。ラース・ビハーリー・ボースもオブザーバーとして出席したが、オブザーバーとなったのは日本がインドを大東亜共栄圏に組み込まないという意思を明確にしていたからである[10]。
また、イギリスの植民地であったマラヤや、オランダの植民地であったインドネシアは会議当時は日本軍の占領下であったものの、大東亜政略指導大綱において帝国領とすることとされ、独立検討の対象ですらなかった。仏領インドシナは日本と友好関係にあるフランスのヴィシー政権の植民地のままであったため同様に参加していない。また同盟国ではあるものの、アジアに位置しないドイツやイタリアの代表は参加しなかった。
抑〻世界各國ガ各其ノ所󠄁ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦󠄁共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平󠄁和確立ノ根本要󠄁義ナリ 然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽󠄁クナキ侵󠄁略搾取ヲ行ヒ大東亞隸屬化󠄁ノ野望󠄁ヲ逞ウシ遂󠄂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆󠄁サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス 大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂󠄂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全󠄁ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建󠄁設シ以テ世界平󠄁和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス
一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道󠄁義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建󠄁設ス 一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊󠄁重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス 一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊󠄁重シ各民族ノ創造󠄁性ヲ伸暢シ大東亞ノ文󠄁化󠄁ヲ昂揚ス 一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ增進󠄁ス 一、大東亞各國ハ萬邦󠄁トノ交󠄁誼ヲ篤ウシ人種的󠄁差別ヲ撤廢シ普ク文󠄁化󠄁ヲ交󠄁流シ進󠄁ンデ資󠄁源ヲ開放シ以テ世界ノ進󠄁運󠄁ニ貢獻ス
概要[編集]
日本は、既に独立国となっていたタイや中国、満洲国を除くこれらの地を長年植民地支配下においていた欧米諸国の軍隊を駆逐して南方資源地帯を獲得するにあたり、昭和16年11月の南方占領地行政実施要領において、当面、軍政を敷くことを決定してはいたが、その後の独立等に至る方針は決定されていなかった[3]。そのため、占領地域等における円滑な統治のために本会議は開催された[3]。会議の開催は、東條英機首相にとって占領地における民心掌握の一環としての方策であったが、重光葵外相には和平や戦後構想にむけて、長年欧米諸国の植民地として搾取されていた各国の独立構想があったとされる[4]。 昭和18年5月の大東亜政略指導大綱に基づくものであり、会議開催に先立ち日本によるビルマの独立承認︵8月1日︶、フィリピンの独立承認︵10月14日︶、大東亜省の設置︵11月1日︶が行われている[3]。ただし、これらの独立はこれまでこれらの地を植民地支配していた連合国からは﹁傀儡政権﹂とも評されており[5]、その他のマレーやボルネオ等は、大綱において帝国領とされ[注釈 1]、独立はさせられなかった。また、独立を承認した諸国の完全な民心把握及び実効支配には至っておらず、特にまだアメリカ領フィリピン植民地軍︵米比軍︶残党が残っていたフィリピン第二共和国では、アメリカからの援助を受けた米比軍残党による抗日ゲリラ︵ユサッフェゲリラ︶が跋扈するようになる[6]ほか、大戦末期になるとビルマ国の国軍であるビルマ国民軍が連合国側に寝返ることとなった。 なおこの会議は、近代史上初めて有色人種のみが一堂に会して行われている首脳会議であった。当時の日本やその同盟国がイギリスやアメリカなどの旧宗主国を放逐したことにより独立を果たしたアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われ、﹁それまでの植民地対宗主国の主従関係にとらわれたものでなかったため会議はきわめて和やかに進められ、一家族の集会のようであった﹂という回顧[7]がある。また﹁大東亜共同宣言はイギリスとアメリカが提唱した大西洋憲章に対抗することを目指していた﹂という評価もある[8]。 しかし、決して開催国の日本の思惑通りに予定調和的に会議が行われたわけではなく、タイ王国代表ワンワイタヤーコーンが、その演説の中で大東亜共同宣言案への修正提案が拒絶されたことに対する婉曲な批判を行い、またフィリピン大統領ホセ・ラウレルが、元オランダの植民地であったインドネシア代表のスカルノらが会議に参加できなかったことへの不満を述べている[7]。また、タイの首相・プレーク・ピブーンソンクラームは連合国との将来的な関係回復を見据えて欠席する[7]等、ある程度の緊張感を伴った国際会議であったとの分析もある。参加国[編集]
![大日本帝国の旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1b/Flag_of_Japan_%281870%E2%80%931999%29.svg/25px-Flag_of_Japan_%281870%E2%80%931999%29.svg.png)
![中華民国の旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/72/Flag_of_the_Republic_of_China.svg/25px-Flag_of_the_Republic_of_China.svg.png)
![満洲国の旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8c/Flag_of_Manchukuo.svg/25px-Flag_of_Manchukuo.svg.png)
![フィリピン第二共和国の旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/15/Flag_of_the_Philippines_%281943%E2%80%931945%29.svg/25px-Flag_of_the_Philippines_%281943%E2%80%931945%29.svg.png)
![ビルマ国の旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f3/Flag_of_the_State_of_Burma_%281943%E2%80%931945%29.svg/25px-Flag_of_the_State_of_Burma_%281943%E2%80%931945%29.svg.png)
![タイ王国の旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a9/Flag_of_Thailand.svg/25px-Flag_of_Thailand.svg.png)
![イギリス領インド帝国の旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/be/British_Raj_Red_Ensign.svg/25px-British_Raj_Red_Ensign.svg.png)
![自由インドの旗](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5a/1931_Flag_of_India.svg/25px-1931_Flag_of_India.svg.png)
開催[編集]
各国の代表及び随行者は、日本政府が用意した専用機で各地より羽田空港に来日し、政府が用意した東京都内の専用宿舎に滞在した。各宿舎での料理の提供などは帝国ホテルが担当した。晩餐会には、女優で歌手の高峰三枝子が招待され、﹁湖畔の宿﹂を歌唱した。 各国の代表者は会議開催前日の11月4日に皇居において昭和天皇に拝謁した。会議は11月5日の午前10時より帝国議会議事堂で開催され、日本側の出席者は東條の秘書官・浜本正勝が主席通訳を務めた。大東亜共同宣言[編集]
11月6日に大東亜共同宣言が全会一致で採択された。 大東亞共同宣言抑〻世界各國ガ各其ノ所󠄁ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦󠄁共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平󠄁和確立ノ根本要󠄁義ナリ 然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽󠄁クナキ侵󠄁略搾取ヲ行ヒ大東亞隸屬化󠄁ノ野望󠄁ヲ逞ウシ遂󠄂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆󠄁サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス 大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂󠄂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全󠄁ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建󠄁設シ以テ世界平󠄁和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス
一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道󠄁義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建󠄁設ス 一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊󠄁重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス 一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊󠄁重シ各民族ノ創造󠄁性ヲ伸暢シ大東亞ノ文󠄁化󠄁ヲ昂揚ス 一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ增進󠄁ス 一、大東亞各國ハ萬邦󠄁トノ交󠄁誼ヲ篤ウシ人種的󠄁差別ヲ撤廢シ普ク文󠄁化󠄁ヲ交󠄁流シ進󠄁ンデ資󠄁源ヲ開放シ以テ世界ノ進󠄁運󠄁ニ貢獻ス
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発竝ニ民心ノ把握ニ努ム
出典[編集]
(一)^ 不破 2001, p. 22.
(二)^ “外務省: ﹃日本外交文書﹄特集﹁太平洋戦争﹂︵全3冊︶”. www.mofa.go.jp. 2023年2月26日閲覧。
(三)^ abc服部, 田村 & 瀬戸 2007, pp. 168–171.
(四)^ 澄雄, 波多野﹁重光葵と大東亜共同宣言 -戦時外交と戦後構想-﹂﹃国際政治﹄第1995巻第109号、1995年、38–53,L7、doi:10.11375/kokusaiseiji1957.109_38、CRID 1390001205334893696。
(五)^ 森 1992, pp. 250–251.
(六)^ 山崎 雅弘﹃侵略か、解放か!?世界は﹁太平洋戦争﹂とどう向き合ったか﹄学研マーケティング、2016年8月17日。ISBN 978-4-05-405417-2。
(七)^ abc深田祐介 2004 [要ページ番号]
(八)^ 小林よしのり﹃新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論2﹄幻冬舎、2001年10月1日。ISBN 9784344001312。p213。
(九)^ 深田祐介﹃黎明の世紀 大東亜会議とその主役たち﹄文藝春秋、1991年9月1日。ISBN 978-4163455600。
(十)^ ﹃黎明の世紀 大東亜会議とその主役たち﹄深田祐介著 文藝春秋 1991年[要ページ番号]
参考文献[編集]
●不破, 哲三﹃ここに﹃歴史教科書﹄問題の核心がある﹄新日本出版社、2001年9月1日。ISBN 978-4406028370。 ●森, 武麿 著、林屋, 辰三郎、永原, 慶二、児玉, 幸多 編﹃アジア・太平洋戦争﹄集英社︿日本の歴史﹀、1992年12月25日。ISBN 978-4081950201。 ●深田祐介﹃大東亜会議の真実――アジアの解放と独立を目指して﹄PHP研究所︿PHP新書﹀、2004年3月15日。ISBN 4-569-63495-8。 ●服部, 雅徳、田村, 尚也、瀬戸, 利春﹃本土決戦 陸海軍、徹底抗戦への準備と“日本敗戦”の真実﹄学研プラス︿歴史群像 太平洋戦史シリーズ﹀、2007年8月1日。ISBN 978-4056048902。関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 日本ニュース 第179号|NHK戦争証言アーカイブス(大東亜会議についてのニュース映画)
- 日本ニュース 第251号|NHK戦争証言アーカイブス(大東亜大使会議についてのニュース映画)
- アジ歴トピックス - アジア歴史資料センター 大東亜共栄圏>大東亜会議開催及会議ノ状況
- 『大東亜会議』 - コトバンク