「イギリス領インド帝国」の版間の差分
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{{基礎情報 |
{{基礎情報 過去の国 |
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|略名 = インド |
|略名 = インド |
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|日本語国名 = インド帝国 |
|日本語国名 = インド帝国 |
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|公式国名 = '''{{en|British Raj}}'''<small>(英語)</small><br>'''{{lang|hi|ब्रिटिश राज}}'''<small>(ヒンディー語)</small><br>'''{{lang|ur|برطانوی راج}}'''<small>(ウルドゥー語)</small> |
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|公式国名 = {{native name|en|Indian Empire}} |
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|建国時期 =[[1858年]] |
|建国時期 = [[1858年]] |
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|亡国時期 =[[1947年]] |
|亡国時期 = [[1947年]] |
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|先代1 =イギリス東インド会社 |
|先代1 = イギリス東インド会社 |
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|先旗1 =Flag of the British East India Company (1801).svg |
|先旗1 = Flag of the British East India Company (1801).svg |
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|先代2 =ムガル帝国 |
|先代2 = ムガル帝国 |
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|先旗2 =Alam of the Mughal Empire.svg |
|先旗2 = Alam of the Mughal Empire.svg |
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|先旗2縁 = no |
|先旗2縁 = no |
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|先代3 =コンバウン王朝 |
|先代3 = コンバウン王朝 |
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|先旗3 =Flag of Burma (Alaungpaya Dynasty).svg |
|先旗3 = Flag of Burma (Alaungpaya Dynasty).svg |
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|先代4 =マイソール王国 |
|先代4 = マイソール王国 |
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|先旗4 =Flag of Mysore.svg |
|先旗4 = Flag of Mysore.svg |
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|先代5 =清 |
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|次旗1 = British Burma 1937 flag.svg |
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|次代2 = インド連邦 (ドミニオン) |
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|次旗2 = Flag of India.svg |
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|次代 |
|次代3 = パキスタン (ドミニオン) |
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|次旗 |
|次旗3 = Flag of Pakistan.svg |
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|次代2 =パキスタン (ドミニオン) |
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|次旗2 =Flag of Pakistan.svg |
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|次旗3 =British Burma 1937 flag.svg |
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|次代4 =自由インド仮政府 |
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|次旗4 =1931 Flag of India.svg |
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|国旗画像 =British Raj Red Ensign.svg |
|国旗画像 =British Raj Red Ensign.svg |
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|国旗リンク = |
|国旗リンク = |
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|国旗説明 = |
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|国旗幅 = |
|国旗幅 = |
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|国旗縁 = |
|国旗縁 = |
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|国章画像 =Star-of-India-gold-centre.svg |
|国章画像 =Star-of-India-gold-centre.svg |
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|国章リンク = |
|国章リンク = |
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|国章説明 = |
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|国章幅 = |
|国章幅 = |
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|標語 = |
|標語 = |
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|国歌 =[[国王陛下万歳|God Save the Queen]]{{en icon}}<br>'' |
|国歌 = [[国王陛下万歳|God Save the Queen]]{{en icon}}<br>''国王陛下万歳''<br>{{center|[[File:United States Navy Band - God Save the Queen.ogg]]}} |
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|国歌追記 = |
|国歌追記 = |
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|位置画像 =British |
|位置画像 =British India (orthographic projection).svg |
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|位置画像説明 =イギリス領インド帝国の版図(1936年) |
|位置画像説明 =イギリス領インド帝国の版図(1936年) |
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|位置画像幅 = |
|位置画像幅 = 290 |
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|公用語 =[[ウルドゥー語]]、[[英語]]、[[ヒンディー語]] |
|公用語 = [[ウルドゥー語]]、[[英語]]、[[ヒンディー語]] |
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|首都 =[[コルカタ]]< |
|首都 = [[コルカタ|カルカッタ]]<br>{{smaller|(1858年 - 1911年)}}<br><br>[[ニューデリー]]<br>{{smaller|(1911年 - 1947年)}} |
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|元首等肩書 =[[インド皇帝|皇帝]] |
|元首等肩書 =[[インド皇帝|皇帝]] |
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|元首等年代始1 =1877年 |
|元首等年代始1 =1877年 |
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|面積測定時期5 = |
|面積測定時期5 = |
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|面積値5 = |
|面積値5 = |
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|人口測定時期1 =1877年 |
|人口測定時期1 = 1877年 |
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|人口値1 = |
|人口値1 = 260,000,000 |
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|人口測定時期2 =1900年 |
|人口測定時期2 = 1900年 |
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|人口値2 = |
|人口値2 = 310,000,000 |
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|人口測定時期3 =1939年 |
|人口測定時期3 = 1939年 |
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|人口値3 = |
|人口値3 = 378,000,000 |
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|人口測定時期4 = |
|人口測定時期4 = |
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|人口値4 = |
|人口値4 = |
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}} |
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{{植民地時代のインド}} |
{{植民地時代のインド}} |
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⚫ | その領域はインド・[[パキスタン]] |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[画像:British Indian Empire 1909 Imperial Gazetteer of India.jpg|thumb|250px|インド帝国の地方行政区画(1909年)]] |
[[画像:British Indian Empire 1909 Imperial Gazetteer of India.jpg|thumb|250px|インド帝国の地方行政区画(1909年)]] |
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アジアにおいてイギリスは、[[1796年]]には現[[スリランカ]]を[[併合]]、[[1814年]]から[[1816年]]の[[グルカ戦争]]によって[[ネパール王国|ネパール]]を[[保護国]]にした。また、1824年から3次に及んだ[[イギリス・ビルマ戦争]]の結果、[[ビルマ]] |
アジアにおいてイギリスは、[[1796年]]には現[[スリランカ]]を[[併合]]、[[1814年]]から[[1816年]]の[[グルカ戦争]]によって[[ネパール王国|ネパール]]を[[保護国]]にした。また、1824年から3次に及んだ[[イギリス・ビルマ戦争]]の結果、[[ビルマ]]︵現・[[ミャンマー]]︶を奪取し、1886年から1937年までイギリス領インド帝国の版図に組み込んでいた︵[[イギリス領ビルマ]]の独立は[[1948年]]︶。イギリス領インド帝国は[[カナダ]]や[[オーストラリア]]といった[[イギリス帝国]]内の[[自治領]]とは異なり、名目上は独立国とされた。[[第一次世界大戦]]および[[第二次世界大戦]]には連合国として参戦し、[[国際連盟]]、[[国際連合]]ともに原加盟国である。
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そして1858年、[[インド大反乱]]︵シパーヒーの乱︶の後、イギリスは[[ムガル帝国の君主]]を廃し、[[イギリス東インド会社]]を解散させ、インドをイギリスの直轄植民地とした。そのうえで、本国イギリスには[[インド省]]が、現地には﹁[[副王]]︵{{lang-en|viceroy}}︶﹂の称号を持つ[[インドの総督|イギリス人総督]]が置かれ、1877年には[[イギリス国王]]︵当時は[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]︶がインド皇帝を兼任するようになった。
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そして1858年、[[インド大反乱]]︵シパーヒーの乱︶の後、イギリスは[[ムガル帝国の君主]]を廃し、[[イギリス東インド会社]]を解散させ、インドをイギリスの直轄植民地とした。そのうえで、本国イギリスには[[インド省]]が、現地には﹁[[副王]]︵{{lang-en|viceroy}}︶﹂の称号を持つ[[インドの総督|イギリス人総督]]が置かれ、1877年には[[イギリス国王]]︵当時は[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]︶がインド皇帝を兼任するようになった。
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[[チャールズ・カニング (初代カニング伯爵)|チャールズ・キャニング]]の改革により、反乱の原因の一つとなった、前総督[[ジェイムズ・ラムゼイ (初代ダルハウジー侯爵)|ダルハウジー侯爵]]が濫用した﹁[[失権の原理]]﹂は廃止され、無嗣を理由とする[[藩王国]]の断絶は回避されることとなった。またイギリス政府は、藩王としての﹁権利、権威、名誉﹂を尊重することで、藩王国の領域を間接的に支配することに成功した。ただ、藩王国の規模の大きさは大小さまざまであり、[[ニザーム藩王国]]︵[[デカン高原]]︶、[[マイソール藩王国]]︵[[南インド]]︶、[[トラヴァンコール藩王国]]︵現在の[[ケーララ州]]︶、[[ジャンムー・カシミール藩王国]]︵[[北インド]]︶がその代表として挙げられる。
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[[チャールズ・カニング (初代カニング伯爵)|チャールズ・キャニング]]の改革により、反乱の原因の一つとなった、前総督[[ジェイムズ・ラムゼイ (初代ダルハウジー侯爵)|ダルハウジー侯爵]]が濫用した﹁[[失権の原理]]﹂は廃止され、無嗣を理由とする[[藩王国]]の断絶は回避されることとなった。またイギリス政府は、藩王としての﹁権利、権威、名誉﹂を尊重することで、藩王国の領域を間接的に支配することに成功した。ただ、藩王国の規模の大きさは大小さまざまであり、[[ニザーム藩王国]]︵[[デカン高原]]︶、[[マイソール藩王国]]︵[[南インド]]︶、[[トラヴァンコール藩王国]]︵現在の[[ケーララ州]]︶、[[ジャンムー・カシミール藩王国]]︵[[北インド]]︶がその代表として挙げられる。
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藩王国の内政に関するイギリス側駐在官の権限は |
藩王国の内政に関するイギリス側駐在官の権限は日常的な業務への干渉のみならず、大臣の罷免、任命権にまで及んだ。イギリスの干渉の理由としては、第一に藩王国と帝国の一体化をイギリスが望んだこと、第二に多くの藩王国内において民主的、民族主義的な運動が高揚したことが挙げられる<ref name="Princely state">Chandra ︵2001︶ pp.168-171</ref>。またイギリスは、藩王国内における一体性が保たれていなかったことから、分割支配を試みた。
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同様の政策が[[1886年]]から帝国の一州に組み込まれた[[ミャンマー|ビルマ]]にも適用され、[[コンバウン朝]]より自立していた[[シャン族]]、[[カヤー族]]、[[カチン族]]の有力者にはイギリスの主権を承認することと引き換えに藩内での行政権が認められた<ref>{{Cite book|和書 |
同様の政策が[[1886年]]から帝国の一州に組み込まれた[[ミャンマー|ビルマ]]にも適用され、[[コンバウン朝]]より自立していた[[シャン族]]、[[カヤー族]]、[[カチン族]]の有力者にはイギリスの主権を承認することと引き換えに藩内での行政権が認められた<ref>{{Cite book|和書 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== キャニング総督からリポン総督の時代 |
=== キャニング総督からリポン総督の時代(1858年 - 1884年) === |
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[[ファイル:Charles Canning, 1st Earl Canning - Project Gutenberg eText 16528.jpg|left|120px|thumb|[[チャールズ・キャニング (初代キャニング伯)|チャールズ・キャニング]]。初代インド副王に就任した]]
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[[ファイル:Charles Canning, 1st Earl Canning - Project Gutenberg eText 16528.jpg|left|120px|thumb|[[チャールズ・キャニング (初代キャニング伯)|チャールズ・キャニング]]。初代インド副王に就任した]]
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[[インド大反乱]]を鎮圧したイギリス政府は、[[1858年]][[8月2日]]、インド統治改善法を可決した。インド統治改善法により、[[イギリス東インド会社]]が保有していた全ての権限はイギリス国王に委譲されることとなった。また、イギリス本国では[[インド担当国務大臣]]のポストが新設され、その補佐機関として、インド参事会が設けられた。また、かつての[[ベンガル総督]]がインド総督となり、肩書きに﹁副王﹂の称号が付与された。[[11月1日]]、[[チャールズ・キャニング (初代キャニング伯)|チャールズ・キャニング]]︵就任期間:1858年11月1日-[[1862年]][[3月21日]]︶が初代の﹁副王﹂に就任した<ref name="Canning">{{Cite book|和書
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[[インド大反乱]]を鎮圧したイギリス政府は、[[1858年]][[8月2日]]、インド統治改善法を可決した。インド統治改善法により、[[イギリス東インド会社]]が保有していた全ての権限はイギリス国王に委譲されることとなった。また、イギリス本国では[[インド担当国務大臣]]のポストが新設され、その補佐機関として、インド参事会が設けられた。また、かつての[[ベンガル総督]]がインド総督となり、肩書きに﹁副王﹂の称号が付与された。[[11月1日]]、[[チャールズ・キャニング (初代キャニング伯)|チャールズ・キャニング]]︵就任期間:1858年11月1日-[[1862年]][[3月21日]]︶が初代の﹁副王﹂に就任した<ref name="Canning">{{Cite book|和書
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キャニング卿によるインド統治の方法は、推定されうる反乱の要因を摘み取るものであったため、インド大反乱の要因となった「養子縁組の否定」を否定した。その結果、インドは、藩王の地位は保証されることとなり、インドの人口の約3分の1が約500人の藩王による間接統治に置かれることとなった<ref name="Canning"/>。このことは、過去の封建体制の有力者をイギリス統治の防波堤として重視しつつ、議会主義の理念や自由主義的政治理念をもって、インドを統治するという、矛盾を孕んだものであった<ref name="Canning"/>。しかし、このことにより、キャニングは、インド統治の確立に成功した。 |
キャニング卿によるインド統治の方法は、推定されうる反乱の要因を摘み取るものであったため、インド大反乱の要因となった「養子縁組の否定」を否定した。その結果、インドは、藩王の地位は保証されることとなり、インドの人口の約3分の1が約500人の藩王による間接統治に置かれることとなった<ref name="Canning"/>。このことは、過去の封建体制の有力者をイギリス統治の防波堤として重視しつつ、議会主義の理念や自由主義的政治理念をもって、インドを統治するという、矛盾を孕んだものであった<ref name="Canning"/>。しかし、このことにより、キャニングは、インド統治の確立に成功した。 |
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第2代副王である[[エルギン伯爵]][[ジェイムズ・ブルース (第8代エルギン伯爵)|ジェイムズ・ブルース]]︵就任期間:1862年3月21日-[[1863年]][[11月20日]]︶がインドで客死したため、シク戦争などインドでの経験が豊富であったサー・[[ジョン・ローレンス (初代ローレンス男爵)|ジョン・ローレンス]]準男爵︵就任期間:[[1864年]][[1月12日]]-[[1869年]]1月12日。退任後初代ローレンス男爵︶が急遽、イギリス本国からインドに赴任することとなり、第3代副王となった。ローレンスは、内政面では、インド人への教育機会の拡大を図った。とはいえ、ローレンスはインド人を高等公務員に就任することに関しては制限を続けた。一方 |
第2代副王である[[エルギン伯爵]][[ジェイムズ・ブルース (第8代エルギン伯爵)|ジェイムズ・ブルース]]︵就任期間:1862年3月21日-[[1863年]][[11月20日]]︶がインドで客死したため、シク戦争などインドでの経験が豊富であったサー・[[ジョン・ローレンス (初代ローレンス男爵)|ジョン・ローレンス]]準男爵︵就任期間:[[1864年]][[1月12日]]-[[1869年]]1月12日。退任後初代ローレンス男爵︶が急遽、イギリス本国からインドに赴任することとなり、第3代副王となった。ローレンスは、内政面では、インド人への教育機会の拡大を図った。とはいえ、ローレンスはインド人を高等公務員に就任することに関しては制限を続けた。一方外交面では、アフガニスタンやペルシャ湾岸地域への介入を回避しながらも[[ブータン戦争]]を実施し、勝利した。経済面では、[[オリッサ州|オリッサ]]や[[ラージプーターナー]]で[[飢饉]]が発生した︵それぞれは[[オリッサ飢饉 (1866年)]]、[[ラージプーターナー飢饉 (1869年)]]を参照︶。
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[[1877年]]、第5代副王[[ロバート・ブルワー=リットン (初代リットン伯爵)]](就任期間[[1876年]][[4月12日]]-[[1880年]][[6月8日]])が、ムガル帝国の古都[[デリー]]で「帝国会議」({{仮リンク|デリー・ダルバール|en|Delhi Durbar}})を主催し、ヴィクトリアのインド女帝即位が発表された。この会議の目的は、藩王、地方豪族、都市の有力者を体制内に取り込むことであった<ref>Metcalf (2006) pp.168-169</ref>。リットン卿の時代には、アフガニスタンとの最終的な衝突が展開され、また、インド国内では、525万人が餓死する[[インド大飢饉]]が発生する<ref name=igi-III-488>{{Harvnb|Imperial Gazetteer of India vol. III|1907|p=488}}</ref> など、インド国内の経済は混乱した時代でもあった。 |
[[1877年]]、第5代副王[[ロバート・ブルワー=リットン (初代リットン伯爵)]](就任期間[[1876年]][[4月12日]]-[[1880年]][[6月8日]])が、ムガル帝国の古都[[デリー]]で「帝国会議」({{仮リンク|デリー・ダルバール|en|Delhi Durbar}})を主催し、ヴィクトリアのインド女帝即位が発表された。この会議の目的は、藩王、地方豪族、都市の有力者を体制内に取り込むことであった<ref>Metcalf (2006) pp.168-169</ref>。リットン卿の時代には、アフガニスタンとの最終的な衝突が展開され、また、インド国内では、525万人が餓死する[[インド大飢饉]]が発生する<ref name=igi-III-488>{{Harvnb|Imperial Gazetteer of India vol. III|1907|p=488}}</ref> など、インド国内の経済は混乱した時代でもあった。 |
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リポン卿は、インドで西洋式教育を受けた階層から大きな支持を受けた。リットン卿が1878年に制定した出版物規制のための法律である「土着言語出版法」を廃止し、1882年には部分的にではあるが、選挙で選出された議員から構成される自治制度の大枠を作成した<ref name="Ripon"/>。しかし、リポン卿は、自らの統治の後半、「{{仮リンク|イルバート法案|en|Ilbert Bill}}」を廃案にしたことで、インド人の反感を買う結果を招いた。この法案は、イギリス管区の首都ではインド人判事がヨーロッパ人を裁くことができるが、他の地方ではそれができない状態を改善するための法案であったが、インド在住のヨーロッパ人の反対の世論に屈服し、廃案になった<ref name="Ripon"/>。 |
リポン卿は、インドで西洋式教育を受けた階層から大きな支持を受けた。リットン卿が1878年に制定した出版物規制のための法律である「土着言語出版法」を廃止し、1882年には部分的にではあるが、選挙で選出された議員から構成される自治制度の大枠を作成した<ref name="Ripon"/>。しかし、リポン卿は、自らの統治の後半、「{{仮リンク|イルバート法案|en|Ilbert Bill}}」を廃案にしたことで、インド人の反感を買う結果を招いた。この法案は、イギリス管区の首都ではインド人判事がヨーロッパ人を裁くことができるが、他の地方ではそれができない状態を改善するための法案であったが、インド在住のヨーロッパ人の反対の世論に屈服し、廃案になった<ref name="Ripon"/>。 |
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=== ダファリン総督からエルギン総督の時代 |
=== ダファリン総督からエルギン総督の時代(1885年 - 1899年) === |
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第7代副王として、初代[[ダファリン伯爵]][[フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド (初代ダファリン侯爵)|フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド]](就任期間:[[1884年]][[12月13日]]-[[1888年]][[12月10日]])が就任した。第三次イギリス・ビルマ戦争が[[1885年]]に始まったが、翌年 |
第7代副王として、初代[[ダファリン伯爵]][[フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド (初代ダファリン侯爵)|フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド]](就任期間:[[1884年]][[12月13日]]-[[1888年]][[12月10日]])が就任した。第三次イギリス・ビルマ戦争が[[1885年]]に始まったが、翌年この戦争はイギリスの勝利に終わり、ビルマの植民地化が完成した。 |
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ダファリン時代の[[1885年]]に、今後のインドの政治を主導する[[インド国民会議]]が結成された。リポン時代にイルバート法案が廃案されていたこと、「富の流出」が進んでいたこと<ref name="Dufferin">Metcalf (2006) pp.196-199</ref>、当時のインド人が高級官僚に昇進することが困難であったこと<ref name="Dufferin"/> が、結成の要因として挙げられる。とはいえ、インド国民会議に参加したのは、[[ヒンドゥー]]がほとんどであり、[[イスラーム教徒]]の参加はほとんどなかった。また、穏健的な政治活動で出発した国民会議は、[[バール・ガンガーダル・ティラク]]が参加したことにより急進化する<ref name="Tilak">Metcalf (2006) pp.214-222</ref>。[[1893年]]には、ヒンドゥーとムスリムの間では、西インド、連合州、[[ビハール州]]、ビルマの[[ラングーン]]と広範囲にわたる暴動が発生し、100人以上が死亡する事態となった<ref name="Tilak"/>。牛を神聖視するヒンドゥーは、牛の保護を求めて行動し、肉屋のほとんどがムスリムであったために、この問題を契機に自らのそのほかの権利も剥奪することを恐れたことが暴動の原因であった<ref name="Tilak"/>。 |
ダファリン時代の[[1885年]]に、今後のインドの政治を主導する[[インド国民会議]]が結成された。リポン時代にイルバート法案が廃案されていたこと、「富の流出」が進んでいたこと<ref name="Dufferin">Metcalf (2006) pp.196-199</ref>、当時のインド人が高級官僚に昇進することが困難であったこと<ref name="Dufferin"/> が、結成の要因として挙げられる。とはいえ、インド国民会議に参加したのは、[[ヒンドゥー]]がほとんどであり、[[イスラーム教徒]]の参加はほとんどなかった。また、穏健的な政治活動で出発した国民会議は、[[バール・ガンガーダル・ティラク]]が参加したことにより急進化する<ref name="Tilak">Metcalf (2006) pp.214-222</ref>。[[1893年]]には、ヒンドゥーとムスリムの間では、西インド、連合州、[[ビハール州]]、ビルマの[[ラングーン]]と広範囲にわたる暴動が発生し、100人以上が死亡する事態となった<ref name="Tilak"/>。牛を神聖視するヒンドゥーは、牛の保護を求めて行動し、肉屋のほとんどがムスリムであったために、この問題を契機に自らのそのほかの権利も剥奪することを恐れたことが暴動の原因であった<ref name="Tilak"/>。 |
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19世紀最後の10年間は、[[1896年]]と[[1899年]]の[[飢饉|大飢饉]]([[:en:Indian famine of 1896–97|英語版]])、1890年代の[[ペスト]]の大流行とイギリス側に失政が目立った時代であった。 |
19世紀最後の10年間は、[[1896年]]と[[1899年]]の[[飢饉|大飢饉]]([[:en:Indian famine of 1896–97|英語版]])、1890年代の[[ペスト]]の大流行とイギリス側に失政が目立った時代であった。 |
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=== カーゾン総督からミントー総督の時代 |
=== カーゾン総督からミントー総督の時代(1899年 - 1910年) === |
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[[ファイル:Bengal gazetteer 1907-9.jpg|200px|right|thumb|1907年から1909年の[[ベンガル地方]]の地図]] |
[[ファイル:Bengal gazetteer 1907-9.jpg|200px|right|thumb|1907年から1909年の[[ベンガル地方]]の地図]] |
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[[1899年]]、[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|カーゾン]]卿︵就任期間:1899年1月6日-1905年11月18日︶が第11代副王として就任した。カーゾン卿は外交面では、[[1903年]]に[[チベット]]に初めて |
[[1899年]]、[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|カーゾン]]卿︵就任期間:1899年1月6日-1905年11月18日︶が第11代副王として就任した。カーゾン卿は外交面では、[[1903年]]に[[チベット]]に初めて[[イギリスのチベット遠征|外交使節を派遣]]した。また、アフガニスタンとの国境線で常に不安定であった北西部において、﹁[[北西辺境州]]﹂を設置することで、治安の回復を図った。内政面においては、肥大化した官僚制度の整理、商工省の新設、インド考古学研究所の設立<ref name="Curzon">Metcalf (2006) pp.222-227</ref> を実施した。
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しかし、カーゾン卿の統治政策の本性は、[[1904年]]のインド大学法と[[1905年]]の[[ベンガル分割令]]によって、明らかとなった。インド大学法において、官吏の統制が強化され、インドにおける高等教育の発展が阻害された<ref>Chandra ︵2001︶ p.244</ref><!-- <ref name>{{Cite book|和書
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しかし、カーゾン卿の統治政策の本性は、[[1904年]]のインド大学法と[[1905年]]の[[ベンガル分割令]]によって、明らかとなった。インド大学法において、官吏の統制が強化され、インドにおける高等教育の発展が阻害された<ref>Chandra ︵2001︶ p.244</ref><!-- <ref name>{{Cite book|和書
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また、ミントー卿は、ヒンドゥーとムスリムの分断を図った。教育を受けたムスリムの一部、有力なムスリムの太守、地主の間で共有されていた分離主義・親英的な人々<ref>Chandra (2001) pp.268-269</ref> を後押しする形で、1906年、[[全インド・ムスリム連盟]]が結成された。全インド・ムスリム連盟は、ベンガル分割令を支持し、国民会議のあらゆる主張全てに反対した。 |
また、ミントー卿は、ヒンドゥーとムスリムの分断を図った。教育を受けたムスリムの一部、有力なムスリムの太守、地主の間で共有されていた分離主義・親英的な人々<ref>Chandra (2001) pp.268-269</ref> を後押しする形で、1906年、[[全インド・ムスリム連盟]]が結成された。全インド・ムスリム連盟は、ベンガル分割令を支持し、国民会議のあらゆる主張全てに反対した。 |
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=== ハーディング総督からチェムズファド総督の時代 |
=== ハーディング総督からチェムズファド総督の時代(1910年 - 1921年) === |
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[[ファイル:Malik Umar Hayat Khan - Assistant Delhi Herald.jpg|180px|right|thumb|<span style="font-size:90%;">[[1911年]]の{{仮リンク|デリー・ダルバール (1911年)|label=デリー・ダルバール|en|Delhi Durbar#Durbar of 1911}}に参列した{{仮リンク|マリク・ウマル・ハヤート・ハーン|en|Malik Umar Hayat Khan}}。[[パンジャーブ]]地方の有力者である。</span>]] |
[[ファイル:Malik Umar Hayat Khan - Assistant Delhi Herald.jpg|180px|right|thumb|<span style="font-size:90%;">[[1911年]]の{{仮リンク|デリー・ダルバール (1911年)|label=デリー・ダルバール|en|Delhi Durbar#Durbar of 1911}}に参列した{{仮リンク|マリク・ウマル・ハヤート・ハーン|en|Malik Umar Hayat Khan}}。[[パンジャーブ]]地方の有力者である。</span>]] |
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[[チャールズ・ハーディング (初代ハーディング・オブ・ペンズハースト男爵)|ハーディング卿]](就任期間:1910年11月23日-[[1916年]]4月4日)が第13代副王として就任すると、その翌年、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]と[[メアリー・オブ・テック|メアリー]]王妃が[[インド]]を訪問し、デリーにおいて、戴冠式典が挙行された。[[イギリス国王]]がインド帝国時代にインドを訪問したのはこれが最初で最後であり、その式典で、[[カルカッタ]]から[[デリー]]への遷都が宣言された。 |
[[チャールズ・ハーディング (初代ハーディング・オブ・ペンズハースト男爵)|ハーディング卿]](就任期間:1910年11月23日-[[1916年]]4月4日)が第13代副王として就任すると、その翌年、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]と[[メアリー・オブ・テック|メアリー]]王妃が[[インド]]を訪問し、デリーにおいて、戴冠式典が挙行された。[[イギリス国王]]がインド帝国時代にインドを訪問したのはこれが最初で最後であり、その式典で、[[カルカッタ]]から[[デリー]]への遷都が宣言された。 |
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しかし、この時代、インド独立運動では大きな転換点、世代交代を迎えた。今までの独立運動を指導してきたティラクの死亡、南アフリカからの[[マハトマ・ガンディー|モハンダス・カラムチャンド・ガンディー]]の帰国である。
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しかし、この時代、インド独立運動では大きな転換点、世代交代を迎えた。今までの独立運動を指導してきたティラクの死亡、南アフリカからの[[マハトマ・ガンディー|モハンダス・カラムチャンド・ガンディー]]の帰国である。
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=== リーディング総督時代 |
=== リーディング総督時代(1921年 - 1926年) === |
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[[ファイル:Gandhi Kheda 1918.jpg|right|thumb|200px|[[グジャラート州]]・[[ケーダー県]]で活動していた際の[[マハトマ・ガンディー|ガンディー]]]] |
[[ファイル:Gandhi Kheda 1918.jpg|right|thumb|200px|[[グジャラート州]]・[[ケーダー県]]で活動していた際の[[マハトマ・ガンディー|ガンディー]]]] |
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ガンディーが[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]から帰国したのは、[[1915年]]のことである。帰国した後のガンディーは、インド各地を回り、インドの現状の把握を理解した。インドにおけるガンディーの闘争の歴史は、[[1917年]]のチャンパーラン・サティヤーグラハとその翌年の[[アフマダーバード]]の工場[[ストライキ]]︵[[:en:Champaran and Kheda Satyagraha|英語版]]︶で始まる。チャンパーランでの闘争において、ガンディーの市民的不服従運動は勝利を収め、アフマダーバードの工場ストライキにおいて、インド人の政治的覚醒を促すことに成功する<ref name="Ghandi1">Chandra ︵2001︶ pp.284-287</ref>。
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ガンディーが[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]から帰国したのは、[[1915年]]のことである。帰国した後のガンディーは、インド各地を回り、インドの現状の把握を理解した。インドにおけるガンディーの闘争の歴史は、[[1917年]]のチャンパーラン・サティヤーグラハとその翌年の[[アフマダーバード]]の工場[[ストライキ]]︵[[:en:Champaran and Kheda Satyagraha|英語版]]︶で始まる。チャンパーランでの闘争において、ガンディーの市民的不服従運動は勝利を収め、アフマダーバードの工場ストライキにおいて、インド人の政治的覚醒を促すことに成功する<ref name="Ghandi1">Chandra ︵2001︶ pp.284-287</ref>。
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おおよそこの時代は、インド独立運動において、高揚とその後の停滞した時代という向きが見られる。 |
おおよそこの時代は、インド独立運動において、高揚とその後の停滞した時代という向きが見られる。 |
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=== アーウィン総督からウィリンダン総督の時代 |
=== アーウィン総督からウィリンダン総督の時代(1926年 -1936年) === |
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[[1927年]]、[[ジョン・サイモン (初代サイモン子爵)|ジョン・サイモン]]を委員長とする{{仮リンク|サイモン委員会|en|Simon Commission}}が発足した。1929年から、モンダギュ・チェムズファド改革の見直しをすることが決まっていたからであるが、委員会の人選をめぐって、インド人を憤慨させることとなった。というのも、委員会のメンバー全員がイギリス人で占められていたからである。
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[[1927年]]、[[ジョン・サイモン (初代サイモン子爵)|ジョン・サイモン]]を委員長とする{{仮リンク|サイモン委員会|en|Simon Commission}}が発足した。1929年から、モンダギュ・チェムズファド改革の見直しをすることが決まっていたからであるが、委員会の人選をめぐって、インド人を憤慨させることとなった。というのも、委員会のメンバー全員がイギリス人で占められていたからである。
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1932年11月には、再び、国民会議派抜きで第三回英印円卓会議が開催された。その結果、[[1935年]]には、{{仮リンク|1935年インド統治法|label=インド統治法|en|Government of India Act 1935}}が公布された。 |
1932年11月には、再び、国民会議派抜きで第三回英印円卓会議が開催された。その結果、[[1935年]]には、{{仮リンク|1935年インド統治法|label=インド統治法|en|Government of India Act 1935}}が公布された。 |
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=== リンリスゴー総督の時代 |
=== リンリスゴー総督の時代(1936年 - 1943年) === |
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第18代副王[[ヴィクター・ホープ (第2代リンリスゴー侯爵)|リンリスゴー侯爵]]︵就任期間:[[1936年]][[4月18日]]-[[1943年]][[10月1日]]︶の時代は、全世界を[[ファシズム]]が覆う時代であった。また、独立前のインドにおいては、インド統治法に基づいて、[[総選挙]]が実施され、国民会議主導の政治が展開された時期である。一方で、[[社会主義]]思想の台頭、[[農民]]・[[労働者]]組織の成長、[[藩王国]][[人民]]の闘争の展開、[[宗派]]主義の伸長といったこれまで以外の動きが活発化した時代でもあった。加えて、[[1939年]]より始まった[[第二次世界大戦]]が、インドの将来を方向付けた時代でもあった。
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第18代副王[[ヴィクター・ホープ (第2代リンリスゴー侯爵)|リンリスゴー侯爵]]︵就任期間:[[1936年]][[4月18日]] - [[1943年]][[10月1日]]︶の時代は、全世界を[[ファシズム]]が覆う時代であった。また、独立前のインドにおいては、インド統治法に基づいて、[[総選挙]]が実施され、国民会議主導の政治が展開された時期である。一方で、[[社会主義]]思想の台頭、[[農民]]・[[労働者]]組織の成長、[[藩王国]][[人民]]の闘争の展開、[[宗派]]主義の伸長といったこれまで以外の動きが活発化した時代でもあった。加えて、[[1939年]]より始まった[[第二次世界大戦]]が、インドの将来を方向付けた時代でもあった。
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1935年のインド統治法の特色は、中央に全インド連邦を設置し、[[州]]レヴェルでは州[[自治]]の基本に基づく州政府の設立を定めた。この[[インド連邦]]構想は、イギリス領の各州と藩王国の連合として考えられたものである。しかし、[[連邦制]]構想は、[[藩王]]がこの構想に対して、情熱を失ってしまったために破綻してしまう。
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1935年のインド統治法の特色は、中央に全インド連邦を設置し、[[州]]レヴェルでは州[[自治]]の基本に基づく州政府の設立を定めた。この[[インド連邦]]構想は、イギリス領の各州と藩王国の連合として考えられたものである。しかし、[[連邦制]]構想は、[[藩王]]がこの構想に対して、情熱を失ってしまったために破綻してしまう。
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とはいえ、国民会議は完全に[[ムスリム]]層からの支持を失った。その背景には、国民会議自身が気づかない無礼あるいは鈍感にあった<ref name="1937Election"/>。ムスリム連盟は1937年総選挙では、全国のムスリムの5%程度の支持しか獲得できず、ムスリム人口が多数派の州であったとしても、第一党になることはかなわなかった。しかし、インド国民会議が徐々に[[ヒンドゥー]]色を強めていく過程で、全国のムスリムは国民会議による中央政権の樹立の可能性に対して危機感を抱くようになった。
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とはいえ、国民会議は完全に[[ムスリム]]層からの支持を失った。その背景には、国民会議自身が気づかない無礼あるいは鈍感にあった<ref name="1937Election"/>。ムスリム連盟は1937年総選挙では、全国のムスリムの5%程度の支持しか獲得できず、ムスリム人口が多数派の州であったとしても、第一党になることはかなわなかった。しかし、インド国民会議が徐々に[[ヒンドゥー]]色を強めていく過程で、全国のムスリムは国民会議による中央政権の樹立の可能性に対して危機感を抱くようになった。
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[[ファイル:Procession at Bangalore during Quit India movement, by Indian National Congress.jpg|thumb|right|200px|[[バンガロール]]での{{仮リンク|クイット・インディア運動|en|Quit India Movement}}のデモ行進]] |
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[[ファイル:19430428 japanese submarine crew i-29.png|thumb|200px|[[伊号第二九潜水艦]]の士官・下士官とスバス・チャンドラ・ボース(1943年)]] |
[[ファイル:19430428 japanese submarine crew i-29.png|thumb|200px|[[伊号第二九潜水艦]]の士官・下士官とスバス・チャンドラ・ボース(1943年)]] |
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その結果、[[1930年]]の[[ムハンマド・イクバール]]による連盟ラホール大会での議長演説が﹁パキスタン構想﹂として、次第に支持されるようになり、ついに、[[1940年]]のラホール大会で、ジンナーは、{{仮リンク|二民族論|en|Two-Nation Theory}}を含めた{{仮リンク|ラホール決議|en|Lahore Resolution}}を採択するにいたり、ヒンドゥーとムスリムの分裂は決定的となった。
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その結果、[[1930年]]の[[ムハンマド・イクバール]]による連盟ラホール大会での議長演説が﹁パキスタン構想﹂として、次第に支持されるようになり、ついに、[[1940年]]のラホール大会で、ジンナーは、{{仮リンク|二民族論|en|Two-Nation Theory}}を含めた{{仮リンク|ラホール決議|en|Lahore Resolution}}を採択するにいたり、ヒンドゥーとムスリムの分裂は決定的となった。
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そして、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]に亡命していた元インド国民会議の[[スバース・チャンドラ・ボース]]が、[[1943年]]2月に[[大日本帝国海軍]]と[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]の協力を受けて、両国の[[潜水艦]]で日本軍の占領下のシンガポール︵昭南︶に移りこれを引き継ぎ、[[インパール作戦]]などでイギリス軍と対峙した。
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そして、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]に亡命していた元インド国民会議の[[スバース・チャンドラ・ボース]]が、[[1943年]]2月に[[大日本帝国海軍]]と[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]の協力を受けて、両国の[[潜水艦]]で日本軍の占領下のシンガポール︵昭南︶に移りこれを引き継ぎ、[[インパール作戦]]などでイギリス軍と対峙した。
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=== ウェーヴェル総督からマウントバッテン総督の時代 |
=== ウェーヴェル総督からマウントバッテン総督の時代(1943年 - 1947年) === |
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第19代副王として就任した陸軍元帥[[アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)|ウェーヴェル]]卿(就任期間:1943年10月1日-[[1947年]][[2月21日]])は、ドイツの降伏で[[ヨーロッパ]]における戦争が終結し、日本軍もアジア太平洋戦線で敗退を続け、日本軍の侵攻によるインド喪失の危機が無くなった[[1945年]]6月、インド帝国の夏の首都[[シムラー_(インド)|シムラー]]に、[[マハトマ・ガンディー|ガンディー]]、[[ムハンマド・アリー・ジンナー|ジンナー]]、[[刑務所]]から釈放されたばかりの[[国民会議派]]のリーダーを招集した({{仮リンク|シムラー会談|en|Simla Conference}})。 |
第19代副王として就任した陸軍元帥[[アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)|ウェーヴェル]]卿(就任期間:1943年10月1日 - [[1947年]][[2月21日]])は、ドイツの降伏で[[ヨーロッパ]]における戦争が終結し、日本軍もアジア太平洋戦線で敗退を続け、日本軍の侵攻によるインド喪失の危機が無くなった[[1945年]]6月、インド帝国の夏の首都[[シムラー_(インド)|シムラー]]に、[[マハトマ・ガンディー|ガンディー]]、[[ムハンマド・アリー・ジンナー|ジンナー]]、[[刑務所]]から釈放されたばかりの[[国民会議派]]のリーダーを招集した({{仮リンク|シムラー会談|en|Simla Conference}})。 |
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シムラー会談において、イギリスは[[第二次世界大戦|戦争]]に協力したムスリム側の主張を大きく認めていたが、ジンナーの﹁ムスリム側の代表は[[インド・ムスリム連盟|ムスリム連盟]]のみに限定されなければならない﹂という主張のために、会談は決裂した<ref name="Wavell">Metcalf ︵2006︶pp.301-312</ref>。ウェーヴェルもムスリム連盟の戦争協力を評価していたこともあり、この決裂を容認した<ref name="Wavell"/>。
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シムラー会談において、イギリスは[[第二次世界大戦|戦争]]に協力したムスリム側の主張を大きく認めていたが、ジンナーの﹁ムスリム側の代表は[[インド・ムスリム連盟|ムスリム連盟]]のみに限定されなければならない﹂という主張のために、会談は決裂した<ref name="Wavell">Metcalf ︵2006︶pp.301-312</ref>。ウェーヴェルもムスリム連盟の戦争協力を評価していたこともあり、この決裂を容認した<ref name="Wavell"/>。
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* 1914~18年:[[第一次世界大戦]]中、イギリスはインドに自治権を約束し、インド人の戦争協力を引き出す。 |
* 1914~18年:[[第一次世界大戦]]中、イギリスはインドに自治権を約束し、インド人の戦争協力を引き出す。 |
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* 1919年:[[ローラット法]]制定。インド統治法を制定。 |
* 1919年:[[ローラット法]]制定。インド統治法を制定。 |
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* 1920年‥[[国際連盟]]に加盟︵原加盟国︶<ref>{{Cite journal|last=|author=[[長谷川正国]]|first=|last2=長谷川|first2=正国|year=2007|date=1974-03-20|title=インド及びパキスタンの独立と条約の承継|url=https://waseda.repo.nii.ac.jp/records/7477|journal=早稲田法学会誌|volume=24|page=291|language=ja}}</ref>。
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* 1925年:[[インド共産党]]結成。 |
* 1925年:[[インド共産党]]結成。 |
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* 1929年:インド国民会議ラホール大会において'''プールナ・スワラージ'''(完全な独立)の方針を決定。 |
* 1929年:インド国民会議ラホール大会において'''プールナ・スワラージ'''(完全な独立)の方針を決定。 |
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* 1939~45年:[[第二次世界大戦]]。 |
* 1939~45年:[[第二次世界大戦]]。 |
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* 1937年 : ビルマ州を分離。 |
* 1937年 : ビルマ州を分離。 |
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* 1945年‥[[国際連合]]に加盟︵原加盟国︶<ref>{{Cite web |title=国連加盟国加盟年順序 |url=https://www.unic.or.jp/info/un/un_organization/member_nations/chronologicalorder/ |website=国連広報センター |access-date=2024-04-02 |language=ja}}</ref>。
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* 1947年8月15日:[[インド連邦 (ドミニオン)|インド連邦]]と[[パキスタン (ドミニオン)|パキスタン]]が[[インド・パキスタン分離独立|分離独立]]。 |
* 1947年8月15日:[[インド連邦 (ドミニオン)|インド連邦]]と[[パキスタン (ドミニオン)|パキスタン]]が[[インド・パキスタン分離独立|分離独立]]。 |
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* 1950年:インドの共和制施行。 |
* 1950年:インドの共和制施行。 |
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少なくとも、帝国時代の農業生産力は、著しく低下していたと考えられる。その背景には、イギリスによる経済的搾取のみならず、在来の産業が衰退しながらも、これに代わる産業が発展することがなかったこと、農業の停滞を導いた農村の構造、農民への様々な階層からによる搾取が挙げられる。このような搾取構造により、農民層が農産物を獲得する手段を持っていなかったことが、[[飢饉]]をより深刻なものとした。
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少なくとも、帝国時代の農業生産力は、著しく低下していたと考えられる。その背景には、イギリスによる経済的搾取のみならず、在来の産業が衰退しながらも、これに代わる産業が発展することがなかったこと、農業の停滞を導いた農村の構造、農民への様々な階層からによる搾取が挙げられる。このような搾取構造により、農民層が農産物を獲得する手段を持っていなかったことが、[[飢饉]]をより深刻なものとした。
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代表的なものでは、地方レヴェルで発生した飢饉としては、[[1866年]]に発生したオリッサ飢饉、[[1869年]]のラージプーターナー飢饉、[[1873年]]に発生したビハール飢饉が有名であり、全国的な飢饉としては、3回のインド大飢饉︵[[:en:Great Famine of 1876–78|1876–78 (英語版)]]、[[:en:Indian famine of 1896–1897|1896–1897 (英語版)]]、[[:en:Indian famine of 1899–1900|1899–1900 (英語版)]]︶が挙げられる。[[1854年]]から[[1901年]]の間でのインド国内の死亡数は、28,825,000人に上るという推計<ref>Chandra (2002) p.198</ref> があり、さらに、第二次世界大戦中のベンガル飢饉では300万人が命を落とした。
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代表的なものでは、地方レヴェルで発生した飢饉としては、[[1866年]]に発生したオリッサ飢饉、[[1869年]]のラージプーターナー飢饉、[[1873年]]に発生したビハール飢饉が有名であり、全国的な飢饉としては、3回のインド大飢饉︵[[:en:Great Famine of 1876–78|1876–78 (英語版)]]、[[:en:Indian famine of 1896–1897|1896–1897 (英語版)]]、[[:en:Indian famine of 1899–1900|1899–1900 (英語版)]]︶が挙げられる。[[1854年]]から[[1901年]]の間でのインド国内の死亡数は、28,825,000人に上るという推計<ref>Chandra (2002) p.198</ref> があり、さらに、第二次世界大戦中の{{仮リンク|ベンガル飢饉|en|Bengal famine of 1943}}では300万人が命を落とした。
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=== 植民地経済の形成 === |
=== 植民地経済の形成 === |
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[[Category:20世紀のアジア]] |
[[Category:20世紀のアジア]] |
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[[Category:イギリスの植民政策]] |
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[[Category:1858年に成立した国家・領域]] |
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{{翻訳告知|en|British Raj|…}} をノートに追加することもできます。
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- インド帝国
- British Raj(英語)
ब्रिटिश राज(ヒンディー語)
برطانوی راج(ウルドゥー語) -
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←1858年 - 1947年 →
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(国旗) (国章) - 国歌: God Save the Queen
国王陛下万歳
イギリス領インド帝国の版図(1936年)-
公用語 ウルドゥー語、英語、ヒンディー語 首都 カルカッタ
(1858年 - 1911年)
ニューデリー
(1911年 - 1947年)- 皇帝
-
1877年 - 1901年 ヴィクトリア 1901年 - 1910年 エドワード7世 1910年 - 1936年 ジョージ5世 1936年 - 1936年 エドワード8世 1936年 - 1947年 ジョージ6世 - 副王兼総督
-
1858年 - 1862年 チャールズ・カニング 1947年 - 1947年 ルイス・マウントバッテン - 面積
-
1937年 4,903,312km² 1947年 4,226,734km² - 人口
-
1877年 260,000,000人 1900年 310,000,000人 1939年 378,000,000人 - 変遷
-
インド大反乱 1857年5月10日 成立 1858年8月2日 1947年インド独立法 1947年7月8日 インド・パキスタン分離独立 1947年8月14日・15日
通貨 インド・ルピー 現在 バングラデシュ
インド
ミャンマー
パキスタン
![]() イギリス領インド帝国全図 | |
オランダ領インド | 1605年-1825年 |
---|---|
デンマーク領インド | 1620年-1869年 |
フランス領インド | 1668年-1954年 |
ポルトガル領インド | |
インド商務院 | 1434年-1833年 |
ポルトガル東インド会社 | 1628年-1633年 |
ゴア併合 | 1961年 |
イギリス領インド | |
イギリス東インド会社 | 1612年-1757年 |
東インド会社統治下のインド | 1757年-1858年 |
イギリス領インド帝国 | 1858年-1947年 |
イギリス統治下のビルマ | 1824年-1948年 |
藩王国 | 1721年-1949年 |
インド・パキスタン分離独立 | 1947年 |
|
概要[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/36/British_Indian_Empire_1909_Imperial_Gazetteer_of_India.jpg/250px-British_Indian_Empire_1909_Imperial_Gazetteer_of_India.jpg)
地方行政区画[編集]
20世紀になる頃のインド帝国の直轄領は、州知事あるいは州準知事が統治する8つの州から構成されていた。1905年のベンガル分割令において、ベンガル州は、東ベンガル及びアッサムと西ベンガルの2つに分割されたが、1911年に、東西ベンガルは再統一され、さらに、ビハール州、オリッサ州が新設された[2][3]。主要8州[編集]
イギリス領インド帝国の州[2] | 面積 (平方km) | 人口 (1901年) (百万人) | 州の最高責任者 |
---|---|---|---|
ビルマ州(現在のミャンマー) | 440,000 | 9 | 準知事 |
ベンガル州 (現在のバングラデシュ、西ベンガル州、ビハール州、ジャールカンド州、オリッサ州) | 390,000 | 75 | 準知事 |
マドラス州 | 370,000 | 38 | 知事 |
ボンベイ州 | 320,000 | 19 | 知事 |
連合州 (現在のウッタル・プラデーシュ州、ウッタラーカンド州) | 280,000 | 48 | 準知事 |
中央州とベラール | 270,000 | 13 | 政務長官 |
パンジャーブ州 | 250,000 | 20 | 準知事 |
アッサム州 (現在のアッサム州、アルナーチャル・プラデーシュ州、メーガーラヤ州、ミゾラム州、ナガランド州) | 130,000 | 6 | 政務長官 |
それ以外の直轄領[編集]
主要8州以外にも、政務長官が統治する複数の州が存在した[4]。
小さい県[4] | 面積 (千平方マイル) | 人口 (千人) | 州の最高責任者 |
---|---|---|---|
北西辺境州 | 16 | 2,125 | 政務長官 |
バローチスターン州 | 46 | 308 | バローチスターン担当政務長官 |
クールグ | 1.6 | 181 | マイソール担当政務長官 |
アジュメール-メールワーラー | 2.7 | 477 | ラージプーターナー担当政務長官 |
アンダマン・ニコバル諸島 | 3 | 25 | 政務長官 |
藩王国[編集]
歴史[編集]
キャニング総督からリポン総督の時代︵1858年 - 1884年︶[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/73/Charles_Canning%2C_1st_Earl_Canning_-_Project_Gutenberg_eText_16528.jpg/120px-Charles_Canning%2C_1st_Earl_Canning_-_Project_Gutenberg_eText_16528.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9b/George_Robinson_1st_Marquess_of_Ripon.jpg/120px-George_Robinson_1st_Marquess_of_Ripon.jpg)
ダファリン総督からエルギン総督の時代︵1885年 - 1899年︶[編集]
第7代副王として、初代ダファリン伯爵フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッド︵就任期間:1884年12月13日-1888年12月10日︶が就任した。第三次イギリス・ビルマ戦争が1885年に始まったが、翌年この戦争はイギリスの勝利に終わり、ビルマの植民地化が完成した。 ダファリン時代の1885年に、今後のインドの政治を主導するインド国民会議が結成された。リポン時代にイルバート法案が廃案されていたこと、﹁富の流出﹂が進んでいたこと[11]、当時のインド人が高級官僚に昇進することが困難であったこと[11] が、結成の要因として挙げられる。とはいえ、インド国民会議に参加したのは、ヒンドゥーがほとんどであり、イスラーム教徒の参加はほとんどなかった。また、穏健的な政治活動で出発した国民会議は、バール・ガンガーダル・ティラクが参加したことにより急進化する[12]。1893年には、ヒンドゥーとムスリムの間では、西インド、連合州、ビハール州、ビルマのラングーンと広範囲にわたる暴動が発生し、100人以上が死亡する事態となった[12]。牛を神聖視するヒンドゥーは、牛の保護を求めて行動し、肉屋のほとんどがムスリムであったために、この問題を契機に自らのそのほかの権利も剥奪することを恐れたことが暴動の原因であった[12]。 19世紀最後の10年間は、1896年と1899年の大飢饉︵英語版)、1890年代のペストの大流行とイギリス側に失政が目立った時代であった。カーゾン総督からミントー総督の時代︵1899年 - 1910年︶[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/64/Bengal_gazetteer_1907-9.jpg/200px-Bengal_gazetteer_1907-9.jpg)
ハーディング総督からチェムズファド総督の時代︵1910年 - 1921年︶[編集]
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/66/Jallianwallah.jpg/200px-Jallianwallah.jpg)
リーディング総督時代︵1921年 - 1926年︶[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/11/Gandhi_Kheda_1918.jpg/200px-Gandhi_Kheda_1918.jpg)
アーウィン総督からウィリンダン総督の時代︵1926年 -1936年︶[編集]
1927年、ジョン・サイモンを委員長とするサイモン委員会が発足した。1929年から、モンダギュ・チェムズファド改革の見直しをすることが決まっていたからであるが、委員会の人選をめぐって、インド人を憤慨させることとなった。というのも、委員会のメンバー全員がイギリス人で占められていたからである。 イギリスのこの不手際により、第16代副王アーウィン卿︵就任期間:1926年4月3日-1931年4月18日︶は、インドはカナダやオーストラリアと同様の﹁自治領﹂になるだろうと宣言したものの、インド人のサイモン委員会に対する不信感を払拭することはできず、さらに、2回目の非暴力運動の準備が始まった。 1928年には、ネルーが中心となり、﹁ネルー報告﹂がまとめられた。インドの即時独立を要求する内容はイギリス政府に受け入れられず、さらに、徐々に目立ち始めてきたヒンドゥーとムスリムの対立を露呈する結果となった[24]。 1928年12月、国民会議派はカルカッタで大会を開き、ガンディーも大会に参加した。ガンディーは戦闘的左派をなだめるのに成功し、ネルーが父モーティーラール・ネルーに代わり、国民会議の議長に就任した。さらに、翌年のラホール大会で、国民会議は、﹁プールナ・スワラージ︵完全独立︶﹂を採択した。 ガンディーが指導する第2回非暴力運動の頂点は、﹁塩の行進﹂で頂点に達した。ガンディーの行進により、インド中に運動は拡大した。森林法が1927年に可決していたが、この法律は、マハーラーシュトラ、カルナータカ、中央州で次々と破られた。さらに、今までインド独立運動で大きな役割を果たしてはいなかった女性が積極的に参加したことも特徴であった。パシュトゥーン人のハーン・アブドゥル・ガッファール・ハーンは、クダーイー・キドマトガールを組織し、非暴力と独立闘争に誓いを立て[25]、インドの東端ナガランドでは13歳のラーニー・ガイディンリューがヒロインとなり、国民会議の呼びかけに応じた[25]。 イギリスは国民会議抜きで円卓会議を開催していたが、実効性は全く持たなかった。1931年3月、アーウィン卿はガンディーとニューデリーの総督府で面会する。その結果、ガンディー・アーウィン協定が結ばれ、非暴力運動は一旦、中止され、ガンディーはロンドンで開催される第二回英印円卓会議に参加する。しかし、イギリスはインドの独立を認めず、ガンディーは得ることもなく帰国した。帰国したインドで待っていたのは、世界恐慌の影響で不満が充満していた農村部の窮状であった。ガンディー及び国民会議は1931年12月より、小作料と地租の不払い運動を開始せざるをえなかった[25]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/38/GG-Freeman_Freeman-Thomas.jpg/180px-GG-Freeman_Freeman-Thomas.jpg)
リンリスゴー総督の時代︵1936年 - 1943年︶[編集]
第18代副王リンリスゴー侯爵︵就任期間:1936年4月18日 - 1943年10月1日︶の時代は、全世界をファシズムが覆う時代であった。また、独立前のインドにおいては、インド統治法に基づいて、総選挙が実施され、国民会議主導の政治が展開された時期である。一方で、社会主義思想の台頭、農民・労働者組織の成長、藩王国人民の闘争の展開、宗派主義の伸長といったこれまで以外の動きが活発化した時代でもあった。加えて、1939年より始まった第二次世界大戦が、インドの将来を方向付けた時代でもあった。 1935年のインド統治法の特色は、中央に全インド連邦を設置し、州レヴェルでは州自治の基本に基づく州政府の設立を定めた。このインド連邦構想は、イギリス領の各州と藩王国の連合として考えられたものである。しかし、連邦制構想は、藩王がこの構想に対して、情熱を失ってしまったために破綻してしまう。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7c/Minar-e-Pakistans_west_side_July_1_2005.jpg/200px-Minar-e-Pakistans_west_side_July_1_2005.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/95/Procession_at_Bangalore_during_Quit_India_movement%2C_by_Indian_National_Congress.jpg/200px-Procession_at_Bangalore_during_Quit_India_movement%2C_by_Indian_National_Congress.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b0/19430428_japanese_submarine_crew_i-29.png/200px-19430428_japanese_submarine_crew_i-29.png)
ウェーヴェル総督からマウントバッテン総督の時代︵1943年 - 1947年︶[編集]
第19代副王として就任した陸軍元帥ウェーヴェル卿︵就任期間:1943年10月1日 - 1947年2月21日︶は、ドイツの降伏でヨーロッパにおける戦争が終結し、日本軍もアジア太平洋戦線で敗退を続け、日本軍の侵攻によるインド喪失の危機が無くなった1945年6月、インド帝国の夏の首都シムラーに、ガンディー、ジンナー、刑務所から釈放されたばかりの国民会議派のリーダーを招集した︵シムラー会談︶。 シムラー会談において、イギリスは戦争に協力したムスリム側の主張を大きく認めていたが、ジンナーの﹁ムスリム側の代表はムスリム連盟のみに限定されなければならない﹂という主張のために、会談は決裂した[32]。ウェーヴェルもムスリム連盟の戦争協力を評価していたこともあり、この決裂を容認した[32]。 第二次世界大戦が終結した翌年の1946年になると、イギリスはインド統治の放棄の姿勢を見せるようになった。背景には、 (一)イギリスが超大国の座から既に転落していたこと。 (二)イギリスの経済力、軍事力の破綻。 (三)イギリスは、インド人官僚、軍人からの忠誠を獲得できる見込みが小さくなってきたこと。 (四)インド民衆の自信 が挙げられる[33]。 特に、第3点は重要であり、インド国民軍参加者への裁判の巨大な大衆デモの動員[33]、1946年2月のボンベイで起きたインド海軍の反乱[32][33] であった。 こうした中、1945年から1946年の冬、総選挙が実施された。この際の総選挙は分割選挙︵ヒンドゥーとムスリムそれぞれが留保議席を保有する︶であったが、国民会議とムスリム連盟の一騎討ちの様相を示した。国民会議は非ムスリム議席の90%を確保と8つの州で政権を掌握することに成功した[32]。一方、ムスリム連盟も中央議会のムスリム留保議席30を独占し、地方議会のムスリム留保議席500のうち442を獲得することに成功した[32]。 国民会議と連盟の間の、いかなる妥協も見出せない状況を打開するために、イギリスは、1946年3月、閣僚使節団を派遣し、複雑な三層構造の連邦制案を提示した。東西のムスリム多数州︵現在のパキスタン、バングラデシュの領域︶とヒンドゥーが多数を構成する中央部・南部︵ヒンドゥスターン︶にインドを分割し、それぞれの州に大幅な自治権を付与する案に対して、ジンナーは、賛意を表明した[32]。しかし、中央集権国家を目指した国民会議は、イギリスの案を一蹴した。ネルーによる7月10日の演説でその内容が明らかとなり、それぞれの州がヒンドゥー、ムスリムどちらの州に所属するかは自由に判断できるようにすべきであるという内容は、ジンナーの﹁パキスタン構想﹂を打ち砕くものであった[32]。帝国の解体[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/87/Calcutta_1946_riot.jpg/180px-Calcutta_1946_riot.jpg)
年表[編集]
●1858年‥インド帝国成立。 ●1877年‥イギリスのヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任。 ●1885年‥インド国民会議創立。 ●1886年 : ビルマを編入。 ●1905年‥ベンガル分割令発表。 ●1906年‥インド国民会議カルカッタ大会においてカルカッタ大会4大綱領が採択される。この動きに反発したイギリスは独立運動の宗教的分断を図つため、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させる。 ●1914~18年‥第一次世界大戦中、イギリスはインドに自治権を約束し、インド人の戦争協力を引き出す。 ●1919年‥ローラット法制定。インド統治法を制定。 ●1920年‥国際連盟に加盟︵原加盟国︶[36]。 ●1925年‥インド共産党結成。 ●1929年‥インド国民会議ラホール大会においてプールナ・スワラージ︵完全な独立︶の方針を決定。 ●1930年‥マハトマ・ガンディーが塩の行進を始める。 ●1935年‥新インド統治法制定。 ●1939~45年‥第二次世界大戦。 ●1937年 : ビルマ州を分離。 ●1945年‥国際連合に加盟︵原加盟国︶[37]。 ●1947年8月15日‥インド連邦とパキスタンが分離独立。 ●1950年‥インドの共和制施行。経済[編集]
イギリスを支えるインドの富[編集]
当時のインド経済は、イギリス東インド会社時代から引き続き、﹁富の流失﹂に直面していた。インド政庁は毎年、イギリス本国に対して莫大な経費を支払っており、インドで生み出された富がインドに投資されるという環境ではなかった。インドから流失した富は、イギリスに対してポンドで行われ、インドが銀本位制を採用していたこともあり、19世紀末の銀価格の下落は、結果的にインドによるイギリスへの支払額を増大させることとなった。イギリスは常に、インドに対して輸出超過の状態を創出することにより、その貿易黒字でもって、インド以外の貿易で生まれた赤字を補填する形を採っていた[38]。頻繁に発生した飢饉[編集]
少なくとも、帝国時代の農業生産力は、著しく低下していたと考えられる。その背景には、イギリスによる経済的搾取のみならず、在来の産業が衰退しながらも、これに代わる産業が発展することがなかったこと、農業の停滞を導いた農村の構造、農民への様々な階層からによる搾取が挙げられる。このような搾取構造により、農民層が農産物を獲得する手段を持っていなかったことが、飢饉をより深刻なものとした。 代表的なものでは、地方レヴェルで発生した飢饉としては、1866年に発生したオリッサ飢饉、1869年のラージプーターナー飢饉、1873年に発生したビハール飢饉が有名であり、全国的な飢饉としては、3回のインド大飢饉︵1876–78 (英語版)、1896–1897 (英語版)、1899–1900 (英語版)︶が挙げられる。1854年から1901年の間でのインド国内の死亡数は、28,825,000人に上るという推計[39] があり、さらに、第二次世界大戦中のベンガル飢饉では300万人が命を落とした。植民地経済の形成[編集]
19世紀の後半にはインド経済は世界経済の一角に完全に組み込まれた。しかし、主な産品は、綿、インディゴ、ジュート、コメ、採油用種子、茶といった一次産品が多く、これらの輸出用作物の国際価格の変動は大きかった。綿は、南北戦争をはさむ前後20年間に価格が3倍に上がったが、1900年までには1/9まで下落した。インディゴは合成染料に代用されるようになり輸出産品としての価値を失い、インド経済を支える一次産品はジュートと茶であった[38]。 この時代のインド経済は輸出産品を生産する農業に大きく依存しており、工業転換はほとんど進まなかった。また、商品作物の生産のために、彼らが口にする穀物類は輸入に頼らざるを得なかった。穀物の生産を伸ばすことができたのはインダス川の灌漑が成功したパンジャーブ地方であった。パンジャーブ地方では、小麦、サトウキビ、トウモロコシの生産が伸び、海外向けのみならず、国内向けにも生産するようになった[38]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0a/Victoriaterminus.jpg/150px-Victoriaterminus.jpg)
印僑の登場[編集]
インドからイギリスのインド以外への植民地に労働力人口が移動したのもこの時代である。彼らのことを印僑と呼ぶ。イギリスの植民地の中で、特に熱帯地域へ人口の移動が促進された。移住先として選ばれたのは、サトウキビ生産が活発だった西インド諸島︵ジャマイカやトリニダード島︶、錫生産や天然ゴムのプランテーションが発達したイギリス領マラヤ、あるいはケニアやザンジバルといった東アフリカ、南アフリカやモーリシャスといったインド洋沿岸地域、フィジーなどの太平洋地域にも人口の移動が促進された[38]。 その中で、東アフリカ貿易ルートで活躍したイスマーイール派のアーガー・ハーン一族やビルマとセイロン島で商業作物の開発に投資したナットゥコッタイ・チェッティヤールのように商業活動で成功した人々も登場した[38]。また、移住先でのインド人が人種差別で苦境に立たされていることを世論に喚起したマハトマ・ガンディーが登場した。 インド人の移動は、何も植民地に限定されていたわけではない。イギリス本国に留学しそのまま、現地にとどまった者も多い。ロンドンで弁護士業を開業し、その後、帰国した人物の中では、後のパキスタン建国の父であるムハンマド・アリー・ジンナーがいる。南インドの経済の動向[編集]
北インドにおける手工業による綿織物産業は、イギリス東インド会社時代に崩壊し、その後、タタ一族などにより、工場制機械工業による紡績工業が勃興した。一方、南インドの手工業による手織業は、イギリスとの競争に巻き込まれることはなかったが、北インドの産業構造の転換により、ボンベイやアフマダーバードとの競争を余儀なくされた。その理由は北インドの綿織物工業の市場であったのは中国であったが、そこから駆逐されたことが理由である[41]。 そのため、南インドの手織業は、 (一)上級階層向けの高級織物、この織物には金糸が使用された。 (二)国内外の下層向けである廉価品で儀式などにも利用できるもの。これらには、人絹糸を使用した。 (三)海外市場向けの色物 などに生産の中心を移した[41]。そのことにより、1920年以降の南インドの手織業に従事する人口は、マドラス州において、38万人前後︵1911年︶から30万人前後︵1921年︶を経て、49万人︵1931年︶と発展を遂げた[41]。南インドの手織物業が生き残ったのは、当時の南インド社会において、需要面での大きな変化、被差別カーストを含む下層階層の衣服着用の増大や人絹サリーへの需要の増大が挙げられる[41]。 第一次世界大戦以降、南インドの工場制機械工業による紡績業が勃興する。その中心は、アーンドラ地方やそれを含むタミル地域︵タミル、カルナータカ︶であった[41]。社会運動[編集]
帝国時代は、様々な社会改革、宗教改革が展開した時代であった。その背景には、この時代のインドでは、人々が今まで知ることのなかった新しい市場、情報システム、ネットワークが形成されたこと[42]、民族主義的感情の成長、従来のカースト制度にとらわれない資本家層の台頭、近代教育の普及と西欧思想・文化の紹介、それらに伴うインドの後進性と衰退を意識せざるをえなくなったこと[43] がある。ヒンドゥーの宗教改革[編集]
インドにおいて、最初の社会改革の運動はブラフモ・サマージである。ラーム・モーハン・ローイ︵1774年-1833年︶以来の伝統は、デベーンドラナート・タゴール︵1817年-1905年︶、ケショブ・チャンドロ・シェン︵1838年-1884年︶に受け継がれた。ブラフモ・サマージは、ヒンドゥーから悪弊を除去し、唯一神の信仰とヴェーダ、ウパニシャッド哲学の教えを根付かせることで、ヒンドゥーの改革に取り組んだ[43]。 ベンガル地方におけるヒンドゥーの宗教改革がブラフモ・サマージであるならば、マハーラーシュトラにおけるそれは、1840年に創設された神聖協会︵バラマハンサ・マンダリー︶である。ゴーパール・ハリ・デーシュムク︵1823年-1892年︶は、マラーティー語で執筆し、合理主義の立場から、ヒンドゥーの正統主義を批判した[43]。その後、デーシュムクは、祈祷協会︵プラールトナー・サマージ︶を創設し、伝統的なカースト制度と祭官の支配からの宗教を開放する試みが展開された。 マハーラーシュトラでは、ゴーパール・ガネーシュ・アーガルガル︵1856年-1895年︶というインド近代史上でもっとも偉大な合理主義活動者も活動しており、彼もまた、人間の理性の力を信奉すると同時に、伝統への盲従を批判した[43]。 南インドにもヒンドゥーの宗教改革が広がった。その中心はテルグ語地域の改革者ヴィーレーサリンガムの努力があった[43]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5e/Ramakrishna_at_studio.jpg/150px-Ramakrishna_at_studio.jpg)
ムスリムの宗教改革[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1a/Sir_Syed1.jpg/150px-Sir_Syed1.jpg)
少数派の宗教改革[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a9/Dadabai_Navroji_statue_Bombay.jpg/150px-Dadabai_Navroji_statue_Bombay.jpg)
女性運動[編集]
植民地化以前のインドにおいて、女性の地位は、従属されたものであった。それは、ヒンドゥーのみではない。ヒンドゥーにおいてはサティーの慣習、幼児婚、女性は男性とは異なり、生涯で1回のみしか結婚ができないこと、相続権がなかったことが挙げられる。イスラームにおいても、一夫多妻制、相続権は女性に関しては、男性の半分しかなかったことが挙げられる[48]。加えて、女性は、教育を受ける権利を保有していなかった[48]。 そのような中、インドでも社会改革者が登場することとなり、数多くの改革協会、宗教組織が、女性のための教育の普及、寡婦の再婚を認めるための活動及び彼女たちの生活条件の改善、幼児婚の抑制、一夫一婦制の実施、女性の社会進出を進めるようになった[48]。パンディター・ラーマバーイーのように、ボンベイ、プーナに寡婦のための学習塾を設立した女性も登場した[49]。 女性解放運動は、20世紀になると独立運動と合流し大きな運動となる。独立運動に参加した著名な女性では、サロージニー・ナーイドゥーであり、彼女は、1925年には国民会議の議長を務めた。カースト制度に対する闘争[編集]
イギリスによるインド支配は、従来のインドに残っていたカースト制度を根本的から覆した。その背景には、近代産業や鉄道、バスがインド国内に導入されたこと、加えて、都市化の進展により、異なるカースト間同士の接触を回避することが困難になったことが挙げられる[50]。また、伝統的産業以外の産業が勃興したこと、加えて、医者や軍人といった機会を奪われることを高カーストのものは嫌った[50]。 さらに、イギリスは﹁法の下の平等﹂を植民地政策で推進したこと、教育制度の開放がカースト制度を破壊することとなった。 以上のような背景から、ブラフモ・サマージ、ラーマクリシュナ・ミッションといった当時のインドの改革主義者はカースト制度に対して、反対運動を展開していった。19世紀後半に活躍した活動家としては、マハーラシュトラのジョーティバー・ラーオ・プレーがいる。彼は、低カーストの解放には近代教育を普及させることが最高の武器となると信じて運動を指導した[50]。 女性解放運動と同様に、カーストに対する闘争は、民族運動に合流することで、強大な勢力を持つこととなった。ビームラーオ・アンベードカルは、インド独立期に活躍した政治家であり、彼は、全インド被抑圧所階級協会︵バヒシュクリット・ヒタカーリニー・サバー︶の創設に尽力した[50]。文化[編集]
文学[編集]
ムガル帝国の宮廷で用いられたのは、ペルシャ語であったが、帝国の衰退に伴い、各地方で、様々な文学が花開いた。ウルドゥー語やベンガル語、シンド語などがその代表例として挙げられる。また、南インドでは、イギリス東インド会社時代以来からのタミル古語を探す動きが続き、タミル文学が構成されていった。ウルドゥー文学[編集]
ウルドゥー語は、トルコ語で﹁軍営﹂を意味する言葉であるが、その名の通り、ムガル帝国の宮廷そばにあるシャージャーハーナバードで発達し、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語の語彙を包括した北インドの言語である。とはいえ、19世紀半ば以降のウルドゥー文学の中心地はデリーからラホールへと移った[51]。1860年以降、パンジャーブ地方での出版量が増大し、パンジャーブの民話やシク教に関する書籍、1万部を越える教科書が発行されるようになった[51]。また、ラホールでは大学が8校設立されたことも、ラホールをウルドゥー文学の中心地として発展させる要因となった。 20世紀に入ると、﹃宝庫﹄や女性向けの﹃女性文化﹄、子供向けの﹃花﹄といった文芸誌、雑誌がラホールで発行されるようになった。ウルドゥー文学が花開く中で登場したのが、後にパキスタン建国の詩人ムハンマド・イクバールやサアーダト・ハサン・マントー、チュグターイー、グラーム・アッバース、クリシャン・チャンダルといった人々たちであった[51]。ベンガーリー文学[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/88/BankimRabindranath.jpg/220px-BankimRabindranath.jpg)
スィンディー文学[編集]
1843年にイギリス領に組み込まれたシンド地方もまた、17世紀から18世紀にかけて、スィンディー文学の黄金期を迎えた経験を持っていた。とはいえ、この時代のシンド語は、決まった文字体系を持っていない。近代言語としての発達が見られるようになったのは、イギリス領に組み込まれてからである[55]。 イギリスはシンド地方においても英語教育の徹底を図ったが、地元住民の大きな抵抗にあい、イギリス人のほうがシンド語を勉強しなければならないという状況になった。そのため、イギリス人によるシンド語研究が進み、1853年にはアラビア文字を採用した正書法が確立した[55]。タミル文学[編集]
イギリス東インド会社は、インドの支配を確立するために、現地諸語の研究を行ってきた。初代ベンガル総督であるウォーレン・ヘースティングズ以来の研究の伝統と宣教師によるキリスト教布教が結果として、在地インド人に自らの言語へと古典の関心を喚起するのに十分であった[56]。その結果、1842年には、﹃トルハーッピヤム﹄と呼ばれる最初のタミル語古典が出版されるにいたった[56]。 その伝統が引き継がれ、タミル語は、インド・ヨーロッパ語族とは異なる語族であるという研究結果が導かれると同時に、タミル人の非バラモンによる上級カーストへの闘争が展開されるようになった。また、カールキー・クリシュナムルティなどのタミル語小説を書く小説家も登場することとなった。テルグ文学[編集]
ヒンディー語を中心とするインド・ヨーロッパ語族圏に属する北インド、あるいは、ドラヴィダ語族圏に属する南インドと異なり、現在のアーンドラ・プラデーシュ州は、両方の文化の影響を受けてきた[57]。脚注[編集]
関連項目[編集]
●イギリス帝国 ●イギリス連邦 ●イギリス東インド会社 ●イギリスの海外領土 ●マハトマ・ガンディー ●藩王国参考文献[編集]
●根本敬﹃現代アジアの肖像13アウン・サン﹄岩波書店、1996年。ISBN 4-00-004868-6。 ●Ayesha Jalal 著、井上あえか 訳﹃パキスタン独立﹄勁草書房、1999年。ISBN 4-326-39897-3。 ●Bipan Chandra 著、粟屋利江 訳﹃近代インドの歴史﹄山川出版社、2001年、p.244頁。ISBN 4-634-67350-9。 ●Barbara D. Metcalf, Thomas R. Metcalf 著、河野肇 訳﹃ケンブリッジ版世界各国史_インドの歴史﹄創土社、2006年。ISBN 4-7893-0048-X。 ●萬宮健策 著﹁第3章 地域語のエネルギーに見る国民統合と地域・民族運動﹂、黒崎卓、子島進、山根聡編 編﹃現代パキスタン分析﹄岩波書店、2004年、pp.83-119頁。ISBN 4-00-022737-8。 ●山根聡 著﹁第4章 国語ウルドゥーとその文学の評価をめぐる地域差﹂、黒崎卓、子島進、山根聡編 編﹃現代パキスタン分析﹄岩波書店、2004年、pp.121-148頁。ISBN 4-00-022737-8。 ●柳澤悠 著﹁第6章 植民地支配下の社会﹂、辛島昇編 編﹃南アジア史_3﹄山川出版社、2007年、pp.229-273頁。ISBN 978-4-634-46210-6。 ●志賀美和子 著﹁第7章第3節 タミル・ルネサンス --タミル人意識の源流﹂、辛島昇編 編﹃南アジア史_3﹄山川出版社、2007年、pp.298-306頁。ISBN 978-4-634-46210-6。 ●山田桂子 著﹁第7章第4節 テルグ語とアーンドラ人の近代﹂、辛島昇編 編﹃南アジア史_3﹄岩波書店、2007年、pp.306-314頁。ISBN 978-4-634-46210-6。 ●辛島昇 著﹁第8章 スリランカ史の展開﹂、辛島昇編 編﹃南アジア史_3﹄山川出版社、2007年、p.333頁。ISBN 978-4-634-46210-6。 ●ジャン・モリス 著、池央耿、椋田直子 訳﹃帝国の落日 下巻﹄講談社、2010年(平成22年)。ISBN 978-4062152488。 ●佐伯和彦﹃世界歴史叢書 ネパール全史﹄明石書店、2003年。外部リンク[編集]
- British India Website
- The New Student's Reference Work/India (1914)
- Images of Empire Library, Bristol, UK