「三好氏」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
24行目: | 24行目: | ||
[[長禄]]2年︵[[1458年]]︶には、智勇兼備の良将と謳われた'''[[三好之長]]'''が現れる。之長の[[諱]]は、阿波細川家の[[細川成之]]に偏諱を受けたものであり、之長は、[[管領]]・[[細川勝元]]に従い[[応仁の乱]]に東軍として参加した。勝元の子[[細川政元]]の養子に阿波細川家の[[細川澄元|澄元]]が迎えられると、これを支え各地を転戦して武功を挙げ、[[畿内]]にも大きな影響力を持った。そして政元から細川京兆家の直臣となることを望まれ、これを受けた。これ以後、三好氏は京兆家の重臣の一つとなる。細川政元は、第10代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義稙|足利義材]]︵後に義尹、更に義稙と改名︶を追放し︵[[明応の政変]]︶、第11代将軍・[[足利義澄|足利義高]]︵後に義澄と改名︶を擁立し﹁半将軍﹂と呼ばれる程の実力者であったが、実子が無く[[細川澄之|澄之]]︵[[九条家]]︶、澄元︵阿波細川家︶、[[細川高国|高国]]︵[[細川氏#野州細川家|野州細川家]]︶を養子としていた。そして之長は、細川澄之の執事で山城守護代であった[[香西元長]]と反目していた。
|
[[長禄]]2年︵[[1458年]]︶には、智勇兼備の良将と謳われた'''[[三好之長]]'''が現れる。之長の[[諱]]は、阿波細川家の[[細川成之]]に偏諱を受けたものであり、之長は、[[管領]]・[[細川勝元]]に従い[[応仁の乱]]に東軍として参加した。勝元の子[[細川政元]]の養子に阿波細川家の[[細川澄元|澄元]]が迎えられると、これを支え各地を転戦して武功を挙げ、[[畿内]]にも大きな影響力を持った。そして政元から細川京兆家の直臣となることを望まれ、これを受けた。これ以後、三好氏は京兆家の重臣の一つとなる。細川政元は、第10代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義稙|足利義材]]︵後に義尹、更に義稙と改名︶を追放し︵[[明応の政変]]︶、第11代将軍・[[足利義澄|足利義高]]︵後に義澄と改名︶を擁立し﹁半将軍﹂と呼ばれる程の実力者であったが、実子が無く[[細川澄之|澄之]]︵[[九条家]]︶、澄元︵阿波細川家︶、[[細川高国|高国]]︵[[細川氏#野州細川家|野州細川家]]︶を養子としていた。そして之長は、細川澄之の執事で山城守護代であった[[香西元長]]と反目していた。
|
||
[[永正]]4年︵[[1507年]]︶、細川澄之と香西元長は、細川政元を殺害し細川京兆家を継承する︵[[永正の錯乱]]︶。三好之長と細川澄元も襲撃され[[近江国|近江]]に逃れた。細川澄之は細川一族の細川高国や尚春、政賢らの反撃を受けて討たれ、之長らは近江から帰洛し、澄元と共に権勢を掌握した。
|
[[永正]]4年︵[[1507年]]︶、細川澄之と香西元長は、細川政元を殺害し細川京兆家を継承する︵[[永正の錯乱]]︶。三好之長と細川澄元も襲撃され[[近江国|近江]]に逃れた。細川澄之は細川一族の細川高国や[[細川尚春]]、[[細川政賢]]らの反撃を受けて討たれ、之長らは近江から帰洛し、澄元と共に権勢を掌握した。
|
||
==== 細川高国・大内義興との戦い ==== |
==== 細川高国・大内義興との戦い ==== |
||
38行目: | 38行目: | ||
永正17年︵[[1520年]]︶1月に細川澄元・三好之長が、細川高国の領国である[[摂津国|摂津]]に侵攻し[[下田中城]]主・[[池田信正]]の協力を得て、[[瓦林正頼]]が籠もる[[越水城]]を攻略した。すると第10代将軍・足利義稙も澄元に通じため、細川高国は単独で近江坂本に逃れ、三好之長は京都を奪還した。
|
永正17年︵[[1520年]]︶1月に細川澄元・三好之長が、細川高国の領国である[[摂津国|摂津]]に侵攻し[[下田中城]]主・[[池田信正]]の協力を得て、[[瓦林正頼]]が籠もる[[越水城]]を攻略した。すると第10代将軍・足利義稙も澄元に通じため、細川高国は単独で近江坂本に逃れ、三好之長は京都を奪還した。
|
||
しかし同年5月、細川高国は六角定頼︵近江︶と[[内藤貞政]]︵[[丹波国|丹波]]︶の援軍を得、上洛戦を開始する。これに対して澄元・之長らは兵を集めることができず、之長は[[等持院の戦い]]で敗北し捕らえられて自害し、摂津[[伊丹城]]に居た澄元も阿波に敗走した。同年6月、細川澄元も阿波にて病死した。六角定頼は、上洛を果たし、後に管領代に任命された。
|
しかし同年5月、細川高国は[[六角定頼]]︵近江︶と[[内藤貞政]]︵[[丹波国|丹波]]︶の援軍を得、上洛戦を開始する。これに対して澄元・之長らは兵を集めることができず、之長は[[等持院の戦い]]で敗北し捕らえられて自害し、摂津[[伊丹城]]に居た澄元も阿波に敗走した。同年6月、細川澄元も阿波にて病死した。六角定頼は、上洛を果たし、後に管領代に任命された。
|
||
=== 三好元長と細川晴元 === |
=== 三好元長と細川晴元 === |
||
72行目: | 72行目: | ||
==== 三好政権の拠点 ==== |
==== 三好政権の拠点 ==== |
||
* 三好当主 |
* 三好当主 |
||
** 三好長慶(阿波[[芝生城]]→摂津[[越水城]]→摂津[[芥川山城]]→河内[[飯盛山城]]) |
** [[三好長慶]](阿波[[芝生城]]→摂津[[越水城]]→摂津[[芥川山城]]→河内[[飯盛山城]]) |
||
** 三好義興(摂津[[芥川山城]]) |
** [[三好義興]](摂津[[芥川山城]]) |
||
** 三好義継(河内[[飯盛山城]]→河内[[高屋城]]→河内[[若江城]]) |
** [[三好義継]](河内[[飯盛山城]]→河内[[高屋城]]→河内[[若江城]]) |
||
* 姻族の拠点 |
* 姻族の拠点 |
||
** [[遊佐長教]](河内[[若江城]]主) |
** [[遊佐長教]](河内[[若江城]]主) |
||
115行目: | 115行目: | ||
永禄12年([[1569年]])1月、三好三人衆と[[三好康長|三好笑岩]]は阿波から上陸し足利義昭を急襲するが、あと一歩というところで失敗してしまう([[本圀寺の変]])。 |
永禄12年([[1569年]])1月、三好三人衆と[[三好康長|三好笑岩]]は阿波から上陸し足利義昭を急襲するが、あと一歩というところで失敗してしまう([[本圀寺の変]])。 |
||
[[元亀]]元年︵[[1570年]]︶7月、三好三人衆・三好笑岩らが阿波から再び上陸し野田・福島に兵を挙げると、信長はこれを5万の兵で攻めるが、本願寺の助力もあり激戦の末信長は撃退され、更に近江にも戦端が開かれたため、同年9月に信長は撤退する︵[[野田城・福島城の戦い]]︶。この信長の撤退と入れ替わりで、篠原長房が再び長治・真之を奉じ、阿波・讃岐の兵2万を率いて摂津に上陸、摂津、和泉を席巻するが、信長は朝廷工作を実施し、正親町天皇より﹁講和斡旋を希望す﹂という言を得て、11月30日に話し合いが行われ、12月14日に和睦が成立し、近江における[[浅井長政]]、朝倉義景、六角義賢の撤兵とともに、長房も阿波へ軍を退いた。
|
[[元亀]]元年︵[[1570年]]︶7月、三好三人衆・三好笑岩らが阿波から再び上陸し野田・福島に兵を挙げると、信長はこれを5万の兵で攻めるが、本願寺の助力もあり激戦の末信長は撃退され、更に近江にも戦端が開かれたため、同年9月に信長は撤退する︵[[野田城・福島城の戦い]]︶。この信長の撤退と入れ替わりで、篠原長房が再び長治・真之を奉じ、阿波・讃岐の兵2万を率いて摂津に上陸、摂津、和泉を席巻するが、信長は朝廷工作を実施し、[[正親町天皇]]より﹁講和斡旋を希望す﹂という言を得て、11月30日に話し合いが行われ、12月14日に和睦が成立し、近江における[[浅井長政]]、朝倉義景、六角義賢の撤兵とともに、長房も阿波へ軍を退いた。
|
||
元亀2年([[1571年]])5月には、篠原長房は阿波・讃岐勢を率いて、信長と結ぶ[[毛利氏]]の圧迫を受けていた[[浦上宗景]]の求めに応じ備前([[児島郡]])に上陸している([[本太城|本太城合戦]])。 |
元亀2年([[1571年]])5月には、篠原長房は阿波・讃岐勢を率いて、信長と結ぶ[[毛利氏]]の圧迫を受けていた[[浦上宗景]]の求めに応じ備前([[児島郡]])に上陸している([[本太城|本太城合戦]])。 |
||
190行目: | 190行目: | ||
{{familytree|border=0|||||||nagayoshi|nagayoshi=[[三好長憙|長憙]]|||||||nagayoshi1|nagayoshi1='''[[三好長義|長義]]'''}} |
{{familytree|border=0|||||||nagayoshi|nagayoshi=[[三好長憙|長憙]]|||||||nagayoshi1|nagayoshi1='''[[三好長義|長義]]'''}} |
||
{{familytree|border=0| | | | | | | |D|~|~|V|~|~|7| | |)|-|-|v|-|-|.|}} |
{{familytree|border=0| | | | | | | |D|~|~|V|~|~|7| | |)|-|-|v|-|-|.|}} |
||
{{familytree|border=0|||||||naofune|naofune=[[赤井直船|直船]]<ref>[[赤井直房]]の三男。病気のため離縁。</ref>|naonojo|naonojo=直之丞<ref>[[小笠原信用]]の三男。早世。</ref>|nagaoki|nagaoki=[[三好長興|長興]]<ref>[[田村景厖]]の三男。妻は長憙の養女︵[[川勝氏方]]の娘︶。</ref>|nagamichi|nagamichi='''[[三好長 |
{{familytree|border=0|||||||naofune|naofune=[[赤井直船|直船]]<ref>[[赤井直房]]の三男。病気のため離縁。</ref>|naonojo|naonojo=直之丞<ref>[[小笠原信用]]の三男。早世。</ref>|nagaoki|nagaoki=[[三好長興|長興]]<ref>[[田村景厖]]の三男。妻は長憙の養女︵[[川勝氏方]]の娘︶。</ref>|nagamichi|nagamichi='''[[三好長逵|長逵]]'''|nobuatsu|nobuatsu=[[三好惟醇|惟醇]]||akimichi|akimichi=[[三好顕道|顕道]]}}
|
||
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | | |:|}} |
{{familytree|border=0| | | | | | | | | | | | | |:|}} |
||
{{familytree|border=0|||||||||||||nagayuki|nagayuki=[[三好長恭|長恭]]<ref>[[曽我儔祐]]の三男。妻は直興の娘。</ref>}}
|
{{familytree|border=0|||||||||||||nagayuki|nagayuki=[[三好長恭|長恭]]<ref>[[曽我儔祐]]の三男。妻は直興の娘。</ref>}}
|
2016年4月15日 (金) 15:34時点における版
三好氏 | |
---|---|
![]() 三階菱に五つ釘抜 | |
本姓 | 清和源氏(河内源氏)小笠原氏流 |
家祖 | 三好義長 |
種別 | 武家 |
出身地 | 阿波国三好郡 |
主な根拠地 |
四国東部 畿内 |
著名な人物 |
三好之長 三好元長 三好長慶 三好実休 三好笑岩 三好長逸 三好政康 三好政勝 三好英之 三好基之 |
支流、分家 |
安宅氏(武家) 十河氏(武家) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
歴史
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e2/Shozuijo15.jpg/220px-Shozuijo15.jpg)
三好之長と細川澄元
明応の政変
細川高国・大内義興との戦い
細川高国・六角定頼との戦い
三好元長と細川晴元
細川高国・浦上村宗・朝倉宗滴との戦い
木沢長政・三好政長との戦い
三好長慶と細川晴元
木沢長政・三好政長との戦い
細川晴元・六角定頼との戦い
三好政権
足利義輝・六角定頼との和解
三好政権の拠点
- 三好当主
- 姻族の拠点
- 政敵の拠点
隆盛と一族の死
三好長慶の死後
将軍暗殺
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2b/Miyoshi_Yoshitugu.jpg/220px-Miyoshi_Yoshitugu.jpg)
内紛・政権崩壊
織田信長との戦い
本拠地(阿波・讃岐)の崩壊
その後の三好家
系譜
家臣団
三好政権傘下の武将
︵安富氏・香川氏は、東・西讃岐守護代であり、東讃の香西氏、西讃の奈良氏と合わせ細川四天王と呼ばれた。︶