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'''島 秀雄'''︵しま ひでお、[[1901年]]︵[[明治]]34年︶[[5月20日]] - [[1998年]]︵[[平成]]10年︶[[3月18日]]<ref name="asahi19980603">{{Cite news |title=惜別 |newspaper=[[朝日新聞]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=1998-06-03 |page=3︵夕刊︶ }}</ref>︶は、[[昭和]]初期 - 中期の鉄道技術者。元[[日本国有鉄道]]︵国鉄︶技師長<ref name="asahi19980603"/>︵[[1955年]] - [[1963年]]︶。[[宇宙開発事業団]]︵NASDA︶初代理事長︵[[1969年]] - [[1977年]]︶。[[大阪府]]出身。[[島安次郎]]の子。
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'''島 秀雄'''︵しま ひでお、[[1901年]]︵[[明治]]34年︶[[5月20日]] - [[1998年]]︵[[平成]]10年︶[[3月18日]]<ref name="asahi19980603">{{Cite news |title=惜別 |newspaper=[[朝日新聞]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=1998-06-03 |page=3︵夕刊︶ }}</ref>︶は、[[昭和]]初期 - 中期の鉄道技術者。元[[日本国有鉄道]]︵国鉄︶技師長<ref name="asahi19980603"/>︵[[1955年]] - [[1963年]]︶。[[宇宙開発事業団]]︵NASDA︶初代理事長︵[[1969年]] - [[1977年]]︶。[[大阪府]]出身。[[島安次郎]]の子。
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[[1969年]](昭和44年)に[[英国機械学会]]の[[ジェイムズ・ワット国際メダル|ジェームズ・ワット賞]]を[[日本人]]として初めて受賞。また[[1994年]](平成6年)には[[文化勲章]]を鉄道関係者としては初めて受章している。 |
[[1969年]](昭和44年)に[[英国機械学会]]の[[ジェイムズ・ワット国際メダル|ジェームズ・ワット賞]]を[[日本人]]として初めて受賞。また[[1994年]](平成6年)には[[文化勲章]]を鉄道関係者としては初めて受章している。 |
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鉄道技術者で[[弾丸列車]]計画を推進した[[島安次郎]]は父。次男の[[島隆 (鉄道技術者)|島隆]]は新幹線の初代車両﹁[[新幹線0系電車|0系]]﹂の設計に参画したほか、新幹線輸出第一弾となる[[台湾高速鉄道]]の顧問も務めており、島一家は、父から子への3代にわたり[[高速鉄道]]技術開発に携わっている<ref name=":4">{{Cite web|url=https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_60_onoda_3.html|title=新幹線に貢献した島家三代‥世界へ飛躍した日本のシンカンセン(3)|accessdate=2020-09-21|publisher=[[大林組]]|author=小野田滋}}</ref>。なお、末弟に国産旅客機[[YS-11]]の開発に携わった[[島文雄]]がいる
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鉄道技術者で[[弾丸列車]]計画を推進した[[島安次郎]]は父。次男の[[島隆 (鉄道技術者)|島隆]]は新幹線の初代車両﹁[[新幹線0系電車|0系]]﹂の設計に参画したほか、新幹線輸出第一弾となる[[台湾高速鉄道]]の顧問も務めており、島一家は、父から子への3代にわたり[[高速鉄道]]技術開発に携わっている<ref name=":4">{{Cite web|和書|url=https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_60_onoda_3.html|title=新幹線に貢献した島家三代‥世界へ飛躍した日本のシンカンセン(3)|accessdate=2020-09-21|publisher=[[大林組]]|author=小野田滋}}</ref>。なお、末弟に国産旅客機[[YS-11]]の開発に携わった[[島文雄]]がいる
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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父・安次郎の赴任先で母親の実家がある大阪 |
父・安次郎の赴任先で母親の実家がある大阪市内で出生<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_60_onoda_2.html|title=新幹線に貢献した島家三代:世界へ飛躍した日本のシンカンセン(2)|accessdate=2020-09-21|publisher=[[大林組]]|author=小野田滋|year=2020}}</ref>(父の出身は[[和歌山県]][[和歌山市]])。 |
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[[1925年]]︵[[大正]]14年︶に[[東京帝国大学工学部]]機械工学科を卒業し、[[鉄道省]]に入省<ref name=":0" /><ref name=":1" />。[[大宮総合車両センター|大宮工場]]や[[東京総合車両センター|大井工場]]で現場で蒸気機関車の釜炊きなどの実習を受けた後、本省工作局車両課に配属され、蒸気機関車開発に携わった<ref name=":1" /><ref name=":3">{{Cite web|title=新幹線を創った男の意外な秘密!?鉄道技術者・島秀雄|url=https://www.bs-asahi.co.jp/ijinden/lineup/prg_112/|website=BS朝日|accessdate=2020-09-21|publisher=}}</ref>。設計・開発キャリアの初期には父・安次郎の直系の弟子格に当たる[[朝倉希一]]に師事し、国産初の三気筒蒸気機関車である[[国鉄C53形蒸気機関車|C53形]]の設計に参加したのを皮切りに、[[国鉄C54形蒸気機関車|C54形]]・[[国鉄C55形蒸気機関車|C55形]]・[[国鉄C56形蒸気機関車|C56形]]・[[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]・[[国鉄C10形蒸気機関車|C10形]]・[[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]]・[[国鉄C12形蒸気機関車|C12形]]・[[国鉄C58形蒸気機関車|C58形]]・[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]]など、全盛期における数々の蒸気機関車を手がけ、戦後にわたって活躍した名車も生み出した<ref name=":1" /><ref name=":3" />。
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[[1925年]]︵[[大正]]14年︶に[[東京帝国大学工学部]]機械工学科を卒業し、[[鉄道省]]に入省<ref name=":0" /><ref name=":1" />。[[大宮総合車両センター|大宮工場]]や[[東京総合車両センター|大井工場]]で現場で蒸気機関車の釜炊きなどの実習を受けた後、本省工作局車両課に配属され、蒸気機関車開発に携わった<ref name=":1" /><ref name=":3">{{Cite web|和書|title=新幹線を創った男の意外な秘密!?鉄道技術者・島秀雄|url=https://www.bs-asahi.co.jp/ijinden/lineup/prg_112/|website=BS朝日|accessdate=2020-09-21|publisher=}}</ref>。設計・開発キャリアの初期には父・安次郎の直系の弟子格に当たる[[朝倉希一]]に師事し、国産初の三気筒蒸気機関車である[[国鉄C53形蒸気機関車|C53形]]の設計に参加したのを皮切りに、[[国鉄C54形蒸気機関車|C54形]]・[[国鉄C55形蒸気機関車|C55形]]・[[国鉄C56形蒸気機関車|C56形]]・[[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]・[[国鉄C10形蒸気機関車|C10形]]・[[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]]・[[国鉄C12形蒸気機関車|C12形]]・[[国鉄C58形蒸気機関車|C58形]]・[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]]など、全盛期における数々の蒸気機関車を手がけ、戦後にわたって活躍した名車も生み出した<ref name=":1" /><ref name=":3" />。
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一方で、[[1930年代]]にはいち早く気動車の開発を推進し、普及に努めている︵[[日本の気動車史]]も参照︶。また、[[内燃機関]]技術や[[ |
一方で、[[1930年代]]にはいち早く気動車の開発を推進し、普及に努めている︵[[日本の気動車史]]も参照︶。また、[[内燃機関]]技術や[[国鉄バス|省営自動車︵国鉄バス︶]]への国産車採用の見地から、[[1931年]]︵昭和6年︶に[[商工省]]︵当時︶の主導で開始された国内[[自動車産業|自動車メーカー]]共同による標準形式自動車の開発にも鉄道省から参画、[[1933年]]︵昭和8年︶に後の[[いすゞ自動車|いすゞ]]車の原型となる[[いすゞ・TX|TX型]]を完成させている<ref>{{Cite journal|和書|author=坂上茂樹 |title=鉄道車輌用ころがり軸受と台車の戦前・戦後史 : 蒸気機関車、客貨車、内燃動車、電車、新幹線電車から現在まで |journal=大阪市立大学大学院経済学研究科ディスカッションペーパー |volume=060 |publisher=大阪市立大学大学院経済学研究科 |date=2010-07-08 |pages=1-338 |doi=10.24544/ocu.20171211-030 |url=https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_111C0000001-60 |ref={{坂上|2010}} }}</ref>。
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[[1936年]]︵昭和11年︶[[1937年]]︵昭和12年︶には在外研究員として海外派遣され、同僚の[[下山定則]]とともにヨーロッパ・南アフリカ・南米の鉄道事情を調査した。中でも、電車列車を用いた高頻度・高速度運転による高密度の輸送を実現しているオランダの鉄道に強い印象を受け、のちの[[動力分散方式]]による電車の着想を得たとされる<ref name=":1" /><ref name=":2">{{Cite web|title=﹁電気の超特急を走らせろ﹂新幹線の父・島秀雄︻後編︼|url=https://emira-t.jp/ejinden/246/|website=EMIRA|accessdate=2020-09-21}}</ref>。
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[[1936年]]︵昭和11年︶[[1937年]]︵昭和12年︶には在外研究員として海外派遣され、同僚の[[下山定則]]とともにヨーロッパ・南アフリカ・南米の鉄道事情を調査した。中でも、電車列車を用いた高頻度・高速度運転による高密度の輸送を実現しているオランダの鉄道に強い印象を受け、のちの[[動力分散方式]]による電車の着想を得たとされる<ref name=":1" /><ref name=":2">{{Cite web|和書|title=﹁電気の超特急を走らせろ﹂新幹線の父・島秀雄︻後編︼|url=https://emira-t.jp/ejinden/246/|website=EMIRA|accessdate=2020-09-21}}</ref>。
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父・安次郎が旗振り役となった、﹁戦前版新幹線﹂とも言うべき﹁[[弾丸列車|弾丸列車計画]]︵新規広軌幹線敷設計画︶﹂にも、1940︵昭和15︶年に本省工作局車両課と大臣官房幹線調査課を兼務して参加し、電気動力を本命として計画を立案している。もっとも、この計画は[[太平洋戦争]]激化によって頓挫し、島は翌1941年︵昭和16年︶に、浜松工場長に転出。さらにその翌年に本省に復帰して工作局車両第2課長︵翌年の改組で資材局動力車課長︶となった<ref name=":3" /><ref name=":1" />。そこで島は、[[国鉄B20形蒸気機関車|B20形]]や[[国鉄63系電車|63系電車]]など、[[戦時設計]]車両を手掛けることになる。島は、幼少であった三男や将来を有望視されていた弟・邦雄を戦争中に相次いで喪い<ref name=":5" />、父・安次郎も終戦の翌年に他界した。
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父・安次郎が旗振り役となった、﹁戦前版新幹線﹂とも言うべき﹁[[弾丸列車|弾丸列車計画]]︵新規広軌幹線敷設計画︶﹂にも、1940︵昭和15︶年に本省工作局車両課と大臣官房幹線調査課を兼務して参加し、電気動力を本命として計画を立案している。もっとも、この計画は[[太平洋戦争]]激化によって頓挫し、島は翌1941年︵昭和16年︶に、浜松工場長に転出。さらにその翌年に本省に復帰して工作局車両第2課長︵翌年の改組で資材局動力車課長︶となった<ref name=":3" /><ref name=":1" />。そこで島は、[[国鉄B20形蒸気機関車|B20形]]や[[国鉄63系電車|63系電車]]など、[[戦時設計]]車両を手掛けることになる。島は、幼少であった三男や将来を有望視されていた弟・邦雄を戦争中に相次いで喪い<ref name=":5" />、父・安次郎も終戦の翌年に他界した。
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しかし、[[戦後混乱期|戦後の混乱した情勢]]の中では[[鉄道事故]]が続発、[[1951年]]︵昭和26年︶には日本の鉄道史に残る大惨事となった[[桜木町事故]]が発生し、自らが開発に携わった戦時設計の63系電車の火災に対する脆弱性が露呈する。事件後、島は63系電車の安全面の改良を徹底的に行ったものの、労使問題のこじれ、事故や不祥事の連発、そして桜木町事故の処理における上層部の醜態など、組織の体質に嫌気をさしていた島は、事故の責任を取るかたちで車両局長の職を辞し、国鉄を去った<ref name=":1" />。
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しかし、[[戦後混乱期|戦後の混乱した情勢]]の中では[[鉄道事故]]が続発、[[1951年]]︵昭和26年︶には日本の鉄道史に残る大惨事となった[[桜木町事故]]が発生し、自らが開発に携わった戦時設計の63系電車の火災に対する脆弱性が露呈する。事件後、島は63系電車の安全面の改良を徹底的に行ったものの、労使問題のこじれ、事故や不祥事の連発、そして桜木町事故の処理における上層部の醜態など、組織の体質に嫌気をさしていた島は、事故の責任を取るかたちで車両局長の職を辞し、国鉄を去った<ref name=":1" />。
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下野してからは、一時[[鉄道車両の台車|鉄道車両用台車]]の最大手メーカーである新扶桑金属工業の顧問︵のち後身の[[住友金属工業]]において取締役︶を務めたほか<ref name=":1" />、[[1953年]]︵昭和28年︶に発足した[[鉄道ファン|鉄道趣味者]]団体﹁[[鉄道友の会]]﹂の初代会長に就任し、鉄道趣味の分野でも活躍した<ref>{{Cite web|title=鉄道友の会のあゆみ|url=https://www.jrc.gr.jp/aboutus/history|website=www.jrc.gr.jp|accessdate=2020-09-22|publisher=鉄道友の会}}</ref>。
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下野してからは、一時[[鉄道車両の台車|鉄道車両用台車]]の最大手メーカーである新扶桑金属工業の顧問︵のち後身の[[住友金属工業]]において取締役︶を務めたほか<ref name=":1" />、[[1953年]]︵昭和28年︶に発足した[[鉄道ファン|鉄道趣味者]]団体﹁[[鉄道友の会]]﹂の初代会長に就任し、鉄道趣味の分野でも活躍した<ref>{{Cite web|和書|title=鉄道友の会のあゆみ|url=https://www.jrc.gr.jp/aboutus/history|website=www.jrc.gr.jp|accessdate=2020-09-22|publisher=鉄道友の会}}</ref>。
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[[1955年]]︵昭和30年︶、[[紫雲丸事故#5 |
[[1955年]]︵昭和30年︶、[[紫雲丸事故#5度目の事故|紫雲丸事故]]により引責辞任した[[長崎惣之助]]の後任として、[[十河信二]]が[[総裁|国鉄総裁]]に起用された。十河は総裁就任に際し、最適任の技術者として島に復帰を要請。当初は固辞していたものの、﹁広軌が実現できなかった父親の無念を、その子として完成する義務があるのではないか﹂との十河自らの説得や周囲の後押しにより、島は国鉄復帰に応じて技師長に就任<ref name=":1" /><ref name=":3" />。[[鉄道の電化|鉄道電化]]を主軸とする[[動力近代化計画|動力近代化]]推進の先頭に立ち、ひいては純国産技術による広軌高速鉄道﹁新幹線﹂計画に携わった︵詳細は[[新幹線]]ほかの項目を参照のこと︶。島は、過去の弾丸列車計画に一緒に携わった土木技術者[[大石重成]]を幹線調査室長に迎えて体制を整えた<ref name=":1" />。なお、車両設計担当者の中には息子の[[島隆 (鉄道技術者)|隆]]もいた<ref name=":4" />。
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十河と島の二人三脚によって、[[東海道新幹線]]は実現したといわれるが、新幹線開通の前年の[[1963年]](昭和38年)5月、十河が「新幹線予算不足の責任」を問われ「再々任されず」総裁を辞任。慰留されるも、島も後を追って国鉄を退職した。[[1964年]](昭和39年)10月1日朝、[[東京駅]]で行われた東海道新幹線の出発式<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Afu9clEUinQ&t=2636s 記録映画 東海道新幹線]</ref>に、国鉄は島も十河も招待しなかった。島は、自宅の[[テレビ]]で「[[ひかり (列車)|ひかり]]」の発車を見たという。十河は前総裁と言うことで当日10時からの記念式典には招待されたが、島はこちらの招待も受けていない。 |
十河と島の二人三脚によって、[[東海道新幹線]]は実現したといわれるが、新幹線開通の前年の[[1963年]](昭和38年)5月、十河が「新幹線予算不足の責任」を問われ「再々任されず」総裁を辞任。慰留されるも、島も後を追って国鉄を退職した。[[1964年]](昭和39年)10月1日朝、[[東京駅]]で行われた東海道新幹線の出発式<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Afu9clEUinQ&t=2636s 記録映画 東海道新幹線]</ref>に、国鉄は島も十河も招待しなかった。島は、自宅の[[テレビ]]で「[[ひかり (列車)|ひかり]]」の発車を見たという。十河は前総裁と言うことで当日10時からの記念式典には招待されたが、島はこちらの招待も受けていない。 |
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[[1969年]](昭和44年)からは、<!--[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]にかなり遅れをとって設立された、--><!-- ← 日本の宇宙開発に関しては、生産研→宇宙研(ISAS)・航空宇宙技術研究所(NAL)・NASDAという三本立てで進行した、というややこしい事情があり、簡単に「かなり遅れをとって」などという形容をするのは完全に間違っている-->[[宇宙開発事業団]]の初代理事長に就任。人生初めての鉄道畑以外の仕事であったが、研究者達を大いに励ましたという。前述の新幹線のときと同じく、最先端高性能の技術より[[安全性]]信頼性を重視した[[ロケット]]・[[人工衛星]]開発の信念を貫いた。現在日本が使用している人工衛星に「[[ひまわり (気象衛星)|ひまわり]]」・「[[きく (人工衛星)|きく]]」・「[[放送衛星|ゆり]]」など植物名が付けられているのは、島の[[園芸]]趣味からきているという説がある<ref>{{Cite web|title=ロケット開発七転び八起き第5回:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/special/rocket/history5/|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-09-21|publisher=}}</ref>。理事長職は2期8年続けて引退。 |
[[1969年]](昭和44年)からは、<!--[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[ソビエト連邦|ソ連]]にかなり遅れをとって設立された、--><!-- ← 日本の宇宙開発に関しては、生産研→宇宙研(ISAS)・航空宇宙技術研究所(NAL)・NASDAという三本立てで進行した、というややこしい事情があり、簡単に「かなり遅れをとって」などという形容をするのは完全に間違っている-->[[宇宙開発事業団]]の初代理事長に就任。人生初めての鉄道畑以外の仕事であったが、研究者達を大いに励ましたという。前述の新幹線のときと同じく、最先端高性能の技術より[[安全性]]信頼性を重視した[[ロケット]]・[[人工衛星]]開発の信念を貫いた。現在日本が使用している人工衛星に「[[ひまわり (気象衛星)|ひまわり]]」・「[[きく (人工衛星)|きく]]」・「[[放送衛星|ゆり]]」など植物名が付けられているのは、島の[[園芸]]趣味からきているという説がある<ref>{{Cite web|和書|title=ロケット開発七転び八起き第5回:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/special/rocket/history5/|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-09-21|publisher=}}</ref>。理事長職は2期8年続けて引退。 |
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没後の[[2008年]](平成20年)、鉄道友の会が初代会長の島を記念する「[[島秀雄記念優秀著作賞]]」を創設した<ref>[[交通新聞]]2008年10月22日</ref>。 |
没後の[[2008年]](平成20年)、鉄道友の会が初代会長の島を記念する「[[島秀雄記念優秀著作賞]]」を創設した<ref>[[交通新聞]]2008年10月22日</ref>。 |
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最初に参加した[[国鉄C53形蒸気機関車|C53形]]の開発では[[グレズリー式連動弁装置|グレズリー式]]そのものが欠陥だらけの設計であること<ref>What were the investment dilemmas of the LNER in the inter-war years and did they successfully overcome them? William Wilson 著 [[Railway and Canal Historical Society]]発行 2020年</ref><ref>Report on "2 to 1" Gresley valve gear on L.N.E.R. 3-cylinder locomotives [[:en:Ernest_Stewart_Cox|アーネスト・スチュワート・コックス]]著 1942年</ref>に加え工作不良により短命に終わり<ref>もっとも1925年に米国で建造され1943年から47年にかけて2気筒Wabash class P1に改造された3気筒K-5 classの例もありグレズリー式機関車としてみると短命とは言い難い</ref>、設計主任を務めた最初の[[車輪配置 4-6-2|パシフィック機]]である[[国鉄C54形蒸気機関車|C54形]]も[[空転]]しがちで不評を買い、しかも製造から15年前後で主要部の[[鋳鋼]]製部品に多くの[[亀裂]]が発生して早期[[廃車 (鉄道)|廃車]]となった車両が全体の半分近くを占める<ref>『国鉄蒸気機関車史』p.83</ref>など、看過できないほどに重大な失策が幾つもあった(ただし、責を問われることはなかった)。 |
最初に参加した[[国鉄C53形蒸気機関車|C53形]]の開発では[[グレズリー式連動弁装置|グレズリー式]]そのものが欠陥だらけの設計であること<ref>What were the investment dilemmas of the LNER in the inter-war years and did they successfully overcome them? William Wilson 著 [[Railway and Canal Historical Society]]発行 2020年</ref><ref>Report on "2 to 1" Gresley valve gear on L.N.E.R. 3-cylinder locomotives [[:en:Ernest_Stewart_Cox|アーネスト・スチュワート・コックス]]著 1942年</ref>に加え工作不良により短命に終わり<ref>もっとも1925年に米国で建造され1943年から47年にかけて2気筒Wabash class P1に改造された3気筒K-5 classの例もありグレズリー式機関車としてみると短命とは言い難い</ref>、設計主任を務めた最初の[[車輪配置 4-6-2|パシフィック機]]である[[国鉄C54形蒸気機関車|C54形]]も[[空転]]しがちで不評を買い、しかも製造から15年前後で主要部の[[鋳鋼]]製部品に多くの[[亀裂]]が発生して早期[[廃車 (鉄道)|廃車]]となった車両が全体の半分近くを占める<ref>『国鉄蒸気機関車史』p.83</ref>など、看過できないほどに重大な失策が幾つもあった(ただし、責を問われることはなかった)。 |
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設計主任としての代表作とされ、当人 |
設計主任としての代表作とされ、当人が﹁会心の出来﹂と称する[[貨物列車|貨物]]用機関車﹁デコイチ︵またはデゴイチ︶﹂こと[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]]も[[大量生産]]され全国に普及したが、島が設計を担当した初期形は構造面での問題を多数抱えていた。初期形D51はボイラーの重心が著しく後方に偏っていて、しかもその傾向を助長するような補機配置であったことなどから[[駆動輪|動軸]]重のバランスが著しく悪く、列車牽き出し時に空転が頻発し、さらに[[軸重]]バランスの悪化の辻褄合わせで[[操縦席|運転台]]の寸法を切り詰め、しかも[[炭水車|テンダー]]の石炭すくい口の位置が焚口に近すぎるなど[[乗務員]]に劣悪な環境での乗務を強いたことから、勾配線を担当する各機関区からはD51形に代えて前世代の[[国鉄D50形蒸気機関車|D50形]]の配置が要求される、という形で半ば公然と受け取りを拒否された史実がある。担当機関区では、D50で勾配区間での立ち往生や逆行を頻発させており<ref>[https://www.rikou.ryukoku.ac.jp/images/journal62/RJ62-03.pdf 続・滋賀の技術小史]</ref>、D50機関車2両が牽引する列車が立ち往生し全員が窒息して重体、12名が昏倒、3名︵5名とも︶の死者が出ており空転は看過できない死活問題であった。<ref>[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1212/07/news013_3.html 杉山淳一の時事日想 鉄道のトンネルは、安全なのか]</ref>。なお、否定的な声は取扱に馴れると影を潜め、近代的な装備のD51を礼讃する声が大きくなっていき<ref>日本蒸気機関車特集集成下 鉄道ピクトリアル編集部︵編︶鉄道図書刊行会(出版︶P105</ref>、逆にD50の受け入れを拒みがちになっていく<ref>日本蒸気機関車特集集成 鉄道ピクトリアル編集部︵編︶鉄道図書刊行会(出版︶P48 </ref>。批判されることの多い狭い運転台であるが、D50の運転室はボイラーとの重なりが多く火室や焚口の熱や煤が逃げにくく、D51では最低限のスペース<ref>蒸気機関車のすべて p.193</ref>と新鮮な空気と冷気の出る空気清浄機<ref>蒸気機関車D51大辞典 p.158</ref>でこれらに対応することになっていた。D51やD52の乗務に慣れると、D50は機器や配管の位置が極めて乱雑な上に運転台が広いため操作に手惑い落ち着かないとの回想もあった<ref>日本蒸気機関車特集集成 鉄道ピクトリアル編集部︵編︶鉄道図書刊行会(出版︶P48 </ref>。島の海外視察で後任の主任設計者となった[[細川泉一郎]]によって大幅な設計変更が実施され︵それでも軸重バランスの問題は完全解決に至っていない︶、当初の仕様よりも軸重の増大を許容し[[死重]]を追加搭載するようになってようやく本格的な大量生産が開始されている。このD51形は特に心臓部であり島の基本設計がほぼそのまま最後まで踏襲されたボイラーの設計について、︵D50形と比較して︶﹁ボイラーのガス・サーキット︵[[燃焼ガス]]通路︶に関しては、なんら進歩が見られない﹂と酷評する[[鉄道ファン|マニア]]も存在する<ref>﹃国鉄蒸気機関車史﹄p.116</ref>。ただし構造は格段に進歩しており、D51と比較するとD50は極めて原始的な構造であった。<ref>日本蒸気機関車特集集成 下 P55 鉄道ピクトリアル編集部 編 鉄道図書刊行会</ref>、なおかつ、当時の工業水準を基にした堅実な造りであり<ref>﹃栄光の日本の蒸気機関車﹄p.77</ref>、[[1938年]]からは年100両越えの大量生産も記録している<ref>﹃D51﹁"デゴイチ"鉄路の千両役者﹂﹄p.29</ref>。
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島の担当した蒸気機関車で成果を挙げたのは大形機ではなく、[[国鉄C10形蒸気機関車|C10形]]・[[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]]・[[国鉄C12形蒸気機関車|C12形]]と3形式続けて設計主任を担当した一連の小形[[制式名称|制式]]機シリーズの設計においてであり、特にC12形ではボイラー主要部組み立てへの[[電気溶接]]構造の採用や、主[[台枠]]前部への大型[[鋳物]]部品の採用など、新しい設計に挑戦して成功しており、D51形よりもむしろこのC12形こそが彼の「会心の作」と評されることもある<ref>『国鉄蒸気機関車史』pp.110-111</ref>。 |
島の担当した蒸気機関車で成果を挙げたのは大形機ではなく、[[国鉄C10形蒸気機関車|C10形]]・[[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]]・[[国鉄C12形蒸気機関車|C12形]]と3形式続けて設計主任を担当した一連の小形[[制式名称|制式]]機シリーズの設計においてであり、特にC12形ではボイラー主要部組み立てへの[[電気溶接]]構造の採用や、主[[台枠]]前部への大型[[鋳物]]部品の採用など、新しい設計に挑戦して成功しており、D51形よりもむしろこのC12形こそが彼の「会心の作」と評されることもある<ref>『国鉄蒸気機関車史』pp.110-111</ref>。 |
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別項[[日本の蒸気機関車史]]にもあるとおり、鉄道電化の方針が既に決まっていたため、思い切った設計が難しく地方路線への転用も考慮した制約の多い状況であったことも事実である。なお、同時期の蒸気機関車技術者が時代にそぐわない機関車<ref>[https://www.steamindex.com/jile/jile37.htm | Journal Instiution Locomotive Engineers Volume 37 (1947)]steamindex</ref>や複雑で高価な陳腐な存在を作り<ref>Revue générale des chemins de fer 1950年1月号 P21</ref>、大きな間違いを犯したものも少なくない中<ref>[https://rchs.org.uk/wp-content/uploads/2021/03/FINAL-Wilson-LNER_2.pdf#page=33| What were the investment dilemmas of the LNER in the inter-war years and did they successfully overcome them? P33]The Railway & Canal Historical Society</ref>、扱いやすい実用面で優れた機関車を作っている。C54の失敗を経て傑作機である[[国鉄C55形蒸気機関車|C55形]]と[[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]を設計しており、D51も開発目的である低規格線路への配備と軌道に対する悪影響の低減を果たしており<ref>﹃D51 Mikado﹄p.65</ref>、D51 の配置を好まない傾向があった機関区でも、操縦に馴れるにつれD50よりもむしろ優秀であることがわかりD51の配置を希望するようになるなど<ref>鉄道技術発達史 第5篇P113 刊行1958年</ref>、乗務員と保守側からも高く評価されている<ref>﹁蒸気機関車D51大辞典 P12﹂</ref><ref>﹁栄光の日本の蒸気機関車﹂P197</ref><ref>﹁蒸気機関車のすべて﹂P273</ref>。
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むしろ島の慧眼は、当時の蒸気機関車全盛時において、日本の[[軌道 (鉄道)|軌道]]条件が劣悪な[[狭軌]]鉄道における蒸気機関車の限界と、[[電車]]・[[気動車]]に代表される[[動力分散方式]]の将来性を見抜いていたことにあった。この点は、熱心な広軌・電化論者であった、父・安次郎と共通する部分でもある<ref>{{Cite web|和書|title=国鉄技師長・島秀雄氏が語る﹁昭和の鉄道車両﹂ (2)|url=https://toyokeizai.net/articles/-/295354|website=東洋経済オンライン|date=2019-08-04|accessdate=2020-09-21|publisher=}}</ref>。鉄道技術者としては、概して極度の高性能を狙わず、在来技術の地道な改良で一定水準の性能と確実な信頼性を達成しようとするリスク回避のポリシーがあり、その石橋を叩いて渡る姿勢は部下たちから影で﹁慎重居士﹂とあだ名される程であった<ref>{{Cite web|和書|title=﹁電気の超特急を走らせろ﹂新幹線の父・島秀雄︻前編︼|url=https://emira-t.jp/eq/6976/|website=EMIRA|accessdate=2020-09-21}}</ref>。これが新幹線の堅実な成功に繋がった{{refnest|group=注|ただし、︵東海道︶新幹線について﹁全て既存技術﹂と説明したのは、[[世界銀行]]からの借款を受ける際に﹁﹃実験的﹄︵experimental︶なものには融資できない﹂という注意に反論したものである<ref name=":1" />こと等、文脈に注意する必要がある。}}。
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蒸気機関車に関する限り、師・朝倉と島の設計思想は、日本の技術レベル相応に[[プロイセン邦有鉄道]]の流れをくんだ古い保守的設計を用い、海外技術の[[盗作|剽窃的引用]]で若干のアップデートを図ったにすぎない、との厳しい批判もある。島の担当した大形機の設計は総じて問題点が多く、彼は蒸気機関車設計において軽量化にこだわるあまり、大形機の設計技量を持ち合わせていなかったとの批評もある{{誰|date=2021年7月14日 (水) 21:18 (UTC)}}。もっとも、C54の失敗を経て傑作機である[[国鉄C55形蒸気機関車|C55形]]と[[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]を設計しており、D51も開発目的である低規格線路への配備と軌道に対する悪影響の低減を果たしており<ref>『D51 Mikado』p.65</ref>、乗務員と保守側からの評価も高く<ref>「蒸気機関車D51大辞典 P12」</ref><ref>「栄光の日本の蒸気機関車」P197</ref><ref>「蒸気機関車のすべて」P273</ref>扱いやすい機関車であった。別項[[日本の蒸気機関車史]]にもあるとおり、鉄道電化の方針が既に決まっていたため、思い切った設計が難しく地方路線への転用も考慮した制約の多い状況であったことも事実である。 |
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むしろ島の慧眼は、当時の蒸気機関車全盛時において、日本の[[軌道 (鉄道)|軌道]]条件が劣悪な[[狭軌]]鉄道における蒸気機関車の限界と、[[電車]]・[[気動車]]に代表される[[動力分散方式]]の将来性を見抜いていたことにあった。この点は、熱心な広軌・電化論者であった、父・安次郎と共通する部分でもある<ref>{{Cite web|title=国鉄技師長・島秀雄氏が語る﹁昭和の鉄道車両﹂ (2)|url=https://toyokeizai.net/articles/-/295354|website=東洋経済オンライン|date=2019-08-04|accessdate=2020-09-21|publisher=}}</ref>。鉄道技術者としては、概して極度の高性能を狙わず、在来技術の地道な改良で一定水準の性能と確実な信頼性を達成しようとするリスク回避のポリシーがあり、その石橋を叩いて渡る姿勢は部下たちから影で﹁慎重居士﹂とあだ名される程であった<ref>{{Cite web|title=﹁電気の超特急を走らせろ﹂新幹線の父・島秀雄︻前編︼|url=https://emira-t.jp/eq/6976/|website=EMIRA|accessdate=2020-09-21}}</ref>。これが新幹線の堅実な成功に繋がった |
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{{独自研究範囲|D51形の主任設計者として著名であるが、実際には車両開発の技量自体は卓越したものではなく、個別事案のディレクターとしてよりも80系電車開発や新幹線計画のような、大局的な視点を求められるグランドプラン実現のプロデューサーとしての技量を発揮した点で評価すべき人物と言える。|date=2020年9月}}
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== 年表 == |
== 年表 == |
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* 1945年 - 終戦。戦時中には同じ鉄道技師だった三弟、この頃には三男を[[猩紅熱]]で<ref name=":5">{{Cite book|title=技術者たちの敗戦|date=2004年7月23日|year=2004|publisher=草思社|isbn=4-7942-1336-0|pages=87}}</ref>、翌年には父安次郎を亡くす。
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* 1945年 - 終戦。戦時中には同じ鉄道技師だった三弟、この頃には三男を[[猩紅熱]]で<ref name=":5">{{Cite book|title=技術者たちの敗戦|date=2004年7月23日|year=2004|publisher=草思社|isbn=4-7942-1336-0|pages=87}}</ref>、翌年には父安次郎を亡くす。
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* 1949年 - 80系電車を開発。翌年から東海道線に導入させる。開発だけでなく、電化延長にも尽力した。
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* 1949年 - 80系電車を開発。翌年から東海道線に導入させる。開発だけでなく、電化延長にも尽力した。
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* 1951年 - 桜木町事故をきっかけに設計主任を辞任し、[[加賀山之雄]]総裁と共に国鉄を退職。新扶桑金属工業(のち[[住友金属工業]])顧問となる<ref name=":0" />。 |
* 1951年 - [[桜木町事故]]をきっかけに設計主任を辞任し、[[加賀山之雄]]総裁と共に国鉄を退職。新扶桑金属工業(のち[[住友金属工業]])顧問となる<ref name=":0" />。 |
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* 1953年 - 鉄道友の会初代会長となる(1955年まで)。 |
* 1953年 - 鉄道友の会初代会長となる(1955年まで)。 |
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* 1955年 - 十河国鉄総裁に請われ、理事・技師長として国鉄に復帰<ref name=":0" />。 |
* 1955年 - 十河国鉄総裁に請われ、理事・技師長として国鉄に復帰<ref name=":0" />。 |
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* 1971年 - [[勲一等瑞宝章]]受章<ref name=":0" />。 |
* 1971年 - [[勲一等瑞宝章]]受章<ref name=":0" />。 |
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* 1994年 - [[文化勲章]]受章<ref name="asahi19980603"/>(鉄道関係者としては初。JRではこれを記念した[[オレンジカード]]等も製作発売された)。 |
* 1994年 - [[文化勲章]]受章<ref name="asahi19980603"/>(鉄道関係者としては初。JRではこれを記念した[[オレンジカード]]等も製作発売された)。 |
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* 1998年 - 永眠<ref name="asahi19980603"/>。96歳没<ref name="asahi19980603"/>。 |
* 1998年 - 永眠<ref name="asahi19980603"/>。96歳没<ref name="asahi19980603"/>。墓所は[[多磨霊園]](15-1-2-15) |
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== 開発に携わった主な車両 == |
== 開発に携わった主な車両 == |
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* [[国鉄C10形蒸気機関車|C10形]](1930年) |
* [[国鉄C10形蒸気機関車|C10形]](1930年) |
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* [[国鉄C54形蒸気機関車|C54形]](1931年) |
* [[国鉄C54形蒸気機関車|C54形]](1931年) |
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* [[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]](1932年) |
* [[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]](1932年) |
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* [[国鉄C12形蒸気機関車|C12形]](1933年) |
* [[国鉄C12形蒸気機関車|C12形]](1933年) |
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* [[国鉄C55形蒸気機関車|C55形]](1935年) |
* [[国鉄C55形蒸気機関車|C55形]](1935年) |
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* [[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]](1936年) |
* [[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]](1936年) |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://www.nasda.go.jp/index_j.html 宇宙開発事業団] |
* [http://www.nasda.go.jp/index_j.html 宇宙開発事業団] |
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* [http://dankai.akimasa21.net/index.php?go=kWFHJD 東海道新幹線 開発秘話]([http://dankai.akimasa21.net/index.php 団塊の世代一代記]) |
* [http://dankai.akimasa21.net/index.php?go=kWFHJD 東海道新幹線 開発秘話]([http://dankai.akimasa21.net/index.php 団塊の世代一代記]) |
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* {{NHK人物録| |
* {{NHK人物録|D0009072422_00000}} |
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* [https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_60_onoda.html 新幹線に貢献した島家三代:世界へ飛躍した日本のシンカンセン] - 季刊大林(大林組広報誌)No.60「技術者」 |
* [https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_60_onoda.html 新幹線に貢献した島家三代:世界へ飛躍した日本のシンカンセン] - 季刊大林(大林組広報誌)No.60「技術者」 |
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* [https://emira-t.jp/ejinden/232/ 「電気の超特急を走らせろ」新幹線の父・島秀雄] - Tepco. 2017.2.8 |
* [https://emira-t.jp/ejinden/232/ 「電気の超特急を走らせろ」新幹線の父・島秀雄] - Tepco. 2017.2.8 |
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[[Category:住友金属工業の人物]] |
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[[Category:宇宙航空研究開発機構の人物]] |
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[[Category:私の履歴書の登場人物]] |
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[[Category:東京大学出身の人物]] |
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[[Category:旧制第一高等学校出身の人物]] |
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[[Category:1901年生]] |
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[[Category:1998年没]] |
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[[Category:多磨霊園に埋葬されている人物]] |