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{{基礎情報 武士

{{基礎情報 武士

| 氏名 = 平田 篤胤

| 氏名 = 平田 篤胤

| 画像 = Hirata Atsutane02.jpg

| 画像 = [[File:Portrait_of_Atsutane_Hirata.jpg|220x124px|thumb|right|平田篤胤]]

| 画像サイズ = 250px

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| 画像説明 = 平田篤胤

| 画像説明 =『國文学名家肖像集』の平田篤胤

| 時代 = [[江戸時代]]後期

| 時代 = [[江戸時代]]後期

| 生誕 = [[安永]]5年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]([[1776年]][[10月6日]])

| 生誕 = [[安永]]5年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]([[1776年]][[10月6日]])

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| 藩 = [[出羽国]][[久保田藩]] → [[備中松山藩]] → 久保田藩

| 藩 = [[出羽国]][[久保田藩]] → [[備中松山藩]] → 久保田藩

| 氏族 = [[房総平氏]]系[[大和田氏]] → [[伊勢平氏]]系[[平田氏]]

| 氏族 = [[房総平氏]]系[[大和田氏]] → [[伊勢平氏]]系[[平田氏]]

| 父母 = 実父:[[大和田祚胤]]<br/>養父:''[[平田篤隠]]''

| 父母 = 実父:[[大和田祚胤]]<br/>養父:[[平田篤隠]]

| 兄弟 = 雅胤<br/>正胤<br/>胤行<br/>実胤<br/>胤秀

| 兄弟 = 雅胤<br/>正胤<br/>胤行<br/>実胤<br/>胤秀

| 妻 = 織瀬(石橋常房の娘)<br/>織瀬(山崎篤利の養女)

| 妻 = 織瀬(石橋常房の娘)<br/>織瀬(山崎篤利の養女)

| 子 = 実子:常太郎、千枝、又五郎<br/>養子:''[[平田鐵胤|鐵胤]]''

| 子 = 実子:常太郎、千枝、又五郎<br/>養子:[[平田鐵胤|鐵胤]]

}}

}}

'''平田 篤胤'''(ひらた あつたね、[[安永]]5年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]〈[[1776年]][[10月6日]]〉 - [[天保]]14年[[閏]][[9月11日 (旧暦)|9月11日]]〈[[1843年]][[11月2日]]〉)は、[[江戸時代]]後期の[[国学者]]・[[神道家]]・[[思想家]]・[[医者]]。

'''平田 篤胤'''(ひらた あつたね、[[安永]]5年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]〈[[1776年]][[10月6日]]〉 - [[天保]]14年[[閏]][[9月11日 (旧暦)|9月11日]]〈[[1843年]][[11月2日]]〉)は、[[江戸時代]]後期の[[国学者]]・[[神道家]]・[[思想家]]・[[医者]]。




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[[復古神道]]([[古道]]学)の大成者であり、[[大国隆正]]によって[[荷田春満]]、[[賀茂真淵]]、[[本居宣長]]とともに[[国学の四大人]](うし)の中の一人として位置付けられている<ref>{{cite web|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E4%BA%BA/|title=国学の四大人(こくがくのしたいじん)の意味|publisher=goo国語辞書|accessdate=2020-07-22}}</ref>。

[[復古神道]]([[古道]]学)の大成者であり、[[大国隆正]]によって[[荷田春満]]、[[賀茂真淵]]、[[本居宣長]]とともに[[国学の四大人]](うし)の中の一人として位置付けられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E4%BA%BA/|title=国学の四大人(こくがくのしたいじん)の意味|publisher=goo国語辞書|accessdate=2020-07-22}}</ref>。



== 生涯 ==

== 生涯 ==

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=== 国学との出会い ===

=== 国学との出会い ===

上述のように、篤胤が江戸に出てきたのは必ずしも国学を学ぶためではなかった<ref name=rekihaku/>。その関心は広く、[[蘭学]]を[[吉田長淑]]に学び、[[解剖]]にも立ち合っている<ref name=miyaji28/>。他方、迫り来る対露危機に関しては、徹底した情報収集をおこなっている<ref name=miyaji28/>。

上述のように、篤胤が江戸に出てきたのは必ずしも国学を学ぶためではなかった<ref name=rekihaku/>。その関心は広く、[[蘭学]]を[[吉田長淑]]に学び、[[解剖]]にも立ち合っている<ref name=miyaji28/>。他方、迫り来る対露危機に関しては、徹底した情報収集をっている<ref name=miyaji28/>。



篤胤が[[本居宣長]]の名前と著作を知ったのは、宣長没後2年経った享和3年([[1803年]])のことであった<ref name=kagawa219>[[#賀川|賀川(1992)pp.219-220]]</ref>。妻の織瀬が求めてきた宣長の本を読んで[[国学]]に目覚め、[[夢]]のなかで宣長より入門を許可されたとしており、「宣長没後の門人」を自称した<ref name=jinmei475/><ref name=kagawa219/>。これは時代の[[流行語]]となった<ref name=jinmei475/>。

篤胤が[[本居宣長]]の名前と著作を知ったのは、宣長没後2年経った享和3年([[1803年]])のことであった<ref name=kagawa219>[[#賀川|賀川(1992)pp.219-220]]</ref>。妻の織瀬が求めてきた宣長の本を読んで[[国学]]に目覚め、[[夢]]のなかで宣長より入門を許可されたとしており、「宣長没後の門人」を自称した<ref name=jinmei475/><ref name=kagawa219/>。これは時代の[[流行語]]となった<ref name=jinmei475/>。



[[ファイル:Muchu-taimen.jpg|370px|left|thumb|『夢中対面の図』([[渡辺清 (画家)|渡辺清]]画)]]

[[ファイル:Muchu-taimen.jpg|360px|left|thumb|『夢中対面の図』([[渡辺清 (画家)|渡辺清]]画)]]

文化2年([[1805年]])、篤胤は宣長の跡を継いだ長男の[[本居春庭]]に入門しており、夢中対面の話は春庭あて書簡に書かれている<ref group="注釈">別の伝記では、[[1801年]](享和元年)に本居宣長のことを知り、その門下に加わろうとするが、同年に宣長は没し、没後の門人としてその名を鈴屋に置いたとされる。</ref>。篤胤は『[[直日霊]]』や『[[初山踏]]』『[[玉勝間]]』『[[古事記伝]]』など宣長の著作を読み、独学で本居派国学を学んでいった。篤胤の買い求めた『古事記伝』には、宣長門下[[服部中庸]](なかつね)が著した[[ダイヤグラム]]『三大考』が付録として付いていた<ref name=1000ya>[https://1000ya.isis.ne.jp/1653.html 松岡正剛 千夜千冊「1653夜 田尻祐一郎『江戸の思想史』」]</ref>。これは、10枚の図で「天・地・泉」の成り立ちを明示したものであり、のちに『霊能真柱』の著述におおいに活用されることになった<ref name=1000ya/><ref group="注釈">篤胤は、服部中庸とはのちに鈴屋の[[本居大平]]を通じて知己となった。中庸は、篤胤を敵視する者が多い本居門下のなかでは篤胤に対し好意的で、古道の本義を伝えるよう篤胤を励ましている。</ref>。

文化2年([[1805年]])、篤胤は宣長の跡を継いだ長男の[[本居春庭]]に入門しており、夢中対面の話は春庭あて書簡に書かれている<ref group="注釈">別の伝記では、[[1801年]](享和元年)に本居宣長のことを知り、その門下に加わろうとするが、同年に宣長は没し、没後の門人としてその名を鈴屋に置いたとされる。</ref>。篤胤は『[[直日霊]]』や『[[初山踏]]』『[[玉勝間]]』『[[古事記伝]]』など宣長の著作を読み、独学で本居派国学を学んでいった。篤胤の買い求めた『古事記伝』には、宣長門下[[服部中庸]](なかつね)が著した[[ダイヤグラム]]『三大考』が付録として付いていた<ref name=1000ya>[https://1000ya.isis.ne.jp/1653.html 松岡正剛 千夜千冊「1653夜 田尻祐一郎『江戸の思想史』」]</ref>。これは、10枚の図で「天・地・泉」の成り立ちを明示したものであり、のちに『霊能真柱』の著述におおいに活用されることになった<ref name=1000ya/><ref group="注釈">篤胤は、服部中庸とはのちに鈴屋の[[本居大平]]を通じて知己となった。中庸は、篤胤を敵視する者が多い本居門下のなかでは篤胤に対し好意的で、古道の本義を伝えるよう篤胤を励ましている。</ref>。



このころ、[[芝蘭堂]]の[[山村才助]]が[[西洋]]・[[東洋]]の地理書を渉猟した本格的な総合的地理書『[[訂正増訳采覧異言]]』(1802年成立)を著し、[[長崎市|長崎]]の[[蘭学者]][[志筑忠雄]]による『[[暦象新書]]』([[1798年]]-1802年)では[[ニコラウス・コペルニクス]]の[[地動説]]や[[アイザック・ニュートン]]の[[万有引力]]が紹介されている<ref name=miyaji28/><ref name=kagawa219/><ref group="注釈">『暦象新書』はイギリス人{{仮リンク|ジョン・キール|en|John Keill}}の天文学書のオランダ語からの訳述である。</ref>。新知識に貪欲な篤胤は、両書より強い影響を受け、世界認識の再構築をせまられた<ref name=miyaji28/><ref name=kagawa219/>。そこで出会ったのが、宣長の国学だった。[[漢意]](からごころ)を排除し[[文献学]]的[[考証学]]的姿勢に徹する宣長の方法によって、それまで[[仏教]]的・[[儒教]]的に牽強付会もともなってさまざまに説明されてきた古代日本のさまが、見事に解明されていることに篤胤は衝撃を受けた<ref name=miyaji28/>。しかし、後述のように宣長と篤胤では学問の内容・方法ともに大きな相違点がみられる<ref name=kagawa219/><ref name=kuwabara283>[[#桑原|桑原(1993)pp.283-287]]</ref><ref name=tahara1060>[[#田原|田原(1990)pp.1060-1061]]</ref>。

このころ、[[芝蘭堂]]の[[山村才助]]が[[西洋]]・[[東洋]]の地理書を渉猟した本格的な総合的地理書『[[訂正増訳采覧異言]]』(1802年成立)を著し、[[長崎市|長崎]]の[[蘭学者]][[志筑忠雄]]による『[[暦象新書]]』([[1798年]]-1802年)では[[ニコラウス・コペルニクス]]の[[地動説]]や[[アイザック・ニュートン]]の[[万有引力]]が紹介されている<ref name=miyaji28/><ref name=kagawa219/><ref group="注釈">『暦象新書』はイギリス人{{仮リンク|ジョン・キール|en|John Keill}}の天文学書のオランダ語からの訳述である。</ref>。新知識に貪欲な篤胤は、両書より強い影響を受け、世界認識の再構築をせまられた<ref name=miyaji28/><ref name=kagawa219/>。そこで出会ったのが、宣長の国学だった。[[漢意]]を排除し[[文献学]]的かつ[[考証学]]的姿勢に徹する宣長の方法によ、それまで[[仏教]]的・[[儒教]]的に牽強付会もともなって様々に説明されてきた古代日本のが、見事に解明されていることに篤胤は衝撃を受けた<ref name=miyaji28/>。しかし、後述のように宣長と篤胤では学問の内容・方法ともに大きな相違点がみられる<ref name=kagawa219/><ref name=kuwabara283>[[#桑原|桑原(1993)pp.283-287]]</ref><ref name=tahara1060>[[#田原|田原(1990)pp.1060-1061]]</ref>。




31803[[]][[]][[ ()|]][[1804]]<ref name=tahara1060/><ref name=katurajima74/>100<ref name=kinsei223/><ref group="">[[]]65</ref>21805

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篤胤が求めたのはこの世の[[幸福]]であり、関心をいだいたのは死後の霊の行方についてであった<ref name=kagawa219/>。その霊の安定を神道に求めたのであり、それゆえ、神道は従来以上に宗教色を強めた<ref name=kagawa219/>。ここで篤胤は、天主教([[キリスト教]])的[[天地創造]]神話と『[[旧約聖書]]』的な歴史展開を強く意識しながら、[[天御中主神]]を創造主とする首尾一貫した、儒教的・仏教的色彩を完全に排除した[[復古神道]]神学を樹立している<ref name=miyaji28/>。篤胤によれば、天・地・泉の3つの世界の形成の事実、そしてそれについての神の功徳、それは「御国(みくに)」すなわち日本が四海の中心であり、[[天皇]]は万国の君主であるということを、国学を奉ずる学徒の大倭心の鎮として打ち立てた柱、それが「霊の真柱」だった<ref name=kinsei223/>。

篤胤が求めたのはこの世の[[幸福]]であり、関心をいだいたのは死後の霊の行方についてであった<ref name=kagawa219/>。その霊の安定を神道に求めたのであり、それゆえ、神道は従来以上に宗教色を強めた<ref name=kagawa219/>。ここで篤胤は、天主教([[キリスト教]])的[[天地創造]]神話と『[[旧約聖書]]』的な歴史展開を強く意識しながら、[[天御中主神]]を創造主とする首尾一貫した、儒教的・仏教的色彩を完全に排除した[[復古神道]]神学を樹立している<ref name=miyaji28/>。篤胤によれば、天・地・泉の3つの世界の形成の事実、そしてそれについての神の功徳、それは「御国(みくに)」すなわち日本が四海の中心であり、[[天皇]]は万国の君主であるということを、国学を奉ずる学徒の大倭心の鎮として打ち立てた柱、それが「霊の真柱」だった<ref name=kinsei223/>。



平田国学・復古神道が立論の根拠にしたのは古伝であったが、『古事記』などの[[古典]]に収載された古伝説には齟齬や矛盾、非合理もふくまれているため、篤胤は古伝説を主観的に再構成した自作の文章を注解するという手法を用いて論を展開した<ref name=tahara1060/>。また、古伝の空白箇所を埋めるために、天地開闢は万国共通であるはずだという理由から諸外国の古伝説にも視野を広げた<ref name=tahara1060/>。古伝説によって宇宙の生成という事実を解明し、幽冥界の事実を明らかにしていくのが彼の関心であったが、漢意の排除と文献学的・考証学的手法の徹底を旨としてきた本居派からすれば、かれの手法は邪道であり、逸脱と解釈された<ref name=tahara1060/><ref name=chikuma/>。しかし、篤胤はそもそも古代研究を自己目的にしていたのではなく<ref name=miyaji28/>、自身も含めた近世後期を生きる当時の日本人にとって神のあるべき姿と魂の行方を模索し、それに必要な神学を構築するために『古事記』『日本書紀』などの古典および各社にのこる[[祝詞]]を利用していた<ref name=miyaji28/>。『霊能真柱』は篤胤にとって分岐点ともいえる重要な書物だったが、本居派の門人達は、この著作の幽冥観についての論考が亡き宣長を冒涜するものとして憤慨し、篤胤を「山師」と非難したため、篤胤は[[伊勢国|伊勢]][[松阪市|松阪]]の[[本居宣長旧宅|鈴屋]]とはしだいに疎遠になっていった。

平田国学・復古神道が立論の根拠にしたのは古伝であったが、『古事記』などの[[古典]]に収載された古伝説には齟齬や矛盾、非合理もふくまれているため、篤胤は古伝説を主観的に再構成した自作の文章を注解するという手法を用いて論を展開した<ref name=tahara1060/>。また、古伝の空白箇所を埋めるために、天地開闢は万国共通であるはずだという理由から諸外国の古伝説にも視野を広げた<ref name=tahara1060/>。篤胤の関心は、古伝説によって宇宙の生成という事実を解明し、幽冥界の事実を明らかにしていくことにあったが、漢意の排除と文献学的・考証学的手法の徹底を旨としてきた本居派からすれば、篤胤の手法は邪道そのものであり、逸脱と解釈された<ref name=tahara1060/><ref name=chikuma/>。しかし、篤胤はそもそも古代研究を自己目的にしていたのではなく<ref name=miyaji28/>、自身も含めた近世後期を生きる当時の日本人にとって神のあるべき姿と魂の行方を模索し、それに必要な神学を構築するために『古事記』『日本書紀』などの古典および各社にのこる[[祝詞]]を利用していた<ref name=miyaji28/>。『霊能真柱』は篤胤にとって分岐点ともいえる重要な書物だったが、本居派の門人達は、この著作の幽冥観についての論考が亡き宣長を冒涜するものとして憤慨し、篤胤を「山師」と非難したため、篤胤は[[伊勢国|伊勢]][[松阪市|松阪]]の[[本居宣長旧宅|鈴屋]]とはしだいに疎遠になっていった。



文化10年([[1813年]])、対露危機に関して情報を集めていた篤胤は、危機が一段落したこの時期に蒐集文書をまとめて『千島白浪』を編纂しており、同書には当然収めてはいないものの、幕府機密文書も入手している<ref name=miyaji28/>。篤胤は、ロシア情報を獲得するために[[ロシア語]][[辞書]]までみずから編纂していた<ref name=miyaji28/>。文化12年([[1815年]])、のちに[[経世論]]者となる出羽国[[雄勝郡]]郡山村(現、秋田県雄勝郡[[羽後町]])出身で、篤胤より年長の[[佐藤信淵]]が入門した。

文化10年([[1813年]])、対露危機に関して情報を集めていた篤胤は、危機が一段落したこの時期に蒐集文書をまとめて『千島白浪』を編纂しており、同書には当然収めてはいないものの、幕府機密文書も入手している<ref name=miyaji28/>。篤胤は、ロシア情報を獲得するために[[ロシア語]][[辞書]]までみずから編纂していた<ref name=miyaji28/>。文化12年([[1815年]])、のちに[[経世論]]者となる出羽国[[雄勝郡]]郡山村(現、秋田県雄勝郡[[羽後町]])出身で、篤胤より年長の[[佐藤信淵]]が入門した。

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文政6年([[1823年]])、かねてより学問に専心したいとして備中松山藩主[[板倉氏]]に対し永の暇を求めていたが、それが聞き入れられ、松山藩を辞している<ref name=tahara1060/>。こののち、篤胤は尾張藩に接近し、一時、わずかな扶持をあたえられたこともあったが、晩年にはそれを召し上げられている<ref name=tahara1060/>。

文政6年([[1823年]])、かねてより学問に専心したいとして備中松山藩主[[板倉氏]]に対し永の暇を求めていたが、それが聞き入れられ、松山藩を辞している<ref name=tahara1060/>。こののち、篤胤は尾張藩に接近し、一時、わずかな扶持をあたえられたこともあったが、晩年にはそれを召し上げられている<ref name=tahara1060/>。



=== 関西旅行とインド学・シナ学 ===

=== 関西旅行とインド学・中国学 ===

文政6年(1823年)、篤胤は関西に旅行した。[[7月22日 (旧暦)|7月22日]]に江戸を発つ際、上京にかける意気込みを「せせらぎに潜める龍の雲を起し 天に知られむ時は来にけり」と歌に詠んだ篤胤は、[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]に[[尾張国]][[熱田神宮]]に参詣し、[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]に[[京都]]に到着した。自身の著作を[[富小路貞直]]を通して[[光格天皇|光格上皇]]に、門人[[六人部節香]]・[[六人部是香|是香]]を通して[[仁孝天皇]]に、それぞれ献上している<ref name=tahara1060/>。

文政6年(1823年)、篤胤は関西に旅行した。[[7月22日 (旧暦)|7月22日]]に江戸を発つ際、上京にかける意気込みを「せせらぎに潜める龍の雲を起し 天に知られむ時は来にけり」と歌に詠んだ篤胤は、[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]に[[尾張国]][[熱田神宮]]に参詣し、[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]に[[京都]]に到着した。自身の著作を[[富小路貞直]]を通して[[光格天皇|光格上皇]]に、門人[[六人部節香]]・[[六人部是香|是香]]を通して[[仁孝天皇]]に、それぞれ献上している<ref name=tahara1060/>。



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文政7年([[1824年]])、門人の碧川篤眞が娘千枝と結婚して婿養子となり、平田銕胤と名乗って篤胤の後継者となった。控えめな性格の銕胤は篤胤の活動をよく支えた。

文政7年([[1824年]])、門人の碧川篤眞が娘千枝と結婚して婿養子となり、平田銕胤と名乗って篤胤の後継者となった。控えめな性格の銕胤は篤胤の活動をよく支えた。



この時期以降の篤胤には『葛仙翁伝』『扶桑国考』『黄帝伝記』『三神山余考』『天柱五嶽余論』などの著作があり、とりわけ、[[道蔵]]をはじめとする[[シナ]]や[[インド]]の経典類の考究に力を注いでいる<ref name=koyasu1/>。文政9年([[1826年]])成立の『印度蔵志』や文政10年([[1827年]])成立の『赤県太古伝』などがその代表である<ref name=koyasu1/>。これらは日本の古典や古伝承の研究をフィールドとするという意味での国学の概念を越え出ており、インドや中国の古記文献に関する研究が篤胤の著述のかなりの部分を占めることは、他の国学者には見られないところと評されている<ref name=koyasu1/>。なお、『印度蔵志』については、[[天保]]11年([[1840年]])、篤胤は[[曹洞宗]]総本山[[永平寺]]57世の[[載庵禹隣]]にみせており、このとき禹隣禅師は篤胤の労を称えて「東華大胤居士」の法号を贈ったといわれる<ref name=sasao19>[[#笹尾|笹尾(2014)pp.19-22]]</ref>{{Efn|篤胤は、[[浄土真宗]]や[[日蓮宗]]に対しては厳しく非難したが、[[禅宗]]に対しては比較的好意をもっていた<ref>[[#笹尾|笹尾(2014)p.19]]</ref>。}}。

この時期以降の篤胤には『葛仙翁伝』『扶桑国考』『黄帝伝記』『三神山余考』『天柱五嶽余論』などの著作があり、とりわけ、[[道蔵]]をはじめとする[[中国]]や[[インド]]の経典類の考究に力を注いでいる<ref name=koyasu1/>。文政9年([[1826年]])成立の『印度蔵志』や文政10年([[1827年]])成立の『赤県太古伝』などがその代表である<ref name=koyasu1/>。これらは日本の古典や古伝承の研究をフィールドとするという意味での国学の概念を越え出ており、インドや中国の古記文献に関する研究が篤胤の著述のかなりの部分を占めることは、他の国学者には見られないところと評されている<ref name=koyasu1/>。なお、『印度蔵志』については、[[天保]]11年([[1840年]])、篤胤は[[曹洞宗]]総本山[[永平寺]]57世の[[載庵禹隣]]にみせており、このとき禹隣禅師は篤胤の労を称えて「東華大胤居士」の法号を贈ったといわれる<ref name=sasao19>[[#笹尾|笹尾(2014)pp.19-22]]</ref>{{Efn|篤胤は、[[浄土真宗]]や[[日蓮宗]]に対しては厳しく非難したが、[[禅宗]]に対しては比較的好意をもっていた<ref>[[#笹尾|笹尾(2014)p.19]]</ref>。}}。



=== 晩年の暦学研究、江戸追放 ===

=== 晩年の暦学研究、江戸追放 ===

[[ファイル:ShunjūMeirekiJokō(2)p3.jpg|320px|right|thumb|平田篤胤『春秋命歴序考』下巻 1833年刊]]

[[ファイル:ShunjūMeirekiJokō(2)p3.jpg|320px|right|thumb|平田篤胤『春秋命歴序考』下巻 1833年刊]]


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篤胤は久保田城下に住み、邸宅もあたえられ、門弟たちに国学を教えた<ref name=kinsei223/>。当時、[[菩提所]]の宗判がないと居住を許されなかったが、篤胤はこのとき生家大和田家が久保田郊外の曹洞宗寺院、正洞院の[[檀家]]であったことから同寺院を菩提所としている<ref name=sasao19/>。門人の数は秋田帰還後も増え続け、帰藩してからも70人余に達しており、そのなかには[[藩校]][[明徳館 (久保田藩)|明徳館]]の和学方取立係であった[[大友直枝]]([[平鹿郡]][[羽宇志別神社]]社家)もいた<ref name=kinsei223/>。篤胤は江戸に帰還すべく運動したが、それは成功せず、『古史伝』などの著作は未完のまま、失意のうちに天保14年([[1843年]])9月11日、久保田城下亀ノ丁で病没した<ref name=jinmei475/><ref name=kinsei223/><ref name=tahara1060/>。68歳。法号は常行院東華大壑居士<ref name=jinmei475/>。葬儀は正洞院で盛大に営まれた<ref name=sasao19/>。辞世の句は「思ふこと 一つも神に つとめ終へず 今日やまかるか あたらこの世を」。この時点で門人は553人を数えた<ref name=jinmei475/>。銕胤は、毎年正月7日に金1歩を江戸より秋田の正洞院にとどけ、篤胤の供養を怠らなかった<ref name=sasao19/>。

篤胤は久保田城下に住み、邸宅もあたえられ、門弟たちに国学を教えた<ref name=kinsei223/>。当時、[[菩提所]]の宗判がないと居住を許されなかったが、篤胤はこのとき生家大和田家が久保田郊外の曹洞宗寺院、正洞院の[[檀家]]であったことから同寺院を菩提所としている<ref name=sasao19/>。門人の数は秋田帰還後も増え続け、帰藩してからも70人余に達しており、そのなかには[[藩校]][[明徳館 (久保田藩)|明徳館]]の和学方取立係であった[[大友直枝]]([[平鹿郡]][[羽宇志別神社]]社家)もいた<ref name=kinsei223/>。篤胤は江戸に帰還すべく運動したが、それは成功せず、『古史伝』などの著作は未完のまま、失意のうちに天保14年([[1843年]])9月11日、久保田城下亀ノ丁で病没した<ref name=jinmei475/><ref name=kinsei223/><ref name=tahara1060/>。68歳。法号は常行院東華大壑居士<ref name=jinmei475/>。葬儀は正洞院で盛大に営まれた<ref name=sasao19/>。辞世の句は「思ふこと 一つも神に つとめ終へず 今日やまかるか あたらこの世を」。この時点で門人は553人を数えた<ref name=jinmei475/>。銕胤は、毎年正月7日に金1歩を江戸より秋田の正洞院にとどけ、篤胤の供養を怠らなかった<ref name=sasao19/>。



=== 没後 ===

篤胤死去後の[[弘化]]2年([[1845年]])[[3月 (旧暦)|3月]]、白川神祇伯は篤胤に「神霊能真柱大人」の称号(のちに「霊神」に改称)を贈った<ref name=kinsei223/>。また、没後100年となった[[1943年]]([[昭和]]18年)[[8月21日]]には従三位が追贈されている。

[[弘化]]2年([[1845年]])[[3月 (旧暦)|3月]]、白川神祇伯は篤胤に「神霊能真柱大人」の称号(のちに「霊神」に改称)を贈った<ref name=kinsei223/>。また、没後100年となった[[1943年]]([[昭和]]18年)[[8月21日]]には従三位が追贈されている。



== 思想 ==

== 思想 ==

[[ファイル:Hirata Atsutane Jigazo.jpg|250px|thumb|自画像]]

当初は、本居宣長らの後を引き継ぐ形で、[[儒教]]・[[仏教]]と習合した[[神道]]を批判したが、やがてその[[思想]]は宣長学派の[[実証主義]]を捨て、神道的方面を発展させたと評されることが多い<ref name=itoh246/>。篤胤の学説は、[[関東地方|関東]]・[[中部地方|中部]]・[[奥羽]]の[[神社]]・[[農村]]・[[宿駅]]など在方の有力者に信奉され、従来の諸学派をしのぎ、幕末の思潮に大きな影響をあたえ、特に[[尊皇攘夷]]運動の支柱となった<ref name=itoh246/>。

当初は、本居宣長らの後を引き継ぐ形で、[[儒教]]・[[仏教]]と習合した[[神道]]を批判したが、やがてその[[思想]]は宣長学派の[[実証主義]]を捨て、神道的方面を発展させたと評されることが多い<ref name=itoh246/>。篤胤の学説は、[[関東地方|関東]]・[[中部地方|中部]]・[[奥羽]]の[[神社]]・[[農村]]・[[宿駅]]など在方の有力者に信奉され、従来の諸学派をしのぎ、幕末の思潮に大きな影響をあたえ、特に[[尊皇攘夷]]運動の支柱となった<ref name=itoh246/>。




[[]]<ref name=itoh246/>[[]][[]][[]][[]][[]]<ref name=itoh246/>[[]][[]][[]][[]][[]]<ref name=rekihaku/>西[[]][[|]][[]][[|]]<ref name=nishioka215/><ref name=itoh246/>[[]][[]]

篤胤は独自の[[神学]]を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした<ref name=itoh246/>。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えて、天地の始原・[[神祇]]・生死・[[現世]]と[[来世]]などについて古史古伝に新しい解釈を加え、[[キリスト教]]の教義も取り入れ葬祭の儀式を定め、心霊や[[仙術]]の研究もっている<ref name=itoh246/>。[[仏教]]・[[儒教]]・[[道教]]・[[蘭学]]・キリスト教など、様々な宗教教義なども進んで研究分析し、八家の学とも称した。なお、篤胤が大切にしていた[[新井白石]]肖像画が現在も伝世しており、学者としてすぐれ、実証的・論理的に学問をう人物に対しては、相手が儒者であれ、深い尊敬の念をいていた<ref name=rekihaku/>。また、西洋医学、[[ラテン語]]、[[暦|暦学]]・[[易学]]・[[兵法|軍学]]などにも精通していた。篤胤は本居宣長じく「日本他のどの国よりも優秀であると主張するが、宣長のように日本人本来の心を取り戻すために儒学的知を排除しなければならないというような異文化排斥の態度をとらない<ref name=nishioka215/>。彼の学問体系は知識の広範さゆえにかえって複雑で錯綜しており、不自然な融合もみられるとも称される<ref name=itoh246/>。篤胤の神道は[[復古神道]]と呼称され、後の神道系[[新宗教]]の勃興につながった。

[[ファイル:Portrait of Atsutane Hirata.jpg|250px|left|thumb|篤胤翁肖像]]


篤胤の学説は学者や有識者のみならず、庶民大衆にも向けられた。彼は、国学塾として真菅乃屋(のちに[[気吹舎]])を[[文化 (元号)|文化]]元年(1804年)に開き、好学の人であれば、身分を問わず誰に対しても門戸をひらいた<ref name=katurajima74>[[#桂島|桂島(1989)pp.74-75]]</ref>。文化元年(1804年)から[[明治]]9年([[1876年]])まで、篤胤死後も含めた平田塾の門人数は約4,200名にのぼったとされるが、このように平田塾が広範囲に多数の門人を集めた理由のひとつとしては、平田国学が近代をむかえようとする在方レベルでの新しい知識欲に応えうる内容を有していたからだと考えられる<ref name=katurajima74/>。すなわち、その国学には、たとえ通俗化したかたちではあっても[[洋学]]からの新知識や世界の[[地誌]]や[[地理]]、[[地動説]]にもとづく[[宇宙論]]、[[分子論]]を取り込んだ[[霊魂]]論、また、復古神道の論理的帰結であり、[[身分制]]の解体を希求する「御国の御民」論など、当時、台頭しつつあり、また地方の課題に向き合うことを余儀なくされた在方の豪農層には新鮮で有用な知見が多く含まれていたと考えられるのである<ref name=miyaji28/><ref name=katurajima74/>。

篤胤の学説は学者や有識者のみならず、庶民大衆にも向けられた。彼は、国学塾として真菅乃屋(のちに[[気吹舎]])を[[文化 (元号)|文化]]元年(1804年)に開き、好学の人であれば、身分を問わず誰に対しても門戸をひらいた<ref name=katurajima74>[[#桂島|桂島(1989)pp.74-75]]</ref>。文化元年(1804年)から[[明治]]9年([[1876年]])まで、篤胤死後も含めた平田塾の門人数は約4,200名にのぼったとされるが、このように平田塾が広範囲に多数の門人を集めた理由のひとつとしては、平田国学が近代をむかえようとする在方レベルでの新しい知識欲に応えうる内容を有していたからだと考えられる<ref name=katurajima74/>。すなわち、その国学には、たとえ通俗化したかたちではあっても[[洋学]]からの新知識や世界の[[地誌]]や[[地理学|地理]]、[[地動説]]にもとづく[[宇宙論]]、[[分子論]]を取り込んだ[[霊魂]]論、また、復古神道の論理的帰結であり、[[身分制]]の解体を希求する「御国の御民」論など、当時、台頭しつつあり、また地方の課題に向き合うことを余儀なくされた在方の豪農層には新鮮で有用な知見が多く含まれていたと考えられるのである<ref name=miyaji28/><ref name=katurajima74/>。



篤胤は、一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している<ref name=rekihaku/>。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも関係していると思われる。特に[[伊那谷|伊那]]の平田学派の存在は有名である<ref name=rekihaku/><ref name=katurajima74/>。後に[[島崎藤村]]は小説『[[夜明け前]]』で平田学派について詳細に述べている。倒幕がなった後、[[明治維新]]期には平田派の神道家は大きな影響力を持ったが、神道を国家統制下におく[[国家神道]]の形成に伴い平田派は明治政府の中枢から排除され影響力を失っていった。

篤胤は、一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している<ref name=rekihaku/>。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも関係していると思われる。特に[[伊那谷|伊那]]の平田学派の存在は有名である<ref name=rekihaku/><ref name=katurajima74/>。後に[[島崎藤村]]は小説『[[夜明け前]]』で平田学派について詳細に述べている。倒幕がなった後、[[明治維新]]期には平田派の神道家は大きな影響力を持ったが、神道を国家統制下におく[[国家神道]]の形成に伴い平田派は明治政府の中枢から排除され影響力を失っていった。

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:2[[1822]]57[[]][[]]

:2[[1822]]57[[]][[]]

:以前から異境や隠れ里に興味を抱いていた篤胤は、寅吉の話により、幽冥界の存在を確信した。篤胤は寅吉を説得して幽冥界で寅吉が見た師仙の神姿を絵師に描かせ、その絵を家宝として大事にした。寅吉が幽界に帰る際には、杉山僧正が住むという信濃国[[浅間山]]の隠れ里の[[山神]]に対して、篤胤がしたためた手紙と自著『霊能真柱』、[[神代文字]]への質疑文を、寅吉に託して献上したという。同書には、これら一切の経緯と山神や寅吉に手向けた和歌なども収められている。山神の図は現在東京[[代々木]]の[[平田神社 (渋谷区)|平田神社]]で大切に保管され、[[滋賀県]][[大津市]][[近江神宮]]定例の山神祭で祭られている。

:以前から異境や隠れ里に興味を抱いていた篤胤は、寅吉の話により、幽冥界の存在を確信した。篤胤は寅吉を説得して幽冥界で寅吉が見た師仙の神姿を絵師に描かせ、その絵を家宝として大事にした。寅吉が幽界に帰る際には、杉山僧正が住むという信濃国[[浅間山]]の隠れ里の[[山神]]に対して、篤胤がしたためた手紙と自著『霊能真柱』、[[神代文字]]への質疑文を、寅吉に託して献上したという。同書には、これら一切の経緯と山神や寅吉に手向けた和歌なども収められている。山神の図は現在東京[[代々木]]の[[平田神社 (渋谷区)|平田神社]]で大切に保管され、[[滋賀県]][[大津市]][[近江神宮]]定例の山神祭で祭られている。


*『勝五郎再生記聞』

*『勝五郎再生記聞』


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{{main|平田鐵胤}}

{{main|平田鐵胤}}

碧川篤真は篤胤二大高弟のひとり[[碧川好尚]]の実兄で、平田家の養嗣子となり[[平田銕胤]](鐵胤)を名乗った。銕胤は内蔵介のち大角とも名乗り、[[1868年]](明治元年)には[[神祇官]]判事に任じられ、[[明治天皇]]の侍講となり、ついで大学大博士に進み、のち大教正となった。篤胤の死後は家学を継承し平田学を普及させ、また、先代の[[負債]]を清算した。著書に『祝詞正訓』がある。[[1880年]](明治13年)[[10月15日]]に没した。

碧川篤真は篤胤二大高弟のひとり[[碧川好尚]]の実兄で、平田家の養嗣子となり[[平田銕胤]](鐵胤)を名乗った。銕胤は内蔵介のち大角とも名乗り、[[1868年]](明治元年)には[[神祇官 (明治時代)|神祇官]]判事に任じられ、[[明治天皇]]の侍講となり、ついで大学大博士に進み、のち大教正となった。篤胤の死後は家学を継承し平田学を普及させ、また、先代の[[負債]]を清算した。著書に『祝詞正訓』がある。[[1880年]](明治13年)[[10月15日]]に没した。



=== 孫 ===

=== 孫 ===

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=== 江戸 ===

=== 江戸 ===

[[ファイル:Hirata Shrine1.jpg|thumb|right|200px|平田神社(2016年7月6日撮影)]]

[[ファイル:Hirata Shrine1.jpg|thumb|right|200px|平田神社(2016年7月6日撮影)]]

[[ファイル:平田篤胤.JPG|thumb|right|200px|平田篤胤の墓 (国の史跡)(2014年6月10日撮影)]]

[[東京都]][[渋谷区]]代々木には、平田篤胤を祭った[[平田神社 (渋谷区)|平田神社]]がある<ref name=hirata>[http://hirata-jinja.org/ 平田神社]</ref>。平田神社は当時、明治初年に江戸の柳島横川町([[墨田区]])に平田家邸内社として創祀された神社を、[[1881年]]([[明治]]14年)に[[明治天皇]]の下賜金をもとに東京小石川第六天町([[文京区]])に遷座したもので、現在地に遷座したのは[[1959年]](昭和34年)である<ref name=hirata/>。

[[東京都]][[渋谷区]]代々木には、平田篤胤を祭った[[平田神社 (渋谷区)|平田神社]]がある<ref name=hirata>[http://hirata-jinja.org/ 平田神社]</ref>。平田神社は当時、明治初年に江戸の柳島横川町([[墨田区]])に平田家邸内社として創祀された神社を、[[1881年]]([[明治]]14年)に[[明治天皇]]の下賜金をもとに東京小石川第六天町([[文京区]])に遷座したもので、現在地に遷座したのは[[1959年]](昭和34年)である<ref name=hirata/>。



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[[ ()|]]<ref name=hisaizu>[https://www.hisaizujinja.jp/event.php  ]</ref>[[1942]]17<ref name=hisaizu/>[[1941]]16調<ref name=hisaizu/>[[]]<ref name=hisaizu/>

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篤胤遊歴の地である[[千葉県]][[旭市]]には、篤胤の歌碑が残されている。

篤胤遊歴の地である千葉県旭市の玉﨑神社には、篤胤の歌碑が残されている。


『磐楠に常磐の松のより副ひて千世を契りしことの畏さ』


この歌は、夫婦木と称し、楠の大樹に松の木がくっついた御神木を、文化13年(1816年)5月、篤胤が当神社に参詣した際に仰ぎ見て、たいそう感激され、これは御神威によるところであると詠んだものである。現地案内板によると、御神木はその後、安政3年(1856年)8月の大風で惜しくも倒れてしまい、その跡に子息平田銕胤が歌を書き、門人が碑を建立したという。



=== 秋田 ===

=== 秋田 ===

[[ファイル:平田篤胤.JPG|thumb|right|200px|平田篤胤の墓 (国の史跡)(2014年6月10日撮影)]]

篤胤の出生地は久保田城下の中谷地町(現、秋田市[[中通 (秋田市)|中通]]四丁目)であったが、生家である大和田家はのち旧亀ノ丁新町(秋田市中通六丁目)にうつり、同地には[[文久]]3年([[1863年]])、久保田藩士[[小野崎通亮]]・[[吉川忠安]]らによって国学塾雷風義塾が創設された<ref name=imamura144/>。

篤胤の出生地は久保田城下の中谷地町(現、秋田市[[中通 (秋田市)|中通]]四丁目)であったが、生家である大和田家はのち旧亀ノ丁新町(秋田市中通六丁目)にうつり、同地には[[文久]]3年([[1863年]])、久保田藩士[[小野崎通亮]]・[[吉川忠安]]らによって国学塾雷風義塾が創設された<ref name=imamura144/>。



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=== 関連文献 ===

=== 関連文献 ===

<!--記事本文には出典として明記されていないものの、記事に深く関係する文献の一覧です。「脚注」に使用した際は、「参考文献」欄へ移行して下さい。-->

* {{Cite book|和書|author=足立巻一|authorlink=足立巻一|date=1974-10|title=やちまた|edition = 上・下|publisher=河出書房新社}}

* {{Cite book|和書|author=足立巻一|authorlink=足立巻一|date=1974-10|title=やちまた|edition = 上・下|publisher=河出書房新社}}[[中公文庫]]ほかで再刊

* {{Cite book|和書|author=伊藤聡|authorlink=伊藤聡|date=2012-04|title=神道とは何か:神と仏の日本史|series=[[中公新書]]2158|publisher=中央公論新社|isbn=9784121021588}}

* {{Cite book|和書|author=伊藤聡|authorlink=伊藤聡|date=2012-04|title=神道とは何か:神と仏の日本史|series=[[中公新書]]2158|publisher=中央公論新社|isbn=9784121021588}}

* {{Cite book|和書|editor=[[苅部直]]・片岡龍|date=2008-03|title=日本思想史ハンドブック|publisher=[[新書館]]|isbn=9784403250941}}

* {{Cite book|和書|author=伊藤聡|date=2021-11|title=日本像の起源:つくられる「日本的なるもの」|series=角川選書653|publisher=[[KADOKAWA]]|isbn=9784047036055}}

* {{Cite book|和書|editor=國學院大學日本文化研究所|date=2022-03|title=歴史で読む国学|publisher=[[ぺりかん社]]|isbn=9784831516114}}

* {{Cite book|和書|editor=國學院大學日本文化研究所|date=2022-03|title=歴史で読む国学|publisher=[[ぺりかん社]]|isbn=9784831516114}}

* {{Cite book|和書|author=子安宣邦|authorlink=子安宣邦|date=1977-06|title=宣長と篤胤の世界|series=中公叢書|publisher=中央公論社|isbn=4120007200}}

* {{Cite book|和書|author=子安宣邦|authorlink=子安宣邦|date=1977-06|title=宣長と篤胤の世界|series=中公叢書|publisher=中央公論社|isbn=4120007200}}

* {{Cite book|和書|author=子安宣邦|date=2001-10|title=平田篤胤の世界|publisher=ぺりかん社|isbn=4831509841}}(新装版2009年10月ISBN 9784831512499)


* {{Cite book||author=|date=2001-10|title=|publisher=|isbn=4831509841}}200910{{ISBN| 9784831512499}}

* {{Cite book|和書|author=斎藤英喜|authorlink=斎藤英喜|date=2006-12|title=読み替えられた日本神話|series=[[講談社現代新書]]1871|publisher=[[講談社]]|isbn=4061498711}}

* {{Cite book|和書|author=斎藤英喜|authorlink=斎藤英喜|date=2006-12|title=読み替えられた日本神話|series=[[講談社現代新書]]1871|publisher=[[講談社]]|isbn=4061498711}}

* {{Cite book|和書|author=斎藤英喜|date=2020-10|title=読み替えられた日本書紀|series=角川選書642|publisher=[[KADOKAWA]]|isbn=9784047037014}}

* {{Cite book|和書|author=斎藤英喜|date=2020-10|title=読み替えられた日本書紀|series=角川選書642|publisher=KADOKAWA|isbn=9784047037014}}

* {{Cite book|和書|editor=斎藤英喜・[[山下久夫]]|date=2023-02|title=平田篤胤:狂信から共振へ|publisher=[[法藏館]]|isbn=9784831862761}}

* {{Cite book|和書|author=山泰幸|authorlink=山泰幸|date=2019-01|title=江戸の思想闘争|series=角川選書613|publisher=KADOKAWA|isbn=9784047036468}}

* {{Cite book|和書|author=山泰幸|authorlink=山泰幸|date=2019-01|title=江戸の思想闘争|series=角川選書613|publisher=KADOKAWA|isbn=9784047036468}}

* {{Cite book|和書|author=清水正之|authorlink=清水正之|date=2014-11|title=日本思想全史|series=[[ちくま新書]]1099|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=9784480068040}}

* {{Cite book|和書|author=清水正之|authorlink=清水正之|date=2014-11|title=日本思想全史|series=[[ちくま新書]]1099|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=9784480068040}}

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* {{Cite book|和書|author=田中康二|date=2017-02|title=真淵と宣長:「松坂の一夜」の史実と真実|series=中公叢書|publisher=中央公論新社|isbn=9784120049484}}

* {{Cite book|和書|author=田中康二|date=2017-02|title=真淵と宣長:「松坂の一夜」の史実と真実|series=中公叢書|publisher=中央公論新社|isbn=9784120049484}}

* {{Cite book|和書|author=辻本雅史|authorlink=辻本雅史|date=2021-11|title=江戸の学びと思想家たち|series=岩波新書1903|publisher=岩波書店|isbn=9784004319030}}

* {{Cite book|和書|author=辻本雅史|authorlink=辻本雅史|date=2021-11|title=江戸の学びと思想家たち|series=岩波新書1903|publisher=岩波書店|isbn=9784004319030}}

* {{Cite book|和書|author=源了圓|authorlink=源了圓|date=1973-01|title=徳川思想小史|series=中公新書312|publisher=中央公論社|isbn=4121003128}}

* {{Cite book|和書|author=源了圓|authorlink=源了圓|date=1973-01|title=徳川思想小史|series=中公新書312|publisher=中央公論社|isbn=4121003128}}中公文庫、2021年

* {{Cite book|和書|author=森和也|authorlink=森和也|date=2018-04|title=神道・儒教・仏教:江戸思想史のなかの三教|series=ちくま新書1325|publisher=筑摩書房|isbn=9784480071392}}

* {{Cite book|和書|author=森和也|authorlink=森和也|date=2018-04|title=神道・儒教・仏教:江戸思想史のなかの三教|series=ちくま新書1325|publisher=筑摩書房|isbn=9784480071392}}

* {{Cite book|和書|author=山田孝雄|authorlink=山田孝雄|date=1943-02|title=神道思想史|publisher=明世堂書店|isbn=}}

* {{Cite book|和書|author=山田孝雄|authorlink=山田孝雄|date=1943-02|title=神道思想史|publisher=明世堂書店|isbn=}}

*『[[現代思想 (雑誌)|現代思想]] 総特集:平田篤胤』2023年12月臨時増刊号、青土社。ISBN 978-4791714568



== 関連項目 ==

== 関連項目 ==


2024年5月16日 (木) 02:06時点における最新版

 

凡例

平田 篤胤
『國文学名家肖像集』の平田篤胤
時代 江戸時代後期
生誕 安永5年8月24日1776年10月6日
死没 天保14年9月11日1843年11月2日
享年69(満68歳没)
改名 大和田胤行 → 平田篤胤
別名 大壑
大角
玄琢
気吹乃舎
真菅乃屋
神号 神霊能真柱大人
出羽国久保田藩備中松山藩 → 久保田藩
氏族 房総平氏大和田氏伊勢平氏平田氏
父母 実父:大和田祚胤
養父:平田篤隠
兄弟 雅胤
正胤
胤行
実胤
胤秀
織瀬(石橋常房の娘)
織瀬(山崎篤利の養女)
実子:常太郎、千枝、又五郎
養子:鐵胤
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718214

[]

  • 『呵妄書』
  • 『幽顕弁』
  • 『八家論』
  • 『鬼神新論』
  • 『古今妖魅考』
  • 『密教修事部類稿』
  • 『本教外篇』
  • 勝五郎再生記聞
  • 『古易成文』
  • 『悟道弁』
  • 『仙境異聞』
  • 『古易大象経成文』
  • 『伊吹於呂志』
  • 『神童憑談略記』
  • 『古易大象経伝』
  • 『童蒙入学門』
  • 稲生物怪録
  • 『三易由来記』
  • 『古道大意』
  • 『三神山余考』
  • 『象易正義』
  • 『俗神道大意』
  • 『七生舞の記』
  • 『太昊古易伝成文』
  • 『西籍概論』
  • 『霧島山幽郷真語』
  • 『太昊古易伝』
  • 『出定笑語』
  • 『赤縣太古傳』
  • 『欽命録』
  • 『歌道大意』
  • 『天柱五嶽考』
  • 『太昊古暦傳』
  • 『氣吹舎歌文集』
  • 『天柱五嶽考余論』
  • 『古暦日歩式』
  • 『志都能石屋』
  • 『五嶽真形図説』
  • 『古暦月歩式』
  • 『医宗仲景考』
  • 『葛仙翁文粋』
  • 『春秋暦本術篇』
  • 『大道或問』
  • 『葛仙翁伝』
  • 『太昊暦旋式』
  • 『霊能真柱』
  • 『黄帝伝記』
  • 『弘仁歴運記考』
  • 古史成文
  • 『神仙教化編』
  • 『牛頭天王暦神弁』
  • 古史伝
  • 『神仙行氣編』
  • 『古今日契暦』
  • 『古史徴』
  • 『神仙採補編』
  • 『家相九説弁』
  • 『古史徴開題記』
  • 『三十五本国考』
  • 『六家要指論』
  • 『玉襷』
  • 『神仙導引編』
  • 『孔子聖説考』
  • 『伯家学則演義』
  • 『神仙服薬編』
  • 『五種類考』
  • 『古史系図』
  • 『神仙方術編』
  • 『万聲大統譜』
  • 『古道太元図説』
  • 『春秋命歴序考』
  • 『五十音義訣』
  • 『天津祝詞考』
  • 『前漢歴志弁』
  • 『天朝無窮暦』
  • 『大祓詞再釈』
  • 『夏殷周年表』
  • 『祝詞正訓』
  • 『参考神名式』
  • 『皇国異称考』
  • 『大祓詞正訓』
  • 『校正諸神階記』
  • 『古今乞盗考』
  • 『氣吹舎筆叢』
  • 『毎朝神拝詞記』
  • 『巫学談弊』
  • 『氣吹舎日記』
  • 『年中神祭詞記』
  • 『皇国度制考』
  • 『氣吹舎文集』
  • 神字日文傳・疑字篇
  • 『古今交蝕囲範草』
  • 『伊吹伎廼屋歌集』
  • 『武学本論』
  • 『終古冬至格』
  • 『金匱玉函経考文』
  • 『神道玄妙論』
  • 『太一遁甲古義』
  • 『古史年暦篇』
  • 『古道大元顕幽分層図説』
  • 『玄学得門編』
  • 『玄学月令編』
  • 『幹支字原考』
  • 『大同本記逸文』
  • 『年中神祭詞記』
  • 『皇典語彙』
  • 『赤縣度制考』
  • 『天象古説図』
  • 『医宗脈言』
  • 『皇典文彙』
  • 『古学諄辞集』
  • 『家礼徴古編』
  • 『伊勢物語梓弓』
  • 『蘭学用意』
  • 『師長訓』
  • 『徴古歳時記』
  • 『五種類考』
  • 『千嶋白波附地図』
  • 『日女島考』

刊行本[編集]

  • 篤胤全集刊行会編『新修平田篤胤全集』(名著出版)全21巻
  • 岩波文庫(岩波書店)
    • 山田孝雄校訂 1992『古史徴開題記』
    • 子安宣邦校注 1998『霊の真柱』
    • 子安宣邦校注 2000『仙境異聞 勝五郎再生記聞』
  • 佐佐木信綱校註 1941『平田篤胤歌文集』(冨山房
  • 斎藤一寛編 1945『俗神道大意』(日本電報通信社)
  • 簗瀬均著 2017『魂のゆくえ「再生記聞」を読む』(秋田魁新報社)
  • 平田篤胤 現代語訳=加賀義 2014年10月23日刊 『江戸の霊界探訪録』(幸福の科学出版) ISBN 978-4-86395-566-0

電子書籍[編集]

  • 1875『古易成文』(伊吹廼屋)全2巻
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[1][2]
  • 1879『童蒙入学門』
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[3]
  • 平田鉄胤 1881『毎朝神拝詞記』
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[4]
  • 1881『大祓詞正訓』
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[5]
  • 角田忠行 1885『歌道大意』
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[6]
  • 井上頼圀・角田忠行・平田鉄胤・平田胤雄・平田延胤・矢野玄道 1887『古史伝』全33巻
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[7](以下略。アドレスのNUM=00001の数字を変えれば、33巻まで見ることができる)
  • 北尾政美 1902『天満宮御伝記』(風月堂支店)
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[8]
  • 覚厳心梁 1906『印度蔵志』(神風会出版部)
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[9]
  • 出版年不明『赤県太古伝成文』(伊吹廼屋)
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[10]
  • 『仙境異聞』現代語訳 [11]
  • 『勝五郎再生記聞』現代語訳 [12]

親族・交友関係[編集]

系譜・親族[編集]



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21218025180813181621805

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718241151888213

18681880131015

[編集]


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[13]

21-1[16][ 12]


[]


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脚注[編集]

注釈[編集]



(一)^ 

(二)^ 1801

(三)^ 

(四)^ 

(五)^ 65

(六)^ 

(七)^ 

(八)^ 31218299

(九)^ 3121

(十)^ [17]

(11)^ 148[18]

(12)^ [24]

出典[編集]

[]


8 -197911 

 220007ISBN 4-87020-206-9 

︿5196911ISBN 4-634-23050-X 

1419927ISBN 4-08-195014-8 

9I19894ISBN 4-02-380007-4 

199111ISBN 4-87020-088-0 

7 13 19937ISBN 4-12-403033-9 

 B 1719737 

 - 49-20143ISBN 978-4-87022-553-4 

19819ISBN 4-87020-007-4 

西 II  20107ISBN 978-4-642-08038-5 

11-19908ISBN 4-642-00511-0 

20128ISBN 978-4-00-024468-8 

162004523 - 6

[]


197410 

︿215820124ISBN 9784121021588 

KADOKAWA︿653202111ISBN 9784047036055 

 20223ISBN 9784831516114 

︿19776ISBN 4120007200 

200110ISBN 4831509841 200910ISBN 9784831512499

︿1871200612ISBN 4061498711 

KADOKAWA︿642202010ISBN 9784047037014 

 20232ISBN 9784831862761 

KADOKAWA︿61320191ISBN 9784047036468 

︿1099201411ISBN 9784480068040 

︿182120201ISBN 9784004318217 

︿209720112ISBN 9784121020970 

20098ISBN 9784831512420 

︿4720121ISBN 9784787967978 

201512ISBN 9784831514257 

︿20172ISBN 9784120049484 

︿1903202111ISBN 9784004319030 

︿31219731ISBN 4121003128 2021

︿132520184ISBN 9784480071392 

19432 

 202312ISBN 978-4791714568

[]
















 - 

 - 

 - 1888

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1.  |  - 

 282005377-95doi:10.24619/00002693ISSN 0387-7280NAID 120006668753 

 14 web

 1653 

 -