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|影響を与えた人物 =[[荘子]]など多数 |
|影響を与えた人物 =[[東洋哲学]]、[[荘子]]、[[夏目漱石]]、[[マルティン・ハイデガー]]など多数 |
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|特記すべき概念 =[[道 (哲学)|道]]、無為自然 |
|特記すべき概念 =[[道 (哲学)|道]]、無為自然 |
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|生年月日=[[紀元前571年]]<ref>{{cite encyclopedia |author=百度 |title=老子 |encyclopedia=[[百度百科]] |year=2024-04-04 |url=https://baike.baidu.com/item/%E8%80%81%E5%AD%90/5448}}</ref>}} |
|生年月日=[[紀元前571年]]<ref>{{cite encyclopedia |author=百度 |title=老子 |encyclopedia=[[百度百科]] |year=2024-04-04 |url=https://baike.baidu.com/item/%E8%80%81%E5%AD%90/5448}}</ref>}} |
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{{Quotation|{{Lang|zh-tw|1.老子者,楚苦縣厲郷曲仁里人也,姓李氏,名耳,字聃,周守藏室之史也。<br/>2.孔子適周,將問禮於老子。︵以下略︶<br/>3.老子脩道德,其學以自隱無名為務。居周久之,見周之衰,乃遂去。至關,關令尹喜曰‥﹁子將隱矣,彊為我著書。﹂於是老子乃著書上下篇,言道德之意五千餘言而去,莫知其所終。}}|史記 卷六十三 老子韓非列傳<ref name="wsShiki063" /><ref name="Shiki063" />}}
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{{Quotation|{{Lang|zh-tw|1.老子者,楚苦縣厲郷曲仁里人也,姓李氏,名耳,字聃,周守藏室之史也。<br/>2.孔子適周,將問禮於老子。︵以下略︶<br/>3.老子脩道德,其學以自隱無名為務。居周久之,見周之衰,乃遂去。至關,關令尹喜曰‥﹁子將隱矣,彊為我著書。﹂於是老子乃著書上下篇,言道德之意五千餘言而去,莫知其所終。}}|史記 卷六十三 老子韓非列傳<ref name="wsShiki063" /><ref name="Shiki063" />}}
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[[File:Laozi.jpg|thumb|left|200px|upright|伝説では、老子は周を去る際、[[水牛]]に乗っていたという<ref>[[#Renard|Renard, (2002), p.16]]</ref>]] |
[[File:Laozi.jpg|thumb|left|200px|upright|伝説では、老子は周を去る際、[[水牛]]に乗っていたという<ref>[[#Renard|Renard, (2002), p.16]]</ref>]] |
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これによると老子は、[[姓]]は「李」、[[名]]は「耳」、[[字]]は「聃」(または「伯陽」<ref group="注">[[竹林の七賢]]のひとり[[嵆康]]の著『聖賢高士伝賛』など[http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-shasetu/08/0803/shasetu080318.html 中外日報社説]</ref>)。[[楚 (春秋)|楚]]の苦県<ref name="Kanazawa" />(現在の[[河南省]][[周口市]][[鹿邑県]]<ref name="Kusuyama230-239">[[#楠山|楠山、p230-239、七、謎の人老子 1.『史記』「老子伝」の批判(1)]]</ref>)、厲郷の曲仁里という場所の出身で、[[周]]の守藏室之史(書庫の記録官<ref name="Kanazawa" />)を勤めていた。[[孔子]]([[紀元前551年]] - [[紀元前479年]])が[[礼]]の教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は[[道徳]]を修め、その[[思想]]から名が知られることを避けていた<ref name="Kanazawa" />。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の[[関所]]([[函谷関]]とも散関とも呼ばれる<ref name="Kanazawa" />)に着くと、関所の役人である{{仮リンク|尹喜|zh|尹喜}}が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2 |
これによると老子は、[[姓]]は「李」、[[名]]は「耳」、[[字]]は「聃」(または「伯陽」<ref group="注">[[竹林の七賢]]のひとり[[嵆康]]の著『聖賢高士伝賛』など[http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-shasetu/08/0803/shasetu080318.html 中外日報社説]</ref>)。[[楚 (春秋)|楚]]の苦県<ref name="Kanazawa" />(現在の[[河南省]][[周口市]][[鹿邑県]]<ref name="Kusuyama230-239">[[#楠山|楠山、p230-239、七、謎の人老子 1.『史記』「老子伝」の批判(1)]]</ref>)、厲郷の曲仁里という場所の出身で、[[周]]の守藏室之史(書庫の記録官<ref name="Kanazawa" />)を勤めていた。[[孔子]]([[紀元前551年]] - [[紀元前479年]])が[[礼]]の教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は[[道徳]]を修め、その[[思想]]から名が知られることを避けていた<ref name="Kanazawa" />。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の[[関所]]([[函谷関]]とも散関とも呼ばれる<ref name="Kanazawa" />)に着くと、関所の役人である{{仮リンク|尹喜|zh|尹喜}}が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2篇、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい<ref>[[#貝塚|貝塚、p87-89]]</ref><ref name="Asano50-56">[[#浅野|浅野、p50-56、一、『老子』の謎 『老子』の成立時期]]</ref><ref name="Fowler2005, 96">[[#Fowler|Fowler (2005). Pg 96.]]</ref><ref name="Robinet1997, 26">[[#Robinet|Robinet (1997). Pg 26.]]</ref>、その後の事は誰も知らない<ref name="Kanazawa" />。(『[[列仙伝]]』においては[[大秦|大秦国]]すなわち[[古代ローマ|ローマ]]へ向かった。) |
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「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる<ref name="Kusuyama7-10">[[#楠山|楠山、p7-10、はじめに]]</ref><ref>[[#Luo|Luo (2004). Pg 118.]]</ref><ref>[[#Kramer|Kramer (1986). Pg 118.]]</ref><ref>[[#Kohn|Kohn (2000). Pg 2.]]</ref>。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や[[孟子]]のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える<ref name="Kusuyama7-10" /><ref>[[#貝塚|貝塚、p86-87]]</ref><ref group="注">氏族の姓「老」は実在し、[[宋 (春秋)|宋]]には老氏という貴族がいた。しかしこの一族と老子を結び付ける証拠は無い。[[#貝塚|貝塚、p87]]</ref><ref group="注">[[墨子]]の「墨」も姓ではないという説がある。しかしこれは元々姓を持たない階層の人物「翟」が[[入れ墨]]を入れられた[[囚人]]階級出身だったとか、または同音である宋の「目夷」氏の姓が転じたという説などがあり([[#貝塚|貝塚、p34-35 第二章 人類愛と平和についての対話]])、老子の名づけとは性質が異なる。</ref>。 |
「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる<ref name="Kusuyama7-10">[[#楠山|楠山、p7-10、はじめに]]</ref><ref>[[#Luo|Luo (2004). Pg 118.]]</ref><ref>[[#Kramer|Kramer (1986). Pg 118.]]</ref><ref>[[#Kohn|Kohn (2000). Pg 2.]]</ref>。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や[[孟子]]のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える<ref name="Kusuyama7-10" /><ref>[[#貝塚|貝塚、p86-87]]</ref><ref group="注">氏族の姓「老」は実在し、[[宋 (春秋)|宋]]には老氏という貴族がいた。しかしこの一族と老子を結び付ける証拠は無い。[[#貝塚|貝塚、p87]]</ref><ref group="注">[[墨子]]の「墨」も姓ではないという説がある。しかしこれは元々姓を持たない階層の人物「翟」が[[入れ墨]]を入れられた[[囚人]]階級出身だったとか、または同音である宋の「目夷」氏の姓が転じたという説などがあり([[#貝塚|貝塚、p34-35 第二章 人類愛と平和についての対話]])、老子の名づけとは性質が異なる。</ref>。 |
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=== 諸子百家の著述 === |
=== 諸子百家の著述 === |
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[[荘子]]([[紀元前369年]] - [[紀元前286年]]と推定される)が著したという『[[荘子 (書物)|荘子]]』の中には老聃という人物が登場し(例えば「内篇、徳充符篇」<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/zhuangzi/seal-of-virtue-complete/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『荘子』内篇、徳充符篇3|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2010-10-09}}</ref>や外雑篇<ref name="Asano56-58" />)、『老子道徳経』にある思想や文章を述べる<ref name="Asano56-58">[[#浅野|浅野、p56-58、一、『老子』の謎 老聃なる人物]]</ref>。[[荀子]]([[紀元前313年]]? - [[紀元前238年]]?)も『荀子』天論 |
[[荘子]]([[紀元前369年]] - [[紀元前286年]]と推定される)が著したという『[[荘子 (書物)|荘子]]』の中には老聃という人物が登場し(例えば「内篇、徳充符篇」<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/zhuangzi/seal-of-virtue-complete/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『荘子』内篇、徳充符篇3|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2010-10-09}}</ref>や外雑篇<ref name="Asano56-58" />)、『老子道徳経』にある思想や文章を述べる<ref name="Asano56-58">[[#浅野|浅野、p56-58、一、『老子』の謎 老聃なる人物]]</ref>。[[荀子]]([[紀元前313年]]? - [[紀元前238年]]?)も『荀子』天論篇にて老子の思想に触れ、「老子有見於詘,無見於信」<ref>{{cite web|url= http://ctext.org/xunzi/tian-lun/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『荀子』|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2010-10-09}}</ref>(老子の思想は屈曲したところは見るべき点もあるが、まっすぐなところが見られない。)と批判的に述べている<ref name="Asano56-58" />。さらに[[秦]]の[[呂不韋]](? - [[紀元前235年]])が編纂した『[[呂氏春秋]]』不二篇で「老耽貴柔」<ref>{{cite web|url=http://ctext.org/lv-shi-chun-qiu/bu-er/zh |language=漢文|title=諸子百家 中國哲學書電子化計劃 『呂氏春秋』|publisher=網站的設計與内容|accessdate=2010-10-09}}</ref>(老耽は柔を貴ぶ)老耽という思想家に触れている<ref name="Asano56-58" />。貴公篇では孔子に勝る無為の思想を持つ思想家として老耽を挙げ、その思想は王者の思想(至公)としている。 |
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このような記述から窺える点は、老子もしくは老子に仮託される思想は少なくとも[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]末期には存在し、[[諸子百家]]内に知られていた可能性が大きい<ref name="Asano56-58" />。しかし、例えば現代に伝わる『荘子』は荘子本人の言に近いといわれる内篇7と彼を後継した荘周学派による後に加えられたと考えられる外 |
このような記述から窺える点は、老子もしくは老子に仮託される思想は少なくとも[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]末期には存在し、[[諸子百家]]内に知られていた可能性が大きい<ref name="Asano56-58" />。しかし、例えば現代に伝わる『荘子』は荘子本人の言に近いといわれる内篇7と彼を後継した荘周学派による後に加えられたと考えられる外篇15、雑篇11の形式で纏められているが、これは[[晋 (王朝)|晋]]代の[[郭象]]([[252年]]? - [[312年]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://kotobank.jp/word/%E9%83%AD%E8%B1%A1|language=日本語|title=【郭象】|publisher=デジタル大辞泉|accessdate=2010-10-09}}</ref>)が定めた形式であり、内篇で老子に触れられていてもそれが確実に荘子の言とは断定できない<ref>[[#浅野|浅野、p75-76、第二章 混沌の魔術師・荘子 一、生涯とテキスト 『荘子』三十三篇]]</ref>。このように、諸子百家の記述に出現するからといって老子が生きた時代を定めることは出来ず、学会でも結論は得られていない<ref name="Kaizuka91">[[#貝塚|貝塚、p91]]</ref>。 |
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=== 定まらない評価 === |
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=== 尹喜 === |
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{{See also|尹喜}} |
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伝統的記述では、老子は[[都市]]生活における[[道徳|モラル]]の低下にうんざりするようになり、王国の衰退を記したという。この言い伝えでは、彼は160歳の時に国境定まらぬ西方へ移住し、世捨て人として生きたとある。城西の門の[[衛兵]]・尹喜は、東の空に紫雲がたなびくのに気づき、4人の供を連れた老子を出迎え、知恵を書き残して欲しいと願った<ref name="Kusuyama230-239" />。この時書かれた書が『老子道徳経』だというところは『史記』と同じだが、一説には衛兵は職を辞して老子に供し、二度とその姿を見せなかったともある。 |
伝統的記述では、老子は[[都市]]生活における[[道徳|モラル]]の低下にうんざりするようになり、王国の衰退を記したという。この言い伝えでは、彼は160歳の時に国境定まらぬ西方へ移住し、世捨て人として生きたとある。城西の門の[[衛兵]]・尹喜は、東の空に紫雲がたなびくのに気づき、4人の供を連れた老子を出迎え、知恵を書き残して欲しいと願った<ref name="Kusuyama230-239" />。この時書かれた書が『老子道徳経』だというところは『史記』と同じだが、一説には衛兵は職を辞して老子に供し、二度とその姿を見せなかったともある。 |
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老子道徳経に述べられている「道」の区分については、①普遍的法則としての道、②根元的実在としての道、③処世術としての道、④政治思想としての道、の四通りの「道」の区分があると見ることができる。このうち、②根元的実在としての道について述べられた部分が、古い老子の思想であると見ることができる。 |
老子道徳経に述べられている「道」の区分については、①普遍的法則としての道、②根元的実在としての道、③処世術としての道、④政治思想としての道、の四通りの「道」の区分があると見ることができる。このうち、②根元的実在としての道について述べられた部分が、古い老子の思想であると見ることができる。 |
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「建言」というのは、下 |
「建言」というのは、下篇の最初のほうに出てくる『老子道徳経』よりも古くからあったとされる、諺などを記した書物であるとされている。この諺や名言は、老子本文を構成するのに引用されているところからすると、「老子下篇」を編集した人物にとっての、最古の老子の[[伝説]]の書のようなものであったということができる。「建言」とは、永久に記憶されるべきことば、という意味を持つ。<ref>『世界の名著 4 老子 荘子』中央公論社 1978年P117の注 小川環樹</ref>{{efn2|「建言」による引用はどこまでを指すのかは不確実である(出典『中国古典文学大系4』1973年P22 注2金谷治)。内容からすると、43章くらいまでが名言集であるように見える。}}。 |
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==== 「建言」に見る、実在としての道 ==== |
==== 「建言」に見る、実在としての道 ==== |
2024年6月15日 (土) 19:07時点における最新版
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生誕 | 紀元前571年[1] |
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死没 | 紀元前470年[2] |
時代 | 中国・春秋時代(諸説あり) |
地域 | 東洋哲学 |
学派 | 老荘思想、道家 |
主な概念 | 道、無為自然 |
影響を与えた人物
|
老子 | |
---|---|
各種表記 | |
繁体字: | 老子 |
簡体字: | 老子 |
拼音: | Lǎozǐ |
ラテン字: | Lao3-tzu3 |
発音転記: | ラオズー |
英語名: | Laozi |
道教 |
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基礎 |
道教の歴史 · 道 · 徳 · 無極 · 太極 · 陰陽 · 五行 · 気 · 内丹術 · 無為 · 道観 · 道士 |
典籍 |
老子道徳経 · 荘子南華真経 · 列子 · 参同契 · 抱朴子 · 黄庭経 · 度人経 · 清静経 · 雲笈七籤 · 道蔵 |
神仙 |
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人物 |
老子 · 荘子 · 張陵 · 張角 · 魏伯陽 · 葛洪 · 許遜 · 寇謙之 · 陸修静 · 陶弘景 · 孫思邈 · 陳摶 · 五祖七真 · 王重陽 · 丘長春 · 張三丰 |
宗派 |
五斗米道 · 霊宝派 · 上清派 · 重玄派 · 浄明道 · 全真教 · 正一教 · 華山派 |
聖地 |
洞天 · 桃源郷 · 壺中天 · 蓬萊 · 道教名山 · 仙境 · 龍宮 · 福徳島 |
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老子の履歴[編集]
史記の記述[編集]
老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家・司馬遷︵紀元前145年 - 紀元前86年︶が紀元前100年頃に著した﹃史記﹄﹁老子韓非列伝[8][9]﹂中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。 1.老子者,楚苦縣厲郷曲仁里人也,姓李氏,名耳,字聃,周守藏室之史也。 2.孔子適周,將問禮於老子。︵以下略︶ 3.老子脩道德,其學以自隱無名為務。居周久之,見周之衰,乃遂去。至關,關令尹喜曰‥﹁子將隱矣,彊為我著書。﹂於是老子乃著書上下篇,言道德之意五千餘言而去,莫知其所終。 — 史記 卷六十三 老子韓非列傳[8][9]![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fd/Laozi.jpg/200px-Laozi.jpg)
諸子百家の著述[編集]
荘子︵紀元前369年 - 紀元前286年と推定される︶が著したという﹃荘子﹄の中には老聃という人物が登場し︵例えば﹁内篇、徳充符篇﹂[27]や外雑篇[28]︶、﹃老子道徳経﹄にある思想や文章を述べる[28]。荀子︵紀元前313年? - 紀元前238年?︶も﹃荀子﹄天論篇にて老子の思想に触れ、﹁老子有見於詘,無見於信﹂[29]︵老子の思想は屈曲したところは見るべき点もあるが、まっすぐなところが見られない。︶と批判的に述べている[28]。さらに秦の呂不韋︵? - 紀元前235年︶が編纂した﹃呂氏春秋﹄不二篇で﹁老耽貴柔﹂[30]︵老耽は柔を貴ぶ︶老耽という思想家に触れている[28]。貴公篇では孔子に勝る無為の思想を持つ思想家として老耽を挙げ、その思想は王者の思想(至公)としている。 このような記述から窺える点は、老子もしくは老子に仮託される思想は少なくとも戦国時代末期には存在し、諸子百家内に知られていた可能性が大きい[28]。しかし、例えば現代に伝わる﹃荘子﹄は荘子本人の言に近いといわれる内篇7と彼を後継した荘周学派による後に加えられたと考えられる外篇15、雑篇11の形式で纏められているが、これは晋代の郭象︵252年? - 312年[31]︶が定めた形式であり、内篇で老子に触れられていてもそれが確実に荘子の言とは断定できない[32]。このように、諸子百家の記述に出現するからといって老子が生きた時代を定めることは出来ず、学会でも結論は得られていない[33]。定まらない評価[編集]
このように、確かな伝記が伝わらず、真偽定かでない伝承が多く作られた老子の生涯は、現在でも定まったものは無く[34]、多くの論説が試されて来た。老子の存在に疑問を呈した初期の思想家は、北魏の宰相・崔浩︵381年 - 450年︶だった。唐の韓愈︵768年 - 824年︶は、孔子が老子から教えを受けたという説を否定した。その後の宋代には陳師道、葉適、黄震らが老子の伝記を検証し、清代の汪中︵﹃老子道徳経異序﹄﹃述学、補遺、老子考異﹄︶と崔述︵﹃崔東壁遺書・洙泗考信録﹄︶は﹃史記﹄第三の説にある﹁太史捶﹂が老子を正しく伝え、孔子の後の人物だと主張した[3]。 20世紀中ごろに至っても研究者による見解はまちまちのまま、その論調はいくつかのグループに分かれていた。大きくは、古代中国の文献類に信頼を置き老子像を捉える﹁信古﹂と、逆に批判的な﹁疑古﹂[35]とに分類できる。老子の時代についてはさらに分かれ、胡適︵﹃中国哲学史﹄、1926年︶、唐蘭︵﹃老聃的生命和時代考﹄︶、郭沫若︵﹃老聃・関尹・環淵﹄︶、黄方剛︵﹃老子年代之考察﹄︶、馬叙倫︵﹃辨﹁老子﹂非戦国後期之作品﹄他︶、高亨︵﹃重訂老子正詁﹄、1957年︶、詹剣峰︵﹃老子其人書及其道論﹄、1982年︶、陳鼓応︵﹃老子注釈与評介﹄、1984年︶らは孔子とほぼ同時代の春秋末期とする﹁早期説﹂と唱え、梁啓超︵1873年 - 1929年、﹁評論胡適之中国哲学史大綱﹂﹃飲冰室合集﹄︶、銭穆︵﹃関干老子成書年代之一種考察﹄︶、羅根澤︵﹃老子及老子書的問題﹄︶、譚戒甫︵﹃二老研究﹄︶などは戦国末期と考える﹁晩期説﹂を主張した[3]。老子の存在を否定する派では、孫次舟︵﹃再評﹁古史辨﹂﹄︶は老子を荘子学派が創作した架空の人物と主張し[3]、1957年に刊行された[36]杜国庠の﹃先秦諸子思想概要﹄では、中国思想の論理学派︵孔子・荘子・墨子・荀子・韓非子など︶を説明する中で老子に触れた項が無いだけでなく、一切老子に触れず道家の祖を荘子としている[37]。伝承[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c2/Baby_Laozi_Qingyanggong_Chengdu.jpg/200px-Baby_Laozi_Qingyanggong_Chengdu.jpg)
生涯にまつわる伝説[編集]
一般に知られた伝来の伝記では、老子は周王朝の王宮法廷で記録保管役として働いていたという。ここで彼は黄帝などいにしえの著作に触れる機会を多く得たと伝わる。伝記では、老子は正式な学派を開祖したわけではないが、彼は多くの学生や高貴な門弟へも教えを説いたとされている。また、儀礼に関する多くの助言を孔子に与えたという叙述も様々な形で残されている[39][40]。 ﹃神仙伝﹄など[41]民間の伝承では、周の定王3年[42]︵紀元前603年︶に母親︵﹁玄妙玉女﹂または﹁真妙玉女﹂[43]︶が流星を見たとき︵または、昼寝をしていた際に太陽の精が珠となって口に入ったとき[44]︶に老子を懐妊したが62年間︵80年間?[42]、81年間?[43][44]、72年間または3700年間[2- 1]などの説も[41]︶も胎内におり、彼女が梅の木にもたれかかった時に左の脇から出産した[43]という。それゆえ、老子は知恵の象徴である白髪混じりの顎鬚と長い耳たぶを持つ大人の姿で産まれたという[45][46][44]。他の伝承では、老子は伏羲の時代から13度生まれ変わりを繰り返し、その最後の生でも990年間の生涯を過ごして、最後には道徳を解明するためにインドへ向かったと言われる[16][47][48]。伝説の中にはさらに老子が仏陀に教えを説いたとも、または老子は後に仏陀自身となったという話︵化胡説︶[16][47][49]もある[39][50]。 中国の歴史上、老子の子孫を称する者は数多く現れた。唐朝帝室の李氏は祖先を老子に求め、﹁聖祖大道玄元皇帝﹂とおくり名され、ますます尊崇を受けた[51][52][53][47]。これら系譜の正否は判断がつけられないが、老子が中国文化へ大きな影響を与えている証左にはなりうる[54]。字・伯陽[編集]
現代に伝わる﹃史記﹄には記載されていないが、老子には﹁伯陽﹂という字があったとされる。伯陽とは元々西周第12代・幽王の時代に周が滅亡することを預言した人物の事である。これは﹃史記﹄に言う太史儋の覇王出現の預言が影響し、後漢の時代に﹁聃﹂を諡に変えて﹁伯陽﹂を字とする改竄が加えられた事の名残である[55]。 老子など多くの歴史的人物を仙人視する風潮は前漢時代に起こり、これを批判し王充は﹃論衡﹄という書の﹁道虚篇﹂で老子不老不死説を取り上げ否定した。伯陽と老子を同一視する説は、このような時代の流行を反映したもので、逆にそれが﹃史記﹄の改竄にまで及んだことを示す[55]。尹喜[編集]
『老子道徳経』から推測される老子[編集]
議論[編集]
馬王堆・郭店の発掘書[編集]
このような﹃老子道徳経﹄の成立に関わる考古学的発見が、20世紀後半に2件もたらされた。1973年、湖南省長沙市で漢代の紀元前168年に造営された[34][注 5]馬王堆3号墓から帛書の写本︵馬王堆帛書︶が出土したが、これには二種の﹃老子道徳経﹄が含まれていた。さらに1993年、今度は湖北省荊門市郭店[34]で、戦国時代の楚国の墓︵郭店一号楚墓︶から730枚の竹簡︵郭店楚簡︶が発見された。この中には三種類の﹃老子道徳経﹄が含まれていた。いずれも書名は記されておらず、また現在に伝わる﹃老子道徳経﹄とはそれぞれに差異こそあるが、この発見は老子研究に貢献する新たな物証となった[3]。 1973年に発見された馬王堆帛書老子道徳経二種は、現在に伝わる﹃老子道徳経﹄とほぼ同じ内容ながら、二種共上・下篇の順序が逆転し、下篇が前上篇が後になっている。﹁甲本﹂﹁乙本﹂という名は、便宜上つけられたものである。甲本の字体は秦の小篆の流れを汲む隷書体であり、乙本は同じ隷書でも漢代の字体を持っていた。さらに、乙本では﹁邦﹂の字がすべて﹁国﹂に置き換えられていたのに対し、甲本は﹁邦﹂を使用している。これは、乙本には前漢の劉邦死︵紀元前195年︶後にこの字を避諱したことが反映され、甲本はそれ以前に写本制作されたことを示す。これによって、現本﹃老子道徳経﹄は少なくとも前漢・高祖時代には現在の形で完成していたと証明される[13]。 さらに郭店一号楚墓は、副葬品の特徴を分析した結果などから戦国時代中期の紀元前300年頃のものと推定された。その中には君主が老齢の臣下に賜る鳩杖があったことから、正式発表は無いが被葬者は70歳以上で死亡したと考えられる。この墓から発見された竹簡は16種類あり[62]、さらに﹃老子道徳経﹄に相当するものは﹁甲本﹂﹁乙本﹂﹁丙本﹂の3種類に分けられた。この甲・乙・丙本に共通する文章はわずかに甲と丙の一部にのみあるが、細かな文言などに差異があった。そして三本を合わせても31章にしかならず、現在の﹃老子道徳経﹄81章の 1⁄3 にしか相当しない[13]。 浅野裕一は郭店楚簡甲・乙・丙本について、﹃老子道徳経﹄に相当する原本が存在し、被葬者もしくは写本製作者が何らかの意図を持ってその都度部分的に写し取った三つの竹簡と推測した。その根拠は三本に共通部分がほとんど無い点を挙げ、これらが﹃老子道徳経﹄が形成される途上の3過程とは解釈できないとした。その一方で思想内容には整合性があることから、別々の作者とも考えにくいと述べた。さらに、甲・丙本の共通部分︵現行本第64章後半に相当︶にある差異は、原本﹃老子道徳経﹄には写本を繰り返す中で既に複数の系統に分かれたものが存在していたと推定した[13]。 当時、書籍は簡単に作成・流通できるものではなく、郭店一号楚墓の被葬者も長命な人生の中で機会を得て郭店楚簡を得たと考えられ、もしそれが若い時分ならばそれだけで原本は紀元前300年から数十年単位で遡り存在したことになる。さらに甲・丙本の差に見られる複数の写本系統を考慮すれば、その時代はさらに古くなり、﹃老子道徳経﹄原本は戦国前期の紀元前403年 - 紀元前343年には成立していた可能性が高まり、数々の論議はかなり絞られてくる。郭店一号楚墓被葬者の年齢など科学的分析結果は全容が公表されていないが、それ如何によっては﹃老子道徳経﹄成立時期がさらに明らかになる可能性がある[13]。老子の思想の形成について[編集]
中国の古い書物はそのほとんどが、一人の著者のみで書いたものではなく、時代を変遷して、多数の著者の手により追記編集されていったものであるとされている。その門流の人々は、次々にその原本に書き足していったものを、全体として構成し直し、それをその発端者の名前で呼んでいるようである[63]。老子道徳経に編纂されている思想についても、多数の著者によって、いくつかの思想が述べられており、それを後代の人が書物としてまとめたものであるとみることができる。老子の﹁道﹂について[編集]
老子道徳経に述べられている﹁道﹂の区分については、①普遍的法則としての道、②根元的実在としての道、③処世術としての道、④政治思想としての道、の四通りの﹁道﹂の区分があると見ることができる。このうち、②根元的実在としての道について述べられた部分が、古い老子の思想であると見ることができる。 ﹁建言﹂というのは、下篇の最初のほうに出てくる﹃老子道徳経﹄よりも古くからあったとされる、諺などを記した書物であるとされている。この諺や名言は、老子本文を構成するのに引用されているところからすると、﹁老子下篇﹂を編集した人物にとっての、最古の老子の伝説の書のようなものであったということができる。﹁建言﹂とは、永久に記憶されるべきことば、という意味を持つ。[64][注 6]。﹁建言﹂に見る、実在としての道[編集]
﹁建言﹂によると、実在としての道は、循環運動を永遠に続けている[65]。あらゆる存在は、﹁有﹂として、﹁無﹂から生まれている。﹁有﹂が﹁無﹂として、﹁無﹂が﹁有﹂として、運動して︵生まれて︶ゆく姿は、反︵循環︶である。︵第40章︶。 ﹁道﹂は一を生み出す。一は二を生み出す。万物は陰︵無為︶を背負って、陽︵有為︶を抱える。沖気というのは、調和︵均衡︶の状態を維持することである。道は全体に対して、弱い力として働いている︵42章︶。 ﹁道﹂は隠れたもので、名がない。大象︵無限の象︶は形がない。﹁道﹂こそは、何にもまして︵すべてのものに︶援助を与え、しかも︵それらが目的を︶成しとげるようにさせるものである[66][注 7]。この援助は、徳とも、慈悲とも言えるものである。思想から見る老子[編集]
政治思想の源流[編集]
老子の社会階級[編集]
老子が描く理想的な﹁小国寡民﹂国家は、とても牧歌的な社会である。 小國寡民。使有什伯之器而不用‥使民重死而不遠徙。雖有舟輿,無所乘之,雖有甲兵,無所陳之。使民復結繩而用之,甘其食,美其服,安其居,樂其俗。鄰國相望,雞犬之聲相聞,民至老死,不相往來 — 道德經80[72] 老子が言う小国寡民の国。そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、今のままでもその食物を美味と思い、服装も立派だと考え、住まいに満足し、それらを自給自足で賄い、その素朴な習俗を楽しむという。隣の国との関係は、互いに望み合えてせいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するように上からの干渉を極力抑えて、民のあるがままにすべきと君主へその秘訣を述べ︵60章︶、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭し︵9章︶、民に対する為政者へりくだりこそが天下に歓迎され、長期にわたり安泰を維持出来るとある︵66章︶。権力政治に対して、民が君主の圧政と重罰に慣れると、上の権力をものともしない状態になり︵72章︶、民が圧政に苦しみ、死を恐れなくなれば死罪による脅しも効かなくなり民の反乱、国家の崩壊を招くと警告している︵74章︶。また、法令をどんなに整備しても必ず法網をくぐる者が現れ、さらに犯罪者が増えるという趣旨から法律・政令の簡素化を説いている︵57章︶。 中国の共産主義革命以後、老子のイデオロギーがどんな社会階級から発せられたものか議論となり、范文瀾は春秋末期から戦国初期の没落領主層の思想に基づくと主張した。マルクス主義の呂振羽は、都市商人に対する農村の新興地主らの闘争理論だと述べた。侯外廬は戦国時代に疲弊する農業共同体の農民思想の代弁だと主張した。貝塚は、政治腐敗に嫌気が差し農村に逃れた知識層か、戦乱で逸民した学者階級などと推測する。しかし、この問題は解決を見ていない[73]。道教における老子[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/af/Laozi_002.jpg/220px-Laozi_002.jpg)
理想の師弟[編集]
西門の守衛・尹喜と老子の関係についても、多様な伝説が残されている。﹃老子道徳経﹄の成立は、西へ去ろうとする老子を引き止めた尹喜が、迷い苦しむ人々を救う真実をもたらす神性なる老子の叡智を書き残して欲しいという懇願に応えたものが発端と言われる。民俗学的には、この老子と尹喜の出逢いは道教における理想的な師と弟子の関係を表したものと受け止められた[76]。老子八十一化説[編集]
太上老君は、歴史の中で多くの﹁化身﹂[80]または様々な受肉を経て多様な外観を備え、道の本質を説いたという[48]。 これは、元の時代に再解釈され、仏教に対する道教の優位性を論拠付けるために﹃老子八十一化図﹄が作成された。老子の生涯を図で示し、その偉大さを示そうとした全眞教の道士・李志常が指示し令狐璋と史志経が作成した同書は、憲宗の近臣を通じて広く流布させようと画策された[81]。 しかし、本書は一部を除き仏陀の伝承を剽窃したもので、これを祥邁は﹁採釋瑞而爲老瑞、︵中略︶改迦祥而作老祥﹂︵仏陀の吉祥を書き換えて、老子の吉祥に仕立て直している︶と批判した[82]。事実これは、全真道の丘長春︵長春真人︶がチンギス・カンと面会して以来発展を続ける[83]道教の宣伝活動に加えて﹁化胡説﹂を強調して仏教の相対的地位低下も狙っていた[82]。仏教界の反発は強く[84]、1255年8月には皇帝を前に仏教界と道教界の直接論争が行われた[83]。その後同様の論争が開かれ、﹃老子八十一化図﹄が偽作と認定されるなど最終的に道教側が破れ、古典以外の道教の書や経は焚書された[81][83]。参考文献[編集]
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注釈[編集]
出典[編集]
![ウィキソース出典](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/15px-Wikisource-logo.svg.png)
出典2[編集]
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読書案内[編集]
- Bodde, Derk; Feng, Youlan (1983年). A history of Chinese philosophy. プリンストン (ニュージャージー州): プリンストン大学出版局. ISBN 0-691-02021-3
- Henricks, Robert G. (1992年). Lao Tzu: Te-Tao Ching ? A New Translation Based on the Recently Discovered Ma-wang-tui Texts (Classics of Ancient China). ニューヨーク: Ballantine Books. ISBN 0-345-37099-6
- Kaltenmark, Max. Lao Tzu and Taoism. スタンフォード: スタンフォード大学出版局. ISBN 0-8047-0689-1
- Waley, Arthur (1958年). The Way and Its Power: Lao Tzu's Tao Te Ching and Its Place in Chinese Thought (UNESCO Collection of Representative Works). ニューヨーク: Grove Press. ISBN 0-8021-5085-3
- Moeller, Hans-Georg (2006年). The philosophy of the Daodejing. ニューヨーク: コロンビア大学出版局. ISBN 0-231-13678-1
- Peerenboom, R. P. (1993年). Law and morality in ancient China: the silk manuscripts of Huang-Lao. オールバニ: ニューヨーク州立大学出版局. ISBN 0-7914-1237-7
- Klaus, Hilmar (2008年). Das Tao der Weisheit. 3 German translations, English Introduction, many English + German sources (140 pp.). アーヘン/ドイツ: Hochschulverlag. pp. 548. ISBN 978-3-8107-0032-2 & ISBN 978-3-8107-0041-4
- Klaus, Hilmar (2009年). The Tao of Wisdom. Laozi ? Daodejing. Chinese-English-German. Aachen: Hochschulverlag). アーヘン/ドイツ: Hochschulverlag. pp. 600. ISBN 978-3-8107-0055-1
外部リンク[編集]
- 老子の作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- Stanford Encyclopedia of Philosophy: Laozi
- Internet Encyclopedia of Philosophy: Laozi
- Lǎozǐ Dàodéjīng Chinese + English + German, verbatim + analogous
- 老子八十一化図 図像大谷大学所蔵
- 『老子』 - コトバンク