問屋場
問屋場︵とんやば・といやば︶は、江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった︵本項の語意に於ける﹁問屋﹂とは、運送業を意味する。﹁問丸﹂の項を参照︶。
概要[編集]
御油宿の問屋場趾は、民家が建ち、標榜するものも残っていない。 業務の主宰者は問屋と称され、その助役の年寄、さらに人馬の出入りや賃銭などを記入する帳付、人馬に荷物を振り分ける馬指などの者がいた。通常の時は交代で出勤するが、大名行列などの大通行があるときは全員が詰めることになっていた。 1868年7月27日︵明治元年6月8日︶、明治政府は問屋場を伝馬所︵でんましょ︶[2]、責任者を取締役︵1駅あたり定員2名︶と改めた。その後、1870年4月9日︵明治3年3月9日︶に取締役が廃止されて伝馬所は官︵駅逓司︶の管轄下に置かれ、1872年︵明治5年︶に伝馬所を含めた宿駅制度そのものが廃止された[3]。現存している問屋場[編集]
脚注[編集]
- ^ 静岡新聞社. “藤枝市郷土博物館・文学館 「東海道藤枝宿往還家並絵図」 1842年、宿場の息遣いくっきり【美と快と-収蔵品物語⑰】|あなたの静岡新聞”. www.at-s.com. 2023年1月24日閲覧。
- ^ 「伝馬所」という言葉そのものは明治以前から宿駅の別称として用いられていた(深井「伝馬所」『国史大辞典』)。
- ^ 深井甚三「伝馬所」/丸山雍成「伝馬所取締役」『国史大辞典 9』吉川弘文館、1988年 ISBN 978-4-642-00509-8 P1026