板戸
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板戸︵いたど︶は建具の一種で、板で作られた戸、扉。主に木の板で作られるが、一部にガラスや布・紙などを用いるものもある。
京都御所、御常御殿の蔀戸、開けるときは外側に吊り上げてとめる
そして、中央間と東西第二間の三ヶ所に﹁障子戸﹂が設けられていたという。その外はすべて蔀戸で仕切られているが、これ以外に仕切りの無い広間様式である。
清涼殿は、天皇の起臥する室であったので、細かく仕切られているが、建具の使用状況は、紫宸殿と同じで、側面と塗篭めに妻戸︵とびら︶を設け周囲は蔀戸を釣っていた。塗篭めは、周囲を厚く土壁で塗りこめた部屋で、納戸や寝室として使われた。この他、東孫廂︵まごひさし︶の見通しを遮るために﹁昆明池の障子﹂が置かれていた。この障子は、衝立てで、漢の武帝が水軍訓練のため、長安城の西に掘らせた昆明池を描いた衝立てである。さらに、春夏秋冬の儀式を描き上げた年中行事障子︵衝立障子︶が、殿上の間の戸口の前に置かれていた。
﹁障子﹂とは古くは、間仕切りの総称であった。﹁障﹂とは、間をさえぎるの意であり、﹁子﹂は小さいものや道具につけられる接尾語である。衝立、屏風︵びょうぶ︶、簾︵みす︶、几帳あるいは、室外との仕切の唐戸︵扉の一種︶、舞良戸︵板戸の一種︶、蔀戸等の総称であった。
板戸︵建具︶の歴史[編集]
飛鳥・奈良時代の建具[編集]
法隆寺[編集]
現存する日本最古の木造建築は、斑鳩寺ともいわれ聖徳太子建立607年頃の、奈良の法隆寺である。現存する法隆寺西院伽藍︵金堂含む︶は、一度火災で焼失した後、7世紀末頃に再建されたものであることが定説となっているが、法隆寺金堂の中の扉が、一応現存する最古の扉といえる。しかし、昭和修理の時に火災で初層内部を焼損し、二枚を張り合わせて一枚の扉に復元されている。当初の扉は、高さ3m幅約1m厚さ約10cmの、檜︵ひのき︶の節なしの一枚板であった。 金堂よりおくれて奈良時代に建立された、金堂裳階の四面の扉は現存している。やはり一枚板で、高さ2.7m幅1m厚さ約8.5cmの大きさで、下部に唄ばい金銅の飾り金具を打ち上部に連子窓を設けている。この連子窓の九本の連子は、一枚板から彫りだしたものであるという。大変な労力を費やした扉である。 法隆寺建立から約150年後に創建された鑑真ゆかりの寺唐招提寺︵759年創建︶の金堂は、鑑真の没後、8世紀末頃の建築と推定される。唐招提寺金堂の扉は、幅の狭い板を五枚縦に並べて、裏桟に釘どめした板桟戸構造になっている。扉の表面に出た釘頭を隠す為に、饅頭型の木製漆塗りの飾りを付け、扉全体の変形を防止するため金銅八双金具︵装飾と補強を兼ねた建築金具の一種︶を、取り付けている。 奈良時代の住宅の一部で現存するものは、やはり法隆寺の東院伝法堂である。伝法堂は、元来聖武天皇の橘夫人の邸宅の一部であったものが聖徳太子の斑鳩宮の跡である法隆寺東院に寄進されたものである。仏堂にするため一部改造されているが、当時の寺院建築にみられるような、板敷を除けば唐の強い影響を受けた建築構造となっている。 伝法堂の前身建物は妻入り︵屋根の妻側を正面とする︶で、平面構造は、桁行︵奥行︶三間、梁行︵幅︶四間の壁と扉で閉ざされた主室部分と、桁行二間梁行四間の開放的部分とそれにつづく広い簀子︵すのこ︶敷から構成されている。空間を間仕切るものとしては壁と扉しかなく、内部間仕切りのない、広間様式の建築構造となっている。 伝法堂は、当時の建築としては珍しく、柱に礎石を用いているが、奈良時代の平城京では、ほとんどの建物が古墳時代と同様な掘立柱であった。 これらの建物は梁行二間の母屋︵もや‥主構造が柱と屋根の屋︶だけで作られており、廂︵ひさし︶がまだ発達していない簡素な様式であった。広間様式の建築[編集]
﹃正倉院文書﹄によって知られる藤原豊成の板殿がある。文書によって復元される構成は、桁行五間梁行三間で、壁と連子窓と扉で囲われた室部分と前後の広い板敷から構成されている。 この藤原豊成の板殿も、やはり内部間仕切りのない広間様式の建築であった。基本的な工法は伝統的な在来工法を用いているが、扉口や連子窓などは大陸の技術によっている。 つまり、この時代までは開口部を作る独自の技術がなかったと判断される。伝法堂も板殿もいずれも、建具としては共通して唐様式の扉しかなく、内部空間を仕切る建具がなかったのが、奈良時代の建築の特徴といえるであろう。 奈良時代には、衝立や簾、几帳のような可動式の﹁障子﹂が使用されていた。衝立状のものとしては、奈良時代の﹃法隆寺縁起并資材帖﹄に、高さ7尺巾3尺5寸で、表が紫綾織り張り、裏面が縹︵はなだ‥青色︶の裂地︵きれじ︶張りであったと記録されている。木製の格子を骨組みとして、両面に絹布を張り衝立て状に台脚の上に立てたものである。一般的には軽い杉板を台脚の上に立てた衝立てが、主流であった。平安時代の建具[編集]
寝殿造りと建具[編集]
平安時代の貴族の邸宅の典型は、寝殿造りである。 寝殿造りの建物は、現存していないが、京都御所の紫宸殿と清涼殿は、平安時代後期の形式を再現しているという。 平安宮内裏の正殿である紫宸殿は、正面九間の母屋の四方に廂︵ひさし︶の間を設けた間取りであり、外部との仕切りの建具は四隅と北廂中央に妻戸を開く他、柱間に一枚の大きな蔀戸を設け、昼間は内側に釣り上げて開く。 妻戸とは、扉の事で、建物に対して、妻のような役割から妻戸という。紫宸殿の妻戸は、二枚の板を接ぎ合せ、裏桟の替わりに上下に端喰み︵はしばみ︶という細長い台形の横板を入れて板を固定したもので、手のこんだ作りとなっている。 蔀︵しとみ︶戸は、格子を組み間に板を挟む板戸で、水平に跳ね上げて開く。内部の仕切りとして、母屋と北廂の間の境に﹁賢聖の障子﹂を設け、母屋と西廂の間は壁で仕切られている。この障子は、今日の明かり障子ではなく、絹布を貼った可動式の嵌め込み式の板壁で室礼︵しつらい︶として用いられ、時に応じて設置されるものであった。絹布に賢聖を描いていたので、﹁賢聖の障子﹂の名がある。紫宸殿は、平安京の大内裏の正殿で、朝賀・公事を行なう所で、のち大礼も行なわれた。襖障子(ふすましょうじ)の誕生[編集]
詳細は「襖」を参照
清涼殿に有名な﹁荒海障子﹂があった。この唐風の異形の怪人を描いた墨絵の障子は、衝立て障子ではなく、引き違いの障子、すなわち襖障子であったと見られている。
﹃枕草子﹄にも
●﹁清涼殿の丑寅のすみの、北のへだてなる御障子は、荒海の絵、生きたる物どものおそろしげな・・・﹂
とある。
また江戸時代の﹃鳳闕見聞図説﹄には、明らかに引き違いの襖障子として、﹁荒海障子﹂が描かれている。この唐絵の裏面には、宇治の網代木に紅葉のかかった大和絵が描かれていた。
これが資料的に確かな、最古の引き違い戸の襖障子である。
この﹁荒海障子﹂すなわち、襖建具の誕生の年代を、各資料から推測してみたい。
﹃拾遣集﹄に
●﹁寛和二年︵986年︶清涼殿のみしょうじに網代書けるところ・・・﹂
とあり、九八六年以前から、存在していた事になる。
九七九年成立の﹃落窪物語﹄に
●﹁隔ての障子をあけて出づれば、閉すべき心もおぼつかず﹂
●﹁中隔ての障子をあけ給ふに﹂
などとあるから、へだての障子は襖障子と解釈できる。
この頃には、一般の貴族の邸宅にも、引き違いの襖障子があった事になり、清涼殿の、みしょうじすなわち﹁荒海障子﹂はこれ以前に存在していたと考えられる。
﹃歌仙家集本貫之集﹄の承平六年︵936年︶春の歌に
●﹁右大臣藤原仲平おやこ同じ所にすみ給ひける、へだての障子﹂
とある。これは間仕切りとしての障子の使用である。嵌め込み式の板戸よりも、引き違いの襖障子の方が自然である。これに従えば、九三六年以前に、引き違い襖障子が有ったことになる。
﹃扶桑略記﹄に仁和四年︵888年︶宇多天皇勅して、巨勢金岡︵こせのかなおか︶に弘仁年間︵810~823年︶以降の詩文にすぐれた儒者の影像を、御所の障子に描かせたとある。
御所南廂の東西の障子とあるが、衝立て障子であったか、襖障子であったかは定かではない。
巨勢金岡の経歴は不詳ながら、絵の達人で大和絵の創始者とされており、時の関白藤原基経の依頼で屏風に大和絵を描いている。
一方、紫宸殿の母屋と北廂の間の境に﹁賢聖の障子﹂があった事は前に述べた。
﹁賢聖の障子﹂の成立の確かな資料は、﹃日本紀略﹄延長七年︵929年︶の条に、
●﹁少内記 小野道風をして紫宸殿障子を賢聖像に改書せしむ。先年道風書く所なり﹂
とあり、この以前から存在していたことになる。
書き改めるには少なくとも十年以上の歳月を経て、顔料の劣化や色醒めがあったと考えられるから、延喜年間︵901~914年︶には作成されていた事は間違いない。
﹁賢聖の障子﹂は、嵌め込み式の板壁に絹布を張ったものである。
東西各四間の柱間ごとにそれぞれ四人ずつ合計三十二人の賢聖の像を描いたものであった。
そして、中央間と東西第二間の三ヶ所に﹁障子戸﹂が設けられていたという。
この﹁障子戸﹂が開閉式の障子の最初とみられているが、一説によると扉形式で、引き違い戸ではなかったともいう。しかしながら、室礼︵しつらい︶としての﹁賢聖の障子﹂は、取り外される事が前提の嵌め込み式である事を考えると、出入口として設けた﹁障子戸﹂が、固定式の扉であっては都合が悪い。
﹃江家次第﹄によると、
●﹁北御障子︵賢聖の障子︶は、近頃の慣行では、公事の日を除いて取り外している﹂
とある。可動式の︵取り外し可能な︶板壁の建具技術は、湿度の高い日本の風土から必然的に生み出された工夫ではあり、唐様式にはない実に革新的な建具技術であった。
敷居と鴨居にそれぞれ一本の樋︵溝︶を設け、鴨居の溝を敷居の溝よりも深く彫る事によって建具を落とし込み、必要に応じて取り外すことができるように工夫された。技術的には、固定式の壁や扉様式建築に比較し、革新的なものであった。
更に樋を二本彫り引き違いにする事は、技術論的には類似技術であり、革新的技術の応用に過ぎないと考えられる。このように技術論的に考察すれば、﹁賢聖の障子﹂と同時に立てた﹁障子戸﹂が引き違いの襖障子であったと考えられる。
﹃日本紀略﹄延長七年︵929年︶の条の、
●﹁紫宸殿障子を賢聖像に改書せしむ。﹂
の記述から、﹁賢聖の障子﹂と、同時に立てた﹁障子戸﹂すなわち襖建具の誕生の年代は、延喜年間︵901~914年︶であると推測される。
●﹁いまは昔、竹取りの翁といふものありけり。野山にまじりて、竹を取りつつ、よろづのことに使いけり。﹂ この竹取の翁が、かぐや姫を竹のなかから見つけだす所から物語は始まり、そののち、竹のなかより黄金を見つけること度重なり、だんだんと物豊かになり、ついに長者となって建てた邸宅のしつらいは、贅を尽くしたものとなった。 ●﹁うちうちのしつらいには いうべくもあらぬ綾織物に絵をかきて間まいに張りたり﹂ とある。﹁しつらい︵室礼、舗設︶﹂とは、元来晴れの儀式や請客饗宴の日に、寝殿の母屋や廂︵ひさし︶に調度を整え、飾りつける事をいう。 当初は、天皇の御座所を指したらしい。やがて、寝殿造りの貴族の邸宅にも、室礼が設けられるようになった。 ﹃竹取物語﹄の描写によれば、 ●﹁綾織物に絵をかきて間毎に張りたり﹂ とある。間毎つまり部屋ごとにとなると、間仕切りの障子と考えられ、母屋と廂の柱間の板壁だけとは考えにくい。 後世の作ながら、﹁竹取り物語図﹂や奈良絵本﹁竹取り物語﹂では、引き違いの襖や舞良戸などが描かれている。 大広間形式の寝殿造りの、内部空間を間仕切る建具の発明は、マルチパーパスの大きな内部空間から、特定の機能目的を備えた少空間への分離独立へ展開していく、大きな契機であり、寝殿造りの住宅の公と私の明確な分離に基づく、住まい方の変化をもたらした重大な建築様式の革新であった。 嵌め込み式の障子︵副障子︶と引き違いの障子とは、ほぼ同時期の発明と考えると、﹃竹取物語﹄の成立時にはすでに一部の上流階級の邸宅には、引き違いの襖があった事になる。 傍証ながら引き違いの襖障子の誕生年代は、仁和年間︵884~888年︶まで遡ることが可能と思われる。 ﹃万葉集﹄の中に、﹁衾‥ふすま﹂と﹁引き手﹂を懸け言葉に使用したと思われる柿本人麿の歌がある。 ●﹁衾道乎 引手乃山爾 妹乎還而 山往者 生跡毛無﹂ ︵ふすまみちを ひきてのやまに つまをかえして やまじをいけば いきたここちもなし︶ この歌は、人麿が亡き妻をこの地に葬って︵土に還して︶、山路を帰る時の侘しさはかなさを歌ったものであるという。 この歌を資料的に採用すれば、万葉集の成立は771年頃である。 人麿の活躍年代から推測して大宝律令︵701年︶制定の前後にこの歌が詠まれたとすると、その時代にごく限られた所、例えば御所の衾所︵ふすまどころ寝所︶などに﹁衾障子﹂があったと推測される。 このごく限られた所にしかなかった﹁衾障子﹂に憧れて、あえて歌に詠みこむ事をしたのではないかとも想像できる。しかしながら、この歌の解釈にはさまざまな異論もあるようで、襖障子の誕生を一気に百数十年も遡るのは、大変魅力的ではあるが、やや冒険的であるかも知れない。
物語の出できはじめと、建具[編集]
●﹁物語の出できはじめの親なる﹃竹取の翁﹄﹂ という表現で、﹃竹取物語﹄が歴史的に最初の物語文学である事が、﹃源氏物語﹄の中に語られている。﹃竹取物語﹄は、作者不詳で成立年代も未詳だが、900年頃より以前の成立とされている。﹃竹取物語﹄は、その形態は求婚物語であるが、その事は措く。●﹁いまは昔、竹取りの翁といふものありけり。野山にまじりて、竹を取りつつ、よろづのことに使いけり。﹂ この竹取の翁が、かぐや姫を竹のなかから見つけだす所から物語は始まり、そののち、竹のなかより黄金を見つけること度重なり、だんだんと物豊かになり、ついに長者となって建てた邸宅のしつらいは、贅を尽くしたものとなった。 ●﹁うちうちのしつらいには いうべくもあらぬ綾織物に絵をかきて間まいに張りたり﹂ とある。﹁しつらい︵室礼、舗設︶﹂とは、元来晴れの儀式や請客饗宴の日に、寝殿の母屋や廂︵ひさし︶に調度を整え、飾りつける事をいう。 当初は、天皇の御座所を指したらしい。やがて、寝殿造りの貴族の邸宅にも、室礼が設けられるようになった。 ﹃竹取物語﹄の描写によれば、 ●﹁綾織物に絵をかきて間毎に張りたり﹂ とある。間毎つまり部屋ごとにとなると、間仕切りの障子と考えられ、母屋と廂の柱間の板壁だけとは考えにくい。 後世の作ながら、﹁竹取り物語図﹂や奈良絵本﹁竹取り物語﹂では、引き違いの襖や舞良戸などが描かれている。 大広間形式の寝殿造りの、内部空間を間仕切る建具の発明は、マルチパーパスの大きな内部空間から、特定の機能目的を備えた少空間への分離独立へ展開していく、大きな契機であり、寝殿造りの住宅の公と私の明確な分離に基づく、住まい方の変化をもたらした重大な建築様式の革新であった。 嵌め込み式の障子︵副障子︶と引き違いの障子とは、ほぼ同時期の発明と考えると、﹃竹取物語﹄の成立時にはすでに一部の上流階級の邸宅には、引き違いの襖があった事になる。 傍証ながら引き違いの襖障子の誕生年代は、仁和年間︵884~888年︶まで遡ることが可能と思われる。 ﹃万葉集﹄の中に、﹁衾‥ふすま﹂と﹁引き手﹂を懸け言葉に使用したと思われる柿本人麿の歌がある。 ●﹁衾道乎 引手乃山爾 妹乎還而 山往者 生跡毛無﹂ ︵ふすまみちを ひきてのやまに つまをかえして やまじをいけば いきたここちもなし︶ この歌は、人麿が亡き妻をこの地に葬って︵土に還して︶、山路を帰る時の侘しさはかなさを歌ったものであるという。 この歌を資料的に採用すれば、万葉集の成立は771年頃である。 人麿の活躍年代から推測して大宝律令︵701年︶制定の前後にこの歌が詠まれたとすると、その時代にごく限られた所、例えば御所の衾所︵ふすまどころ寝所︶などに﹁衾障子﹂があったと推測される。 このごく限られた所にしかなかった﹁衾障子﹂に憧れて、あえて歌に詠みこむ事をしたのではないかとも想像できる。しかしながら、この歌の解釈にはさまざまな異論もあるようで、襖障子の誕生を一気に百数十年も遡るのは、大変魅力的ではあるが、やや冒険的であるかも知れない。
遣戸、舞良戸の誕生[編集]
﹃源氏物語﹄には、遣戸︵やりど︶という表現が出てくる。貴族の邸宅や寺院建築に﹁遣戸﹂が主として外回りの隔て建具として使用され始めたが、間仕切りとしても使用されていたようだ。 ﹃源氏物語絵巻﹄には、その﹁遣戸﹂が描かれている。敷居と鴨居の間に建てられた、引き違いの舞良戸である。﹁遣戸﹂﹁舞良戸﹂は、周囲の框に入子板を張り、舞良子︵桟︶を取り付けた板戸である。妻戸を軽量化した発展的形態と考えられる。軽量化された舞良戸は便利な建具として、さまざまな意匠が工夫され、開き戸や引き違い戸として多用されていった。舞良子︵桟︶は、片面又は両面に、横桟または縦桟として、等間隔や吹き寄せなど、さまざまな意匠を工夫して取り付けられた。 敷居と鴨居を設けて樋︵みぞ︶を彫った、可動式の板壁の発明が契機となり、建具技術の革新と応用発展が一気に開花し、引き違い戸の襖障子や遣戸を工夫発明していった。 遣戸という言葉は、それ自体が引戸の意味であるが、襖障子や明かり障子を意味する事はなく、引き違いの舞良戸を意味していたようである。 ふすま障子の当初の形態は、板戸に絹布を張り唐絵や大和絵を描いたものであったと考えられるが、建具の軽量化という技術課題のなかで、框に組子を設け両面に綾絹を張り、軽量化と室礼としての装飾の目的を達する襖建具が誕生したと考えられる。 一方遣戸は、外回りの隔て建具として使用され、妻戸を軽量化した発展的形態と考えられるが、開閉自在の遣戸の誕生は、湿度の高い日本の風土にとって不向きな塗り込めの土壁に代わる革新的建具であった。明障子(あかりしょうじ)の誕生[編集]
詳細は「障子」を参照
﹁格子﹂は古文書では、﹁隔子﹂と書かれている事が多く、元慶七年︵884年︶河内国観心寺縁起資財帳によると、如法堂の正面に﹁隔子戸﹂四具が建てられていたと記録されている。
戸とあるから、蔀ではなく大陸様式の開き戸であったと考えられる。
寺院建築の正面には扉形式の格子戸が多用されるようになり、さらに﹃多武峰略記﹄によると、天禄三年に建立された双堂形式の講堂の内陣の正面に格子戸五間を建て込み、内陣と外陣の間仕切りに格子戸三具を建て込んでいた。
平安時代後期になると、引き違いの格子戸が広く使用されるようになった。﹃源氏物語絵巻﹄﹃年中行事絵巻﹄などには、黒漆塗りの格子戸を引き違いに使ったり、嵌め込み式に建て込んだ間仕切りの様子が描かれている。天喜元年︵1053年︶藤原頼通が建立した、平等院鳳凰堂は四周の開口部には扉を設けているが、その内側に格子遣戸もあわせ用いている。このような格子遣戸の用い方は、隔ての機能を果たしながら、採光や通風を得る事ができる。機能としては、明障子の全身ともいうべきものである。
明障子の誕生は、平安末期のころである。六波羅の地には平家一門の邸宅が、甍を競って建ち並んでいた。なかでも平清盛の六波羅泉殿は、その権勢を象徴する豪壮な邸宅であったという。
その復元図によると、従来の寝殿造りとはかなり異なり、間仕切りを多用した機能的合理的工夫がみられる。
その中でも、明障子の使用は画期的な創意工夫であった。室外との隔ては、従来壁面を除き蔀戸や舞良戸が主体であり、開放すると雨風を防ぐ事ができず、誠に不便な建具であった。採光と隔ての機能を果たすため、簾や格子などが使用されていたが、冬期は誠に凌ぎにくいことであった。
京都は盆地でことに冬期の底冷えはつとに有名である。室内では、屏風をめぐらし、几帳で囲み火鉢を抱え込んだと思われる。隔てと採光の機能を充分に果たし、しかも寒風を防ぐ新しい建具として、明障子が誕生した。しかし、明障子のみでは風雨には耐えられないため、舞良戸、蔀、格子などと併せて用いられた。
六波羅泉殿の寝殿北廂の、外回りに明障子が三間にわたって使用されていた。
﹃山槐記﹄には、この寝殿や広廂に﹁明障子を撤去する﹂とか﹁明障子を立つ﹂などの記述もある。平清盛が願文を添えて長寛二年︵1164年︶厳島神社に奉納した﹃平家納経﹄図録には、僧侶の庵室に明障子が描がれている。
この時代の明障子の構造は、四周に框を組み、太い竪桟二本に横桟を四本わたし、片面に絹または薄紙を貼ったものであったという。
寝殿造りの室礼を記した古文書の中に、
●﹁柱をたてまわして鴨居を置きてのち、塗子︵ぬりこ︶の明障子を間ごとに覆う﹂
とある。﹃春日権現験絵日記﹄にも、黒塗りの明障子が描かれている。また、襖障子と同じように、引手に総が付けられている。明障子の歴史的発展の過程で、漆の塗子の縁が寝殿造りに使用され、襖障子と同様な室礼としての位置付けがあった事は、興味深いことである。
框に細い組子骨を用いる現在のような明障子は、鎌倉時代の絵巻物に多く登場するようになるが、多少の時間と技術改良を必要とした。明障子は壊れやすく、現存するものは極めて少ない。
南北朝期康歴二年︵1380年︶の東寺西院大師堂の再建当時のものとされている明障子が、最古の明障子と言われている。上下の框と桟も同じような幅でできており、縦桟と横桟を交互に編み付ける地獄組子となっており、また桟の見付けと見込みもほぼ同じ寸法でできている。
なお一本の溝に二枚の明障子を引き違いにするという、子持ち障子というものもある。元興寺の鎌倉時代の禅室の明障子が、一本の溝に二枚の明障子を引き違いにしている。当時のみで深い溝を彫るのは、相当の手間であったであろう。二本の溝を彫るよりも、幅の広い溝を一本彫るほうがわずかに簡単であったのであろうか。禅宗様の建築であることから、技巧的な遊びと考えた方が妥当と思われる。
一本の溝に二本の障子を入れても、そのままではどうにもならない。そこで召合わせの縦框はそのままにして柱側の縦框をほぼ溝幅に合わせて作ってある。こうすると明障子は外れることなく、引き違うことができる。ちょっとした工夫である。子持ち障子は、禅宗方丈建築の最古の遺構である、東福寺竜吟庵方丈にも使われている。ここでは、一本の溝に四本の明障子が立てられている。中央の二枚が上記の方法で引き分けられ、外の二枚は幅が狭く、開閉のできない嵌め殺しとなっている。禅宗様の建築では、随所に意匠の工夫や技工の斬新さが見いだされる。