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この項目では、大相撲の立行司について説明しています。俳優については「木村庄之助 (俳優)」をご覧ください。 |
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木村 庄之助︵きむら しょうのすけ︶は、大相撲に於ける立行司の名称。行司の最高位で、相撲の番付に例えると東正横綱に相当する。2015年3月場所限りで37代目が引退し、およそ9年間襲名者が不在であったが、2024年1月場所より41代式守伊之助が38代目を襲名した。
36代庄之助。木村庄之助の軍配の房色・直垂の菊綴は総紫と定められている。2012年名古屋場所
現在、木村庄之助を襲名するための必要条件は、式守伊之助を経たのちに先代の庄之助が引退して空位になった場合である。24代以降で庄之助を襲名した者は、全員が伊之助を経たのちに庄之助を襲名している[注釈 1]。このため庄之助と伊之助が同時に引退した場合、次の格の行司はいきなり庄之助を襲名することはできず、一時的に伊之助を襲名したのちに次場所︵以降︶で庄之助を襲名することができるため、庄之助空位の場所が発生する[注釈 2]。この事例は2006年3月場所で発生した。伊之助から庄之助を継承した初めての事例は10代伊之助であった17代庄之助で、1921年5月場所の5日目に横綱大錦 - 前頭5枚目鞍ヶ嶽戦を差し違えた責任を取って突然廃業した。当時の12代伊之助は18代庄之助を襲名せずに当場所限りで引退して立行司が空席となり、翌1922年1月場所で初代木村朝之助が伊之助を経ずに18代庄之助を襲名した。13代伊之助はのちに19代庄之助となる5代式守与太夫が襲名した。ほかに23代庄之助も伊之助を経ずに庄之助を襲名した。
6代庄之助より13代庄之助まで﹁木村庄之助正武﹂を名乗った。継代数は、6代庄之助が3代水増して自ら9代庄之助を名乗ったとする説がある。
江戸時代から年寄の資格を持ち、歴史上﹁木村庄之助部屋﹂として相撲部屋を持った上で弟子として力士を養成した庄之助がいたこともあったが、行司停年制を実施する前の1958年限りで年寄名跡から除かれている。
軍配に紫の房、明治以後は装束である直垂に紫の菊綴じ、差し違えた際は切腹する覚悟の意味で左腰に短刀を帯刀し、右腰に印籠を下げる。﹁ゆずり団扇﹂と呼ばれる軍配は代々受け継がれており2本ある。1本は1面に﹁知進知退 随時出処﹂、1面に﹁冬則龍潜 夏則鳳擧﹂と記されており13代庄之助以来のものである。1本は白檀製で1面に牡丹、1面に唐獅子の彫金が施され、1971年1月に宝塚市の清荒神清澄寺から贈られた。
﹁軍配は右手﹂と継承されているが、現存する錦絵によると、7代とされる庄之助は左利きのために左手で軍配を持っている。
本場所の本割では1日に結びの1番のみを裁く慣例だが、千秋楽の優勝決定戦を庄之助が裁くときは1日2番を担当している。庄之助は1番限りの慣例から優勝決定戦を伊之助が裁いた時代もあるが、行司溜まりに控えており、出場力士が多数で番数が多い場合は、2番ずつを目安に交代して土俵に上がり裁いた。伊之助不在の場合は最初から庄之助が裁いた。立行司が3人いた時代は木村玉之助が裁いたこともあり、副立行司が存在した時代はこれが受け持ったこともある。幕内最高優勝の決定戦で、出場力士の最高位が横綱・大関の場合に立行司が裁くが、現在はその場合、庄之助と伊之助のどちらが裁くかは事前に定めてもう一方が控えとなる。
番付上庄之助と伊之助が揃っている状態から先代の庄之助が引退しても、伊之助は必ずしも翌場所に庄之助に昇格できるとは限らず、行司としての実績や年齢などの要素によっては、庄之助が空位の場所が発生することもある。
37代庄之助が2015年3月場所で停年退職後、次期庄之助になるはずだった40代伊之助が、軍配差し違えなどの土俵上でのミスや不祥事などにより結局庄之助になれないまま辞職したことや、現在の伊之助の41代伊之助も体調不良での休場があったこと、軍配差し違えなどの土俵上でのミスを多く経験していることなどもあり、大相撲史上最長となる8年以上にわたり庄之助不在状態が続くことになった。2023年9月28日に行われた日本相撲協会理事会で、2024年1月場所より41代伊之助が38代庄之助を襲名することが決まったが、庄之助襲名が遅れた理由として﹁裁きが安定しないことが考慮された﹂と指摘する報道がある[1]。
木村庄之助の代々[編集]
大阪行司[編集]
木村庄之助の記録[編集]
代 |
記録
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6代 |
江戸相撲の現存最古の番付が発行された当時の庄之助。木村庄之助正武を名乗り、以来幕末までの歴代の諱は「正武」と称した。
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7代 |
在位最年長(29年)。珍しい左利きで軍配を持つ。
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8代 |
2代木村瀬平を襲名。1827年に先祖書を幕府に提出。
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9代 |
引退後に復帰して10代庄之助として再勤。
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13代 |
年寄・木村松翁を襲名。
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15代 |
年寄・木村松翁を襲名。
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16代 |
初めて木村・式守両家を名乗る。晩年は中風症のため手が震え「ブル庄」の異名をとった。
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17代 |
初めて式守伊之助より継承。差し違いの責任を取り廃業(「概要」の項参照)。
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18代 |
17代目の突然の廃業、12代伊之助の引退が重なり、伊之助を経ず襲名。能筆で「顔触れ」は名人級と評される。
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20代 |
唯一「松翁」の名誉尊号を番付上に冠した。
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21代 |
12代立田川を襲名。玉之助(当時は立行司)襲名からわずか2年半余りで庄之助襲名。
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22代 |
木村庄之助として行司停年制初の停年退職。稀にみる長寿(104歳で死去)。
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23代 |
式守伊之助を経験せず襲名。稀にみる長寿(96歳で死去)。
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24代 |
停年後は神官職となる。
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25代 |
ストライキ主導と差し違いの責任を取り廃業。(詳しくはこちらを参照)。
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27代 |
史上最年少の51歳で襲名。在位最多場所(79場所)1185番を裁く。稀にみる長寿(97歳で死去)。
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28代 |
平成の名行司。
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32代 |
在位1場所は行司定年制実施後では最短。
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38代 |
41代伊之助を襲名していた当時、庄之助は空位であったが、差し違えや転落などのハプニングが多かった影響で5年間伊之助に留まる。 停年退職直前の1月場所に当たる2024年1月場所で庄之助襲名。
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木村庄之助として裁いた時代についての記録[編集]
代 |
記録
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16代 |
「梅・常陸時代」全盛期の名行司。
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20代 |
「双葉山時代」全盛期を裁いた名行司。
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22代 |
「栃・若時代」全盛期を裁く。
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23代 |
「柏・鵬時代」初期を裁く。
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24代 |
「柏・鵬時代」全盛期の名勝負を裁く。
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25代 |
「柏・鵬時代」後期から「北・玉時代」を裁く。
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26代 |
「輪・湖時代」初期を裁く。
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27代 |
「輪・湖時代」全盛期から「千代の富士時代」を裁く。
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28代 |
「曙・貴時代」初期を裁く。
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29代 |
四横綱(曙、貴乃花、3代若乃花、武蔵丸)時代を裁く。
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(一)^ 現行制度でも、庄之助になれなかった伊之助もおり、24代庄之助以降では、伊之助で停年退職した24代・26代・27代・29代・30代・34代と、不祥事を起こして退職した40代が該当する。
(二)^ 呼出の場合は、立呼出と副立呼出でそれに相当する状況が発生した場合、立呼出への昇格には副立呼出の経験は必ずしも必要ではないため、三役呼出からいきなり立呼出に昇格することが起こり得る。
(三)^ 番付は3月場所まで
参考文献[編集]
33代木村庄之助・根間弘海『大相撲と歩んだ行司人生51年 -行司に関する用語、規定、番付等の資料付き-』英宝社、2006年。
関連項目[編集]
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木村家 |
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式守家 |
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「現在襲名中の名跡」ではカッコ内の代数は現在の代数を示し、「現在襲名されていない名跡」ではカッコ内の代数はこれまでで最後の代数、カッコ内の年はこの年以降襲名されていないことを示す。 |