清水六兵衛
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清水 六兵衛︵きよみず ろくべえ︶は、江戸時代中期以来の清水焼陶工の名跡。
初代[編集]
︵元文3年︵1738年︶ - 寛政11年︵1799年︶3月︶ 摂津国東五百住村︵現・高槻市︶生まれ。幼名は古藤︵ことう︶栗太郎。寛延年間に京に出て清水焼の海老屋清兵衛に師事し、1771年︵明和8年︶独立して五条坂建仁寺町に窯を開き、名を六兵衛と改める。 妙法院宮の御庭焼に黒楽茶碗を供して六目印を受け、天竜寺の桂洲和尚より六角内に清字の印を受ける。土焼風の抹茶器、置物などを製作。号は愚斎。2代[編集]
︵寛政2年︵1790年︶ - 万延元年︵1860年︶3月︶ 初代の子。文化8年︵1811年︶2代目を襲名。白磁器を焼く。号は静斎。3代[編集]
︵文政5年9月1日︵1822年10月15日︶ - 明治16年︵1883年︶6月4日︶ 2代の次男。1853年︵嘉永6年︶、京都小御所に大雪見灯籠二基を焼成する。号は祥雲。 1868年頃、古藤六兵衛を清水︵しみず︶六兵衛に改める。 海外にも積極的に出品し賞を受賞。4代[編集]
︵嘉永元年︵1848年︶ - 大正9年︵1920年︶11月︶ 3代の長男。のち清水六居。東京国立博物館蔵大灯籠を制作。号は祥鱗。 三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBEのパフォーマー山下健二郎は、玄孫にあたる[1]。5代[編集]
詳細は「清水六和」を参照
︵1875年3月6日 - 1959年8月1日︶
4代の長男。のち清水六和。清水の読みを﹁きよみず﹂に改める。
6代[編集]
︵1901年9月13日 - 1980年4月17日︶ 5代の長男。名は清水正太郎。 ●1920年︵大正9年︶ - 京都市立美術工芸学校絵画科卒業。 ●1923年︵大正12年︶ - 京都市立絵画専門学校︵現‥京都市立芸術大学︶日本画科卒業[2]。 1931年、1934年に帝展で特選。 ●1945年︵昭和20年︶ - 6代を襲名。 ●1948年︵昭和23年︶ - 京都陶芸家クラブを結成。 ●1956年︵昭和31年︶ - ﹁玄窯叢花瓶﹂で日本芸術院賞受賞 ●1962年︵昭和37年︶ - 日本芸術院会員 ●1976年︵昭和51年︶ - 文化功労者 ●1980年︵昭和55年︶ - 日本橋髙島屋で開かれた﹁清水六兵衛歴代名陶展﹂の際に挨拶をしていたところ倒れ、死去。 豪華絢爛な作風で知られる。1976年の文化功労者顕彰時点では、﹁伝統芸術の継承とその上に立った創造﹂という課題を達成したとの評価を受けている[3]。7代[編集]
詳細は「清水九兵衛」を参照
︵1922年5月15日 - 2006年7月21日︶
6代の長女と結婚後、養嗣子となる。東京芸術大学美術学部鋳金科卒業。
1967年から1987年まで作陶を中止、清水九兵衛を名乗り彫刻家として活躍、“Affinity”︵親和︶と題するシリーズ作品が著名、受賞多数。
1981年に7代目を襲名するも作陶再開は1987年。
8代[編集]
︵1954年 - ︶ 7代の長男。名は清水柾博。2000年に8代を襲名。 京都造形芸術大学教授脚注[編集]
- ^ “三代目JSB・山下健二郎、偉大な先祖が遺した作品の“意外すぎる使い道”とは?ELLYは家族との複雑だった時代を告白”. モデルプレス (2016年3月29日). 2018年10月17日閲覧。
- ^ 清水六兵衛『出身県別 現代人物事典 西日本版』p380 サン・データ・システム 1980年
- ^ 「日本映画の荒廃に責任を感じます」『朝日新聞』1976年(昭和51年)10月26日夕刊、3版、8面
外部リンク[編集]