「ウォルト・ディズニー」の版間の差分
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{{加筆|ミッキーマウス登場以抜きや配給会社の変遷、「シリー・シンフォニーシリーズ」や「白雪姫」など他のアニメ作品を生み出す過程について|date=2017年2月}} |
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| 愛称 = ディズニー |
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| 民族 = [[アイルランド系アメリカ人]] |
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| 身長 = 175[[センチメートル|cm]] |
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| 生年 = 1901 |
| 生年 = 1901 |
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| 生月 = 12 |
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| 没月 = 12 |
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| 没日 = 15 |
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| 職業 = [[アニメーター]]、[[映画監督]]、[[漫画家]]、[[プロデューサー]]、[[脚本家]]<br>[[実業家]] |
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| ジャンル = |
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| 活動期間 = [[1920年]] - [[1966年]] |
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| 配偶者 = {{仮リンク|リリアン・バウンズ|en|Lillian Disney}} |
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| 著名な家族 = 兄:[[ロイ・O・ディズニー]]<br/>長女:[[ダイアン・ディズニー・ミラー]] |
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([[ディズニー家]]を参照) |
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| 事務所 = |
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| アカデミー賞 = '''[[アカデミー短編アニメ賞|短編アニメ賞]]'''<br />[[第4回アカデミー賞|1931年]]『[[花と木]]』<br />[[第6回アカデミー賞|1933年]]『[[三匹の子ぶた]]』<br />[[第7回アカデミー賞|1934年]]『[[うさぎとかめ]]』<br />[[第8回アカデミー賞|1935年]]『[[三匹の親なし子ねこ]]』<br />[[第9回アカデミー賞|1936年]]『[[田舎の |
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー短編アニメ賞|短編アニメ賞]]'''<br />[[第4回アカデミー賞|1931年]]『[[花と木]]』<br />[[第6回アカデミー賞|1933年]]『[[三匹の子ぶた (1933年の映画)|三匹の子ぶた]]』<br />[[第7回アカデミー賞|1934年]]『[[うさぎとかめ (1935年の映画)|うさぎとかめ]]』<br />[[第8回アカデミー賞|1935年]]『[[三匹の親なし子ねこ]]』<br />[[第9回アカデミー賞|1936年]]『[[田舎のネズミ (1936年の映画)|田舎のネズミ]]』<br />[[第10回アカデミー賞|1937年]]『[[風車小屋のシンフォニー]]』<br />[[第11回アカデミー賞|1938年]]『[[牡牛のフェルディナンド]]』<br />[[第12回アカデミー賞|1939年]]『[[みにくいあひるの子 (1939年の映画)|みにくいあひるの子]]』<br />[[第14回アカデミー賞|1941年]]『[[プルートの悩み]]』<br />[[第15回アカデミー賞|1942年]]『[[総統の顔]]』<br />[[第26回アカデミー賞|1953年]]『[[プカドン交響楽]]』<br />[[第41回アカデミー賞|1968年]]『[[プーさんと大あらし]]』<br />'''[[アカデミー短編映画賞|短編映画賞]]'''<br />[[第31回アカデミー賞|1958年]]『[[グランド・キャニオン (映画)|グランド・キャニオン]]』<br />'''[[アカデミー短編映画賞|短編二巻賞]]'''<br />[[第21回アカデミー賞|1948年]]『[[:en:Seal Island (film)|アザラシの島]]』<br />[[第23回アカデミー賞|1950年]]『[[:en:In Beaver Valley|ビーバーの谷]]』<br />[[第24回アカデミー賞|1951年]]『[[:en:Nature's Half Acre|大自然の片隅]]』<br />[[第25回アカデミー賞|1952年]]『[[水鳥の生態]]』<br />1953年『[[:en:Bear Country (film)|熊の楽園]]』<br />'''[[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞|長編ドキュメンタリー映画賞]]'''<br />1953年『[[砂漠は生きている]]』<br />[[第27回アカデミー賞|1954年]]『[[滅びゆく大草原]]』<br />'''[[アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞|短編ドキュメンタリー映画賞]]'''<br />1953年『[[民族と自然/アラスカのエキスモー]]』<br />[[第28回アカデミー賞|1955年]]『[[民族と自然/北極圏の人々]]』<br />'''[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]'''<br />[[第5回アカデミー賞|1932年]] 長年の功績に対して<br />1938年『[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]]』の製作に対して<br />1941年『[[ファンタジア (映画)|ファンタジア]]』の製作に対して<br />'''[[アービング・G・タルバーグ賞]]'''<br />1941年 長年に渡るアニメ映画製作への功績に対して |
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| ゴールデングローブ賞 = '''特別賞'''<br/>[[第5回ゴールデングローブ賞|1947年]]『[[バンビ (映画)|バンビ]]』<br/>[[第11回ゴールデングローブ賞|1953年]]『砂漠は生きている』<br/>'''[[セシル・B・デミル賞]]'''<br />[[第10回ゴールデングローブ賞|1952年]] |
| ゴールデングローブ賞 = '''特別賞'''<br/>[[第5回ゴールデングローブ賞|1947年]]『[[バンビ (映画)|バンビ]]』<br/>[[第11回ゴールデングローブ賞|1953年]]『砂漠は生きている』<br/>'''[[セシル・B・デミル賞]]'''<br />[[第10回ゴールデングローブ賞|1952年]] |
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| セザール賞 = '''名誉賞'''<br />[[1978年]] |
| セザール賞 = '''名誉賞'''<br />[[1978年]] |
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| カンヌ国際映画祭 = '''審査員特別賞'''<br />[[第6回カンヌ国際映画祭|1953年]] アニメ映画の革命に対して |
| カンヌ国際映画祭 = '''審査員特別賞'''<br />[[第6回カンヌ国際映画祭|1953年]] アニメ映画の革命に対して |
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| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[ヴェネツィア国際映画祭 審査員特別賞|審査員特別賞]]'''<br />[[1950年]]『[[シンデレラ (1950年の映画)|シンデレラ]]』<br />'''[[国際賞]]'''<br />[[1948年]]『[[メロディ・タイム]]』<br />'''芸術メダル'''<br />[[1938年]]『白雪姫』<br />'''アニメーション賞'''<br />[[1934年]]『[[楽しい復活祭]]』<br />[[1935年]]『[[ミッキーの大演奏会]]』<br />[[1936年]]『[[誰がコック・ロビンを殺したの?]]』 |
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[ヴェネツィア国際映画祭 審査員特別賞|審査員特別賞]]'''<br />[[1950年]]『[[シンデレラ (1950年の映画)|シンデレラ]]』<br />'''[[国際賞]]'''<br />[[1948年]]『[[メロディ・タイム]]』<br />'''芸術メダル'''<br />[[1938年]]『白雪姫』<br />'''アニメーション賞'''<br />[[1934年]]『[[楽しい復活祭]]』<br />[[1935年]]『[[ミッキーの大演奏会]]』<br />[[1936年]]『[[誰がコック・ロビンを殺したの?]]』 |
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| ベルリン国際映画祭 = '''[[金熊賞]]'''<br>[[1951年]]『 |
| ベルリン国際映画祭 = '''[[金熊賞]]'''<br>[[1951年]]『ビーバーの谷』<br>'''ベルリン市政府特別賞'''<br/>[[第4回ベルリン国際映画祭|1954年]] |
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| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''特別賞'''<br />[[第6回ニューヨーク映画批評家協会賞|1940年]]『ファンタジア』 |
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''特別賞'''<br />[[第6回ニューヨーク映画批評家協会賞|1940年]]『ファンタジア』 |
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| エミー賞 = '''プロデューサー賞(録画番組部門)'''<br />[[1956年]]『[[ディズニーランド (テレビ番組)|ディズニーランド]]』 |
| エミー賞 = '''プロデューサー賞(録画番組部門)'''<br />[[1956年]]『[[ディズニーランド (テレビ番組)|ディズニーランド]]』 |
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| 公式サイト = https://www.disney.co.jp/ |
| 公式サイト = https://www.disney.co.jp/ |
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| 主な作品 = [[ディズニー作品]]を参照 |
| 主な作品 = [[ディズニー作品]]を参照 |
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| 署名 = Walt Disney 1942 signature.svg |
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{{Portal ディズニー}} |
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'''ウォルト・ディズニー'''(Walt Disney、[[1901年]][[12月5日]] - [[1966年]][[12月15日]])は、[[アメリカ合衆国]]・[[イリノイ州]][[シカゴ]]に生まれた[[アニメーター]]、[[プロデューサー]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[漫画家]]、[[声優]]、[[実業家]]、[[エンターテイナー]]。 |
'''ウォルト・ディズニー'''(Walt Disney、[[1901年]][[12月5日]] - [[1966年]][[12月15日]])は、[[アメリカ合衆国]]・[[イリノイ州]][[シカゴ]]に生まれた[[アニメーション]][[作家]]、[[アニメーター]]、[[プロデューサー]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[漫画家]]、[[声優]]、[[実業家]]、[[エンターテイナー]]。 |
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[[ファイル:Walt Disney 1942 signature.svg|right|thumb|180px|ウォルト・ディズニーのサイン]] |
[[ファイル:Walt Disney 1942 signature.svg|right|thumb|180px|ウォルト・ディズニーのサイン]] |
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世界的に有名な[[アニメーション]][[キャラクター]]「[[ミッキーマウス]]」をはじめとするキャラクターの生みの親で、『[[ディズニーランド|ディズニーリゾート]]』の創立者であ |
世界的に有名な[[アニメーション]][[キャラクター]]「[[ミッキーマウス]]」をはじめとするキャラクターの生みの親で、『[[ディズニーランド|ディズニーリゾート]]』の創立者である。兄の[[ロイ・O・ディズニー]]と共同で設立した[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]は数々の倒産、失敗を繰り返すも、350億ドル以上の収入を持つ国際的な大企業に発展した。 |
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本名は'''ウォルター・イライアス・ディズニー'''︵Walter Elias Disney︶。一族は[[アイルランド]]からの移民であり、姓の﹁ディズニー﹂︵Disney︶は元々﹁d'Isigny﹂と綴られ、[[フランス]]の[[ノルマンディー]]地方の[[カルヴァドス県]]の{{仮リンク|イ |
本名は'''ウォルター・イライアス・ディズニー'''︵Walter Elias Disney︶。一族は[[アイルランド]]からの移民であり、姓の﹁ディズニー﹂︵Disney︶は元々﹁d'Isigny﹂と綴られ、[[フランス]]の[[ノルマンディー]]地方の[[カルヴァドス県]]の{{仮リンク|イジニー=シュル=メール|fr|Isigny-sur-Mer}}から11世紀に[[イギリス]]やアイルランドに渡来したノルマン人の末裔であることに由来し、後に英語風に直され﹁ディズニー﹂となった。﹁イライアス﹂は父名。[[共和党 (アメリカ)|共和党]]を支持し[[右派]]として知られていた。更に、自費で ﹃[[空軍力の勝利]]﹄ などの[[極右]]的なプロパガンダ映画を多数制作しており、虐殺のきっかけを作っていたと近年非難されている<ref>{{Cite web |title=Opinion {{!}} Disney needs to teach people about its racist cartoons, not hide them away |url=https://www.nbcnews.com/think/opinion/disney-s-racist-cartoons-won-t-just-stay-hidden-vault-ncna998216 |website=NBC News |access-date=2023-05-09 |language=en}}</ref>。
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
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{{See also|ディズニー家}} |
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[[ユニオン・パシフィック鉄道]]の鉄道員でカナダ生まれのイライアス・ディズニーと、ドイツ人とイギリス人の血を引くフローラ・コールの4番目の子としてシカゴで生まれた。父イライアスは元々[[カリフォルニア州]]で金鉱を探して暮らしていたが、妻のフローラのために定職を求めてカンザスや[[フロリダ州]]に移り、後に仕事の関係で[[イリノイ州]]シカゴへと移住していた。しかしウォルトが幼い時に一家は叔父のロバート・ディズニーの住む[[ミズーリ州]]マーセリーンへ更に引っ越して農業を始めたので、結局の所はミズーリ州で少年期を過ごす事になった。
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[[ユニオン・パシフィック鉄道]]の鉄道員でカナダ生まれのイライアス・ディズニーと、ドイツ人とイギリス人の血を引くフローラ・コールの4番目の子としてシカゴで生まれた。父イライアスは元々[[カリフォルニア州]]で金鉱を探して暮らしていたが、妻のフローラのために定職を求めてカンザスや[[フロリダ州]]に移り、後に仕事の関係で[[イリノイ州]]シカゴへと移住していた。しかしウォルトが幼い時に一家は叔父のロバート・ディズニーの住む[[ミズーリ州]]マーセリーンへ更に引っ越して農業を始めたので、結局の所はミズーリ州で少年期を過ごす事になった。
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[[サラエボ事件]]を切っ掛けに[[第一次世界大戦]]が勃発、アメリカが未曾有の大戦争に参戦すると、愛国心に駆られたウォルトは高校と美術学校を退学し、陸軍に志願した(兄のロイも同様に志願して兵士となっている)。実はこの時ウォルトは16歳であり、軍に志願するには年齢が1歳足らなかったが、受付の列に並んでいる途中でこっそりとペンで生年月日を書き換えて誤魔化した。しかし兄と違い若年であったために軍に説得され、兵士としての勤務の代わりに、[[赤十字社]]の[[衛生兵]]として負傷した兵士の治療や輸送に従事した。同じ衛生隊には[[マクドナルド]]の創業者として知られる[[レイ・クロック]]も居た。大戦終結時、廃墟となった[[フランス]]に居たウォルトは、一年振りに故郷のアメリカに帰国した。 |
[[サラエボ事件]]を切っ掛けに[[第一次世界大戦]]が勃発、アメリカが未曾有の大戦争に参戦すると、愛国心に駆られたウォルトは高校と美術学校を退学し、陸軍に志願した(兄のロイも同様に志願して兵士となっている)。実はこの時ウォルトは16歳であり、軍に志願するには年齢が1歳足らなかったが、受付の列に並んでいる途中でこっそりとペンで生年月日を書き換えて誤魔化した。しかし兄と違い若年であったために軍に説得され、兵士としての勤務の代わりに、[[赤十字社]]の[[衛生兵]]として負傷した兵士の治療や輸送に従事した。同じ衛生隊には[[マクドナルド]]の創業者として知られる[[レイ・クロック]]も居た。大戦終結時、廃墟となった[[フランス]]に居たウォルトは、一年振りに故郷のアメリカに帰国した。 |
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[[File:Walt Disney 1919.jpg|thumb|1919年、従軍中のウォルト]] |
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帰国後、父の経営する工場以外で仕事を見つける事を望んだウォルトは家を出て、単身カンザスシティーへ戻った。漫画家としての活躍を目指したウォルトは、取りあえず新聞で漫画を書く仕事を請け負った。だが当時は一介の新人に過ぎないウォルトへの仕事の依頼は多くはなく、成功どころか日々の生活にも困る苦しい時代を過ごしていた。見かねた兄のロイ(地元銀行の職員として働いていた)が知人に頼み、ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオでの広告デザインの仕事をウォルトに紹介した。ウォルトはここで生涯の友人となる[[アブ・アイワークス]]と知り合った。アイワークスとウォルトは翌年にアート・スタジオから契約更新を打ち切られて失業すると、二人で新しい創作活動を始める計画を立てた。 |
帰国後、父の経営する工場以外で仕事を見つける事を望んだウォルトは家を出て、単身カンザスシティーへ戻った。漫画家としての活躍を目指したウォルトは、取りあえず新聞で漫画を書く仕事を請け負った。だが当時は一介の新人に過ぎないウォルトへの仕事の依頼は多くはなく、成功どころか日々の生活にも困る苦しい時代を過ごしていた。見かねた兄のロイ(地元銀行の職員として働いていた)が知人に頼み、ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオでの広告デザインの仕事をウォルトに紹介した。ウォルトはここで生涯の友人となる[[アブ・アイワークス]]と知り合った。アイワークスとウォルトは翌年にアート・スタジオから契約更新を打ち切られて失業すると、二人で新しい創作活動を始める計画を立てた。 |
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[[ファイル:Walt_Disney_1935.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|ウォルト・ディズニー(1935年)]] |
[[ファイル:Walt_Disney_1935.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|ウォルト・ディズニー(1935年)]] |
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[[ファイル:Walt Disney Molina Campos.jpg|300px|thumb|[[モリナ・カンポス]]とウォルト([[1941年]])]] |
[[ファイル:Walt Disney Molina Campos.jpg|300px|thumb|[[モリナ・カンポス]]とウォルト([[1941年]])]] |
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ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共にカンザス時代に一本だけ制作した「アリス |
ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共にカンザス時代に一本だけ制作した「アリス・コメディ」シリーズの続編商品を販売する会社「ディズニー・ブラザース・カートゥーン・スタジオ」(後のウォルト・ディズニー・カンパニー)を興した。事業の過程で[[アリス・コメディ|アリス・コメディシリーズ]]のアニメを再度制作する機会を得たウォルトは以前の様にアニメーター仲間を集めた。そこには、Laugh-O-Gram Studio時代のスタッフだけでなく、[[バート・ジレット]]、[[フリッツ・フレレング]]といった新人アニメーターを雇った。ディズニー・ブラザース・カートゥーン・スタジオ社はアニメ製作会社へと転進した。これが実質的な「ディズニー社」の設立であると考えられ、ロサンゼルス市ダウンタウンの北側:シルバーレーク地区ハイペリオン通りに開設された制作スタジオは1939年のバーバンクへの移転による閉鎖までディズニーアニメを世に送り出し続けた。 |
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少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜた﹁アリス・コメディシリーズ﹂は人気を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗っていった。[[1925年]]、会社の従業員だったリリアン・バウンズ︵[[:en:Lillian Disney|Lillian Bounds]]︶と結婚し流産を経て実娘の[[ダイアン・ディズニー・ミラー|ダイアン]]︵Diane︶を儲けた後に、養女のシャロン︵Sharon︶を迎え、忙しい生活を送りつつも、父親に愛されなかった反動もあり︵後年、長期の南米旅行中ということで、彼は父親の葬儀にも出席しなかった︶二人の娘を溺愛しながら育てた。
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少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜた﹁アリス・コメディシリーズ﹂は人気を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗っていった。[[1925年]]、会社の従業員だったリリアン・バウンズ︵[[:en:Lillian Disney|Lillian Bounds]]︶と結婚し流産を経て実娘の[[ダイアン・ディズニー・ミラー|ダイアン]]︵Diane︶を儲けた後に、養女のシャロン︵Sharon︶を迎え、忙しい生活を送りつつも、父親に愛されなかった反動もあり︵後年、長期の南米旅行中ということで、彼は父親の葬儀にも出席しなかった︶二人の娘を溺愛しながら育てた。
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=== ミッキーマウスの誕生 === |
=== ミッキーマウスの誕生 === |
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再建するにあたって、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを必要と感じたウォルトは、それまでにもうさぎのオズワルドやアリスコメディの中で、ライバルとして度々登場させていた「敵役のねずみ」を主役に抜擢することを決定する(デザインはルドルフ・アイジング)。アブ・アイワークスのスケッチでは、オズワルドそっくりのキャラクターとなった。カンザスフィルム時代に飼っていた[[マウス]]に思い当たり、幾つかのラフスケッチを制作したというのは権利処理の問題をクリアするために後年の後付け設定である。すでにアリスコメディには当時高い人気を集めていた[[フィリックス・ザ・キャット]]に似せたジュリアス・ザ・キャットも登場させており、フェリックス側のプロデューサーであるパット・サリバンから何度も警告されていた。 |
再建するにあたって、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを必要と感じたウォルトは、それまでにもうさぎのオズワルドやアリスコメディの中で、ライバルとして度々登場させていた「敵役のねずみ」を主役に抜擢することを決定する(デザインはルドルフ・アイジング)。アブ・アイワークスのスケッチでは、オズワルドそっくりのキャラクターとなった。カンザスフィルム時代に飼っていた[[ハツカネズミ属|マウス]]に思い当たり、幾つかのラフスケッチを制作したというのは権利処理の問題をクリアするために後年の後付け設定である。すでにアリスコメディには当時高い人気を集めていた[[フィリックス・ザ・キャット]]に似せたジュリアス・ザ・キャットも登場させており、フェリックス側のプロデューサーであるパット・サリバンから何度も警告されていた。 |
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これに当時、監督や演出に専念し始めていたウォルトから作画監督を委ねられたアイワークスが、ウォルトの原案に動かす事を念頭に置いたアレンジを加えた。かくして世に知られる﹁ミッキーマウス﹂は完成した。後にディズニー社の従業員は﹁ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した﹂と語っている。因みに当初名前は﹁モーティマーマウス﹂とされる予定だったが、妻のリリアン・ディズニーがモーティマーでは |
これに当時、監督や演出に専念し始めていたウォルトから作画監督を委ねられたアイワークスが、ウォルトの原案に動かす事を念頭に置いたアレンジを加えた。かくして世に知られる﹁[[ミッキーマウス]]﹂は完成した。後にディズニー社の従業員は﹁ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した﹂と語っている。因みに当初名前は﹁モーティマーマウス﹂とされる予定だったが、妻のリリアン・ディズニーがモーティマーでは﹁Mortify﹂︵屈辱を意味する言葉︶に発音が似てると反対し、﹁ミッキーマウス﹂へと変更された<ref>https://web.archive.org/web/20040113130826/http://tweens.indiatimes.com/articleshow/51990.cms</ref><ref> {{cite book|last=Gabler|first=Neal|author-link=Neal Gabler|title=Walt Disney: The Triumph of the American Imagination|year=2006|publisher=Aurum|location=London|isbn=978-1-84513-277-4}}</ref>。モーティマーの名は後に初期作品でのミッキーのライバルキャラクターに用いられた。
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ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。ミッキーマウスの登場第一作『[[プレーン・クレイジー]]』(『飛行機狂』)および第二作『[[ギャロッピン・ガウチョ]]』はサイレント映画として作られたが、第三作『蒸気船ウィリー』で効果音や声を吹き込んで[[トーキー|トーキー映画]]の短編アニメとしての制作が行われると、場面の転換や物語のテンポに合わせて効果的に音や音楽を使用し、また自らもミッキーマウス・ミニーマウスの声を演じた。この演出技法は長らくディズニー映画の象徴とも言うべき手法となり、優れた作画と共にミッキーマウス・シリーズのヒットに貢献した。 |
ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。ミッキーマウスの登場第一作『[[プレーン・クレイジー]]』(『飛行機狂』)および第二作『[[ギャロッピン・ガウチョ]]』はサイレント映画として作られたが、第三作『[[蒸気船ウィリー]]』で効果音や声を吹き込んで[[トーキー|トーキー映画]]の短編アニメとしての制作が行われると、場面の転換や物語のテンポに合わせて効果的に音や音楽を使用し、また自らもミッキーマウス・[[ミニーマウス]]の声を演じた。この演出技法は長らくディズニー映画の象徴とも言うべき手法となり、優れた作画と共にミッキーマウス・シリーズのヒットに貢献した。 |
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対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。ミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮した。 |
対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。ミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮した。 |
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{{節スタブ|1=<nowiki /> |
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=== 「シリー・シンフォニー」シリーズ === |
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⚫ | * ミッキーマウス登場以後のディズニーの動き( |
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ミッキーマウスとは別に、アニメを音楽と合わせることに主眼を置いた短編映画「[[シリー・シンフォニー]]」シリーズを作ることにし、シリーズ最初の『[[骸骨の踊り]]』を1929年に公開した。 |
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⚫ | |||
『蒸気船ウィリー』でトーキーを使用するに当たり、ウォルトは「シネフォン」という録音システムを所有していたパット・パワーズと1年だけ契約を結び、映画の配給を委任していた。ミッキーマウスがヒットしたためパワーズは契約の更新を希望したが、パワーズから正当な利益配分を受けていないと感じていたディズニー兄弟は、まず映画配給による収益の公開をパワーズに求めた。しかしパワーズはこれに応じず、代わりにアイワークスを引き抜いて独立させ、契約更新を迫った。アイワークスの引き抜きはウォルトにとってとてつもなく大きな痛手であったが、ウォルトはパワーズとの縁を切ることにした。他の配給会社と交渉しようとするウォルトをパワーズは妨害しようとしたが、コロンビア社がウォルトに協力し5万ドルを貸与したことから、パワーズはディズニー映画の配給権をすべて手離した。 |
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しかし、コロンビアは貸与した5万ドルを理由にディズニーに収益を分配しようとしなかったため、ディズニーは[[ユナイテッド・アーティスツ|ユナイテッド・アーティスツ社]]と契約することにした。ユナイテッド・アーティスツとの契約がまとまると、ウォルトは﹁シリー・シンフォニー﹂シリーズをカラーアニメとして配給することにした。1932年7月、世界初のフルカラーアニメ映画﹃[[花と木]]﹄が公開され、同作品は1932年11月18日に第5回[[アカデミー短編アニメ賞]]を受賞した。
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さらに1933年、シリーズの一つとして『[[三匹の子ぶた (1933年の映画)|三匹の子ぶた]]』を公開した。この作品でウォルトは、子ぶたとオオカミのキャラクターに徹底的に個性を付与し、また観客の感情に訴えるストーリーを作り上げた上、ストーリーに即したテーマソング「[[狼なんか怖くない (1933年の曲)|狼なんか怖くない]]」を挿入した。『三匹の子ぶた』は短編アニメながら爆発的な大ヒットとなり、第6回アカデミー短編アニメ賞を受賞し、「狼なんか怖くない」もヒットソングとなった。 |
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その後も「シリー・シンフォニー」シリーズは制作され、1939年の「[[みにくいあひるの子 (1939年の映画)|みにくいあひるの子]]」まで75作品が作られた。{{節スタブ|1=<nowiki /> |
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=== ディズニーリゾート === |
=== ディズニーリゾート === |
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こうして無事に資金を調達したディズニーランドは、1954年7月21日に着工された。実際の建設においてはカリフォルニア州オークランドに[[1950年]]に作られた、最初の子供用遊園地﹁チルドレンズ・フェアリーランド﹂や、[[デンマーク]]に[[1843年]]に作られた遊園地[[チボリ公園]]など既存のさまざまな遊園地を参考としていたものの、ディズニーはこの遊園地を既存のものとは全く異なる小さな新しい世界にしようと考えていた。彼はこのテーマパークの建設に熱中し、日夜建設現場に足を運んでは様々な指示を行った<ref>ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳﹃創造の狂気 : ウォルト・ディズニー﹄︵ダイヤモンド社︶p464 2007年7月26日第1刷</ref>。
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こうして無事に資金を調達したディズニーランドは、1954年7月21日に着工された。実際の建設においてはカリフォルニア州オークランドに[[1950年]]に作られた、最初の子供用遊園地﹁チルドレンズ・フェアリーランド﹂や、[[デンマーク]]に[[1843年]]に作られた遊園地[[チボリ公園]]など既存のさまざまな遊園地を参考としていたものの、ディズニーはこの遊園地を既存のものとは全く異なる小さな新しい世界にしようと考えていた。彼はこのテーマパークの建設に熱中し、日夜建設現場に足を運んでは様々な指示を行った<ref>ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳﹃創造の狂気 : ウォルト・ディズニー﹄︵ダイヤモンド社︶p464 2007年7月26日第1刷</ref>。
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[[1955年]]7月17日に[[ディズニーランド]]は正式にオープンし、上記の「ディズニーランド」番組内で全米にその様子が中継された。ディズニーランドは瞬く間に大成功をおさめ、ディズニー社の経営の柱の一つとなり、現在まで続く多面的な経営の基盤を作った。 |
[[1955年]]7月17日に[[ディズニーランド]]は正式にオープンし、上記の﹁ディズニーランド﹂番組内で俳優時代の[[ロナルド・レーガン]]のナレーションの下に、全米にその様子が中継された。ウォルトは、当日の開園スピーチにて、﹁大人はかつての記憶を懐かしみ、若者は未来への挑戦と約束を味わうでしょう﹂と語った<ref>{{Cite AV media |date=2012-07-17 |title=Opening day dedication of Disneyland |url=https://www.youtube.com/watch?v=jF-HXug1h00 |language=en |publisher=The Walt Disney Family Museum |accessdate=2024-01-17}}</ref>。ディズニーランドは瞬く間に大成功をおさめ、ディズニー社の経営の柱の一つとなり、現在まで続く多面的な経営の基盤を作った。
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ウォルトはディズニーランド開設前に「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。そんな夢の世界を作りたい」と語っていた。無論これは現在のディズニーランドの土台となっている大事な思想であり、現に他のテーマパークでは何の変哲も無く行われている地面の掃除も、ディズニーランド内ではまるで1つのショーであるかの如く行われている。また、ウォルトはディズニーランドのオープン時のスピーチの中で、「'''私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています。'''」と言った。その「誰もが楽しめる」というファミリーエンターテイメントの理念は、今も各ディズニーのパークで受け継がれている。 |
ウォルトはディズニーランド開設前に「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。そんな夢の世界を作りたい」と語っていた。無論これは現在のディズニーランドの土台となっている大事な思想であり、現に他のテーマパークでは何の変哲も無く行われている地面の掃除も、ディズニーランド内ではまるで1つのショーであるかの如く行われている。また、ウォルトはディズニーランドのオープン時のスピーチの中で、「'''私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています。'''」と言った。その「誰もが楽しめる」というファミリーエンターテイメントの理念は、今も各ディズニーのパークで受け継がれている。 |
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=== 死去 === |
=== 死去 === |
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[[ファイル:Walt_Disney_Grave.JPG|サムネイル|墓地にはウォルト・ディズニーの名前が刻まれている。]] |
[[ファイル:Walt_Disney_Grave.JPG|サムネイル|墓地にはウォルト・ディズニーの名前が刻まれている。]] |
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[[1966年]]12月15日、[[肺癌]]による[[肺炎]]で、ディズニー・ワールドの完成を見ないままバーバンク市内の病院で死去(満65歳没)。その後ロイによってディズニー・ワールドは'''ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート'''へと改名された。 |
[[1966年]]12月15日、[[肺癌]]による[[肺炎]]と急性循環不全で、ディズニー・ワールドの完成を見ないままバーバンク市内の病院で死去(満65歳没)。その後ロイによってディズニー・ワールドは'''ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート'''へと改名された。 |
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ディズニーは第一次世界大戦の時からヘビースモーカーで、タバコとフィルターを使わず、若者のようにパイプを使った。禁煙を勧められても﹁ヘビースモーカーでも長生きした人はいくらでもいる﹂と言ってとりあわなかった。翌年、遺作となる﹃[[ジャングル・ブック (1967年の映画)|ジャングル・ブック]]﹄が公開された。
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ディズニーは第一次世界大戦の時からヘビースモーカーで、タバコとフィルターを使わず、若者のようにパイプを使った。禁煙を勧められても﹁ヘビースモーカーでも長生きした人はいくらでもいる﹂と言ってとりあわなかった。翌年、遺作となる﹃[[ジャングル・ブック (1967年の映画)|ジャングル・ブック]]﹄が公開された。
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== 主な製作作品 == |
== 主な製作作品 == |
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⚫ | * [[プレーン・クレイジー]] - ''[[:en:Plane Crazy|Plane Crazy]]''(1929年) |
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* [[蒸気船ウィリー]] - ''[[:en:Steamboat Willie|Steamboat Willie]]''(1928年) |
* [[蒸気船ウィリー]] - ''[[:en:Steamboat Willie|Steamboat Willie]]''(1928年) |
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⚫ | * [[プレーン・クレイジー]] - ''[[:en:Plane Crazy|Plane Crazy]]''(1929年) |
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* [[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]] - ''[[:en:Snow White and the Seven Dwarfs (1937 film)|Snow White And The Seven Dwarfs]]''(1937年) |
* [[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]] - ''[[:en:Snow White and the Seven Dwarfs (1937 film)|Snow White And The Seven Dwarfs]]''(1937年) |
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* [[ピノキオ (1940年の映画)|ピノキオ]] - ''[[:en:Pinocchio (1940 film)|Pinocchio]]''(1940年) |
* [[ピノキオ (1940年の映画)|ピノキオ]] - ''[[:en:Pinocchio (1940 film)|Pinocchio]]''(1940年) |
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* 1932年 名誉賞 ミッキーマウスの創造に対して |
* 1932年 名誉賞 ミッキーマウスの創造に対して |
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* 1932年 - 1933年 短編アニメ賞 『[[三匹の子ぶた (1933年の映画)|三匹の子ぶた]]』 |
* 1932年 - 1933年 短編アニメ賞 『[[三匹の子ぶた (1933年の映画)|三匹の子ぶた]]』 |
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* 1934年 短編アニメ賞 『[[うさぎとかめ]]』 |
* 1934年 短編アニメ賞 『[[うさぎとかめ (1935年の映画)|うさぎとかめ]]』 |
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* 1935年 短編アニメ賞 『三匹の親なし子ねこ』 |
* 1935年 短編アニメ賞 『[[三匹の親なし子ねこ]]』 |
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* 1936年 短編アニメ賞 『田舎の |
* 1936年 短編アニメ賞 『[[田舎のネズミ (1936年の映画)|田舎のネズミ]]』 |
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* 1937年 短編アニメ賞 『[[風車小屋のシンフォニー]]』 |
* 1937年 短編アニメ賞 『[[風車小屋のシンフォニー]]』 |
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* 1939年 名誉賞 『[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]]』 |
* 1939年 名誉賞 『[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]]』 |
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* 1938年 短編アニメ賞 『牡牛のフェルナンド』 |
* 1938年 短編アニメ賞 『[[牡牛のフェルディナンド]]』 |
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* 1939年 短編アニメ賞 『みにくい |
* 1939年 短編アニメ賞 『[[みにくいあひるの子 (1939年の映画)|みにくいあひるの子]]』 |
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* 1942年 名誉賞 『[[ファンタジア (映画)|ファンタジア]]』 |
* 1942年 名誉賞 『[[ファンタジア (映画)|ファンタジア]]』 |
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* 1941年 短編アニメ賞 『プルートのなやみ』 |
* 1941年 短編アニメ賞 『[[プルートのなやみ]]』 |
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* 1941年 [[アービング・G・タルバーグ賞]] |
* 1941年 [[アービング・G・タルバーグ賞]] |
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* 1942年 短編アニメ賞 『[[総統の顔]]』 |
* 1942年 短編アニメ賞 『[[総統の顔]]』 |
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* 1948年 短編二巻賞 『 |
* 1948年 短編二巻賞 『[[:en:Seal Island (film)|アザラシの島]]』 |
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* 1950年 短編二巻賞 『ビーバーの谷』 |
* 1950年 短編二巻賞 『[[:en:In Beaver Valley|ビーバーの谷]]』 |
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* 1951年 短編二巻賞 『大自然の片隅』 |
* 1951年 短編二巻賞 『[[:en:Nature's Half Acre|大自然の片隅]]』 |
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* 1952年 短編二巻賞 『水鳥の生態』 |
* 1952年 短編二巻賞 『[[水鳥の生態]]』 |
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* 1953年 [[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞|長編ドキュメンタリー映画賞]] 『[[砂漠は生きている]]』 |
* 1953年 [[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞|長編ドキュメンタリー映画賞]] 『[[砂漠は生きている]]』 |
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* 1953年 [[アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞|短編ドキュメンタリ映画賞]] 『民族と自然/アラスカのエスキモー』 |
* 1953年 [[アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞|短編ドキュメンタリ映画賞]] 『[[民族と自然/アラスカのエスキモー]]』 |
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* 1953年 短編二巻賞 『熊の楽園』 |
* 1953年 短編二巻賞 『[[:en:Bear Country (film)|熊の楽園]]』 |
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* 1953年 短編アニメ賞 『プカドン交響 |
* 1953年 短編アニメ賞 『[[プカドン交響楽]]』 |
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* 1954年 長編ドキュメンタリー映画賞 『滅びゆく大草原』 |
* 1954年 長編ドキュメンタリー映画賞 『[[滅びゆく大草原]]』 |
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* 1954年 短編ドキュメンタリー映画賞 『民族と自然/北極圏の人々』 |
* 1954年 短編ドキュメンタリー映画賞 『[[民族と自然/北極圏の人々]]』 |
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* 1958年 短編実写賞 『グランドキャニオン』 |
* 1958年 短編実写賞 『[[グランドキャニオン (映画)|グランドキャニオン]]』 |
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* 1968年 短編アニメ賞 『プーさんと大あらし』 |
* 1968年 短編アニメ賞 『[[プーさんと大あらし]]』 |
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== 日本語吹き替え版声優 == |
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ウォルト・ディズニーの声が日本語になった際の日本語吹き替え版は以下の通り |
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* 不明(1957年8月7日に[[大映]]から公開された映画「ディズニーの宇宙旅行(Man in Space)」) |
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* [[小山田宗徳]](日本テレビ版[[ディズニーランド (テレビ番組)|ディズニーランド]]) |
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* 不明(1987年にバンダイで発売されたビデオ『ミッキー・マウスの楽しいショー』(廃盤)、「The Plausible Impossible」のシーンあり) |
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* [[内田稔]]([[リラクタント・ドラゴン]](VHS版・LD版・WOWOW版・VOD版)) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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* {{Kotobank|ディズニー}} |
* {{Kotobank|ディズニー}} |
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{{先代次代|[[ミッキーマウス]]原語版声優|初代(1928年 |
{{先代次代|[[ミッキーマウス]]原語版声優|初代(1928年 - 1947年)|-|[[ジム・マクドナルド]]}} |
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{{ウォルト・ディズニー・カンパニー}} |
{{ウォルト・ディズニー・カンパニー}} |
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{{ミッキーマウスの映画}} |
{{ミッキーマウスの映画}} |
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{{DEFAULTSORT:ていすにい うおると}} |
{{DEFAULTSORT:ていすにい うおると}} |
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[[Category:ディズニーの人物|*]]<!--DEFAULTSORTの例外--> |
[[Category:ディズニーの人物|*]]<!--DEFAULTSORTの例外--> |
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[[Category:ディズニー家|うおると]] |
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[[Category:アメリカ合衆国のアニメーション監督]] |
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[[Category:アカデミー賞受賞者]] |
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[[Category:大統領自由勲章受章者]] |
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[[Category:議会名誉黄金勲章受章者]] |
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[[Category:ディズニーのアニメ作品の声優]] |
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2024年6月12日 (水) 15:57時点における版
![]() | この項目「ウォルト・ディズニー」は加筆依頼に出されており、内容をより充実させるために次の点に関する加筆が求められています。 加筆の要点 - ミッキーマウス登場以抜きや配給会社の変遷、「シリー・シンフォニーシリーズ」や「白雪姫」など他のアニメ作品を生み出す過程について (貼付後はWikipedia:加筆依頼のページに依頼内容を記述してください。記述が無いとタグは除去されます) (2017年2月) |
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/87/Walt_Disney_1942_signature.svg/180px-Walt_Disney_1942_signature.svg.png)
生涯
生い立ち
青年期
父のイライアスがシカゴで工場経営に加わり、再び一家はシカゴに舞い戻る事になった。青年期を迎えていたウォルトも地元のマッキンリー高校に通いながら、当時無名であったアカデミー・オブ・ファインアーツ専門学校夜間部のコースで絵を学ぶ生活を送っていた。同時に、カンザスの新聞社で新聞配達のアルバイトを始め、朝4:30に起床して配達に行き、放課後に再度配達をするというハードな働き方をしていた。そのためか、学校では居眠りをしたり、悪い成績をとることがたびたびあった[3]。学校では学級新聞の漫画欄を担当してその才能の片鱗を見せていたが、その内容は愛国主義に沿った内容だった。当時、不安定な国際情勢の中でアメリカでも愛国心が国民の間で高まっていた。 サラエボ事件を切っ掛けに第一次世界大戦が勃発、アメリカが未曾有の大戦争に参戦すると、愛国心に駆られたウォルトは高校と美術学校を退学し、陸軍に志願した︵兄のロイも同様に志願して兵士となっている︶。実はこの時ウォルトは16歳であり、軍に志願するには年齢が1歳足らなかったが、受付の列に並んでいる途中でこっそりとペンで生年月日を書き換えて誤魔化した。しかし兄と違い若年であったために軍に説得され、兵士としての勤務の代わりに、赤十字社の衛生兵として負傷した兵士の治療や輸送に従事した。同じ衛生隊にはマクドナルドの創業者として知られるレイ・クロックも居た。大戦終結時、廃墟となったフランスに居たウォルトは、一年振りに故郷のアメリカに帰国した。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/71/Walt_Disney_1919.jpg/220px-Walt_Disney_1919.jpg)
アニメーターへの転身
ディズニー社設立
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/57/Walt_Disney_1935.jpg/300px-Walt_Disney_1935.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2e/Walt_Disney_Molina_Campos.jpg/300px-Walt_Disney_Molina_Campos.jpg)
ユニバーサルによる引き抜き
1927年、興行師チャールズ・B・ミンツの紹介でユニバーサル・ピクチャーズと繋がりを得たウォルトは、自社キャラクターとして﹁オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット﹂を考案、オズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル配給で制作した。オズワルドはシリーズスタートと同時に子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進の切っ掛けを作った。ウォルトはカンザスフィルム時代の旧友達を次々に会社へと誘って、ディズニー社はアメリカでも屈指のアニメ製作会社に急成長した。 だが1928年2月、チャールズ・B・ミンツと契約料の取引に臨んだウォルトはそこで大きな悲劇に見舞われた。ミンツはユニバーサル社に法外な配給手数料を支払う様に要求、ウォルトがこれを拒否すると露骨な社員への引き抜き工作を仕掛けた。ウォルトを二重に落胆させたのは、この引き抜き工作にアイワークスを除く殆どのアニメーター達が応じてしまった事だった。︵その例がハーマン=アイジングである︶。契約書上、オズワルドが配給会社の管理下に置かれていた事も不利に働き、ディズニー社は配給元と自社キャラクター、そしてスタッフの大半を失って倒産寸前に追い込まれた。しかし、諦めきれなかったウォルトはその後も頑張って仕事を続けた。ミッキーマウスの誕生
再建するにあたって、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを必要と感じたウォルトは、それまでにもうさぎのオズワルドやアリスコメディの中で、ライバルとして度々登場させていた﹁敵役のねずみ﹂を主役に抜擢することを決定する︵デザインはルドルフ・アイジング︶。アブ・アイワークスのスケッチでは、オズワルドそっくりのキャラクターとなった。カンザスフィルム時代に飼っていたマウスに思い当たり、幾つかのラフスケッチを制作したというのは権利処理の問題をクリアするために後年の後付け設定である。すでにアリスコメディには当時高い人気を集めていたフィリックス・ザ・キャットに似せたジュリアス・ザ・キャットも登場させており、フェリックス側のプロデューサーであるパット・サリバンから何度も警告されていた。 これに当時、監督や演出に専念し始めていたウォルトから作画監督を委ねられたアイワークスが、ウォルトの原案に動かす事を念頭に置いたアレンジを加えた。かくして世に知られる﹁ミッキーマウス﹂は完成した。後にディズニー社の従業員は﹁ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した﹂と語っている。因みに当初名前は﹁モーティマーマウス﹂とされる予定だったが、妻のリリアン・ディズニーがモーティマーでは﹁Mortify﹂︵屈辱を意味する言葉︶に発音が似てると反対し、﹁ミッキーマウス﹂へと変更された[4][5]。モーティマーの名は後に初期作品でのミッキーのライバルキャラクターに用いられた。 ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。ミッキーマウスの登場第一作﹃プレーン・クレイジー﹄︵﹃飛行機狂﹄︶および第二作﹃ギャロッピン・ガウチョ﹄はサイレント映画として作られたが、第三作﹃蒸気船ウィリー﹄で効果音や声を吹き込んでトーキー映画の短編アニメとしての制作が行われると、場面の転換や物語のテンポに合わせて効果的に音や音楽を使用し、また自らもミッキーマウス・ミニーマウスの声を演じた。この演出技法は長らくディズニー映画の象徴とも言うべき手法となり、優れた作画と共にミッキーマウス・シリーズのヒットに貢献した。 対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。ミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮した。﹁シリー・シンフォニー﹂シリーズ
ミッキーマウスとは別に、アニメを音楽と合わせることに主眼を置いた短編映画﹁シリー・シンフォニー﹂シリーズを作ることにし、シリーズ最初の﹃骸骨の踊り﹄を1929年に公開した。 ﹃蒸気船ウィリー﹄でトーキーを使用するに当たり、ウォルトは﹁シネフォン﹂という録音システムを所有していたパット・パワーズと1年だけ契約を結び、映画の配給を委任していた。ミッキーマウスがヒットしたためパワーズは契約の更新を希望したが、パワーズから正当な利益配分を受けていないと感じていたディズニー兄弟は、まず映画配給による収益の公開をパワーズに求めた。しかしパワーズはこれに応じず、代わりにアイワークスを引き抜いて独立させ、契約更新を迫った。アイワークスの引き抜きはウォルトにとってとてつもなく大きな痛手であったが、ウォルトはパワーズとの縁を切ることにした。他の配給会社と交渉しようとするウォルトをパワーズは妨害しようとしたが、コロンビア社がウォルトに協力し5万ドルを貸与したことから、パワーズはディズニー映画の配給権をすべて手離した。 しかし、コロンビアは貸与した5万ドルを理由にディズニーに収益を分配しようとしなかったため、ディズニーはユナイテッド・アーティスツ社と契約することにした。ユナイテッド・アーティスツとの契約がまとまると、ウォルトは﹁シリー・シンフォニー﹂シリーズをカラーアニメとして配給することにした。1932年7月、世界初のフルカラーアニメ映画﹃花と木﹄が公開され、同作品は1932年11月18日に第5回アカデミー短編アニメ賞を受賞した。 さらに1933年、シリーズの一つとして﹃三匹の子ぶた﹄を公開した。この作品でウォルトは、子ぶたとオオカミのキャラクターに徹底的に個性を付与し、また観客の感情に訴えるストーリーを作り上げた上、ストーリーに即したテーマソング﹁狼なんか怖くない﹂を挿入した。﹃三匹の子ぶた﹄は短編アニメながら爆発的な大ヒットとなり、第6回アカデミー短編アニメ賞を受賞し、﹁狼なんか怖くない﹂もヒットソングとなった。 その後も﹁シリー・シンフォニー﹂シリーズは制作され、1939年の﹁みにくいあひるの子﹂まで75作品が作られた。![]() | この節の加筆が望まれています。 |
ディズニーリゾート
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c3/Walt_Disney_and_Dr._Wernher_von_Braun_-_GPN-2000-000060.jpg/200px-Walt_Disney_and_Dr._Wernher_von_Braun_-_GPN-2000-000060.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b0/Disney_Oscar_1953_%28cropped%29.jpg/220px-Disney_Oscar_1953_%28cropped%29.jpg)
死去
人物
従業員との関係 ウォルトは優秀なアニメーターを厚遇する事もあったが、アシスタントに対しては﹁誰にでも出来る仕事をしている人間に何故、高い報酬を支払わないといけない﹂と下に見て薄給でこき使い、アシスタント達を中心としてストライキを起こされた事もある。ウォルトはウォルト・ディズニー・カンパニーの創業者で、ミッキーマウスの生みの親であるが、ウォルトが自分で原画を描いて映画を作っていたのは初期の頃であり、後世に名を遺すディズニー映画の大作のほぼ全ては脚本家とアニメーターが制作しており、ウォルトは金と口を出すのが仕事だった。映画を製作する際は何度も意見が分かれ、ウォルトと制作陣が衝突・喧嘩にも似た侃々諤々の議論をする事は日常茶飯事だったという。 倹約家 アニメ界、映画界の大成功者であり、世界的企業の創業者であるにも拘らず借入が多かった事と倹約家だったことから、人々が想像する程裕福でも無く、娘達曰く﹁家も車も人より少し良い程度﹂の質素な暮らしを送っていたという。政治との関係
プロパガンダ映画の制作
1941年12月8日の太平洋戦争の開戦と第二次世界大戦へ参戦したアメリカは戦時体制への協力を国内産業へ求め、映画産業に対しても協力を要請したが当初は成功しなかった[12]。これは検閲や行政指導ができないことに加え、高度に資本化された映画産業は政府の要請よりも利潤追求を優先させる体制となっていたためである。 しかしディズニーは、大衆がヨーロッパに関心を持ちはじめていると気づくと﹁反ドイツ﹂の色を薄めた﹁反ナチス﹂の形で戦意高揚のプロパガンダ映画を制作した。大衆文化史の研究者には、ディズニーが孤立主義から友邦の援助へ大衆の意識が変わっていたのを見抜いた上で統合の象徴としてミッキーを選択させたことや、彼の没した今日でもミッキーマウスは﹁アメリカの象徴﹂として自己増殖を続けている、と指摘する者がいる。 政治家や政府のプロパガンダで大衆を説得することは難しい︵出典﹃心理戦争﹄︶。しかし大衆自身が願う形へとミッキーを作り変える作業を続けたことでディズニーは成功を収め、同時にアメリカ政府を顧客とすることにも成功した。当時のウォルトディズニー社は﹁白雪姫﹂の大ヒットで得た莫大な収益を注ぎ込んで製作した﹁ピノキオ﹂や﹁ファンタジア﹂がヒットしなかったため、たちまち膨大な借金を抱える羽目になり、さらにヨーロッパが戦争中であったため映画の輸出もできなくなり、株価は1株25ドルから4ドルにまで大暴落して会社は倒産の危機に陥ったが、政府のプロパガンダ映画を制作することである程度の収益を得て経営を建て直すことができたので、戦後も引き続きディズニーは経営の安定化のために政府の核実験、原子力開発キャンペーン用のen:Our Friend the Atom︵我が友原子力︶という映画を作成するなどでプロパガンダに協力した。 第二次世界大戦当時に同スタジオで製作された以下のアニメーション映画には、ミッキーマウスが戦闘機で日本軍の零戦を撃墜するシーンがあり、ドナルドダックのアニメ映画﹁総統の顔﹂には東條英機や昭和天皇を風刺するシーンがあるが、これらは政府の要請や強制によるものではなく、ウォルトが自らの信念に基づいて制作したものである。 ●空軍力の勝利 Victory Through Airpower︵1943年︶ ●新しい精神 The New spirit︵1943年︶ これらのほかにも、文字を用いずに漫画のコマ割り風にイラストで説明した簡易型拳銃FP-45のマニュアルや、兵士向けのボーイズ対戦車ライフルの映像教材などといった細かな依頼も引き受けている。反共姿勢
第二次世界大戦後、生前のセルゲイ・エイゼンシュテインと親友だったことなどから、当時吹き荒れていたジョセフ・マッカーシーの﹁マッカーシズム︵赤狩り︶﹂の嵐に巻き込まれる。彼は公聴会に出頭し、﹁︵冷戦前の︶ソ連に﹃三匹の子ぶた﹄︵1933年︶を売ったことがある。非常に好評だった﹂と証言している。最終的には無実とされた。この様な形で赤狩りにこそ巻き込まれたが、戦時中や冷戦中、自らが版権を持つキャラクターを軍や政府に無償で提供したり、自社の労働組合と激しく対立していた事から、当人はむしろ熱烈な保守派、右派、反共主義者と考えられている。マッカーシーの赤狩りでは、チャーリー・チャップリン、ジョン・ヒューストン、ウィリアム・ワイラーらも対象となった。委員会への召喚や証言を拒否した10人の映画産業関係者︵ハリウッド・テン︶は議会侮辱罪で訴追され有罪判決を受け、業界から追放された︵ハリウッド・ブラックリスト︶。グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、ベニー・グッドマン︵バンド・リーダー︶、キャサリン・ヘプバーンらは赤狩りに対する反対運動を行った。グレゴリー・ペックは、リベラルの代表格だった[13]。一方でウォルト・ディズニーとともに、政治家のリチャード・ニクソンや、ロナルド・レーガン︵当時映画俳優組合︵SAG︶委員長︶、ゲイリー・クーパー、ロバート・テイラー、エリア・カザンらは告発者として協力した。 この様な指摘に関連して、﹃闇の王子ディズニー﹄を著したマーク・エリオットは、﹁赤狩りの時代に、ウォルトはハリウッド内の映画人達の思想についてFBIへの熱心な密告者であった﹂と指摘している他、ディズニーランドのモノレールの開通時に、アナハイムの近隣のヨーバリンダ出身で、赤狩り時代にマッカーシーに近い反共主義者で知られた共和党選出のリチャード・ニクソン元副大統領︵後に大統領︶を招待している。 なお、7年に及ぶ調査とディズニー社の事前チェック無しに出版されたゲイブラーの執筆による伝記、﹁Walt Disney﹂︵邦題‥創造の狂気︶の中では、大戦中のプロパガンダへの協力姿勢は、当時、労働組合との争いや大戦による海外市場の縮小により、経営が圧迫されていたスタジオの生き残りのための方策の一環であったこと、彼にとっても政府への協力には意義を見出していなかったことが記述されている。同時に、戦後の赤狩り時代、彼の反共的な姿勢は、労働組合によりスタジオが壊滅的打撃を受けたことにたいする嫌悪感であったことを指摘している。ともあれ、ウォルトは最晩年の1964年には、右派の共和党員として、大統領選に出馬したタカ派のバリー・ゴールドウォーターを熱心に支持していた[14] 。人種・性差別姿勢
ゲイブラーは、ウォルトが製作したミュージカル映画﹃南部の唄﹄での黒人の描かれ方から、ウォルトが人種差別主義者のレッテルを貼られたことについては、﹁製作に熱中するあまり、人種に関する配慮に欠けていたのだ﹂と主張している。ウォルト自身は読書をほとんどせず、世相に対して鈍感な面を持ち合わせていたというのである。この﹃南部の唄﹄は、公開直後から﹁全米黒人地位向上協会﹂︵NAACP︶の激しい抗議を受け続けており、アメリカ本国では再上映やビデオ化が阻止され、﹁幻の作品﹂となっている︵日本でビデオ発売が実現したが、廃盤︶。 しかし、ウォルトに対する﹁白人至上主義者﹂、﹁人種差別主義者﹂との批判は、彼が死ぬまで浴びせられ続けたものであって、別に﹃南部の唄﹄に限ったことではない。ウォルトは﹃南部の唄﹄では封切りイベントに主演の黒人俳優を出席させなかったほか、﹃南部の唄﹄の以前にも[15]その二年後にも[16]、ミッキーマウスやミニーマウスがアフリカで野蛮で猿のように描かれた黒人を差別的に扱う民族侮辱的な漫画を出版しており、現在も批判の対象となっている。彼の制作した作品群のほとんどすべてに、様々な民族に対する彼の白人中心視点から成る人種差別、および男尊女卑的な性差別が指摘されている[17][18][14]。主な製作作品
●蒸気船ウィリー - Steamboat Willie︵1928年︶ ●ギャロッピン・ガウチョ︵1928年︶ ●プレーン・クレイジー - Plane Crazy︵1929年︶ ●白雪姫 - Snow White And The Seven Dwarfs︵1937年︶ ●ピノキオ - Pinocchio︵1940年︶ ●ファンタジア - Fantasia︵1940年︶ ●ダンボ - Dumbo︵1941年︶ ●バンビ - Bambi︵1942年︶ ●ラテン・アメリカの旅 - Saludos Amigos︵1942年︶ ●三人の騎士 - The Three Caballeros︵1944年︶ ●メイク・マイン・ミュージック - Make Mine Music︵1946年︶ ●ファン・アンド・ファンシーフリー - Fun and Fancy Free︵1947年︶ ●メロディ・タイム - Melody Time︵1948年︶ ●シンデレラ - Cinderella︵1950年︶ ●ふしぎの国のアリス - Alice in Wonderland︵1951年︶ ●ピーター・パン - Peter Pan︵1953年︶ ●わんわん物語 - Lady and the Tramp︵1955年︶ ●眠れる森の美女 - Sleeping Beauty︵1959年︶ ●101匹わんちゃん - One Hundred and One Dalmatians︵1961年︶ ●王様の剣 - The Sword in the Stone︵1963年︶ ●ジャングル・ブック - The Jungle Book︵1967年︶受賞歴
アカデミー賞
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6c/Disney1968.jpg/120px-Disney1968.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/87/Walt_Disney_1942_signature.svg/230px-Walt_Disney_1942_signature.svg.png)
日本語吹き替え版声優
ウォルト・ディズニーの声が日本語になった際の日本語吹き替え版は以下の通り- 不明(1957年8月7日に大映から公開された映画「ディズニーの宇宙旅行(Man in Space)」)
- 小山田宗徳(日本テレビ版ディズニーランド)
- 不明(1987年にバンダイで発売されたビデオ『ミッキー・マウスの楽しいショー』(廃盤)、「The Plausible Impossible」のシーンあり)
- 内田稔(リラクタント・ドラゴン(VHS版・LD版・WOWOW版・VOD版))
脚注
注釈
(一)^ ウォルトは鉄道マニアで、後に彼が作ったディズニーランドには必ず鉄道が走っている出典
(一)^ “Opinion | Disney needs to teach people about its racist cartoons, not hide them away” (英語). NBC News. 2023年5月9日閲覧。 (二)^ ﹃ネズミの罠、ディズニーの夢のマシンの中で︵“The Mousetrap”Inside Disney's dream machine︶﹄︵﹃NI﹄誌、1998年12月号︶ (三)^ https://kilosophy.com/business-leader/walt_disney (四)^ https://web.archive.org/web/20040113130826/http://tweens.indiatimes.com/articleshow/51990.cms (五)^ Gabler, Neal (2006). Walt Disney: The Triumph of the American Imagination. London: Aurum. ISBN 978-1-84513-277-4 (六)^ ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳﹃創造の狂気 : ウォルト・ディズニー﹄︵ダイヤモンド社︶p425-426 2007年7月26日第1刷 (七)^ ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳﹃創造の狂気 : ウォルト・ディズニー﹄︵ダイヤモンド社︶p439 2007年7月26日第1刷 (八)^ ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳﹃創造の狂気 : ウォルト・ディズニー﹄︵ダイヤモンド社︶p464 2007年7月26日第1刷 (九)^ Opening day dedication of Disneyland (英語). The Walt Disney Family Museum. 17 July 2012. 2024年1月17日閲覧。 (十)^ ﹃ディズニーリゾート物語﹄第9巻 2002年 講談社 (11)^ ﹃Paris Match "Adieu a Walt Disney" Magazine﹄ ︵1966年︶ (12)^ ﹃ハリウッド帝国の興亡―夢工場の1940年代﹄︵オットー・フリードリック著、文藝春秋︶ (13)^ http://www.english.illinois.edu/maps/mccarthy/blacklist.html (14)^ ab﹃ネズミの罠、ディズニーの夢のマシンの中で﹄︵﹃NI﹄誌、1998年12月号︶ (15)^ ﹃MICKEY MOUSE ANNUAL﹄︵1932年︶ (16)^ ﹃Thursday from Mickey Mouse and the Boy Thursday﹄︵1948年︶ (17)^ ﹃子供映画におけるステレオタイプと人種差別︵Stereotypes & Racism in Children's Movies︶﹄︵Libby Brunette、Claudette Mallory & Shannon Wood共著、﹁児童教育のための全米協会︵NAEYC︶﹂刊︶ (18)^ ﹃The 9 Most Racist Disney Characters﹄︵Cracked︶参考文献
●グリーン夫妻著/山口和代訳﹃魔法の仕掛人ウォルト・ディズニー﹄︵ほるぷ出版︶1994年 ISBN 4-593-53360-0 ●マーク・エリオット著/古賀林幸訳﹃闇の王子ディズニー︵上、下︶﹄︵草思社︶1994年 ISBN 4-7942-0576-7 ISBN 4-7942-0577-5 ●ラッセル・シュローダー著/スタジオジブリ編集/田畑正儀訳 ﹃Walt Disney : 伝記・映像の魔術師﹄︵徳間書店︶1998年 ISBN 4-19-860860-1 ●ボブ・トーマス著/山岡洋一, 田中志ほり訳﹃ディズニー伝説 : 天才︵ウォルト︶と賢兄︵ロイ︶の企業創造物語﹄︵日経BP社︶1998年 ISBN 4-8222-4138-6 ●ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳﹃創造の狂気 : ウォルト・ディズニー﹄︵ダイヤモンド社︶ ●ボブ・トマス著﹃ウォルト・ディズニー﹄︵講談社︶1995年 ︵日本図書館協会選定図書・全国学校図書館議会選定図書︶ ●Gabler, Neal (2006). Walt Disney: The Triumph of the American Imagination. London: Aurum. ISBN 978-1-84513-277-4関連項目
- ディズニーアニメーターのストライキ
- 右派
- 極右
- ジョセフ・マッカーシー
- リチャード・ニクソン
- ロナルド・レーガン
- 共和党
- 人種差別主義
- ミッキーマウス
- ミニーマウス
- 蒸気船ウィリー - 1928年11月18日に公開された、ミッキーマウスとミニーマウスのデビュー作。
- ディズニヤ (小惑星)
外部リンク
- Walt Disney - IMDb
- ウォルト・ディズニー:世界でもっとも成功したアニメスタジオ - ウェイバックマシン(2016年11月2日アーカイブ分) - ジャンナルベルト・ベンダッツィ著『カートゥーン:アニメーション100年史』第6章。1930年代末までのウォルト・ディズニーの伝記を、彼が生み出したアニメーション作品を中心にして語っている。
- 『ディズニー』 - コトバンク
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