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| ふりがな = ウォルト・ディズニー

| ふりがな = ウォルト・ディズニー

| 画像ファイル = Walt disney portrait.jpg

| 画像ファイル = Walt disney portrait.jpg

| 画像サイズ = 250px

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| 画像コメント = ウォルト・ディズニーの顔写真([[1954年]]撮影)

| 画像コメント =

| 本名 = ウォルター・イライアス・ディズニー<br>Walter Elias Disney

| 本名 = ウォルター・イライアス・ディズニー<br>Walter Elias Disney

| 別名義 =

| 別名義 =

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| 没月 = 12

| 没月 = 12

| 没日 = 15

| 没日 = 15

| 職業 =[[アニメーション]][[作家]]、 [[アニメーター]]、[[映画監督]]、[[漫画家]]、[[プロデューサー]]、[[脚本家]]<br>[[実業家]]

| 職業 = [[アニメーション]][[作家]]、 [[アニメーター]]、[[映画監督]]、[[漫画家]]、[[プロデューサー]]、[[脚本家]]<br>[[実業家]]

| ジャンル =

| ジャンル =

| 活動期間 = [[1920年]] - [[1966年]]

| 活動期間 = [[1920年]] - [[1966年]]

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| 配偶者 = {{仮リンク|リリアン・バウンズ|en|Lillian Disney}}

| 配偶者 = {{仮リンク|リリアン・バウンズ|en|Lillian Disney}}

| 著名な家族 = 兄:[[ロイ・O・ディズニー]]<br/>長女:[[ダイアン・ディズニー・ミラー]]

| 著名な家族 = 兄:[[ロイ・O・ディズニー]]<br/>長女:[[ダイアン・ディズニー・ミラー]]

([[ディズニー家]]を参照)

| 事務所 =

| 事務所 =

| アカデミー賞 = '''[[アカデミー短編アニメ賞|短編アニメ賞]]'''<br />[[第4回アカデミー賞|1931年]]『[[花と木]]』<br />[[第6回アカデミー賞|1933年]]『[[三匹の子ぶた (1933年の映画)|三匹の子ぶた]]』<br />[[第7回アカデミー賞|1934年]]『[[うさぎとかめ (1935年の映画)|うさぎとかめ]]』<br />[[第8回アカデミー賞|1935年]]『[[三匹の親なし子ねこ]]』<br />[[第9回アカデミー賞|1936年]]『[[田舎のネズミ (1936年の映画)|田舎のネズミ]]』<br />[[第10回アカデミー賞|1937年]]『[[風車小屋のシンフォニー]]』<br />[[第11回アカデミー賞|1938年]]『[[牡牛のフェルディナンド]]』<br />[[第12回アカデミー賞|1939年]]『[[みにくいあひるの子 (1939年の映画)|みにくいあひるの子]]』<br />[[第14回アカデミー賞|1941年]]『[[プルートの悩み]]』<br />[[第15回アカデミー賞|1942年]]『[[総統の顔]]』<br />[[第26回アカデミー賞|1953年]]『[[プカドン交響楽]]』<br />[[第41回アカデミー賞|1968年]]『[[プーさんと大あらし]]』<br />'''[[アカデミー短編映画賞|短編映画賞]]'''<br />[[第31回アカデミー賞|1958年]]『[[グランド・キャニオン (映画)|グランド・キャニオン]]』<br />'''[[アカデミー短編映画賞|短編二巻賞]]'''<br />[[第21回アカデミー賞|1948年]]『[[:en:Seal Island (film)|アザラシの島]]』<br />[[第23回アカデミー賞|1950年]]『[[:en:In Beaver Valley|ビーバーの谷]]』<br />[[第24回アカデミー賞|1951年]]『[[:en:Nature's Half Acre|大自然の片隅]]』<br />[[第25回アカデミー賞|1952年]]『[[水鳥の生態]]』<br />1953年『[[:en:Bear Country (film)|熊の楽園]]』<br />'''[[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞|長編ドキュメンタリー映画賞]]'''<br />1953年『[[砂漠は生きている]]』<br />[[第27回アカデミー賞|1954年]]『[[滅びゆく大草原]]』<br />'''[[アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞|短編ドキュメンタリー映画賞]]'''<br />1953年『[[民族と自然/アラスカのエキスモー]]』<br />[[第28回アカデミー賞|1955年]]『[[民族と自然/北極圏の人々]]』<br />'''[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]'''<br />[[第5回アカデミー賞|1932年]] 長年の功績に対して<br />1938年『[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]]』の製作に対して<br />1941年『[[ファンタジア (映画)|ファンタジア]]』の製作に対して<br />'''[[アービング・G・タルバーグ賞]]'''<br />1941年 長年に渡るアニメ映画製作への功績に対して

| アカデミー賞 = '''[[アカデミー短編アニメ賞|短編アニメ賞]]'''<br />[[第4回アカデミー賞|1931年]]『[[花と木]]』<br />[[第6回アカデミー賞|1933年]]『[[三匹の子ぶた (1933年の映画)|三匹の子ぶた]]』<br />[[第7回アカデミー賞|1934年]]『[[うさぎとかめ (1935年の映画)|うさぎとかめ]]』<br />[[第8回アカデミー賞|1935年]]『[[三匹の親なし子ねこ]]』<br />[[第9回アカデミー賞|1936年]]『[[田舎のネズミ (1936年の映画)|田舎のネズミ]]』<br />[[第10回アカデミー賞|1937年]]『[[風車小屋のシンフォニー]]』<br />[[第11回アカデミー賞|1938年]]『[[牡牛のフェルディナンド]]』<br />[[第12回アカデミー賞|1939年]]『[[みにくいあひるの子 (1939年の映画)|みにくいあひるの子]]』<br />[[第14回アカデミー賞|1941年]]『[[プルートの悩み]]』<br />[[第15回アカデミー賞|1942年]]『[[総統の顔]]』<br />[[第26回アカデミー賞|1953年]]『[[プカドン交響楽]]』<br />[[第41回アカデミー賞|1968年]]『[[プーさんと大あらし]]』<br />'''[[アカデミー短編映画賞|短編映画賞]]'''<br />[[第31回アカデミー賞|1958年]]『[[グランド・キャニオン (映画)|グランド・キャニオン]]』<br />'''[[アカデミー短編映画賞|短編二巻賞]]'''<br />[[第21回アカデミー賞|1948年]]『[[:en:Seal Island (film)|アザラシの島]]』<br />[[第23回アカデミー賞|1950年]]『[[:en:In Beaver Valley|ビーバーの谷]]』<br />[[第24回アカデミー賞|1951年]]『[[:en:Nature's Half Acre|大自然の片隅]]』<br />[[第25回アカデミー賞|1952年]]『[[水鳥の生態]]』<br />1953年『[[:en:Bear Country (film)|熊の楽園]]』<br />'''[[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞|長編ドキュメンタリー映画賞]]'''<br />1953年『[[砂漠は生きている]]』<br />[[第27回アカデミー賞|1954年]]『[[滅びゆく大草原]]』<br />'''[[アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞|短編ドキュメンタリー映画賞]]'''<br />1953年『[[民族と自然/アラスカのエキスモー]]』<br />[[第28回アカデミー賞|1955年]]『[[民族と自然/北極圏の人々]]』<br />'''[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]'''<br />[[第5回アカデミー賞|1932年]] 長年の功績に対して<br />1938年『[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]]』の製作に対して<br />1941年『[[ファンタジア (映画)|ファンタジア]]』の製作に対して<br />'''[[アービング・G・タルバーグ賞]]'''<br />1941年 長年に渡るアニメ映画製作への功績に対して

| ゴールデングローブ賞 = '''特別賞'''<br/>[[第5回ゴールデングローブ賞|1947年]]『[[バンビ (映画)|バンビ]]』<br/>[[第11回ゴールデングローブ賞|1953年]]『砂漠は生きている』<br/>'''[[セシル・B・デミル賞]]'''<br />[[第10回ゴールデングローブ賞|1952年]]

| ゴールデングローブ賞 = '''特別賞'''<br/>[[第5回ゴールデングローブ賞|1947年]]『[[バンビ (映画)|バンビ]]』<br/>[[第11回ゴールデングローブ賞|1953年]]『砂漠は生きている』<br/>'''[[セシル・B・デミル賞]]'''<br />[[第10回ゴールデングローブ賞|1952年]]

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| 公式サイト = https://www.disney.co.jp/

| 公式サイト = https://www.disney.co.jp/

| 主な作品 = [[ディズニー作品]]を参照

| 主な作品 = [[ディズニー作品]]を参照

| 署名 = Walt Disney 1942 signature.svg

| 備考 =

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}}

{{Portal ディズニー}}

{{Portal ディズニー}}

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[[サラエボ事件]]を切っ掛けに[[第一次世界大戦]]が勃発、アメリカが未曾有の大戦争に参戦すると、愛国心に駆られたウォルトは高校と美術学校を退学し、陸軍に志願した(兄のロイも同様に志願して兵士となっている)。実はこの時ウォルトは16歳であり、軍に志願するには年齢が1歳足らなかったが、受付の列に並んでいる途中でこっそりとペンで生年月日を書き換えて誤魔化した。しかし兄と違い若年であったために軍に説得され、兵士としての勤務の代わりに、[[赤十字社]]の[[衛生兵]]として負傷した兵士の治療や輸送に従事した。同じ衛生隊には[[マクドナルド]]の創業者として知られる[[レイ・クロック]]も居た。大戦終結時、廃墟となった[[フランス]]に居たウォルトは、一年振りに故郷のアメリカに帰国した。

[[サラエボ事件]]を切っ掛けに[[第一次世界大戦]]が勃発、アメリカが未曾有の大戦争に参戦すると、愛国心に駆られたウォルトは高校と美術学校を退学し、陸軍に志願した(兄のロイも同様に志願して兵士となっている)。実はこの時ウォルトは16歳であり、軍に志願するには年齢が1歳足らなかったが、受付の列に並んでいる途中でこっそりとペンで生年月日を書き換えて誤魔化した。しかし兄と違い若年であったために軍に説得され、兵士としての勤務の代わりに、[[赤十字社]]の[[衛生兵]]として負傷した兵士の治療や輸送に従事した。同じ衛生隊には[[マクドナルド]]の創業者として知られる[[レイ・クロック]]も居た。大戦終結時、廃墟となった[[フランス]]に居たウォルトは、一年振りに故郷のアメリカに帰国した。


[[File:Walt Disney 1919.jpg|thumb|1919年、従軍中のウォルト]]



帰国後、父の経営する工場以外で仕事を見つける事を望んだウォルトは家を出て、単身カンザスシティーへ戻った。漫画家としての活躍を目指したウォルトは、取りあえず新聞で漫画を書く仕事を請け負った。だが当時は一介の新人に過ぎないウォルトへの仕事の依頼は多くはなく、成功どころか日々の生活にも困る苦しい時代を過ごしていた。見かねた兄のロイ(地元銀行の職員として働いていた)が知人に頼み、ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオでの広告デザインの仕事をウォルトに紹介した。ウォルトはここで生涯の友人となる[[アブ・アイワークス]]と知り合った。アイワークスとウォルトは翌年にアート・スタジオから契約更新を打ち切られて失業すると、二人で新しい創作活動を始める計画を立てた。

帰国後、父の経営する工場以外で仕事を見つける事を望んだウォルトは家を出て、単身カンザスシティーへ戻った。漫画家としての活躍を目指したウォルトは、取りあえず新聞で漫画を書く仕事を請け負った。だが当時は一介の新人に過ぎないウォルトへの仕事の依頼は多くはなく、成功どころか日々の生活にも困る苦しい時代を過ごしていた。見かねた兄のロイ(地元銀行の職員として働いていた)が知人に頼み、ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオでの広告デザインの仕事をウォルトに紹介した。ウォルトはここで生涯の友人となる[[アブ・アイワークス]]と知り合った。アイワークスとウォルトは翌年にアート・スタジオから契約更新を打ち切られて失業すると、二人で新しい創作活動を始める計画を立てた。

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ミッキーマウスとは別に、アニメを音楽と合わせることに主眼を置いた短編映画「[[シリー・シンフォニー]]」シリーズを作ることにし、シリーズ最初の『[[骸骨の踊り]]』を1929年に公開した。

ミッキーマウスとは別に、アニメを音楽と合わせることに主眼を置いた短編映画「[[シリー・シンフォニー]]」シリーズを作ることにし、シリーズ最初の『[[骸骨の踊り]]』を1929年に公開した。



『蒸気船ウリー』でトーキーを使用するに当たり、ウォルトは「シネフォン」という録音システムを所有していたパット・パワーズと1年だけ契約を結び、映画の配給を委任していた。ミッキーマウスがヒットしたためパワーズは契約の更新を希望したが、パワーズから正当な利益配分を受けていないと感じていたディズニー兄弟は、まず映画配給による収益の公開をパワーズに求めた。しかしパワーズはこれに応じず、代わりにアイワークスを引き抜いて独立させ、契約更新を迫った。アイワークスの引き抜きはウォルトにとってとてつもなく大きな痛手であったが、ウォルトはパワーズとの縁を切ることにした。他の配給会社と交渉しようとするウォルトをパワーズは妨害しようとしたが、コロンビア社がウォルトに協力し5万ドルを貸与したことから、パワーズはディズニー映画の配給権をすべて手離した。

『蒸気船ウリー』でトーキーを使用するに当たり、ウォルトは「シネフォン」という録音システムを所有していたパット・パワーズと1年だけ契約を結び、映画の配給を委任していた。ミッキーマウスがヒットしたためパワーズは契約の更新を希望したが、パワーズから正当な利益配分を受けていないと感じていたディズニー兄弟は、まず映画配給による収益の公開をパワーズに求めた。しかしパワーズはこれに応じず、代わりにアイワークスを引き抜いて独立させ、契約更新を迫った。アイワークスの引き抜きはウォルトにとってとてつもなく大きな痛手であったが、ウォルトはパワーズとの縁を切ることにした。他の配給会社と交渉しようとするウォルトをパワーズは妨害しようとしたが、コロンビア社がウォルトに協力し5万ドルを貸与したことから、パワーズはディズニー映画の配給権をすべて手離した。




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[[1955年]]7月17日に[[ディズニーランド]]は正式にオープンし、上記の「ディズニーランド」番組内で全米にその様子が中継された。ディズニーランドは瞬く間に大成功をおさめ、ディズニー社の経営の柱の一つとなり、現在まで続く多面的な経営の基盤を作った。


[[1955]]717[[]][[]]<ref>{{Cite AV media |date=2012-07-17 |title=Opening day dedication of Disneyland |url=https://www.youtube.com/watch?v=jF-HXug1h00 |language=en |publisher=The Walt Disney Family Museum |accessdate=2024-01-17}}</ref>


ウォルトはディズニーランド開設前に「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。そんな夢の世界を作りたい」と語っていた。無論これは現在のディズニーランドの土台となっている大事な思想であり、現に他のテーマパークでは何の変哲も無く行われている地面の掃除も、ディズニーランド内ではまるで1つのショーであるかの如く行われている。また、ウォルトはディズニーランドのオープン時のスピーチの中で、「'''私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています。'''」と言った。その「誰もが楽しめる」というファミリーエンターテイメントの理念は、今も各ディズニーのパークで受け継がれている。

ウォルトはディズニーランド開設前に「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。そんな夢の世界を作りたい」と語っていた。無論これは現在のディズニーランドの土台となっている大事な思想であり、現に他のテーマパークでは何の変哲も無く行われている地面の掃除も、ディズニーランド内ではまるで1つのショーであるかの如く行われている。また、ウォルトはディズニーランドのオープン時のスピーチの中で、「'''私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています。'''」と言った。その「誰もが楽しめる」というファミリーエンターテイメントの理念は、今も各ディズニーのパークで受け継がれている。

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* 不明(1957年8月7日に[[大映]]から公開された映画「ディズニーの宇宙旅行(Man in Space)」)

* 不明(1957年8月7日に[[大映]]から公開された映画「ディズニーの宇宙旅行(Man in Space)」)

* [[小山田宗徳]](日本テレビ版[[ディズニーランド (テレビ番組)|ディズニーランド]])

* [[小山田宗徳]](日本テレビ版[[ディズニーランド (テレビ番組)|ディズニーランド]])

* 不明(1980代後半のビデオ版?<!--ドナルドの声が関時男-->収録されたエピソ「The Plausible Impossible」、詳細不明

* 不明(1987年にバンダイで発売されたビデオ『ミッキ・マウスの楽しいショー』(廃盤)、「The Plausible Impossible」のシーンあり

* [[内田稔]]([[リラクタント・ドラゴン]](VHS版・LD版・WOWOW版・VOD版))

* [[内田稔]]([[リラクタント・ドラゴン]](VHS版・LD版・WOWOW版・VOD版))



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[[Category:議会名誉黄金勲章受章者]]

[[Category:議会名誉黄金勲章受章者]]

[[Category:ディズニーのアニメ作品の声優]]

[[Category:ディズニーのアニメ作品の声優]]

[[Category:全米発明家殿堂]]

[[Category:冷戦]]

[[Category:冷戦]]

[[Category:アメリカ合衆国の反共主義者]]

[[Category:アメリカ合衆国の反共主義者]]

[[Category:ミッキーマウス]]

[[Category:イングランド系アメリカ人]]

[[Category:イングランド系アメリカ人]]

[[Category:ドイツ系アメリカ人]]

[[Category:ドイツ系アメリカ人]]


2024年6月12日 (水) 15:57時点における版

ウォルト・ディズニー
Walt Disney
Walt Disney
本名 ウォルター・イライアス・ディズニー
Walter Elias Disney
生年月日 (1901-12-05) 1901年12月5日
没年月日 (1966-12-15) 1966年12月15日(65歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州バーバンク
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
民族 アイルランド系アメリカ人
身長 175 cm
職業 アニメーション作家アニメーター映画監督漫画家プロデューサー脚本家
実業家
活動期間 1920年 - 1966年
配偶者 リリアン・バウンズ英語版
著名な家族

兄:ロイ・O・ディズニー
長女:ダイアン・ディズニー・ミラー

ディズニー家を参照)
公式サイト https://www.disney.co.jp/
主な作品
ディズニー作品を参照

 

受賞
アカデミー賞
短編アニメ賞
1931年花と木
1933年三匹の子ぶた
1934年うさぎとかめ
1935年三匹の親なし子ねこ
1936年田舎のネズミ
1937年風車小屋のシンフォニー
1938年牡牛のフェルディナンド
1939年みにくいあひるの子
1941年プルートの悩み
1942年総統の顔
1953年プカドン交響楽
1968年プーさんと大あらし
短編映画賞
1958年グランド・キャニオン
短編二巻賞
1948年アザラシの島
1950年ビーバーの谷
1951年大自然の片隅
1952年水鳥の生態
1953年『熊の楽園
長編ドキュメンタリー映画賞
1953年『砂漠は生きている
1954年滅びゆく大草原
短編ドキュメンタリー映画賞
1953年『民族と自然/アラスカのエキスモー
1955年民族と自然/北極圏の人々
名誉賞
1932年 長年の功績に対して
1938年『白雪姫』の製作に対して
1941年『ファンタジア』の製作に対して
アービング・G・タルバーグ賞
1941年 長年に渡るアニメ映画製作への功績に対して
カンヌ国際映画祭
審査員特別賞
1953年 アニメ映画の革命に対して
ヴェネツィア国際映画祭
審査員特別賞
1950年シンデレラ
国際賞
1948年メロディ・タイム
芸術メダル
1938年『白雪姫』
アニメーション賞
1934年楽しい復活祭
1935年ミッキーの大演奏会
1936年誰がコック・ロビンを殺したの?
ベルリン国際映画祭
金熊賞
1951年『ビーバーの谷』
ベルリン市政府特別賞
1954年
ニューヨーク映画批評家協会賞
特別賞
1940年『ファンタジア』
エミー賞
プロデューサー賞(録画番組部門)
1956年ディズニーランド
ゴールデングローブ賞
特別賞
1947年バンビ
1953年『砂漠は生きている』
セシル・B・デミル賞
1952年
セザール賞
名誉賞
1978年
その他の賞
テンプレートを表示

Walt Disney1901125 - 19661215

O350

Walter Elias DisneyDisneyd'Isigny11  [1]

生涯

生い立ち


4

4119201930

81[ 1][2]

7


4:30[3]沿

退161
1919


Newman Laugh-O-Gram (1921)

19201

1921628Laugh-O-Gram StudioL調20Laugh-O-Gram Studio

1935
1941

Laugh-O-Gram Studio1939

1925Lillian BoundsDianeSharon


1927B

19282B




Mortify[4][5]

使

1930


1929

使15

519327193211185

19336

193975

ディズニーリゾート

ディズニーとヴェルナー・フォン・ブラウン(右)

1948姿[6]

19513[7]19539160730,000 m2

1954TVABC200854寿ABC

調195472119501843[8]

1955717[9]

1

湿西19652

[10]


1966121565

使使



38[11]

LIFE19991000100




使





1941128[12]



1254en:Our Friend the Atom



 Victory Through Airpower1943

 The New spirit1943

FP-45

姿


193310[13]SAG

FBI

7調Walt Disney姿姿1964[14] 

姿


NAACP

[15][16][17][18][14]


 - Steamboat Willie1928

1928

 - Plane Crazy1929

 - Snow White And The Seven Dwarfs1937

 - Pinocchio1940

 - Fantasia1940

 - Dumbo1941

 - Bambi1942

 - Saludos Amigos1942

 - The Three Caballeros1944

 - Make Mine Music1946

 - Fun and Fancy Free1947

 - Melody Time1948

 - Cinderella1950

 - Alice in Wonderland1951

 - Peter Pan1953

 - Lady and the Tramp1955

 - Sleeping Beauty1959

101 - One Hundred and One Dalmatians1961

 - The Sword in the Stone1963

 - The Jungle Book1967

1968



1931 - 1932  

1932  

1932 - 1933  

1934  

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1942  

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1953  /

1953  

1953  

1954  

1954  /

1958  

1968  



  • 不明(1957年8月7日に大映から公開された映画「ディズニーの宇宙旅行(Man in Space)」)
  • 小山田宗徳(日本テレビ版ディズニーランド
  • 不明(1987年にバンダイで発売されたビデオ『ミッキー・マウスの楽しいショー』(廃盤)、「The Plausible Impossible」のシーンあり)
  • 内田稔リラクタント・ドラゴン(VHS版・LD版・WOWOW版・VOD版))

脚注



(一)^ 



(一)^ Opinion | Disney needs to teach people about its racist cartoons, not hide them away (). NBC News. 202359

(二)^ The MousetrapInside Disney's dream machineNI199812

(三)^ https://kilosophy.com/business-leader/walt_disney

(四)^ https://web.archive.org/web/20040113130826/http://tweens.indiatimes.com/articleshow/51990.cms

(五)^ Gabler, Neal (2006). Walt Disney: The Triumph of the American Imagination. London: Aurum. ISBN 978-1-84513-277-4 

(六)^  : p425-426 20077261

(七)^  : p439 20077261

(八)^  : p464 20077261

(九)^ Opening day dedication of Disneyland (). The Walt Disney Family Museum. 17 July 2012. 2024117

(十)^ 9 2002 

(11)^ Paris Match "Adieu a Walt Disney" Magazine 1966 

(12)^ 1940

(13)^ http://www.english.illinois.edu/maps/mccarthy/blacklist.html

(14)^ abNI199812

(15)^ MICKEY MOUSE ANNUAL1932

(16)^ Thursday from Mickey Mouse and the Boy Thursday1948

(17)^ Stereotypes & Racism in Children's MoviesLibby BrunetteClaudette Mallory & Shannon WoodNAEYC

(18)^ The 9 Most Racist Disney CharactersCracked


1994 ISBN 4-593-53360-0

1994 ISBN 4-7942-0576-7 ISBN 4-7942-0577-5

 Walt Disney : 1998 ISBN 4-19-860860-1

,  : BP1998 ISBN 4-8222-4138-6

 : 

1995 

Gabler, Neal (2006). Walt Disney: The Triumph of the American Imagination. London: Aurum. ISBN 978-1-84513-277-4 

外部リンク

先代
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ミッキーマウス原語版声優
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次代
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