「ウォルト・ディズニー」の版間の差分
Project Archive (会話) による ID:98874956 の版を取り消し Wikipedia:信頼できる情報源に合致せず? タグ: 取り消し 差し戻し済み |
Project Archive (会話 | 投稿記録) m 「信頼できる情報に合致せず」との理由で取り消しがあった。以下の4つの理由によって、取り消し作業を実施する。①当該編集は、信頼できる情報源であるウォルトディズニーファミリーミュージアム提供による出典(「Opening day dedication of Disneyland」)に基づいたものである。②ディズニー氏本人の著作権も現時点で消滅しており、法理上・権利上も問題がない。③外部リンクは当アカウントが運営する学術プロジェクトであるが、非営利かつ公共性の高い内容に限定しており、出典とする正当性がある。④仮に今回実施された編集取り消しの水準を他の記述に当てはめたら、既存のスピーチ部分(太字。出典無し)をはじめ多くの記述も削除の対象になり、ページ全体の正当性が問われる事態になる。以上。Takumiboo (会話) による ID:98877567 の版を取り消し タグ: 取り消し |
||
119行目: | 119行目: | ||
こうして無事に資金を調達したディズニーランドは、1954年7月21日に着工された。実際の建設においてはカリフォルニア州オークランドに[[1950年]]に作られた、最初の子供用遊園地﹁チルドレンズ・フェアリーランド﹂や、[[デンマーク]]に[[1843年]]に作られた遊園地[[チボリ公園]]など既存のさまざまな遊園地を参考としていたものの、ディズニーはこの遊園地を既存のものとは全く異なる小さな新しい世界にしようと考えていた。彼はこのテーマパークの建設に熱中し、日夜建設現場に足を運んでは様々な指示を行った<ref>ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳﹃創造の狂気 : ウォルト・ディズニー﹄︵ダイヤモンド社︶p464 2007年7月26日第1刷</ref>。
|
こうして無事に資金を調達したディズニーランドは、1954年7月21日に着工された。実際の建設においてはカリフォルニア州オークランドに[[1950年]]に作られた、最初の子供用遊園地﹁チルドレンズ・フェアリーランド﹂や、[[デンマーク]]に[[1843年]]に作られた遊園地[[チボリ公園]]など既存のさまざまな遊園地を参考としていたものの、ディズニーはこの遊園地を既存のものとは全く異なる小さな新しい世界にしようと考えていた。彼はこのテーマパークの建設に熱中し、日夜建設現場に足を運んでは様々な指示を行った<ref>ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳﹃創造の狂気 : ウォルト・ディズニー﹄︵ダイヤモンド社︶p464 2007年7月26日第1刷</ref>。
|
||
[[1955年]]7月17日に[[ディズニーランド]]は正式にオープンし、上記の「ディズニーランド」番組内で全米にその様子が中継された。ディズニーランドは瞬く間に大成功をおさめ、ディズニー社の経営の柱の一つとなり、現在まで続く多面的な経営の基盤を作った。 |
[[1955年]]7月17日に[[ディズニーランド]]は正式にオープンし、上記の﹁ディズニーランド﹂番組内で俳優時代の[[ロナルド・レーガン]]のナレーションの下に、全米にその様子が中継された。ウォルトは、当日の開園スピーチにて、﹁大人はかつての記憶を懐かしみ、若者は未来への挑戦と約束を味わうでしょう﹂と語った<ref>{{Cite web |title=ウォルト・ディズニー|ディズニーランド開園スピーチ|ARCHIVE |url=http://www.project-archive.org/0/035.html |website=ARCHIVE |access-date=2024-01-16 |language=ja}}</ref>。ディズニーランドは瞬く間に大成功をおさめ、ディズニー社の経営の柱の一つとなり、現在まで続く多面的な経営の基盤を作った。
|
||
ウォルトはディズニーランド開設前に「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。そんな夢の世界を作りたい」と語っていた。無論これは現在のディズニーランドの土台となっている大事な思想であり、現に他のテーマパークでは何の変哲も無く行われている地面の掃除も、ディズニーランド内ではまるで1つのショーであるかの如く行われている。また、ウォルトはディズニーランドのオープン時のスピーチの中で、「'''私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています。'''」と言った。その「誰もが楽しめる」というファミリーエンターテイメントの理念は、今も各ディズニーのパークで受け継がれている。 |
ウォルトはディズニーランド開設前に「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。そんな夢の世界を作りたい」と語っていた。無論これは現在のディズニーランドの土台となっている大事な思想であり、現に他のテーマパークでは何の変哲も無く行われている地面の掃除も、ディズニーランド内ではまるで1つのショーであるかの如く行われている。また、ウォルトはディズニーランドのオープン時のスピーチの中で、「'''私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています。'''」と言った。その「誰もが楽しめる」というファミリーエンターテイメントの理念は、今も各ディズニーのパークで受け継がれている。 |
||
270行目: | 270行目: | ||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
* {{imdb name|id=0000370|name=Walt Disney}} |
* {{imdb name|id=0000370|name=Walt Disney}} |
||
* [https://www.project-archive.org/0/035.html ウォルト・ディズニー「ディズニーランド開園スピーチ」(1955年7月17日。岡村皓史訳)] - ARCHIVE |
|||
* {{Wayback |url=http://homepage1.nifty.com/gon2/cartoon/cartoon06.html |title=ウォルト・ディズニー:世界でもっとも成功したアニメスタジオ |date=20161102055406}} - ジャンナルベルト・ベンダッツィ著『カートゥーン:アニメーション100年史』第6章。1930年代末までのウォルト・ディズニーの伝記を、彼が生み出したアニメーション作品を中心にして語っている。 |
* {{Wayback |url=http://homepage1.nifty.com/gon2/cartoon/cartoon06.html |title=ウォルト・ディズニー:世界でもっとも成功したアニメスタジオ |date=20161102055406}} - ジャンナルベルト・ベンダッツィ著『カートゥーン:アニメーション100年史』第6章。1930年代末までのウォルト・ディズニーの伝記を、彼が生み出したアニメーション作品を中心にして語っている。 |
||
* {{Kotobank|ディズニー}} |
* {{Kotobank|ディズニー}} |
2024年1月16日 (火) 16:21時点における版
![]() | この項目「ウォルト・ディズニー」は加筆依頼に出されており、内容をより充実させるために次の点に関する加筆が求められています。 加筆の要点 - ミッキーマウス登場以抜きや配給会社の変遷、「シリー・シンフォニーシリーズ」や「白雪姫」など他のアニメ作品を生み出す過程について (貼付後はWikipedia:加筆依頼のページに依頼内容を記述してください。記述が無いとタグは除去されます) (2017年2月) |
![]() |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/87/Walt_Disney_1942_signature.svg/180px-Walt_Disney_1942_signature.svg.png)
生涯
生い立ち
青年期
父のイライアスがシカゴで工場経営に加わり、再び一家はシカゴに舞い戻る事になった。青年期を迎えていたウォルトも地元のマッキンリー高校に通いながら、当時無名であったアカデミー・オブ・ファインアーツ専門学校夜間部のコースで絵を学ぶ生活を送っていた。同時に、カンザスの新聞社で新聞配達のアルバイトを始め、朝4:30に起床して配達に行き、放課後に再度配達をするというハードな働き方をしていた。そのためか、学校では居眠りをしたり、悪い成績をとることがたびたびあった[3]。学校では学級新聞の漫画欄を担当してその才能の片鱗を見せていたが、その内容は愛国主義に沿った内容だった。当時、不安定な国際情勢の中でアメリカでも愛国心が国民の間で高まっていた。 サラエボ事件を切っ掛けに第一次世界大戦が勃発、アメリカが未曾有の大戦争に参戦すると、愛国心に駆られたウォルトは高校と美術学校を退学し、陸軍に志願した︵兄のロイも同様に志願して兵士となっている︶。実はこの時ウォルトは16歳であり、軍に志願するには年齢が1歳足らなかったが、受付の列に並んでいる途中でこっそりとペンで生年月日を書き換えて誤魔化した。しかし兄と違い若年であったために軍に説得され、兵士としての勤務の代わりに、赤十字社の衛生兵として負傷した兵士の治療や輸送に従事した。同じ衛生隊にはマクドナルドの創業者として知られるレイ・クロックも居た。大戦終結時、廃墟となったフランスに居たウォルトは、一年振りに故郷のアメリカに帰国した。 帰国後、父の経営する工場以外で仕事を見つける事を望んだウォルトは家を出て、単身カンザスシティーへ戻った。漫画家としての活躍を目指したウォルトは、取りあえず新聞で漫画を書く仕事を請け負った。だが当時は一介の新人に過ぎないウォルトへの仕事の依頼は多くはなく、成功どころか日々の生活にも困る苦しい時代を過ごしていた。見かねた兄のロイ︵地元銀行の職員として働いていた︶が知人に頼み、ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオでの広告デザインの仕事をウォルトに紹介した。ウォルトはここで生涯の友人となるアブ・アイワークスと知り合った。アイワークスとウォルトは翌年にアート・スタジオから契約更新を打ち切られて失業すると、二人で新しい創作活動を始める計画を立てた。アニメーターへの転身
ディズニー社設立
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/57/Walt_Disney_1935.jpg/300px-Walt_Disney_1935.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2e/Walt_Disney_Molina_Campos.jpg/300px-Walt_Disney_Molina_Campos.jpg)
ユニバーサルによる引き抜き
1927年、興行師チャールズ・B・ミンツの紹介でユニバーサル・ピクチャーズと繋がりを得たウォルトは、自社キャラクターとして﹁オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット﹂を考案、オズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル配給で制作した。オズワルドはシリーズスタートと同時に子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進の切っ掛けを作った。ウォルトはカンザスフィルム時代の旧友達を次々に会社へと誘って、ディズニー社はアメリカでも屈指のアニメ製作会社に急成長した。 だが1928年2月、チャールズ・B・ミンツと契約料の取引に臨んだウォルトはそこで大きな悲劇に見舞われた。ミンツはユニバーサル社に法外な配給手数料を支払う様に要求、ウォルトがこれを拒否すると露骨な社員への引き抜き工作を仕掛けた。ウォルトを二重に落胆させたのは、この引き抜き工作にアイワークスを除く殆どのアニメーター達が応じてしまった事だった。︵その例がハーマン=アイジングである︶。契約書上、オズワルドが配給会社の管理下に置かれていた事も不利に働き、ディズニー社は配給元と自社キャラクター、そしてスタッフの大半を失って倒産寸前に追い込まれた。しかし、諦めきれなかったウォルトはその後も頑張って仕事を続けた。ミッキーマウスの誕生
再建するにあたって、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを必要と感じたウォルトは、それまでにもうさぎのオズワルドやアリスコメディの中で、ライバルとして度々登場させていた﹁敵役のねずみ﹂を主役に抜擢することを決定する︵デザインはルドルフ・アイジング︶。アブ・アイワークスのスケッチでは、オズワルドそっくりのキャラクターとなった。カンザスフィルム時代に飼っていたマウスに思い当たり、幾つかのラフスケッチを制作したというのは権利処理の問題をクリアするために後年の後付け設定である。すでにアリスコメディには当時高い人気を集めていたフィリックス・ザ・キャットに似せたジュリアス・ザ・キャットも登場させており、フェリックス側のプロデューサーであるパット・サリバンから何度も警告されていた。 これに当時、監督や演出に専念し始めていたウォルトから作画監督を委ねられたアイワークスが、ウォルトの原案に動かす事を念頭に置いたアレンジを加えた。かくして世に知られる﹁ミッキーマウス﹂は完成した。後にディズニー社の従業員は﹁ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した﹂と語っている。因みに当初名前は﹁モーティマーマウス﹂とされる予定だったが、妻のリリアン・ディズニーがモーティマーでは﹁Mortify﹂︵屈辱を意味する言葉︶に発音が似てると反対し、﹁ミッキーマウス﹂へと変更された[4][5]。モーティマーの名は後に初期作品でのミッキーのライバルキャラクターに用いられた。 ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。ミッキーマウスの登場第一作﹃プレーン・クレイジー﹄︵﹃飛行機狂﹄︶および第二作﹃ギャロッピン・ガウチョ﹄はサイレント映画として作られたが、第三作﹃蒸気船ウィリー﹄で効果音や声を吹き込んでトーキー映画の短編アニメとしての制作が行われると、場面の転換や物語のテンポに合わせて効果的に音や音楽を使用し、また自らもミッキーマウス・ミニーマウスの声を演じた。この演出技法は長らくディズニー映画の象徴とも言うべき手法となり、優れた作画と共にミッキーマウス・シリーズのヒットに貢献した。 対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。ミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮した。﹁シリー・シンフォニー﹂シリーズ
ミッキーマウスとは別に、アニメを音楽と合わせることに主眼を置いた短編映画﹁シリー・シンフォニー﹂シリーズを作ることにし、シリーズ最初の﹃骸骨の踊り﹄を1929年に公開した。 ﹃蒸気船ウイリー﹄でトーキーを使用するに当たり、ウォルトは﹁シネフォン﹂という録音システムを所有していたパット・パワーズと1年だけ契約を結び、映画の配給を委任していた。ミッキーマウスがヒットしたためパワーズは契約の更新を希望したが、パワーズから正当な利益配分を受けていないと感じていたディズニー兄弟は、まず映画配給による収益の公開をパワーズに求めた。しかしパワーズはこれに応じず、代わりにアイワークスを引き抜いて独立させ、契約更新を迫った。アイワークスの引き抜きはウォルトにとってとてつもなく大きな痛手であったが、ウォルトはパワーズとの縁を切ることにした。他の配給会社と交渉しようとするウォルトをパワーズは妨害しようとしたが、コロンビア社がウォルトに協力し5万ドルを貸与したことから、パワーズはディズニー映画の配給権をすべて手離した。 しかし、コロンビアは貸与した5万ドルを理由にディズニーに収益を分配しようとしなかったため、ディズニーはユナイテッド・アーティスツ社と契約することにした。ユナイテッド・アーティスツとの契約がまとまると、ウォルトは﹁シリー・シンフォニー﹂シリーズをカラーアニメとして配給することにした。1932年7月、世界初のフルカラーアニメ映画﹃花と木﹄が公開され、同作品は1932年11月18日に第5回アカデミー短編アニメ賞を受賞した。 さらに1933年、シリーズの一つとして﹃三匹の子ぶた﹄を公開した。この作品でウォルトは、子ぶたとオオカミのキャラクターに徹底的に個性を付与し、また観客の感情に訴えるストーリーを作り上げた上、ストーリーに即したテーマソング﹁狼なんか怖くない﹂を挿入した。﹃三匹の子ぶた﹄は短編アニメながら爆発的な大ヒットとなり、第6回アカデミー短編アニメ賞を受賞し、﹁狼なんか怖くない﹂もヒットソングとなった。 その後も﹁シリー・シンフォニー﹂シリーズは制作され、1939年の﹁みにくいあひるの子﹂まで75作品が作られた。![]() | この節の加筆が望まれています。 |
ディズニーリゾート
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c3/Walt_Disney_and_Dr._Wernher_von_Braun_-_GPN-2000-000060.jpg/200px-Walt_Disney_and_Dr._Wernher_von_Braun_-_GPN-2000-000060.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b0/Disney_Oscar_1953_%28cropped%29.jpg/220px-Disney_Oscar_1953_%28cropped%29.jpg)
死去
人物
従業員との関係 ウォルトは優秀なアニメーターを厚遇する事もあったが、アシスタントに対しては﹁誰にでも出来る仕事をしている人間に何故、高い報酬を支払わないといけない﹂と下に見て薄給でこき使い、アシスタント達を中心としてストライキを起こされた事もある。ウォルトはウォルト・ディズニー・カンパニーの創業者で、ミッキーマウスの生みの親であるが、ウォルトが自分で原画を描いて映画を作っていたのは初期の頃であり、後世に名を遺すディズニー映画の大作のほぼ全ては脚本家とアニメーターが制作しており、ウォルトは金と口を出すのが仕事だった。映画を製作する際は何度も意見が分かれ、ウォルトと制作陣が衝突・喧嘩にも似た侃々諤々の議論をする事は日常茶飯事だったという。 倹約家 アニメ界、映画界の大成功者であり、世界的企業の創業者であるにも拘らず借入が多かった事と倹約家だったことから、人々が想像する程裕福でも無く、娘達曰く﹁家も車も人より少し良い程度﹂の質素な暮らしを送っていたという。政治との関係
プロパガンダ映画の制作
1941年12月8日の太平洋戦争の開戦と第二次世界大戦へ参戦したアメリカは戦時体制への協力を国内産業へ求め、映画産業に対しても協力を要請したが当初は成功しなかった[12]。これは検閲や行政指導ができないことに加え、高度に資本化された映画産業は政府の要請よりも利潤追求を優先させる体制となっていたためである。 しかしディズニーは、大衆がヨーロッパに関心を持ちはじめていると気づくと﹁反ドイツ﹂の色を薄めた﹁反ナチス﹂の形で戦意高揚のプロパガンダ映画を制作した。大衆文化史の研究者には、ディズニーが孤立主義から友邦の援助へ大衆の意識が変わっていたのを見抜いた上で統合の象徴としてミッキーを選択させたことや、彼の没した今日でもミッキーマウスは﹁アメリカの象徴﹂として自己増殖を続けている、と指摘する者がいる。 政治家や政府のプロパガンダで大衆を説得することは難しい︵出典﹃心理戦争﹄︶。しかし大衆自身が願う形へとミッキーを作り変える作業を続けたことでディズニーは成功を収め、同時にアメリカ政府を顧客とすることにも成功した。当時のウォルトディズニー社は﹁白雪姫﹂の大ヒットで得た莫大な収益を注ぎ込んで製作した﹁ピノキオ﹂や﹁ファンタジア﹂がヒットしなかったため、たちまち膨大な借金を抱える羽目になり、さらにヨーロッパが戦争中であったため映画の輸出もできなくなり、株価は1株25ドルから4ドルにまで大暴落して会社は倒産の危機に陥ったが、政府のプロパガンダ映画を制作することである程度の収益を得て経営を建て直すことができたので、戦後も引き続きディズニーは経営の安定化のために政府の核実験、原子力開発キャンペーン用のen:Our Friend the Atom︵我が友原子力︶という映画を作成するなどでプロパガンダに協力した。 第二次世界大戦当時に同スタジオで製作された以下のアニメーション映画には、ミッキーマウスが戦闘機で日本軍の零戦を撃墜するシーンがあり、ドナルドダックのアニメ映画﹁総統の顔﹂には東條英機や昭和天皇を風刺するシーンがあるが、これらは政府の要請や強制によるものではなく、ウォルトが自らの信念に基づいて制作したものである。 ●空軍力の勝利 Victory Through Airpower︵1943年︶ ●新しい精神 The New spirit︵1943年︶ これらのほかにも、文字を用いずに漫画のコマ割り風にイラストで説明した簡易型拳銃FP-45のマニュアルや、兵士向けのボーイズ対戦車ライフルの映像教材などといった細かな依頼も引き受けている。反共姿勢
第二次世界大戦後、生前のセルゲイ・エイゼンシュテインと親友だったことなどから、当時吹き荒れていたジョセフ・マッカーシーの﹁マッカーシズム︵赤狩り︶﹂の嵐に巻き込まれる。彼は公聴会に出頭し、﹁︵冷戦前の︶ソ連に﹃三匹の子ぶた﹄︵1933年︶を売ったことがある。非常に好評だった﹂と証言している。最終的には無実とされた。この様な形で赤狩りにこそ巻き込まれたが、戦時中や冷戦中、自らが版権を持つキャラクターを軍や政府に無償で提供したり、自社の労働組合と激しく対立していた事から、当人はむしろ熱烈な保守派、右派、反共主義者と考えられている。マッカーシーの赤狩りでは、チャーリー・チャップリン、ジョン・ヒューストン、ウィリアム・ワイラーらも対象となった。委員会への召喚や証言を拒否した10人の映画産業関係者︵ハリウッド・テン︶は議会侮辱罪で訴追され有罪判決を受け、業界から追放された︵ハリウッド・ブラックリスト︶。グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、ベニー・グッドマン︵バンド・リーダー︶、キャサリン・ヘプバーンらは赤狩りに対する反対運動を行った。グレゴリー・ペックは、リベラルの代表格だった[13]。一方でウォルト・ディズニーとともに、政治家のリチャード・ニクソンや、ロナルド・レーガン︵当時映画俳優組合︵SAG︶委員長︶、ゲイリー・クーパー、ロバート・テイラー、エリア・カザンらは告発者として協力した。 この様な指摘に関連して、﹃闇の王子ディズニー﹄を著したマーク・エリオットは、﹁赤狩りの時代に、ウォルトはハリウッド内の映画人達の思想についてFBIへの熱心な密告者であった﹂と指摘している他、ディズニーランドのモノレールの開通時に、アナハイムの近隣のヨーバリンダ出身で、赤狩り時代にマッカーシーに近い反共主義者で知られた共和党選出のリチャード・ニクソン元副大統領︵後に大統領︶を招待している。 なお、7年に及ぶ調査とディズニー社の事前チェック無しに出版されたゲイブラーの執筆による伝記、﹁Walt Disney﹂︵邦題‥創造の狂気︶の中では、大戦中のプロパガンダへの協力姿勢は、当時、労働組合との争いや大戦による海外市場の縮小により、経営が圧迫されていたスタジオの生き残りのための方策の一環であったこと、彼にとっても政府への協力には意義を見出していなかったことが記述されている。同時に、戦後の赤狩り時代、彼の反共的な姿勢は、労働組合によりスタジオが壊滅的打撃を受けたことにたいする嫌悪感であったことを指摘している。ともあれ、ウォルトは最晩年の1964年には、右派の共和党員として、大統領選に出馬したタカ派のバリー・ゴールドウォーターを熱心に支持していた[14] 。人種・性差別姿勢
ゲイブラーは、ウォルトが製作したミュージカル映画﹃南部の唄﹄での黒人の描かれ方から、ウォルトが人種差別主義者のレッテルを貼られたことについては、﹁製作に熱中するあまり、人種に関する配慮に欠けていたのだ﹂と主張している。ウォルト自身は読書をほとんどせず、世相に対して鈍感な面を持ち合わせていたというのである。この﹃南部の唄﹄は、公開直後から﹁全米黒人地位向上協会﹂︵NAACP︶の激しい抗議を受け続けており、アメリカ本国では再上映やビデオ化が阻止され、﹁幻の作品﹂となっている︵日本でビデオ発売が実現したが、廃盤︶。 しかし、ウォルトに対する﹁白人至上主義者﹂、﹁人種差別主義者﹂との批判は、彼が死ぬまで浴びせられ続けたものであって、別に﹃南部の唄﹄に限ったことではない。ウォルトは﹃南部の唄﹄では封切りイベントに主演の黒人俳優を出席させなかったほか、﹃南部の唄﹄の以前にも[15]その二年後にも[16]、ミッキーマウスやミニーマウスがアフリカで野蛮で猿のように描かれた黒人を差別的に扱う民族侮辱的な漫画を出版しており、現在も批判の対象となっている。彼の制作した作品群のほとんどすべてに、様々な民族に対する彼の白人中心視点から成る人種差別、および男尊女卑的な性差別が指摘されている[17][18][14]。主な製作作品
●蒸気船ウィリー - Steamboat Willie︵1928年︶ ●ギャロッピン・ガウチョ︵1928年︶ ●プレーン・クレイジー - Plane Crazy︵1929年︶ ●白雪姫 - Snow White And The Seven Dwarfs︵1937年︶ ●ピノキオ - Pinocchio︵1940年︶ ●ファンタジア - Fantasia︵1940年︶ ●ダンボ - Dumbo︵1941年︶ ●バンビ - Bambi︵1942年︶ ●ラテン・アメリカの旅 - Saludos Amigos︵1942年︶ ●三人の騎士 - The Three Caballeros︵1944年︶ ●メイク・マイン・ミュージック - Make Mine Music︵1946年︶ ●ファン・アンド・ファンシーフリー - Fun and Fancy Free︵1947年︶ ●メロディ・タイム - Melody Time︵1948年︶ ●シンデレラ - Cinderella︵1950年︶ ●ふしぎの国のアリス - Alice in Wonderland︵1951年︶ ●ピーター・パン - Peter Pan︵1953年︶ ●わんわん物語 - Lady and the Tramp︵1955年︶ ●眠れる森の美女 - Sleeping Beauty︵1959年︶ ●101匹わんちゃん - One Hundred and One Dalmatians︵1961年︶ ●王様の剣 - The Sword in the Stone︵1963年︶ ●ジャングル・ブック - The Jungle Book︵1967年︶受賞歴
アカデミー賞
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6c/Disney1968.jpg/120px-Disney1968.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/87/Walt_Disney_1942_signature.svg/230px-Walt_Disney_1942_signature.svg.png)
日本語吹き替え版声優
ウォルト・ディズニーの声が日本語になった際の日本語吹き替え版は以下の通り- 不明(1957年8月7日に大映から公開された映画「ディズニーの宇宙旅行(Man in Space)」)
- 小山田宗徳(日本テレビ版ディズニーランド)
- 不明(1987年にバンダイで発売されたビデオ『ミッキー・マウスの楽しいショー』(廃盤)、「The Plausible Impossible」のシーンあり)
- 内田稔(リラクタント・ドラゴン(VHS版・LD版・WOWOW版・VOD版))
脚注
注釈
(一)^ ウォルトは鉄道マニアで、後に彼が作ったディズニーランドには必ず鉄道が走っている出典
(一)^ “Opinion | Disney needs to teach people about its racist cartoons, not hide them away” (英語). NBC News. 2023年5月9日閲覧。 (二)^ ﹃ネズミの罠、ディズニーの夢のマシンの中で︵“The Mousetrap”Inside Disney's dream machine︶﹄︵﹃NI﹄誌、1998年12月号︶ (三)^ https://kilosophy.com/business-leader/walt_disney (四)^ https://web.archive.org/web/20040113130826/http://tweens.indiatimes.com/articleshow/51990.cms (五)^ Gabler, Neal (2006). Walt Disney: The Triumph of the American Imagination. London: Aurum. ISBN 978-1-84513-277-4 (六)^ ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳﹃創造の狂気 : ウォルト・ディズニー﹄︵ダイヤモンド社︶p425-426 2007年7月26日第1刷 (七)^ ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳﹃創造の狂気 : ウォルト・ディズニー﹄︵ダイヤモンド社︶p439 2007年7月26日第1刷 (八)^ ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳﹃創造の狂気 : ウォルト・ディズニー﹄︵ダイヤモンド社︶p464 2007年7月26日第1刷 (九)^ “ウォルト・ディズニー|ディズニーランド開園スピーチ|ARCHIVE”. ARCHIVE. 2024年1月16日閲覧。 (十)^ ﹃ディズニーリゾート物語﹄第9巻 2002年 講談社 (11)^ ﹃Paris Match "Adieu a Walt Disney" Magazine﹄ ︵1966年︶ (12)^ ﹃ハリウッド帝国の興亡―夢工場の1940年代﹄︵オットー・フリードリック著、文藝春秋︶ (13)^ http://www.english.illinois.edu/maps/mccarthy/blacklist.html (14)^ ab﹃ネズミの罠、ディズニーの夢のマシンの中で﹄︵﹃NI﹄誌、1998年12月号︶ (15)^ ﹃MICKEY MOUSE ANNUAL﹄︵1932年︶ (16)^ ﹃Thursday from Mickey Mouse and the Boy Thursday﹄︵1948年︶ (17)^ ﹃子供映画におけるステレオタイプと人種差別︵Stereotypes & Racism in Children's Movies︶﹄︵Libby Brunette、Claudette Mallory & Shannon Wood共著、﹁児童教育のための全米協会︵NAEYC︶﹂刊︶ (18)^ ﹃The 9 Most Racist Disney Characters﹄︵Cracked︶参考文献
●グリーン夫妻著/山口和代訳﹃魔法の仕掛人ウォルト・ディズニー﹄︵ほるぷ出版︶1994年 ISBN 4-593-53360-0 ●マーク・エリオット著/古賀林幸訳﹃闇の王子ディズニー︵上、下︶﹄︵草思社︶1994年 ISBN 4-7942-0576-7 ISBN 4-7942-0577-5 ●ラッセル・シュローダー著/スタジオジブリ編集/田畑正儀訳 ﹃Walt Disney : 伝記・映像の魔術師﹄︵徳間書店︶1998年 ISBN 4-19-860860-1 ●ボブ・トーマス著/山岡洋一, 田中志ほり訳﹃ディズニー伝説 : 天才︵ウォルト︶と賢兄︵ロイ︶の企業創造物語﹄︵日経BP社︶1998年 ISBN 4-8222-4138-6 ●ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳﹃創造の狂気 : ウォルト・ディズニー﹄︵ダイヤモンド社︶ ●ボブ・トマス著﹃ウォルト・ディズニー﹄︵講談社︶1995年 ︵日本図書館協会選定図書・全国学校図書館議会選定図書︶ ●Gabler, Neal (2006). Walt Disney: The Triumph of the American Imagination. London: Aurum. ISBN 978-1-84513-277-4関連項目
- ディズニーアニメーターのストライキ
- 右派
- 極右
- ジョセフ・マッカーシー
- リチャード・ニクソン
- ロナルド・レーガン
- 共和党
- 人種差別主義
- ミッキーマウス
- ミニーマウス
- 蒸気船ウィリー - 1928年11月18日に公開された、ミッキーマウスとミニーマウスのデビュー作。
- ディズニヤ (小惑星)
外部リンク
- Walt Disney - IMDb(英語)
- ウォルト・ディズニー「ディズニーランド開園スピーチ」(1955年7月17日。岡村皓史訳) - ARCHIVE
- ウォルト・ディズニー:世界でもっとも成功したアニメスタジオ - ウェイバックマシン(2016年11月2日アーカイブ分) - ジャンナルベルト・ベンダッツィ著『カートゥーン:アニメーション100年史』第6章。1930年代末までのウォルト・ディズニーの伝記を、彼が生み出したアニメーション作品を中心にして語っている。
- 『ディズニー』 - コトバンク
|
|