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'''堀口 大學'''(ほりぐち だいがく、[[新字体]]:'''堀口 大学'''、[[1892年]]〈[[明治]]25年〉[[1月8日]] - [[1981年]]〈[[昭和]]56年〉[[3月15日]])は、[[明治]]から[[昭和]]にかけての[[日本]]の[[詩人]]・[[歌人]]・[[フランス文学者]]。訳詩書は三百点を超え、日本の[[近代詩]]に多大な影響を与えた。[[雅号]]は'''十三日月'''。[[葉山町]][[名誉町民]]。[[日本芸術院]]会員、[[文化功労者]]、[[文化勲章]]受章者。 |
'''堀口 大學'''(ほりぐち だいがく、[[新字体]]:'''堀口 大学'''、[[1892年]]〈[[明治]]25年〉[[1月8日]] - [[1981年]]〈[[昭和]]56年〉[[3月15日]])は、[[明治]]から[[昭和]]にかけての[[日本]]の[[詩人]]・[[歌人]]・[[フランス文学者]]。訳詩書は三百点を超え、日本の[[近代詩]]に多大な影響を与えた。[[雅号]]は'''十三日月'''。[[葉山町]][[名誉町民]]。[[日本芸術院]]会員、[[文化功労者]]、[[文化勲章]]受章者。 |
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欧米生活を経て、フランス近代詩の翻訳詩集『月下の一群』 |
欧米生活を経て、フランス近代詩の翻訳詩集『月下の一群』(1925年)を発表し反響を呼んだ。象徴詩に知性と官能美を加えた優雅な創作詩でも後進に影響を与えた。作品に『月光とピエロ』(1919年)、『砂の枕』(1926年)など。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== 学生時代 === |
=== 学生時代 === |
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1892年︵[[明治]]25年︶、東京帝大在学 |
1892年︵[[明治]]25年︶、[[東京帝国大学法科大学|帝国大学法科大学]]在学中であった[[堀口九萬一]]︵のち[[外交官]]︶の長男として、[[東京市]]本郷区森川町︵現・[[東京都]][[文京区]][[本郷 (文京区)|本郷]]或いは[[西片]]辺り︶に生まれる。父は[[戊辰戦争]]で戦死した[[越後長岡藩|長岡]][[藩士]][[堀口良治右衛門|堀口良次右衛門]]の長男で、母・政は[[村上藩|村上]][[藩士]]江坂氏の長女。大學という名は、出生当時に父が大学生だったことと、出生地が[[東京大学|帝国大学]]の近所であったことに由来する。[[日清戦争]]勃発後、外交官となった父が[[仁川広域市|仁川]][[領事館]]補として[[李氏朝鮮|朝鮮]]に単身赴任するにあたり、[[新潟県]][[古志郡]]長岡町︵現・[[長岡市]]︶に引き揚げる。
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母が23歳で早世したこともあり、以後は祖母に育てられる。父は[[閔妃 |
母が23歳で早世したこともあり、以後は祖母に育てられる。父は[[乙未事変|閔妃暗殺事件]]に連座して非職、[[予審]]に付されたため、後事を[[漢城府|漢城]]在任以来の知己である[[与謝野鉄幹]]に託した。[[1898年]]︵明治31年︶長岡町立阪之上尋常高等小学校︵現・長岡市阪之上小学校︶に入学。復職後[[オランダ]]在勤となった父の指導により、日本人[[牧師]]に就いて[[英学]]を始める。[[日露戦争]]勃発後の[[1904年]]︵明治37年︶4月︵旧制︶新潟県立長岡中学校︵現・[[新潟県立長岡高等学校]]︶に入学。この頃から文学に魅かれ、[[内藤鳴雪]]の[[俳句]]に心酔。同級に[[松岡譲]]がいた。
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[[1909年]]︵明治42年︶に上京し、好んで谷中墓地を逍遥して[[短歌]]を詠み、﹃[[スバル (文芸雑誌)|スバル]]﹄を |
[[1909年]]︵明治42年︶に上京し、好んで[[谷中霊園|谷中墓地]]を逍遥して[[短歌]]を詠み、文芸誌﹃[[スバル (文芸雑誌)|スバル]]﹄を通して[[明星 (文芸誌)|明星派]]短歌に魅了され、'''十三日月'''の雅号で詠草が12月号に掲載される。9月に﹁新詩社﹂に入った。[[1910年]]︵明治43年︶[[慶應義塾大学大学院文学研究科・文学部|慶應義塾大学部文学科]]予科に入学。与謝野鉄幹の推薦もあって[[永井荷風]]との知遇を得て﹃[[三田文学]]﹄に詩歌の発表を始める。同門の[[佐藤春夫]]とは終生の友人であった。予科の教師は[[広瀬哲士]]︵初期[[アンリ・ベルクソン|ベルグソン]]の訳者︶で、学年末の[[フランス語]]成績は﹁不可﹂であった。翌年に予科2年に進級するが、父の任地[[メキシコ]]に赴くため中退した。
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=== 外遊 === |
=== 外遊 === |
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[[東洋汽船]]会社の香港丸で横浜を出帆し、メキシコの日本公使館に在ること1年。この頃、[[肺結核]]を患う。父の後妻が[[ベルギー人]]で、家庭の通用語 |
[[東洋汽船]]会社の香港丸で横浜を出帆し、メキシコの日本公使館に在ること1年。この頃、[[肺結核]]を患う。父の後妻︵[[堀口スチナ]]︶が[[ベルギー人]]であったため、家庭内の通用語はフランス語で、その習得に専念しつつ、パルナシアン︵[[高踏派]]︶の詩を読み始める。滞在中の[[1913年]]︵[[大正]]2年︶2月、[[フランシスコ・マデロ|マデロ大統領]]が謀殺された軍事[[クーデター]]﹁[[悲劇の十日間]]﹂を体験する。同年中に[[シベリア]]経由でベルギーに向かい、[[アルチュール・ランボー|ランボー]]をピストルで撃った[[ポール・ヴェルレーヌ|ヴェルレーヌ]]の事件を担当した裁判官シャルル・リグール家に住み、10月には当時[[日本銀行|日銀]]副総裁だった[[水町袈裟六]]の斡旋で[[ベルギー国立銀行]]に[[日本銀行]]の委託研究生として勤務し、異例の待遇を受けた。
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詩人としては、ヴェルレーヌを始め[[象徴主義|サンボリスム]]詩への傾倒が始まり、詞華集﹃今日の詩人﹄で[[レミ・ド・グールモン]]︵[[:en:Remy de Gourmont|Remy de Gourmont]]︶の詩を読み、﹁一生を通じての精神上の最大の事件﹂<ref>平田︵[[1967年]]︶P133</ref>といえる決定的な影響を受ける。以後も父の任 |
詩人としては、ヴェルレーヌを始め[[象徴主義|サンボリスム]]詩への傾倒が始まり、詞華集﹃今日の詩人﹄で[[レミ・ド・グールモン]]︵[[:en:Remy de Gourmont|Remy de Gourmont]]︶の詩を読み、﹁一生を通じての精神上の最大の事件﹂<ref>平田︵[[1967年]]︶P133</ref>といえる決定的な影響を受ける。以後も父の赴任に従いなながら、[[ベルギー]]、[[スペイン]]、[[スイス]]、[[パリ]]、[[ブラジル]]、[[ルーマニア]]と、青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。スペイン滞在時は[[マドリード]]日本公使館で、[[マリー・ローランサン]]と交歓し[[ギヨーム・アポリネール]]を教えられる。[[スイス]]では、[[トーマス・マン]]﹃[[魔の山]]﹄の舞台になった[[サナトリウム]]で療養した。
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[[1917年]]︵大正6年︶に[[高等文官試験|外交官及領事官試験]]のために帰国し、[[日夏耿之介]]、[[柳沢健]]、[[長谷川潔]]を知る。第一次論文選考、第二次筆記試験には合格したが口述試験で病弱のため採用されず、外交官への道を断念 |
[[1917年]]︵大正6年︶に[[高等文官試験|外交官及領事官試験]]のために帰国し、[[日夏耿之介]]、[[柳沢健]]、[[長谷川潔]]を知る。第一次論文選考、第二次筆記試験には合格したが口述試験で病弱のため採用されず、外交官への道を断念。翌年に[[浅野財閥|浅野合名会社]]嘱託通弁となり、[[永井荷風]]序文による処女作﹃昨日の花﹄を自費出版。[[リオデジャネイロ]]から﹃三田文学﹄﹃[[炬火]]﹄に寄稿。[[1919年]]︵大正8年︶、最初の詩集﹃[[月光とピエロ]]﹄︵永井荷風序文︶、歌集﹃パンの笛﹄︵与謝野鉄幹、[[与謝野晶子]]序文︶を刊行。以後、[[ブラジル]]の[[バイーア州]]、[[ペルナンブーコ州]]、リオ、[[サンパウロ]]、[[サントス]]や[[アルゼンチン]]、[[ウルグアイ]]に滞在、ウルグアイでは[[ジュール・シュペルヴィエル]]を知る。
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[[1923年]]︵大正12年︶ルーマニア |
[[1923年]](大正12年)ルーマニアへ赴く船中で[[ポール・モラン]]『夜をひらく』を訳し、パリにモラン自身を訪ね翻訳出版の快諾を得た。長谷川潔や鈴木龍二らと再会交流し、[[藤田嗣治]]<ref>1936年のジャン・コクトー来日時には、藤田も同行した。</ref>や詩人アンドレ・サルモンらと交友。[[1925年]](大正14年)に帰国した。 |
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以後その仕事は作詩、作歌にとどまらず、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、多数の出版を手がけ、生涯に刊行された著訳書は、300点を超える。
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以後その仕事は作詩、作歌にとどまらず、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、多数の出版を手がけ、生涯に刊行された著訳書は、300点を超える。
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=== 帰国後の詩作活動 === |
=== 帰国後の詩作活動 === |
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[[File:Jean Cocteau in Japan.JPG|thumb|250px|訪日時のコクトー(中央)、左が堀口大學]] |
[[File:Jean Cocteau in Japan.JPG|thumb|250px|訪日時のコクトー(中央)、左が堀口大學]] |
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彼の斬新な訳文は当時の文学青年に多大な影響を与え、特に[[新感覚派]]運動の誘因となった。帰国後に[[文化学院]]大学部でフランス近代詩を講ずる。以後、ヴェルレエヌの研究評伝を手がけ、戯曲訳にも手を染め、[[ジャン・コクトー]]をはじめ、 |
彼の斬新な訳文は当時の文学青年に多大な影響を与え、特に[[新感覚派]]運動の誘因となった。帰国後に[[文化学院]]大学部でフランス近代詩を講ずる。以後、ヴェルレエヌの研究評伝を手がけ、戯曲訳にも手を染め、[[ジャン・コクトー]]をはじめ、11家13篇を訳す。[[1928年]]︵[[昭和]]3年︶日夏耿之介、[[西條八十]]との共同編集で詩誌﹃[[パンテオン]]﹄を創刊。[[岩佐東一郎]]、[[青柳瑞穂]]、[[城左門]]、[[田中冬二]]、[[矢野目源一]]、[[熊田精華]]らの若い詩人が集った。4月に文化学院を辞任。しかし、翌年に日夏耿之介と確執、決別し﹃パンテオン﹄が廃刊。自ら後継詩誌﹃オルフェオン﹄を[[第一書房 (第1期)|第一書房]]から創刊し、新たに[[菱山修三]]が加入、機知感覚の詩風は、[[シュルレアリスム]]詩﹃[[詩と詩論]]﹄と共に詩壇に新風を与えた。
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[[1932年]]︵昭和7年︶[[小石川区]]︵現・[[文京区]]西部辺り︶に居を構え、6月に﹃昼顔﹄を発行するが発禁処分となる。[[1935年]]︵昭和10年︶に[[日本ペンクラブ]] |
[[1932年]]︵昭和7年︶[[小石川区]]︵現・[[文京区]]西部辺り︶に居を構え、6月に﹃昼顔﹄を発行するが発禁処分となる。[[1935年]]︵昭和10年︶に[[日本ペンクラブ]]副会長に推される︵会長・[[島崎藤村]]︶、文芸誌﹃[[若草]]﹄の詩選を担当し、京都の﹃時世粧﹄の編纂人となる。[[1936年]]︵昭和11年︶5月にコクトーが来日した際は[[帝国ホテル]]に同宿して[[歌舞伎]]などを案内<ref>西川正也﹃コクトー、1936年の日本を歩く﹄︵中央公論新社、2004年︶に詳しい。</ref>した。[[国家総動員法]]公布に伴い、日本学者の[[ジョルジュ・ボノー]]と[[野尻湖]]畔のレーキサイドホテルにこもり、仏訳に専心した。しかし、著書が[[情報局]]検閲で削除されるなど思想弾圧を受けた。[[1941年]]︵昭和16年︶に[[静岡県]]興津に疎開。翌年に師・与謝野晶子が死去し、青山で挽歌十首を捧げた。[[1945年]]︵昭和20年︶に[[静岡大空襲|空襲]]下の静岡を脱出し、新潟県[[関川村 (新潟県中頸城郡)|関川村]]︵現‥[[妙高市]]︶に再疎開。秋には父が亡くなり故郷で葬った。[[1946年]]︵昭和21年︶より新潟県[[高田市]]︵現・[[上越市]]︶に転居<ref>[https://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20190213450721.html 高田の文化育んだ堀口大学 上越の旧居跡に案内板]</ref>。
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=== 戦後 === |
=== 戦後 === |
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[[ファイル:Horiguchi Daigaku 1948.JPG|サムネイル|疎開先の高田にて(1948年)]] |
[[ファイル:Horiguchi Daigaku 1948.JPG|サムネイル|疎開先の高田にて(1948年)]] |
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[[1947年]]︵昭和22年︶に詩集五冊を上梓したのを皮切りに著作活動を再開。翌年に[[東郷豊治]]と[[西蒲原郡]]の旧家を訪ね、[[良寛]]の遺墨を観る。[[1950年]]︵昭和25年︶に |
[[1947年]]︵昭和22年︶に詩集五冊を上梓したのを皮切りに著作活動を再開。翌年に[[東郷豊治]]と[[西蒲原郡]]の旧家を訪ね、[[良寛]]の遺墨を観る。[[1950年]]︵昭和25年︶に疎開先から引き揚げ、[[神奈川県]][[湘南]]の[[葉山町]]に終生在住した。[[白水社]]の[[草野貞之]]の知遇により、[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]﹃[[悪の華]]﹄を全訳。
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[[1957年]]︵昭和32年︶に[[日本芸術院]]会員。9月に国際[[日本ペンクラブ|ペン大会]]会長として来日した[[アンドレ・シャンソン]]と会談。1959年﹃夕の虹﹄にて第10回[[読売文学賞]]を受賞。[[日本現代詩人会]]の﹁詩祭﹂で顕彰され、[[上司海雲]]と東郷豊治の案内で、[[秋篠寺]]、[[唐招提寺]]、[[薬師寺]]などを参観、日本全国を旅した。[[室生犀星]]詩集賞や[[読売文学賞]]選考委員となる。
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[[1957年]]︵昭和32年︶に[[日本芸術院]]会員。9月に国際[[日本ペンクラブ|ペン大会]]会長として来日した[[アンドレ・シャンソン]]と会談。[[1959年]]︵昭和34年︶﹃夕の虹﹄にて第10回[[読売文学賞]]を受賞。[[日本現代詩人会]]の﹁詩祭﹂で顕彰され、[[上司海雲]]と東郷豊治の案内で、[[秋篠寺]]、[[唐招提寺]]、[[薬師寺]]などを参観、日本全国を旅した。[[室生犀星]]詩集賞や[[読売文学賞]]選考委員となる。
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[[1967年]]︵昭和42年︶1月 |
[[1967年]]︵昭和42年︶1月の宮中[[歌会始]]︵お題は﹁魚﹂︶では、[[召人]]として﹁深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり﹂と詠んだ<ref>[https://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/utakai-s42.html 昭和42年歌会始 お題﹁魚﹂] - 宮内庁</ref>。生物学者でもある[[昭和天皇]]はたいそう喜んだとされるが、一部には、天皇本人を目の前にしての批判︵諌言︶であると解する向きもある。4月に[[勲三等]][[瑞宝章]]を受章。
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[[1970年]]︵昭和45年︶[[日本詩人クラブ]]名誉会員。[[日本万国博覧会|大阪万博]]﹁日本の日﹂に式典歌として作詞した﹁日本新頌﹂﹁富士山点描﹂を発表し、11月に[[文化功労者]]。翌年、[[日本現代詩人会]]名誉会員。[[1973年]]︵昭和48年︶10月に新潟総合テレビ文化賞。 |
[[1970年]]︵昭和45年︶[[日本詩人クラブ]]名誉会員。[[日本万国博覧会|大阪万博]]﹁日本の日﹂に式典歌として作詞した﹁日本新頌﹂﹁富士山点描﹂を発表し、11月に[[文化功労者]]に選定。翌年、[[日本現代詩人会]]名誉会員に。[[1973年]]︵昭和48年︶10月に新潟総合テレビ文化賞を受賞。[[1974年]]︵昭和49年︶は岩佐東一郎の葬儀に参列、同年秋に[[勲二等]][[瑞宝章]]を受勲。[[1975年]]︵昭和50年︶に父の[[漢詩]]に和訓を付し、年譜を添え﹃長城詩沙﹄︵大門出版︶を上木し、宿願を果たした。[[1979年]]︵昭和54年︶11月に[[文化勲章]]を受章。[[東大寺]]落慶法要式典歌作詞のため、[[奈良県|奈良]]へ取材旅行。[[1981年]]3月15日、急性肺炎のため葉山町の自宅で死去<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]﹃作家の臨終・墓碑事典﹄︵東京堂出版、1997年︶289頁</ref>。[[享年]]89。
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葉山町神社境内「人に」、 |
葉山町[[森戸大明神|森戸神社]]境内ぶ「人に」、日光市[[龍王峡]]に「石」、上越市[[高田城址公園]]に「高田に残す」の詩碑が建立されている。 |
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== 人物 == |
== 人物 == |
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<!--出典なし--><!--* 訳詩集『[[月下の一群 (堀口大學)|月下の一群]]』は、[[上田敏]]『[[海潮音 (詩集)|海潮音]]』や[[永井荷風]]『珊瑚集』と並ぶ日本三大訳詩集とされる。--> |
<!--出典なし--><!--* 訳詩集『[[月下の一群 (堀口大學)|月下の一群]]』は、[[上田敏]]『[[海潮音 (詩集)|海潮音]]』や[[永井荷風]]『珊瑚集』と並ぶ日本三大訳詩集とされる。--> |
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* [[三島由紀夫]]も少年期に、大學訳の[[レイモン・ラディゲ]]『[[ドルジェル伯の舞踏会]]』に多大な影響を受けた一人である<ref name="issatsu">[[三島由紀夫]]「一冊の本――ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』」([[朝日新聞]] 1963年12月1日号に掲載)</ref>。 |
* [[三島由紀夫]]も少年期に、大學訳の[[レイモン・ラディゲ]]『[[ドルジェル伯の舞踏会]]』に多大な影響を受けた一人である<ref name="issatsu">[[三島由紀夫]]「一冊の本――ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』」([[朝日新聞]] 1963年12月1日号に掲載)</ref>。 |
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* 疎開に際し父・九萬一のも含め蔵書を売却した |
* 疎開に際し父・九萬一の分も含め蔵書を売却した。その豪華さは荷風﹃[[断腸亭日乗]]﹄や、[[中村真一郎]]の回想エセー<ref>中村真一郎﹃緑色の時間のなかで﹄、107-110頁に収録。︵筑摩書房、1989年︶</ref>に記されている。大學自身は﹁あれを売ったお金で、田舎に隠れて︵中略︶何もしないで遊んで暮らした﹂と述べた。
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== 著書 == |
== 著書 == |
2024年5月13日 (月) 13:06時点における版
堀口 大學 (ほりぐち だいがく) | |
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ペンネーム | 十三日月 |
誕生 |
1892年1月8日 日本・東京府東京市本郷区 (現:文京区) |
死没 |
1981年3月15日(89歳没) 日本・神奈川県三浦郡葉山町 |
墓地 | 日本・鎌倉霊園 |
職業 | 詩人・歌人・翻訳家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 慶應義塾大学部文学科予科中退 |
活動期間 | 1918年 - 1980年 |
ジャンル | 詩・翻訳・文芸評論 |
文学活動 |
象徴主義 ダダイスム 高踏派 |
代表作 |
『月光とピエロ』(1908年) 『月下の一群』(1925年、訳詩集) 『夕の虹』(1958年) |
主な受賞歴 |
読売文学賞(1959年) 勲三等瑞宝章(1967年) 新潟総合テレビ文化賞(1973年) 勲二等瑞宝章(1974年) 文化勲章(1979年) |
デビュー作 | 『昨日の花』(1918年) |
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