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蒸気機関車に関する限り、師・朝倉と島の設計思想は、日本の技術レベル相応に[[プロイセン邦有鉄道]]の流れをくんだ古い保守的設計を用い、海外技術の[[盗作|剽窃的引用]]で若干のアップデートを図ったにすぎない、との厳しい批判もある。 |
蒸気機関車に関する限り、師・朝倉と島の設計思想は、日本の技術レベル相応に[[プロイセン邦有鉄道]]の流れをくんだ古い保守的設計を用い、海外技術の[[盗作|剽窃的引用]]で若干のアップデートを図ったにすぎない、との厳しい批判もある。 |
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島の担当した大形機の設計は総じて問題点が多く、 |
島の担当した大形機の設計は総じて問題点が多く、島は蒸気機関車設計において軽量化にこだわるあまり、大形機の設計技量を持ち合わせていなかったとの批評もある{{誰|date=2021年7月14日 (水) 21:18 (UTC)}}。なお、同時期の蒸気機関車技術者が時代にそぐわない機関車<ref>[https://www.steamindex.com/jile/jile37.htm | Journal Instiution Locomotive Engineers Volume 37 (1947)]steamindex</ref>や複雑で高価な陳腐な存在を作り<ref>Revue générale des chemins de fer 1950年1月号 P21</ref>、大きな間違いを犯したものも少なくない中<ref>[https://rchs.org.uk/wp-content/uploads/2021/03/FINAL-Wilson-LNER_2.pdf#page=33| What were the investment dilemmas of the LNER in the inter-war years and did they successfully overcome them? P33]The Railway & Canal Historical Society</ref>、C54の失敗を経て傑作機である[[国鉄C55形蒸気機関車|C55形]]と[[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]を設計しており、D51も開発目的である低規格線路への配備と軌道に対する悪影響の低減を果たしており<ref>﹃D51 Mikado﹄p.65</ref>、乗務員と保守側からの評価も高く<ref>﹁蒸気機関車D51大辞典 P12﹂</ref><ref>﹁栄光の日本の蒸気機関車﹂P197</ref><ref>﹁蒸気機関車のすべて﹂P273</ref>扱いやすい実用面で優れた機関車を作っている。別項[[日本の蒸気機関車史]]にもあるとおり、鉄道電化の方針が既に決まっていたため、思い切った設計が難しく地方路線への転用も考慮した制約の多い状況であったことも事実である。
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むしろ島の慧眼は、当時の蒸気機関車全盛時において、日本の[[軌道 (鉄道)|軌道]]条件が劣悪な[[狭軌]]鉄道における蒸気機関車の限界と、[[電車]]・[[気動車]]に代表される[[動力分散方式]]の将来性を見抜いていたことにあった。この点は、熱心な広軌・電化論者であった、父・安次郎と共通する部分でもある<ref>{{Cite web|title=国鉄技師長・島秀雄氏が語る「昭和の鉄道車両」 (2)|url=https://toyokeizai.net/articles/-/295354|website=東洋経済オンライン|date=2019-08-04|accessdate=2020-09-21|publisher=}}</ref>。鉄道技術者としては、概して極度の高性能を狙わず、在来技術の地道な改良で一定水準の性能と確実な信頼性を達成しようとするリスク回避のポリシーがあり、その石橋を叩いて渡る姿勢は部下たちから影で「慎重居士」とあだ名される程であった<ref>{{Cite web|title=「電気の超特急を走らせろ」新幹線の父・島秀雄【前編】|url=https://emira-t.jp/eq/6976/|website=EMIRA|accessdate=2020-09-21}}</ref>。これが新幹線の堅実な成功に繋がったが{{refnest|group=注|ただし、(東海道)新幹線について「全て既存技術」と説明したのは、[[世界銀行]]からの借款を受ける際に「『実験的』(experimental)なものには融資できない」という注意に反論したものである<ref name=":1" />こと等、文脈に注意する必要がある。}}、{{独自研究範囲|一方で後進の国鉄技術者にも同様なセオリーを根付かせるなど、その経歴には功罪相半ばするものがあった。|date=2020年9月}} |
むしろ島の慧眼は、当時の蒸気機関車全盛時において、日本の[[軌道 (鉄道)|軌道]]条件が劣悪な[[狭軌]]鉄道における蒸気機関車の限界と、[[電車]]・[[気動車]]に代表される[[動力分散方式]]の将来性を見抜いていたことにあった。この点は、熱心な広軌・電化論者であった、父・安次郎と共通する部分でもある<ref>{{Cite web|title=国鉄技師長・島秀雄氏が語る「昭和の鉄道車両」 (2)|url=https://toyokeizai.net/articles/-/295354|website=東洋経済オンライン|date=2019-08-04|accessdate=2020-09-21|publisher=}}</ref>。鉄道技術者としては、概して極度の高性能を狙わず、在来技術の地道な改良で一定水準の性能と確実な信頼性を達成しようとするリスク回避のポリシーがあり、その石橋を叩いて渡る姿勢は部下たちから影で「慎重居士」とあだ名される程であった<ref>{{Cite web|title=「電気の超特急を走らせろ」新幹線の父・島秀雄【前編】|url=https://emira-t.jp/eq/6976/|website=EMIRA|accessdate=2020-09-21}}</ref>。これが新幹線の堅実な成功に繋がったが{{refnest|group=注|ただし、(東海道)新幹線について「全て既存技術」と説明したのは、[[世界銀行]]からの借款を受ける際に「『実験的』(experimental)なものには融資できない」という注意に反論したものである<ref name=":1" />こと等、文脈に注意する必要がある。}}、{{独自研究範囲|一方で後進の国鉄技術者にも同様なセオリーを根付かせるなど、その経歴には功罪相半ばするものがあった。|date=2020年9月}} |