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「松平定敬」の版間の差分

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| 死没 = [[明治]]41年([[1908年]])[[7月12日]]<ref group="注釈" name="shibotsu">[[明治]]41年([[1908年]])[[7月21日]]没とも伝わる。</ref>

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| 改名 = 銈之助(幼名)→定敬

| 改名 = 銈之助(幼名)→定敬

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| 別名 = 一色三千太郎

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| 墓所 = [[東京都]][[豊島区]][[駒込]]の[[染井霊園]]

| 墓所 = [[東京都]][[豊島区]][[駒込]]の[[染井霊園]]

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[[元治]]元年([[1864年]])に[[京都所司代]]に任命され、[[京都守護職]]の実兄[[松平容保]](会津藩主)、朝廷から新設の[[禁裏御守衛総督]]・摂海防禦指揮に任命された元[[将軍後見職]]の一橋徳川家当主[[徳川慶喜]]と連携し、幕府から半ば独立して朝廷を援護する勢力を形成する(近年では一橋・会津・桑名の頭文字をとって[[一会桑政権]]と呼ばれる)。同年の[[禁門の変]]では会津藩とともに[[長州藩]]兵を撃退し、水戸[[天狗党の乱]]でも出兵している。髪を総髪にし、洋装で馬に乗り都大路を闊歩した。

[[元治]]元年([[1864年]])に[[京都所司代]]に任命され、[[京都守護職]]の実兄[[松平容保]](会津藩主)、朝廷から新設の[[禁裏御守衛総督]]・摂海防禦指揮に任命された元[[将軍後見職]]の一橋徳川家当主[[徳川慶喜]]と連携し、幕府から半ば独立して朝廷を援護する勢力を形成する(近年では一橋・会津・桑名の頭文字をとって[[一会桑政権]]と呼ばれる)。同年の[[禁門の変]]では会津藩とともに[[長州藩]]兵を撃退し、水戸[[天狗党の乱]]でも出兵している。髪を総髪にし、洋装で馬に乗り都大路を闊歩した。



慶応4年([[1868年]])に[[鳥羽・伏見の戦い]]が起こり[[戊辰戦争]]が始まると、慶喜に従い江戸の[[霊巌寺 (江東区)|霊巌寺]]にて謹慎した。[[江戸城]]では抗戦派と恭順派が争い、[[大久保一翁]]と[[勝海舟]]により恭順工作が進められていた。さらに、桑名藩は会津と並んで新政府からは敵視されており(朝敵5等級の認定のうち、第1等が[[徳川慶喜]]、第2等が[[松平容保]]と定敬<ref>『柏崎市史 下巻』P8、市史編さん委員会、1990年</ref>)、国元では新政府軍が押し寄せてくる懸念から、先代当主の遺児・万之助(定教)を担いで恭順することを家老たちが決めていた。そのため、徹底抗戦派と見られていた定敬の帰国は困難な状況となった。定敬は一翁から桑名藩の飛び地領である[[越後国]][[柏崎市|柏崎]]へ赴くことを勧められ、[[横浜港|横浜]]から[[プロイセン王国|プロイセン]]船「コスタリカ号」で柏崎へ渡る。[[鯨波戦争]]では後方連絡の都合から指揮を家臣に任せて柏崎から会津へ移動した。その後は[[若松城|会津若松城]]で兄の容保と再会し、[[仙台港|仙台]]から[[榎本武揚]]の艦隊で[[函館市|箱館]]へ渡った。[[箱館戦争]]終結前の明治2年(1869年)4月、従者とともにアメリカ船に乗り横浜を経て[[上海市|上海]]へ渡るも、路銀が無くなったため外国への逃亡を断念して同年5月18日には横浜へ戻り<ref>郡義武『シリーズ藩物語、桑名藩』[[現代書館]]、196-197頁</ref>降伏し、明治5年([[1872年]])1月6日に赦免される。同年2月に許嫁の初子と結婚した。同年3月、明治政府に対し、平民になることを願い出たものの、認められなかった。同年11月、明治政府から欧米視察の許可を得る。明治6年4月、病気のために海外視察の中止を申請する。

慶応4年([[1868年]])に[[鳥羽・伏見の戦い]]が起こり[[戊辰戦争]]が始まると、慶喜に従い江戸の[[霊巌寺 (江東区)|霊巌寺]]にて謹慎した。[[江戸城]]では抗戦派と恭順派が争い、[[大久保一翁]]と[[勝海舟]]により恭順工作が進められていた。さらに、桑名藩は会津と並んで新政府からは敵視されており(朝敵5等級の認定のうち、第1等が[[徳川慶喜]]、第2等が[[松平容保]]と定敬<ref>『柏崎市史 下巻』P8、市史編さん委員会、1990年</ref>)、国元では新政府軍が押し寄せてくる懸念から、先代当主の遺児・万之助(定教)を担いで恭順することを家老たちが決めていた。そのため、徹底抗戦派と見られていた定敬の帰国は困難な状況となった。定敬は一翁から桑名藩の飛び地領である[[越後国]][[柏崎市|柏崎]]へ赴くことを勧められ、[[横浜港|横浜]]から[[プロイセン王国|プロイセン]]船「コスタリカ号」で柏崎へ渡る。[[鯨波戦争]]では後方連絡の都合から指揮を家臣に任せて柏崎から会津へ移動した。その後は[[若松城|会津若松城]]で兄の容保と再会し、[[仙台港|仙台]]から[[榎本武揚]]の艦隊で[[函館市|箱館]]へ渡った。このころ、一色三千太郎(いしき みちたろう)と名乗っていた<ref>[[河合敦]]『殿様は「明治」をどう生きたのか』(洋泉社、2014年)p.27</ref>。


[[]]218694[[|]]518<ref>[[]]196-197</ref>5[[1872]]16231164


明治6年(1873年)にアメリカ人宣教師[[サミュエル・ロビンス・ブラウン]]が横浜市中共立修文館を設立すると、定敬は養子の定教と家臣の[[駒井重格]]ら数名を連れて入学し、ブラウンに英語を学ぶ。しかし、すぐにブラウンは共同経営社の[[川村敬三]]とトラブルがあり辞任することになる。定敬ら教え子はブラウンに私塾を開くよう勧め、ブラウンは定敬、駒井重格と元会津藩士[[井深梶之助]]らの尽力によりブラウン塾を開校する。開校時の塾生は定敬の家臣と井深ら10人前後だけだったが、その後、[[押川方義]]、[[植村正久]]らが加わり20人以上になった。その中で、定敬と定教は明治7年(1874年)11月に、駒井重格は12月に渡米した<ref>『横浜開港と宣教師達』、99ページ</ref>。

明治6年(1873年)にアメリカ人宣教師[[サミュエル・ロビンス・ブラウン]]が横浜市中共立修文館を設立すると、定敬は養子の定教と家臣の[[駒井重格]]ら数名を連れて入学し、ブラウンに英語を学ぶ。しかし、すぐにブラウンは共同経営社の[[川村敬三]]とトラブルがあり辞任することになる。定敬ら教え子はブラウンに私塾を開くよう勧め、ブラウンは定敬、駒井重格と元会津藩士[[井深梶之助]]らの尽力によりブラウン塾を開校する。開校時の塾生は定敬の家臣と井深ら10人前後だけだったが、その後、[[押川方義]]、[[植村正久]]らが加わり20人以上になった。その中で、定敬と定教は明治7年(1874年)11月に、駒井重格は12月に渡米した<ref>『横浜開港と宣教師達』、99ページ</ref>。

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** 8月15日、江戸における伊勢の津藩(藤堂家)の藩邸にて永禁錮処分。

** 8月15日、江戸における伊勢の津藩(藤堂家)の藩邸にて永禁錮処分。

* 明治4年([[1871年]])3月15日、身柄を伊勢桑名藩に移動。

* 明治4年([[1871年]])3月15日、身柄を伊勢桑名藩に移動。

* 明治5年([[1872年]])1月6日、謹慎を免ず。

* 明治5年([[1872年]])1月6日、謹慎を免ず。

* 明治9年([[1876年]])11月11日、従五位に叙位。

* 明治9年([[1876年]])11月11日、従五位に叙位。

* 明治10年([[1877年]])12月3日、[[正五位]]に昇叙。

* 明治10年([[1877年]])12月3日、[[正五位]]に昇叙。

* 明治20年([[1889年|1887年]])12月26日 [[正四位]]に昇叙。

* 明治20年([[1887年]])12月26日 [[正四位]]に昇叙。

* 明治27年([[1894年]])

* 明治27年([[1894年]])

** 1月24日、兄松平容保のあとを継承し、日光東照宮宮司就任。

** 1月24日、兄松平容保のあとを継承し、日光東照宮宮司就任。


2018年10月10日 (水) 12:39時点における版

 

凡例

松平定敬
松平定敬(徳川林政史研究所蔵、1862年)
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 弘化3年12月2日1847年1月18日
死没 明治41年(1908年7月12日[注釈 1]
改名 銈之助(幼名)→定敬
別名 一色三千太郎
戒名 大心院殿[注釈 2]
墓所 東京都豊島区駒込染井霊園
官位 従五位越中守、従四位侍従
近衛権中将、従二位
幕府 江戸幕府溜間詰京都所司代
伊勢桑名藩
氏族 高須松平家(四谷松平家)久松松平家
父母 父:松平義建、養父:松平定猷
兄弟 源之助、徳川慶勝武成、整三郎
徳川茂徳容保定敬、鐡丸、義勇
正室:初子松平定猷の娘)
側室:別所儀兵衛の娘
正雄定晴、文子(酒井忠一室)
養子:定教
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函館戦争中の松平定敬
高須四兄弟(1878年9月撮影)
左から定敬、容保、茂栄、慶勝

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西







3






[ 3]

4210-3423













(1968)  

(1986)  

(1988)  

(1990)  

(1990)  

(1998)  

(1998)  

!(2004)  

(2013)  

注釈



(一)^ ab411908721

(二)^ 殿[1]

(三)^ [6]5212

出典

  1. ^ 『松平定敬のすべて』(新人物往来社
  2. ^ 『柏崎市史 下巻』P8、市史編さん委員会、1990年
  3. ^ 河合敦『殿様は「明治」をどう生きたのか』(洋泉社、2014年)p.27
  4. ^ 郡義武『シリーズ藩物語、桑名藩』現代書館、196-197頁
  5. ^ 『横浜開港と宣教師達』、99ページ
  6. ^ 『平成新修旧華族家系大成』

関連項目