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== 生涯 ==

== 生涯 ==

[[弘化]]3年([[1847年]])122日、[[美濃国|美濃]][[高須藩]]主[[松平義建]]の八男として[[江戸]][[市谷]]の[[江戸藩邸]]で生まれる。

[[弘化]]3年12月2日([[1847年]]118、[[美濃国|美濃]][[高須藩]]主[[松平義建]]の八男として[[江戸]][[市谷]]の[[江戸藩邸]]で生まれる。



[[安政]]6年([[1859年]])に[[桑名藩]]主[[松平定猷]]が死去すると、長男・万之助(後の[[松平定教|定教]])が3歳と幼少、かつ妾腹の庶子であったため、14歳で定猷の正室の間に儲けた娘・初姫(当時3歳)の婿養子として迎えられ藩主となり、[[従五位]]下[[越中国|越中]]守に叙任される。

[[安政]]6年([[1859年]])に[[桑名藩]]主[[松平定猷]]が死去すると、長男・万之助(後の[[松平定教|定教]])が3歳と幼少、かつ妾腹の庶子であったため、14歳で定猷の正室の間に儲けた娘・初姫(当時3歳)の婿養子として迎えられ藩主となり、[[従五位]]下[[越中国|越中]]守に叙任される。


2019年1月31日 (木) 14:37時点における版

 

凡例

松平定敬
松平定敬(徳川林政史研究所蔵、1862年)
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 弘化3年12月2日1847年1月18日
死没 明治41年(1908年7月21日
改名 銈之助(幼名)→定敬
別名 一色三千太郎
戒名 大心院殿[注釈 1]
墓所 東京都豊島区駒込染井霊園
官位 従五位越中守、従四位侍従
近衛権中将、従二位
幕府 江戸幕府溜間詰京都所司代
伊勢桑名藩
氏族 高須松平家(四谷松平家)久松松平家
父母 父:松平義建、養父:松平定猷
兄弟 源之助、徳川慶勝武成、整三郎
徳川茂徳容保定敬、鐡丸、義勇
正室:初子松平定猷の娘)
側室:別所儀兵衛の娘
正雄定晴、文子(酒井忠一室)
養子:定教
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函館戦争中の松平定敬
高須四兄弟(1878年9月撮影)
左から定敬、容保、茂栄、慶勝

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(1988)  

(1990)  

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(1998)  

(1998)  

!(2004)  

(2013)  

注釈

  1. ^ 墓石には以下「大心院殿恭蓮社善□□晴山大居士」と刻まれ、欠字(□□)部分は未詳[1]
  2. ^ によると蜂須賀茂韶夫人となった随子と同一人物とされるが[7]、「後室」初子とは明治5年2月に結婚しているのに対して「先室」隋子との離婚は明治12年とあり矛盾がある点や、定敬が桑名藩を継いだ経緯から見ても、この結婚自体に疑念がある。

出典



(一)^ 

(二)^  P81990

(三)^ 殿2014p.27

(四)^ 196-197

(五)^ 99

(六)^  75221908723

(七)^ 

関連項目