「西洋美術史」の版間の差分
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一方、イタリア中部に定着した[[エトルリア]]人は、ギリシア美術の影響を受けつつも、独自の宗教観や社会制度を背景に独特の美術文化を形成した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=31}}{{Sfn|『イタリアを知るための55章』|1999|p=16}}。一般に[[エトルリア美術]]は東方化様式期、アルカイック期、古典期(中間期)、ヘレニズム期の4つに分類される{{refnest|group=注釈|先エトルリア文化である[[ヴィッラノーヴァ文化]]の時代を加える場合もある{{Sfn|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994|p=134}}。}}が、もっとも繁栄を見たのが紀元前6世紀初頭から紀元前5世紀前半にかけてのアルカイック期130年間である{{Sfn|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994|pp=134-135}}。 |
一方、イタリア中部に定着した[[エトルリア]]人は、ギリシア美術の影響を受けつつも、独自の宗教観や社会制度を背景に独特の美術文化を形成した{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=31}}{{Sfn|『イタリアを知るための55章』|1999|p=16}}。一般に[[エトルリア美術]]は東方化様式期、アルカイック期、古典期(中間期)、ヘレニズム期の4つに分類される{{refnest|group=注釈|先エトルリア文化である[[ヴィッラノーヴァ文化]]の時代を加える場合もある{{Sfn|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994|p=134}}。}}が、もっとも繁栄を見たのが紀元前6世紀初頭から紀元前5世紀前半にかけてのアルカイック期130年間である{{Sfn|『エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち』|1994|pp=134-135}}。 |
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都市や建築の遺構は少ないが、ギリシア美術で頻繁にモチーフとされた神話を描いた陶器などが出土している他、墓室壁画においては葬儀宴会、舞踏、競技、狩猟など日常生活に密着したモチーフが好んで選択されており、エトルリア人独自の来世観を保持していたことが |
都市や建築の遺構は少ないが、ギリシア美術で頻繁にモチーフとされた神話を描いた陶器などが出土している他、墓室壁画においては葬儀宴会、舞踏、競技、狩猟など日常生活に密着したモチーフが好んで選択されており、エトルリア人独自の来世観を保持していたことがうかがえる{{Sfn|﹃増補新装 西洋美術史﹄|2002|p=31}}{{Sfn|﹃イタリアを知るための55章﹄|1999|pp=15-16}}{{Sfn|﹃西洋美術史入門﹄|2012|p=150}}。紀元前7世紀から顕現したこうした兆候はヘレニズム期まで継続していた{{Sfn|﹃増補新装 西洋美術史﹄|2002|p=31}}。彫刻分野も遺例が少ないものの、紀元前6世紀末に活躍した{{仮リンク|ウルカ|en|Vulca}}はエトルリア人彫刻家として名が知られている特筆すべき人物で、ヴェイオから出土した﹁アポロン﹂など、イオニア彫刻の影響を強く受けたテラコッタ像を制作している{{Sfn|﹃増補新装 西洋美術史﹄|2002|p=31}}{{Sfn|﹃エトルリア文明 - 古代イタリアの支配者たち﹄|1994|p=136}}。
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[[ファイル:Colosseo 2020.jpg|サムネイル|190x190ピクセル|ローマの代表的な観光地として知られる[[コロッセオ]]。]] |
[[ファイル:Colosseo 2020.jpg|サムネイル|190x190ピクセル|ローマの代表的な観光地として知られる[[コロッセオ]]。]] |
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[[File:Arch of Constantine (Rome) - South side, from Via triumphalis.jpg|thumb|190px|マクセンティウス帝に勝利したことを記念して建造された[[コンスタンティヌスの凱旋門]]。]] |
[[File:Arch of Constantine (Rome) - South side, from Via triumphalis.jpg|thumb|190px|マクセンティウス帝に勝利したことを記念して建造された[[コンスタンティヌスの凱旋門]]。]] |
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こうした新しい芸術運動が様々に展開される一方で、[[アンリ・ルソー]]、[[ルイ・ヴィヴァン]]、[[アンドレ・ボーシャン]]、[[セラフィーヌ・ルイ]]といったいわゆる[[素朴派]]と呼ばれる素人画家が多く登場してきたことも、現代絵画の変革を伝える重要な要素のひとつである{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=168}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=68}}。また、[[エコール・ド・パリ]](例:[[マルク・シャガール|シャガール]]、[[モーリス・ユトリロ|ユトリロ]]、[[モイズ・キスリング|キスリング]]、[[シャイム・スーティン|スーティン]]、[[藤田嗣治]])に代表されるように、特定の運動に加わることなく、自己の世界を表現し続けた画家も数多く存在していたことは忘れてはならない{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=168}}{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=174}}。 |
こうした新しい芸術運動が様々に展開される一方で、[[アンリ・ルソー]]、[[ルイ・ヴィヴァン]]、[[アンドレ・ボーシャン]]、[[セラフィーヌ・ルイ]]といったいわゆる[[素朴派]]と呼ばれる素人画家が多く登場してきたことも、現代絵画の変革を伝える重要な要素のひとつである{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=168}}{{Sfn|『20世紀の美術』|2012|p=68}}。また、[[エコール・ド・パリ]](例:[[マルク・シャガール|シャガール]]、[[モーリス・ユトリロ|ユトリロ]]、[[モイズ・キスリング|キスリング]]、[[シャイム・スーティン|スーティン]]、[[藤田嗣治]])に代表されるように、特定の運動に加わることなく、自己の世界を表現し続けた画家も数多く存在していたことは忘れてはならない{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=168}}{{Sfn|『増補新装 西洋美術史』|2002|p=174}}。 |
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1945年、第二次世界大戦が終了すると、戦争の影響を強く |
1945年、第二次世界大戦が終了すると、戦争の影響を強くうかがわせるいわゆる戦後美術が登場した{{Sfn|﹃増補新装 西洋美術史﹄|2002|p=172}}。作品としては[[フランシス・ベーコン (芸術家)|フランシス・ベーコン]]が描いた﹃風景の中の人物﹄、[[ジャン・フォートリエ]]の﹃人質﹄に代表されるような、戦争の悲劇がもたらした人間そのものへの問いかけを含有する悲劇的な様相を表現する傾向にあった{{Sfn|﹃増補新装 西洋美術史﹄|2002|pp=172-173}}。アメーバのような不定形なフォルムと血を連想させる生々しい色彩を用いた[[ヴォルス]]や、幼児や精神障害者の描く原生芸術を追求し、[[アールブリュット]]を提唱した[[ジャン・デュビュッフェ]]なども代表的な画家として挙げられる{{Sfn|﹃増補新装 西洋美術史﹄|2002|p=173}}{{Sfn|﹃西洋美術の歴史﹄|2001|p=442}}。フォートリエが表現した厚塗りの具象的な作品はその後、[[アンフォルメル]]と呼ばれる表現主義的抽象絵画として1950年以降もてはやされることとなる{{Sfn|﹃増補新装 西洋美術史﹄|2002|p=174}}。こうした作品は、保守派ジャーナリズムや一般観衆から﹁子供の悪戯描き﹂と揶揄されながらも感覚に直接訴えかける新鮮な迫力を持った表現形式としてその地位を確立させた{{Sfn|﹃増補新装 西洋美術史﹄|2002|p=174}}。他方で、こうした表現主義的抽象絵画が採った具象的モチーフの拒否を否定することで、現実への復帰を試みた[[ネオダダ]]や[[ポップアート]]が誕生したのもこの時代であった{{Sfn|﹃増補新装 西洋美術史﹄|2002|p=175}}。
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[[File:Spiral-jetty-from-rozel-point.png|thumb|200px|[[ロバート・スミッソン]]の『螺旋状の突堤』。]] |
[[File:Spiral-jetty-from-rozel-point.png|thumb|200px|[[ロバート・スミッソン]]の『螺旋状の突堤』。]] |