「南洋諸島」の版間の差分
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{{基礎情報 過去の国 |
{{基礎情報 過去の国 |
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|略名 = 南洋 |
| 略名 = 南洋 |
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|日本語国名 = 南洋 |
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|公式国名 = |
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|建国時期 = [[1919年]] |
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|亡国時期 = [[1947年]] |
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|先代1 = ドイツ領ニューギニア |
| 先代1 = ドイツ領ニューギニア |
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|先旗1 = Reichskolonialflagge.svg |
| 先旗1 = Reichskolonialflagge.svg |
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|次代1 = 太平洋諸島信託統治領 |
| 次代1 = 太平洋諸島信託統治領 |
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|次旗1 = Flag of the Trust Territory of the Pacific Islands.svg |
| 次旗1 = Flag of the Trust Territory of the Pacific Islands.svg |
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|国旗画像 = Flag of the South Pacific Mandate.svg |
| 国旗画像 = Flag of the South Pacific Mandate.svg |
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|国旗リンク = |
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|国旗幅 = |
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|国旗縁 = |
| 国旗縁 = |
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|国章画像 = Emblem of the South Pacific Mandate.svg |
| 国章画像 = Emblem of the South Pacific Mandate.svg |
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|国章リンク = |
| 国章リンク = |
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|標語追記 = |
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| 国歌 = [[君が代]]<br>[[旧外地の自治体歌#南洋群島|南洋群島統治歌]] |
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|国歌 = |
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|国歌追記 = |
| 国歌追記 = |
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|位置画像 = Sovereignty and Mandate Boundary Lines in 1921 of the Islands of the Pacific.jpg |
| 位置画像 = Sovereignty and Mandate Boundary Lines in 1921 of the Islands of the Pacific.jpg |
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|位置画像説明 = サイパン支庁は[[北マリアナ諸島]]、パラオ支庁は[[パラオ]]、ヤップ支庁は[[ヤップ州]]、トラック支庁は[[チューク州]]、ポナペ支庁は[[ポンペイ州]]と[[コスラエ州]]と[[マーシャル諸島]]の西側、ヤルート支庁はその残りに相当する。 |
| 位置画像説明 = サイパン支庁は[[北マリアナ諸島]]、パラオ支庁は[[パラオ]]、ヤップ支庁は[[ヤップ州]]、トラック支庁は[[チューク州]]、ポナペ支庁は[[ポンペイ州]]と[[コスラエ州]]と[[マーシャル諸島]]の西側、ヤルート支庁はその残りに相当する。 |
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|位置画像幅 = |
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|公用語 = [[日本語]] |
| 公用語 = [[日本語]] |
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|首都 = [[コロール (都市)|コロール]] |
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|元首等肩書 = [[天皇]] |
| 元首等肩書 = [[天皇]] |
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|元首等年代始1 = [[1919年]] |
| 元首等年代始1 = [[1919年]] |
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|元首等年代終1 = [[1926年]] |
| 元首等年代終1 = [[1926年]] |
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|元首等氏名1 = [[大正天皇]] |
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|元首等年代始2 = [[1926年]] |
| 元首等年代始2 = [[1926年]] |
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|元首等年代終2 = [[1947年]] |
| 元首等年代終2 = [[1947年]] |
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|元首等氏名2 = [[昭和天皇]] |
| 元首等氏名2 = [[昭和天皇]] |
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|首相等肩書 = [[南洋庁長官]] |
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|首相等氏名1 = [[手塚敏郎]] |
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|首相等年代終2 = [[1946年]] |
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|首相等氏名2 = [[細萱戊子郎]] |
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|面積測定時期1 = |
| 面積測定時期1 = |
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|面積値1 = 1,779 |
| 面積値1 = 1,779 |
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|人口測定時期1 = [[1937年]] |
| 人口測定時期1 = [[1937年]] |
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|人口値1 = 109,847 |
| 人口値1 = 109,847 |
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|変遷1 = [[ヴェルサイユ条約]]により委任統治開始 |
| 変遷1 = [[ヴェルサイユ条約]]により委任統治開始 |
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|変遷年月日1 = [[1919年]][[11月7日]] |
| 変遷年月日1 = [[1919年]][[11月7日]] |
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|変遷2 = [[太平洋諸島信託統治領]]成立 |
| 変遷2 = [[太平洋諸島信託統治領]]成立 |
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|変遷年月日2 = [[1947年]][[7月18日]] |
| 変遷年月日2 = [[1947年]][[7月18日]] |
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|通貨 = [[円 (通貨)|円]] |
| 通貨 = [[円 (通貨)|円]] |
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|通貨追記 = |
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| 時間帯 = +9 - +11 |
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|国際電話番号 = |
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|国際電話番号追記 = |
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|注記 = <!---{{Reflist|group="*"}}---> |
| 注記 = <!---{{Reflist|group="*"}}---> |
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'''南洋諸島'''(なんようしょとう)は、かつて[[大日本帝国]]が[[国際連盟]]によって[[委任統治]]を託された西[[太平洋]]の[[赤道]]付近に広がる[[ミクロネシア]]の島々を指す。現在の[[北マリアナ諸島]]・[[パラオ]]・[[マーシャル諸島]]・[[ミクロネシア連邦]]に相当する地域である。 |
'''南洋諸島'''(なんようしょとう、{{旧字体|'''南洋諸󠄀島'''}})は、かつて[[大日本帝国]]が[[国際連盟]]によって[[委任統治]]を託された西[[太平洋]]の[[赤道]]付近に広がる[[ミクロネシア]]の島々を指す。現在の[[北マリアナ諸島]]・[[パラオ]]・[[マーシャル諸島]]・[[ミクロネシア連邦]]に相当する地域である。 |
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別名は'''南洋群島'''(なんようぐんとう)。当時の日本人は'''内南洋'''(うちなんよう)とも言った<ref>ちなみに外南洋は、内南洋以外のミクロネシア、[[メラネシア]]、[[島嶼部東南アジア]]を指す。</ref>。 |
別名は'''南洋群島'''︵なんようぐんとう︶。当時の日本人は'''内南洋'''︵うちなんよう︶とも言った<ref group="注釈">ちなみに外南洋は、内南洋以外のミクロネシア、[[メラネシア]]、[[島嶼部東南アジア]]を指す。</ref>。
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== 前史 === |
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{{Main2|前近代の歴史については「[[スペイン領東インド]]」及び「[[ドイツ領ニューギニア]]」も}} |
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この地域の考古学的研究はまだ発展途上であり、はっきりしたことはわかっていないが、文化的に見て、フィリピン周辺から直接パラオ、ヤップなどに植民したグループと、東ポリネシア方面から[[カロリン諸島]]に植民したグループがいたのではないかと推測されている。この地域の先住民の文化を最も強く特色づけているのは、シングル・アウトリガー・タイプの航海カヌーであり、彼らはこれを用いて広範な交流を行っていた。特にヤップ島はこれらの島々の中でも最も強力な権力を持ち、カロリン諸島の島々から定期的にヤップ島まで貢ぎ物を届ける航海が行われていた。ヤップ島の酋長の権力は現在も強く、カロリン諸島の島々に対しても一定の権威を保持している。
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この地域は16世紀初めに[[ポルトガル]]の航海者によって発見された{{Sfn|丹野勲|2015|p=13}}。[[17世紀]]初頭より[[スペイン帝国|スペイン]]はこの地一帯を植民地化し、[[フィリピン]]と共に「[[スペイン領東インド]]」を形成していた。同地の[[マリアナ諸島]]やカロリン諸島という地名は、それぞれ[[マリアナ・デ・アウストリア|マリアナ王妃]]や[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世国王]]に由来する。 |
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その後、1899年︵明治32年︶に[[ドイツ植民地帝国|ドイツ]]の植民地となった{{Sfn|丹野勲|2015|p=13}}。[[1885年]]にドイツは[[マーシャル諸島]]を占領。そして、[[米西戦争]]で負けたスペインにスペイン領東インド︵フィリピン、[[グアム]]を除く︶の売却を持ちかけ、2500万[[ペセタ]]で買い取った。ドイツは[[カイザー・ヴィルヘルムスラント]]︵現在の[[パプアニューギニア]]北部︶と合わせて、﹁[[ドイツ領ニューギニア]]﹂を成立させた。
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=== 西洋諸国による植民地化 === |
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{{main|スペイン領東インド|ドイツ領ニューギニア}} |
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[[17世紀]]初頭より[[スペイン帝国|スペイン]]はこの地一帯を植民地化し、[[フィリピン]]と共に「[[スペイン領東インド]]」を形成していた。同地の[[マリアナ諸島]]やカロリン諸島という地名は、それぞれ[[マリアナ・デ・アウストリア|マリアナ王妃]]や[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世国王]]に由来する。 |
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南洋諸島への日本企業の進出は[[明治]]時代には始まっており、[[1890年]](明治23年)に[[田口卯吉]]が南島商会を組織して帆船天祐丸により交易を行って帰港したのを嚆矢とする{{Sfn|丹野勲|2015|p=15-16}}。 |
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[[19世紀]]末になり[[ドイツ植民地帝国|ドイツ]]も植民地経営に乗り出し、[[1885年]]にドイツは[[マーシャル諸島]]を占領した。そして、[[米西戦争]]で負けたスペインにスペイン領東インド︵フィリピン、[[グアム]]を除く︶の売却を持ちかけ、2500万[[ペセタ]]で買い取った。ドイツは[[カイザー・ヴィルヘルムスラント]]︵現在の[[パプアニューギニア]]北部︶と合わせて、﹁[[ドイツ領ニューギニア]]﹂を成立させた。
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[[1914年]](大正3年)に[[第一次世界大戦]]が始まると、日本は[[日英同盟]]に基づいて[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]の一員として参戦し、ドイツ領だったこれらの島々を無血占領した{{sfn|永田(2011)}}。同年10月には特別陸戦隊が進駐し、同年12月には臨時南洋群島防備隊条例(大正3年内務省令401号)により臨時南洋群島防備隊が設置された{{sfn|永田(2011)}}。そして[[サイパン島|サイパン]]、[[パラオ]]、[[チューク諸島|トラック]]、[[ポンペイ島|ポナペ]]、[[ジャルート環礁|ヤルート]]の5つの民政区に分け、それぞれ守備隊が配置された{{Sfn|丹野勲|2015|p=13}}。[[1915年]](大正4年)にはパラオ民政区のパラオ守備隊の分隊が置かれていた[[ヤップ島|ヤップ]]にヤップ民政区を新設し、ヤップ分遣隊をヤップ守備隊に改め、同時に各守備隊に民政事務官各1名を配置した{{Sfn|丹野勲|2015|p=13}}。同年7月31日、南洋群島から酋長(原文ママ)ら22人が訪日、石貨などの土産が話題を呼ぶ<ref>{{Cite book |和書 |author=下川耿史 家庭総合研究会 編 |title=明治・大正家庭史年表:1868-1925 |publisher=河出書房新社 |year=2000 |page=403 |isbn=4-309-22361-3}}</ref>。同年9月にはポナペ守備隊の分隊である[[コスラエ島|クサイ]]分遣隊を廃止して、ポナペ守備隊付海軍書記を派遣して同島の民政事務にあたらせた{{Sfn|丹野勲|2015|p=13}}。 |
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やがて[[第一次世界大戦]]が始まると、日本が[[日英同盟]]に基づいて[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]の一員として参戦し、[[赤道]]以北のドイツ領ニューギニアの各諸島を占領した。[[1918年]](大正7年)にドイツは降伏し、第一次世界大戦は終結した。 |
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1914年末の南洋群島の在住日本人数は、サイパン島27人、ポナペ島2人、トラック諸島12人、ヤップ島18人、パラオ島25人、[[アンガウル島]]11人であった{{Sfn|丹野勲|2015|p=17}}。 |
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[[1915年]]︵大正4年︶には民政区を再編しパラオ民政区とヤップ民政区を東経137度以東の西カロリン群島と、同以西の西カロリン群島とに分割した{{Sfn|丹野勲|2015|p=13}}。さらに[[1918年]]︵大正7年︶に民政区の区分を改正して、ヤルート政区に属した東経164度以西のマーシャル群島の一部をボナぺ民政区に移管した{{Sfn|丹野勲|2015|p=13}}。
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1918年(大正7年)にドイツが降伏して第一次世界大戦は終結した。 |
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=== 日本の委任統治 === |
=== 日本の委任統治 === |
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[[File:Koror in the Japanese Period3.JPG|thumb|250x250px|日本統治時代のコロール(4丁目)]] |
[[File:Koror in the Japanese Period3.JPG|thumb|250x250px|日本統治時代のコロール(4丁目)]] |
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[[ファイル:Visitors from Japan's southern islands at Tokyo LOC 14999560185.jpg|サムネイル|東京を訪問した南洋諸島の人々。1915-1920年頃|250x250ピクセル]] |
[[ファイル:Visitors from Japan's southern islands at Tokyo LOC 14999560185.jpg|サムネイル|東京を訪問した南洋諸島の人々。1915-1920年頃|250x250ピクセル]] |
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[[第一次世界大戦]]での敗退によってドイツは海外[[植民地]]をすべて失 |
[[第一次世界大戦]]での敗退によってドイツは海外[[植民地]]をすべて失った。 |
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日本は[[1919年]](大正8年)6月に調印された[[ヴェルサイユ条約]]によって[[赤道]]以北の旧ドイツ領の地域を[[委任統治]]することとなった(同条約22条6項、C式委任統治地域){{sfn|永田(2011)}}。なお、赤道以南の旧ドイツ領ニューギニアの地域については、[[ニューギニア]]を[[オーストラリア]]、[[サモア諸島]]を[[ニュージーランド]]が委任統治することになった{{Sfn|丹野勲|2015|p=14}}。 |
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本国と遠いこともあり、全く[[インフラストラクチャー]]の開発や[[医療]]、[[教育]]を行ってこなかったドイツやスペインとは違い、日本は南洋諸島獲得後、開拓のため[[南洋庁]]を置き、[[特殊会社|国策会社]]の[[南洋興発株式会社]]を設立して島々のインフラストラクチャーの開発や開拓、[[産業]]、[[教育]]、[[医療]]などの扶植を行った。 |
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日本は南洋群島の施政制度を改め、[[1921年]](大正10年)7月に民政部を司令部と分離してパラオ島に移転した{{Sfn|丹野勲|2015|p=14}}。[[1922年]](大正11年)には委任統治に適した体制を構築して従来の軍政色を払拭するため、臨時南洋群島防備隊を撤収して新たに[[南洋庁]]を設置した{{sfn|永田(2011)}}。 |
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また、新天地を求めて多くの日本人が移住し、その数は10万人に上った。日本人の子供たちのために[[学校]]が開かれ、現地人の子供にも[[日本語]]による初等教育を行った。[[横浜港]]や[[大阪港]]からの船舶による運送も盛んになったほか、[[1930年代]]に入ると[[東京]]からの民間航空便も運航した。[[1941年]](昭和16年)には[[パラオ放送局]]が開局し、[[ラジオ]]放送が開始された。 |
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また、西村拓殖と南洋殖産の事業を引き継ぐ形で、[[東洋拓殖]]株式会社の投資により[[南洋興発]]株式会社が資本金300万円で設立され島の開拓、日本人移民の導入、製糖工場や酒精工場の建設、鉄道の建設など様々な事業を行った{{Sfn|丹野勲|2015|p=18}}。 |
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南洋諸島では[[時差]]があり、南洋群島東部標準時([[ジャルート環礁|ヤルート]]・[[ポナペ]]地区)が日本標準時+2時間([[UTC+11]])、南洋群島中部標準時([[チューク諸島|トラック]]・[[サイパン]]地区)で日本標準時+1時間([[UTC+10]])、南洋群島西部標準時([[ヤップ]]・[[パラオ]]地区)は[[日本標準時]]と同じ([[UTC+9]])であった。1937年([[昭和]]12年)、南洋群島東部標準時(トラック・ポナペ・ヤルート地区。日本標準時+1時間)と南洋群島西部標準時(パラオ・ヤップ・サイパン地区。日本標準時と同じ)の2つに再編した。 |
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南洋諸島では[[時差]]があり、南洋群島東部標準時([[ジャルート環礁|ヤルート]]・[[ポンペイ島|ポナペ]]地区)が日本標準時+2時間([[UTC+11]])、南洋群島中部標準時([[チューク諸島|トラック]]・[[サイパン]]地区)で日本標準時+1時間([[UTC+10]])、南洋群島西部標準時([[ヤップ島|ヤップ]]・[[パラオ]]地区)は[[日本標準時]]と同じ([[UTC+9]])であった。1937年([[昭和]]12年)、南洋群島東部標準時(トラック・ポナペ・ヤルート地区。日本標準時+1時間)と南洋群島西部標準時(パラオ・ヤップ・サイパン地区。日本標準時と同じ)の2つに再編した。 |
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また、[[国際連盟]]脱退後<ref>日本が国際連盟を脱退すると、委任統治の根拠が薄くなったが、1933年3月16日「帝国の国際連盟脱退後の南洋委任統治の帰趨に関する帝国政府の方針決定の件」を閣議決定し、委任統治はヴェルサイユ条約での批准事項であることを盾に引き続き委任統治を行った。一方で国際連盟を脱退したということで国際連盟理事会が制定した「委任統治条項」は無効であるとの見解を示し、軍事基地設置禁止規定に反し来るべき対米戦争のために[[ワシントン海軍軍縮条約]]が失効した1936年以降は各島の基地化、要塞化を推し進めていくことになる。なお国際連盟への統治に関する年次報告は1938年まで行っている。</ref>は[[パラオ]]や[[北マリアナ諸島|マリアナ諸島]]、[[チューク諸島|トラック諸島]]は[[大日本帝国海軍|海軍]]の停泊地として整備し、それらの島には[[軍人]][[軍属]]、軍人軍属相手の商売を行う人々が移住した。 |
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1933年(昭和8年)、日本が[[国際連盟]]を脱退すると委任統治の根拠に疑義を呈せられたため、同年3月16日「帝国の国際連盟脱退後の南洋委任統治の帰趨に関する帝国政府の方針決定の件」を閣議決定し、南洋庁告諭(南洋庁告諭昭和8年1号)を示して引き続き委任統治を行った{{sfn|永田(2011)}}<ref group="注釈">委任統治はヴェルサイユ条約での批准事項であることを盾に引き続き委任統治を行った。一方で国際連盟を脱退したということで国際連盟理事会が制定した「委任統治条項」は無効であるとの見解を示し、軍事基地設置禁止規定に反し来るべき対米戦争のために[[ワシントン海軍軍縮条約]]が失効した1936年以降は各島の基地化、要塞化を推し進めていくことになる。なお国際連盟への統治に関する年次報告は1938年まで行っている。</ref>。 |
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1933年(昭和8年)には日本人在住者は3万人を超え、翌年6月末には南洋群島の人口は11万3562人で現地島人4万406人、日本人7万3028人、外国人119人となった{{Sfn|丹野勲|2015|p=17}}。 |
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[[1935年]][[1月19日]]、国際連盟理事会は委任統治委員会から提出された日本の委任統治領その他に関する報告を審議して採決。委任統治に関する意見は出ず、事実上日本による統治の継続が黙認されることとなった<ref>理事会で日本の委任等理療報告を採択『大阪毎日新聞』昭和10年1月20日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p173 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。なお、同日、アメリカ合衆国は委任統治領に隣接する[[ウェーク島]]、[[キングマン・リーフ]]、[[ジョンストン島]]、サンド島([[ミッドウェー島]])の所管を[[アメリカ合衆国内務省|内務省]]から[[アメリカ合衆国海軍省|海軍省]]に移管することを発表。日本による南洋諸島の統治継続を妨害しない意思表明をするとともに、自国の主権の範囲を改めて明らかにした<ref>米国、ウェーク島など軍政移管を声明『大阪毎日新聞』昭和10年1月21日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p173)</ref>。 |
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[[1941年]](昭和16年)には[[パラオ放送局]]が開局し、[[ラジオ]]放送が開始された。 |
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=== 第二次世界大戦 === |
=== 第二次世界大戦 === |
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一連の戦いの嚆矢となったのは、1944年2月に行われた[[クェゼリンの戦い]]からで、1週間の戦闘の末同島の守備隊は[[玉砕]]した。さらに同月にはアメリカ軍による[[トラック島空襲]]も行われ、トラック環礁にあった日本海軍の拠点が無力化された。 |
一連の戦いの嚆矢となったのは、1944年2月に行われた[[クェゼリンの戦い]]からで、1週間の戦闘の末同島の守備隊は[[玉砕]]した。さらに同月にはアメリカ軍による[[トラック島空襲]]も行われ、トラック環礁にあった日本海軍の拠点が無力化された。 |
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1944年(昭和19年)6月、戦略上最重要拠点の一つであったマリアナ諸島に対して連合国軍は侵攻を開始した。[[サイパンの戦い|サイパン島での戦闘]]は凄惨を極め、在住日本人1万人および島民700人が戦死または自決した。7月には[[テニアンの戦い]]が行われ、テニアンでも多数の[[民間人]]が犠牲になった。その後、サイパンおよびテニアンは日本本土を[[空襲]]する拠点となり、特に[[テニアン島]]は[[原子爆弾]]を搭載した爆撃機の[[ハゴイ飛行場|発進基地]]となった。 |
1944年︵昭和19年︶6月、戦略上最重要拠点の一つであったマリアナ諸島に対して連合国軍は侵攻を開始した。[[サイパンの戦い|サイパン島での戦闘]]は凄惨を極め、在住日本人1万人および島民700人が戦死または自決した。7月には[[テニアンの戦い]]が行われ、[[テニアン島|テニアン]]でも多数の[[民間人]]が犠牲になった。その後、サイパンおよびテニアンは日本本土を[[空襲]]する拠点となり、特に[[テニアン島]]は[[原子爆弾]]を搭載した爆撃機の[[ハゴイ飛行場|発進基地]]となった。
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1944年︵昭和19年︶9月、アメリカ軍はパラオ諸島への侵攻を開始し、[[第1海兵師団]]を[[ペリリュー島]]に上陸させた。この[[ペリリューの戦い]]において、日本軍は従来の[[戦術]]から[[ゲリラ]]戦と[[縦深防御]]戦術に転換したためアメリカ軍に出血を強要し、73日間の戦闘で日本軍の戦死者とほぼ同数である10,786名の死傷者を出している<ref> |
1944年︵昭和19年︶9月、アメリカ軍はパラオ諸島への侵攻を開始し、[[第1海兵師団]]を[[ペリリュー島]]に上陸させた。この[[ペリリューの戦い]]において、日本軍は従来の[[戦術]]から[[ゲリラ]]戦と[[縦深防御]]戦術に転換したためアメリカ軍に出血を強要し、73日間の戦闘で日本軍の戦死者とほぼ同数である10,786名の死傷者を出している<ref>{{Cite web |title=The Stamford Historical Society, Pride and Patriotism: Stamford's Role in World War II, Battles: Peleliu |url=http://www.stamfordhistory.org/ww2_peleliu.htm |website=www.stamfordhistory.org |accessdate=2022-01-19}} </ref>。
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ペリリューの戦い以後、[[1945年]](昭和20年)[[8月15日]]の[[日本の降伏]]まで、連合国軍による南洋諸島での大規模な軍事行動は起こらなかった。しかし、連合軍によって日本本土との補給線を断たれた孤島では[[飢餓]]に見舞われ、[[ウォッジェ環礁]]や[[ウォレアイ環礁]]などでは多数の餓死者を出した。 |
ペリリューの戦い以後、[[1945年]](昭和20年)[[8月15日]]の[[日本の降伏]]まで、連合国軍による南洋諸島での大規模な軍事行動は起こらなかった。しかし、連合軍によって日本本土との補給線を断たれた孤島では[[飢餓]]に見舞われ、[[ウォッジェ環礁]]や[[ウォレアイ環礁]]などでは多数の餓死者を出した。 |
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1945年(昭和20年)8月30日、南洋庁長官と日本海軍指揮官が米国海軍に降伏して委任統治は実質的に終了した{{sfn|永田(2011)}}。 |
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終戦時の南洋諸島の在留日本人は約5万人で、そのうち約3万6千人が沖縄県人だった{{Sfn|丹野勲|2015|p=33}}。 |
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=== アメリカの信託統治 === |
=== アメリカの信託統治 === |
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{{main|太平洋諸島信託統治領|信託統治#太平洋諸島}} |
{{main|太平洋諸島信託統治領|信託統治#太平洋諸島}} |
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[[第二次世界大戦]]終結後、1947年4月2日 |
[[第二次世界大戦]]終結後、1947年4月2日に[[国際連合安全保障理事会決議]][[国際連合安全保障理事会決議21|21]]が採択された。これにより南洋群島における日本の委任統治は法的にも終了した<ref>{{Cite journal |和書 |url=https://www2.kobe-u.ac.jp/~alexroni/TR2016/2016_5/Nanyo%20no%20shuken.pdf |author=等松春夫 |title=南洋群島の主権と国際的管理の変遷-ドイツ・日本・そしてアメリカ |journal= |volume= |issue= |publisher=中京大学社会科学研究所 |date=2007 |pages=}}</ref>。同年4月2日に安全保障理事会で承認された信託統治協定は、[[アメリカ合衆国]]を施政権者とする[[信託統治]]に付するもので、[[アメリカ合衆国議会|米国上下両院]]の合同会議による承認と大統領の署名により同年7月18日に発効した︵米軍の軍政から信託統治領政府に移管︶<ref>{{Cite journal |和書 |url=https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/records/50474 |author=矢崎幸生 |title=<論説>信託統治制度下におけるアメリカのミクロネシア統治︵一︶|journal=筑波法政 |volume=25 |issue= |publisher=筑波大学 |date= |pages=181-201}}</ref>。
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== 人口 == |
== 人口 == |
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[[File:Chamorro girls in 1930s.JPG|thumb|250px|right|1930年代に撮影されたチャモロ人の少女たち]] |
[[File:Chamorro girls in 1930s.JPG|thumb|250px|right|1930年代に撮影されたチャモロ人の少女たち]] |
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[[File:Kosraean people in 1930s.JPG|thumb|250x250px|1930年代に撮影されたクサイ(コスラエ)島民]] |
[[File:Kosraean people in 1930s.JPG|thumb|250x250px|1930年代に撮影されたクサイ(コスラエ)島民]] |
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* 総人口 129,104人(1939年12月末 |
* 総人口 129,104人(1939年12月末時点<ref>『第9回南洋庁統計年鑑 昭和14年』</ref>) |
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** 内訳 |
** 内訳 |
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*** 日本人(台湾人・朝鮮人を含む) 77,257人 |
*** 日本人(台湾人・朝鮮人を含む) 77,257人 |
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:[[先住民族]]であるチャモロ人やカナカ人は「'''島民'''」という[[カテゴリ]]に入れられた。委任統治という統治形態が採られていたので、朝鮮人や台湾人のように[[日本国籍]]は付与されなかった。 |
:[[先住民族]]であるチャモロ人やカナカ人は「'''島民'''」という[[カテゴリ]]に入れられた。委任統治という統治形態が採られていたので、朝鮮人や台湾人のように[[日本国籍]]は付与されなかった。 |
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;;チャモロ人 |
;;チャモロ人 |
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:南洋庁では、島民の中でチャモロ人を別格扱いにしていた。当時のチャモロ人は、洋風家屋に住み、常に洋服を着用し、[[ピアノ]]を弾いたり、[[ダンス]]<ref>現在、観光客向けに披露する﹁チャモロ・ダンス﹂ではなく、純然たる西洋式ダンスのことである。</ref>を踊ったりするなど、日本人以上に西洋的な生活習慣を身に着けていた。[[スペイン語]]の影響を受けた[[チャモロ語]]を話し、教養水準も比較的高かったことから、日本統治下においてはカナカ人より優遇され、歴代の植民地政府の補助要員を務める者もいた。主に[[マリアナ諸島]]に住んでいたが、[[ヤップ島]]にも住む者<ref>戦後、彼らは日本人が引き揚げて無人島化していた[[テニアン島]]に移り住むようになった。</ref>がいた。
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:南洋庁では、島民の中でチャモロ人を別格扱いにしていた。当時のチャモロ人は、洋風家屋に住み、常に洋服を着用し、[[ピアノ]]を弾いたり、[[ダンス]]<ref group="注釈">現在、観光客向けに披露する﹁チャモロ・ダンス﹂ではなく、純然たる西洋式ダンスのことである。</ref>を踊ったりするなど、日本人以上に西洋的な生活習慣を身に着けていた。[[スペイン語]]の影響を受けた[[チャモロ語]]を話し、教養水準も比較的高かったことから、日本統治下においてはカナカ人より優遇され、歴代の植民地政府の補助要員を務める者もいた。主に[[マリアナ諸島]]に住んでいたが、[[ヤップ島]]にも住む者<ref group="注釈">戦後、彼らは日本人が引き揚げて無人島化していた[[テニアン島]]に移り住むようになった。</ref>がいた。
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;;カナカ人 |
;;カナカ人 |
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:チャモロ人以外の島民を全て﹁カナカ人﹂と称していた。オセアニア諸民族の総称であるため﹁カナカ語﹂ともいうべき言語は存在せず、島によって別の言語が話されていた。衣服も[[褌]]・[[腰蓑]]といった﹁南洋の情緒﹂を感じさせる服装であったが、歴代の植民地政府の指導もあり、次第に廃れつつあった。マリアナ諸島以外の地域に多く住んでいたが、マリアナ諸島のサイパン島にはカナカ人の一種族で、カロリン諸島から移住してきた[[カロリン人]]が住んでいた。
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:チャモロ人以外の島民を全て﹁カナカ人﹂と称していた。オセアニア諸民族の総称であるため﹁カナカ語﹂ともいうべき言語は存在せず、島によって別の言語が話されていた。衣服も[[褌]]・[[腰蓑]]といった﹁南洋の情緒﹂を感じさせる服装であったが、歴代の植民地政府の指導もあり、次第に廃れつつあった。マリアナ諸島以外の地域に多く住んでいたが、マリアナ諸島のサイパン島にはカナカ人の一種族で、カロリン諸島から移住してきた[[カロリン人]]が住んでいた。
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:その他の外国人の多くが[[キリスト教]]の宗教関係者や商人で、旧宗主国人のスペイン人やドイツ人が比較的多かった。戦後に新たな宗主国人となるアメリカ人は、当時十人程度しかいなかった。 |
:その他の外国人の多くが[[キリスト教]]の宗教関係者や商人で、旧宗主国人のスペイン人やドイツ人が比較的多かった。戦後に新たな宗主国人となるアメリカ人は、当時十人程度しかいなかった。 |
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== 立法 == |
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日本の委任統治領となったが、領土ではなかったため、[[大日本帝国憲法]]が適用されない地域であった{{sfn|永田(2011)}}。立法も法律ではなく勅令で行われた{{sfn|永田(2011)}}。帝国議会の内地法も原則として適用されず、それを適用するには勅令で[[依用]]する手続が必要だった{{sfn|永田(2011)}}。 |
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== 行政 == |
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ドイツ領だった島々は第一次世界大戦の日本による占領でまず軍政が敷かれ、1914年(大正3年)12月に臨時南洋群島防備隊条例が発布された{{sfn|外地統治機構の研究|p=295}}。この条例で5民政区が設置され各民政区に守備隊が設置された{{sfn|外地統治機構の研究|p=295}}。その後、1918年(大正7年)に臨時南洋群島防備隊司令官の下に民政部が設置された{{sfn|外地統治機構の研究|p=295}}。 |
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日本の委任統治地域となるにあたり、行政制度の改革が図られ、まず1921年(大正10年)に民政部と司令部を分離した{{sfn|外地統治機構の研究|p=295}}。1922年(大正11年)3月には南洋群島防備隊条例を廃止して軍隊を撤収し、新たに南洋庁を設置することになった{{sfn|外地統治機構の研究|p=295}}。 |
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=== 官治行政機構 === |
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[[File:The Headquarters of the South Pacific Mandate.JPG|thumb|250x250px|南洋庁庁舎]] |
[[File:The Headquarters of the South Pacific Mandate.JPG|thumb|250x250px|南洋庁庁舎]] |
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[[File:Nan'yo-cho Ponape Branch Office.JPG|thumb|250x250px|南洋庁ポナペ支庁]] |
[[File:Nan'yo-cho Ponape Branch Office.JPG|thumb|250x250px|南洋庁ポナペ支庁]] |
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南洋庁の行政組織は1922年(大正11年)3月31日勅令第107号「南洋庁官制」で定められた{{sfn|外地統治機構の研究|p=296}}。 |
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=== 支庁 === |
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南洋諸島を6つの地域に分け、そこに支庁を設けた、この地域区分は、戦後の[[太平洋諸島信託統治領]]の地区(District)にも概ね踏襲されている。 |
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南洋庁の地方行政組織として支庁と支庁出張所が設置された{{sfn|外地統治機構の研究|p=298}}。支庁長は職権または特別の委任により支庁令を発することができた{{sfn|外地統治機構の研究|p=298}}。 |
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* サイパン支庁 |
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** 後に北部支庁となる。 |
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支庁は南洋諸島を6つの地域に分けて設けられた。この地域区分は、戦後の[[太平洋諸島信託統治領]]の地区(District)にも概ね踏襲されている。 |
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* サイパン支庁(後に北部支庁) |
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** テニアン出張所 |
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** ロタ出張所 |
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* パラオ支庁 |
* パラオ支庁 |
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* ヤップ支庁 |
* ヤップ支庁(後に西部支庁) |
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** 後に西部支庁となる。 |
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* トラック支庁 |
* トラック支庁 |
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* ポナペ支庁 |
* ポナペ支庁 |
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* ヤルート支庁 |
* ヤルート支庁(後に東部支庁) |
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** 後に東部支庁となる。 |
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=== 行政 |
=== 自治行政機構 === |
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日本人が多く住む地 |
日本人が多く住む地域が形成されるに至り、昭和6年南洋庁令第7号﹁南洋群島部落規程﹂で﹁'''[[部落 (南洋群島)|部落]]'''﹂が設置され、その長として名誉職の総代と副総代が置かれた︵任期3年︶{{sfn|外地統治機構の研究|p=299}}。また総代の諮問機関として﹁部落協議会﹂が設けられた{{sfn|外地統治機構の研究|p=299}}。1939年時点に於いて部落が設置されていた所は下記の通りである。
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;パラオ支庁管内 |
;パラオ支庁管内 |
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* コロール町(コロール島) |
* コロール町(コロール島) |
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* コロニア町(ポナペ島) |
* コロニア町(ポナペ島) |
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﹁南洋群島部落規程﹂は現地の島民には適用されず︵同規程附則︶、大正11年南洋庁令第34号﹁南洋群島島民村吏規程﹂が適用された{{sfn|外地統治機構の研究|p=300}}。この規程により島民から﹁'''[[村吏 (南洋群島)|村吏]]'''﹂が登用された{{sfn|外地統治機構の研究|p=300}}。このうちカナカ族には﹁総村長﹂と﹁村長﹂が、チャモロ族については﹁区長﹂と﹁助役﹂が置かれた{{sfn|外地統治機構の研究|p=300}}。カナカ族の場合は旧慣の[[酋長]]制度に従って原則として酋長の一家から支庁長が村吏を任命した{{sfn|外地統治機構の研究|p=301}}。チャモロ族には酋長制度がなかったため住民の推挙により支庁長が村吏を任命した{{sfn|外地統治機構の研究|p=301}}。
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== 司法 == |
== 司法 == |
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日本の占領後、軍政が敷かれ、1915年(大正4年)10月に南洋群島刑事民事裁判令が制定された{{sfn|外地統治機構の研究|p=405}}。1918年(大正7年)の軍政庁廃止後、南洋群島防備隊民政署に裁判事務が移管された{{sfn|外地統治機構の研究|p=405}}。 |
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南洋諸島の裁判制度は二審制が採られていた。第一審裁判所は「[[地方法院]]」といい、パラオ、サイパン、ポナペに置かれ、第二審裁判所の「[[高等法院 (曖昧さ回避)|高等法院]]」{{要曖昧さ回避|date=2015年9月}}はパラオに置かれていた。また支庁長には軽微な刑事事件の即決権が与えられていた。 |
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1922年︵大正11年︶4月の南洋庁設置により、南洋群島裁判令が公布され、南洋庁長官直属の南洋庁法院が民事刑事事件を扱った{{sfn|外地統治機構の研究|p=405}}。ただし、先述のように南洋群島は日本の委任統治領であったが、領土ではなかったため、大日本帝国憲法が適用されない地域であった{{sfn|永田(2011)}}{{sfn|外地統治機構の研究|p=406}}。そのため南洋群島に設置された法院は、同憲法57条の﹁裁判所﹂でも同憲法60条の﹁特別裁判所﹂でもない実質上の裁判機関であった{{sfn|外地統治機構の研究|p=406}}。裁判官の資格や身分保障に関する法律の適用はなく、南洋庁長官の監督を受けるものとされ、行政官が裁判官を担っており司法権は独立していなかった{{sfn|永田(2011)}}{{sfn|外地統治機構の研究|p=406}}。
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=== 南洋庁法院 === |
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南洋群島裁判令は二審制を採用し、第一審法院を﹁[[地方法院]]﹂、第二審法院を高等法院と称した{{sfn|外地統治機構の研究|p=405}}。地方法院はパラオ、サイパン、ポナペに置かれ、高等法院はパラオに置かれていた{{sfn|永田(2011)}}。
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「南洋群島裁判事務取扱令」により、南洋諸島には[[刑法 (日本)|刑法]]・[[民法 (日本)|民法]]等の日本の諸法令を適用していたが、一部の事項については特例を設けていた。 |
「南洋群島裁判事務取扱令」により、南洋諸島には[[刑法 (日本)|刑法]]・[[民法 (日本)|民法]]等の日本の諸法令を適用していたが、一部の事項については特例を設けていた。 |
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;司法上の特例 |
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特例の一つにミクロネシア地域の刑事制裁である労役があり、ドイツ領となっていた時期にもこの制度があり、日本の統治時代には南洋群島裁判事務取扱令中改正(大正13年勅令172号)で一年未満の[[懲役]]又は労役場留置について検事又は支庁長が労役に換刑できるとされた{{sfn|永田(2011)}}。その後、労役は警察犯例(大正15年南洋庁令111号)で法定刑の一つとして定められた{{sfn|永田(2011)}}。 |
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*[[予審]]は行わない。 |
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*[[除斥]]、[[忌避]]、[[回避]]の規定を適用しない。 |
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他に財政上の問題から、南洋群島裁判令中改正︵大正13年勅令467号︶で判事の定員が3名に削減されたため[[忌避]]等にも問題があった{{sfn|永田(2011)}}。上訴されると1名は必ず前審に関与していることになり、忌避されると高等法院では裁判体を維持できなくなるため、[[忌避]]等の規定は適用しないとされていた︵南洋群島裁判事務取扱令11条︶{{sfn|永田(2011)}}。しかし、公平性の観点から問題があるため、1933年︵昭和8年︶からは東京区裁判所または東京地方裁判所の判事1名が南洋庁判事を兼務することになった{{sfn|永田(2011)}}。
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*島民のみが関係する民事事件は旧慣に基づいて処理する。 |
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*土地に関する権利義務については、旧慣に基づき、登記もしない。 |
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なお、南洋群島犯罪即決例(大正12年勅令28号)により軽微な刑事事件について支庁長による即決手続があった{{sfn|永田(2011)}}。 |
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*公共機関以外の者が島民所有の土地に関する契約をする際には南洋庁長官の許可を要する。 |
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*島民が行う訴訟手続きについては、法院が別途定める手続きによる。 |
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*一年未満の[[自由刑]]([[懲役]]、[[禁錮]]、[[拘留]])に処せられた島民については、労役での代用可。 |
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*島民による[[姦通罪]]の[[告訴]]には、[[離婚]]を要件としない。 |
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=== 犯罪 === |
=== 犯罪 === |
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[[ファイル:Police officer at Chuuk, Micronesia in 1931.png|サムネイル|250x250ピクセル|チューク諸島の現地の助教員(左)、巡警(中、右)]] |
[[ファイル:Police officer at Chuuk, Micronesia in 1931.png|サムネイル|250x250ピクセル|チューク諸島の現地の助教員(左)、巡警(中、右)]] |
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貨幣経済が浸透していなかった地域であり、治安が平静な状態が続いたが、貨幣経済の浸透とともに暴力事犯や知能犯がみられるようになった{{sfn|永田(2011)}}。 |
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元々住んでいた島民が純朴であったこと、また[[南洋群島在留者取締規則]]により不良日本人・外国人の居住を禁止していたことから、犯罪は少なかった。犯罪件数で一番多かったのが、南洋諸島特有の法令である[[南洋群島酒類取締規則]]違反事件で、一時期は全犯罪の70%以上に達していた。それ以外の犯罪で一番多かったのが[[窃盗]]であった。凶悪犯罪もほとんど無く、[[1939年]](昭和14年)までに死刑判決を受けた犯罪者は一人もいなかったという。 |
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1932年(昭和7年)の犯罪統計では島民の検挙者は429名で、そのうち238名が沖縄から持ち込まれた泡盛などによる南洋群島酒類取締規則違反だった{{sfn|永田(2011)}}。日本出身者の検挙者は425名で、そのうち105名が漁業規則違反だった{{sfn|永田(2011)}}。 |
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[[高等警察]]や[[特別高等警察]]の取締対象となる犯罪もほとんどなかった<ref group="注釈">南洋興発に対する[[小作争議]]が数件あったくらいで、島民による独立運動もなかった。</ref>。 |
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行刑施設は警察の[[留置場]]を代わりに使っていたが、1929年(昭和4年)にサイパンに監獄が整備された{{sfn|永田(2011)}}<ref group="注釈">[[ガラパン]]にある「日本刑務所跡(Old Japanese Jail)」と呼ばれる遺構のことである。</ref>。 |
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[[高等警察]]や[[特別高等警察]]の取締対象となる犯罪もほとんどなかった<ref>南洋興発に対する[[小作争議]]が数件あったくらいで、島民による独立運動もなかった。</ref>。 |
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1934年(昭和9年)まで死刑の執行がなかったことは確認されているが、その後については死刑の宣告や執行があったかどうかは不明である{{sfn|永田(2011)}}。 |
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[[受刑者]]の絶対数が少なかったため、支庁に付設された未決囚用の[[留置場]]を[[刑務所]]代わりに使っていたが、サイパンに本格的な刑務所<ref>[[ガラパン]]にある「日本刑務所跡(Old Japanese Jail)」と呼ばれる遺構のことである。</ref>が完成し、これらの受刑者が移監された。 |
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== 衛生 == |
== 衛生 == |
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南洋諸島の風土病として[[アメーバ赤痢]]、[[デング熱]]、[[フランベジア]]などがあった。南洋庁では各地に公営の病院︵﹁医院﹂と称した︶を設けて診療に当たらせた。︵各医院は[[南洋庁#南洋庁立の病院|南洋庁立の病院]]を参照︶また民間でも、南洋興発が各農場に診療所を開設して従業員の診療を行っていた。公医院の一部の医師は現地人の診察の傍ら積極的に民族学的、疫学的、医学的調査を行っていた。それら研究結果は﹁南洋群島地方病調査医学論文集﹂として南洋庁警務課が発行を行っており第一集(1933)から第五集(1939)まである。
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南洋諸島の風土病として[[アメーバ赤痢]]、[[デング熱]]、[[フランベジア]]などがあった。南洋庁では各地に公営の病院︵﹁医院﹂と称した︶を設けて診療に当たらせた。︵各医院は[[南洋庁#南洋庁立の病院|南洋庁立の病院]]を参照︶また民間でも、南洋興発が各農場に診療所を開設して従業員の診療を行っていた。公医院の一部の医師は現地人の診察の傍ら積極的に民族学的、疫学的、医学的調査を行っていた。それら研究結果は﹁南洋群島地方病調査医学論文集﹂として南洋庁警務課が発行を行っており第一集(1933)から第五集(1939)まである。
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パラオ、トラック、ポナペ、ヤルート、ヤップの各医院に勤務していた岡谷昇、長崎協三、藤井保、[[鮫島宗雄]]らは上記論文集の4集「民族生理学及病理学的研究」5集「人類学人種学的研究」で[[ミクロネシア人]]の医学的、衛生学的、人類学的発表を行っている外、公学校教師の調査協力をもとに[[日本民族衛生学会]]の雑誌「民族衛生」などでもミクロネシア人の疫学的研究結果を発表している<ref>マーシヤル群島原住民 (ミクロネシヤ族) の指紋研究 |
パラオ、トラック、ポナペ、ヤルート、ヤップの各医院に勤務していた岡谷昇、長崎協三、藤井保、[[鮫島宗雄]]らは上記論文集の4集﹁民族生理学及病理学的研究﹂5集﹁人類学人種学的研究﹂で[[ミクロネシア人]]の医学的、衛生学的、人類学的発表を行っている外、公学校教師の調査協力をもとに[[日本民族衛生学会]]の雑誌﹁民族衛生﹂などでもミクロネシア人の疫学的研究結果を発表している<ref>{{Cite journal|和書|author=鮫島宗雄 |date=1938 |title=マーシヤル群島原住民 (ミクロネシヤ族) の指紋研究 |url=https://doi.org/10.3861/jshhe.6.395 |journal=民族衛生 |ISSN=0368-9395 |publisher=日本民族衛生学会 |volume=6 |issue=5-6 |pages=395-409,en1 |doi=10.3861/jshhe.6.395}}</ref>。
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島民の一部には近代医療を拒否したり([[モデクゲイ]]を参照)、[[便所]]を作らないで近所の森や砂浜に排泄する習慣があったため、講話や映画によって衛生思想の普及を図ったり、共同便所の設置や汚物清掃などの事業を行っていた。 |
島民の一部には近代医療を拒否したり([[モデクゲイ]]を参照)、[[便所]]を作らないで近所の森や砂浜に排泄する習慣があったため、講話や映画によって衛生思想の普及を図ったり、共同便所の設置や汚物清掃などの事業を行っていた。 |
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== 宗教 == |
== 宗教 == |
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[[File:Nanyo Shrine. |
[[File:Nanyo Shrine Enshrinement Festival in Palau Nov 20 1940.png|thumb|250x250px|南洋神社]] |
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[[File:Nan'yo Shrine Matsuri.jpg|thumb|250x250px|南洋神社の祭り]] |
[[File:Nan'yo Shrine Matsuri.jpg|thumb|250x250px|南洋神社の祭り]] |
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[[File:Tinian Shinto Shrine 1.JPG|thumb|250x250px|テニアン島の住吉神社跡]] |
[[File:Tinian Shinto Shrine 1.JPG|thumb|250x250px|テニアン島の住吉神社跡]] |
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* アンガウル神社 |
* アンガウル神社 |
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;サイパン支庁管内 |
;サイパン支庁管内 |
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* 八幡神社 |
* [[彩帆八幡神社|八幡神社]] |
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* [[南興神社]] |
* [[南興神社]] |
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* 南陽神社 |
* 南陽神社 |
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* ポナペ各線 |
* ポナペ各線 |
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* ヤップ各線 |
* ヤップ各線 |
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== 帰還と追悼施設 == |
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第二次世界大戦後、帰還者によって南洋群島帰還者会が組織された<ref name="ryukyushimpo20220624">{{Cite web|和書|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1538499.html |title=一家の生きた証し探す 南洋群島で戦禍、親族が情報提供呼び掛け |publisher=琉球新報 |date=2022-06-24 |accessdate=2022-06-25}}</ref>。那覇市識名には南洋群島戦没者慰霊碑がある<ref name="ryukyushimpo20220624" />。 |
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== 「諸島」と「群島」の違い == |
== 「諸島」と「群島」の違い == |
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明治時代、「南洋諸島」と「南洋群島」の定義と区別は、必ずしも明確でなかった。ただ漠然と日本の南の海に浮かぶ島々という意味で使われており、その範囲も[[オセアニア]]や[[大スンダ列島]]を包括するかなり広大な地域の呼称であった。1893年に[[鈴木経勲]]が著した『南洋風物誌』には、「南洋諸島」と「南洋群島」の両方の用語が使われ、特に区別はしていなかった。 |
明治時代、﹁南洋諸島﹂と﹁南洋群島﹂の定義と区別は、必ずしも明確でなかった。ただ漠然と日本の南の海に浮かぶ島々という意味で使われており、その範囲も[[オセアニア]]や[[大スンダ列島]]を包括するかなり広大な地域の呼称であった。1893年に[[鈴木経勲]]が著した﹃南洋風物誌﹄<ref>{{Cite book|和書|author=岡田丈夫 |title=南洋風物誌 |publisher=柁谷書院 |year=1940 |NCID=BN12295585 |id={{全国書誌番号|48001955}} |doi=10.11501/1875280 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1875280 |ref=harv}}</ref>には、﹁南洋諸島﹂と﹁南洋群島﹂の両方の用語が使われ、特に区別はしていなかった。
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大正時代になると、その定義に差異が生じ始めた。第一次世界大戦で、日本海軍は独領ニューギニアの島嶼部(ミクロネシア)を占領し、その地域を「南洋群島」と称した。1年後、[[吉野作造]]が著した『現代双書 南洋』(1915年刊)では、「赤道以北の独領南洋諸島を、単に南洋群島と云う」と定義し、「南洋群島」は「独領南洋諸島」のみを意味する用語という認識が定着し始めた。 |
大正時代になると、その定義に差異が生じ始めた。第一次世界大戦で、日本海軍は独領ニューギニアの島嶼部(ミクロネシア)を占領し、その地域を「南洋群島」と称した。1年後、[[吉野作造]]が著した『現代双書 南洋』(1915年刊)では、「赤道以北の独領南洋諸島を、単に南洋群島と云う」と定義し、「南洋群島」は「独領南洋諸島」のみを意味する用語という認識が定着し始めた。 |
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その後、ヴェルサイユ条約で旧﹁独領南洋諸島﹂地域の委任統治が認められたとき、当局はこの地域を﹁南洋群島﹂と正式に命名し、施政に当たることになった<ref>﹁南洋群島酒類取締規則﹂のように、この地域に関する諸法令は一貫して﹁南洋群島﹂と称し、﹁南洋諸島﹂の用語が用いられることはなかった。</ref>。
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その後、ヴェルサイユ条約で旧﹁独領南洋諸島﹂地域の委任統治が認められたとき、当局はこの地域を﹁南洋群島﹂と正式に命名し、施政に当たることになった<ref group="注釈">﹁{{harvnb|南洋群島酒類取締規則}}﹂のように、この地域に関する諸法令は一貫して﹁南洋群島﹂と称し、﹁南洋諸島﹂の用語が用いられることはなかった。</ref>。
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よって、日本の旧委任統治地域の正式呼称については「南洋群島」を、漠然とした南の島々については「南洋諸島」と区別するのが適当といえる。 |
よって、日本の旧委任統治地域の正式呼称については「南洋群島」を、漠然とした南の島々については「南洋諸島」と区別するのが適当といえる。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*南洋庁長官 |
* {{Cite book|和書|author=南洋庁長官々房 |title=南洋庁施政十年史 |publisher=南洋庁 |date=1932 |NCID=BN05740134 |id={{全国書誌番号|53013503}} |doi=10.11501/1874673 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874673 |ref={{harvid|南洋庁施政十年史}} }} |
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*大宜味朝徳 |
* {{Cite book|和書|author=大宜味朝徳 |authorlink=大宜味朝徳 |title=南洋群島案内 |publisher=海外研究所 |year=1939 |NCID=BN15400518 |id={{全国書誌番号|46067584}} |doi=10.11501/1256795 |ref={{harvid|南洋群島案内}} }} |
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** {{Cite book|和書|author=大宜味朝徳 |title=南洋群島案内 |publisher=龍溪書舎 |year=2005 |edition=復刻版 |series=20世紀日本のアジア関係重要研究資料 |ISBN=4844754807 |CRID=1130000794191748608}} |
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*太平洋学会編『太平洋諸島百科事典』原書房、1989年 |
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* {{Cite book|和書|author=太平洋学会 |title=太平洋諸島百科事典 |publisher=原書房 |year=1989 |NCID=BN03480371 |ISBN=4562020369 |id={{全国書誌番号|90007048}} |ref=harv}} |
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* {{Cite book|和書|author=山崎丹照 |authorlink=山崎丹照 |title=外地統治機構の研究 |publisher=高山書院 |year=1943 |NCID=BN04391936 |id={{全国書誌番号|60013630}} |doi=10.11501/1453885 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453885 |ref={{harvif|外地統治機構の研究}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=永田憲史 |authorlink=永田憲史 |date=2011-11 |title=南洋群島の刑事司法制度 |url=https://hdl.handle.net/10112/6551 |journal=関西大学法学論集 |ISSN=0437648X |publisher=關西大學法學會 |volume=61 |issue=4 |pages=1166-1148 |naid=120005687002 |ref={{harvid|永田(2011)}}}} |
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* {{Cite web|和書|title=南洋群島酒類取締規則 大正10.11.24、昭7.10改正 |author=矢内原忠雄 |authorlink=矢内原忠雄 |year=1934 |url=https://da.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/portal/assets/3db35457-b531-4eda-9e32-ff359afcb343 |website=東京大学学術資産等アーカイブズポータル |accessdate=2022-06-28 |ref={{harvid|南洋群島酒類取締規則}} }} |
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* {{Cite journal|和書|author=丹野勲 |authorlink= |date=2015-03-31 |title=戦前日本企業の南洋群島進出の歴史と戦略-南洋興発、南洋拓殖、南洋貿易を中心として- |url=https://hdl.handle.net/10487/12749 |journal=国際経営論集 |ISSN= |publisher=神奈川大学経営学部 |volume=49 |issue=4 |pages=13-36 |naid= |ref={{SfnRef|丹野勲|2015}}}} |
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== 関連項目 == |
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*[[太平洋諸島]] |
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*[[第31軍 (日本軍)]] |
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*[[南方軍 (日本軍)#隷下部隊|南方軍 (日本軍)]]([[パラオ地区集団]]) |
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*[[南洋庁]] |
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*[[南洋群島の警察|南洋庁警察]] |
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*[[パラオ放送局]] |
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*[[南洋神社]] |
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*[[南洋幻想]] |
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*[[環礁 (紀行)]] |
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*[[南洋踊り]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2024年6月4日 (火) 21:16時点における版
- 委任統治地域南洋群島
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← 1919年 - 1947年 →
(国旗) (国章) - 国歌: 君が代
南洋群島統治歌
サイパン支庁は北マリアナ諸島、パラオ支庁はパラオ、ヤップ支庁はヤップ州、トラック支庁はチューク州、ポナペ支庁はポンペイ州とコスラエ州とマーシャル諸島の西側、ヤルート支庁はその残りに相当する。-
公用語 日本語 首都 コロール 通貨 円 時間帯 UTC +9 - +11 現在 パラオ
ミクロネシア
マーシャル諸島
北マリアナ諸島
歴史
前史
日本の委任統治
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/18/Visitors_from_Japan%27s_southern_islands_at_Tokyo_LOC_14999560185.jpg/250px-Visitors_from_Japan%27s_southern_islands_at_Tokyo_LOC_14999560185.jpg)
第二次世界大戦
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/07/A_member_of_a_Marine_patrol_on_Saipan_found_this_family_of_Japs_hiding_in_a_hillside_cave._The_mother%2C_four_children_an_-_NARA_-_532380.jpg/250px-A_member_of_a_Marine_patrol_on_Saipan_found_this_family_of_Japs_hiding_in_a_hillside_cave._The_mother%2C_four_children_an_-_NARA_-_532380.jpg)
アメリカの信託統治
人口
民族構成
日本人︵台湾人・朝鮮人を含む︶ 領有当初は数十人しかいなかったが、1939年頃には7万人以上にも達し、原住民の島民の人口を超えつつあった。南洋興発が開発したサイパン支庁管内に至っては、島民人口約3千人に対し4万人以上が住んでおり、サイパン支庁管内の主要民族を構成していた。次に多いのがパラオ支庁管内であった。本籍別にみると沖縄県民が最も多かった。そのため当時の特産物の一つが泡盛であった。 島民 先住民族であるチャモロ人やカナカ人は﹁島民﹂というカテゴリに入れられた。委任統治という統治形態が採られていたので、朝鮮人や台湾人のように日本国籍は付与されなかった。 チャモロ人 南洋庁では、島民の中でチャモロ人を別格扱いにしていた。当時のチャモロ人は、洋風家屋に住み、常に洋服を着用し、ピアノを弾いたり、ダンス[注釈 3]を踊ったりするなど、日本人以上に西洋的な生活習慣を身に着けていた。スペイン語の影響を受けたチャモロ語を話し、教養水準も比較的高かったことから、日本統治下においてはカナカ人より優遇され、歴代の植民地政府の補助要員を務める者もいた。主にマリアナ諸島に住んでいたが、ヤップ島にも住む者[注釈 4]がいた。 カナカ人 チャモロ人以外の島民を全て﹁カナカ人﹂と称していた。オセアニア諸民族の総称であるため﹁カナカ語﹂ともいうべき言語は存在せず、島によって別の言語が話されていた。衣服も褌・腰蓑といった﹁南洋の情緒﹂を感じさせる服装であったが、歴代の植民地政府の指導もあり、次第に廃れつつあった。マリアナ諸島以外の地域に多く住んでいたが、マリアナ諸島のサイパン島にはカナカ人の一種族で、カロリン諸島から移住してきたカロリン人が住んでいた。 その他の外国人 その他の外国人の多くがキリスト教の宗教関係者や商人で、旧宗主国人のスペイン人やドイツ人が比較的多かった。戦後に新たな宗主国人となるアメリカ人は、当時十人程度しかいなかった。立法
日本の委任統治領となったが、領土ではなかったため、大日本帝国憲法が適用されない地域であった[3]。立法も法律ではなく勅令で行われた[3]。帝国議会の内地法も原則として適用されず、それを適用するには勅令で依用する手続が必要だった[3]。行政
ドイツ領だった島々は第一次世界大戦の日本による占領でまず軍政が敷かれ、1914年︵大正3年︶12月に臨時南洋群島防備隊条例が発布された[15]。この条例で5民政区が設置され各民政区に守備隊が設置された[15]。その後、1918年︵大正7年︶に臨時南洋群島防備隊司令官の下に民政部が設置された[15]。 日本の委任統治地域となるにあたり、行政制度の改革が図られ、まず1921年︵大正10年︶に民政部と司令部を分離した[15]。1922年︵大正11年︶3月には南洋群島防備隊条例を廃止して軍隊を撤収し、新たに南洋庁を設置することになった[15]。官治行政機構
自治行政機構
日本人が多く住む地域が形成されるに至り、昭和6年南洋庁令第7号﹁南洋群島部落規程﹂で﹁部落﹂が設置され、その長として名誉職の総代と副総代が置かれた︵任期3年︶[18]。また総代の諮問機関として﹁部落協議会﹂が設けられた[18]。1939年時点に於いて部落が設置されていた所は下記の通りである。 パラオ支庁管内 ●コロール町︵コロール島︶ サイパン支庁管内 ●ガラパン町 ●チャランカ町 ●北村 ●南村 ●東村︵以上サイパン島︶ ●テニアン町︵テニアン島︶ トラック支庁管内 ●夏島町︵トノアス島︶ ポナペ支庁管内 ●コロニア町︵ポナペ島︶ ﹁南洋群島部落規程﹂は現地の島民には適用されず︵同規程附則︶、大正11年南洋庁令第34号﹁南洋群島島民村吏規程﹂が適用された[19]。この規程により島民から﹁村吏﹂が登用された[19]。このうちカナカ族には﹁総村長﹂と﹁村長﹂が、チャモロ族については﹁区長﹂と﹁助役﹂が置かれた[19]。カナカ族の場合は旧慣の酋長制度に従って原則として酋長の一家から支庁長が村吏を任命した[20]。チャモロ族には酋長制度がなかったため住民の推挙により支庁長が村吏を任命した[20]。司法
日本の占領後、軍政が敷かれ、1915年︵大正4年︶10月に南洋群島刑事民事裁判令が制定された[21]。1918年︵大正7年︶の軍政庁廃止後、南洋群島防備隊民政署に裁判事務が移管された[21]。 1922年︵大正11年︶4月の南洋庁設置により、南洋群島裁判令が公布され、南洋庁長官直属の南洋庁法院が民事刑事事件を扱った[21]。ただし、先述のように南洋群島は日本の委任統治領であったが、領土ではなかったため、大日本帝国憲法が適用されない地域であった[3][22]。そのため南洋群島に設置された法院は、同憲法57条の﹁裁判所﹂でも同憲法60条の﹁特別裁判所﹂でもない実質上の裁判機関であった[22]。裁判官の資格や身分保障に関する法律の適用はなく、南洋庁長官の監督を受けるものとされ、行政官が裁判官を担っており司法権は独立していなかった[3][22]。南洋庁法院
南洋群島裁判令は二審制を採用し、第一審法院を﹁地方法院﹂、第二審法院を高等法院と称した[21]。地方法院はパラオ、サイパン、ポナペに置かれ、高等法院はパラオに置かれていた[3]。 ﹁南洋群島裁判事務取扱令﹂により、南洋諸島には刑法・民法等の日本の諸法令を適用していたが、一部の事項については特例を設けていた。 特例の一つにミクロネシア地域の刑事制裁である労役があり、ドイツ領となっていた時期にもこの制度があり、日本の統治時代には南洋群島裁判事務取扱令中改正︵大正13年勅令172号︶で一年未満の懲役又は労役場留置について検事又は支庁長が労役に換刑できるとされた[3]。その後、労役は警察犯例︵大正15年南洋庁令111号︶で法定刑の一つとして定められた[3]。 他に財政上の問題から、南洋群島裁判令中改正︵大正13年勅令467号︶で判事の定員が3名に削減されたため忌避等にも問題があった[3]。上訴されると1名は必ず前審に関与していることになり、忌避されると高等法院では裁判体を維持できなくなるため、忌避等の規定は適用しないとされていた︵南洋群島裁判事務取扱令11条︶[3]。しかし、公平性の観点から問題があるため、1933年︵昭和8年︶からは東京区裁判所または東京地方裁判所の判事1名が南洋庁判事を兼務することになった[3]。 なお、南洋群島犯罪即決例︵大正12年勅令28号︶により軽微な刑事事件について支庁長による即決手続があった[3]。犯罪
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1d/Police_officer_at_Chuuk%2C_Micronesia_in_1931.png/178px-Police_officer_at_Chuuk%2C_Micronesia_in_1931.png)
衛生
南洋諸島の風土病としてアメーバ赤痢、デング熱、フランベジアなどがあった。南洋庁では各地に公営の病院︵﹁医院﹂と称した︶を設けて診療に当たらせた。︵各医院は南洋庁立の病院を参照︶また民間でも、南洋興発が各農場に診療所を開設して従業員の診療を行っていた。公医院の一部の医師は現地人の診察の傍ら積極的に民族学的、疫学的、医学的調査を行っていた。それら研究結果は﹁南洋群島地方病調査医学論文集﹂として南洋庁警務課が発行を行っており第一集(1933)から第五集(1939)まである。 パラオ、トラック、ポナペ、ヤルート、ヤップの各医院に勤務していた岡谷昇、長崎協三、藤井保、鮫島宗雄らは上記論文集の4集﹁民族生理学及病理学的研究﹂5集﹁人類学人種学的研究﹂でミクロネシア人の医学的、衛生学的、人類学的発表を行っている外、公学校教師の調査協力をもとに日本民族衛生学会の雑誌﹁民族衛生﹂などでもミクロネシア人の疫学的研究結果を発表している[23]。 島民の一部には近代医療を拒否したり︵モデクゲイを参照︶、便所を作らないで近所の森や砂浜に排泄する習慣があったため、講話や映画によって衛生思想の普及を図ったり、共同便所の設置や汚物清掃などの事業を行っていた。教育
租税
南洋庁は、租税として﹁人頭税﹂﹁関税﹂﹁出港税﹂﹁鉱区税﹂の四種類の税を定めていた︵1932年時点︶。徴税手続については当時の国税徴収法に準じて、﹁南洋群島租税其他の公課徴収規則﹂を定めて執行した。 人頭税 ドイツ統治時代に由来を発する税で、16歳以上の男子に課せられた税である。ただし島民とそれ以外の者とで税額や徴収方法に区別を設けていた。 島民の人頭税 年額10円以内とし、各集落ごとに酋長の意見を聞いて税額を定めた。原則として均一税額であったが、多額の資産を持つ者については別途40円まで賦課できた。また16歳未満の児童を5人以上扶養する者︵資産家は除く︶や障害者などについては免除された。特例として、ヤルート支庁管内では酋長が全住民を代表して納税することにし、金納ではなくコプラで納めた。 島民以外の人頭税 収入に応じて、2~50円を賦課した。また宗教関係者や貧困者、一時滞在者や6ヶ月未満の在住者については免除された。 関税 南洋諸島を一つの関税地域とし、南洋諸島外︵内地も含む︶から輸入したり、南洋諸島外に輸出する物品に、価格︵一部の物品については重量︶に応じて賦課した。 出港税 当時の日本では、酒類や砂糖については、それぞれ酒造税・砂糖消費税という間接税が課せられていた。そこで南洋庁では、酒類や砂糖を内地に持ち出す際に、予めこれらの税と同額の税を課した。一旦、出港税を課した物品については、内地で再度課税されることはない。 鉱区税 1年ごとに鉱区1000坪あたり1円を賦課した。宗教
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d9/Nanyo_Shrine_Enshrinement_Festival_in_Palau_Nov_20_1940.png/250px-Nanyo_Shrine_Enshrinement_Festival_in_Palau_Nov_20_1940.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/ce/Nan%27yo_Shrine_Matsuri.jpg/250px-Nan%27yo_Shrine_Matsuri.jpg)
管内神社一覧
パラオ支庁管内 ●南洋神社 ●朝日神社 ●清水神社 ●瑞穂神社 ●ペリリュー神社 ●アンガウル神社 サイパン支庁管内 ●八幡神社 ●南興神社 ●南陽神社 ●彩帆神社 ●カラベラ神社 ●天仁安神社 ●住吉神社 ●和泉神社 ●橘神社 ●日之出神社 ●羅宗神社 ●ロタ神社 ●大山祇神社 ヤップ支庁管内 ●弥津府神社 ●フハエス神社 トラック支庁管内 ●都洛神社 ポナペ支庁管内 ●照南神社 ●春来神社 ●明治神社 ヤルート支庁管内 ●マーシャル神社経済
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/48/Making_Dried_bonito_at_Chuuk%2C_Micronesia_in_1931.png/220px-Making_Dried_bonito_at_Chuuk%2C_Micronesia_in_1931.png)
交通
大日本航空による航空路線も整備されつつあったが、一般的には海路が利用された。海路には大きく3種に分けることができる。 内地群島間航路 - 日本郵船が担当し、サイパン丸、パラオ丸、山城丸が就航した。 ●西廻線︵横浜 - 父島 - サイパン - テニアン - ロタ - ヤップ - パラオ - ダバオ - マナド︶ ●東廻線︵横浜 - 父島 - サイパン - トラック - ポナペ - クサイ - ヤルート︶ ●サイパン線︵横浜 - 父島 - サイパン︶ 群島内離島間航路 - 南洋汽船・南洋貿易が担当 ●マリアナ群島線 ●ヤップ・パラオ離島線 ●ポナペ離島線 ●マーシャル群島線 環礁内航路 - 運送組合・個人が担当︵南洋庁が補助金を支給し維持︶ ●パラオ各線 ●トラック各線 ●ポナペ各線 ●ヤップ各線帰還と追悼施設
第二次世界大戦後、帰還者によって南洋群島帰還者会が組織された[24]。那覇市識名には南洋群島戦没者慰霊碑がある[24]。﹁諸島﹂と﹁群島﹂の違い
明治時代、﹁南洋諸島﹂と﹁南洋群島﹂の定義と区別は、必ずしも明確でなかった。ただ漠然と日本の南の海に浮かぶ島々という意味で使われており、その範囲もオセアニアや大スンダ列島を包括するかなり広大な地域の呼称であった。1893年に鈴木経勲が著した﹃南洋風物誌﹄[25]には、﹁南洋諸島﹂と﹁南洋群島﹂の両方の用語が使われ、特に区別はしていなかった。 大正時代になると、その定義に差異が生じ始めた。第一次世界大戦で、日本海軍は独領ニューギニアの島嶼部︵ミクロネシア︶を占領し、その地域を﹁南洋群島﹂と称した。1年後、吉野作造が著した﹃現代双書 南洋﹄︵1915年刊︶では、﹁赤道以北の独領南洋諸島を、単に南洋群島と云う﹂と定義し、﹁南洋群島﹂は﹁独領南洋諸島﹂のみを意味する用語という認識が定着し始めた。 その後、ヴェルサイユ条約で旧﹁独領南洋諸島﹂地域の委任統治が認められたとき、当局はこの地域を﹁南洋群島﹂と正式に命名し、施政に当たることになった[注釈 7]。 よって、日本の旧委任統治地域の正式呼称については﹁南洋群島﹂を、漠然とした南の島々については﹁南洋諸島﹂と区別するのが適当といえる。脚注
注釈
出典
参考文献
●南洋庁長官々房﹃南洋庁施政十年史﹄南洋庁、1932年。doi:10.11501/1874673。 NCID BN05740134。全国書誌番号:53013503。 ●大宜味朝徳﹃南洋群島案内﹄海外研究所、1939年。doi:10.11501/1256795。 NCID BN15400518。全国書誌番号:46067584。 ●大宜味朝徳﹃南洋群島案内﹄︵復刻版︶龍溪書舎︿20世紀日本のアジア関係重要研究資料﹀、2005年。ISBN 4844754807。 ●太平洋学会﹃太平洋諸島百科事典﹄原書房、1989年。ISBN 4562020369。 NCID BN03480371。全国書誌番号:90007048。 ●山崎丹照﹃外地統治機構の研究﹄高山書院、1943年。doi:10.11501/1453885。 NCID BN04391936。全国書誌番号:60013630。 ●永田憲史﹁南洋群島の刑事司法制度﹂﹃関西大学法学論集﹄第61巻第4号、關西大學法學會、2011年11月、1166-1148頁、ISSN 0437648X、NAID 120005687002。 ●矢内原忠雄 (1934年). “南洋群島酒類取締規則 大正10.11.24、昭7.10改正”. 東京大学学術資産等アーカイブズポータル. 2022年6月28日閲覧。 ●丹野勲﹁戦前日本企業の南洋群島進出の歴史と戦略-南洋興発、南洋拓殖、南洋貿易を中心として-﹂﹃国際経営論集﹄第49巻第4号、神奈川大学経営学部、2015年3月31日、13-36頁。関連項目
●太平洋諸島、南太平洋 ●第31軍 (日本軍) ●南方軍 (日本軍)(パラオ地区集団) ●南洋庁 ●南洋庁警察 ●パラオ放送局 ●南洋神社 ●南洋幻想 ●環礁 (紀行) ●南洋踊り外部リンク
- The page 31.(コトバ-さ~そ)(南洋群島の時差に関する記述あり) - archive.today(2013年4月27日アーカイブ分)
- 『環礁』 旧字旧仮名(青空文庫)
- 風物抄(ウィキソース)