ゾクチェン
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ゾクチェン | |
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白いア字と五色のティクレ | |
チベット語名 | |
チベット文字: | རྫོགས་ཆེན་ |
ワイリー方式: | rdzogs chen |
IPA発音表記: | [tsɔktɕʰẽ] |
蔵文拼音: | Zogqên |
THDL式: | Dzokchen |
その他の表記: | Dzogchen |
中国語名 | |
繁体字: |
大究竟、 大圓滿、 大成就 |
簡体字: |
大究竟、 大圆满、 大成就 |
拼音: |
dàjiūjìng, dàyuánmǎn, dàchéngjiù |
ゾクチェン︵蔵: རྫོགས་ཆེན་、rdzogs chen︶は、主にチベット仏教のニンマ派︵古派︶と、チベット古来の宗教であるボン教に伝わる教えである。ゾクチェンという言葉はチベット語で﹁大いなる完成﹂を意味する﹁ゾクパ・チェンポ﹂(རྫོགས་པ་ཆེན་པོ་、rdzogs pa chen po)の短縮形であり、人間を含むあらゆる生きもの︵一切有情︶の﹁心における本来の様態﹂︵sems nyid、セムニー︶、またはあるがままで完成された姿のことを指している。
また、その姿を理解することにより、速やかに優れた覚醒の境地に至ることができるとされている。
漢訳は﹁大円満﹂あるいは﹁大究竟﹂、英語では Great Perfection などと訳される。アティヨーガ(atiyoga)とも呼ばれる。日本や欧米ではゾクチェンの修行者をゾクチェンパと呼称することもある[要出典]が、チベット仏教では一般的用法ではない。
起源[編集]
学術的には、9世紀頃までにニンマ派のゾクチェンの原型が成立していたと推察されている。その成立には中国の頓悟禅の影響があったのではないかと指摘される[1]。ゾクチェンの三部、セムデ︵心部︶とロンデ︵界部︶とメンガクデ︵秘訣部︶の内、特にセムデとロンデにおいて禅に通ずる面があると言われている[2]。 ゾクチェンに禅の影響があるとする主要な説には、次の3つがある。[3] (一)東洋学者のジュゼッペ・トゥッチの研究による﹁中国禅の摩訶衍︵まかえん︶禅師の影響がある﹂[4]とする説。 (二)インド学の山口瑞鳳の研究による摩訶衍禅師からランダルマの破仏までの間に﹁九世紀の初期に完成度の高い中国禅が中国から入り、影響を与えた﹂[5]とする説。 (三)日本の諸研究による﹁摩訶衍禅師より以前に、敦煌文献・他に見られるような禅の影響があった﹂[6]とする説。 これらのうち、はじめの2説についてはいずれも有力とされるが、後述するようにサムイェー寺の建立を771年とし、摩訶衍禅師の﹁サムイェー寺の宗論﹂は792年のことであるから、いずれもニンマ派における歴史上のパドマサンバヴァが説いたとされる、ニンマ・カマのゾクチェンにはそれらの説はあてはまらない。[要出典] ゾクチェンの起源はボン教にあるという説もあり、この説を採る僧はボン教とニンマ派の双方に存在する[7]。ニンマ派の伝承では、インド北西にあったと言われるウッディヤーナ(Uḍḍiyāna)で生まれたガラプ・ドルジェ︵dga' rab rdo rje︶が人間界においてゾクチェンの教えを伝えた重要な祖師とされる。一方、ボン教の経部︵カンギュル︶に属する﹃シャンシュン・ニェンギュー﹄(zhang zhung snyan rgyud)[註 1]は、ゾクチェンを西チベットにあった古代シャンシュン王国より伝来した教えとしている。これについて、東チベット出身のゾクチェンのラマであるナムカイ・ノルブは、ボン教文献を調査して両者の起源を考察し、ウディヤーナ国はシャンシュン王国の属国であったか、両国には何らかのつながりがあったのではないかという仮説を立てた[8][註 2]。 ナムカイ・ノルブは、修行法の面ではロンデと禅との関連性は見出し難く、また、メンガクデは禅より密教的で、発想面でもきわめて独特であるという[8]。 ゾクチェンにおいては青空を見つめる瞑想の他に、空間を見つめる瞑想﹁アーカーシャ﹂[註 3]、睡眠中の瞑想﹁ミラム﹂︵夢見︶[註 4][9]、暗闇の瞑想﹁ヤンティ﹂[註 5][10][11]等々、さまざまな実践法があることが知られている。ゾクチェンとチベットの諸宗派[編集]
ゾクチェンは他の宗派や学派に類を見ない哲学的見解を有する独特な瞑想体系である。ニンマ派のゾクチェンとボン教のゾクチェンに大別され、それぞれの宗派︵教派︶の教義の中心をなしている。また、ゾクチェンとは原初の境地を指す言葉であって、特定の宗派だけに内属するものではないと主張する向きもある。リメー運動︵超宗派運動︶が盛んであった東チベットで生まれ育ち、後にイタリアやその他の国でゾクチェンの伝授を行うようになったナムカイ・ノルブは、かつてチベットでは自分の帰依する宗派や根本ラマ以外に別の派からも教えを伝授されるのはよくあることであった、ということを強調し、チベット仏教の主要宗派のすべてにゾクチェンの系譜を受け継ぐ人がいたとしている[12]。チベット仏教[編集]
チベット仏教のゾクチェンの教えはニンマ派の真髄の一つであり、ニンマ派の教義に深く結びついていて、その開祖パドマサンバヴァがその信仰の源であると考えられてきた。今日セムデの一部を構成している最初期のゾクチェン文献は8世紀頃にまで遡ることができる[13]。それはチベット仏教のいわゆる前伝期に当たり、新訳諸派の台頭とともにパドマサンバヴァの信徒たちがはじめてニンマ派︵古派︶と呼ばれるようになるずっと前のことである。チベット仏教の僧は他宗派の師からも灌頂や教えを受けている場合があり、ゾクチェンはチベット仏教の長い歴史の中でサキャ派やカギュ派、ゲルク派に属する人に伝えられることもあった。新訳派の間ではインドのサンスクリット経典に含まれない偽経であるとして批判的な学者が多かったが、ゾクチェンに関わりのある人物も輩出している。カギュ派では、ロンチェンパと同じ師のクマラーザの下で学んだと伝えられ、ロンチェンパにも成就法を授けたカルマパ3世ランジュン・ドルジェ (1284-1339) が殊に著名である。ランジュン・ドルジェはカギュ派のマハームドラー︵チャクチェン︶とニンマ派のアティヨーガを統合し、その教えはカルマ・ニンティクと呼ばれている[14]。ゲルク派ではダライ・ラマ5世、13世、14世もゾクチェンの師として知られているが、ゲルク派の座主ではないが高位のラマであるダライ・ラマがゾクチェンを取り入れることは、かねてよりゲルク派の保守層の一部で論争の種となっている[15]。ニンマ派[編集]
ゾクチェンは、ニンマ派の伝統では歴史上のパドマサンバヴァ︵蓮華生[註 6]︶が伝えた教えの一つに数えられ、ニンマ派の六大寺院に大別される六大流派には、それぞれに異なる流れのゾクチェンが伝わっている。14世紀にゾクチェンの教えをまとめて体系化した学僧ロンチェン・ラプジャムパが明確化した[註 7]ニンマ派の﹁九乗教判﹂によると、無上瑜伽タントラの頂点であるアティヨーガ乗に位置づけられ、法身普賢︵クントゥ・サンポ︶を主尊とする。ニンマ派においては、このアティヨーガ乗の境地がゾクチェンと等しいとされ、ゾクチェンはアティヨーガの異名であり[16]、同時にその教えの法流の名称でもある[17]。仏教教義上の位置づけ[編集]
ニンマ派の﹃大幻化網タントラ﹄を依経とする密教的境地のゾクチェンと、太古からのスタイルを守るとされるボン教のゾクチェンの同一性に関して、ゾクチェンが純粋な仏教の教えであるとするニンマ派の教学的観点から問題視されることがある。ニンマ派のドゥジョム・リンポチェがチベット亡命政府主催のチベット仏教者会議において、ニンマ派はボン教と異なるインドの仏教であるとしてニンマ派を純粋な仏教として主張したことがある。また、サテル︵地下の埋蔵経︶の﹃ドゥジョム・テルサル﹄によるゾクチェン[註 8]は、﹃宝性論﹄等を主とした如来蔵と唯識の説を背景とするインドのヴィクラマシーラ大僧院の僧院長であった密教の大学者ラトナーカラシャーンティ︵980-1050︶[註 9][18]の説を引用することがある。 ダライ・ラマ14世[註 10]は、ロンチェン・ラプジャムパの﹃法海の宝蔵﹄の註釈や、ジグメ・リンパの直弟子の3代目に当たるトゥルクであるドドゥプチェン・ジグメ・テンペ・ニマ (1865-1926) の著述などを基に、主に中観帰謬論証派の見地から、ゾクチェンのいう原初の清浄性は顕教とは空性の意味が異なるが、ある意味で空︵くう︶であると説いている[19]。ロンチェンパや近世の学僧ミパム・ギャツォ︵1846-1912︶[註 11]のゾクチェンにおける空性の理解は、中観帰謬論証派の見解とほとんど合致している、もしくは両者の見解が相補的なものであることを主張している[20]。また、ミパムの﹃宝性論註﹄等は、ゾクチェンにおいて第二転法輪の﹃般若経﹄の空性の教えと第三転法輪の﹃如来蔵経﹄の教えを結びつけている。かれらは﹁他空﹂︵シェントン‥gzhan stong︶[註 12][21]という言葉を使用しているが、ダライ・ラマ14世によれば、そのほとんどは﹁基﹂︵gzhi︶としての心である﹁リクパ﹂︵rig pa‥純粋意識︶のことを指しており、過去のチベットでチョナン派のトゥルプパ・シェーラプ・ギェルツェンが唱え、梵我などの非仏教の教説に通じるものと批判された﹃他空説﹄[22]でいうところの他空とは意味が異なるという[23]。ニンマ派のゾクチェン[編集]
ゾクチェンの三部[編集]
ニンマ派のアティヨーガに属するゾクチェンの教えは、以下のようにセム︵心︶、ロン︵界︶、メンガク︵秘訣︶の三部に分類される[24]。チベット学者のサム・ヴァン・シャイクは、ゾクチェンの三部は、初期のニンティク文献の登場に伴ってそれ以前の古いゾクチェンの形態とを区別するためにできた分類ではないかと考察している[13]。 セムデ︵心部、心の本性の部︶ ここでいう心は菩提心を指している。8世紀後半から9世紀頃に活躍した訳経法師ヴァイローチャナ︵パドマサンバヴァの二十五大弟子のひとり︶が留学先のインドでシュリーシンハに学び、チベットに請来した教えとされる。﹃クンチェ・ギェルポ﹄はセムデの18の論書群の根本テキストとされる。その第31章には、ヴァイローチャナが最初に翻訳したゾクチェンのテキストのひとつとされる﹁リクパィ・クジュク﹂︵知恵のカッコウ︶と題された6行の詩が収められている。この﹁リクパィ・クジュク﹂の古い写本が敦煌文献から発見されており、敦煌が一時期吐蕃に占領されていたことから、実際にこのテキストが吐蕃王国時代の8〜9世紀に遡る古い来歴をもつ可能性は高いとされている[25]。 ロンデ︵界部、法界の部︶ セムデと同じくヴァイローチャナに由来するとされる。根本タントラは﹃ロンチェン・ラプジャム・ギェルポ﹄。 メンガクデ︵秘訣部または教誡部︶ メンガクは秘訣の意で、口訣、口伝とも訳され、サンスクリットではウパデーシャと書かれる。メンガクデは、パドマサンバヴァが説いていた教えに由来するとされる。これらはパドマサンバヴァ自身やイェシェ・ツォギャルらによって一度秘匿され、後世に発掘されたものとされるため、基本的にメンガクデの教えはテルマである。秘匿された理由は、当時のチベットにはまだ受伝するに足る受け手がいなかったため[26]とも、ランダルマの破仏を予見したためとも言われる。メンガクデに分類される教えには次のようなものがある。 ●﹁十七タントラ﹂‥起源の定かならぬ古タントラ群で、メンガクデの最古層とされる。根本タントラは﹃ダテルギュル﹄。 ●﹁ビマ・ニンティク﹂‥ヴィマラミトラ・ニンティク。ヴィマラミトラに由来するとされる口伝書群。11世紀に再発見されたものとされるが、厳密にテルマとは言えない面がある[27]。 ●﹁カンド・ニンティク﹂‥パドマサンバヴァがティソンデツェン王の娘ペマサルに伝えた教えが埋蔵され、後にテルマとして発掘されたとされる教え。 ●﹁ニンティク・ヤシ﹂‥14世紀にニンマ派の教学を大成したロンチェンパがビマ・ニンティクとカンド・ニンティクを統合した体系。 ●﹁ロンチェン・ニンティク﹂‥ロンチェンパのニンティク。18世紀のジグメ・リンパがロンチェンパの教えを瞑想の中で発見し、蘇らせたと称するもの。 セム、ロン、メンガクという分類は、ガラプ・ドルジェの伝えたゾクチェン・タントラを弟子のマンジュシュリーミトラが三部に分けたのが始まりと伝えられる。ガラプ・ドルジェの三要訣にはさまざまな翻訳があるが、ここで仮に、ナムカイ・ノルブの解説[28]を基に簡潔に示すと以下のようになる。 (一)直接に心の本性に導き入れ︵基︶ - セムデに関連 (二)疑いなき不二の境地にとどまり︵道︶ - ロンデに関連 (三)不二の三昧の境地にとどまり続ける︵果︶ - メンガクデに関連系統[編集]
仏教のゾクチェンの系統には、ニンマ派の教法に合わせて3つの系統がある。チベット仏教では、根本ラマ︵ツァウェー・ラマ、rtsa ba'i bla ma︶や歴代のラマからの加持が最も重要で神聖なものとされるため、いずれの教えも伝授の際には﹃伝承祈願文﹄[註 13]のテキストを授かるので、各流派ごとではあるが、誰が誰に伝えたかの系統が分かるようになっている。﹁ニンマ・カマ﹂の系統[編集]
﹁ニンマ・カマ﹂︵rnying ma bka' ma‥古派の口頭伝承経典︶の系統とは、いわゆる古タントラに付随するゾクチェンの系統である。﹃大幻化網タントラ﹄︵梵名‥グヒヤガルバ・タントラ︶を皮切りとして、前行︵ンゴンドゥ︶の発展系である﹁グルヨーガ﹂を中心とするゾクチェンの修行・瞑想法である。前行は﹃金剛頂経初会﹄をベースとした行法で、無上瑜伽タントラの主要な五タントラのそれぞれにあり、チベット仏教四大宗派おのおのが独自の前行を伝えている。ゾクチェンと前行との深い関係は、ドゥジョム・リンポチェの講演録﹃ゾクチェンへの道﹄[註 14]に詳しい。 ﹃大幻化網タントラ﹄の伝承系統の解明はドゥジョム・リンポチェの﹃ニンマ仏教史﹄[註 15]に始まるが、1959年に亡命先のインドにおいて、ドゥジョム・リンポチェが外国人に対して世界で初めて﹃大幻化網タントラ﹄の大灌頂と伝授︵全伝︶を行なった際の伝授録﹃大幻化網導引法﹄の中でも、この系統のゾクチェンについて触れている。また、ニンマ派では密教の伝承そのものがゾクチェンの系統の解明に繋がり、この系統のゾクチェンにおいては伝授に関わるパドマサンバヴァの﹁3つの秘密の名前﹂‥(1)﹁ペマ・サンバヴァ﹂︵パドマサンバヴァ︶、(2)﹁ペマ・ジュンネー﹂︵ツォキェー・ドルジェ︶[註 16][29]、(3)﹁シャーキャ・センゲ﹂︵シャーキャ・シンハ︶[註 17]等に由来する。 釈迦についても、先述の伝承における密教の教主の仏陀であれば、龍猛菩薩︵=龍樹菩薩︶と同じくインド密教史上に釈迦︵シャーキャ︶もしくは仏陀︵ブッダ︶の名の付く人物が数多くいる。いずれにせよ﹃大日経﹄の成立年代からたどると﹃大幻化網タントラ﹄の成立も密教学では既に比定され、その曼荼羅[30][註 18]も解明されていて、それらを日本人が重ねて伝授を受けているので、この系統では、先行経典も含めてガラプ・ドルジェは7世紀〜8世紀に実在した無上瑜伽タントラの伝承者であってもかまわないことになる。事実、この系統のゾクチェンのタンカ︵仏教絵画︶には、インドのパンディタ︵大学者︶の姿をした僧形のガラプ・ドルジェが描かれるのを見ることができる。[31][独自研究?] ニンマ派において﹃大幻化網タントラ﹄のテキストはマハーヨーガに、本尊﹁大幻化金剛﹂の成就法︵秘密本尊法︶はマハーヨーガとアティヨーガとに分類される。伝承系統の一例︵ミンドルリン寺流︶を挙げると以下のようになる。[要出典] (一)ヴァジュラパーニ︵Vajrapāṇi︶ (二)インドラブーティ︵indrabhūti、蔵名ギャルポ・ザ‥国王ザ、7 - 8世紀︶[32] (三)クク・ラージャ︵蔵名ククリパ、kukkuripa‥7 - 8世紀︶[註 19][33] (四)ブッダミトラ︵8世紀︶ (五)プラバーハスティ︵Prabhāhasti‥ヴィクラマシーラ大僧院の僧長、8世紀︶[34] (六)パドマサンバヴァ︵8 - 9世紀︶ (七)ヴィマラミトラ︵8 - 9世紀︶ (八)ヴァイローチャナ︵8 - 9世紀︶ (九)ジャナクマーラ︵8 - 9世紀︶﹁テルマ﹂の系統[編集]
﹁テルマ﹂︵埋蔵経︶の系統とはニンティク︵心髄、真髄とも訳す︶と呼ばれるゾクチェンの教えの系統のことである。﹁カンド・ニンティク﹂︵﹁空行心髄﹂と漢訳︶、﹁ビマ・ニンティク﹂︵﹁卑摩心髄﹂と漢訳︶、﹁ロンチェン・ニンティク﹂︵﹁龍清心髄﹂と漢訳︶の3つが代表的なものである。 ﹁カンド・ニンティク﹂とは、カンド︵ダーキニーのこと、空行母と漢訳︶によって秘されていた教えとされ、六大流派それぞれが独自のニンティクを備えている。ニンマ派では尊挌としての﹁イェシェ・ツォギャル仏母﹂はカンドの代表の一尊とされ、そのため歴史上のパドマサンバヴァから直弟子のイェシェ・ツォギャルへと伝えられた[35]﹁カンド・ニンティク﹂はニンマ派の教えの母体であり、大きく言うと北のテルマ・南のテルマ・中央のテルマ・東のテルマ・西のテルマの五系統がある。このうち北のテルマが有名であり、東のテルマは量が少ないが古い伝承を伝えている。[36]﹁カンド・ニンティク﹂の系統は、ドゥジョム・リンポチェ、弟子のニョシュル・ケンポ・リンポチェ、その弟子のイェシェ・サンポ・リンポチェらによって解明され、イェシェ・サンポ・リンポチェの﹃紅宝珠錬﹄︵ルビー︶[註 20]に詳しい。[註 21] ﹁ビマ・ニンティク﹂の系統は、途中パドマサンバヴァを介さずにインドの成就者からヴィマラミトラ[37]を経て直接チベットへと伝えられたとされるゾクチェンの系統である。なお、チベット僧の中には﹁ビマ・ニンティク﹂も﹁カンド・ニンティク﹂の中に含めて考える人もいる。[要出典] ﹁ロンチェン・ニンティク﹂の系統はチベットの大学者ロンチェンパ (1308-1364) の教えをジグメ・リンパ (1729-1798) が深い瞑想の中で感得した﹁ゴンテル﹂︵御心の埋蔵経︶の教えの系統を指している。そして、﹁ロンチェン・ニンティク﹂はインドで密教を学んだ中国人の成就者シュリー・シンハ[38]から弟子のヴァイローチャナ、ヴィマラミトラ、パドマサンバヴァの三者に別々に伝えられたものを一つにまとめた系統の教えとされる。 現在、この﹁ロンチェン・ニンティク﹂の系統は六大流派の伝統の壁を乗り越えたドゥジョム・リンポチェと弟子のニョシュル・ケンポ・リンポチェによって解明され、ニョシュル・ケンポ・リンポチェの﹃藍宝石﹄︵ラピスラズリ︶[註 22]に詳しい。﹁タクナン﹂の系統[編集]
﹁タクナン﹂︵dag snang︶とは、瞑想や夢の中で教えを得ることを意味する。1959年のチベット動乱や文革以降、チベット本土や欧米において、チベット人や外国人の僧侶の中には、ガラプ・ドルジェやパドマサンバヴァ、ブッダ等から直接教えを聞いて独自の教えを得たとする系統がある。これらの人々は往々にしてチベット仏教の伝統の学問や修行の期間も短く、霊感そのものを重視する傾向があり、まだ、ニンマ派の宗義との一致を検討するのに必要な歴史の淘汰やチベット仏教の教判︵教相判釈︶にさらされていない[39][註 23]。なお、ニンマ派では、伝統の立場に立つ高名なリンポチェが得た﹁タクナン﹂の教えは、それぞれの流派の教えに照らし合わせて順次﹁カンド・ニンティク﹂の系統に入れられる[註 24]。ゾクチェンの初転法輪[編集]
西暦771年にサムイェー寺が完成した後[註 25][40][41]、パドマサンバヴァは自らサムイェー寺の東北の地にあるティンプーの地においてイェシェ・ツォギャルをはじめとする25人の弟子たち[註 26][42]を集めて、マハーヨーガとアティヨーガに関する﹃大幻化網タントラ﹄[註 27]の教えを伝授した。いわゆるチベット仏教における密教の教えは、﹃大幻化網タントラ﹄から始まったと言っても過言ではない。[要出典]一般にはあまり知られていないが、パドマサンバヴァの弟子の数を25人とするのは、この時に無上瑜伽タントラに属する﹃大幻化網タントラ﹄の正式な伝授の際に灌頂を受けることのできる人数が、最大で25人までと経典に記されているからである。他の無上瑜伽タントラの主要な経典の場合も同様で、参加人数が25人を超えた場合には、全ての灌頂と教えとが無効とされる。この﹃大幻化網タントラ﹄の教えを伝授し終わった上で、聖地タクマル︵赤い洞窟︶に場所を移して、現時点で考証できるものとしてはチベット史上初めてのゾクチェンの教えが弟子たちに説かれた。そのテキストは古タントラに、講義録は﹁カンド・ニンティク﹂に残されている。[要出典] この考証ということは現在の日本仏教では常識となっているが、チベット仏教にはまだまだ伝統の壁があり、チベット僧の間では年代考証も文献学的研究も未だ認知されているとは言い難いため、1959年のチベット動乱以前に亡命されたラマに個人的な伝授を受ける際や、伝統的な寺院で学習をする際は注意を要する。チベット仏教の考証家でもあったドゥジョム・リンポチェが亡命チベット人のニンマ派の長に就任後、ニンマ派の各仏教大学の改革に着手し、その後を引き受けたディンゴ・ケンツェ・リンポチェがサムイェー寺の再建と西洋的な学習方法の導入に努め、さらにペノル・リンポチェが外国人も同時に学ぶことのできるシステムの仏教大学を建立したが、考証学の浸透には至っていない。 古くから大乗経典や密教経典には﹁五成就﹂[註 28][43][44]という原則がある。今日的に言い換えるならば 5W、すなわち﹁いつ、何処で、誰が、何を、どうした﹂が分からなければ、その教えは正しく説かれたものではないとされている。いわゆる大乗仏教等の顕教とは違って、密教やゾクチェンは人から人への伝承ボン教のゾクチェン[編集]
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ボン教においては﹁アティ﹂、﹁ゾクチェン﹂︵ここではボン教の一系統としての狭義のゾクチェンを指す︶、﹁シャンシュン・ニェンギュー﹂という3つの独立したゾクチェンの伝統が認められ、受け継がれている。ボンの創始者であるトンパ・シェンラプの説いたとされる教義は﹁四門五蔵﹂と﹁ボンの九乗﹂の2系統に分類され、ボン教のゾクチェンもその中に位置づけられている[45]。ボン教のゾクチェンについてはまだまだ未知の部分が多い。
註[編集]
(一)^ ﹃シャンシュン・ニェンギュー﹄は8世紀には成立していたと言われている。それ以来、埋蔵経典︵テルマ︶として隠されることなくその系譜が続いているとされる︵﹃智恵のエッセンス﹄ p.249 参照︶。
(二)^ ただしナムカイ・ノルブは、ゾクチェンそのものは仏教にもボン教にも属していないとしており︵﹃虹と水晶﹄ pp.29-30︶、ボン教がゾクチェンの起源だと示唆しているわけではない。
(三)^ ﹁空間﹂と漢訳、ニンマ派やカギュ派の﹁マハームドラー﹂が典拠。現在、ニンマ派の﹁マハームドラー﹂には、古タントラの﹁金剛頂経﹂や﹃大幻化網タントラ﹄に属するニンマ派の古伝のものと、カギュ派やサキャ派から伝わったナーローパ伝の﹁マハームドラー﹂とがある。
(四)^ ﹁ミラム﹂は、﹁夢見﹂︵ゆめみ︶あるいは﹁夢示﹂︵むじ︶と漢訳。現在ではゾクチェンに付随する教えで、後期密教の六成就法の6つの代表的な瞑想法の一つであり、10世紀に始まるカギュ派の﹁ナーローの六法﹂や﹁ニグマの六法﹂、ドゥジョム・テルサルの﹁イェシェ・ツォギャルの六法﹂が典拠。﹁ナーローの六法﹂等はニンマ派に伝えられて久しいので、現在、これらを﹁ニンマの六法﹂と呼ぶこともあるが、カギュ派が本家でニンマ派だけではなく、サキャ派やゲルク派にも伝えられている。また、﹁イェシェ・ツォギャルの六法﹂は﹃大幻化網六成就法﹄を基とするドゥジョム・リンポチェのテルマであり、これらを﹁ニンマの六法﹂と呼ぶ人もいる。
(五)^ ﹁ヤンティ﹂は、その内容から、﹁閉関成就法﹂︵閉ざされた場所での一定期間の瞑想法︶、あるいは﹁黒関成就法﹂︵暗闇での瞑想法︶と漢訳される。アヌヨーガに属する微細な意識を観察する瞑想法で、14世紀の﹁北のテルマ﹂の法流が典拠。数種類の系統のテキストがあり、現在はカギュ派やサキャ派にも伝えられていて、ニンマ派の﹁北のテルマ﹂の教主であるタクルン・ツェトゥル・リンポチェやトゥルシク・リンポチェ、ドゥク・カギュ派のドゥクチェン・リンポチェによる﹁ヤンティ﹂の伝授は世界的に知られている。
(六)^ ニンマ派の開祖、その事跡の多くは伝説と謎に包まれている。ティソン・デェツェン王の招きによってチベットを訪れ、サムイェー寺の建立︵西暦771年に完成︶に携わり、主に密教経典の翻訳事業に深く関わり、その後、ランダルマの破仏が始まる直前の西暦834年頃までチベットに滞在していたとする説もある。
(七)^ 敦煌文献には吐蕃時代の古い密教を伝える資料が残っているが、その中には、現行のものとは異なる九乗教判を記した、年代的には比較的新しい写本がある︵田中公明 ﹃図説 チベット密教﹄ p.151 参照︶。
(八)^ ﹁血族の系譜﹂と﹁弟子の系譜﹂とがあり、前者は主にドゥジョム・リンパ (1835-1904) からその息子、ドゥジョム・リンポチェ (1904-1987)、ティンレー・ノルブ・リンポチェ (1931-2011)、ガラプ・ドルジェ・リンポチェやギェーパ・ドルジェ・リンポチェ︵1960-︶ へと伝えられた。多くのテキストがあるが、代表的なものはゾクチェンの詳細な解説書であるドゥジョム・リンパ著﹃ナンジュン﹄。重要な教えに、八大ヘールカ法に属する大法であるプルパ金剛法の﹁脈管と風のヨーガ﹂や、その灌頂の儀軌や次第を解説した﹃ナンジャン・ブーティ﹄や、アヌヨーガの教えで、カギュ派で有名な﹁ナーローの六法﹂と同様の内容を持つニンマ派の﹃イェシェ・ツォギャルの六法﹄等が挙げられる。
(九)^ カダム派の祖であるアティーシャの師。アティーシャがターラー仏母の啓示によってチベット行きを考えた際に、その可否を相談した人物でもある。顕教の著作には後期インド唯識学の精華を伝える﹃般若波羅蜜多論﹄、﹃唯識性成就﹄他がある。密教に関する著作はさらに数多くあり、チベット密教の事相面に影響を与えた。
(十)^ ゲルク派に属するダライ・ラマ14世は、ニンマ派の相承系譜にも名を連ねているダライ・ラマ5世の﹃秘印集成﹄の教えの伝承者であるほか、リメー︵超宗派︶運動を推進した複数の師から各派の教えの伝授を受けており、ニンマ派の教えについてはキャプジェ・ディンゴ・ケンツェ・リンポチェから教授された。
(11)^ ミパム・リンポチェ︵1世︶とも表記。
(12)^ ニンマ派の中観の見解は﹁大中観﹂︵ウマ・チェンポ‥dbu ma chen po︶といい、これはゲルク派の中観の見解とは多少異なるので、区別する意味では、別名を﹁内瑜伽中観﹂︵nang gi rnal 'byor dbu ma︶ともいう。主に如来藏を背景とする﹁瑜伽行中観﹂︵rnal 'byor spyod pa'i dbu ma︶や﹁経部行中観﹂︵mdo sde spyod pa'i dbu ma︶に基づくともするが、この分類法は日本のインド学や、ゲルク派のツォンカパの説とは一致しないので学習の際には注意を要する。いわゆる中観の空性を﹁他空﹂︵gzha stong︶と、﹁離辺﹂︵mtha bral︶と、﹁了義﹂︵ngeg don︶の三段に分け、﹃聖妙吉祥真実名義経﹄の説を受けて﹁了義﹂の空性の現れである覚りの﹁幻化網現証菩提﹂︵mayajala bhisam bodhi︶を説く。この﹁幻化網現証菩提﹂がニンマ・カマのゾクチェンの見解における基礎となる。なお、これに対してドゥジョム・リンポチェは更にインド後期密教の唯識の諸説を展開する。
(13)^ ﹃伝承祈願文﹄には、その宗派に共通の祈願文と、各流派の祈願文と、その宗派に共通な根本ラマへの祈願文と、その流派の歴代のラマ︵祖師︶への祈願文と、自身の根本ラマへの祈願文と、特別なラマへの祈願文がある。長いテキストの修法や、法要の際にはそれらを必ず唱えることになるので、各宗派やその流派の特徴が聞いただけで分かるようになっている。また、チベット密教では内容の長短はあっても四大宗派が共に各﹃伝承祈願文﹄を唱え、伝統的にこれを唱えない宗派は存在しない。
(14)^ 英訳‥ソギャル・リンポチェ、RIGPA刊。和訳‥中沢新一、T.C.C︵旧・チベット文化研究所︶刊、1989年。
(15)^ 中国訳は﹃西蔵古代佛教史﹄︵寧嗎佛教史︶、劉鋭之 翻訳、1969年刊。
(16)^ ﹁ペマ・ジュンネー﹂には、﹁ツォキェー・ドルジェ﹂と﹁グル・ナンスィー・スィヌン﹂という二つの呼び名がある。﹁ツォキェー・ドルジェ﹂︵mtsho skyes rdo rje︶は﹃三根本法﹄の主尊の名前であり、﹁グル・ナンスィー・スィヌン﹂︵gu ru snang srid zil gnon︶は﹃蓮華生大師八大変化法﹄︵グル・ツェンギェー‥gu ru mtshan brgyad︶の本尊の名前でもある。
(17)^ ﹁シャーキャ・センゲ﹂はゾクチェンと﹃大幻化網タントラ﹄の法統に関する名前。この名前の梵名シャ-キャ・シンハ︵漢名‥釈迦獅子︶の﹁シンハ﹂は、ゾクチェンにおける師僧﹁シュリー・シンハ﹂︵漢名‥吉祥獅子︶の後半の名前をもらい、その直弟子であり、ゾクチェンの全伝を授かったことの証明である。また、﹃大幻化網タントラ﹄の法脈においては、この﹁シャ-キャ・センゲ﹂の名前で登場することがある。密教においては、正式な修行者は出家の際に法名と字︵あざな︶の二つを授かり、これに密号や諡︵おくりな︶が加わり、通常、二つから四つの複数からなる名前を持つ。
(18)^ ﹃藏伝佛教壇城度量彩絵図集﹄には、﹃大幻化網タントラ﹄の種々の曼荼羅を中心に、ニンマ派の主要な尊格の曼荼羅について、その作画法から立体曼荼羅までも、詳細なカラー図版と共に紹介している。
(19)^ この人物は、インド密教における主要なタントラの重要な伝承者として知られる。梵名の﹁クク﹂は犬、﹁ラージャ﹂は王様を意味し、ククラージャが犬を飼っていてとても可愛がり、いつも一緒にいたところからこの名で呼ばれた。それゆえ、タンカには犬を抱きかかえた姿で描かれている。
(20)^ 原文はチベット語、英訳と中国訳﹃歡喜持明空行 紅宝珠錬﹄がある。
(21)^ この項は﹃寧嗎佛教史﹄︵劉鋭之 翻訳︶、他による。
(22)^ 原文はチベット語、英訳と中国訳があり、英訳はアメリカで賞を受賞、中国訳﹃大圓満傅承源流﹄は系統ごとのタンカと血脈の系統図を新たに製作しカラー図版を添付して全二巻、約1000ページを超える大著となっている。
(23)^ トゥカン︵1737-1802︶は、トゥカン・ロサン・チューキ・ニマ︵Thu'u bKwan blo bzang chos kyi nyi ma︶、あるいはトゥカン・チューキ・ニマとも呼ばれるチベット仏教を代表する宗教学者。その著作﹃一切宗義‥善説水晶鏡﹄︵grub mtha shel gyi me long︶によって、チベットでは宗派を問わずよく知られている。その内容はニンマ派のみならず、ボン教や当時の印度の諸宗教をも網羅していて、今日では知ることの出来ない歴史的な内容を含み、学問的研究や文化史だけでなく、チベット仏教の各宗派の全体像を理解する上では必須の資料とされている。﹁ニンマ派の章﹂では、ゾクチェンとその関連する諸法についての概略と、ニンマ派の各流派における詳細な系譜を載せていて、﹁カギュ派の章﹂では、中心となるマハームドラー︵大手印︶とナーローの六法についての概略と、カギュ派の各流派における詳細な系譜を載せている。また、﹁ボン教の章﹂では、その当時の古いボン教の流派の中には、ゾクチェンをボン教の教えとして認めない流派もあったことなどが述べられている。ただし、本人がゲルク派の僧侶でもあるため、現代的な学問の視点から比べると、対立する宗派については研究の及ばない点も多く見られる。
(24)^ 現代では、ドゥジョム・リンポチェの瞑想に基づくテルマを集めた﹃ドゥジョム全集﹄を始めとして、ディンゴ・ケンツェ・リンポチェのテルマを集めた全集、ペノル・リンポチェのテルマを集めた全集、トゥルシク・リンポチェのテルマを集めた全集等々があり、いずれも﹁カンド・ニンティク﹂の系統に数えられている。
(25)^ サムイェー寺の建立については諸説ある。﹁賢者喜宴﹂には開始763年-774年終了とあり、﹁西蔵王臣記﹂には開始767年-771年終了とある。日本における吐藩の歴史研究を参考にティソン・デツェン王の生没を︵Khri srong lde brtsan‥生742年-没797年︶とし、在位を︵755年頃-797年︶と比定、また、サムイェー寺の完成を﹁西蔵王臣記﹂に基づく771年、﹁サムイェー寺の宗論﹂を792年とする。これにより、ニンマ・カマのゾクチェンの成立は8世紀と考えられ得る。テルマの系統のゾクチェンはテルマ︵埋蔵経︶としての性格上、﹁ランダルマの破仏﹂︵834-842︶が行なわれた後のことと見られるので、9世紀から10世紀または、そのテルマが発見された時に始まる。実際には初期のニンマの教えは吐藩の仏教と言ってもよく、吐藩が滅亡した842-877年以降に、中央チベット地域に新たに成立した国家によって新訳派と呼ばれる仏教がインドからもたらされることになり、吐藩の仏教であったニンマの教えが﹁ニンマ派﹂と呼ばれるに及んで、各種のテルマをはじめとして、ゾクチェンの教えも再編成されたと見られる。
(26)^ パドマサンバヴァの直弟子は数多くいたとされ、主に地名と数によって呼ばれる。﹁ティンプーの25人の成就者﹂、この25人の弟子たちは最初の正式な弟子であるため﹁試みの25人﹂とも呼ばれる。﹁ゾンの55人の大覚者﹂、﹁イェルパとチョウォリの108人の﹃虹の身体﹄の成就者﹂、﹁シェルダクの35人の密呪者﹂、﹁光となって消えた25人のダキニ︵と呼ばれた女性たち︶﹂、﹁女性の︵瑜伽の︶成就者﹂等が有名である。各資料によってその人数は一致するが、名前は異同があり、必ずしも一致しない。
(27)^ チベット名を﹁サンワ・ニンポ﹂、中国訳の全訳は﹃幻化網秘密藏續﹄。
(28)^ ﹁五成就﹂とは、信成就・時成就・教主成就・住処成就・眷属成就の五つを指す。弘法大師空海による﹃理趣釈経﹄の請来以来の言葉で、仏教学や密教学では経典の由来や曼荼羅の講成を考察する際の参考とされる。また、経典によっては﹁六成就﹂とするものもある。
出典[編集]
(一)^ ﹃チベット密教﹄ pp.207-208、﹃増補 チベット密教﹄ pp.197-198
(二)^ ﹃三万年の死の教え﹄ p.114
(三)^ ﹁西蔵仏教宗義研究 第三巻 トゥカン﹃一切宗義﹄ニンマ派の章﹂、pp.6-7。
(四)^ ﹃Die Religionen Tibets und der Mongolei﹄、pp.94-106。
(五)^ 山口瑞鳳﹁チベット仏教﹂︵﹃講座 東洋思想﹄5︶、p254、p260、p270。
(六)^ ﹁西蔵仏教宗義研究 第三巻 トゥカン﹃一切宗義﹄ニンマ派の章﹂、p7。
(七)^ ﹃チベット密教﹄ p.208、﹃増補 チベット密教﹄ p.198
(八)^ ab﹃ゾクチェンの教え﹄ p.195
(九)^ ﹃秘伝!チベット密教奥義﹄︵学習研究社︶、p284。
(十)^ ﹃知恵の遥かな頂﹄︵角川書店︶、pp159-166。
(11)^ ﹃A Losary of Jewels﹄︵第12世 ドゥクチェン法王‥Gylwang Drukpa 著︶、﹁YANGTI RITUAL﹂、pp55-94。
(12)^ ﹃虹と水晶﹄ pp.62-66
(13)^ abVan Schaik (2004), p.8
(14)^ ﹃虹と水晶﹄ p.63
(15)^ "The Shugden Affair: Origins of a Controversy (Part I)" by Georges Dreyfus. Official website of the Office of His Holiness the 14th Dalai Lama.[1]
(16)^ ﹃虹と水晶﹄ p.55
(17)^ ﹃静寂と明晰﹄ p.208
(18)^ ﹃インド後期唯識思想の研究﹄︵山喜房佛書林︶、pp.3-6。
(19)^ ﹃ダライ・ラマ ゾクチェン入門﹄ p.185
(20)^ ﹃ダライ・ラマ ゾクチェン入門﹄ p.181, p.281
(21)^ ﹃聖妙吉祥真実名經 梵本校譯﹄︵談錫永 譯著︶、pp.1-5。
(22)^ D・スネルグローヴ、H・リチャードソン ﹃チベット文化史﹄ 奥山直司訳、春秋社、1998年 p.239
(23)^ ﹃ダライ・ラマ ゾクチェン入門﹄ pp.217-218
(24)^ ﹃図説 チベット密教﹄p.148
(25)^ 中沢新一﹁ゾクチェン思想の展開3﹃リクパィ・クジュク註釈﹄﹂︵2012年7月29日閲覧︶
(26)^ ﹃図説 チベット密教﹄p.148
(27)^ Van Schaik (2004), p.33
(28)^ ﹃虹と水晶﹄ p.42、﹃ゾクチェンの教え﹄ pp.168-169、﹃叡智の鏡﹄ pp.134-135, pp.203-204
(29)^ ﹃蓮華生大士祈請文集﹄︵全佛文化事業有限公司︶、pp.251-268、pp.300-304。
(30)^ ﹃藏伝佛教壇城度量彩絵図集﹄︵西藏人民出版社︶を参照のこと。
(31)^ ﹃大チベット展﹄、図版ツ74-3。
(32)^ ﹃八十四人の密教行者﹄︵春秋社︶、pp180-183。
(33)^ ﹃八十四人の密教行者﹄︵春秋社︶、pp151-154。
(34)^ ﹃遥かなるブータン﹄︵日本放送出版社︶、pp86-87。
(35)^ ﹁西蔵仏教宗義研究 第三巻 トゥカン﹃一切宗義﹄ ニンマ派の章﹂、p111。
(36)^ ﹁西蔵仏教宗義研究 第三巻 トゥカン﹃一切宗義﹄ ニンマ派の章﹂、pp.11-14、︹ゾクチェンの歴史的背景︺を参照。
(37)^ ﹃大チベット展﹄、図版ツ74-5。
(38)^ ﹃大チベット展﹄、図版ツ74-4。
(39)^ ﹁西蔵仏教宗義研究 第三巻 トゥカン﹃一切宗義﹄ ニンマ派の章﹂のpp.112-120には﹁深淵浄現教説︵zab mo das sana‥これが現在はタクナンと呼ばれている︶の系統﹂︵原文、和訳︶と、ゾクチェンにおける﹁ニンマ派の宗義との一致や変遷﹂︵原文、和訳︶に関して経緯とその理由が説かれ、また、pp.117-123には﹁ニンマ派の教法の吟味﹂︵原文、和訳︶についての事情と必要性を伝えて、いずれも原本のトゥカン]著 ﹃一切宗義‥善説水晶鏡﹄︵原文、和訳︶に詳しく説かれている。
(40)^ ﹃チベット︵下︶﹄︵山口瑞鳳著︶、p27表。
(41)^ ﹃古代チベット史研究﹄︵佐藤長著︶、pp.391-497。
(42)^ ﹁西蔵仏教宗義研究 第三巻 トゥカン﹃一切宗義﹄ ニンマ派の章﹂、p127。
(43)^ ﹃講説 理趣経﹄︵宮坂宥勝 著︶、p86。
(44)^ ﹃理趣経﹄︵松長有慶 著︶、pp.89-129。
(45)^ ﹃智恵のエッセンス﹄ pp.206-207