松尾藩
松尾藩︵まつおはん︶は、明治維新期の短期間、上総国に存在した藩。1868年に遠江掛川藩の太田家が5万3千余石で移封され、1871年の廃藩置県まで存続した。藩庁ははじめ上総国武射郡柴山︵現在の千葉県山武郡芝山町︶に置かれ、柴山藩︵しばやまはん︶と称したが、のちに武射郡松尾︵山武市松尾町︶に松尾城を築いて移転した。
藩史[編集]
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明治元年︵1868年︶5月、駿河国・遠江国・三河国に徳川家達が入ったため、遠江国掛川藩主であった太田資美が上総国武射・山辺郡内に移封となった[注釈 1]。資美は同年7月に武射郡柴山村の観音教寺に仮藩庁を設置し、これにより﹁柴山藩﹂が立藩した[1]。所領は5万3350石である。
翌明治2年︵1869年︶6月、版籍奉還をうけて知藩事に任命されると、それまで寺に間借りをしていた仮藩庁の地であった柴山から、新たに新藩庁の地として武射郡大堤、田越、猿尾、八田などの入会地の山林原野を同年9月より開拓して町割りと縄張りを行い﹁松尾城﹂の築城を開始した[1]。この城は西洋風の稜堡式要塞︵多角形要塞︶の形状を取り入れた城である。﹁松尾﹂とは資美の旧領であった遠江国掛川の掛川城の別称であり、これにちなんで開拓地も松尾と命名した。翌明治3年︵1870年︶11月に藩庁と知事邸、および城下町が一応は完成[1]。明治4年︵1871年︶1月に正式に松尾へと移り、﹁松尾藩﹂と改称した。
上総移転から廃藩まで、わずか4年足らずの存続期間であったが、資美は藩の基礎を固めるため、藩校である﹁教養館﹂や病院﹁好生所﹂などの創設に尽力した。特にこの病院は、貧乏人には無料で回診し、70歳から80歳以上の者には扶持を与えるなど、資美は福祉政策に力を注いだ︵柴山時代には﹁仮好生所﹂として柴山村大善寺内に開設していた︶。さらに資美は財政政策のため、物産会所を設置し、養蚕を奨励した。
明治4年︵1871年︶7月の廃藩置県で、城すら未完成のまま、松尾藩は廃藩となって松尾県となった。その後しばらく松尾城に県庁を置くが、同年11月木更津県に合併された。
歴代藩主[編集]
太田家 旧譜代、5万3350石 (一)太田資美廃藩時点の領地[編集]
●上総国 ●山辺郡 - 28村︵旧旗本領1村、安房上総知県事領28村︻内訳は旧幕府領13村、旗本領3村、与力給地24村︼︶ ●武射郡 - 126村︵旧幕府領5村、旗本領25村、飯野藩領1村、結城藩領1村、西端藩領1村、安房上総知県事領107村︻内訳は旧幕府領36村、旗本領91村、結城藩領11村、長瀞藩領3村、高岡藩領3村、西端藩領2村、飯野藩領1村、生実藩領1村、高知新田藩領1村︼︶ なお、いずれも相給を含むため、村数の合計は一致しない。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
関連項目[編集]
- 松尾町(市町村合併に伴い山武市の一部となる)
先代 (上総国) (藩としては掛川藩) |
行政区の変遷 1868年 - 1871年 (柴山藩→松尾藩→松尾県) |
次代 木更津県 |