三日市藩
三日市藩︵みつかいちはん︶は、越後国蒲原郡三日市組館村に存在した藩。藩庁は三日市陣屋︵現在の新潟県新発田市上館・新発田市立七葉中学校︶。
概要[編集]
享保9年︵1724年︶3月11日、柳沢吉保の長男・柳沢吉里は甲府藩から大和国郡山藩へ移封された。このとき、支藩甲府新田藩で1万石を領していた吉保の五男・柳沢時睦は越後三日市に1万石の所領を与えられ、三日市藩が立藩することとなった。時睦はわずか3か月の在職で家督を弟の柳沢保経︵吉保の七男︶に譲ったため、治績はほとんどない。保経は江戸城警備・大坂と駿府の加番・日光祭礼奉行などを歴任して活躍した。 しかし成立直後からもともと小藩であった上、藩主が江戸定府で膨大な出費が続いたため、藩財政は極度に悪化した。このため、天保14年︵1843年︶頃には藩の借金が2190両という巨額になったと言われている。このため、文政年間に財政再建を主とした藩政改革が試みられたが失敗し、逆に藩財政をさらに悪化させるに至った。 幕末期、三日市藩は外国船の到来に備えて、軍備増強に多額の経費を投入した上、幕府から新潟町の関屋・青山海岸や江戸飛鳥山近辺の警備を命じられた。さらに第8代藩主・柳沢徳忠の家督相続による費用、安政の大地震での藩邸復旧費用、朝廷に対する費用などの出費も重なって、藩財政は破綻寸前を迎えた。ちなみに歴代藩主の中で藩領に入ったのは、最後の藩主・徳忠だけである。明治元年︵1868年︶の戊辰戦争のとき、三日市藩は新発田藩と行動を共にした。翌年、版籍奉還により徳忠は三日市藩知事となる。明治4年︵1871年︶7月14日、廃藩置県により三日市藩は廃藩となって三日市県となる。そして同年11月20日、三日市県は新潟県に編入された。歴代藩主[編集]
柳沢家 1万石、譜代。 (一)柳沢時睦︵ときちか︶ 従五位下。式部少輔。 (二)柳沢保経︵やすつね︶ 従五位下。弾正少弼。 (三)柳沢信著︵のぶあき︶ 従五位下。式部少輔。 (四)柳沢里之︵さとゆき︶ 従五位下。信濃守。 (五)柳沢里世︵さとよ︶ 従五位下。信濃守。 (六)柳沢里顕︵さとあき︶ 従五位下。弾正少輔。 (七)柳沢泰孝︵やすたか︶ 従五位下。弾正少輔。 (八)柳沢徳忠︵のりただ︶ 従五位下。信濃守。幕末の領地[編集]
●越後国 ●蒲原郡のうち - 49村︵うち5村を第1次新潟県、18村を新発田藩、2村を村上藩、1村を黒川藩に編入︶ 明治維新後に、蒲原郡30村︵旧水原代官所管轄の幕府領14村、黒川藩領11村、会津藩領4村、新発田藩領1村︶が加わった。なお相給も存在するため、村数の合計は一致しない。外部リンク[編集]
先代 (越後国) |
行政区の変遷 1724年 - 1871年 (三日市藩→三日市県) |
次代 新潟県 |