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日吉町殿田︵ひよしちょうとのだ︶は、京都府南丹市の地名。2006年︵平成18年︶1月1日[7]の南丹市発足以前は、船井郡日吉町の大字・殿田︵とのだ︶であった。もともと商店街があったことから、近隣の村と比べ農家が少ないことが特徴として上げられる。キャッチコピーは﹁ダム湖がつなぐ交流の里﹂[9]。
本項では現在の地名について日吉町殿田、または殿田として記述する。
2000年5月30日撮影、日吉町殿田を中心とした日吉町の空中写真。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
殿田は、南丹市の中部にある世木地区に位置し、淀川水系の上流・桂川右岸および田原川沿いに集落群を形成する。
世木地区の地形は左手の手のひらに例えられ、親指が桂川本流、人差し指が中世木川、中指が木住川、薬指が田原川、小指が胡麻川で、これらの川が集まる︵合流する︶一帯にあるのが殿田である。
日吉町志和賀との境はアチラで、その語感から二度聞きされることも多いが、れっきとした地名である。アチラは、殿田住民の新田として開拓された場所で、町筋の車橋や小牧の日吉橋から古道で山を越えたところにある。日吉町中との境は小津道で、かつて殿田と中村はひとまとまりの下世木之内とされたが、独立し単独で村を構成するようになった[10]。日吉町田原との境は、東雲稲荷社のある小道。日吉保野田との境は、日吉駅前の藤林橋辺り。園部町船岡との境は、今井生コン先の紅春京都支店園部工場手前のカーブとなっている。
殿田の小字[編集]
南丹市が公示している日吉町殿田の住所は次の通りである[11]。
●旭山 (あさひやま)
●アチラ
●イチバ
●上ノ山 (うえのやま)
●氏神谷 (うじがみたに)
●大貝 (おおがい)
●大貝井溝 (おおがいいみぞ)
●尾崎 (おざき)
●尾崎井溝 (おざきいみぞ)
●大向 (おむかい)
●大向井溝 (おむかいいみぞ)
●大向中井溝 (おむかいなかいみぞ)
●下大向 (しもおむかい)
●カジヤ谷 (かじやだに)
●上小牧 (かみこまき)
●西小牧 (にしこまき)
●東小牧 (ひがしこまき)
●小牧井溝 (こまきいみぞ)
●北谷口 (きたたにぐち)
●腰林 (こしばやし)
●城山 (しろやま)
●新葉 (しんば)
●ダン
●ハジキリ
●ハジキリ井溝 (はじきりいみぞ)
●東筋 (ひがしすじ)
●彦部峠 (ひこべとうげ)
●ヒノ谷 (ひのたに)
●笛吹 (ふえふき)
●船岡井溝 (ふなおかいみぞ)
●前田 (まえだ)
●上前田井溝 (かみまえだいみぞ)
●町筋 (まちすじ)
●宮西 (みやにし)
●向山 (むかいやま)
・井溝は雨水や湧き水などを排水する通水路に付けられる地目。
田原川と胡麻川の合流地点に設けられた分流堤︵背割堤・瀬割堤︶。舟先のような形状をしている。左が胡麻川、右が田原川。2024年4月21日撮影。
●桂川︵かつらがわ︶
桂川は殿田東部を流れる淀川水系の一級河川。殿田では、桂川を大堰川と呼称している。豪雨翌日などの増水時、日吉ダムの放流で茶色に濁った桂川の流れと、濁っていない田原川の流れは、合流しても色が混ざることなく2色に別れたまま流れることがある。
●中世木川︵なかせきがわ︶
中世木川は桂川の一次支流。日吉町中世木の西牧山・東牧山の水を集め西流、日吉町中の京都府道364号中地日吉線の東で大堰川右岸に注ぐ。
●木住川︵こうずみがわ︶
木住川は桂川の一次支流。日吉町生畑北部山中の水を集め南西流、日吉町木住︵こうずみ、こずみ︶を貫流し、小道津橋下流で大堰川右岸に注ぐ。
●田原川︵たわらがわ︶
田原川は殿田集落群に流れる桂川の一次支流。殿田を含む日吉町の一部の地域は、田原川から水道取水している。車橋から曹源寺までの右岸に桜並木がある。104軒が熱失した大火を教訓に、日吉橋から曹源寺橋の区間には取水のための階段が18ヵ所ほど設けられている。
●胡麻川︵ごまがわ︶
胡麻川は桂川の二次支流。日吉町胡麻平原の分水界で由良川水系の畑郷川と、桂川水系の胡麻川に分かれて流下、南丹市立殿田小学校前で田原川と合流する。合流地点には、舟先のような形状の背割堤︵瀬割堤︶が設けられている。
岩・淵・瀬に付けられた名前[12][編集]
●なか岩 – 日吉橋上流
●おりん – 小牧町
●長渕 – 東町下の桂川
●高岩 – 旧世木小学校下
●イボ岩 – 天神町下
●牛岩 – 天神町下
●しろぼう – 天神町下の水泳場だったところ
●平岩 – 市場の下流
●赤岩 – 下大向
●滝の口 – 下大向
●ヤナ瀬 – 園部町船岡との境
●大向山︵おおむかいやま︶
大向山は、日吉町殿田の南に位置する標高357mの山。天稚神社から登山道に入り、日吉ダムを上から眺めることができる。下部はスギの植林地だが、上部には雑木林が残っている。山頂付近の日吉ダム側に京都府立大学の日吉演習林があり、マツタケの発生を促進する環境整備などが行われている[13]。
●城山︵しろやま︶
●行者山︵ぎょうしゃさん︶
●前山︵まえやま︶
●旭山︵あさひやま︶
●上ノ山・上野山︵うえのやま︶
●小牧山︵こまきやま︶
殿田活断層[編集]
船井郡京丹波町中台付近から南丹市日吉町上世木南方にかけて殿田活断層がある[14]。約15キロメートルにわたって連続した西北西走向の断層で、北側隆起と左ずれの変位が特徴となる[14]。横ずれ地形は日吉町志和賀付近で顕著で[14]、左ずれの累積は約200メートルとなっている[14]。また、殿田付近では地質境界の右ずれも見られる。縦ずれについては、殿田付近の高位段丘で30–36メートル、中位段丘で12–15メートルの変位を見せ[14]、世木林︵日吉町天若︶では低位段丘を切る低断層崖の発達が見られた[14]。1997年︵平成9年︶、世木林地区でトレンチ調査が行われ、最新の断層活動が紀元前395年から紀元後100年の間に起こったことや、1万1000年前から現在までの間に3度の活動があったことが判明している[14]。
世木林地区で見られた断層地形やトレンチ地点は日吉ダムの完成で水没し、﹁殿田断層崖︵世木林地区︶﹂は京都府レッドデータブックで﹁消滅﹂のカテゴリーとなっている[14]。しかし、殿田断層のはぎとり標本とトレンチ調査の結果は、ダム堤内で展示されている[14]。
気候・植生・生態[編集]
梅雨期から台風期までの夏季は降水量が多い太平洋側気候の特徴を示し、比較的に涼しい高原的気象で昼夜の寒暖の差が大きい。
冬季は冷え込み日較差が大きい内陸性気候を示す反面、日本海側気候の影響を受けて季節風が吹き、降雪や積雪がみられるが、丹波地方の北部に比べると比較的温暖で降霜・降雪量は少ない。
植生区分は暖帯常緑広葉樹林︵ヤブツバキクラス域︶に属しているが、ほとんどは代償植生となっている。
スギは1982年︵昭和57年︶に制定された日吉町の﹁町の木﹂で、林業やその運搬で栄えた殿田では、今でも植林されたスギが多く残っている。
アベマキ[編集]
京都府レッドデータブックで﹁管理維持﹂のカテゴリーとなっているアベマキ群落が大向山にある[18]。
ミツバツツジとツツジ[編集]
ツツジは1982年︵昭和57年︶に制定された日吉町の﹁町の花﹂。それにあやかり、もとからミツバツツジが殿田の山中に自生していたことから、上ノ山の梅若屋敷跡周辺ではミツバツツジの植樹が続けられている[19]。
小牧観音堂のシラカシ[編集]
樹高約20m、樹誕1911年〜1931年と推定されるシラカシが小牧観音堂︵日吉町神社︶にある。枝腐れから幹腐れに進行している[20]。
殿田では、キタノメダカやミナミメダカ、オヤニラミなどが生息している。桂川下流域では見られない由良川水系の魚がいるのは、地殻変動のなごりという[21]。もともと殿田の川は今と違って日本海に流れており、地殻変動による縦ずれで殿田付近の高位段丘を30–36m、中位段丘を12–15m変位させて太平洋側の亀岡盆地に流れこむようになった[14]。太平洋側に流れるようになったのは、約30万年前頃と考えられている[22]。
世帯数と人口[編集]
2024年︵令和6年︶4月1日現在の世帯数と人口及び、エリアごとの殿田人口割合は以下の通りである[4]。
範囲 |
人口 |
うち、殿田人口の割合
|
南丹市
|
29,805人
|
1.046%
|
日吉町
|
4,320人
|
7.222%
|
世木地域
|
620人
|
50.322%
|
人口の変遷[編集]
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷[編集]
国勢調査による世帯数の推移。
殿田に多い姓[編集]
旧日吉町の世帯別で多い姓は、湯浅・吉田・塩貝でほぼ同数、次に宇野や小林と続く[29]。殿田では人口流動が多い集落特性から極端な偏りはないが、次の順で多い[29]。
●1.吉田︵よしだ︶
●2.井尻︵いじり︶
●3.山口︵やまぐち︶
●4.中川︵なかがわ︶
殿田区自治会[編集]
殿田地内の自治は、認可地縁団体法人﹁殿田区自治会﹂が治めている。規約では﹁殿田区﹂の名称だが、南丹市が設置する行政区との区別を図るため、﹁殿田区自治会﹂と表記されることが多い。殿田区自治会では、全会員による直接民主制の区民総会と、年6回ほど開かれる組代表︵組長︶による関節民主制の組長会により住民総意が図られている。
南丹市にある多くの集落では、区民総会で選ばれる自治会の代表︵自治会長︶が、南丹市が委嘱する行政区長を慣例として兼ねている。殿田内には2つの行政区︵殿田上区・殿田下区[30]︶が設置され、それぞれに市から委嘱を受けた区長が存在し、殿田区自治会においては副自治会長的なポジションを担ってきた。2024年︵令和6年︶の殿田上区・殿田下区の統合により両区長を廃止し、自治会長が区長を兼務することになった。
2022年︵令和4年︶から2年間、自治会運営の見直しが行われた。その一つとして、2023年︵令和5年︶12月より、殿田区自治会の事務の一部をとのだofficeworksに委託している。
殿田区自治会のほか、各組︵町︶で組織を構成し、隣組単位の自治も行われている。
組構成[編集]
殿田区内は大きく2つの範囲に分けられ、その中に計9つの組︵町︶が存在している。石橋町と下ノ町はかつて別の組だったが、世帯数の減少により合併している。
殿田上
●旭町︵あさひちょう︶
●旭山町︵あさひやまちょう︶
●小牧町︵こまきちょう︶
●上ノ町︵うえのちょう︶
●中ノ町︵なかのちょう︶
殿田下
●石橋・下ノ町︵いしばし・しものちょう︶
●天神町︵てんじんちょう︶
●大堰町︵おおいちょう︶
●東町︵ひがしちょう︶
殿田区自治会が加盟する組織[編集]
●日吉町区長会
日吉町区長会は、旧日吉町内にある35行政区の代表で組織する連合会組織で、殿田区自治会も加盟している。南丹市が主催して毎年4月に開催される行政区長への委託事務説明会を指して﹁日吉町区長会﹂と呼ぶこともある。
●世木地域振興会
世木地域振興会は、2006年(平成18年)に設立した旧世木村を範囲とする地域振興組織。殿田区、中世木区︵なかせきく︶、生畑区︵きはたく︶、木住区︵こうずみく︶のほか、地域内の有志によって組織されている。
地縁由来の有志組織[編集]
殿田区自治会とは別に、地縁を由来とする団体が活動している。
●殿田区子ども会
殿田に住む子ども及びその保護者で組織された任意団体。中世木区子ども会と合同で活動している。
●消防団
南丹市消防団日吉支団第1分団第1班。略称は﹁殿田班﹂。
●消防協力隊
元消防団員で組織された団体。
●南丹船井防犯協会殿田支部
殿田に置かれた南丹船井防犯協会の支部。年末警戒パトロールなど、防犯啓発活動を行っている。
●大向井営農組合
1995年︵平成7年︶に[31]農家27軒で、集落型農業法人として設立。農作業の受託、黒豆栽培、貸農園、加工品︵納豆餅、弁当、巻寿司等︶販売などを行っている。[32]区域内農用地面積は6.3ha。[31]
●殿田農家組合
●殿田水利組合
●日吉神社氏子総代会
●殿田商友会
●美鈴会
●あけぼの会
●自遊自感
●パンジー
●バンジー企画
高齢者を対象とした交流事業や、高齢者による地域貢献事業の企画運営を行う任意団体。会員互助の老人会とは違い、非会員の高齢者も対象に事業を企てるのが特徴。名称は、ババア・シジイをもじったもの。2023年︵令和5年︶、バンジー企画の発足により、旧来から続く老人会︵長寿会︶は解散した。
●草刈り隊
川草刈りなどの作業を請け負っている住民有志の任意団体。
●殿田ボランティアグループ
南丹市日吉殿田コミュニティ広場︵交流広場 殿田ふれあいパーク︶や梅若家旧墓所などの清掃活動を無償で行う住民有志グループ。
●殿田おたすけ隊
殿田区自治会の特別委員会として設置された殿田区集落支援事業推進委員会の活動をきっかけに、2023年︵令和5年︶2月11日に発足した住民共助を目的とする任意団体[33]。障害者や高齢者、病人を対象に、御用聞きや軽作業、送迎などのサービスを行っている。
●殿田ゲートボール同好会
南丹市日吉殿田コミュニティ広場︵交流広場 殿田ふれあいパーク︶を拠点に練習するゲートボールの競技団体。
●劇団 殿田の案山子
殿田住民を中心に組織する演劇集団。
●殿田の歴史を考える会
殿田の歴史を冊子にまとめる活動や、歴史資源を活かした取り組みを行っている任意団体。
●世木の伝統芸能を守る会
地域住民の有志で2015年︵平成27年︶に設立し、能楽の梅若家にゆかりある史跡の保存及び活用と、小学生を対象にした能楽体験などを行っている任意団体[34][35]。
●梅若家屋敷跡保存会
上丿山にある梅若家屋敷跡を整備、保存する目的で組織された任意団体。
●とのだofficeworks
殿田区自治会の事務を請け負うことを主目的とし、移住者らで2023年︵令和5年︶に発足した任意団体。自治会の下部組織ではないため、主体的な企画も行う。
解散した組織[編集]
●青年団
●日吉町殿田老人会﹁長寿会﹂
南丹市老人クラブ連合会︵市老連︶に加盟していた単位クラブ。2023年︵令和5年︶に解散。
地縁由来の委嘱人材[編集]
組織とは別に、殿田区自治会からの推選を受け、行政機関や社会福祉協議会より委嘱を受けた住民が活動している。
●民生委員・児童委員
慣例により南丹市では、民生委員と児童委員は兼務している。
●ふれあい委員
南丹市社会福祉協議会からの委嘱を受け、殿田内の福祉的な地域の困り事の解消のために活動する委員。住民の孤立解消を目的とした、ふれあい・いきいきサロンの開催などを企画している。
歴史・史跡[編集]
日吉町殿田に関する年表710~2006年。
●江戸時代 – 丹波国船井郡の村として殿田村がある。1619年︵元和5年︶に園部藩領となった。
●1889年︵明治22年︶ – 町村制の施行により、殿田村・天若村・中村・中世木村・生畑村・木住村の区域をもって世木村が発足。殿田は世木村の大字名となる。
●1955年︵昭和30年︶ – 五ヶ荘村・胡麻郷村・世木村が合併し、日吉町が発足。殿田は日吉町の大字となる。
●2006年︵平成18年︶ – 4町合併による南丹市誕生に伴い、南丹市日吉町殿田となる。
●2024年︵令和6年︶ – 南丹市による行政区分であった殿田上区と殿田下区を、住民からの要望により廃止。行政区分としても殿田区に統一される。
筏流し[編集]
白鳳時代︵645~710年︶に上流の周山廃寺の造営に際して上桂川で筏流しが行われた記録がある。平城京の寺院建築にも丹波地方の材木が使われていたことから、奈良時代には上流から下流への筏流しが行なわれていたと考えられている。
上流部から伐り出された木材はいったん殿田に集められる。殿田で大筏に組み替えられた木材は、下流の船岡︵園部町︶・鳥羽︵八木町︶・保津︵亀岡市︶・山本︵亀岡市︶などの中継地を経て、嵯峨に送られた[38]。明治~大正期の山陰本線の開通やトラック輸送の普及で次第に衰退し、戦後、完全に途絶えた。
南丹市が収蔵する﹁丹波日吉の山樵及び筏関連用具115点﹂は、京都府暫定登録文化財︵有形民俗文化財︶になっている[39]。
世木城[編集]
世木城︵関城︶は、湯浅五郎兵衛家が旭山に構えたとされる城。湯浅五郎兵衛家は1393年︵明徳4年︶紀伊守護湯浅有重の子孫、宗朝が世木庄を賜って紀伊国阿氏河荘から丹波国旭山︵上の山︶に移り住んだ、後の木住の郷士である[40][41]。世木城は湯浅家の屋敷と砦︵物見櫓︶の一群を指すのではないかと考えられている。旭山の山頂には、円形に整地された所が2ヵ所あり、そこからは大堰川の上流と下流、田原川、胡麻川方面の様子がよく見える。だが、一説によれば、世木城は世木林にあったとも言われている[40]。
1545年︵天文14年︶に、丹波守護代で八木城の城主・内藤国貞が丹波守護の細川晴元に背いたところ、攻められ、湯浅五郎兵衛のいる世木城に逃げた。1570年︵元亀元年︶には、湯浅宗貞が世木城を畳んで木住に帰農した[40]。
殿田城[編集]
殿田城は、曹源寺の背後にある城山︵標高約280m︶にあったとされる城で、明智光秀の築いた砦跡と伝わっている[40]。城山には、尾根に沿って堀や土塁等が整備された平地30~40mが広がっている。城跡への山道は整備されていない。
丹波猿楽 梅若家[編集]
猿楽の梅若家の系譜は、奈良時代の橘諸兄︵たちばなのもろえ︶からとされている。橘諸兄から九世を数える橘友時は梅津氏の元祖とされ、梅津村︵現在の京都市右京区梅津︶に住居を構えた[42]。友時は朝廷より大志麻︵現在の綾部市大志麻︶を拝領し、承平年間︵931-938年︶に子孫が移り住んだとあり、一門は綾部周辺から和知、美山、周山、殿田に散在し、室町時代の初期まで丹波守や若狭守などの役職に就いたとされている[43]。
丹波に移り住んだ梅津家が猿楽を始めた時期は明らかになっていないが、室町時代の看聞御記の1416年︵応永23年︶3月9日の条に﹁仙洞に猿楽あり梅若仕﹂とある。1481年︵文明13年︶、三十七世梅津景久︵かげひさ︶が後土御門天皇の前で芦刈を舞って、若の字を賜り、梅津一族はこの時から梅若に改姓した[32]。
景久の子・直久︵なおひさ︶は、上林︵現在の美山町宮脇︶に住み、尾張の織田家に仕えた。直久の子で声の良さから"妙音太夫"と呼ばれた三十九世梅若広長︵ひろなが︶は元武士で、本能寺の変で明智光秀方に付き、山崎の戦いで負傷して亡くなった。広長は、梅若家の菩提寺である曹源寺に葬られている。
光秀が羽柴秀吉に敗れた後、一時梅若家は没落したが、四十世の梅若氏盛︵隠居後に玄祥︶が細川幽斎の推挙によって徳川家康に仕えることになる。これにより、梅若家は徳川家の能楽師となる[32]。氏盛︵うじもり︶は、大阪冬の陣で茶臼山を舞っている[44]。
●梅若家屋敷跡
四十一世梅若氏久が上ノ山に作った梅若家の屋敷は[44]、﹁世木の御殿﹂と呼ばれていた[45]。屋敷跡地では、日吉町の花であったツツジにあやかってミツバツツジが植樹されている[19]。屋敷跡に現存している古井戸は園部城や亀山城とつながる抜け穴だという口伝が残っている[46]。
●梅若家旧墓所
殿田地内に残る梅若家の墓標。1975年︵昭和50年︶10月には、﹁丹波猿楽梅若家旧墓所﹂の碑を五十五世梅若六郎が建立している。殿田ボランティアグループが墓所の清掃や、獣害による倒壊の修繕などを行っている。
●梅若家の菩提寺
殿田地内にある曹源寺は、梅若家の菩提寺である。三十九世梅若広長がいた時代に創建されている。1887年︵明治20年︶、梅若実︵五十二世梅若六郎︶が、梅若の始祖﹁梅津兵庫頭友時﹂の千年祭を行ない、旧墓所に﹁従五位下梅津兵庫頭橘友時碑﹂を建立した。この碑は、1941年︵昭和16年︶の殿田の大火のあと梅若家屋敷跡に移された。
●梅若稲荷跡
上野山トンネルの横、東町踏切そばの坂道︵追手門道︶を登ったところに、梅若家鎮守の稲荷跡の石組みが残っている[47]。
●猿の禁猟
篠田市兵衛が五十二世梅若六郎に伝えた話として梅若実日記に猿のことが次のように記されている。
“梅若家のご先祖、当地の山で年老いた猿を鉄砲で撃った時から身体に痛みを覚えるようになり、それが原因で丹波から江戸までの勤めが難しくなり江戸に引き移ることになってしまいました。土地の守り神、山王権現(日吉神社)の怒りに触れたのだと、その時から村一帯では今に至るまで猿の猟を禁じているのだと聞いています[48]”
鮎の道[編集]
殿田も桂川の鮎を洛中まで運ぶ、いわゆる﹁鮎の道﹂の道中にあった。世木上流の山国八村で獲れたものは﹁世木の鮎﹂と呼ばれた[32]。6月から9月までの農閑期、世木の多くの人が鮎に関係した。鮎を獲るアユトリ、鮎を運送するアユモチなどである。アユモチは50~70匹を入れたアユモチオケ︵水を張った桶︶を天秤棒で担ぎ活きたまま、約26kmの道のりを何度も水を入れ替えながら嵯峨鳥居本の鮎問屋まで運んだ[12]。室町時代の中期から朝廷に世木上流の山国八村の御用鮎が献上されるようになり、明治初期まで献上鮎の制度が続いた[49]。
山陰線の開通後は、殿田の料亭﹁錦水亭﹂の店主・村上氏が漁師から友釣りのアユを買い付け、殿田駅から京都へ汽車で運ばれていた。1時間半ほどの道中、鮎は大きな桶に入れられ、手じゃく水を動かして鮮度を保ったという[32]。
南丹市が収蔵する大堰川上流域の漁撈用具76点は、京都府暫定登録文化財︵有形民俗文化財︶になっている[39]。
船運の発展[編集]
角倉了以︵本姓:吉田、幼名:与七︶による1606年︵慶長11年︶の大堰川開削によって、殿田から嵯峨までの30数kmの水路が完成した[32]。発展した船運によって、千把や柴などの当地の産品が京の都へ運ばれた[12]。殿田に数ヵ所あった船着場︵浜︶で物資を積荷。船運による繁栄で近隣から人が移り住み、30戸ほどの村から100戸を超える町になった[32]。1799年︵寛政11年)の丹波国大絵図には殿田について﹁山城嵯峨より殿田まで通船あり﹂と注されている。嵐山の千光寺の碑文には﹁嵐山から世木まで﹂と書かれている[32]。明治時代まで船が運行していたが、他の交通機関の発達によって船着き場の役目を終え、今では岩しか残っていない[32]。
殿田村一件[編集]
1809年︵文化6年︶に殿田村で起きた、藩政の末端であった庄屋や町年寄による村政疑惑に対して村民から園部藩に改革を訴えた一件[50]。
殿田村は、水運業により船井郡で最も高額所得の村だったが、天明の大飢饉︵1782~1788年︶以来不況が深刻化。村民は、減らない高税︵最高時7割︶に苦しんだ。百姓たちは新田開拓費・庄屋事務費・村落行事明細などで村政に不信感を抱き、﹁役人が杜撰な記帳で役得を稼いでいる﹂と言って税滞納が長期化し高額となっていた[50][51]。
一揆には至らず、船越喜平次を中心とした代官添役の庄屋が村役人と百姓の仲介役を務めて和解・落着した[51]。
弓が盛ん[編集]
源頼政等との関わりか、丹波国は古から弓が盛んで、殿田でも明治時代まで弓場や馬場が多くあり、今でも地名として残っている。明治時代に始まった京都・平安神宮の時代祭で行列の最後尾となる桑船弓箭組列は、初回の1895年︵明治28年︶から1942年︵昭和17年︶まで世木村の住民で構成された中八幡神社の八幡講の男子が中心となり勤めていた。その名残で、今でも南丹市立殿田中学校の校章に三本の矢が使われている[52]。
殿田駅[編集]
殿田駅︵現・日吉駅︶は、1910年︵明治43年︶8月25日、園部・綾部間の鉄道開通に合わせて開業された。当初、殿田前田にあった旧世木村役場前につくられる計画だった[53]。しかし、大堰川と田原川の合流点にあたるため見送られ[53]、胡麻川の流れを東に寄せ変え、広場をつくり、現在の場所に駅舎が建設された[32]。当時は、マンガンや薪、木材、電柱、珪石などを中心に貨物の取り扱い量が多いのが特徴の駅だった[32]。現在、名称を日吉駅に変え、胡麻方面から南丹市立殿田中学校への通学経路としても使われている。
●小鶴線
殿田駅から、美山町鶴ヶ岡を経由し、福井県小浜市の小浜駅までを結ぶ計画もあったが、1980年︵昭和55年︶の国鉄再建法に伴って建設予算が凍結され、未着工のまま未成線となった。
マンガン景気[編集]
日吉町域のマンガン鉱は﹁殿田マンガン﹂と呼ばれ[54]、殿田駅周辺には、マンガンの選鉱所や、労働者のための飯場(はんば)があった。マンガン景気で、殿田駅(今の日吉駅)前の料亭では、鉱石の取り引きや接待で昼間から三味線の音が聞こえたという[55]。
丹波盆地、三陸海岸地帯、宇和島は日本におけるマンガン三大産地とされていた[56]。丹波マンガンは、不純物のリンや硫黄が少ないことから、戦争拡大による重火器の増加と産業発展により採掘が拡大し、日本一の採掘量と鉱山数になった[56]。鉱山数は277ヵ所ほど[57]、旧日吉町、旧美山町、旧京北町、旧丹波町で[58]、1889年︵明治22年︶から1983年︵昭和58年︶までに1万5,000~2万の坑道が掘られた[56]。丹波マンガンの鉱山労働者は3,000人に及んだ[57]。日吉町でも鉱山労働者の多くが被差別部落の人たちで、朝鮮人や中国人の動員、山林を持たず農地も少なく生活の糧を求める地元住民も働いた[54]。日吉町には、帝国マンガン集鉱所があった[56]。山陰線を丹波マンガン産地に寄せるために設けられたのが殿田駅で、駅にマンガンの集積所が作られた[56]。駅前には選鉱所ができ、日本通運や丹波貨物が鉄道で運送した[59]。
朝鮮解放後、1945年︵昭和20年︶にマンガン労働者の飯場を拠点として在日本朝鮮人連盟が結成され、連盟の日吉町殿田支部でも活動があった[57]。外国から安価なマンガンの輸入が増え[56]、丹波マンガンの鉱山はしだいに衰退し、最後に残った新大谷鉱山も1983年︵昭和58年︶に閉山した[60]。
防空壕[編集]
日吉神社の参道に残る防空壕。2024年5月9日撮影。
小牧山の日吉神社の山道入口にある地蔵の裏に防空壕が残っている。
世木村忠魂碑[編集]
1919年︵大正8年︶に建立された忠魂碑。成就院の隣接地にある。忠魂碑を挟むように4基の石碑があり、明治の戦死者7名、昭和の戦死者113名の名が刻まれている。そのなかで、太平洋戦争前後の殿田出身戦死者は30名。
殿田の大火[編集]
殿田の大火を教訓に、防火対策として家屋の両側に設置が義務付けられた袖壁︵そでかべ︶。2024年4月14日撮影。
殿田の大火を教訓に、防火対策として設置された数軒おきに設けられた避難道から田原川へと続く階段の一つ。2024年4月14日撮影。
1941年︵昭和16年︶4月27日︵日︶、当時130軒ほどの殿田で、その大半となる104軒が熱失し600人を超える被災者を出す火災が発生した。この火災で、園部町船岡に続く山林50haも延焼した[32]。出火の原因は、12時38分に殿田駅を出発した京都駅行の蒸気機関車が殿田小牧町を通過した際、汽車の煙突から出た火の粉が路線そばにあった散髪屋の茅葺き屋根に落ち、強風にあおられて燃え上がったとされている[61]。
●防火設備の義務化
大火を教訓として殿田では家屋を建築する際に﹁隣家に面する側に防火設備を設ける﹂ことになり、具体的な条件が義務化した。
●1.袖壁︵そでかべ︶という外壁を両側に付ける[61]。
●2.屋根の軒も木に火が付かないよう土で塗り込める[61]。
●3.家は道から二尺︵75.8cm︶引いて建てる[47]。
●4.数軒おきに田原川に避難ができて消防車も通れる道を造る[61]。
●語りべ人形
﹁殿田の大火﹂の証言を伝えるために作られた高さ50cmほどの6体の人形。殿田の歴史を考える会からの依頼で日吉町在住の人形作家・空閑早百合によって制作されたもの。小学6年生で大火を経験した住民の話がモデルとなっている。住民を対象に、人形を使った証言朗読会が行われている[62]。
●貽訓石︵いくんせき︶
大火から一年後の 1942年︵昭和17年︶春、小牧町の出火跡に祖先が子孫のために残す教えを意味する貽訓石が建てられた[61]。碑文には次のことが記されている。
“此の火滅すと雖も、且つは放心する勿れ 無災を恃まず、用意の深きを恃め[61]”
日吉ダム建設に伴う移転[編集]
日吉ダムの建設に伴い、天若湖に水没する家など154世帯約500人が1998年︵平成10年︶に移転した。集団移転先の一つが、ダム下流の殿田の一画である。ほかでは、京都府亀岡市千代川町日吉台がそれで、日吉町中村︵ダム建設で廃村した村︶にあった八幡神社も氏神として一緒に移転し、日吉台から少し離れた亀岡市大井町小金岐に鎮座している。
●天若湖アートプロジェクト
日吉ダム建設によってできた天若湖︵ダム湖︶の場所に住んでいた人たちの思いや、社会の在り方についてアートを通して考えるプロジェクト[63]。京都造形芸術大学の大学生の提案で2005年から始まり[64]、毎年夏に行われるメインプログラムの﹁あかりがつなぐ記憶﹂では、天若湖に水没した5つの集落︵宮村、世木林、沢田、楽河、上世木︶にあった約120家の灯りをLEDライトで再現している[32]。同プロジェクトの一環で、殿田西小牧にあった旧・日吉郵便局の建物が﹁殿田郵便局ギャラリー﹂として活用されたこともある。
地名の由来[編集]
不明。
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近隣の殿田[編集]
殿田中心部から直線で3kmほどのところ、園部町佐切の小字に、殿田の地名がある。日吉町殿田との関係は不明。
大道法師の山[編集]
大道法師はダイダラボッチとも呼ばれ、富士山や琵琶湖を作ったなどと伝わる伝説の巨人。南丹市立殿田中学校裏の旭山山頂で、木住トンネルよりやや殿田よりある広く平らな場所に、大きな窪みがある。その窪みは、大道法師が踏んだ足跡と伝わっている[47]。
仏坂の阿弥陀石[編集]
車橋西側の山中にある、﹁南無阿弥陀仏﹂と書かれた石碑。山賊に殺された人を悼んで村人が建てたとされ、石には殺された人が化けて出たと思い山賊が刀で切りつけた跡が残っている。[47]
世木の関助[編集]
﹁世木の関助︵かんすけ︶﹂こと山口関助廣政は慶安年間︵1648~1652年︶に殿田で生まれ、身長六尺二寸余り︵約190cm︶の大男で、怪力で知られ渡っていた。志和賀の山口村で山口熊太郎の先祖の家に白炭運搬の人夫として居候、その時に娘を嫁にして山口姓をもらったとある。関助に関する逸話がいくつも残っている。[65]
●俵を背負った牛を持ちあげた。
園部藩の藩主・小出︵こいで︶が参勤交代で江戸から帰途、園部町内を通っていた時、五斗俵2個を背負った牛を農夫が牽き進んできて立往生となった時の話。殿様の同心役が大声でしかるも牛は徘徊するだけのところ、関助が進み出て俵を負ったままの牛を両手で持ち上げ道端に避けて行列が通れるようにした。これには関助が雄牛に米俵2俵を積んで園部へ出る際に立壁で厄神参拝の小出と出会った時に起こったできごととしての言い伝えがある。関助18歳、これによって関助は小出家に仕えることになったとある。
●竹を引き抜いた。
園部藩で竹藪を開墾する際、各地から多くの人足が集められが、殿田からは関助ただ一人。しかも、他の人足が働いている時も一向に仕事せずにいたことから、人々が不思議に思って咎めたところ、やおら身を起こして竹藪の竹を難なく引き抜いた。これには役人や周りの人も大変驚き、これを聞いた小出が、関助の怪力を愛でて藩のお抱えにしたという。
●紀州からの申し出
江戸で力競べが行われた際も関助の右に出る者はなく、これを見た紀州が小出に関助を譲り受けたいと申し出たという。
●関助の長刀奉納
関助の没後、嫡子山口勘兵衛門は1723年︵享保8年︶3月に関助が所持していた三尺五寸︵約110cm︶の長刀一振りを園部の生身天満宮に奉納した。その刀は現在も生身天満宮蔵に保管されている。また、殿田の小牧山観音堂と行者山にも各一振り、長刀を奉納したとあるが、今では見ることができない。
主要地方道
●京都府道19号園部平屋線
●事前通行規制区間 – 園部町船岡から日吉町殿田までの区間3km。殿田雨量観察所で連続雨量150mmに達した場合に通行規制[66]。
●京都府道50号京都日吉美山線
●府道19号との重複区間 – 小道津大橋付近の三叉路︵日吉町中︶から殿田交差点まで
●京都府道80号日吉京丹波線
●府道50号との重複区間 – 殿田交差点から保野田踏切付近︵日吉町保野田︶まで
●丹波梅若の道
殿田踏切から前田橋南側の交差点までの約850mと、町筋三叉路から小道津橋までの約850mの計1.7kmの市道区間は、殿田区集落支援事業推進委員会の提案により、殿田の歴史と文化街道﹁丹波梅若の道﹂の愛称が付けられた[67]。愛称の決定は、2023年︵令和5年︶9月26日に南丹市園部文化会館﹁アスエルそのべ﹂であった梅若家一門による“里帰り公演”に合わせて発表された[68]。
●けた下制限 – 第二殿田川橋梁との交差部分の通行は、高4m制限になっている。
●カラーライン – 通学路にもなっている曹源寺橋から殿田踏切までの区間の路側部には、黄色のゾーン線が引かれている。
●街路灯 – 市道の街路灯はLED化が完了しており、電気代は殿田区自治会が負担している。
トンネル[編集]
●殿田トンネル – 1999年︵平成11年︶3月竣工
全長300m、幅員10m、高さ4.7mの片側一車線のトンネル。トンネル等級D[69]。トンネル内ラジオ再放送設備及び無線補助設備あり。
地下横断歩道[編集]
●名称不明
殿田トンネルの開通と、京都府道19号園部平屋線からトンネルまでの府道延長による集落の分離を防ぐため、府道下に東筋及び前田の東西を結ぶ地下横断歩道が設けられている。
田原川に架かる、曹源寺橋。梅若家の菩提寺にちなみ、欄干柱には能の絵が4種類描かれている。2024年4月18日撮影。
日吉駅前区間に15本の個人橋が連なる胡麻川。2024年4月21日、BEL-MAISON新生橋より上流を撮影。
桂川︵大堰川︶
●大向橋 – 2000年︵平成12年︶10月架設
●日吉大橋 – 1990年︵平成2年︶9月架設
木住川
木住川にある橋のうち次の3本は、橋の中心に日吉町殿田と別大字の境があり、橋の住所を示す際には左岸地を適応するため、正式には殿田の橋ではない。
●笛吹橋 – 1988年︵昭和63年︶7月架設
●日吉町木住との境
●宮の平橋 – 1988年︵昭和63年︶8月架設
●日吉町中との境
●小道津橋 – 1991年︵平成3年︶7月架設
●日吉町中との境
田原川
●大貝橋 – 1996年︵平成8年︶8月架設
●新旭橋 – 1977年︵昭和52年︶3月架設
●殿田橋 – 1997年︵平成9年︶3月架設
●日吉橋 – 1936年︵昭和11年︶8月架設
●重量制限 – 12t
●車橋
●曹源寺橋 – 1933年︵昭和8年︶12月架設
梅若家の菩提寺・曹源寺の門前に架かる曹源寺橋の欄干柱には、丹波猿楽にあやかり、切り絵風の能の絵が四種類︵玉鬘、鵜飼、田村、百万︶あしらわれている[45]。
●重量制限 – 12t
●旧・曹源寺橋 – 現在の橋の少し下流に、旧・曹源寺橋と思われる欄干が残っている。欄干に書かれた架設年は、現・曹源寺橋に書かれたものと同じ1933年︵昭和8年︶12月。
●前田橋 – 1988年︵昭和63年︶架設
●構造 – ワーレントラス
胡麻川
●尾崎橋 – 1971年︵昭和46年︶3月架設
尾崎橋がある横断歩道には、﹁園部町へ二里十二丁︵9.16km︶﹂と書かれた元欄干の道標がある。
●BEL-MAISON新生橋
橋の上にごみ回収用のコンテナが設置されている。コンテナ付近に捨てられたごみがしばし見られ、川ごみの発生源となっている。
●名称不明3本
胡麻川隣接の南丹市役所日吉支所︵南丹市日吉町保野田︶から胡麻側の合流地点までの約450mの区間に15本の小橋が架かる。ほんどが個人所有の橋である。15本のうち殿田区間は5本で、名称が分かるのはBEL-MAISON新生橋と尾崎橋の2本。
有料道路 最寄りの乗り降り口[編集]
西日本高速道路︵NEXCO西日本︶
●E9京都縦貫自動車道︵国道478号︶園部IC – 府道19号と接続
西日本旅客鉄道︵JR西日本︶山陰本線
1910年︵明治43年︶の園部・綾部間鉄道開通時に、鉄道開通記念樹として、日吉橋近くの田原川左岸にキササゲ︵梓︶が植えられた。
府道19号の日吉大橋手前と府道50号の日吉駅直前に胡麻駅と書かれた道路標識があるが、最寄り駅は日吉駅で、その次は鍼灸大学前駅、胡麻駅と続く。
田原川に架かる第一殿田川橋梁。高架下の田原川で川遊びをする子どももいる。2024年5月9日撮影。
●第一殿田川橋梁
●第二殿田川橋梁
●殿田踏切︵42K967M︶
●横断制限高 – 4.5m
●東町踏切︵42K475M︶
●横断制限高 – 4.5m
トンネル[編集]
旧・新前山トンネル︵日吉町殿田側︶の鎖された坑口。2024年4月19日撮影。
●上野山トンネル
●新前山トンネル – 1987年︵昭和62年︶開通
●旧・新前山トンネル – 1987年︵昭和62年︶封鎖
旧・新前山トンネルは、現在の新前山トンネルと勝貫隧道の間に設けられたトンネルで、今でも跡を見ることができる。坑口に﹁新前﹂の文字跡があることから﹁旧・新前山トンネル﹂と呼ばれるが、ここより古い﹁前山トンネル﹂の存在が確認されていないため、ここを﹁前山トンネル﹂と呼ぶこともある。旧・新前山トンネル出たところ、園部町船岡側に古いトラス橋の跡が残っている。
路線バス[編集]
南丹市営バス[70]
●世木線の殿田区間
●日吉駅前バス停
●殿田中学校前バス停
●小牧町バス停
●町筋バス停
●東町バス停
●日吉ダム線の殿田区間
●日吉駅前バス停
●殿田中学校前バス停
●小牧町バス停
●町筋バス停
●東町バス停
●美山園部線の殿田区間
●殿田町バス停
●五ヶ荘線の殿田区間
●殿田町バス停
外出支援サービス[編集]
殿田おたすけ隊による、移動困難者のための外出支援サービスが行われている。
散策道[編集]
近畿自然歩道[編集]
●五箇荘の里をめぐるみち
近畿自然歩道丹後・大阪ルートの区間で、日吉町四ツ谷の四ツ谷バス停から、渓川筏乗、笛吹神社を通り日吉駅に至るまでの約11.5km。殿田区間は、小道津橋から梅若家旧墓所、日吉体験の森、殿田小学校を経由する日吉駅までの約2.4km[71]。
●難易度:3分の2︵一般︶
●日吉ダムと紅葉峠をめぐるみち
近畿自然歩道丹後・大阪ルートの区間で、日吉町駅から日吉ダムや紅葉峠を通り、南丹市八木町氷所にある東所バス停に至るまでの約18.1km。日吉駅から小道津までの区間は、五箇荘の里をめぐるみちと同じ[71]。
●難易度:3分の2︵一般︶
丹波散策の道[編集]
丹波散策の道は、京都府が府民から公募し、それを基に亀岡市と南丹市、京丹波町、京都市北西部の3市1町をめぐる総延長約250Kmを指定した散策道[72]。殿田区間は、日吉町田原との境から殿田踏切を渡って丹波梅若の道を経由し、園部町船岡までの約2.5Km。そのうち、近畿自然歩道との重複区間は尾崎橋から新旭橋まで。
木目調のガードレール[編集]
近畿自然歩道や丹波散策の道になっている、尾崎橋から新旭橋までの胡麻川及び田原川の右岸、殿田小学校から新旭橋までの田原川左岸に設けられたガードレールは木目調の塗装が施されている。
●仏坂 – 車橋からアチラまでの峠道。﹁南無阿弥陀仏﹂と書かれた石碑があることから﹁仏坂﹂と呼ばれている。
●追手門道 – 東踏切から梅若家屋敷跡に向かう坂道
集会・観光・社会体育等の施設
●南丹市日吉殿田活力倍増センター – 日吉町殿田前田11番地8
1994年︵平成6年︶竣工した、殿田の中核施設。活力倍増センターおよび、正面左に隣接する﹁日吉町殿田交流センター︵元は農協の建物︶﹂、活力倍増センター2階にある﹁殿田とーくほーる﹂をひとくくりにして、殿田住民は﹁とーくほーる﹂と呼称する。殿田区自治会が管理運営。活力倍増センターの建設には、殿田区自治会も出資している。
●南丹市日吉産業振興会館 – 日吉町殿田尾崎8番地1
入居する組織は次の通り。
●日吉町森林組合
●南丹市商工会日吉支所
●日吉町建設業協会
●南丹市日吉殿田コミュニティ広場 – 日吉町殿田前田6番地外
﹁交流広場 殿田ふれあいパーク﹂の愛称で呼ばれる広場。殿田区自治会が管理運営。芝生広場、子供広場、ゲートボール場がある。年間利用者は約5,000人[74]。
●南丹市日吉体験の森 – 日吉町殿田旭山39番地1外
●南丹市日吉殿田運動場 – 日吉町殿田旭山3-2
﹁旭山グラウンド﹂の愛称で呼ばれる社会体育施設。総面積9,495㎡ 、夜間照明設備があり、主に野球で使われる運動場[75]。外野部分は天然芝になっている。
水道関連の施設
●南丹市日吉殿田水道施設︵殿田浄水場︶ – 日吉町殿田大貝20番地2外
●種別:簡易水道
●取水元:田原川
●水源種類:伏流水
●浄水処理方法:膜ろ過
●施設能力:822m3/日
●南丹市日吉殿田浄化センター – 日吉町殿田イチバ132
●種別:特定環境保全公共下水道
●放流先:桂川
●排除方式:分流式
●水処理方式:オキシデーションディッチ法
●汚泥処理方式:脱水
学校施設
●南丹市立殿田小学校 – 日吉町殿田大貝25番地外
略称は﹁殿小︵とのしょう︶﹂。コンクリート造︵RC・SRCを含む︶2階建て。
●南丹市立殿田中学校 – 日吉町殿田大貝30番地外
略称は﹁殿中︵とのちゅう︶﹂。コンクリート造︵RC・SRCを含む︶2階建て。
農業用水[編集]
殿田水利組合の管理施設
●小牧池
小牧にある灌漑用のため池。
●名称なしの堰
田原川、日吉橋と車橋の間にある灌漑用の堰。曹源寺より下流の農地に水を引き入れている。
大向営農組合の管理施設
●沢田用水︵大向揚水機場︶
小津道大橋の上流にある、大向営農組合が取水を行う場所。大向の耕地は1649年︵慶安2年︶に天若に作られた沢田堰により取水していたが、日吉ダム建設に伴い、1996年︵平成8年︶4月に取水を下流の日吉町中に移した。現在ポンプアップで取水している。
大西井堰土地改良区の管理施設
勝貫隧道の殿田側。ここから約370mの農業用水を通すトンネルが掘られている。2024年4月19日撮影。
●大西堰
大西堰は、殿田前田で大堰川の水を取り入れるための堰。園部町内林町、園部町木崎町に続く全長8kmに渡る用水路の起点である。堰き止められた水は通称﹁通し溝﹂を通り、田原川側の殿田尻堰の水を取り入れたあと、暗渠を経て鉄道のトンネルと並行して勝貫隧道を抜けて園部町船岡にでる。魚道なし。
●殿田尻堰
殿田尻堰は、殿田前田で田原川の水を取り入れるための堰。魚道なし。
●勝貫隧道
勝貫隧道は、日吉町殿田と園部町船岡の間に農業用水を通す約370mのトンネル。かつては大堰川沿いの水路で通水していたが、度重なる水害に見舞われたことから[32]、1941年︵昭和16年︶に農林省の農用公共施設改良事業として工事が始まり、1945年︵昭和20年︶に勝貫隧道が完成した。勝貫隧道の名称は、第二次世界大戦の最中に造られたこともあり、当時の戦意高揚の風潮を受けて付けられたとされている[40]。殿田側の水門は毎年4月中旬から9月中旬までの農繁期に開かれる。園部町船岡側には水門が付けられておらず、隧道内はコウモリの住みかにもなっている。
組単位の集会施設[編集]
●旭町会議所 – 殿田尾崎
●小牧町会所 – 殿田東小牧
●上丿町会所 – 殿田町筋39
●東町会所 – 殿田東筋
その他[編集]
世木地域振興会が設置運営している田舎暮らしお試し住宅﹁世木の里 とまり木﹂︵左︶と、殿田区自治会が設置運営している喫茶サロン﹁殿田まちかどのこしかけ﹂︵右︶。元はつくり酒屋の建物[76][77]。2024年4月14日撮影。
●世木の里 とまり木 – 日吉町殿田町筋54
2014年︵平成26年︶8月30日に開所した世木地域振興会運営の田舎暮らしお試し住宅。
●殿田駐在所 – 日吉町殿田前田51-2
南丹警察署管内の駐在所。
●大向営農組合農事集会所 – 日吉町殿田大向
●みんなの居場所わっかっか! – 日吉町殿田東小牧
市民団体﹁わっかっか!﹂の拠点施設。一棟貸しの農家民宿でもある[78]。
●日吉やさい畑生活 – 日吉町殿田大向
株式会社日吉やさい畑生活がする、ゲストハウスやカフェ併設の貸し農園[79]。
●日吉町消防団第一分団第一部倉庫 – 日吉町殿田東筋
2階建ての消防団詰所。1階部分が倉庫になっている。
●消防倉庫横の空き地 – 日吉町殿田東筋
消防倉庫横の空き地はJR西日本の所有地で、南丹市から殿田区に管理を委託している。JR西日本から南丹市にどんな依頼をしているかは不明。
社寺・民俗・宗教[編集]
日吉神社[編集]
南丹市日吉町殿田にある日吉神社の本殿。京都府暫定登録文化財。
日吉神社︵ひよしじんじゃ︶は、殿田共通の氏神として祀られている神社。近江の日吉大社より分霊を奉祀し、1489年︵延徳元年︶に創祀。日吉町に三社ある日吉神社の中で最も古い[80]。旧社格は指定村社で、“世木の五社”の一社。祭神は大山咋命。山王大権現と称されていたが、神仏分離で1873年︵明治6年︶に日吉神社と改称した。
財産の保有は、殿田区自治会となっている。本殿は、京都府暫定登録文化財[81]。1721年︵享保6年︶に修繕の記録がある。
●小牧山観音堂
小牧山観音堂は日吉神社境内にある観音堂。1737年︵元文2年︶、世木庄出身で京都に住んでいた槌屋元寛︵藤田元実︶の発願と、殿田の井尻伝右衛門の仲介により、神光寺︵日ノ寺︶の別院として建立したとされる[80]。悪病除け、特に雷除けとして信仰を集めている。堂内には、阿弥陀如来像と西国三十三所の本尊を模した観音像が安置されている[82]。全国的に珍しく東向きに安置されていることから﹁東向観音堂﹂とも呼ばれている[80]。33体の観音像は南丹市指定文化財[81]。毎月1日は観音堂が開かれ、拝観することができる[83]。2016年︵平成28年︶頃から年に数体ずつ、京都美術工芸大学と南丹市、殿田区自治会の三者合同で観音像の修理が行われた[84]。
●愛宕権現
日吉神社境内には愛宕灯籠が一対あり、祠に愛宕の札が祀られている。祠の横には以前、何らかが祀られていたと思われる石組みがある[80]。
●弁才天
日吉神社境内にある池の浮島に、弁才天の祠がある[80]。この池では、モリアオガエルの産卵が見られる。
●井尻昌三碑
日吉神社境内にある石碑には、明治以降に殿田で最初に戦死した井尻昌三の名前が刻まれている。
“表面:陸軍歩兵上等兵 功七級 勲八等 井尻昌三碑/裏面:明治参拾七年九月参日 於遼陽(中国東北部にある遼寧省の都市)戦死 父井尻土岐之助建”
天稚神社[編集]
天稚神社︵あまわかじんじゃ︶は、室町時代初期の貞治年間︵1362~1368年︶に世木之荘の一ノ宮として、世木村天若に創建されたとある。祭神は天稚彦命。旧社格は指定村社で、“世木の五社”の一社。
1555年︵弘治元年︶に火災で社殿が消失、1558年︵永禄元年︶に再建された。1743年︵寛保3年︶に造立された記録が残っている。1989年︵平成元年︶、日吉ダムの建設により日吉町殿田向山に遷宮した[47]。現在の社殿は1991年︵平成3年︶11月に建てられたもの。
1750年頃の古文書に、世木という村の名前の由来がある。
“向日之巌上に神霊光臨あり、夜毎に大光を放つ。村老集まり、神庭を設け祓い清め神楽を奏したところ神託あり、「吾は往古此国を発したる天稚彦なり、吾を祭らば年穀豊饒にして荘内久しく保つであらう。吾を鎮祭する処には世に久しき木を生ず。果たして一夜に杉三本を生ず」と世木之荘世木村とはこの事により名付けられた[85]。”
成就院[編集]
成就院は、高野山真言宗の寺院。成就院は院号で、山号は日谷山、寺号は神光寺。近畿楽寿観音三十三ヶ所霊場の第二十六番[86]。殿田区民から﹁日ノ寺﹂と呼ばれ親しまれている。
717年︵養老元年︶越知山の泰澄国師35歳の時、当日谷山に来て草庵を結んだのが開基とされる。創建は鎌倉時代中期の文永年間︵1264〜1275年︶。世木郷最大の寺院だったが、南北朝時代︵1336〜1392年︶に荒廃し、1339年︵延元3年︶に高雄山の宥海僧都によって再興された。往時には34の塔頭を数えた大寺院だった。
本尊の薬師如来は弘法大師作と伝えられる[82]。両脇に天若の楽河寺より移転の木造薬師如来坐像︵南丹市指定文化財︶[81]、十二神将の木造毘沙門天立像︵南丹市指定文化財︶[81]と、十一面観音菩薩・愛染明王を奉安。本堂前に修行大師像・ぼけ封じ観音・ぽっく里地蔵尊を安置し、裏山には新四国八十八ヶ所霊場がある。また、同山内には日吉ダム建設に伴い盛林寺・平尾寺が移築され、ヒノ谷霊園と世木村忠魂碑が隣接ある[82]。
●平尾寺
平尾寺は、日吉ダム建設に伴い上世木から成就院のあるヒノ谷に移転された東寺真言宗の寺院[87][88]。
●盛林寺
盛林寺は、日吉ダム建設に伴い上世木から成就院のあるヒノ谷に移転された高野山真言宗の寺院[87][89]。
●日谷山新四國霊場
成就院の山中に、約1kmの行程で八十八カ所霊場巡りができる場所がある。1929年︵昭和4年︶、当時の住職・眞守諦導師の発案と近郷住民の浄財により完成したもので、各霊場の祠には本尊と弘法大師像の二体が安置されている。本尊の光背には霊場の番号、大師像の台座正面には寄進者の名が刻まれている。2010年︵平成22年︶には祠が修復された[90]。
●修行大師像
1929年︵昭和4年︶、四國霊場と共に建立された像。
●ぼけ封じ観世音
●ぽっく里地蔵尊
曹源寺[編集]
曹源寺は曹洞宗の寺院。梅若家の菩提寺。山号は殿田山。園部町仁江にある龍穏寺︵竜穏寺︶二世の海雲桂川禅師に梅若家が帰依し、﹁殿田は山紫水明の地なれば、この地に隠居されたし﹂と1546年︵天文15年︶頃に庵を建立し、先祖の菩提を弔った。徳川時代初期に竜穏寺十七世、月子良桂禅師を開山として曹源寺となった[32]。
●水天宮
曹源寺の境内に鎮座する水天宮は、石柱に﹁古老に聞くと、殿田に洪水が多く発生したので水難除けの水天宮を建立した﹂とある[32]。
●朝霧塔
朝霧塔は、力士・朝霧を慕う弟子が曹源寺に建立したとされる塔[91]。
●梵鐘
1964年︵昭和39年︶8月に信者によって梵鐘が寄付された。それ以来今日まで毎日6時と22時に撞き鳴らされている。
行者山︵岩︶[編集]
殿田の町を一望できる行者山の中腹の一枚岩に役行者︵えんのぎょうじゃ︶が彫られている。近くには、行者の滝があり、行者が身を清め一夜、堂に篭り、参りを行った像の前の絶壁から身を差し出し、祈願を行っていたという[32]。ここには大峰山修行記念碑として4基の供養塔がり、井尻清太夫、中川嘉七、石川佐右衛門、山本久兵衛の名が刻まれている[92]。
クサガミ[編集]
皮膚の病を癒やすと伝えられている薬王菩薩[91]。殿田住民は親しみを込めて﹁クサガミさん﹂と呼称する。東町バス停から梅若家の墓所に登る石段の横に、オカメザサに覆われた祠で祀られている。
天理教神博分教会[編集]
日吉町殿田前田にある天理教の教会。
神習教敬神廣春支教会[編集]
日吉町殿田西小牧にある神習教の教会。﹁殿田のお稲荷さん﹂と呼ばれている。
組単位の神社[編集]
●天神宮社︵天満宮︶
天神宮社は、天神町の住民から﹁天神さん﹂と呼ばれて親しまれている神社。創祀は不詳で、鳥居は2007年︵平成19年︶に建てられたもの。祭神は菅原道真。境内には摂社として稲荷神社、布袋尊、もう一つは不明。
●若宮八幡神社
若宮八幡神社は、東町の住民から親しみを込めて﹁八幡さん﹂と呼ばれている崇敬社。東町の民家裏の山麓にある。創祀は不詳。祭神は応神天皇。境内には摂社として愛宕神社・稲荷神社・天満宮がある。天満宮は生身天満宮から勧請したもので、稲荷神社は個人が合祀されたもの。
街角の地蔵[編集]
日吉神社や成就院、曹源寺の境内を除き、殿田11ヵ所で地蔵の存在を確認できる。数が多いため、呼称がある地蔵のみを列記する。
●日吉橋地蔵 – 日吉橋の袂、田原川の左岸にある。
●北向地蔵 – 上ノ町にある地蔵尊で、北を向いている。
丹波教会殿田会堂[編集]
昭和30年代の初めまで、旧日吉郵便局の隣地にプロテスタントのキリスト教会堂があった。教会では、夏に殿田の日吉神社や中村の八幡神社でキャンプが、12月のクリスマスにオルガン演奏が催されていた[93]。
この教会堂は、1929年︵昭和4年︶に殿田に住む信者によって建てられたもので、設計は建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズ︵William Merrell Vories、一柳 米来留︿ひとつやなぎ めれる﹀︶が行った。教会堂のほか、1942年︵昭和17年︶竣工で1994年︵平成6年︶まで使われていた殿田公民館もヴォーリズの設計であった[93]。
劇団 殿田の案山子[編集]
殿田の案山子は、2005年︵平成17年︶に殿田住民8人からはじまった演劇集団である。殿田は、大正時代から住民による地歌舞伎、謡、浄瑠璃が演じられ、昭和になっても青年団による芝居が人気だった。現在の劇団も、こうした伝統が源流となっている[32]。現在、敬老会行事や日吉町文化祭で定番の出し物になっている。
猿楽ゆかりの地として伝統芸能を広めていくため、観世流能楽師を講師に招き、南丹市立殿田小学校の児童を対象にした能の実技指導が毎年実施される。この取り組みは、殿小と世木の伝統芸能を守る会の協働によって行われている[34]。
今も続く行事[編集]
大晦日や元旦の参拝[編集]
日吉神社総代会と殿田区自治会の役員は大晦日の10時頃に神社に集まり、社務所に詰めて参拝者を迎える。この後、曹源寺や成就院の檀家は、寺に新年のあいさつに参る[92]。各家では、白味噌仕立ての雑煮や納豆餅を食べる[92]。
とんど[編集]
殿田では1月15日に、日吉神社境内、大堰川の河原、井尻工務店作業所前の川側︵東町︶の3ヵ所でとんどが行われている。
ようかび[編集]
殿田周辺では、5月8日に行われる寺の法要。釈迦の誕生を祝う灌仏会︵かんぶつえ︶のことで、一般的には花祭と呼ばれて4月8日に行われることが多い[92]。
ラジオ体操[編集]
夏休みの期間は早朝に、殿田区子ども会の呼びかけで、区内2ヵ所でラジオ体操が行われる。殿田上は旭町のマルナカ駐車場、殿田下は殿田ふれあいパーク。
施餓鬼︵曹源寺、成就院︶[編集]
仏教の法要。曹源寺では8月7日、成就院では8月16日に行われている[92]。
大般若法要︵小牧山観音堂︶[編集]
8月、総代会の宮役と組長が参じ、僧による読経のあと、全600巻の般若経典をぱらぱらとおくりながら般若心経を詠みあげる。
地蔵盆[編集]
8月末、地蔵盆が殿田地内の各所で行われる。
大祓い︵日吉神社︶[編集]
12月、日吉神社で大祓いの神事が行われる。総代会の宮役と組長が参列する。
組単位の行事[編集]
●天神さんのお祭り
天神町では10月23日に、天満宮に参ったあと、食事会が開かれる[92]。
●八幡祭り
東町では9月14・15日の2日間、若宮八幡神社にお供えや蝋燭の灯火でお参りし、夕方から女性たちの食事会が開かれる[92]。
近代に廃れた行事[編集]
御日待ち講[編集]
殿田では、1月14日の夜に隣組単位で行っていた行事で、料理を持ち寄ったり、当番が料理をしたりしていた[92]。﹁宴会を夜中の12時過ぎまでした﹂や、﹁子ども達は会所で太陽の昇ってくるまで待った﹂などと言われている[92]。
厄神祭[編集]
中村にあった八幡神宮の厄神祭は1月19日にあり、"中村の厄神さん"や"殿田の厄神さん"と言って、口丹波一円から参拝者が集まった。当時は、臨時列車も走り、殿田駅から厄神さんまで人の列が続いた。境内では甘酒が振る舞われ、参拝者は祈祷を受けたあと厄払いの杉葉︵ぐし︶をもらい、無病息災などを祈願し、神社前の橋から名前と年齢を唱えながら中世木川に投げ入れた。中村の氏子たちは12月になると杉の枝を集めるのが大仕事で、1月15日のとんどが終わると1万本にものぼる杉葉を総出で準備した。祭り当日は小学校も午前中で終わり、子ども達はお年玉を持って、厄神さんまでの道に並んだ店屋でいろいろなものを買うのが楽しみだったという[92]。
盆踊り[編集]
古くは日吉神社の境内で盆踊りが行われていた。その後、現在の殿田とーくほーるの付近で﹁納涼盆踊り﹂として続き、平成のはじめごろには﹁殿田夏祭り﹂と名称や様相も変え、ふれあい広場を会場に、花火の打ち上げや灯籠流しも加わった[92]。
湯立て[編集]
旧世木村の日吉神社︵殿田︶、八幡神社︵中︶、笛吹神社︵木住︶、天稚神社︵世木林︶、小雨若神社︵上世木︶の五社明神が9月15日に、湯立神楽を持ち回りで行っていた。境内にかまどを作り、釜を据え湯を沸かす。このかまどを造る作業を﹁かまつき﹂と言って、一週間以上前からはじめ1基から5基作った。神主が祝詞を奉上し、次に巫女が舞を奉納する。そのあと、巫女が大釜で沸かした熱湯を笹に浸し、その笹で参拝者を祓い清める。巫女は1人で、笛や太鼓をはやす男子もついてきたという。この神事は、日吉ダム建設とそれに伴う住民移転で途絶えた。当時使われていた湯桶は、日吉神社に保管されている[92]。
薬師如来の縁日[編集]
戦前までは、成就院の四国八十八カ所巡りのある高台に参拝者を迎えて地元の岩店、つる店が店を出し、うどんや酒、菓子を販売してにぎわった[92]。
行者講[編集]
殿田の行者講は、東町の中川竹松が主になって子ども達を会所で一泊させ、翌朝の一番列車で出発した大峰山にホラ貝を吹きながら登ったとされる[92]。
運動会[編集]
大正期から殿田区運動会と、6集落︵殿田、天若、中、中世木、木住、生畑︶対抗の世木村大運動会が秋に開催されていた。そのほか、船井郡青年団運動会というものもあり、その上位大会である京都府大会では、世木村の青年たちは黄色のハチマキを絞めて出場した[92]。
芝居と映画[編集]
秋の収穫を終えた時期、興行師による本格的な芝居や青年団による村芝居が盛んに行われていた。殿田の大火で熱失するまで殿田公民館は下ノ町にあって、弁士つきの映画があった。芝居も映画も夕方には殿田の町中をチンドン屋が笛や太鼓を鳴らして廻り、子ども達は珍しがってその後をついて歩いたという[92]。
殿田はもともと商店街地で、街道沿いには切妻造平入の商店や家屋が今でも軒を連なっている。歴史的には世木庄の中核集落で、木材の運搬による繁栄により、若狭街道沿いに町化したようである。
飲食店[94]
●キッチン天若 – ビジネスホテルを併設。日吉荘をリノベーションした店舗
●カフェeco epoch
●まるやま喫茶店
●アマンズガーデン – 京都丹波サイクルルート協力施設に登録[95]
●殿田まちかどの﹁こしかけ﹂ – 殿田区自治会による喫茶サロン[77]
医療
●吉田医院︵内科︶
理容・美容
●サツキ美容室
●シスター美容室
●ヘアスタジオホリ
その他[94]
●Forest tools shop︵日吉町森林組合による森の道具屋︶
●昭和堂クリーニング店
●総悠館
●つるや酒店
●明田商店
●パン工房みのり
●ひだまり
●サワタヤ洋品店
●日吉電器商会
●輪駆堂
●クラウンヒルズ京都GC︵ゴルフ場︶
●香典返し禁止のルール – 旧日吉町内の人からの香典については、香典返しをせず、礼状のみとする申し送りがある[96]。
土葬の墓は、大堰川大西堰の下にあったが、水害で流出が繰り返されることから、石橋町車橋の上、猫谷︵ねこたに︶に移設された。そこも狭くなり、上ノ山に移った。火葬場は、殿田の財産区所有となっている向山の山中や、猫谷にあったといわれている。殿田では、土葬の際に松明が使われていた[97]。
現在の墓地
●ヒノ谷墓園
●曹源寺墓地
●上ノ山墓地
NTT固定電話[編集]
同じ南丹市内であっても、園部MAの日吉町殿田と、亀岡MAの八木町地区の相互通話には、市外局番 (0771)が必要である[6]。
- 収容局 – 西日本電通電話株式会社京都支店京都日吉別館(NTT西日本 京都日吉電話交換所)、日吉町保野田前田[98]。
日本郵便[編集]
日吉町殿田西小牧にある、旧・日吉郵便局の建物︵中央にある赤い屋根の建物︶。2024年4月21日撮影。
●郵便番号 : 629-0341[5]
●集配局 – 園部郵便局[99]
●日吉郵便局︵旧・殿田郵便局︶- 局コード44035。1878年︵明治11年︶1月16日、殿田小字西小牧230に殿田郵便局が開設[100]。1959年︵昭和34年︶4月1日、日吉郵便局に改称[100]。 1988年︵昭和63年︶11月14日、保野田市野6-8に移転[100]。
●郵便ポスト
●ポスト番号214152 – つるや酒店の前︵日吉町殿田前田11-24︶[101]
●ポスト番号214153 – サワタヤ洋品店となり︵日吉町殿田前田16︶[101]
●ポスト番号214154 – 旧・日吉郵便局の前︵日吉町殿田西小牧24︶[101]
●ポスト番号214161 – 明田商店の前︵日吉町殿田尾崎4︶[101]
天気予報[編集]
気象庁の区分は、京都府南部地方。殿田では、独自の天気予報も伝わっている。
●阿保︵あほ︶が喜ぶ十時あかり – 午前10時ごろにやんだ雨は午後に再び降ることが多いという意味で殿田住民が使っていることわざ[46]。
●朝雪は日和の花 – ちらちら雪が降る朝は天気がよくなるという意味で殿田住民が使っていることわざ[102]。
●辰巳︵南東︶から雲が流れたら雨が確実に降る[102] – 東南は大向山の方角。
●羊申︵南西︶から雲が流れると雨が降ったり止んだり – これを﹁エテコのだふり﹂とも言う[102]。南西は行者山の方角。
●行者山が曇ると雨が近い[102] –
●丑寅︵北東︶は荒れる︵北東から雲が流れたら台風が来る︶[102] – 北東は成就院︵日ノ寺︶の方角。
●戌亥︵北西︶から雲が流れると寒[102] – 北西は日吉神社の裏山がある方角。西高東低の冬型気候時の風の動きを表している。
簡易水道 殿田は、日吉中央簡易水道事業の範囲に含まれる[103]。田原川で取水し、殿田浄水場で処理後、給水されている。殿田には5ヵ所の配水池があり、鉄筋コンクリート構造[103]。
下水道 殿田で出た排水は、南丹市日吉殿田浄化センター︵特定環境保全公共下水道[104]︶で処理され、桂川に放流されている[105]。
●交流電気の周波数文字60Hz
一般送配電事業者‥関西電力送配電株式会社
殿田内に引かれている送電線の系統
●77kV_関西_京_新綾部園部線_京47
●送電用鉄塔‥前山から志和賀までの区間に8基
●33kV_関西_京_桧山線_京184
●33kV_関西_京_上野線_京186
テレビ[編集]
1970年︵昭和45年︶、NHKが大向山にUHFテレビ中継放送所を設置する。ここの共同受信施設から殿田は放送波を受信してきたが、2007年︵平成19年︶に日吉町地区での光ケーブル︵FTTH方式︶によるテレビサービスが開始した[106]。
ラジオ[編集]
放送局ごとの殿田での周波数は次の表の通り。
小・中・高校の学区[編集]
市立小・中学校及び府立高校の学区(校区)は以下の通りとなる[107][108]。
殿田にあった学校[編集]
知新校[編集]
1872年︵明治5年︶8月、現在の日吉町にあった片野、木住、稗生、小畑、安鳥、上谷、下谷、牧山、中村、世木林、宮村、上世木、殿田の各村と、今の園部町船岡にあった上河内、藁無、松尾の計16村でつくる組合で、殿田の井尻陣平宅を借り、この地にはじめての学校が設立された。翌年1873年︵明治6年︶、曹源寺の隣接地にあった小寺に修繕を加えて校舎とした。同年6月、開校式を掲げ﹁知新校﹂と名付けられ、生徒は男176名、女61名だった[109]。
世木尋常小学校[編集]
1887年︵明治20年︶、一時独立していた知新校、執中校︵中世木︶、楽生校︵生畑︶が合併し、﹁世木尋常小学校﹂となった[109]。1889年︵明治22年︶の町制実施の際、天若の﹁温知校﹂は、世木尋常小学校の天若分校となった[109]。
殿田尋常小学校[編集]
1892年︵明治25年︶、小学校令の改正で、天若、中世木、生畑の分教場は再び独立し、﹁世木尋常小学校﹂は﹁殿田尋常小学校﹂に改称した[109]。1893年︵明治26年︶年9月10日、場所を曹源寺から東町の殿田前田に移転した[109]。
世木小学校[編集]
1941年︵昭和16年︶3月1日の国民学校令により、同年4月1日に﹁殿田尋常小学校﹂から﹁世木国民学校﹂に改称した[109]。のちの﹁世木小学校﹂である。1955年︵昭和30年︶4月1日、三村合併による日吉町誕生に合わせ、世木小学校、生畑、中世木、天若分校、五ヶ荘小学校の田原分校、胡麻郷小学校志和賀分校の計6校を廃止して﹁日吉町立殿田小学校﹂となった。
世木中学校[編集]
●1947年︵昭和20年︶5月、世木小学校の校舎を借用し、世木村立世木中学校が開校した[110]。1949年︵昭和22年︶、﹁組合立殿田中学校﹂に改称[110]。1951年︵昭和22年︶、木造2階建10教室と特別教室2で竣工し、小学校との借用状態を解消。1955年︵昭和30年︶4月1日、日吉町の誕生で、﹁日吉町立殿田小学校﹂に改称した。
第一次産業[編集]
桂川左岸の平坦部に集団化した農地と、京都府道19号園部平屋線西側の小規模団地の農地が主に水田として利用されており、土地基盤整備がすでに完了している[111]。
●かかし
JR山陰線の西側に沿った、第二殿田川橋梁付近から入ったところにある農地には、かかしが6体並べられている。
●シカよけイルミネーション
農事組合法人大向営農組合が府道沿いの大豆畑に設置している防獣柵は、2011年︵平成23年︶よりクリスマスシーズン限定で、青色のイルミネーションで彩られていた。シカ除けの効果向上をねらった取り組み。今は行われていない[112]。
●共有林
1973年︵昭和48年︶時点、日吉町では、財産区を除いてすべて私有林であり、これは、1872年︵明治5年︶の地券発行以後、官有林を出来る限り拡大するという方向での一連の官民有区分政策に対して、民有林であることの証拠を有していた故のことであり、明治初期において共有林に対する権利意識も一般に高かったと考えられる[113]。京都府農業会議の資料によれば、1964年︵昭和39年︶の世木財産区は6.3町︵62479.3㎡︶、殿田区有林は6.0町︵59504.1㎡︶とある[114]。
漁業権区域[編集]
殿田区間を含む、世木ダムから南丹市八木町寅天堰までの桂川本流と、支流の田原川、園部川、本梅川︵亀岡市宮前町猪倉橋より上流は除く︶などが大堰川漁業協同組合の漁業権区域となっている[115]。
禁漁期間と体長制限︵採捕禁止︶[編集]
大堰川漁協の漁業権区域では、アユ、ウナギ、フナ、ニジマス︵生態系被害防止外来種︶の放流が行われ、年によって若干の違いはあるが、魚種によって禁漁期間や体長制限が表のように定められている。アユ漁の解禁は竿が6月、網が8月。6月から10月まで遊漁券の購入が必要。日吉町殿田西小牧にある伊藤畳店でも購入できる[116]。
救急・防災関連[編集]
消防署及び消防団[編集]
- 京都中部広域消防組合管轄区域
- 最寄りは園部消防署日吉出張所(南丹市日吉町胡麻イカガヘラ13-9)
- 南丹市消防団日吉支団第1分団第1班(殿田班)の活動区域[118]
名称
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南丹市消防団
|
日吉支団
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第1分団
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第1部
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第1班
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範囲
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南丹市全域
|
日吉町全域
|
世木地区全域
|
殿田・中世木
|
殿田
|
医療圏にある災害拠点病院[編集]
災害対策用ヘリコプター離着陸場[編集]
避難所[編集]
一時避難所[編集]
臨時避難所[編集]
- 南丹市日吉はーとぴあ – 日吉町保野田垣ノ内11番地
- 南丹市立ひよしこども園 – 日吉町保野田垣ノ内11番地・12番地1合地
防災行政無線[編集]
災害情報や行政情報などを、音声で伝える通信設備。家庭などに設置している﹁戸別受信機﹂と小学校などにある﹁屋外拡声子局﹂から音声が発せられる。区などに貸し出されている﹁地区遠隔制御装置﹂からも集落内放送ができる。
毎日12時と17時には、動作確認として時報のチャイムが流される。
●戸別受信機の設置場所
●各戸
●屋外拡声子局の設置場所
●南丹市立殿田中学校のグラウンド
●地区遠隔制御装置の設置場所
●殿田区自治会
●南丹市立殿田小学校
河川防災ライブカメラ[編集]
●新旭橋︵田原川︶ – 2008年︵平成20年︶設置[121]。静止画を京都府が定期配信している。
●船岡︵桂川︶ – 日吉町殿田ハジキリから園部町船岡方面に向けて設置された簡易型河川監視カメラ。国土交通省・河川情報センターにより静止画がライブ配信されている[122][123]。カメラに写っている建物は危機管理型水位計。
サイレン吹鳴[編集]
火災時にサイレン吹鳴がある。殿田では毎月1日21時、動作確認と火災予防啓発のため、サイレン吹鳴が実施される。そのほか、春と秋の火災予防週間にも鳴らされる。
●火災時
●毎月1日21時
●春の火災予防週間:3月1日~7日
●秋の火災予防週間:11月9日~15日
日吉ダム放流のサイレン等[編集]
日吉町殿田前田、殿田ふれあいパークの端にある、前田警報局。水資源機構日吉ダム管理所より、放流の警報が知らされる。2024年4月21日撮影。
洪水で日吉ダム が放流を行う場合、警報局や警報車などによるサイレンや放送によって一般に周知が行われる[124]。警報局は日吉ダムから園部川の合流地点まで16箇所設置され、うち殿田区間の設置場所は4箇所[125]。
- 小道津(ことづ)警報局
- 前田(まえだ)警報局
- 平岩(ひらいわ)警報局
- 端切(はしきり)警報局
公衆無線LAN(Nantan Free Wi-Fi)設置場所[126][編集]
屋外の消火設備[編集]
設置場所 |
設備内容
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とーくほーる前
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消火栓蓋、ホース格納箱
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天理教神博分教会前の三叉路
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消火栓蓋、ホース格納箱
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公文式 殿田教室近くの三叉路
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消火栓蓋、ホース格納箱、防火水槽
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大西堰近く桂川右岸
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消火栓蓋、ホース格納箱
|
殿田駐在所裏
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消火栓蓋、ホース格納箱
|
殿田駐在所西側
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消火栓蓋、ホース格納箱
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東町 若宮八幡神社前
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消火栓蓋、ホース格納箱
|
消防詰所横の空き地付近
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消火栓蓋、ホース格納箱
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東踏切近くのゴミステーション前
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消火栓蓋、ホース格納箱
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東踏切から上丿山に車道を登った所
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消火栓蓋、ホース格納箱
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南丹市日吉体験の森 入口
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消火栓蓋、ホース格納箱
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大貝集会所跡前
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消火栓蓋、ホース格納箱、消化器
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殿田中学校前グラウンド横
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消火栓蓋、ホース格納箱
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大貝橋と殿田小学校前の間
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消火栓蓋、ホース格納箱
|
明田商店前
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消火栓蓋、ホース格納箱
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日吉産業振興会館付近
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消火栓蓋、ホース格納箱
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アマンズガーデン付近
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消火栓蓋、ホース格納箱、消化器
|
井尻建設株式会社作業場付近
|
消火栓蓋、ホース格納箱
|
成就院参道入口
|
消火栓蓋、ホース格納箱
|
イチバ 山陰本線側道
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消火栓蓋、ホース格納箱
|
曹源寺付近
|
消火栓蓋、ホース格納箱
|
総悠館前
|
消火栓蓋、ホース格納箱
|
「丹波梅若の道」信号機のある三叉路付近
|
消火栓蓋、ホース格納箱
|
町筋バス停前
|
消火栓蓋、ホース格納箱
|
世木の里 とまり木付近
|
消火栓蓋、ホース格納箱
|
カフェeco epoch前
|
消火栓蓋、ホース格納箱
|
日吉橋より南西に50mほど
|
消火栓蓋、ホース格納箱
|
日吉電器商会前
|
消火栓蓋、ホース格納箱
|
小牧町会所前
|
消火栓蓋、ホース格納箱
|
シスター美容室前
|
消火栓蓋、ホース格納箱
|
地震被害の想定[編集]
日吉町殿田の想定震度及び液状化の危険度[129]、断層タイプ(変位)は次の表の通り[130][131][132][133]。
断層名
|
想定の震度
|
液状化危険度
|
変位
|
亀岡断層
|
5強〜6弱
|
―
|
東側隆起
|
殿田-神吉-越畑断層
|
6強〜7
|
高
|
左横ずれ
|
埴生断層
|
5強〜6弱
|
―
|
左横ずれ
|
花折断層
|
5強〜6弱
|
―
|
右横ずれ
|
| |
(一)^ “京都府南丹市の町丁・字一覧”. 人口統計ラボ. 2024年1月26日閲覧。
(二)^ “地理院地図 / GSI Maps”. 国土地理院. 2024年4月3日閲覧。
(三)^ 国土地理院. “国土地理院 標高と海抜と水準点 日吉町殿田”. 国土地理院. 2024年4月26日閲覧。
(四)^ ab“人口・世帯数集計表︵令和6年4月1日現在︶”. 南丹市 (2019年10月1日). 2024年4月5日閲覧。
(五)^ ab“日吉町殿田の郵便番号”. 日本郵便. 2024年1月15日閲覧。
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