「平田篤胤」の版間の差分
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{{基礎情報 武士 |
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| 氏名 = 平田 篤胤 |
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| 画像 = Hirata Atsutane Jigazo.jpg |
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| 画像サイズ = 250px |
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| 画像説明 = {{center|平田篤胤自筆等身面部図}} |
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| 時代 = [[江戸時代]]後期 |
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| 生誕 = [[安永]]5年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]([[1776年]][[10月6日]]) |
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| 死没 = [[天保]]14年[[閏]][[9月11日 (旧暦)|9月11日]]([[1843年]][[11月2日]])<br/>享年69(満68歳没) |
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| 改名 = 大和田胤行 → 平田篤胤 |
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| 別名 = 大壑<br/>大角<br/>玄琢<br/>気吹乃舎<br/>真菅乃屋 |
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| 神号 = 神霊能真柱大人 |
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| 藩 = [[出羽国]][[久保田藩]] → [[備中松山藩]] → 久保田藩 |
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| 氏族 = [[房総平氏]]系[[大和田氏]] → [[伊勢平氏]]系[[平田氏]] |
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| 父母 = 実父:[[大和田祚胤]]<br/>養父:''[[平田篤隠]]'' |
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| 兄弟 = 雅胤<br/>正胤<br/>胤行<br/>実胤<br/>胤秀 |
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| 妻 = 織瀬(石橋常房の娘)<br/>織瀬(山崎篤利の養女) |
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| 子 = 実子:常太郎、千枝、又五郎<br/>養子:''[[平田鐵胤|鐵胤]]'' |
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⚫ | '''平田 篤胤'''(ひらた あつたね、[[安永]]5年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]〈[[1776年]][[10月6日]]〉 - [[天保]]14年[[閏]][[9月11日 (旧暦)|9月11日]]〈[[1843年]][[11月2日]]〉)は、[[江戸時代]]後期の[[国学者]]・[[神道家]]・[[思想家]]・[[医者]]。 |
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[[出羽国|篤胤は神童の純粋せいを主張したとてもカッコいい偉人]] |
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[[出羽国]][[久保田藩]]︵現在の[[秋田県]][[秋田市]]︶出身。成人後、[[備中国|備中]][[備中松山藩|松山藩]]士の兵学者[[平田篤穏]]の養子となる。
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幼名を正吉、[[仮名 (通称)|通称]]を半兵衛。[[元服]]してからは'''胤行'''、享和年間以降は篤胤と称した。[[号 (称号)|号]]は'''気吹舎'''︵いぶきのや︶、家號を'''真菅乃屋'''︵ますげのや︶。'''大角'''︵だいかく︶または'''大壑'''︵だいがく︶とも号した。医者としては'''玄琢'''︵のちに'''玄瑞'''︶を使う。死後、'''神霊能真柱大人'''︵かむたまのみはしらのうし︶の名を[[白川家]]より贈られている。
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[[復古神道]]([[古道]]学)の大成者であり、[[大国隆正]]によって[[荷田春満]]、[[賀茂真淵]]、[[本居宣長]]とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている<ref>{{cite web|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E4%BA%BA/|title=国学の四大人(こくがくのしたいじん)の意味|publisher=goo国語辞書|accessdate=2020-07-22}}</ref>。 |
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=== 秋田を出奔 === |
=== 秋田を出奔 === |
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久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤(としたね)の四男として[[秋田郡]][[久保田城]]下の中谷地町(現在の[[秋田市]][[中通 (秋田市)|中通]]4丁目)に生まれた<ref name=jinmei475>[[#人名|『秋田人名大事典 第2版』「平田篤胤」(2000)p.475]]</ref><ref name=kinsei223>[[#近世|『近世の秋田』(1991)pp.223-229]]</ref>。生家の大和田家は、[[朱子学]]を奉じ、[[国学]]や[[神道]]とは無縁であった<ref name=miyaji28>[[#宮地1|宮地(2012)pp.28-38]]</ref>。 |
久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤(としたね)の四男として[[秋田郡]][[久保田城]]下の中谷地町(現在の[[秋田市]][[中通 (秋田市)|中通]]4丁目)に生まれた<ref name=jinmei475>[[#人名|『秋田人名大事典 第2版』「平田篤胤」(2000)p.475]]</ref><ref name=kinsei223>[[#近世|『近世の秋田』(1991)pp.223-229]]</ref>。生家の大和田家は、[[朱子学]]を奉じ、[[国学]]や[[神道]]とは無縁であった<ref name=miyaji28>[[#宮地1|宮地(2012)pp.28-38]]</ref>。 |
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篤胤は独自の[[神学]]を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした<ref name=itoh246/>。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えた。そのために天地の始原・[[神祇]]・生死・[[現世]]と[[来世]]などについて、古史古伝に新しい解釈を加え、[[キリスト教]]の教義も取り入れ、葬祭の儀式を定め、心霊や[[仙術]]の研究もおこなっている<ref name=itoh246/>。[[仏教]]・[[儒教]]・[[道教]]・[[蘭学]]・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し、八家の学とも称した。なお、篤胤が大切にしていた[[新井白石]]肖像画が現在も伝世しており、学者としてすぐれ、実証的・論理的に学問をおこなう人物に対しては、相手が儒者であれ、深い尊敬の念をいだいていた<ref name=rekihaku/>。また、西洋医学、[[ラテン語]]、[[暦|暦学]]・[[易学]]・[[兵法|軍学]]などにも精通していた。篤胤は、本居宣長同様、日本が他のどの国よりも優秀であると主張するが、しかし、宣長のように日本人本来の心を取り戻すために儒学的知を排除しなければならないというような異文化排斥の態度をとらない<ref name=nishioka215/>。彼の学問体系は知識の広範さゆえにかえって複雑で錯綜しており、不自然な融合もみられるとも称される<ref name=itoh246/>。篤胤の神道は[[復古神道]]と呼称され、後の神道系[[新宗教]]の勃興につながった。 |
篤胤は独自の[[神学]]を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした<ref name=itoh246/>。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えた。そのために天地の始原・[[神祇]]・生死・[[現世]]と[[来世]]などについて、古史古伝に新しい解釈を加え、[[キリスト教]]の教義も取り入れ、葬祭の儀式を定め、心霊や[[仙術]]の研究もおこなっている<ref name=itoh246/>。[[仏教]]・[[儒教]]・[[道教]]・[[蘭学]]・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し、八家の学とも称した。なお、篤胤が大切にしていた[[新井白石]]肖像画が現在も伝世しており、学者としてすぐれ、実証的・論理的に学問をおこなう人物に対しては、相手が儒者であれ、深い尊敬の念をいだいていた<ref name=rekihaku/>。また、西洋医学、[[ラテン語]]、[[暦|暦学]]・[[易学]]・[[兵法|軍学]]などにも精通していた。篤胤は、本居宣長同様、日本が他のどの国よりも優秀であると主張するが、しかし、宣長のように日本人本来の心を取り戻すために儒学的知を排除しなければならないというような異文化排斥の態度をとらない<ref name=nishioka215/>。彼の学問体系は知識の広範さゆえにかえって複雑で錯綜しており、不自然な融合もみられるとも称される<ref name=itoh246/>。篤胤の神道は[[復古神道]]と呼称され、後の神道系[[新宗教]]の勃興につながった。 |
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篤胤の学説は学者や有識者のみならず、庶民大衆にも向けられた。彼は、国学塾として真菅乃屋(のちに[[気吹舎]])を[[文化 (元号)|文化]]元年(1804年)に開き、好学の人であれば、身分を問わず誰に対しても門戸をひらいた<ref name=katurajima74>[[#桂島|桂島(1989)pp.74-75]]</ref>。文化元年(1804<ref name=katurajima74/>。 |
篤胤の学説は学者や有識者のみならず、庶民大衆にも向けられた。彼は、国学塾として真菅乃屋(のちに[[気吹舎]])を[[文化 (元号)|文化]]元年(1804年)に開き、好学の人であれば、身分を問わず誰に対しても門戸をひらいた<ref name=katurajima74>[[#桂島|桂島(1989)pp.74-75]]</ref>。文化元年(1804年)から[[明治]]9年([[1876年]])まで、篤胤死後も含めた平田塾の門人数は約4,200名にのぼったとされるが、このように、平田塾が広範囲に多数の門人を集めた理由のひとつとしては、平田国学が、近代をむかえようとする在方レベルでの新しい知識欲に応えうる内容を有していたからだと考えられる<ref name=katurajima74/>。すなわち、その国学には、たとえ通俗化したかたちではあっても[[洋学]]からの新知識や世界の[[地誌]]や[[地理]]、[[地動説]]にもとづく[[宇宙論]]、[[分子論]]を取り込んだ[[霊魂]]論、また、復古神道の論理的帰結であり、[[身分制]]の解体を希求する「御国の御民」論など、当時、台頭しつつあり、また地方の課題に向き合うことを余儀なくされた在方の豪農層には新鮮で有用な知見が多く含まれていたと考えられるのである<ref name=miyaji28/><ref name=katurajima74/>。 |
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篤胤は、一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している<ref name=rekihaku/>。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも関係していると思われる。特に[[伊那谷|伊那]]の平田学派の存在は有名である<ref name=rekihaku/><ref name=katurajima74/>。後に[[島崎藤村]]は小説『[[夜明け前]]』で平田学派について詳細に述べている。倒幕がなった後、[[明治維新]]期には平田派の神道家は大きな影響力を持ったが、神道を国家統制下におく[[国家神道]]の形成に伴い平田派は明治政府の中枢から排除され影響力を失っていった。 |
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=== 出定笑語 === |
=== 出定笑語 === |
2022年5月16日 (月) 01:35時点における版
平田 篤胤 | |
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![]() 平田篤胤自筆等身面部図 | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 安永5年8月24日(1776年10月6日) |
死没 |
天保14年閏9月11日(1843年11月2日) 享年69(満68歳没) |
改名 | 大和田胤行 → 平田篤胤 |
別名 |
大壑 大角 玄琢 気吹乃舎 真菅乃屋 |
神号 | 神霊能真柱大人 |
藩 | 出羽国久保田藩 → 備中松山藩 → 久保田藩 |
氏族 | 房総平氏系大和田氏 → 伊勢平氏系平田氏 |
父母 |
実父:大和田祚胤 養父:平田篤隠 |
兄弟 |
雅胤 正胤 胤行 実胤 胤秀 |
妻 |
織瀬(石橋常房の娘) 織瀬(山崎篤利の養女) |
子 |
実子:常太郎、千枝、又五郎 養子:鐵胤 |
生涯
秋田を出奔
久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤︵としたね︶の四男として秋田郡久保田城下の中谷地町︵現在の秋田市中通4丁目︶に生まれた[2][3]。生家の大和田家は、朱子学を奉じ、国学や神道とは無縁であった[4]。 故郷を捨て江戸に出奔する20歳のときまでの事跡ははっきりしないが、現存する史料から不幸な幼少期が示されている。諸書には久保田藩の医師で侍講でもあった中山菁莪の門下だったとあるものの、秋田時代の篤胤の経歴はほとんどすべて養子の平田銕胤の記述をもとにしている[2]。ただし、自著﹃仙境異聞﹄︵1822年︶において﹁己は何ちふ因縁の生れなるらむ﹂と嘆いており、天保13年︵1842年︶11月2日の銕胤にあてた手紙には、﹁生れ落より父母の手には育てられず、二十になる正月の八日に、かねて五百文こしらひ置たる銭を以て書置をして欠落し江戸へ出たが﹂とあり、貧しさのなかで捨て子同然の少年時代を送ったと考察されてもいる[2][注釈 1]。また、継母との折り合いがわるかったという見解もある[5]。 20歳になったばかりの寛政7年︵1795年︶1月8日に脱藩・出奔し、遺書して国許を去った[3]。正月八日に家を出るものは再び故郷に帰らない、という言い伝えにちなんだという[3]。江戸に出た篤胤は、大八車を引いたり、5代目市川團十郎の飯炊きや三助、火消しなど苦学しながら当時の最新の学問、とくに西洋の医学・地理学・天文学を学びつつ、旗本某氏の武家奉公人となった[2][3][4][6]。 寛政12年︵1800年︶、篤胤25歳のとき、勤め先で江戸在住の備中松山藩士で山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏︵あつやす︶の目にとまり、才覚を認められて、その養子となった[2][4]。養子となったいきさつには様々な伝説があるが、詳細は不明である。このころ、駿河沼津藩士石橋常房の娘・織瀬と出会う[6]。当時織瀬は旗本屋敷の奥勤めをしており、篤胤は同家のしがない奉公人であったが、やがて2人は深く愛し合うようになり、享和元年︵1801年︶篤胤26歳のとき、結婚した[6]。国学との出会い
上述のように、篤胤が江戸に出てきたのは必ずしも国学を学ぶためではなかった[6]。その関心は広く、蘭学を吉田長淑に学び、解剖にも立ち合っている[4]。他方、迫り来る対露危機に関しては、徹底した情報収集をおこなっている[4]。 篤胤が本居宣長の名前と著作を知ったのは、宣長没後2年経った享和3年︵1803年︶のことであった[7]。妻の綾瀬が求めてきた宣長の本を読んで国学に目覚め、夢のなかで宣長より入門を許可されたとしており、﹁宣長没後の門人﹂を自称した[2][7]。これは時代の流行語となった[2]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8c/Muchu-taimen.jpg/370px-Muchu-taimen.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a0/Shizunoiwaya%EF%BC%881811%EF%BC%89AtsutaneHirata.jpg/320px-Shizunoiwaya%EF%BC%881811%EF%BC%89AtsutaneHirata.jpg)
復古神道の成立
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9b/Tama-no-Mihashira.jpg/230px-Tama-no-Mihashira.jpg)
東総遊歴と幽界研究
篤胤は、私塾兼書斎である﹁真菅乃屋﹂から自己の著作を刊行しようと努めてきたが、その著述活動を支えるような有力な領主の庇護はなく、必ずしも裕福な門弟に恵まれていたわけではなかった[15]。当初は江戸在住の武士や町人が門人・支持者となって後援したのにとどまっていた[6]。この﹁真菅乃屋﹂のサークルを江戸以外の地に拡大しなければ自分の学問はひろまらない、このように考えた篤胤が巡遊先として最初に選んだのは、下総・上総の地だった[6]。文化13年︵1816年︶に篤胤は初めてこの地域をまわった[6]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f4/Ibukinoya-Nikki.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/84/Shichishomai.jpg/320px-Shichishomai.jpg)
関西旅行とインド学・シナ学
文政6年︵1823年︶、篤胤は関西に旅行した。7月22日に江戸を発つ際、上京にかける意気込みを﹁せせらぎに潜める龍の雲を起し 天に知られむ時は来にけり﹂と歌に詠んだ篤胤は、8月3日に尾張国熱田神宮に参詣し、8月6日に京都に到着した。自身の著作を富小路貞直を通して光格上皇に、門人六人部節香・是香を通して仁孝天皇に、それぞれ献上している[10]。 一方、篤胤の鈴屋訪問の報は、鈴屋の門人たちのあいだで篤胤をどう迎えるかの対立を生んだ。篤胤に好意的な﹃三大考﹄の著者服部中庸は篤胤こそ後継者に相応しく、どの門人も篤胤には及ばないとまで語ったといわれるが、多くの門人は露骨に篤胤を無視し、あるいは排斥した[10]。その代表が京都の城戸千楯や大坂の村田春門である。かれらは篤胤が古伝に恣意的な解釈をほどこしていると批判し、城戸は篤胤来訪の妨害までしている。篤胤は京都で服部中庸を含む本居派門人と交流の機会を得ており、門人たちは篤胤に関する批評の手紙を、和歌山の本居宗家の本居大平に送った。大平が整理したこれら篤胤批評は、やがて人手を介して写本が篤胤に伝わり、のちに平田銕胤が論評と補遺を加えて﹃毀誉相半書﹄という名で出版した。 鈴屋一門の後継者本居大平は、﹃三大考﹄をめぐる論争で篤胤に厳しく批判されていたが、門人の一人として篤胤をもてなすこととした。訪問に先立って篤胤が送った﹁武蔵野に漏れ落ちてあれど今更に より来し子をも哀とは見よ﹂という歌に対し、大平は﹁人のつらかむばかりものいひし人 けふあひみればにくゝしもあらず﹂と返している。両者の会談は友好的な雰囲気で行われ、篤胤はこのとき宣長の霊碑の1つを大平より与えられた[注釈 9]。 その後、伊勢神宮を参詣し、ついで松阪の本居春庭︵宣長の子︶を訪れ、11月4日に念願の宣長の墓参を果たした[10]。墓前に﹁をしへ子の千五百と多き中ゆけに 吾を使ひます御霊畏し﹂の歌を詠んだ。松阪では鈴屋本家を訪れ、本居春庭と会談するなどして、11月19日、江戸に戻った。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/97/Indozoshi_p.3.jpg/320px-Indozoshi_p.3.jpg)
晩年の暦学研究、江戸追放
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/df/Shunj%C5%ABMeirekiJok%C5%8D%282%29p3.jpg/320px-Shunj%C5%ABMeirekiJok%C5%8D%282%29p3.jpg)
思想
当初は、本居宣長らの後を引き継ぐ形で、儒教・仏教と習合した神道を批判したが、やがてその思想は宣長学派の実証主義を捨て、神道的方面を発展させたと評されることが多い[5]。篤胤の学説は、関東・中部・奥羽の神社・農村・宿駅など在方の有力者に信奉され、従来の諸学派をしのぎ、幕末の思潮に大きな影響をあたえ、特に尊皇攘夷運動の支柱となった[5]。 篤胤は独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした[5]。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えた。そのために天地の始原・神祇・生死・現世と来世などについて、古史古伝に新しい解釈を加え、キリスト教の教義も取り入れ、葬祭の儀式を定め、心霊や仙術の研究もおこなっている[5]。仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し、八家の学とも称した。なお、篤胤が大切にしていた新井白石肖像画が現在も伝世しており、学者としてすぐれ、実証的・論理的に学問をおこなう人物に対しては、相手が儒者であれ、深い尊敬の念をいだいていた[6]。また、西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などにも精通していた。篤胤は、本居宣長同様、日本が他のどの国よりも優秀であると主張するが、しかし、宣長のように日本人本来の心を取り戻すために儒学的知を排除しなければならないというような異文化排斥の態度をとらない[14]。彼の学問体系は知識の広範さゆえにかえって複雑で錯綜しており、不自然な融合もみられるとも称される[5]。篤胤の神道は復古神道と呼称され、後の神道系新宗教の勃興につながった。 篤胤の学説は学者や有識者のみならず、庶民大衆にも向けられた。彼は、国学塾として真菅乃屋︵のちに気吹舎︶を文化元年︵1804年︶に開き、好学の人であれば、身分を問わず誰に対しても門戸をひらいた[11]。文化元年︵1804年︶から明治9年︵1876年︶まで、篤胤死後も含めた平田塾の門人数は約4,200名にのぼったとされるが、このように、平田塾が広範囲に多数の門人を集めた理由のひとつとしては、平田国学が、近代をむかえようとする在方レベルでの新しい知識欲に応えうる内容を有していたからだと考えられる[11]。すなわち、その国学には、たとえ通俗化したかたちではあっても洋学からの新知識や世界の地誌や地理、地動説にもとづく宇宙論、分子論を取り込んだ霊魂論、また、復古神道の論理的帰結であり、身分制の解体を希求する﹁御国の御民﹂論など、当時、台頭しつつあり、また地方の課題に向き合うことを余儀なくされた在方の豪農層には新鮮で有用な知見が多く含まれていたと考えられるのである[4][11]。 篤胤は、一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している[6]。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも関係していると思われる。特に伊那の平田学派の存在は有名である[6][11]。後に島崎藤村は小説﹃夜明け前﹄で平田学派について詳細に述べている。倒幕がなった後、明治維新期には平田派の神道家は大きな影響力を持ったが、神道を国家統制下におく国家神道の形成に伴い平田派は明治政府の中枢から排除され影響力を失っていった。出定笑語
平田は﹃出定後語﹄の理論を借用して﹃出定笑語﹄を書き、文章が平易通俗的であったこともあり、幕末以前、1820年代、1830年代、1840年代の多くの人に読まれ、明治維新に至る王政復古運動、さらには廃仏毀釈の思想原理になった[17]。民族宗教の体系化
書籍によって自然科学や世界地誌を深く学んだ平田篤胤は、自己に対する他者を中国から西洋に転換した当時の知識人のなかの一人であった[4]。かれは、天主教的天地創造神話を強く意識しながら、天御中主神を創造主とする、きわめて首尾一貫した復古神道神学を樹立した[4]。 復古神道においては、日本の﹁国産み﹂においてこそ天地創造がおこなわれる。日本は﹁よろずの国の本つ御柱︵みはしら︶たる御国︵みくに︶にして、万の物、万の事の万の国にすぐれたるものといわれ、また掛︵かけ︶まくも畏︵かしこ︶き我が天皇命︵すめらみこと︶は万の国の大君︵おおきみ︶にましますこと﹂が自明のこととして主張される[4]。こうした民族宗教としての神道の体系化は、﹁世界の一体化﹂の過程において、儒教的な東アジア知的共同体からの日本の離脱を意味するものであって、反面、せまりくるウェスタンインパクト︵西洋の衝撃︶に対する日本単独の態度表明でもあった[4]。 ﹁よろずの国の本つ御柱﹂たる日本の位置づけは、当時にあっては、何故西洋諸国が日本に交易を求めてくるのかの説明に用いられ、日本が﹁中つ国﹂﹁うまし国﹂であることは、鎖国下の日本が物産豊かに自足し、他国との交易を必ずしも必要としていないという事実︵あるいは事実認識︶がこれを補強した[4]。 篤胤は、村落の氏神社への信仰や祖先崇拝といった、従来、人びとが日常レベルで慣れ親しんできた信仰に、記紀神話の再編にもとづくスケールの大きい宇宙論を結びつけ、さらに幽冥界での死後安心の世界を提示した[11]。宇宙論から導かれる神々の秩序やそのなかに整然と位置づけられる氏神社、永遠の魂の安全といった教義は、村落指導者たちに対し、それまで深く意識することもなく受け入れてきた村落の神社のすがたを一変させるような強烈な印象をあたえたものと考えられる[11]。幽冥論
篤胤は、学問をするにはまず自らの死後の魂の行方を最優先で知らなければならないと断言した。そうして心の安定を得て、初めて学問に向き合えるとした。 本居宣長は、古典に照らして、人の魂はその死後、黄泉に行くと考えたともされる。黄泉の国は良くない国であり、そのことは逃れのないことで、だから死ぬことほど悲しいことはないと述べた[14]。悲しいものは悲しいのであり、その現実をそのまま受け入れるべきだと説いた[14]。宣長の門人で篤胤に大きな影響を与えた服部中庸も同様に死者の魂は黄泉国に行くとした。ただし、中庸は黄泉国は空に浮かぶ月のことであり、その世界は須佐之男命︵月読命と同神だという︶が治めていると考えた。 一方、篤胤は、他の学者のように他界を現世と切り離して考えたりはしなかった[14]。黄泉の国の存在は認めたが、人は死後、黄泉の国へいく霊と、神になる霊とに分かれ、よい志をもっていた人の霊は神となって、神々の国である幽冥界へ行くのだとしたのである[14]。篤胤は、現実の習俗などから類推して、死者の魂が異界へおもむくのは間違いないが、その異界は現世のあらゆる場所に遍在しているとし、神々が神社に鎮座しているように、死者の魂は墓上に留まるものだとした[14]。現世からはその幽界をみることはできないが、死者の魂はこの世から離れても、人々の身近なところにある幽界にいて、現世のことをみており、祭祀を通じて生者と交流し、永遠に近親者・縁者を見守って行くのだとした[14]。これは近代以降、民俗学が明らかにした日本の伝統的な他界観に非常に近いといえる[4][14]。その意味で、平田国学は民俗学の成立に強い影響をあたえたということができる[4]。また、現世は仮の世であり、死後の世界こそ本当の世界であるとした。これはキリスト教の影響である。篤胤は、キリスト教の教典も、﹃古事記﹄や仏典などと同じように古の教えを伝える古伝のひとつとして見ていたのである。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1f/%C5%8Ckuninushi_Bronze_Statue.jpg/200px-%C5%8Ckuninushi_Bronze_Statue.jpg)
﹁御国の御民﹂論と﹁みよさし﹂の論理
篤胤の復古神道と、それと結合した﹁古道の学問﹂は、一方ではスメラミコトやアキツミカミが高く位置づけながらも、もう一方では日本を成り立たせている一人ひとりを、身分を超越したかたちで﹁御国の御民﹂と呼び、主体性をになうものとしてとらえられている[4]。﹁この平篤胤も神の御末胤︵みすえ︶にさむろう﹂﹁賤︵しず︶の男︵お︶我々に至るまでも神の御末に相違なし﹂と篤胤自身が述べているように、一神教における神と人間の隔絶した関係とは異なる、神と人との親和的なありかたが示されている[4]。厳然とした身分制が存在する幕藩体制下にあって、平田国学では天皇との関係で自らを位置づけ、﹁何々国の御民某﹂というかたちで表記している[4]。日本を構成する66州がその国の御民から成り、御民によって支えられていることが示されているのである[4]。ここに地域主義的なゆるやかな横のつながりのなかから日本人としての国民意識が生まれてくる芽があった[4]。 一方、現実には神孫たる天皇と将軍を頂点とする支配体制とをいかに整合していくかが求められるが、これについては、﹁みよさし︵委任︶﹂の論理が用いられた[4][11]。これは﹁御国の御民﹂論と結びつくことによって、きわめて一般的な政治論理へと成長してゆく[4]。村落指導者たちは、依然として被支配階級の側にありながら、天皇や幕府・藩から政治を委任された存在としてみずからを規定し、幽冥論によって得られた内面的な安心を拠りどころとして、荒村状況と称される近世後期の村落共同体の崩壊に立ち向かっていく強い実践性が付与される[4][11]。この論理は、一方では村役人として自己の行政下におく一般民衆・百姓に抗議秩序を具体的に説明する際に利用し、他方では、それぞれに割り当てられた職分を遂行できない上層に対する義憤・公憤を噴き出させる武器となった[4]。しかも、自らの行動全体が幽冥界すなわち郷土の先人や父祖から見守られているとした[11]。 篤胤の論理は、村落指導者に対し、強い自覚と責任を呼び覚ますものだったのである[4][11]。著書
主著解題
●﹃新鬼神論﹄︵のち﹃鬼神新論﹄として刊行︶ 1805年︵文化2年︶完成。1820年︵文政3年︶に刊行。この書名は新井白石の﹃鬼神論﹄を意識したもので、新井白石・荻生徂徠・伊藤仁斎など儒者の﹁鬼神論﹂を論じたもの。神霊の実在を、内外の古典に照らして主張した。 ●﹃本教外篇﹄︵﹃本教自鞭策﹄︶ 1806年︵文化3年︶成稿。2巻。5部構成。キリスト教のいくつかの教典︵艾儒略︵ジュリオ・アレーニ︶﹃三山論学紀﹄、利瑪竇︵マテオ・リッチ︶﹃畸人十編﹄、龐廸我︵ディエゴ・デ・パントーハ︶﹃七克﹄︶を翻訳したもの。直訳ではなく、自らの思想に合わせるように多少改変している。第5部については、パントーハの﹃七克﹄のほとんど全部に訓点を付けたもので﹁山上の垂訓﹂など、多くの聖書の句がおさめられている。研究ノート的な位置付けと考えられており、篤胤は公表しなかった。その事により後世まで残存したのかとも思料される。 ●﹃古史成文﹄ 代表的著書。未完。1811年︵文化8年︶に初稿ができ、刊行は1818年︵文政元年︶。全15巻の予定のうち、3巻︵神代上中下︶が刊行。﹃古事記﹄﹃日本書紀﹄をはじめ、﹃古語拾遺﹄や﹃風土記﹄などの古典が伝える神話を取捨選択し、篤胤独自の価値観に基づいて主観的に再構成したもの。推古天皇の代まで書かれる予定だった。草稿として7巻分︵神功皇后まで︶までが残っている。 ●﹃古史徴﹄ 代表的著書。1811年︵文化8年︶に草稿がなる。刊行は1819年︵文政2年︶。全4巻。1巻は﹁開題記﹂﹁春﹂﹁夏﹂﹁秋﹂﹁冬﹂と銘打たれた論考を収録。﹁開題記﹂は特に﹃古史徴開題記﹄としても知られる。﹁春﹂には神代文字に関する論考がある。2-4巻は、﹃古史成文﹄の編集の根拠が挙げられている。祝詞を重視していること、記紀のような古典だけでなく後世の諸書を活用していること、異神同一神説が多いことなどが特徴として挙げられる。 ●﹃霊能真柱﹄︵たま の みはしら︶ 代表的著書。1812年︵文化9年︶成稿。1813年︵文化10年︶刊行。人間の死後の魂の行方を論じた書物。これをもって篤胤の学問の成立とする。服部中庸の﹃三大考﹄の影響を受けて、同書にならって、世界の成立の過程を図をまじえながら解説する。天動説・地動説を考慮している。先妻織瀬の死んだ年に完成。この書が出て以降、復古神道で死後の世界への関心が高まる。現代の神道系諸宗教に与えた影響は計り知れない。 ●﹃古道大意﹄ 上下2巻。1811年︵文化8年︶に刊行。記紀神話による古道を理論的・体系的に解説。地動説的天体論を唱え皇産霊神を最高位の神として神話の真実性を説く。 ●﹃古史伝﹄ 代表的著書。1812年︵文化9年︶起稿。全37巻。本居宣長の﹃古事記伝﹄の形式にならって、自著﹃古史成文﹄を一段ずつ自ら注釈している。1814年︵文化11年︶に8巻まで刊行。生前に28巻が刊行される。全巻の刊行は1911年︵明治44年︶で、平田鐵胤の依頼で矢野玄道が篤胤の残した草稿を仕上げた。 ●﹃仙境異聞﹄ 代表的著書。全2巻。1822年︵文政5年︶刊行。神仙界を訪れ、呪術を身に付けたという寅吉からの聞書きをまとめたものである。寅吉は7歳のときに杉山僧正に伴われて、常陸の岩間山に行き、修行して幽冥界に行き、外国も廻ったと主張し、呪術を操って江戸で評判となった。このことを聞いた篤胤は最初に寅吉を保護していた山崎美成のもとから半ば強引に自分の家に連れてきて数年間住まわせた。篤胤は神仙界に住むものたちの衣食住・祭祀・修行・医療・呪術などについて、くまなく質問をして、その内容をこの本に収めた。当時この本は平田家では門外不出の厳禁本であり高弟でも閲覧を許されないといわれていた。 以前から異境や隠れ里に興味を抱いていた篤胤は、寅吉の話により、幽冥界の存在を確信した。篤胤は寅吉を説得して幽冥界で寅吉が見た師仙の神姿を絵師に描かせ、その絵を家宝として大事にした。寅吉が幽界に帰る際には、杉山僧正が住むという信濃国浅間山の隠れ里の山神に対して、篤胤がしたためた手紙と自著﹃霊能真柱﹄、神代文字への質疑文を、寅吉に託して献上したという。同書には、これら一切の経緯と山神や寅吉に手向けた和歌なども収められている。山神の図は現在東京代々木の平田神社で大切に保管され、滋賀県大津市近江神宮定例の山神祭で祭られている。 ●﹃勝五郎再生記聞﹄ 代表的著書。1822年︵文政5年︶刊行。死の世界から蘇った少年のことを取材してまとめたもの。多摩郡中野村︵現‥東京都八王子市東中野︶の百姓源蔵の次男の勝五郎︵9歳︶が、自分は多摩郡程窪村︵現‥東京都日野市程久保︶の百姓久兵衛の息子の勝蔵の生まれ変わりであるといった。1810年︵文化7年︶に6歳で死んだが、幽冥界で産土神である熊野権現︵日野市南平8丁目の熊野神社か。︶に会って、今の家に再生したと彼は言う。篤胤はその再生を大国主の幽冥事を分掌している産土神の計らいだと解釈した。 ●﹃稲生物怪録﹄︵いのう もののけ ろく︶ 全4巻。1806年︵文化3年︶に刊行。稲生武太夫がもののけを退治する絵巻物。篤胤の著作ではなく、4つの異本から校訂した。序文を記す。 ●﹃古今妖魅考﹄ 全7巻。1821年︵文政4年︶に刊行。﹃本朝神社考﹄の中の天狗に関する考察に共鳴して執筆した。天堂と地獄が幻想に過ぎないことを説いた。著作一覧
- 『玉襷』
- 『神仙導引編』
- 『孔子聖説考』
- 『伯家学則演義』
- 『神仙服薬編』
- 『五種類考』
- 『古史系図』
- 『神仙方術編』
- 『万聲大統譜』
- 『古道太元図説』
- 『春秋命歴序考』
- 『五十音義訣』
- 『天津祝詞考』
- 『前漢歴志弁』
- 『天朝無窮暦』
- 『大祓詞再釈』
- 『夏殷周年表』
- 『祝詞正訓』
- 『参考神名式』
- 『皇国異称考』
- 『大祓詞正訓』
- 『校正諸神階記』
- 『古今乞盗考』
- 『氣吹舎筆叢』
- 『毎朝神拝詞記』
- 『巫学談弊』
- 『氣吹舎日記』
- 『年中神祭詞記』
- 『皇国度制考』
- 『氣吹舎文集』
- 『神字日文傳・疑字篇』
- 『古今交蝕囲範草』
- 『伊吹伎廼屋歌集』
- 『武学本論』
- 『終古冬至格』
- 『金匱玉函経考文』
- 『神道玄妙論』
- 『太一遁甲古義』
- 『古史年暦篇』
- 『古道大元顕幽分層図説』
- 『玄学得門編』
- 『玄学月令編』
- 『幹支字原考』
- 『大同本記逸文』
- 『年中神祭詞記』
- 『皇典語彙』
- 『赤縣度制考』
- 『天象古説図』
- 『医宗脈言』
- 『皇典文彙』
- 『古学諄辞集』
- 『家礼徴古編』
- 『伊勢物語梓弓』
- 『蘭学用意』
- 『師長訓』
- 『徴古歳時記』
- 『五種類考』
- 『千嶋白波附地図』
- 『日女島考』
刊行本
- 篤胤全集刊行会編『新修平田篤胤全集』(名著出版)全21巻
- 岩波文庫(岩波書店)
- 佐佐木信綱校註 1941『平田篤胤歌文集』(冨山房)
- 斎藤一寛編 1945『俗神道大意』(日本電報通信社)
- 簗瀬均著 2017『魂のゆくえ「再生記聞」を読む』(秋田魁新報社)
- 平田篤胤 現代語訳=加賀義 2014年10月23日刊 『江戸の霊界探訪録』(幸福の科学出版) ISBN 978-4-86395-566-0
電子書籍
- 1875『古易成文』(伊吹廼屋)全2巻
- 1879『童蒙入学門』
- 国会図書館近代デジタルライブラリー[3]
- 平田鉄胤 1881『毎朝神拝詞記』
- 国会図書館近代デジタルライブラリー[4]
- 1881『大祓詞正訓』
- 国会図書館近代デジタルライブラリー[5]
- 角田忠行 1885『歌道大意』
- 国会図書館近代デジタルライブラリー[6]
- 井上頼圀・角田忠行・平田鉄胤・平田胤雄・平田延胤・矢野玄道 1887『古史伝』全33巻
- 国会図書館近代デジタルライブラリー[7](以下略。アドレスのNUM=00001の数字を変えれば、33巻まで見ることができる)
- 北尾政美 1902『天満宮御伝記』(風月堂支店)
- 国会図書館近代デジタルライブラリー[8]
- 覚厳心梁 1906『印度蔵志』(神風会出版部)
- 国会図書館近代デジタルライブラリー[9]
- 出版年不明『赤県太古伝成文』(伊吹廼屋)
- 国会図書館近代デジタルライブラリー[10]
- 『仙境異聞』現代語訳 [11]
- 『勝五郎再生記聞』現代語訳 [12]
親族・交友関係
系譜・親族
息子
子供は、先妻織瀬との間に2男1女いたが、男子は二人とも夭折した。享和2年︵1802年︶に長男常太郎が生まれたが、翌年没した。文化5年︵1808年︶に次男半兵衛︵のちに又五郎と改名︶が生まれたが、文化13年︵1816年︶に没している。この間、文化2年︵1805年︶に長女千枝︵千枝子︶が生まれ、篤胤の子では唯一成人をむかえるまで成長した。娘千枝と養子銕胤
文政7年︵1824年︶1月15日、千枝が、伊予国新谷藩の碧川篤真と結婚した。千枝は才女として知られ、一度目に通したものはすべて諳んじ、父篤胤の著述については、何を尋ねてもすらすら答えることが出来たという。英語もたしなみ、文章も巧みで文字も美しく、父の詠んだ和歌を短冊に代筆している。千枝はのちにおてう︵お長︶に改名し、また晩年には母の名である織瀬を受け継いでいる。1888年︵明治21年︶3月没。その死に際しては正座して周囲に臨終の挨拶を行い、﹁それでは﹂と床についてそのまま帰幽したと伝わっている。孫
その他の子孫
延胤以降は、婿養子の平田盛胤︵美濃国出身。旧姓戸沢。東京帝国大学卒︶、平田宗胤と続き、代々、神田明神の神職を務めた。宗胤には子がおらず、1973年︵昭和48年︶に死去、平田宗家は絶家となった。篤胤の子孫としては他に、平田神社の宗家6代目当主米田勝安が知られる。米田には、荒俣宏との共著﹃よみがえるカリスマ平田篤胤﹄︵2000年、論創社刊︶がある。交友関係
﹁寛政の三奇人﹂のひとりで﹃山陵志﹄﹃職官志﹄を著し、対外危機に対処可能な国家と国家機構のあり方を模索した蒲生君平は篤胤の友であった[4]。百姓出身でその圧倒的な実績と能力によって幕臣に取り立てられた探検家、最上徳内もまた篤胤の生涯の友で、篤胤の異文化理解に大きな役割を果たした[18]。 国学者の伴信友とも交流があった。﹃霊能真柱﹄刊行後、篤胤は信友あて書簡のなかで、駿河より金1両の原稿料を得たが、本を借りるためにそれを充当せねばならず、風呂へも行けない状態であり、首をくくろうとも思うが、それもかなわいと愚痴をこぼしている[3]。また、備中国在住の著名な国学者藤井高尚が﹃伊勢物語新釈﹄を執筆しているとき、﹃伊勢物語﹄第14段の﹁夜も明けばきつにはめなでくたかけの﹂の歌の﹁きつ﹂の解釈に苦しんでいたが、信友より篤胤のユニークな解釈を伝えられた結果、篤胤の説を採用するということがあった[6]。篤胤は伴信友を君兄と呼んで慕ったが、のちにすれ違いを生じるようになって決別した。 久保田帰還後は、大友直枝や吉川忠行︵吉川忠安の父︶など秋田在住の国学者と親交を結んだ[19]。ゆかりの地・墓所
江戸
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/77/Hirata_Shrine1.jpg/200px-Hirata_Shrine1.jpg)
関東
後妻の出身地であった越谷市には久伊豆神社がある。境内には篤胤が仮寓したと伝わる﹁旧跡平田篤胤仮寓跡﹂︵旧松声庵跡︶がある[21]。境内にはまた1942年︵昭和17年︶建立の﹁平田篤胤先生遺徳之碑﹂、篤胤が奉納した﹁天岩戸の図﹂一面もある[21]。また、篤胤ゆかりの藤があり、この藤は1941年︵昭和16年︶に埼玉県史蹟名勝天然記念物調査会によって県の天然記念物に指定された[21]。篤胤遺愛の樹を流山の門人たちが奉納したものと伝わっている[21]。 篤胤遊歴の地である千葉県旭市には、篤胤の歌碑が残されている。秋田
篤胤の出生地は久保田城下の中谷地町︵現、秋田市中通四丁目︶であったが、生家である大和田家はのち旧亀ノ丁新町︵秋田市中通六丁目︶にうつり、同地には文久3年︵1863年︶、久保田藩士小野崎通亮・吉川忠安らによって国学塾雷風義塾が創設された[19]。 秋田市千秋公園︵旧久保田城︶の弥高神社には、佐藤信淵とともに祀られている[13]。 自然石でつくられた篤胤の墓は秋田市手形山の旧正洞院境内︵手形字大沢21-1︶に所在し、墓所は国の史跡に指定されている[16][注釈 12]。 篤胤が没した亀の丁の地は仁平俊蔵が譲り受け、﹁平田篤胤大人終焉之地﹂の石碑が建てられている。その他
2006年8月22日放送の﹁開運!なんでも鑑定団﹂にて、篤胤のものとされる書簡を鑑定した結果、銕胤の書簡であることが明らかになった。銕胤は書簡のなかで、幕末の混沌とした政情の中王政復古が間近に迫っていることに言及している。2015年11月24日の放送でも書簡が鑑定され銕胤書簡であることが判明した。脚注
注釈
出典
- ^ “国学の四大人(こくがくのしたいじん)の意味”. goo国語辞書. 2020年7月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『秋田人名大事典 第2版』「平田篤胤」(2000)p.475
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『近世の秋田』(1991)pp.223-229
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 宮地(2012)pp.28-38
- ^ a b c d e f 伊東(1979)pp.246-247
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 歴博・ほっとひと息・展示の裏話紹介
- ^ a b c d e f g h i j k 賀川(1992)pp.219-220
- ^ a b c d 松岡正剛 千夜千冊「1653夜 田尻祐一郎『江戸の思想史』」
- ^ 桑原(1993)pp.283-287
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 田原(1990)pp.1060-1061
- ^ a b c d e f g h i j k 桂島(1989)pp.74-75
- ^ a b c d e f 苅部直「日本思想史の名著を読む 第14回 平田篤胤『霊の真柱』」
- ^ a b c 鈴木(1981)pp.692-693
- ^ a b c d e f g h i j k l 西岡(1990)pp.215-216
- ^ a b c d e f 子安(1973)pp.1-3
- ^ a b c d e 笹尾(2014)pp.19-22
- ^ 副島隆彦『日本の歴史を貫く柱』(PHP文庫) [要ページ番号]
- ^ 宮地(2012)pp.22-24
- ^ a b 今村(1969)pp.144-147
- ^ a b 平田神社
- ^ a b c d 武蔵国越谷郷 久伊豆神社