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'''国立霞ヶ丘競技場陸上競技場'''(こくりつかすみがおかきょうぎじょうりくじょうきょうぎじょう、{{lang-en-short|NATIONAL STADIUM}}<ref>[http://www.jpnsport.go.jp/kokuritu/ トップページ | 国立競技場 | JAPAN SPORT COUNCIL]</ref>)は、東京都[[新宿区]]の[[国立霞ヶ丘競技場]]内にあった、[[独立行政法人]][[日本スポーツ振興センター]] (JSC) によって運営される[[陸上競技場]]および[[球技場]]。[[国立競技場の建て替え|改築]]のため2014年5月に閉鎖、その後、解体された。 |
'''国立霞ヶ丘競技場陸上競技場'''(こくりつかすみがおかきょうぎじょうりくじょうきょうぎじょう、{{lang-en-short|NATIONAL STADIUM}}<ref>[http://www.jpnsport.go.jp/kokuritu/ トップページ | 国立競技場 | JAPAN SPORT COUNCIL]</ref>)は、東京都[[新宿区]]の[[国立霞ヶ丘競技場]]内にあった、[[独立行政法人]][[日本スポーツ振興センター]] (JSC) によって運営される[[陸上競技場]]および[[球技場]]。[[国立競技場の建て替え|改築]]のため2014年5月に閉鎖、その後、解体された。 |
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一般には'''国立競技場'''または[[国立競技場|2019年竣工の国立競技場]]と区別して'''旧国立競技場'''と呼称されるが、ここでは他の国立競技場施設との区別のため便宜上「国立霞ヶ丘陸上競技場」「国立霞ヶ丘競技場」と表記する |
一般には'''国立競技場'''または[[国立競技場|2019年竣工の国立競技場]]と区別して'''旧国立競技場'''と呼称されるが、ここでは他の国立競技場施設との区別のため便宜上「国立霞ヶ丘陸上競技場」「国立霞ヶ丘競技場」と表記する。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
2021年12月21日 (火) 23:05時点における版
国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 国立 | |
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![]() | |
施設情報 | |
所在地 | 東京都新宿区霞ヶ丘町10番2号 |
位置 | 北緯35度40分41秒 東経139度42分53秒 / 北緯35.67806度 東経139.71472度 |
開場 | 1958年3月30日 |
閉場 | 2014年5月31日 |
所有者 | 日本スポーツ振興センター |
グラウンド | 天然芝 (107 x 71 m) |
ピッチサイズ | 105 x 68 m |
設計者 |
建設省関東地方建設局営繕部建築第一課[1] (角田栄[2]、片山光生[3][4] ら[注 1]) |
建設者 | 大成建設[3][4] |
使用チーム、大会 | |
1964年東京オリンピック 1991年世界陸上競技選手権大会 サッカー日本代表 ラグビー日本代表 その他多数(利用項参照) | |
収容人員 | |
50,339人→54,224人[注 2] | |
(最多:2014年3月21日・22日 L'Arc〜en〜Ciel 80,000人) |
歴史
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9a/Aerial_view_of_the_national_stadium.19630626.jpg/220px-Aerial_view_of_the_national_stadium.19630626.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/03/BillyMills_Crossing_Finish_Line_1964Olympics.jpg/220px-BillyMills_Crossing_Finish_Line_1964Olympics.jpg)
景観保護の歴史
高さ制限や景観保護が行われてきた歴史がある。 幻に終わった1940年︵昭和15年︶の東京オリンピック。メイン会場の候補としては、代々木練兵場案[29] や千駄ヶ谷の民有地取得案が頓挫︵他に月島の埋立地案もあった[30]︶。そして、1937年︵昭和12年︶の小委員会で、当初の計画でもあった︵国立競技場の敷地に存在した︶明治神宮外苑競技場の改築案で行くことが確認された[31][32]。 しかし、建築家の岸田日出刀は、ベルリン視察後、神宮外苑はオリンピック会場の敷地としては狭すぎると気づき、12万人収容への改造となる巨大スタジアムの建設に反対を表明。外苑の風紀、風致︵景観︶を害するとも訴えた[33][34][35]。 岸田の他、内務省神社局の反対もあり1938年︵昭和12年︶4月、建設場所を駒沢にあった駒澤ゴルフ場[36]跡地︵現在の駒沢オリンピック公園︶へ変更することが決まった。しかし、日中戦争の戦局悪化により、同年7月にオリンピックの返上が決定。スタジアム建設も中止となった[37]。 戦後、1958年︵昭和33年︶の国立競技場の建設の際には神宮外苑の聖徳記念絵画館︵約17m︶側からの景観に配慮して、絵画館側バックスタンドの高さは7m91cmに抑えた[38][39]。明治神宮外苑部の児玉九一らとの話し合いの結果で、神宮球場外野スタンドの8m60cmを参考としたものだった[40]。 1964年︵昭和39年︶の東京オリンピックでは、メインスタジアムとして使用するためにバックスタンドを増設している。その中央部の一番高い部分は︵絵画館側の地盤から︶23m43cmになった[41][42]。なお、2014年︵平成26年︶5月28日の新国立競技場有識者会議︵第5回︶の配布資料によると︵同年6月18日に訂正資料が発表︶、バックスタンド最上段のフェンス頂部で地上から27.76mだが、これはフェンス部分が加わっているためである。また、照明塔の高さは52.32mである[43]。岸田は﹁こんどの計画でも、主競技場をなんとか10万人収容の線に近づけようとすると一方のスタンドを大きく張り出して拡張させたが、その最上部は外苑内の道路の上に大きくおおいかぶさるようなことになってしまった。それほどにこの敷地はせまいのである﹂[44][45] と述べた。利用
2010年︵平成22年︶度の稼働日数は計154日︵スポーツ117・一般37︶、総入場者数は894,296人だった[46]。また、2012年︵平成24年︶度の場合は計39日[47] という報道もある[48][49]。陸上競技
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/67/National_Olympic_Stadium-1.jpg/220px-National_Olympic_Stadium-1.jpg)
サッカー、ラグビー
当競技場を明確にホームグラウンドと謳うチームは存在しないが、サッカー日本代表およびラグビー日本代表が国際試合を行うスタジアムとして定着しており、それぞれの代表チームにとってのホームスタジアムということができた。ただし、サッカー日本代表は2002 FIFAワールドカップをきっかけに、横浜国際総合競技場︵日産スタジアム︶や東京スタジアム︵味の素スタジアム︶、また埼玉スタジアム2002などのサッカー専用スタジアムが完成してからは、それらの競技場を利用することが多くなった。一方で、ラグビー日本代表も近接する秩父宮ラグビー場がラグビー専用スタジアムであるため、そちらを使用することが多い。 Jリーグでは、当競技場をホームスタジアムとするクラブチームはなかった。これは、Jリーグの方針で国立霞ヶ丘競技場にホームチームを置かないと決めているためである。読売サッカークラブ︵現‥東京ヴェルディ1969︶がJリーグに参入する際に、ホームスタジアムとすることを希望したものの拒否されている。首都圏周辺にホームタウンを置くクラブが集客の都合や観客の安全確保、スタジアムの増改築、その他スケジュール上の不都合等の理由で、ホームスタジアムでの開催に支障がある場合、国立霞ヶ丘競技場や国立西が丘サッカー場でホームゲームを開催することがある。首都圏以外に本拠を置くチームでも過去に清水エスパルス、名古屋グランパスエイト、ジュビロ磐田などが主催試合を行ったことがある。 東京都をホームタウンとするFC東京、東京ヴェルディも毎年複数試合ホームゲームを主催していた。また、都外のチームでは横浜FCも2006年から2011年まで毎年利用していたほか、鹿島アントラーズ、柏レイソル、ヴァンフォーレ甲府、栃木SCがホームゲームを開催していた。鹿島と栃木は本拠地スタジアム改修による代替地での利用であるが、甲府と柏は本拠地の収容数を超える見込みのある対戦時に使用していた。なお、甲府は浦和レッズ戦、柏は浦和と鹿島の試合で使用することが多かった。 FC東京は、東京︵味の素︶スタジアムが竣工する前の2000年にJ1へ昇格したが、スタジアムがまだ建設中で、その他にJ1開催基準︵夜間照明、15000人以上収容のスタンドなど︶を満たした施設がなかったため、同年に限り当競技場を事実上の本拠地としてホームゲームの過半数を主催した[注 4]。 被災時の代替地として使用されたこともあり、2004年10月23日に発生した新潟県中越地震の時はアルビレックス新潟の本拠地でもある新潟スタジアムでの開催が不可能になった事︵スタジアム自体の被害は少なかったが、駐車場が自衛隊の災害派遣基地として使用されたことなど。︶から、30日の柏戦は当競技場での振替開催となった。また、甲府も2014年の平成26年豪雪の影響で本拠地である山梨中銀スタジアムでの開催が不可能︵こちらも駐車場が自衛隊の災害派遣基地となっており、また周辺の除雪が間に合わないなど。︶となり、3月1日の開幕戦である鹿島戦を当競技場開催に振り替えた。東日本大震災の際は鹿島が被災して使用できなくなっていたカシマスタジアムの代替として、4月23日の横浜F・マリノス戦とAFCアジアチャンピオンズリーグのグループリーグ3試合がホーム扱いで開催された。 1993年のJリーグ開幕戦であるヴェルディ川崎対横浜マリノスから使用されてきた当競技場の公式戦は、2014年5月6日開催のJ1第12節ヴァンフォーレ甲府vs浦和レッズ戦が最終戦となった[50]。 また、AFCチャンピオンズリーグ決勝を中立地扱いとして行われたこともある。スポーツ競技としての入場者ベスト10
﹁国立競技場の歴史﹂より[51]。 (一)1964年10月24日 第18回東京オリンピック閉会式 入場者数‥79,383人 (二)1964年10月10日 第18回東京オリンピック開会式 入場者数‥74,534人 (三)1982年12月5日 関東大学ラグビー対抗戦︵早稲田大対明治大︶ 入場者数‥66,999人 (四)1958年5月28日 第3回アジア競技大会 入場者数 ‥65,428人 (五)1985年1月15日 第22回日本ラグビーフットボール選手権大会決勝︵釜石対同志社大︶ 入場者数‥64,636人 (六)1958年5月29日 第3回アジア競技大会 入場者数‥64,426人 (七)1958年5月26日 第3回アジア競技大会 入場者数‥64,236人 (八)1984年11月23日 関東大学ラグビー対抗戦︵早稲田大対慶応大︶入場者数‥64,001人 (九)1977年9月14日ペレ・サヨナラ・ゲーム・イン・ジャパン︵サッカー日本代表対N.Y.コスモス︶入場者数‥61,692人 (十)1989年1月15日 第26回日本ラグビーフットボール選手権大会決勝︵大東文化大対神戸製鋼︶入場者数‥61,105人コンサート
毎年8月に開催される神宮外苑花火大会の会場の一つとなっている。同大会に先立って行われるアトラクションは、単独コンサートが許可される以前は本競技場における数少ないライブの機会であったため、過去に多くの有名アーティストが演奏をおこなった。 大規模競技場をコンサート会場として使用することは珍しい事ではないが、当競技場をコンサート会場として使用する機会は限られている。コンサート会場として使用する際には、天然芝の保護のために競技場スタッフによる厳しい審査をパスする必要がある。ただし、近隣住人への配慮から音を出すのを午後9時までとする規制があり、これらの基準に合格したアーティストに限り使用が許可されている。 コンサート利用は天然芝の保護という審査基準もあって年間1組のみ許可されていたが、2012年はL'Arc〜en〜Cielと嵐の2組がライブとコンサートを開催した。取り壊し直前の2014年には、天然芝の保護という関連から審査が緩和されたため、3組のアーティストが開催し︵ほか1組が開催中止。︶、締めくくりには特別イベント﹁SAYONARA 国立競技場 FINAL WEEK JAPAN NIGHT﹂が開催された。 その一方で、上記の音の規制などからコンサートを開催することについて否定的な見解を示すアーティストも存在する。例として、日本一のCDセールスを記録し、これまで数多くの大規模コンサートを開催してきたB'zが﹁自分たちが求める音のクオリティでライブができない﹂という理由から、当競技場でのコンサート開催を見送っていると公言している[52]。 一部のチケット非所持ファンが、場外から見えるビジョンや場外へ漏れる音楽を目的に周辺地域に滞留し、問題視されることもあった[53]。 ﹁国立競技場労働組合﹂を立ち上げ、のちに場長になった[54] 中原久和は、コンサートで稼げば稼ぐほど、文部省から補助金が減らされたとの弊害を2015年、語った[55]。 新国立への建替での開閉式屋根の必要性として、ある調査ではコンサート騒音を心配する地元住民が85%[56] に達した一方で、神宮外苑の半径400m以内には民家自体は少ないという近隣住民の意見もある[57]。当競技場における公演の歴史
グラウンド面にまで観客を収容して行われたライブ・コンサートのみ記載する︵神宮外苑花火大会は除く︶。 ●1985年6月15日‥国際連合にて1985年に採択された﹁国際青年年﹂を記念し、ジョイントコンサート﹃国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW﹄を開催。当競技場における初のコンサートとなる。 ●1996年6月29日‥史上初の洋楽アーティスト公演として、ルチアーノ・パヴァロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスの﹁世界3大テノール﹂日本公演を開催[58]。 ●2005年9月3日・4日‥SMAPが史上初の単独公演を開催。翌年の2006年9月9日・10日にも公演を行っている。 ●2007年9月22日・23日‥DREAMS COME TRUEが史上2組目の単独公演を開催。聖火台に点火したアーティストは史上初[20]。 ●2008年9月5日・6日‥嵐が史上3組目の単独公演を開催。2009年には8月28日-30日の3日間連続開催を達成し、2010年には現在最多となる4日間公演︵8月21日・22日、9月3日・4日︶を開催[59]。2011年9月2日・3日、2012年9月20日・21日、2013年9月22日・23日にも開催し、最多となる15公演を記録している。 ●2012年5月26日・27日‥L'Arc〜en〜Cielが史上4組目の単独公演を開催。2014年3月21日・22日の2日間にも単独公演を開催し、史上最多の8万人︵2日間延べ16万人︶を動員した。 ●2014年3月15日・16日‥ももいろクローバーZが史上5組目の単独公演を開催[18]。女性グループ初のコンサートとなった︵詳細は、ももクロ春の一大事2014 国立競技場大会 〜NEVER ENDING ADVENTURE 夢の向こうへ〜を参照︶。 ●2014年3月29日‥AKB48が史上6組目の単独公演を開催[60][61]。なお、翌30日にはAKB48グループ公演を開催予定だったが、荒天のため中止となり[62]。振替公演を6月8日に味の素スタジアムで開催した。 ●2014年5月17日・18・19日‥ポール・マッカートニーが史上7組目として洋楽アーティストとしてパヴァロッティ・ドミンゴ・カレーラス以来、ソロ・アーティストとしては国内アーティストを含めて唯一となる単独公演を開催する予定だったものの、両日とも本人の体調不良︵ウイルス性炎症︶により中止となった。当初は17日の中止分を19日に順延し振替公演をすることを予定していたが、それも中止となった[63]。またこの5月20日に、この後予定されていた日本武道館・ヤンマースタジアム長居も含めて全公演が中止となったため、振替公演はなし。 ●2014年5月28日・29日‥当競技場最後の音楽イベントとして、ジョイントコンサート﹃SAYONARA 国立競技場 FINAL WEEK JAPAN NIGHT﹄が開催され[64]、2日間で以下の13組のアーティストが出演した︵太字のアーティストはその日の公演のヘッドライナー︶。 ●28日︵Yell for Japan︶‥いきものがかり、ウカスカジー︵櫻井和寿 & GAKU-MC︶、岸谷香、ゴスペラーズ、斉藤和義、スキマスイッチ、ナオト・インティライミ、ファンキー加藤、ゆず ●29日︵JAPAN to the World︶‥SEKAI NO OWARI、Perfume、MAN WITH A MISSION、L'Arc〜en〜Ciel仕様
すり鉢状の競技場[65]︵お椀型︶。下部の客席勾配が17度で、中ほどが22度、25度、26度、27度と急勾配にし、最上部が28度に設計されたともいわれる[66]。トラック
トラック8レーンを有する日本陸上競技連盟公認第一種陸上競技場であった。 開場時のトラックの材質は厚さ3cmのアンツーカー、三原山の火山砂利に石炭殻を混ぜた2cmの層、弾力を持たせるための厚さ25cmの大粒の火山砂利、厚さ30cmの岩石の層で成っていた[67]。 日本陸連の第一種競技場として登録されるには、規則上1周400mの補助競技場︵サブトラック、公認第三種登録相当︶を併設することが義務付けられている。当競技場にはそのサブトラックがないが、東京都営の東京体育館の付属陸上競技場を事実上のサブトラックと見なし、第一種トラックとして登録されている。ただし、東京体育館陸上競技場は直線コースは100mあるものの、全周200mしかない上にコースが5レーンしかない。なお、近接地・渋谷区にある代々木公園陸上競技場︵同じく都営。1周400m8レーンの第3種公認︶も、当競技場の事実上の補助競技場と位置づけられている。都内においては、2012年に都営の味の素スタジアム︵第1種︶の隣接地に﹁西競技場﹂︵第3種︶が竣工し、唯一第1種競技場の直接的な補助競技場が整備されている。 日本陸連の風間明事務局長の2014年の発言によると、9レーンは必須条件ではなく8レーンでも国際基準はOKだが、最内枠の1レーンは使用頻度が高くてコースが荒れやすいため、2レーンから使うのが好ましいという[68]。 ただし、代々木公園陸上競技場と国立競技場は距離的に離れているため、1964年東京オリンピックの開催時には明治神宮野球場に付帯した軟式野球グラウンドに仮設のトラック︵400m︶が開設され、選手の練習やウォームアップに利用されていた[69]。1991年の世界陸上東京大会も、仮設サブトラックを使用したという︵出典では詳細は不明[70]︶。この開催に際して、前年の1990年に﹃レオタンαエンボス﹄︵ローラーエンボス仕上げ︶に改修された。 2006年には、1レーンのみ表面のオーバーレイ施工された[71]。 グラウンド内のメインスタンド北側︵千駄ヶ谷駅、第4コーナー側︶寄りにあるポールは織田ポールと呼ばれ、織田幹雄が三段跳びで日本人初のオリンピック金メダルを獲得したアムステルダムオリンピックでの記録、15m21cmの高さで立てられていた。この織田ポールは当初固定式だったが、2005年に改修され取り外しが可能となった[72]。 日本陸連の帖佐寛章顧問も﹁国立競技場は、陸上競技ではほとんどの場合、向かい風になるという欠点があります﹂と指摘し[73]、同事務局長の風間明もショートトラックの向きに関しては、同様の認識を示し、貴賓席に西日が当たるためトラックの向きを変えることはできないという噂もあるとも言った[68]。逆に、﹁強い風が吹かない印象があった﹂︵為末大︶[74]、﹁風が回ることは滅多になかった﹂︵友永義治︶[74]、﹁最高に使いやすかった﹂︵武井壮︶[75][76] というアスリートの声もある。フィールド
スタンド
併設施設
代々木門エントランス下には国立霞ヶ丘競技場体育館が、同門側サイドスタンド下には国立霞ヶ丘競技場室内水泳場がある。 メインスタンド下には秩父宮記念スポーツ博物館、秩父宮記念スポーツ図書館、日本体育施設協会の事務局が設けられている。照明及び視聴覚装置
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/15/Japan_National_Stadium_Electronic_Bulletin_Board_1964.jpg/220px-Japan_National_Stadium_Electronic_Bulletin_Board_1964.jpg)
門
中央門︵メイン︶、︵以下は時計回りに︶北車門、千駄ヶ谷門とマラソン門、北一門、北二門と北三門、北四門、青山門︵バック︶、南五門から南二門まで、南一門、代々木門、南車門。以上、公式サイトの見取り図では16の名称が確認できる[83]。芸術作品・記念作品
場所 | 名称 | 原画 | |||
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13 | メインスタンド向かって左 | 勝利(野見宿禰像) | 長谷川路可 | ||
14 | メインスタンド向かって右 | 栄光(ギリシャの女神像) | |||
15 | 正面玄関の右脇壁面 | よろこび | 寺田竹雄 | ||
16 から 25 |
回廊の10壁画 小林凱金 |
躍進 | 友愛 | 勝利 | |
より高く | より早く | 宮本三郎 | |||
動態 | 人と太陽 | 大沢昌助 | |||
勝利の場 | 飛転 | 躍動 | 脇田和 |
その他
1 | 聖火台 | 鋳物 | 鈴木万之助・鈴木文吾 |
2 | 健康美 | 塑像 | 北村西望 |
3 | 青年像 | 朝倉文夫 | |
4 | 波 | 吉田三郎 | |
5 | 円盤投げ像(ディスコポロス像) | ミロン | |
6 | 槍投げ像 | 雨宮治朗 | |
7 | 御者像 | ファルビ・ビニョーリ | |
8 | 無題 | 彫像 | 三井泉 |
9 | 東京オリンピック大会優勝者銘盤 | 記念碑 | 組織委員会で計画 |
10 | 1967年ユニバーシアード東京大会優勝者銘盤 | 中山克己 | |
11 | 1991年第3回世界陸上競技選手権大会優勝者銘盤 | - | |
12 | 「出陣学徒壮行の地」の碑(秩父宮ラグビー場に一旦移設)[89] | - |
聖火台
その他
解体される前の本競技場のメインスタンド下にはトレーニング施設が整備されており、中学生以上は一般利用が常時可能であった。また、スタジアム利用が無い日には、通常のトラックやスタンド下に整備された1周650mの回廊走路も利用できた。メインスタンドには貴賓席や記者席などが用意され、スタンド下には室内練習場や会議室もあって大会時には選手控室や記者会見場に利用されるが、近年に整備された各スタジアムと比較すると古くて手狭であった。 競技場のスタンド下からトラック内部へは選手用の地下通路があったが、現在は利用されていない。ここには東京オリンピックの際に女子選手も使える立ち小便器がああり[94]、女性でも立って用を足す文化の国の人のために1962年に設置、1964年の東京五輪ではソビエト連邦の砲丸投選手が使用した[95]。 聖火台下などのバックスタンド上部はメインスタンドよりも高く、荒天時を除けば競技場の西側にあるNTTドコモ代々木ビルや新宿新都心地区の超高層ビル群がメインスタンドの背後から眺められた。 以上の各施設については、秩父宮スポーツ博物館と合わせて随時見学ツアーが開催されていた[96]。交通
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a0/Japan_national_stadium02.jpg/220px-Japan_national_stadium02.jpg)
所在地
東京都新宿区霞ヶ丘町10番2号。最寄り駅
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0b/Shinanomachi_Station_1964.jpg/220px-Shinanomachi_Station_1964.jpg)
駐車場・道路交通
国立霞ヶ丘競技場では一般観客が利用できる駐車場は用意されず、周辺地域でも駐車場は少ない。青山門の東側にある明治神宮絵画館前駐車場は団体バスの利用が可能で、千駄ヶ谷駅西側の首都高速高架下にも駐車場が整備されているが、5万人のスタジアム規模に見合う台数ではなく、来場者には公共交通機関の利用が呼びかけられている。 道路交通としては、以下の道路がスタジアムに近い。 消防は、東京消防庁四谷消防署の管内に置かれている[97]。 道路網 ●高速道路・インターチェンジ ●首都高速4号新宿線 - 外苑出入口から至近︵1km以内︶ ●一般道路 ●国道246号︵青山通り︶ - 外苑西通りを介して連絡 ●東京都道418号北品川四谷線︵外苑西通り︶ ●東京都道414号四谷角筈線︵神宮外苑周回道路︶ ●東京都道319号環状三号線︵外苑東通り︶ - 神宮外苑周回道路を介して連絡 東京オリンピックの開催にあたっては内外の要人・賓客輸送のために首都高速道路の建設が急がれ、開会の2ヵ月前に外苑出入口が完成し、東京国際空港︵羽田空港︶からの路線が開通した。 バス交通 ●バス停 - 明治公園バス停 ●都営バス早81系統︵早大正門~渋谷駅東口︶・黒77系統︵目黒駅~千駄ヶ谷駅︶ ●ハチ公バス︵フジエクスプレス︶神宮の杜ルート︵渋谷駅ハチ公口~参宮橋︶ 同バス停は代々木門が最も近いが、輸送力・運行回数共に上記の鉄道路線よりも少ないため、積極的な案内は行われていない。主な大会・イベント
●全国高等学校定時制通信制陸上競技大会 - 国立が閉鎖される迄毎年行われていた。2014年から駒沢オリンピック公園陸上競技場で行われている。 ●日本陸上競技選手権大会︵最近は地方都市持ち回りが多い︶ ●日本学生陸上競技対校選手権大会 ●天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝戦︵準決勝の1試合も行う︶ - 毎年1月1日︵元日︶の午後、前年度大会の決勝戦を開催。準決勝は12月末に開催。 ●全日本大学サッカー選手権大会決勝戦 ●全日本大学女子サッカー選手権大会決勝戦 ●全国高等学校サッカー選手権大会開会式・開幕戦・準決勝・決勝戦︵2008年度大会では準決勝は非開催︶ ●サッカー日本代表の国際親善試合や強化試合︵A代表・オリンピック代表が主︶ ●J1昇格プレーオフ - 2012年と2013年に開催。 ●FUJI XEROX SUPER CUP - 2005年と2011年は横浜で開催された。 ●Jリーグカップ︵ヤマザキナビスコカップ︶決勝戦 ●日本ラグビーフットボール選手権大会決勝戦 ●全国大学ラグビーフットボール選手権大会準決勝・決勝戦 ●関東大学ラグビー対抗戦 早稲田大学対明治大学︵早明戦︶ - 毎年12月の第1日曜日に開催。過去に開催された主な大会・イベント
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/09/1958_Asian_Games_opening_ceremony.jpg/220px-1958_Asian_Games_opening_ceremony.jpg)
﹁新国立競技場﹂への建て替え
閉鎖記念イベント﹁SAYONARA国立競技場プロジェクト﹂
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0e/Japan_National_Rugby_Union_Team_%28A5N_20140525%29.jpg/220px-Japan_National_Rugby_Union_Team_%28A5N_20140525%29.jpg)
閉鎖に伴う記念特番
●名勝負!国立競技場物語 2013年9月1日12:00-13:50にNHK BS1で放送されたドキュメンタリー番組である。 国立競技場としてリニューアルされるにあたり、この番組では国立競技場メインスタンドに掲げられてきた壁画・野見宿禰とニケの視点を通して、国立競技場の歴史と名勝負をたどり、新国立競技場への引継ぎを行うというものである。番組は陸上競技を中心にした第1部・トラック編と、サッカー・ラグビーなどの球技を中心とした第2部・フィールド編の2部構成である。 ●ナビゲーター - 野見宿禰︵西村雅彦︶、ニケ︵紫吹淳︶ ●語り手 - 阪脩、関野浩之 ●緊急生中継!さよなら国立競技場 2014年5月31日 21:00-22:00にTBSテレビで放送されたドキュメンタリー番組である。 国立競技場最後のイベント﹁SAYONARA国立競技場FINAL "FOR THE FUTURE"﹂の真の最終イベントであるピッチ開放を生中継し、当日行われたイベントのVTRを放送することはもちろん、国立競技場の歴史をたどった。特に、1964年東京オリンピック開会式の時に行われたブルーインパルスの曲芸飛行に込められた秘話を特集。最後にはピッチ開放に訪れた多くの市民を前に、中山がフリーキックを行うシーンが行われた。 ●スペシャルナビゲーター - 中山雅史 ●ゲスト - 関根勤、宮崎美子 ●アシスタント - 枡田絵理奈︵TBSアナウンサー︶ ●実況 - 初田啓介︵TBSアナウンサー︶ ●ドキュメントパートナレーター - 近藤サト この番組に先駆けて、18:55︵一部地域19:00︶から20:54の﹁炎の体育会TV﹂でも﹁さよなら国立競技場スペシャル﹂と題して、国立競技場からの生中継、および一部事前収録による同番組レギュラーメンバーに中田英寿、釜本邦茂ら特別ゲストを交えたスポーツアトラクションの模様︵観客非公開︶を紹介しているほか、BS-TBSでも14:00から14:55に﹁今夜聖火の灯が消える ありがとう国立競技場﹂︵ナビゲーター・関根勤︶と題して、過去に行われた国立競技場の名勝負を振り返る特番が放送された。解体工事をめぐる遅延
新国立競技場建設のため既存の国立競技場は解体されることになり、日本スポーツ振興センター (JSC) により南北2工区に分けて入札が行われることとなった。1回目の入札では、入札に参加出来る資格が﹁建築一式工事1190点以上﹂の資格を有するものに限られた。北工区﹁西松建設﹂、南工区﹁安藤・間﹂﹁フジタ﹂﹁NIPPO﹂の中堅ゼネコンが入札に参加した。1回目の入札は2014年5月29日に開札されたが、すべての入札価格が予定価格︵北工区2,036,862,000円、南工区1,879,630,000円︶を上回り不調に終わった[103][104]。 2回目の入札では、入札に参加できる資格を﹁建築一式工事1190点以上﹂の資格を有するものに加え、﹁とび・土工・コンクリート工事(解体工事)950点以上﹂の資格を有するものにも門戸を広げた。日本スポーツ振興センター (JSC)は2回目の入札で、各工区の予定価格を大幅に引き上げた。︵北工区の予定価格2,492,394,000円 1回目より455,532,000円増額、南工区の予定価格2,314,151,000円 1回目より434,521,000円増額 ) 2回目の入札は2014年7月17日に開札され、南北2工区とも関東建設興業株式会社が落札したが関東建設興業は北工区は2番札、南工区は3番札であった。南北2工区の1番札であった株式会社フジムラおよび南工区の2番札であった株式会社関口興業は﹁特別重点調査﹂により無効と判断されたためである[注 5]。フジムラはJSCに抗議に出向いたところ、新国立競技場設置本部施設部長ら5名が対応、株式会社フジムラの猛抗議に対し、JSC管理部調達管財課課長の中塚俊和は、官製談合の疑いがある旨の発言している[105][106]。JSCは公正取引委員会に報告、調査部会を設置して調査を開始した。︵調査部会はJSCの理事、JSC指定の弁護士・公認会計士で構成されており、明らかに﹁身内の調査﹂であった︶[105]。これに対し、フジムラが調査の協力に応じた。その後8月19日にJSC調査部会より伝えられた結論は﹁官製談合はなかった﹂であった[105]。この結果に対して、フジムラは弁護団を結成︵代理人弁護士 石田義俊、石田深恵、山崎克之、金澤 優︶、8月28日 内閣府政府調達苦情処理対策室 に苦情処理申立書を提出、9月10日 内閣府政府調達苦情検討委員会 により申立書が受理された︵検委事第14号︶。内閣府政府調達苦情検討委員会 ︵委員長 加毛修/副委員長 小泉淑子/委員 有川博・磯部力・大橋真由美︶は、審議の結果、JSCが入札書および工事費内訳書の提出期限前に工事費内訳書を順次開封していたこと、ならびに入札者が提出した工事費内訳書の開封と並行して予定価格の決定に係る関係調達機関内部の手続を行っていたことは、調達過程の公正性および公平性ならびに入札書の秘密性を損なうものとして、契約を破棄し、新たに調達手続を行うよう提言した[106]。これにより2回目の入札による契約は破棄された。一連の経緯は第187回臨時国会 参議院予算委員会において取り上げられ、民主党 蓮舫議員により、下村文博文部科学大臣・日本スポーツ振興センター︵JSC︶河野一郎理事長に対し、談合疑惑の追及がなされた[107][108][109]。これに対し河野一郎理事長は、﹁︵入札情報が︶漏れたとは考えていない﹂﹁︵落札価格の︶操作事実はない﹂と平然と答え、更には、開札前に各業者の応札価格を認識した事実を蓮舫議員に指摘されながら、内部関係者への聞き取り調査さえ﹁していない﹂と開き直った[110]。河野一郎理事長は最終的には不手際を陳謝、聞き取り調査もせずに﹁談合の事実はなかった﹂と判断したことを認めた。また、蓮舫議員からの調査要請に対し下村博文文部科学大臣は﹁談合が疑われたので警察庁に通報した﹂と答弁した。また、同議員から談合防止のための第三者管理機関創設の考えを問われた安倍晋三内閣総理大臣は﹁今回は警察に調査を依頼している﹂と述べた[111]。 下村博文文部科学大臣、安倍晋三内閣総理大臣の答弁を受け、警視庁捜査2課が調査に動くという、異常な事態に発展した。 3回目の入札は2014年12月2日に開札され、北工区はフジムラが再び﹁特別重点調査﹂の対象になるが、日本スポーツ振興センター (JSC)より、契約の内容に適合した履行が行われると認められたため落札。南工区は関東建設興業が落札した[104]。︵北工区の予定価格2,022,201,000円に対し落札金額1,672,920,000円、南工区の予定価格1,739,566,000円に対し落札金額1,505,520,000円︶ 当初2014年7月から始まる予定だった解体工事は、日本スポーツ振興センター︵JSC)による一連の不手際により2015年1月初旬︵北工区︶、2月下旬︵南工区︶と工事開始が大幅に遅れることとなった[112] が、契約工期通りに無事完了した。 なお、解体工事で発生する有価物︵スクラップ材︶について1回目・2回目の入札では特に制限されず、施工業者が自由に処分できるとの条件であったが、3回目の入札時には有価物は別途売り払うこととされ、2015年2月の入札により、フジムラが247,367,000円で落札した︵予定価格217,417,000円︶。 この﹁発生材売払﹂は﹁単価契約﹂とされ、各金属毎の単価を発生前︵スタンドとりこわし前︶に入札する異例ずくめのものであった。脚注
出典
注釈
参考文献
- 『国立競技場の100年:明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』 後藤健生:編著、ミネルヴァ書房、2013年
- 『SAYONARA国立競技場56年の軌跡』 日本スポーツ振興センター:編著、朝日新聞出版、2014年
- 『〈東京オリンピック〉の誕生: 一九四〇年から二〇二〇年へ』浜田幸絵(吉川弘文館、2018年)978-4642038812
関連項目
- 国立競技場 (法人)
- 国立競技場
- 国立霞ヶ丘競技場
- 明治神宮外苑競技場
- 国立代々木競技場
- 国立西が丘サッカー場
- 明治神宮野球場
- 長谷川路可 - メインスタンドの壁画の作者
- 明治神宮外苑
- 秩父宮記念スポーツ博物館
外部リンク
- 国立競技場
- 国立競技場駅 - 東京都交通局
- 千駄ヶ谷駅 - JR東日本
- 信濃町駅 - JR東日本
- NHKグローバルメディアサービス・「名勝負!国立競技場物語」 - ウェイバックマシン(2014年4月10日アーカイブ分)
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