服部誠一
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服部 誠一︵はっとり せいいち、天保12年2月15日︵1841年4月6日︶ - 明治41年︵1908年︶8月15日︶は、明治時代の文学者・ジャーナリスト。
号は撫松︵ぶしょう︶。陸奥国︵現福島県︶出身。
生涯[編集]
1841年、二本松藩の儒官であった服部半十郎︵洞城︶の長男として生まれる。祖父の服部半十郎︵大方︶は信州人だったが、二本松藩の儒官に聘され、その子の半十郎も儒官として勤めた。藩校敬学館、湯島聖堂に学んだ後、藩校の教授を務めた。1869年に藩の公用人として上京したが、廃藩置県により職を失い著述業に転じた。 1874年、文明開化のさなかにあった東京の風俗を描いた、寺門静軒﹃江戸繁盛記﹄の明治版ともいうべき﹃東京新繁昌記﹄を出版し、文体も﹃江戸繁盛記﹄流の変体漢文で、当時福沢諭吉﹃西洋事情﹄﹃世界国尽﹄に並ぶ、1万数千部のベストセラーとなる。この収入によって湯島妻恋坂に新邸を営み、吸霞楼と号した。またこの知名度により、当時の著作の作者名や序文に服部の名を借りるものが多くあった。木版であった﹃東京新繁昌記﹄の活字版雑誌として、1876年に九春社を設立して週刊の﹃東京新誌﹄を発刊した。内容は、﹃繁昌記﹄風の漢文と、仮名交り文の戯文や、東条竹翆による人情小説で、著名人の艶聞や政治への諷刺批評を縦横して、当時としては大きな発行部数を得た。続いて姉妹誌﹃春野草誌﹄も発行、仮名文を多くし、服部以外の文章も多く、1年ほどで廃刊した。1880年頃には政論雑誌﹃江湖新報﹄を刊行し、週2回発行。1882年に紙商人丸谷新八の支援で九春社の事業を拡大し、﹃東京新繁昌記 後篇﹄、馬琴作品を明治に移した﹃第二世夢想兵衛胡蝶物語﹄、唐の伝記本﹃繍像奇談﹄などを発行した。 1882年には立憲改進党に加入し、山田喜之助、市島謙吉、高田早苗、天野為之、砂川俊雄らと政治新聞﹃内外政党事情﹄︵四通社︶を発行。各参加者の多忙により数ヶ月で廃刊となったが、次いで民権拡張を論じる﹃広益問答新聞﹄﹃中外広間新報﹄などを発行した。これらは政府批判から、たびたび発禁処分となった。 ﹃東京新誌﹄も新聞紙条例によりたびたび罰金や発売禁止処分を受けたが、井上馨令嬢の暴露記事により、ついに恒久の発行禁止処分を受けることになった。直ちに同様の内容の﹃吾妻新誌﹄を発行開始したが、丸谷新八と経営面で訴訟となり、﹃吾妻新誌﹄は丸八に譲り、1888年﹃京華春報﹄を発刊、しかしこの頃には漢文雑誌は時代に合わなくなって廃刊となった。 その後、文部省図書課詰などを経て、1896年に宮城県尋常中学校︵現・宮城県仙台第一高等学校︶の教員となり、作文や漢文を教えた。その時の教え子には吉野作造らがいる。 1908年に夏期休暇で上京したが、脳溢血︵または心臓麻痺︶のため東京市牛込区納戸町︵現・新宿区納戸町︶の長男宅で死去した。戒名は浄先院真誉清観居士[1]。墓所は青山霊園1-ロ-7-23。死の直前、袁世凱の長男の家庭教師となり、日本に一時帰国していた吉野作造を訪ねて﹁老後の思ひ出に支那に行きたいから周旋しろ﹂と頼んでいたが、それはかなわなかった。 娘は赤坂氷川神社の狛犬を彫った石工・須藤音吉に嫁いだ。その孫が徳光和夫である。影響[編集]
﹃東京新繁昌記﹄から﹃東京新誌﹄の文体は、六朝風や六経の引用から浄瑠璃の文句、都々逸、漢詩など多彩なものを一体にした大胆なもので、また妾を﹁権妻﹂、官吏を鯰、泥鰌と呼ぶのも服部の造語だった。﹃東京新繁昌記﹄により﹃江戸繁盛記﹄が再び注目されるとともに、続いて同種の作品として成島柳北﹃柳橋新誌﹄、石井南橋﹃新橋雑記﹄、菊池三渓﹃西京伝新記﹄、総生寛﹃東京繁昌新詩﹄、関槎盆子﹃銀街小誌﹄、その他地方を題材にした類書がさまざまに出たが、売れ行きでは及ぶところではなかった。 ﹃東京新誌﹄の花柳界などの記事執筆者には、桑野鋭︵顧柳散史、﹃龍山北誌﹄︶、荒井繚太郎︵金繚散史︶、三木愛花︵﹃仙洞綺話﹄﹃仙洞余談﹄﹃仙洞美人禅﹄、大久保常吉︵夢遊仙史︶、西森武城︵骨皮道人︶、結城賛︵凡鳥道人、﹃扶桑橋花譜﹄︶などがいた。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 三木愛花「服部撫松伝」(十川信介編『明治文学回想集』岩波書店 1998年)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 服部誠一(近代日本人の肖像) ‐ 国立国会図書館
- 服部撫松(はっとりぶしょう)を知っていますか 本の森への道しるべ ‐ 福島県立図書館
- 吉野作造「服部誠一翁の追憶」