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'''インドの歴史'''(インドのれきし、History of India)では、[[インダス文明]]以来の[[インド]]の歴史について略述する。 |
'''インドの歴史'''(インドのれきし、History of India)では、[[インダス文明]]以来の[[インド]]の歴史について略述する。 |
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== インダス |
== インダス・ガンジス文明 == |
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=== インダス文明 === |
=== インダス文明 === |
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[[ファイル:IVC Map.png|thumb|200px|right|インダス文明]] |
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{{Main|インダス文明}} |
{{Main|インダス文明}} |
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[[紀元前2600年]]頃より、[[インダス川]]流域に[[インダス文明]]が栄えた。民族系統は諸説あり、[[:en:Iravatham Mahadevan|Iravatham Mahadevan]]が[[紀元前3500年]]頃に西アジアから移住してきたとのドラヴィダ人仮説︵Dravidian hypothesis、南インドの[[ドラヴィダ語|ドラヴィダ]]系の民族︶を提唱したが、[[ワシントン大学]]のRajesh P. N. Raoはドラヴィダ人仮説への有力な反例を示し、[[フィンランド]]の研究者{{仮リンク|アスコ・パルボラ|en|Asko Parpola}}が支持し、研究は振り出しに戻っている<ref>[http://wired.jp/wv/2009/04/24/未解読のインダス文字を、人工知能で解析/ 未解読のインダス文字を、人工知能で解析] (WIRED.jp)</ref>。
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[[紀元前2600年]]頃より、[[インダス川]]流域に[[インダス文明]]が栄えた。民族系統は諸説あり、[[:en:Iravatham Mahadevan|Iravatham Mahadevan]]が[[紀元前3500年]]頃に西アジアから移住してきたとのドラヴィダ人仮説︵Dravidian hypothesis、南インドの[[ドラヴィダ語|ドラヴィダ]]系の民族︶を提唱したが、[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]]のRajesh P. N. Raoはドラヴィダ人仮説への有力な反例を示し、[[フィンランド]]の研究者{{仮リンク|アスコ・パルボラ|en|Asko Parpola}}が支持し、研究は振り出しに戻っている<ref>[http://wired.jp/wv/2009/04/24/未解読のインダス文字を、人工知能で解析/ 未解読のインダス文字を、人工知能で解析] (WIRED.jp){{リンク切れ|date=2021年10月}}</ref>。
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[[パンジャーブ地方]]の[[ハラッパー]]、[[シンド州|シンド地方]]の[[モヘンジョダロ|モエンジョ・ダーロ]]などの遺跡が知られるほか、沿岸部の[[ロータル]]では[[造船]]が行われていた痕跡がみられ、[[メソポタミア]]と交流していた |
[[パンジャーブ地方]]の[[ハラッパー]]、[[シンド州|シンド地方]]の[[モヘンジョダロ|モエンジョ・ダーロ]]などの遺跡が知られるほか、沿岸部の[[ロータル]]では[[造船]]が行われていた痕跡がみられ、ウルを始めとした[[メソポタミア]]の諸都市と交流していた{{Sfn|山崎&小西|2007|pp=38-39}}。
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焼き[[煉瓦]]を用いて街路や[[用水路]]、浴場などを建造し、一定の都市計画にもとづいて建設されていることを特徴としていたが、紀元前2000年頃から衰退へとむかった。この頃になると各地域ごとに文化発展がみられ、{{仮リンク|アハール・バナス文化|en|Ahar-Banas culture}} (Ahar-Banas culture)、{{仮リンク|マールワー王国|en|Malava Kingdom|label=マールワー文化}} (Malava Kingdom, Malwa culture)、{{仮リンク|ジョールウェー|en|Jorwe|label=ジョールウェー文化}} (Jorwe culture) などがその例として挙げられる。 |
焼き[[煉瓦]]を用いて街路や[[用水路]]、浴場などを建造し、一定の都市計画にもとづいて建設されていることを特徴としていたが、紀元前2000年頃から衰退へとむかった{{Sfn|山崎&小西|2007|p=39}}。この頃になると各地域ごとに文化発展がみられ、{{仮リンク|アハール・バナス文化|en|Ahar-Banas culture}} (Ahar-Banas culture)、{{仮リンク|マールワー王国|en|Malava Kingdom|label=マールワー文化}} (Malava Kingdom, Malwa culture)、{{仮リンク|ジョールウェー|en|Jorwe|label=ジョールウェー文化}} (Jorwe culture) などがその例として挙げられる。
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これらの文化が滅亡した要因として環境問題(紀元前1628年から紀元前1626年までの気候変動の原因となった[[ギリシャ]]・[[サントリーニ島]]の[[ミノア噴火]])などが指摘されているが、[[インダス文字]]が未解読なこともあり、詳細ははっきりとしていない。 |
これらの文化が滅亡した要因として環境問題︵紀元前1628年から紀元前1626年までの気候変動の原因となった[[ギリシャ]]・[[サントリーニ島]]の[[ミノア噴火]]︶などが指摘されているが、[[インダス文字]]が未解読なこともあり、詳細ははっきりとしていない{{Refnest|都市活動の停止の要因としては、このほか乾燥化によるとする考えやアーリヤ人の侵入の結果とする考えなどがあるが、現在これらの説は否定されている。2007年現在有力視されている説は、土地の隆起によるインダス川の洪水の頻発、ガッガル・ハークラー川の干上がり、これらの要因によるインフラと農業生産力の衰亡である。しかしながら、この環境変動説も考古学的・地質学的証明の裏付けが十分とは言えない{{sfn|山崎&小西|2007|p=40}}。|group=†}}。
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⚫ | インダス文明が後世のインド文明に与えた影響として、[[沐浴]]の習慣や[[リンガ]]信仰などが挙げられるほか、彼らの神像がシヴァ神の原型でありヨーガの源流になったと考えられてきていた。 |
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⚫ | [[File:Yogi. Mold of Seal, Indus valley civilization.jpg|upright|thumb|200px|紀元前2500-1500年頃の彫像]] |
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⚫ | これは、1921年に[[モヘンジョダロ|モエンジョ・ダーロ]]と[[ハラッパー]]の遺跡を発掘した[[考古学|考古学者]]のジョン・マーシャルらによって、発掘された印章に彫られた図像を、[[坐法]]を行っている[[シヴァ|シヴァ神]]の原型であると解釈したものである{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。そこから宗教学者[[ミルチャ・エリアーデ|エリアーデ]]も、これを「塑造された最初期のヨーガ行者の表象」であるとした{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。 |
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⚫ | 近代に至る[[ヨーガ]]の歴史を研究したマーク・シングルトンは、この印章がのちにヨーガと呼ばれたものであるかは、かなり疑わしいものであったが、古代のヨーガの起源としてたびたび引用されるようになった、と述べている{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。 |
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⚫ | また、インド学者のドリス・スリニヴァサンも、この印章に彫られた像をシヴァ神とすることには無理があり、これをヨーガ行法の源流と解することに否定的であるとしている{{sfn|シングルトン|2014|pp=33-34}}。 |
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⚫ | 近年、このようなヨーガのインダス文明起源説に終止符を打とうとした宗教人類学者のジェフリー・サミュエルは、このような遺物からインダス文明の人々の宗教的実践がどのようなものであったかを知る手がかりはほとんど無いとし、現代に行われているヨーガ実践を見る眼で過去の遺物を見ているのであり、考古学的な遺物のなかに過去の行法実践を読み解くことはできないとしており{{sfn|シングルトン|2014|p=34}}、具体的証拠に全く欠ける研究の難しさを物語っている。 |
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=== 前期ヴェーダ時代 === |
=== 前期ヴェーダ時代 === |
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[[ファイル:KhyberPassPakistan.jpg|thumb|200px|right|カイバル峠]] |
[[ファイル:KhyberPassPakistan.jpg|thumb|200px|right|カイバル峠]] |
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{{Main|ヴェーダ}} |
{{Main|ヴェーダ}} |
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[[インド・アーリア人]]は、紀元前1500年前後に現在の[[アフガニスタン]]・[[バクトリア]]から北西インド(現在のパキスタン)に移住したと考えられているが<ref>{{cite book|author=Masica, Colin P|title=The Indo-Aryan languages|year=1993|origyear=1991|publisher=Cambridge University Press|isbn=0521299446|edition=paperback|page=36}}</ref>、インドの伝承では移動に関して何も記していない。[[リグ・ヴェーダ]]によれば、その後、[[バラタ族]]・[[トリツ族]]など諸部族の間で戦争が勃発した([[十王戦争]])。バラタ族の社会は、いくつかの部族集団によって構成されていた。部族を率いたものを「ラージャン」と称し、ラージャンの統制下で戦争などが遂行された。ラージャンの地位は世襲されることが多かったが、[[部族]]の構成員からの支持を前提としており、その権力は専制的なものではなかったとされる。 |
[[インド・アーリア人]]は、紀元前1500年前後に現在の[[アフガニスタン]]・[[バクトリア]]から北西インド︵現在のパキスタン︶に移住したと考えられているが<ref>{{cite book|author=Masica, Colin P|title=The Indo-Aryan languages|year=1993|origyear=1991|publisher=Cambridge University Press|isbn=0521299446|edition=paperback|page=36}}</ref>、インドの伝承では移動に関して何も記していない。﹃[[リグ・ヴェーダ]]﹄によれば、その後、[[バラタ族]]・[[トリツ族]]など諸部族の間で戦争が勃発した︵[[十王戦争]]︶。バラタ族の社会は、いくつかの部族集団によって構成されていた。部族を率いたものを﹁ラージャン﹂と称し、ラージャンの統制下で戦争などが遂行された。ラージャンの地位は世襲されることが多かったが、[[部族]]の構成員からの支持を前提としており、その権力は専制的なものではなかったとされる{{Sfn|山崎&小西|2007|p=82}}。
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バラタ族は、軍事力において先住民を圧倒する一方で、先住民から農耕文化の諸技術を学んだ。こうして、前期ヴェーダ時代後半には、牧畜生活から農耕生活への移行が進んでいった。また、バラタ族と先住民族の[[プール族]]の混血も進んでいった︵[[クル族]]の誕生︶。﹃[[リグ・ヴェーダ]]﹄において、先住民に由来する発音が用いられていることも、こうした裏付けになっている。彼らの神々への讃歌と祭式をまとめたものが[[ヴェーダ]]である。司祭者[[バラモン]]がヴェーダの神々をまつり、ここに[[ヴェーダの宗教]]が初期[[バラモン教]]としてインド化していった。
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バラタ族は、軍事力において先住民を圧倒する一方で、先住民から農耕文化の諸技術を学んだ。こうして、前期ヴェーダ時代後半には、牧畜生活から農耕生活への移行が進んでいった。また、バラタ族と先住民族の[[プール族]]の混血も進んでいった︵[[クル族]]の誕生︶。﹃[[リグ・ヴェーダ]]﹄において、先住民に由来する発音が用いられていることも、こうした裏付けになっている。彼らの神々への讃歌と祭式をまとめたものが[[ヴェーダ]]である。司祭者[[バラモン]]がヴェーダの神々をまつり、ここに[[ヴェーダの宗教]]が初期[[バラモン教]]としてインド化していった。
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⚫ | [[紀元前12世紀]]頃に編纂されたリグ・ヴェーダなどのヴェーダの時代には「ヨーガ」やその動詞形の「ユジュ」といった単語がよく登場するが、これは「結合する」「家畜を繋ぐ」といった即物的な意味で、行法としての[[ヨーガ]]を指す用例はない{{sfn|山下|2009|p=69}}。比較宗教学者のマッソン・ウルセルは、「ヴェーダにはヨーガはなく、ヨーガにはヴェーダはない」(狭義のヴェーダの時代)と述べている{{sfn|山下|2009|p=68}}。 |
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=== 後期ヴェーダ時代とガンジス文明 === |
=== 後期ヴェーダ時代とガンジス文明 === |
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[[ファイル:Ancient india.png|thumb|280px|right|十六大国の位置]] |
[[ファイル:Ancient india.png|thumb|280px|right|十六大国の位置]] |
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{{Main|十六大国}} |
{{Main|十六大国}} |
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[[紀元前1000年]]頃より、バラタ族は[[ガンジス川]]流域へと移動した。そして、この地に定着して本格的な農耕社会を形成した。農耕技術の発展と余剰生産物の発生に |
[[紀元前1000年]]頃より、バラタ族は[[ガンジス川]]流域へと移動した。そして、この地に定着して本格的な農耕社会を形成した。また、この時代に鉄器が導入された。鉄器による農耕技術の発展と、それに伴う余剰生産物の発生によって、徐々に商工業の発展も見られるようになった。農作物としては、それまで栽培されていた大麦に加え、ガンジス川流域では米が作られた。さらに、小麦の栽培も開始された{{Sfn|山崎&小西|2007|p=83}}。
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ヴェーダ祭式文化を拠り所とした社会は拡大を続け、現在の東インド、[[ビハール州]]にあたる地域にまで広がった{{Sfn|山崎&小西|2007|p=84}}。一方で、ヴェーダ祭式文化の拡大は、旧来の政治勢力・伝統的祭式観の影響力低下をもたらした。北インドでは諸勢力が台頭し、[[十六大国]]が興亡を繰り広げる時代へと突入した。﹃[[マハーバーラタ]]﹄によると、[[紀元前950年]]頃にクル族の子孫である[[カウラヴァ]]王家が内部分裂し、{{仮リンク|クルクシェートラの戦い|en|Kurukshetra War}}で[[パンチャーラ国]]に敗北して衰退していった{{Sfn|山崎&小西|2007|p=85}}。こうした中で、祭司階級である[[バラモン]]がその絶対的地位を失い、戦争や商工業に深く関わる[[クシャトリヤ]]・[[ヴァイシャ]]の社会的な地位上昇がもたらされた{{Sfn|山崎&小西|2007|pp=81-83}}。十六大国のうち、とりわけ[[マガダ国]]と[[コーサラ国]]が二大勢力として強勢であった{{Sfn|山崎&小西|2007|p=85}}。十六大国のひとつに数えられた[[ガンダーラ]]は、[[紀元前6世紀]]後半に[[アケメネス朝]]の[[ダレイオス1世]]のインド遠征 ([[:en:Iranian invasion of Indus Valley]]) によって支配されるようになり{{Sfn|山崎&小西|2007|p=103}}、他のインドの国々から切り離されアフガニスタンの歴史を歩み始めることになった。
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==== ウパニシャッド哲学と新宗教 ==== |
==== ウパニシャッド哲学と新宗教 ==== |
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{{Main|ウパニシャッド|仏教|ジャイナ教|枢軸時代|六師外道}} |
{{Main|ウパニシャッド|仏教|ジャイナ教|枢軸時代|六師外道}} |
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紀元前5世紀になると、4大ヴェーダが完成し、バラモン教が宗教として完成した。ガンジス川流域で諸国の抗争が続く中で[[バラモン]]が凋落すると、それに代わり[[クシャトリヤ]]や[[ヴァイシャ]]が勢力を伸ばすようになった。こうした変化を背景にウパニシャッド哲学がおこり、その影響下に[[マハーヴィーラ]](ヴァルダマーナ)によって[[ジャイナ教]]が、[[マッカリ・ゴーサーラ]]によって[[アージーヴィカ教]]が、[[釈迦]](シャカ、ガウタマ・シッダールタ)によって[[初期仏教]]が、それぞれ創始され当時の'''インド四大宗教'''はほぼ同時期にそろって誕生し、「[[六師外道]]」とも呼称された自由思想家たちが活躍した。 |
紀元前5世紀になると、4大ヴェーダが完成し、バラモン教が宗教として完成した。ガンジス川流域で諸国の抗争が続く中で[[バラモン]]が凋落すると、それに代わり[[クシャトリヤ]]や[[ヴァイシャ]]が勢力を伸ばすようになった。こうした変化を背景にウパニシャッド哲学がおこり、その影響下に[[マハーヴィーラ]](ヴァルダマーナ)によって[[ジャイナ教]]が、[[マッカリ・ゴーサーラ]]によって[[アージーヴィカ教]]が、[[釈迦]](シャカ、ガウタマ・シッダールタ)によって[[初期仏教]]が、それぞれ創始され当時の'''インド四大宗教'''はほぼ同時期にそろって誕生し、「[[六師外道]]」とも呼称された自由思想家たちが活躍した。 |
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ウパニシャッドの時代では、単語としての﹁ヨーガ﹂が見出される最も古い書物は、[[紀元前500年]] - [[紀元前400年]]の﹁古[[ウパニシャッド]]初期﹂に成立した﹃[[タイッティリーヤ・ウパニシャッド]]﹄である{{sfn|山下|2009|p=71}}。この書では、ヨーガという語は﹁ヨーガ・アートマー﹂という複合語として記述されているが、そのヨーガの意味は﹁不明﹂であるという{{sfn|山下|2009|p=71}}。[[紀元前350年]] - [[紀元前300年]]頃に成立したのではないかとされる﹁中期ウパニシャッド﹂の﹃[[カタ・ウパニシャッド]]﹄にはヨーガの最古の説明が見い出せる{{sfn|佐保田|1973|p=27}}。
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=== ペルシャとギリシャの征服 === |
=== ペルシャとギリシャの征服 === |
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{{Main|[[アケメネス朝]]|[[:en:Greco-Buddhism|Greco-Buddhism]]|[[アレクサンドロス3世]]|[[ナンダ朝]]|[[:en:Gangaridai|Gangaridai]]|グレコ・バクトリア王国|インド・グリーク朝|マッロイ戦役}} |
{{Main|[[アケメネス朝]]|[[:en:Greco-Buddhism|Greco-Buddhism]]|[[アレクサンドロス3世]]|[[ナンダ朝]]|[[:en:Gangaridai|Gangaridai]]|グレコ・バクトリア王国|インド・グリーク朝|マッロイ戦役}} |
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[[紀元前330年]]頃には、インド北西部に[[マケドニア王国]]の[[アレクサンドロス3世]](大王)が進出していた。 |
[[紀元前330年]]頃には、インド北西部に[[マケドニア王国]]の[[アレクサンドロス3世]]︵大王︶が進出し、ナンダ朝マガダ国︵後述︶に接触していた{{Sfn|山崎&小西|2007|pp=103-104}}。
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== 古代インドの諸王朝 == |
== 古代インドの諸王朝 == |
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[[ファイル:BuddhaHead.JPG|130px|right|thumb|ガンダーラの仏頭([[2世紀]])]] |
[[ファイル:BuddhaHead.JPG|130px|right|thumb|ガンダーラの仏頭([[2世紀]])]] |
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{{Main|クシャーナ朝|ガンダーラ}} |
{{Main|クシャーナ朝|ガンダーラ}} |
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マウリヤ朝の滅亡後、中央アジアの[[大月氏]]から自立したクシャーナ朝が[[1世紀]]後半[[インダス川]]流域に進出し、[[ペシャーワル|プルシャプラ]]︵ペシャーワル︶を都として[[2世紀]]の[[カニシカ王]]︵カニシュカ王︶のもとで最盛期を迎えた。この王朝は、中国とペルシア、ローマをむすぶ[[内陸]]の要地を抑えており、﹁文明の十字路﹂としての役割を果たした。この頃、仏教文化とギリシア美術が結びつき[[ |
マウリヤ朝の滅亡後、中央アジアの[[大月氏]]から自立したクシャーナ朝が[[1世紀]]後半[[インダス川]]流域に進出し、[[ペシャーワル|プルシャプラ]]︵ペシャーワル︶を都として[[2世紀]]の[[カニシカ王]]︵カニシュカ王︶のもとで最盛期を迎えた。この王朝は、中国とペルシア、ローマをむすぶ[[内陸]]の要地を抑えており、﹁文明の十字路﹂としての役割を果たした。この頃、仏教文化とギリシア美術が結びつき[[ガンダーラ美術]]が成立した。クシャーナ朝は、[[3世紀]]に[[サーサーン朝]][[ペルシア]]の[[シャープール1世]]による遠征を受けて衰退し、滅亡へと至った。
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=== サータヴァーハナ朝と古代交易網 === |
=== サータヴァーハナ朝と古代交易網 === |
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仏像彫刻では、上述の[[ガンダーラ]]のほか、[[マトゥラー]]ではインド様式による製作がなされるようになった。 |
仏像彫刻では、上述の[[ガンダーラ]]のほか、[[マトゥラー]]ではインド様式による製作がなされるようになった。 |
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⚫ | 紀元後4-5世紀頃には、『[[ヨーガ・スートラ]]』が編纂された{{sfn|山下|2009|p=105}}<ref>{{Cite book|和書|title=世界宗教百科事典 |publisher=丸善出版 |year=2012}}p.522</ref>。この書の成立を紀元後3世紀以前に遡らせることは、文献学的な証拠から困難であるという{{sfn|山下|2009|p=105}}。『ヨーガ・スートラ』の思想は、[[仏教]]思想からの影響や刺激も大きく受けている{{sfn|佐保田|1973|p=36}}{{sfn|シングルトン|2014|p=279}}。 |
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⚫ | 国内外の[[ヨーガ]]研究者や実践者のなかには、この『ヨーガ・スートラ』をヨーガの「基本教典」であるとするものがあるが、ヨーガの歴史を研究したマーク・シングルトンはこのような理解に注意を促している。『ヨーガ・スートラ』は当時数多くあった修行書のひとつに過ぎないのであって、かならずしもヨーガに関する「唯一」の「聖典」のような種類のものではないからである{{sfn|シングルトン|2014|p=35}}。サーンキヤ・ヨーガの思想を伝えるためのテキストや教典は、同じ時期に多くの支派の師家の手で作られており、そのなかでたまたま今日に伝えられているのが『ヨーガ・スートラ』である{{sfn|佐保田|1973|p=35}}。『ヨーガ・スートラ』は、ヨーロッパ人研究者の知見に影響を受けながら、20世紀になって英語圏のヨーガ実践者たちによって、また、ヴィヴェーカーナンダやH・P・ブラヴァツキーなどの近代ヨーガの推進者たちによって、「基本教典」としての権威を与えられていった{{sfn|シングルトン|2014|p=35}}。 |
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=== 二大叙事詩と『マヌ法典』 === |
=== 二大叙事詩と『マヌ法典』 === |
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また、[[バラモン教]]と民間信仰が結びついた形で、[[ヒンドゥー教]]がこの時代に確立され民衆に広まった。上述した二大叙事詩やヒンドゥー二大法典が広く普及したのもグプタ朝の時代である。 |
また、[[バラモン教]]と民間信仰が結びついた形で、[[ヒンドゥー教]]がこの時代に確立され民衆に広まった。上述した二大叙事詩やヒンドゥー二大法典が広く普及したのもグプタ朝の時代である。 |
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いっぽう、仏教教団も勢力を保ち、[[アジャンター石窟]]寺院や[[エローラ石窟]]寺院などにおいて優れた仏教美術が生み出された。また、5世紀には[[ |
いっぽう、仏教教団も勢力を保ち、[[アジャンター石窟群|アジャンター石窟]]寺院や[[エローラ石窟]]寺院などにおいて優れた仏教美術が生み出された。また、5世紀には[[ナーランダ僧院]]が建てられ、インドはもとより東南アジアや[[チベット]]などの各地から多数の学僧を集めて教典研究が進められた。
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[[医学]]・[[天文学]]・[[数学]]なども発展した。「[[0|ゼロ]]」を発見したのも、古代インド人だといわれている。 |
[[医学]]・[[天文学]]・[[数学]]なども発展した。「[[0|ゼロ]]」を発見したのも、古代インド人だといわれている。 |
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=== 南インドの諸王朝 === |
=== 南インドの諸王朝 === |
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[[ファイル: |
[[ファイル:Mahabalipuram, Pancha Rathas, Tamil Nadu, India.jpg|280px|right|thumb|マハーバリプラムの「石彫寺院」(ラタ)、7世紀]] |
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{{Main|前期チャールキヤ朝|パッラヴァ朝|ラーシュトラクータ朝|チョーラ朝|エローラ石窟群|パッタダカル}} |
{{Main|前期チャールキヤ朝|パッラヴァ朝|ラーシュトラクータ朝|チョーラ朝|エローラ石窟群|パッタダカル}} |
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武勇をほこったハルシャ王も、デカン高原を本拠とする[[チャールキヤ朝]]にだけは敗れ、[[南インド]]進出は阻まれた。6世紀から[[8世紀]]にかけての[[前期チャールキヤ朝]]には、7世紀のプラケーシン2世や8世紀のヴィクラマーディティヤ2世などの君主が現れ、とくにヒンドゥー教建築の隆盛は顕著で、チャールキヤ朝のさらに南にあってそれと対峙した[[タミル人]]王朝[[パッラヴァ朝]]の建築は高水準をほこった。パッラヴァ朝時代の建築としては[[マハーバリプラム|マハーバリプラムの建造物群]]が著名で、その技術はヴィクラマーディティヤ2世によってチャールキヤ朝に伝えられ、首都{{仮リンク|バーダーミ|en|Badami}}や﹁戴冠の都﹂[[パッタダカル]]に数多くの寺院建築を生んだ。
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武勇をほこったハルシャ王も、デカン高原を本拠とする[[チャールキヤ朝]]にだけは敗れ、[[南インド]]進出は阻まれた。6世紀から[[8世紀]]にかけての[[前期チャールキヤ朝]]には、7世紀のプラケーシン2世や8世紀のヴィクラマーディティヤ2世などの君主が現れ、とくにヒンドゥー教建築の隆盛は顕著で、チャールキヤ朝のさらに南にあってそれと対峙した[[タミル人]]王朝[[パッラヴァ朝]]の建築は高水準をほこった。パッラヴァ朝時代の建築としては[[マハーバリプラム|マハーバリプラムの建造物群]]が著名で、その技術はヴィクラマーディティヤ2世によってチャールキヤ朝に伝えられ、首都{{仮リンク|バーダーミ|en|Badami}}や﹁戴冠の都﹂[[パッタダカル]]に数多くの寺院建築を生んだ。
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{{Main|チョーラ朝|パーンディヤ朝}} |
{{Main|チョーラ朝|パーンディヤ朝}} |
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一方で[[南インド]]では、10世紀後半ころから[[タミル]]系のヒンドゥー王国[[チョーラ朝]]がインド洋貿易で繁栄した。11世紀前半には、商業上の覇権をめぐって東南アジアの[[シュリーヴィジャヤ王国]]まで遠征を敢行した。チョーラ朝は12世紀末に再建された[[パーンディヤ朝]]︵後期パーンディヤ朝︶によって13世紀後半に滅ぼされた。
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一方で[[南インド]]では、10世紀後半ころから[[タミル]]系のヒンドゥー王国[[チョーラ朝]]がインド洋貿易で繁栄した。11世紀前半には、商業上の覇権をめぐって東南アジアの[[シュリーヴィジャヤ王国]]まで遠征を敢行した。チョーラ朝は12世紀末に再建された[[パーンディヤ朝]]︵後期パーンディヤ朝︶によって13世紀後半に滅ぼされた。
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⚫ | [[12世紀]]-[[13世紀]]には、[[タントラ]]的な身体観を基礎として、動的な[[ヨーガ]]が出現した。これは[[ハタ・ヨーガ]](力〔ちから〕ヨーガ)と呼ばれている。内容としては印相(ムドラー)や調気法(プラーナーヤーマ)などを重視し、[[超能力]]や三昧を追求する傾向もある。教典としては『[[ハタ・ヨーガ・プラディーピカー]]』、『[[ゲーランダ・サンヒター]]』、『[[シヴァ・サンヒター]]』がある。 |
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⚫ | ヨーガの歴史的研究を行ったマーク・シングルトンによれば、近代インドの傾向において、ハタ・ヨーガは望ましくない、危険なものとして避けられてきたという{{sfn|シングルトン|2014|p=99}}。ヴィヴェーカーナンダやシュリ・オーロビンド、ラマナ・マハルシら近代の聖者である指導者たちは、ラージャ・ヨーガやバクティ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガなどのみを語っていて、高度に精神的な働きや鍛錬のことだけを対象としており、ハタ・ヨーガは危険か浅薄なものとして扱われた{{sfn|シングルトン|2014|p=99}}{{refn|group=†|name="あるがままに1"|例えば、近代インドを代表する聖者である[[ラマナ・マハルシ]]<ref>{{Cite book|和書|author=ポール・ブラントン |translator=日本ヴェーダーンタ協会 |year=2016 |origyear=1982 |title=秘められたインド 改訂版 |publisher=日本ヴェーダーンタ協会 |isbn=978-4-931148-58-1}}{{要ページ番号|date=yyyy年m月}}</ref>は、修練方法としてジュニャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガを勧めている。ラマナは、霊性の向上は「心」そのものを扱うことで解決ができるという基本的前提から、ハタ・ヨーガには否定的であった。また、クンダリニー・ヨーガは、潜在的に危険であり必要もないものであり、クンダリニーがサハスラーラに到達したとしても真我の実現は起こらないと発言している<ref name="あるがままに2">{{Cite book|和書|author=デーヴィッド・ゴッドマン編 |translator=福間巖 |year=2005 |title=あるがままに - ラマナ・マハルシの教え |publisher=ナチュラルスピリット |isbn=4-931449-77-8 |pages=249-267}}</ref>。}}。ヨーロッパの人々は、現在ではラージャ・ヨーガと呼ばれる古典ヨーガやヴェーダーンタなどの思想には東洋の深遠な知の体系として高い評価を与えたが、行法としてのヨーガとヨーガ行者には不審の眼を向けた。それは、17世紀以降インドを訪れた欧州の人々が遭遇した現実のハタ・ヨーガの行者等が、不潔と奇妙なふるまい、悪しき行為、時には暴力的な行為におよんだことなどが要因であるという{{sfn|シングルトン|2014|pp=45-52}}{{refn|group=†|{{harvnb|シングルトン|2014}}によれば、これらの行者のなかには、実際にかなり暴力的な方法で物乞いをする者達もいて、一般の人々から恐れられていたらしい。武装したハタ・ヨーガ行者たちは略奪行為を働くこともあった。略奪行為が統治者から禁止されるようになると、行者らはヨーガを見世物とするようになり、正統的なヒンドゥー教徒たちからは社会の寄生虫として蔑視されていた{{sfn|シングルトン|2014|pp=45-52}}。}}。 |
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=== ヴィジャヤナガル王国 === |
=== ヴィジャヤナガル王国 === |
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=== バクティ信仰とシク教の創始 === |
=== バクティ信仰とシク教の創始 === |
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[[ファイル:Amritsar- |
[[ファイル:Goldener Tempel Amritsar 2022-11-21 4.jpg|280px|right|thumb|アムリトサルの黄金寺院]] |
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{{Main|シク教}} |
{{Main|シク教}} |
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やがて北インドでは都市と商工業が発展し、[[ムスリム商人]]の活発な活動とスーフィー信仰の修行者による布教とがあいまって、イスラーム教がインド各地に広がっていた。イスラームの平等主義的な[[一神教]]の考え方に影響されて、ヒンドゥー教のなかでも15世紀ごろから北インドを中心に[[バクティ]]信仰がひろまった。身分の低い人びとのあいだでイスラームに改宗する人も増えた。やがて、ヒンドゥー教とイスラーム教の違いをこえた普遍的な神の存在を主張する人びとがあらわれ、その流れをくむ[[グル・ナーナク]]によって[[シク教]]が創始された。
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やがて北インドでは都市と商工業が発展し、[[ムスリム商人]]の活発な活動とスーフィー信仰の修行者による布教とがあいまって、イスラーム教がインド各地に広がっていた。イスラームの平等主義的な[[一神教]]の考え方に影響されて、ヒンドゥー教のなかでも15世紀ごろから北インドを中心に[[バクティ]]信仰がひろまった。身分の低い人びとのあいだでイスラームに改宗する人も増えた。やがて、ヒンドゥー教とイスラーム教の違いをこえた普遍的な神の存在を主張する人びとがあらわれ、その流れをくむ[[グル・ナーナク]]によって[[シク教]]が創始された。
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==== チャンドラ・ボースとインド国民軍 ==== |
==== チャンドラ・ボースとインド国民軍 ==== |
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{{Main|スバス・チャンドラ・ボース|インド国民軍}} |
{{Main|スバス・チャンドラ・ボース|インド国民軍}} |
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[[第二次世界大戦]]では、国民会議派から決裂した急進派の[[スバス・チャンドラ・ボース|チャンドラ・ボース]]が日本の援助によって[[インド国民軍]]を結成し、独立をめざす動きも生まれた。インド国民軍は、日本軍が[[1942年]]に[[英領マラヤ]]や[[シンガポール]]を占領した後、捕虜となった[[英印軍]]将兵の中から志願者を募ったのがはじまりであった。[[エリック・ホブズボーム]]は、インドの独立を、ガンジー・ネルーらの国民会議派による独立運動よりも、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍 (INA) が協同して、英国領インドへ進攻した[[インパール作戦]]に依ってもたらされたとしている<ref>河合秀和訳﹃20世紀の歴史――極端な時代︵上・下︶﹄︵三省堂、1996年︶{{要ページ番号|date=yyyy年m月}}</ref>。また、日本に亡命していた[[A.M.ナイル]]や[[ラース・ビハーリー・ボース]]ら独立運動家の存在もあり、 |
[[第二次世界大戦]]では、国民会議派から決裂した急進派の[[スバス・チャンドラ・ボース|チャンドラ・ボース]]が日本の援助によって[[インド国民軍]]を結成し、独立をめざす動きも生まれた。インド国民軍は、日本軍が[[1942年]]に[[英領マラヤ]]や[[シンガポール]]を占領した後、捕虜となった[[英印軍]]将兵の中から志願者を募ったのがはじまりであった。[[エリック・ホブズボーム]]は、インドの独立を、ガンジー・ネルーらの国民会議派による独立運動よりも、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍 (INA) が協同して、英国領インドへ進攻した[[インパール作戦]]に依ってもたらされたとしている<ref>河合秀和訳﹃20世紀の歴史――極端な時代︵上・下︶﹄︵三省堂、1996年︶{{要ページ番号|date=yyyy年m月}}</ref>。また、日本に亡命していた[[A.M.ナイル]]や[[ラース・ビハーリー・ボース]]ら独立運動家の存在もあり、日本軍はインド人を{{誰範囲2|丁重に扱ったという|date=2018年8月}}。
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19世紀後半から20世紀前半に発達した西洋の{{仮リンク|身体鍛錬|en|Physical culture}}運動に由来するさまざまなポーズ︵[[アーサナ]]︶が、インド独自のものとして﹁ハタ・ヨーガ﹂の名によって体系化され、このヨーガ体操が近現代の[[ヨーガ]]のベースとなった。現在、世界中に普及しているヨーガは、この新しい﹁現代のハタ・ヨーガ﹂である。現代ヨーガの立役者のひとりである{{仮リンク|ティルマライ・クリシュナマチャーリヤ|en|Tirumalai Krishnamacharya}}︵1888年 - 1989年︶も、西洋式[[体操]]を取り入れてハタ・ヨーガの技法としてアレンジした<ref name="伊藤">{{Cite journal|和書|author=伊藤雅之 |date=2011-03-30 |title=現代ヨーガの系譜 : スピリチュアリティ文化との融合に着目して |journal=宗教研究 |volume=84(4) |publisher=日本宗教学会 |naid=110008514008 |pages=417-418}}</ref>{{refn|group=†|[[伊藤雅之]]はこれを1920年代から1930年代のこととしているが、{{harvnb|シングルトン|2014}}によれば、少なくともクリシュナマチャーリヤに関して言えば1930年代以降のことである。伊藤論文では西洋式体操から編み出された近代ハタ・ヨーガをひとりクリシュナマチャーリヤのみに帰しているような記述となっているが<ref name="伊藤"/>、シングルトンによれば同時代のスワーミー・クヴァラヤーナンダとシュリー・ヨーゲーンドラも重要であり、クヴァラヤーナンダの活動はクリシュナマチャーリヤに先行している。また、伊藤は近代ハタ・ヨーガにはインド伝統武術に由来する要素もあるとしているが、シングルトンの著書にはそれを示唆する記述はない。}}。
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⚫ | インド伝統のエクササイズ(健康体操)と喧伝されることで、アーサナが中心となったハタ・ヨーガの名前が近現代に復権することになった{{sfn|シングルトン|2014|p=5}}。 |
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⚫ | 2016年、[[ユネスコ]]が推進する[[無形文化遺産]]にインド申請枠で登録された<ref>[http://www.unesco.org/culture/ich/en/RL/yoga-01163 Yoga India Inscribed in 2016 (11.COM) on the Representative List of the Intangible Cultural Heritage of Humanity] Intangible Heritage UNWSCO</ref>。 |
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== 第二次世界大戦後 == |
== 第二次世界大戦後 == |
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=== 印パ戦争と中印国境紛争 === |
=== 印パ戦争と中印国境紛争 === |
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{{Main|印パ戦争|中印国境紛争}} |
{{Main|印パ戦争|中印国境紛争}} |
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[[パキスタン]]との対立はその後も続き、[[カシミール#カシミール |
[[パキスタン]]との対立はその後も続き、[[カシミール#カシミール紛争|カシミール問題]]をめぐって[[第一次印パ戦争]]︵1947年 - 1948年︶と[[第二次印パ戦争]]︵1965年 - 1966年︶が起こり、[[バングラデシュ|東パキスタン]]︵現在のバングラデシュ︶を原因として[[第三次印パ戦争]]︵1971年︶が起こっている。両国の対立は現在も続いており、[[1999年]]にはカシミールのカルギル地区で[[パキスタン軍]]と反インド政府活動家が管理ラインを超えてインド軍駐屯地を占領し、両軍が衝突する{{仮リンク|カルギル戦争|en|Kargil War|label=カルギル紛争}}が起こっている。
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また、中華人民共和国とは国境の解釈をめぐって1959年から1962年まで武力衝突が続いたが、人民解放軍が優位に戦闘を進めた。領土問題では、冷戦が終わった現在でも緊張状態が続いている。
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また、中華人民共和国とは国境の解釈をめぐって1959年から1962年まで武力衝突が続いたが、人民解放軍が優位に戦闘を進めた。領土問題では、冷戦が終わった現在でも緊張状態が続いている。
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1990年代より[[ヒンドゥー至上主義]]の立場をとる[[インド人民党]]が[[アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー]](バジパイ)らの指導のもと勢力を伸ばし、1998年から2004年まで政権を獲得した。 |
1990年代より[[ヒンドゥー至上主義]]の立場をとる[[インド人民党]]が[[アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー]](バジパイ)らの指導のもと勢力を伸ばし、1998年から2004年まで政権を獲得した。 |
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2004年 |
2004年5月から2014年5月までは国民会議派で[[シク教徒]]の[[マンモハン・シン]]、2014年5月以降は[[インド人民党]]の[[ナレンドラ・モディ]]が首相を務めている。 |
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=== BRICsの一角 === |
=== BRICsの一角 === |
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その一方では、広大な国土に対する[[インフラ]]整備が進んでいないことがしばしば指摘される。2006年8月10日、モンスーンによる洪水の被害者は、東部の[[グジャラート]]、南東部の[[アーンドラ・プラデーシュ]]の2州だけで約1300万人に上る惨事となった。 |
その一方では、広大な国土に対する[[インフラ]]整備が進んでいないことがしばしば指摘される。2006年8月10日、モンスーンによる洪水の被害者は、東部の[[グジャラート]]、南東部の[[アーンドラ・プラデーシュ]]の2州だけで約1300万人に上る惨事となった。 |
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[[2019年インド総選挙]]では、[[インド人民党]]が過半数の議席を獲得した<ref>{{Cite web|和書 |
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|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/05/8322791d56f1e7c2.html |title=下院総選挙、モディ政権与党のBJPが圧勝(インド)ビジネス短信―ジェトロの海外ニュース |accessdate=2024-05-10}}</ref>。 |
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== インドにおけるヨーガの歴史 == |
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=== インダス文明 === |
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⚫ | インダス文明が後世のインド文明に与えた影響として、[[沐浴]]の習慣や[[リンガ]]信仰などが挙げられるほか、彼らの神像がシヴァ神の原型でありヨーガの源流になったと考えられてきていた。 |
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⚫ | [[File:Yogi. Mold of Seal, Indus valley civilization.jpg|upright|thumb|200px|紀元前2500-1500年頃の彫像]] |
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⚫ | これは、1921年に[[モヘンジョダロ|モエンジョ・ダーロ]]と[[ハラッパー]]の遺跡を発掘した[[考古学|考古学者]]のジョン・マーシャルらによって、発掘された印章に彫られた図像を、[[坐法]]を行っている[[シヴァ|シヴァ神]]の原型であると解釈したものである{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。そこから宗教学者[[ミルチャ・エリアーデ|エリアーデ]]も、これを「塑造された最初期のヨーガ行者の表象」であるとした{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。 |
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⚫ | 近代に至る[[ヨーガ]]の歴史を研究したマーク・シングルトンは、この印章がのちにヨーガと呼ばれたものであるかは、かなり疑わしいものであったが、古代のヨーガの起源としてたびたび引用されるようになった、と述べている{{sfn|シングルトン|2014|p=33}}。 |
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⚫ | また、インド学者のドリス・スリニヴァサンも、この印章に彫られた像をシヴァ神とすることには無理があり、これをヨーガ行法の源流と解することに否定的であるとしている{{sfn|シングルトン|2014|pp=33-34}}。 |
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⚫ | 近年、このようなヨーガのインダス文明起源説に終止符を打とうとした宗教人類学者のジェフリー・サミュエルは、このような遺物からインダス文明の人々の宗教的実践がどのようなものであったかを知る手がかりはほとんど無いとし、現代に行われているヨーガ実践を見る眼で過去の遺物を見ているのであり、考古学的な遺物のなかに過去の行法実践を読み解くことはできないとしており{{sfn|シングルトン|2014|p=34}}、具体的証拠に全く欠ける研究の難しさを物語っている。 |
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=== 前期ヴェーダ時代 === |
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⚫ | [[紀元前12世紀]]頃に編纂されたリグ・ヴェーダなどのヴェーダの時代には「ヨーガ」やその動詞形の「ユジュ」といった単語がよく登場するが、これは「結合する」「家畜を繋ぐ」といった即物的な意味で、行法としての[[ヨーガ]]を指す用例はない{{sfn|山下|2009|p=69}}。比較宗教学者のマッソン・ウルセルは、「ヴェーダにはヨーガはなく、ヨーガにはヴェーダはない」(狭義のヴェーダの時代)と述べている{{sfn|山下|2009|p=68}}。 |
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=== ウパニシャッドの時代 === |
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ウパニシャッドの時代では、単語としての﹁ヨーガ﹂が見出される最も古い書物は、[[紀元前500年]] - [[紀元前400年]]の﹁古[[ウパニシャッド]]初期﹂に成立した﹃[[タイッティリーヤ・ウパニシャッド]]﹄である{{sfn|山下|2009|p=71}}。この書では、ヨーガという語は﹁ヨーガ・アートマー﹂という複合語として記述されているが、そのヨーガの意味は﹁不明﹂であるという{{sfn|山下|2009|p=71}}。[[紀元前350年]] - [[紀元前300年]]頃に成立したのではないかとされる﹁中期ウパニシャッド﹂の﹃[[カタ・ウパニシャッド]]﹄にはヨーガの最古の説明が見い出せる{{sfn|佐保田|1973|p=27}}。
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⚫ | 紀元後4-5世紀頃には、『[[ヨーガ・スートラ]]』が編纂された{{sfn|山下|2009|p=105}}<ref>{{Cite book|和書|title=世界宗教百科事典 |publisher=丸善出版 |year=2012}}p.522</ref>。この書の成立を紀元後3世紀以前に遡らせることは、文献学的な証拠から困難であるという{{sfn|山下|2009|p=105}}。『ヨーガ・スートラ』の思想は、[[仏教]]思想からの影響や刺激も大きく受けている{{sfn|佐保田|1973|p=36}}{{sfn|シングルトン|2014|p=279}}。 |
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⚫ | 国内外の[[ヨーガ]]研究者や実践者のなかには、この『ヨーガ・スートラ』をヨーガの「基本教典」であるとするものがあるが、ヨーガの歴史を研究したマーク・シングルトンはこのような理解に注意を促している。『ヨーガ・スートラ』は当時数多くあった修行書のひとつに過ぎないのであって、かならずしもヨーガに関する「唯一」の「聖典」のような種類のものではないからである{{sfn|シングルトン|2014|p=35}}。サーンキヤ・ヨーガの思想を伝えるためのテキストや教典は、同じ時期に多くの支派の師家の手で作られており、そのなかでたまたま今日に伝えられているのが『ヨーガ・スートラ』である{{sfn|佐保田|1973|p=35}}。『ヨーガ・スートラ』は、ヨーロッパ人研究者の知見に影響を受けながら、20世紀になって英語圏のヨーガ実践者たちによって、また、ヴィヴェーカーナンダやH・P・ブラヴァツキーなどの近代ヨーガの推進者たちによって、「基本教典」としての権威を与えられていった{{sfn|シングルトン|2014|p=35}}。 |
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⚫ | [[12世紀]]-[[13世紀]]には、[[タントラ]]的な身体観を基礎として、動的な[[ヨーガ]]が出現した。これは[[ハタ・ヨーガ]](力〔ちから〕ヨーガ)と呼ばれている。内容としては印相(ムドラー)や調気法(プラーナーヤーマ)などを重視し、[[超能力]]や三昧を追求する傾向もある。教典としては『[[ハタ・ヨーガ・プラディーピカー]]』、『[[ゲーランダ・サンヒター]]』、『[[シヴァ・サンヒター]]』がある。 |
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ヨーガの歴史的研究を行ったマーク・シングルトンによれば、近代インドの傾向において、ハタ・ヨーガは望ましくない、危険なものとして避けられてきたという{{sfn|シングルトン|2014|p=99}}。ヴィヴェーカーナンダやシュリ・オーロビンド、ラマナ・マハルシら近代の聖者である指導者たちは、ラージャ・ヨーガやバクティ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガなどのみを語っていて、高度に精神的な働きや鍛錬のことだけを対象としており、ハタ・ヨーガは危険か浅薄なものとして扱われた{{sfn|シングルトン|2014|p=99}}{{refn|group=†|name="あるがままに1"|例えば、近代インドを代表する聖者である[[ラマナ・マハルシ]]<ref>{{Cite book|和書|author=ポール・ブラントン |translator=日本ヴェーダーンタ協会 |year=2016 |origyear=1982 |title=秘められたインド 改訂版 |publisher=日本ヴェーダーンタ協会 |isbn=978-4-931148-58-1}}{{要ページ番号|date=yyyy年m月}}</ref> は、修練方法としてジュニャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガを勧めている。ラマナは、霊性の向上は﹁心﹂そのものを扱うことで解決ができるという基本的前提から、ハタ・ヨーガには否定的であった。また、クンダリニー・ヨーガは、潜在的に危険であり必要もないものであり、クンダリニーがサハスラーラに到達したとしても真我の実現は起こらないと発言している<ref name="あるがままに2">{{Cite book|和書|author=デーヴィッド・ゴッドマン編 |translator=福間巖 |year=2005 |title=あるがままに - ラマナ・マハルシの教え |publisher=ナチュラルスピリット |isbn=4-931449-77-8 |pages=249-267}}</ref>。}}。ヨーロッパの人々は、現在ではラージャ・ヨーガと呼ばれる古典ヨーガやヴェーダーンタなどの思想には東洋の深遠な知の体系として高い評価を与えたが、行法としてのヨーガとヨーガ行者には不審の眼を向けた。それは、17世紀以降インドを訪れた欧州の人々が遭遇した現実のハタ・ヨーガの行者等が、不潔と奇妙なふるまい、悪しき行為、時には暴力的な行為におよんだことなどが要因であるという{{sfn|シングルトン|2014|pp=45-52}}{{refn|group=†|{{harvnb|シングルトン|2014}}によれば、これらの行者のなかには、実際にかなり暴力的な方法で物乞いをする者達もいて、一般の人々から恐れられていたらしい。武装したハタ・ヨーガ行者たちは略奪行為を働くこともあった。略奪行為が統治者から禁止されるようになると、行者らはヨーガを見世物とするようになり、正統的なヒンドゥー教徒たちからは社会の寄生虫として蔑視されていた{{sfn|シングルトン|2014|pp=45-52}}。}}。
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19世紀後半から20世紀前半に発達した西洋の{{仮リンク|身体鍛錬|en|Physical culture}}運動に由来するさまざまなポーズ︵[[アーサナ]]︶が、インド独自のものとして﹁ハタ・ヨーガ﹂の名によって体系化され、このヨーガ体操が近現代の[[ヨーガ]]のベースとなった。現在、世界中に普及しているヨーガは、この新しい﹁現代のハタ・ヨーガ﹂である。現代ヨーガの立役者のひとりである{{仮リンク|ティルマライ・クリシュナマチャーリヤ|en|Tirumalai Krishnamacharya}}︵1888年 - 1989年︶も、西洋式[[体操]]を取り入れてハタ・ヨーガの技法としてアレンジした<ref name="伊藤">{{Cite journal|和書|author=伊藤雅之 |date=2011-03-30 |title=現代ヨーガの系譜 : スピリチュアリティ文化との融合に着目して |journal=宗教研究 |volume=84(4) |publisher=日本宗教学会 |naid=110008514008 |pages=417-418}}</ref>{{refn|group=†|[[伊藤雅之]]はこれを1920年代から1930年代のこととしているが、{{harvnb|シングルトン|2014}}によれば、少なくともクリシュナマチャーリヤに関して言えば1930年代以降のことである。伊藤論文では西洋式体操から編み出された近代ハタ・ヨーガをひとりクリシュナマチャーリヤのみに帰しているような記述となっているが<ref name="伊藤"/>、シングルトンによれば同時代のスワーミー・クヴァラヤーナンダとシュリー・ヨーゲーンドラも重要であり、クヴァラヤーナンダの活動はクリシュナマチャーリヤに先行している。また、伊藤は近代ハタ・ヨーガにはインド伝統武術に由来する要素もあるとしているが、シングルトンの著書にはそれを示唆する記述はない。}}。
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⚫ | インド伝統のエクササイズ(健康体操)と喧伝されることで、アーサナが中心となったハタ・ヨーガの名前が近現代に復権することになった{{sfn|シングルトン|2014|p=5}}。 |
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⚫ | 2016年、[[ユネスコ]]が推進する[[無形文化遺産]]にインド申請枠で登録された<ref>[http://www.unesco.org/culture/ich/en/RL/yoga-01163 Yoga India Inscribed in 2016 (11.COM) on the Representative List of the Intangible Cultural Heritage of Humanity] Intangible Heritage UNWSCO</ref>。 |
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== インドの歴史の史料 == |
== インドの歴史の史料 == |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|ref={{Harvid|佐保田|1973}} |author= |
*{{Cite book|和書|ref={{Harvid|佐保田|1973}} |author=佐保田鶴治|authorlink=佐保田鶴治 |title=ヨーガ根本教典 |publisher=平河出版社 |year=1973 |isbn=4-89203-019-8}} |
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*{{Cite book|和書|ref={{Harvid|シングルトン|2014}} |author=マーク・シングルトン |others=喜多千草訳 |title=ヨガ・ボディ - ポーズ練習の起源 |publisher=大隅書店 |year=2014 |isbn=978-4-905328-06-3}} |
*{{Cite book|和書|ref={{Harvid|シングルトン|2014}} |author=マーク・シングルトン |others=喜多千草訳 |title=ヨガ・ボディ - ポーズ練習の起源 |publisher=大隅書店 |year=2014 |isbn=978-4-905328-06-3}} |
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*{{Cite book|和書|ref={{Harvid|山下|2009}} |author=山下博司 |title=ヨーガの思想 |publisher=講談社 |series=[[講談社選書メチエ]] |year=2009 |isbn=978-4-06-258432-6}} |
*{{Cite book|和書|ref={{Harvid|山下|2009}} |author=山下博司 |title=ヨーガの思想 |publisher=講談社 |series=[[講談社選書メチエ]] |year=2009 |isbn=978-4-06-258432-6}} |
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*{{Cite book|和書|ref={{Harvid|伊藤|2011}} |author=伊藤武 |title=図説 ヨーガ大全 |publisher=[[佼成出版社]] |year=2011 |isbn=978-4-333-02471-1}} |
*{{Cite book|和書|ref={{Harvid|伊藤|2011}} |author=伊藤武 |title=図説 ヨーガ大全 |publisher=[[佼成出版社]] |year=2011 |isbn=978-4-333-02471-1}} |
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*{{Cite book|和書|ref={{Harvid|川崎|1993}} |author= |
*{{Cite book|和書|ref={{Harvid|川崎|1993}} |author=川崎信定|authorlink=川崎信定 |title=インドの思想 |publisher=[[放送大学教育振興会]] |year=1993 |isbn=4-595-21344-1}} |
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{{参照方法|date=2021年4月|section=1}} |
{{参照方法|date=2021年4月|section=1}} |
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380行目: | 388行目: | ||
* 近藤治『インドの歴史 多様の統一世界』[[講談社現代新書]]、1977年1月、ISBN 4061158562 |
* 近藤治『インドの歴史 多様の統一世界』[[講談社現代新書]]、1977年1月、ISBN 4061158562 |
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* R.S.シャルマ『古代インドの歴史』山崎利男・[[山崎元一]]訳、[[山川出版社]]、1985年8月、ISBN 4634650908 |
* R.S.シャルマ『古代インドの歴史』山崎利男・[[山崎元一]]訳、[[山川出版社]]、1985年8月、ISBN 4634650908 |
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* {{Cite book|和書 |title=世界歴史大系 南アジア史1 ─先史・古代─ |date=2007-06-10 |year=2007 |publisher=[[山川出版社]] |volume=1 |isbn=978-4634462083 |editor=[[山崎元一]]・[[小西正捷]] |ref={{SfnRef|山崎&小西|2007}}}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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[[Category:インドの歴史|*]] |
[[Category:インドの歴史|*]] |
2024年5月17日 (金) 04:24時点における最新版
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9a/Mohenjodaro_Sindh.jpeg/330px-Mohenjodaro_Sindh.jpeg)
インドの歴史(インドのれきし、History of India)では、インダス文明以来のインドの歴史について略述する。
インダス・ガンジス文明[編集]
インダス文明[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0c/IVC_Map.png/200px-IVC_Map.png)
前期ヴェーダ時代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1d/KhyberPassPakistan.jpg/200px-KhyberPassPakistan.jpg)
後期ヴェーダ時代とガンジス文明[編集]
十六大国[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Ancient_india.png/280px-Ancient_india.png)
ウパニシャッド哲学と新宗教[編集]
ペルシャとギリシャの征服[編集]
紀元前330年頃には、インド北西部にマケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)が進出し、ナンダ朝マガダ国(後述)に接触していた[12]。
古代インドの諸王朝[編集]
マウリヤ朝マガダ国のインド統一[編集]
クシャーナ朝[編集]
サータヴァーハナ朝と古代交易網[編集]
大乗仏教のおこり[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/00/Nagarjuna.jpg/150px-Nagarjuna.jpg)
二大叙事詩と『マヌ法典』[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/81/Kurukshetra.jpg/280px-Kurukshetra.jpg)
インド古典文化の完成[編集]
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グプタ朝の成立とヒンドゥー教の確立[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/ce/Ajantamural.jpg/170px-Ajantamural.jpg)
ヴァルダナ朝とラージプート時代の到来[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Nalanda_University_India_ruins.jpg/280px-Nalanda_University_India_ruins.jpg)
南インドの諸王朝[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/35/Mahabalipuram%2C_Pancha_Rathas%2C_Tamil_Nadu%2C_India.jpg/280px-Mahabalipuram%2C_Pancha_Rathas%2C_Tamil_Nadu%2C_India.jpg)
北インドのイスラーム化と南インド[編集]
ガズナ朝・ゴール朝の侵入[編集]
デリー・スルターン朝[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/dc/Qutab.jpg/280px-Qutab.jpg)
南インドのヒンドゥー諸王国[編集]
ヴィジャヤナガル王国[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bd/Karnataka_Hampi_IMG_0730.jpg/280px-Karnataka_Hampi_IMG_0730.jpg)
デカンの諸王国[編集]
北インドのイスラーム支配は14世紀にはデカン高原にもおよび、1347年トゥグルク朝の臣下であった地方長官が自立し、バフマニー朝を建国して、ムスリム政権を成立させた。 その後、バフマニー朝は2世紀近く存続したのち1527年に滅び、その領土にはベラール王国︵イマード・シャーヒー朝︶、ビーダル王国︵バリード・シャーヒー朝︶、アフマドナガル王国︵ニザーム・シャーヒー朝︶、ビジャープル王国︵アーディル・シャーヒー朝︶、ゴールコンダ王国︵クトゥブ・シャーヒー朝︶の5つの王国が割拠する形となり、これらはデカン・スルターン朝と呼ばれる。 デカン・スルターン朝は当初互いに他国と領土を争い、南のヴィジャヤナガル王国もこれらに関与したが、やがて5王国は同盟を結んで、1565年ターリコータの戦いで連合軍はヴィジャヤナガル王国の軍を破った。 しかし、その後は再び争うようになり、ベラール王国、ビーダル王国は他国に滅ぼされ、アフマドナガル王国、ビジャープル王国、ゴールコンダ王国はムガル帝国に滅ぼされた。バクティ信仰とシク教の創始[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/73/Goldener_Tempel_Amritsar_2022-11-21_4.jpg/280px-Goldener_Tempel_Amritsar_2022-11-21_4.jpg)
ポルトガルとスペイン[編集]
1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがカリカット︵コーリコード︶へ来訪したことを契機に、ポルトガル海上帝国も沿岸部に拠点を築いた。ゴアは1510年以降、インドにおけるポルトガルの拠点として東洋におけるキリスト教布教の中心となった。 しかし、1580年スペイン王フェリペ2世によりポルトガルはスペインに併合され、その海上の覇権と領土はスペインに継承された。ムガル帝国[編集]
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c8/Taj_Mahal_in_March_2004.jpg/280px-Taj_Mahal_in_March_2004.jpg)
1526年から1858年までの332年間は、バーブル以来の王朝が統治するムガル帝国の時代であった。
ムガル帝国の成立と隆盛[編集]
ムガル帝国の衰退[編集]
英蘭の南インド進出[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4f/Fort_St._George%2C_Chennai.jpg/280px-Fort_St._George%2C_Chennai.jpg)
英仏の進出と植民地抗争[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4f/Clive.jpg/200px-Clive.jpg)
イギリスによる蚕食とインドの貧困化[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/09/Tipu_Sultan_BL.jpg/170px-Tipu_Sultan_BL.jpg)
イギリス植民地時代[編集]
1858年から1947年まで、イギリスによる植民地化からインド・パキスタン分離独立までの89年間は、イギリス人総督を機軸とするイギリス領インド帝国の時代である。
インド大反乱と英領インド帝国の成立[編集]
インド国民会議派の成立[編集]
国民会議派の急進化と全インド・ムスリム連盟[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7b/Aqa_Khan_in_Chicago.jpg/170px-Aqa_Khan_in_Chicago.jpg)
2度の世界大戦とインド[編集]
ローラット法とアムリットサル事件[編集]
ガンディーの登場[編集]
プールナ・スワラージと塩の行進[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7c/Marche_sel.jpg/250px-Marche_sel.jpg)
チャンドラ・ボースとインド国民軍[編集]
第二次世界大戦後[編集]
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分離独立と戦後インド憲法の制定[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e1/Nehru1920.jpg/130px-Nehru1920.jpg)
非同盟主義[編集]
印パ戦争と中印国境紛争[編集]
核大国化[編集]
中ソ対立によって中華人民共和国が核武装すると、国境紛争を抱える戦後インドも、1974年に地下核実験を行って核保有を宣言、世界で6番目の核保有国となった。 2006年7月9日、核弾頭搭載可能な中距離弾道ミサイル﹁アグニ3﹂︵射程3,500キロメートル︶の初の発射実験を行った。当局は当初、発射は成功したとしたが、その後上空でミサイル下部の切り離しが出来ず、目標落下地点には到達しなかったと発表した。国内政局の変換[編集]
BRICsの一角[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bb/Bombay_Stock_Exchange_18_August%2C_2006.jpg/150px-Bombay_Stock_Exchange_18_August%2C_2006.jpg)
インドにおけるヨーガの歴史[編集]
インダス文明[編集]
インダス文明が後世のインド文明に与えた影響として、沐浴の習慣やリンガ信仰などが挙げられるほか、彼らの神像がシヴァ神の原型でありヨーガの源流になったと考えられてきていた。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0f/Yogi._Mold_of_Seal%2C_Indus_valley_civilization.jpg/200px-Yogi._Mold_of_Seal%2C_Indus_valley_civilization.jpg)
前期ヴェーダ時代[編集]
紀元前12世紀頃に編纂されたリグ・ヴェーダなどのヴェーダの時代には﹁ヨーガ﹂やその動詞形の﹁ユジュ﹂といった単語がよく登場するが、これは﹁結合する﹂﹁家畜を繋ぐ﹂といった即物的な意味で、行法としてのヨーガを指す用例はない[20]。比較宗教学者のマッソン・ウルセルは、﹁ヴェーダにはヨーガはなく、ヨーガにはヴェーダはない﹂︵狭義のヴェーダの時代︶と述べている[21]。ウパニシャッドの時代[編集]
ウパニシャッドの時代では、単語としての﹁ヨーガ﹂が見出される最も古い書物は、紀元前500年 - 紀元前400年の﹁古ウパニシャッド初期﹂に成立した﹃タイッティリーヤ・ウパニシャッド﹄である[22]。この書では、ヨーガという語は﹁ヨーガ・アートマー﹂という複合語として記述されているが、そのヨーガの意味は﹁不明﹂であるという[22]。紀元前350年 - 紀元前300年頃に成立したのではないかとされる﹁中期ウパニシャッド﹂の﹃カタ・ウパニシャッド﹄にはヨーガの最古の説明が見い出せる[23]。古典ヨーガ[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/47/Patanjali.jpg/180px-Patanjali.jpg)
後期ヨーガ[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0c/Swami_Vivekananda_1896.jpg/180px-Swami_Vivekananda_1896.jpg)
近現代のヨーガ[編集]
インドの歴史の史料[編集]
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脚注[編集]
補注[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
●佐保田鶴治﹃ヨーガ根本教典﹄平河出版社、1973年。ISBN 4-89203-019-8。 ●マーク・シングルトン﹃ヨガ・ボディ - ポーズ練習の起源﹄喜多千草訳、大隅書店、2014年。ISBN 978-4-905328-06-3。 ●山下博司﹃ヨーガの思想﹄講談社︿講談社選書メチエ﹀、2009年。ISBN 978-4-06-258432-6。 ●伊藤武﹃図説 ヨーガ大全﹄佼成出版社、2011年。ISBN 978-4-333-02471-1。 ●川崎信定﹃インドの思想﹄放送大学教育振興会、1993年。ISBN 4-595-21344-1。![]() |