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「島崎藤村」の版間の差分

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'''島崎 藤村'''(しまざき とうそん、[[1872年]][[3月25日]]([[明治]]5年[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]) - [[1943年]]([[昭和]]18年)[[8月22日]])は、[[日本]]における[[詩人]]又は[[小説家]]である。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。[[信濃国|信州]][[木曽地域|木曾]]の[[中山道]][[馬籠宿|馬籠]]<ref name="magome">2005年2月12日までは、長野県[[木曽郡]][[山口村 (長野県)|山口村]]神坂。[[越境合併]]により、岐阜県[[中津川市]]馬籠となった。<!--報じられたニュースと趣旨が少し異なっているようなのでコメント化。http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20050212i305.htm-->所属県が[[長野県]]から岐阜県に変更される事で、藤村の出身県を従来どおり長野県とするか、新たに岐阜県とするか、もしくは新旧両方併記するか、関係者の間で混乱が生じている。しかし藤村本人は、「[[信濃国|信州]]人」意識を強く持っている。</ref>(現在の[[岐阜県]][[中津川市]]馬籠)生まれ。


''' ''' [[1872]][[325]][[]]5[[217 ()|217]] - [[1943]][[]]18[[822]][[]][[]][[]]  [[|]][[|]][[]][[宿|]]<ref group="" name="magome">2005212[[]][[ ()|]][[]][[]]<!--http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20050212i305.htm-->[[]][[|]]</ref>[[]][[]]



[[ ()|]][[]][[]][[]][[ ()|]][[ ()|]][[|]][[]]<ref>{{Cite book | |title= |author=|authorlink= |editor= |date=1992-03 |publisher=[[]] |series= 21 |isbn=978-4820591504 }}</ref>[[ ()|]][[|]][[ ()|]][[]][[]][[]]

[[ ()|]][[]][[]][[]][[ ()|]][[ ()|]][[|]][[]]<ref>{{Cite book | |title= |author=|authorlink= |editor= |date=1992-03 |publisher=[[]] |series= 21 |isbn=978-4820591504 }}</ref>[[ ()|]][[|]][[ ()|]][[]][[]][[]]
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=== 主な生い立ち ===

=== 主な生い立ち ===

* [[1872年]][[3月25日]]([[明治]]5年[[2月17日 (旧暦)|2月17日]])、[[筑摩県]]第八大区五小区馬籠村<ref name=magome/>([[長野県]]を経て現在の[[岐阜県]][[中津川市]]馬籠)に父・正樹、母・縫の四男として生まれた。

* [[1872年]][[3月25日]]([[明治]]5年[[2月17日 (旧暦)|2月17日]])、[[筑摩県]]第八大区五小区馬籠村<ref group="注" name=magome/>([[長野県]]を経て現在の[[岐阜県]][[中津川市]]馬籠)に父・正樹、母・縫の四男として生まれた。

* [[1878年]](明治11年)神坂学校に入り、父から『[[孝経]]』や『[[論語]]』を学ぶ。

* [[1878年]](明治11年)神坂学校に入り、父から『[[孝経]]』や『[[論語]]』を学ぶ。

* [[1881年]](明治14年) 上京。[[中央区立泰明小学校|泰明小学校]]に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父・[[武居用拙]]に『[[詩経]]』などを学んだ。さらに[[三田英学校]](旧・[[慶應義塾]]分校、現・[[錦城学園高等学校]]の前身)、共立学校(現・[[開成中学校・高等学校|開成高校]]の前身)など当時の進学予備校で学び、明治学院本科([[明治学院大学]]の前身)入学。在学中は[[馬場孤蝶]]、[[戸川秋骨]]、[[北村季晴]]、[[中島久万吉]]らと交友を結び、また共立学校時代の恩師の影響もあり[[キリスト教]]の[[洗礼]]を受ける。学生時代は西洋文学を読みふけり、また[[松尾芭蕉]]や[[西行]]などの日本古典文学も読み漁った。明治学院本科の第一期卒業生で、[[校歌]]も作詞している。

* [[1881年]](明治14年) 上京。[[中央区立泰明小学校|泰明小学校]]に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父・[[武居用拙]]に『[[詩経]]』などを学んだ。さらに[[三田英学校]](旧・[[慶應義塾]]分校、現・[[錦城学園高等学校]]の前身)、共立学校(現・[[開成中学校・高等学校|開成高校]]の前身)など当時の進学予備校で学び、明治学院本科([[明治学院大学]]の前身)入学。在学中は[[馬場孤蝶]]、[[戸川秋骨]]、[[北村季晴]]、[[中島久万吉]]らと交友を結び、また共立学校時代の恩師の影響もあり[[キリスト教]]の[[洗礼]]を受ける。学生時代は西洋文学を読みふけり、また[[松尾芭蕉]]や[[西行]]などの日本古典文学も読み漁った。明治学院本科の第一期卒業生で、[[校歌]]も作詞している。

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[[1896]]29[[98]][[]][[]][[]]1<ref name="Fuji">   19981123 ISBN 4-938965-11-9 pp.18-20pp.263-264</ref>[[1025]][[ ()|]][[]][[]][[#沿|]][[]]<ref name="Fuji"/><ref></ref>[[|]][[]][[]]4

[[1896]]29[[98]][[]][[]][[]]1<ref name="Fuji">   19981123 ISBN 4-938965-11-9 pp.18-20pp.263-264</ref>[[1025]][[ ()|]][[]][[]][[#沿|]][[]]<ref name="Fuji"/><ref></ref>[[|]][[]][[]]4


藤村の詩のいくつかは、歌としても親しまれている。『[[落梅集]]』におさめられている一節「[[椰子の実]]」は、[[柳田國男]]から伊良湖の海岸(愛知県)に椰子の実が流れ着いているのを見たというエピソードを貰ったもので、1936年(昭和11年)に国民歌謡の一つとして、[[山田耕筰]]門下の[[大中寅二]]が作曲し、現在に至るまで愛唱されている。同じく落梅集におさめられている「海辺の曲」は[[シューベルト]]の歌曲「[[白鳥の歌]]」第12曲に作詞したものであり、あわせて楽譜<ref>旋律(変ロ長調)に歌詞が付されたもので、原曲の[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]の詩の和訳ではなく藤村のオリジナル。ただし[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/876494/1 初版]では楽譜に誤植(3段目の楽譜がひっくり返っている)があるため注意。</ref>が収録されている。また、同年に発表された国民歌謡「朝」(作曲:[[小田進吾]])、1925年(大正14年)に[[弘田龍太郎]]によって作曲された歌曲『[[千曲川旅情の歌]]』も同じ詩集からのものである。

藤村の詩のいくつかは、歌としても親しまれている。『[[落梅集]]』におさめられている一節「[[椰子の実]]」は、[[柳田國男]]から伊良湖の海岸(愛知県)に椰子の実が流れ着いているのを見たというエピソードを貰ったもので、1936年(昭和11年)に国民歌謡の一つとして、[[山田耕筰]]門下の[[大中寅二]]が作曲し、現在に至るまで愛唱されている。同じく落梅集におさめられている「海辺の曲」は[[シューベルト]]の歌曲「[[白鳥の歌]]」第12曲に作詞したものであり、あわせて楽譜<ref group="注">旋律(変ロ長調)に歌詞が付されたもので、原曲の[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]の詩の和訳ではなく藤村のオリジナル。ただし[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/876494/1 初版]では楽譜に誤植(3段目の楽譜がひっくり返っている)があるため注意。</ref>が収録されている。また、同年に発表された国民歌謡「朝」(作曲:[[小田進吾]])、1925年(大正14年)に[[弘田龍太郎]]によって作曲された歌曲『[[千曲川旅情の歌]]』も同じ詩集からのものである。



=== 小諸時代から小説へ ===

=== 小諸時代から小説へ ===

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== 年譜 ==

== 年譜 ==

* [[1872年]][[3月25日]]([[明治]]5年[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]) - 筑摩県の馬籠村<ref name=magome/>に生まれる。

* [[1872年]][[3月25日]]([[明治]]5年[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]) - 筑摩県の馬籠村<ref group="注" name=magome/>に生まれる。

* [[1878年]](明治11年) - 神坂小学校に入学。

* [[1878年]](明治11年) - 神坂小学校に入学。

* [[1881年]](明治14年) - 兄とともに上京。[[中央区立泰明小学校|泰明小学校]]に通う。

* [[1881年]](明治14年) - 兄とともに上京。[[中央区立泰明小学校|泰明小学校]]に通う。

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* [[1936年]](昭和11年) - 第14回[[国際ペンクラブ]][[ブエノスアイレス]]大会出席のため、静子夫人と副会長[[有島生馬]]を伴い外遊<ref name=penclub/>。帰途に欧州に立ち寄る。

* [[1936年]](昭和11年) - 第14回[[国際ペンクラブ]][[ブエノスアイレス]]大会出席のため、静子夫人と副会長[[有島生馬]]を伴い外遊<ref name=penclub/>。帰途に欧州に立ち寄る。

* [[1937年]](昭和12年) - 東京市[[麹町区]]下六番町に転居

* [[1937年]](昭和12年) - 東京市[[麹町区]]下六番町に転居

* [[1941年]](昭和16年)2月 [[神奈川県]][[中郡]][[大磯町]]へ、戦争中の帝都を避けて先に移転していた「弟子」の天明愛吉の近所に住む形で<ref>転居の理由は大磯の[[左義長]]を気に入ったとか諸説あったが、参照:黒川鍾信著『高等遊民 天明愛吉 (藤村を師と仰ぎ 御舟を友として)』(筑摩書房、2004年)および[https://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_445/yurin4.html 黒川鍾信:島崎藤村はなぜ大磯に終の棲家を求めたのか(有隣堂)]</ref>、転居。

* [[1941年]](昭和16年)2月 [[神奈川県]][[中郡]][[大磯町]]へ、戦争中の帝都を避けて先に移転していた「弟子」の天明愛吉の近所に住む形で<ref group="注">転居の理由は大磯の[[左義長]]を気に入ったとか諸説あったが、参照:黒川鍾信著『高等遊民 天明愛吉 (藤村を師と仰ぎ 御舟を友として)』(筑摩書房、2004年)および[https://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_445/yurin4.html 黒川鍾信:島崎藤村はなぜ大磯に終の棲家を求めたのか(有隣堂)]</ref>、転居。

* [[1943年]](昭和18年)[[8月22日]] - 大磯町の自宅にて死去、満71歳。[[戒名]]は文樹院静屋藤村居士。大磯町の[[地福寺 (神奈川県大磯町)|地福寺]]に埋葬された他、島崎家の[[菩提寺]]である馬籠村(現・岐阜県中津川市)の永昌寺に分骨された。

* [[1943年]](昭和18年)[[8月22日]] - 大磯町の自宅にて死去、満71歳。[[戒名]]は文樹院静屋藤村居士。大磯町の[[地福寺 (神奈川県大磯町)|地福寺]]に埋葬された他、島崎家の[[菩提寺]]である馬籠村(現・岐阜県中津川市)の永昌寺に分骨された。



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== 脚注 ==

== 脚注 ==

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=== 注釈 ===

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=== 出典 ===

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2023年2月13日 (月) 16:54時点における版

島崎しまざき 藤村とうそん
誕生 島崎 春樹(しまざき はるき)
1872年3月25日
日本の旗 日本筑摩県第八大区五小区馬籠村
(現・岐阜県中津川市馬籠)
死没 (1943-08-22) 1943年8月22日(71歳没)
日本の旗 日本神奈川県大磯町
職業 詩人
小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 明治学院本科
活動期間 1897年 - 1943年
ジャンル
小説
文学活動 ロマン主義
自然主義文学
代表作若菜集』(1897年、詩集)
破戒』(1906年)
』(1908年)
』(1911年)
千曲川のスケッチ』(1912年)
桜の実の熟する時』(1919年)
新生』(1919年)
夜明け前』(1929年 - 1935年)
主な受賞歴 朝日文化賞(1936年)
親族 上田理仁(玄孫・子役)[1]
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

  18723255217 - 194318822  [ 1]

[2]

生涯

家系


宿17


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187811

188114 宿西西

188619 
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1907406

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19132537宿西西宿

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(二)

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1861? - 1928 - 宿151913 - 2001宿16

1868? - 1911 - [15]綿

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192012

19241

19245


19521958[17]

1963

フィクションにおける島崎藤村

脚注

注釈



(一)^ abc2005212

(二)^ 調3

(三)^   ( )(2004)

出典



(一)^ Andmo   [@Andmo_info] (2022414). "2# #  # 4/15()5🌺  #Andmo # # # # # # # # #okinawa @asadora_nhk". XTwitter202256 

(二)^  ︿2119923ISBN 978-4820591504 

(三)^  29.  (3). paperzz.com. 202182  / 1871811895813

(四)^ ab   19981123 ISBN 4-938965-11-9 pp.18-20pp.263-264

(五)^ 

(六)^  (2017722).  27. . https://digital.hakoshin.jp/life/culture/23325 20171014 

(七)^  .   (2013829). 2017728

(八)^   20. 2017728

(九)^ 4. 20171005

(十)^    1 . . (1984) 

(11)^ . ]36 p.1-18, 200302 , doi:10.15068/00139745

(12)^   

(13)^ ab 

(14)^   

(15)^ ab西1966

(16)^   2018106

(17)^ 4

(18)^ 

参考文献

関連項目

外部リンク