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'''西方藩'''(にしかたはん)は、[[下野国]]、現在の[[栃木県]][[栃木市]][[西方町本城]]に存在した[[藩]]。 |
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2021年8月23日 (月) 14:23時点における版
西方藩︵にしかたはん︶は、下野国、現在の栃木県栃木市西方町本城に存在した藩。
藩史
藩祖は藤田信吉である。信吉は畠山重忠の子孫と言われ、北条家や武田勝頼の家臣として仕えた。武田家が織田信長によって滅ぼされると、越後の上杉景勝の家臣となった。信吉は慶長5年︵1600年︶の関ヶ原の戦い直前に東軍につくことを主張し孤立すると上杉家から出奔した。そして徳川家臣として、戦後に下野西方1万5000石を与えられ、西方藩が立藩した。 西方には元々は宇都宮泰宗の子とされる西方景泰を祖とする西方氏がいて西方城を居城としていた[1]が、豊臣秀吉の小田原征伐後に西方領は没収されて結城秀康に与えられて西方綱吉は宇都宮氏の家臣として赤坂︵現在の市貝町︶へ移封することで家名を保てたとされているため[2]、藤田信吉は結城氏の越前国移封後に入ったことになる。なお、信吉は西方城の南東に新たに﹁二条城﹂と呼ばれる城を築いて居城にしたと伝えられている[1]。 慶長7年︵1602年︶、佐竹義宣が常陸水戸から出羽久保田藩へ減移封されたとき、水戸城の接収を担当していた。大坂の陣にも従軍したが、慶長20年︵1615年︶の夏の陣後に、榊原康勝軍の軍監を務めていたときの失態、戦功に対する不満からの失言など諸々の理由を挙げられて改易され、西方藩は廃藩となった。歴代藩主
藤田家 外様。1万5000石脚注
- ^ a b 『日本歴史地名大系 9 栃木県の地名』(平凡社、1988年) ISBN 978-4-582-91028-5 P466.「西方城跡」
- ^ 江田郁夫「戦国期の境界領域支配」江田郁夫 編著『中世宇都宮氏 一族の展開と信仰・文芸』<戎光祥中世史論集 第9巻>戎光祥出版、2020年1月 ISBN 978-4-86403-334-3 P129.