尾道

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地図地図

北西側からの眺望
映像外部リンク
しまなみ海道 - 空から日本を見てみよう



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貿貿西宿西2西[3]

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地理[編集]


[3]10m200m[5]/136m西/116m/178m西[6]

2010年国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

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2010年国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

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西-[8][8][9][6][10]-5m30m[11]沿1m[12]

[8][6][13][2]西[13][2]

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              [14]
「玉の岩」と千光寺山ロープウェイ
映像外部リンク
千光寺の「玉の岩」伝説

西沿沿[15][16][16][15]

1081西[17]

[18][19]

沿[]

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[17][20][21][20]

調[22]調調[20]調[20]81西[23]


浄土寺創建の伝承から、尾道には616年より前に港があったと考えられている[21]。 また御袖天満宮は、延喜元年(901年)大宰府へ左遷される途中の菅原道真がこの地に舟で立ち寄ったという伝承を元に起こった神社である[16][28][25]

港町の成立[編集]


[31]西108121082[32]西西[17]1108西[32]

[17][33][25][16][17]211661169[17][33][25][31][17][33][34][2]

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834 - 84836[41][42][43]
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[47][40][47]729749[48][40][40][49][34]

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41371[31][33]沿[33][31][33][51]調沿[17]

宿[52]213956西[25][33]

貿[33]調[17][40][47]

西[31][53][33]6[17]
[54]1516[39][55]

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近世の栄華[編集]


[47][47][64]41595[62][47][65][66]貿[67][25]

[62][68][34]



[25][69]61601[69][69]151638[25][69]

51260[62][47]51715[62][34][47]

官道整備

近世の街道[70]を2015年時点の地図に示したもの。赤線が西国街道、青線が出雲街道、黒丸が防地峠。なお西国街道は尾道本通り、出雲街道のほとんどが広島県道363号栗原長江線と一致する。西国街道筋の常称寺南の現久保2丁目と現尾道郵便局前に枡形が残っている[63]
出雲街道の碑。「出雲大社道」「本道三十七里」「近道三十三里」
長江の道標。「左 いづも往来」「右 天満宮道」[71]

西沿[72][69]沿[72]51619[73]101633宿[25][39]

1610[73][74][25][74][73][75][39][34][73]

西廻海運による交易

周辺の主な港[76]。赤が広島藩の港。
尾道の位置(日本内)
尾道

尾道

尾道
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尾道
尾道
尾道
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尾道
尾道
尾道
西廻海運の主な寄港地[67][76]

貿[67]

121671西[34][68][72][67][51]


他から尾道へ 尾道から他へ
  • 米 -- 広島藩の年貢米の積出港であった。広島藩ものは質量共に良く、大阪でブランド米として流通した[10][78]
  • -- “備後塩”と呼ばれた主力交易品。備後ものは元々中世から畿内で需要が高かったことに加えて、近世から北海道や北陸で特産品となった塩干魚の加工に必要となったため、更に需要が高まった。江戸時代初期、広島藩により竹原竹原市)で塩田が整備されたが廻船での交易で需要量が増えていくと更に商人たちによって尾道周辺の島々で塩田が整備され、“浜旦那”と呼ばれた塩田の地主・経営者が誕生している[67][68][72][79][51][13]
  • -- “備後表”。福山藩・広島藩ともに公用表(幕府への献上表など)として生産しており、民間流通分である商用表は広島藩では尾道のみで出荷されていた。なお畳表・塩・魚介・他国米の取引などは、福山藩の主要港である鞆と競合関係にあった[35][67][68][72][13][71]
  • 綿、綿製品 -- 広島藩は新田開発とともに殖産興業を推進した。干拓で造成された土地には塩に強い綿花を植えることが奨励されたことにより、綿製品の生産量が上がり特産品“安芸木綿”として流通した。加工しない状態でも取引されていた[67][80][78]
  • 石材加工品 - 尾道で中世から盛んだった石工はこの時代にも名産品だった。また荷を降ろした北前船は、帰りは軽くなるためバラストとして大きな花崗岩を積んでおり、そこで石工職人は船で一緒に移動して当地で加工した[67][72][81][82][49]
  • -- 刀鍛冶は中世から盛んだったが、太平の世となった江戸時代に平和産業への転換が図られた。その中で“尾道錨”という名産品を生み出した。北前船の錨にも用いられた[67][68][62][51]
  • -- 尾道での酢の製造は安土桃山時代に堺から職人を呼び寄せて始まっている。尾道三山は良質な水を生み出していたこと、そして江戸時代に入り年貢米が大量に流通していたことから、これを原料として“尾道酢”が特産品となった[67][68][72][10]
  • -- 酢と同様に、良質な水と大量に流通していた米を原料に酒が製造された[68][10]。ただし近世においてこの付近の酒造の中心地は三原であった[83]
西[67][84]
##[85][86][87][88]

便[89]沿[68][2][39][2][2][2]

沿西沿[39][90]

[72][91][72][72][92][72]5174013[68][2][72][68][2]50[68][2][62][93][62][68]1764[62][62]

17891817[94][94]

[77][72][92]19[92][78]

41807[25]

5131808-1830[91][13][91][13][13]

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現在の主な寺社[70]

近現代[編集]


[34][102]

41871調[25]調[103][103]61873調[103][103]31189842[25]361903[104]

5[105]1調[105]24189110[105]451911便[105][106][34][105]

[108]121879[25][109][87][109][87]291896[108][109]

61873251892[106][87][12]調[106][87][12]281895511[106][87][12][12]421909[87][110]21913[87]22020[106]

昭和4年(1929年)尾道都市計画区域図。当時の市域になる。

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昭和4年(1929年)尾道都市計画区域図。当時の市域になる。
映像外部リンク
昭和初期の映像 - RCCテレビ60年特別配信『ひろしま 戦前の風景』
第1回尾道みなと祭 - 昭和10年(1935年)
千光寺公園の花見 -昭和10年(1935年)ころ
千光寺公園ドライブ - 昭和12年(1937年)ころ
桜と尾道鉄道 - 昭和12年(1937年)ころ
日本泳法(古式泳法) - 昭和13年(1938年)
夏の鞆・福山・尾道 - 昭和15年(1940年)ころ