藤原忠雅
藤原 忠雅 | |
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藤原忠雅(天子摂関御影より) | |
時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
生誕 | 天治元年(1124年) |
死没 | 建久4年8月26日(1193年9月23日) |
改名 | 忠雅→理覚(法名) |
別名 | 花山院忠雅 |
官位 | 従一位、太政大臣 |
主君 | 崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇 |
氏族 | 藤原北家花山院家 |
父母 | 父:藤原忠宗、母:藤原家保の娘 |
兄弟 | 忠光、忠雅、中山忠親、覚成、覚深、三条公行室 |
妻 | 藤原家成の娘 |
子 |
兼雅、忠恵、忠雲、忠子、源通親側室、兼経 養子:行雅、隆雅 |
藤原 忠雅︵ふじわら の ただまさ︶は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、権中納言・藤原忠宗の次男。官位は従一位・太政大臣。花山院太政大臣と号す。花山院家3代。
経歴[編集]
忠雅は幼少時に父を亡くし、母方の叔父・藤原家成に引き取られて育った。治天である鳥羽院第一の寵臣の家成の引き立てもあり、院近臣として順調に出世を重ねる。保延元年︵1135年︶、12歳で土佐権守となった後、保延2年︵1136年︶に右少将、左少将兼美濃守、保延3年︵1137年︶に従四位下、保延4年︵1138年︶に従四位上、左近衛権中将、春宮権亮、正四位下、讃岐介、正四位上、蔵人頭となり、永治2年︵1142年︶に19歳で従三位として公卿に列する。この年より﹁悪左府﹂として有名な藤原頼長と男色関係に入る。 康治2年︵1143年︶に美作権守、久安元年︵1145年︶に参議、久安3年︵1147年︶に播磨権守、久安4年︵1148年︶正三位・権中納言、久安6年︵1149年︶に右兵衛督、仁平2年︵1152年︶に左兵衛督、久寿2年︵1155年︶に検非違使別当、保元元年︵1156年︶に中納言、左衛門督となる。力をつける平清盛にも近づき、子・兼雅と清盛の娘を結婚させる事に成功する。保元4年︵1159年︶に従二位、永暦元年︵1160年︶に権大納言、応保元年︵1161年︶に正二位大納言、仁安元年︵1166年︶に右大将、右馬寮御監、仁安2年︵1167年︶に清盛の太政大臣昇任に伴い内大臣。 仁安3年︵1168年︶5月17日、辞職した清盛の後任として太政大臣就任、従一位に叙される。嘉応2年︵1170年︶6月6日まで勤める。承安元年︵1171年︶には娘を後任の太政大臣で後に関白になる松殿基房に嫁がせる。このように忠雅は、巧みな婚姻政策によって平氏政権の下で昇進し、後の花山院家の発展の礎を築いた。 元暦2年︵1185年︶62歳で出家、法名は理覚。建久4年︵1193年︶、70歳で薨御。系譜[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 佐古愛己『平安貴族社会の秩序と昇進』思文閣出版、2012年。ISBN 978-4-7842-1602-4。