二条持基
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二条持基 | |
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時代 | 室町時代中期 |
生誕 | 明徳元年/元中7年(1390年) |
死没 | 文安2年11月3日(1445年12月1日) |
改名 | 基教(初名) |
別名 | 後福照院 |
官位 | 従一位、摂政、関白、太政大臣 |
主君 | 称光天皇→後花園天皇 |
氏族 | 二条家 |
父母 |
父:二条師嗣、母:東坊城長綱の娘 養父:二条満基 |
兄弟 | 満基、持基 |
妻 | 石橋殿(石橋満博の姉妹) |
子 |
持通、尊応 養子:隆快 |
二条 持基︵にじょう もちもと︶は、室町時代中期の公卿・歌人。
生涯[編集]
父は関白の二条師嗣で次男[1]。母は参議の東坊城長綱の娘[1]。初名は基教︵もとのり︶という[1]。応永17年︵1410年︶に兄の満基が急死したため、その養子となって家督を継いだ[1]。応永31年︵1424年︶、称光天皇の関白となる[1]。正長元年︵1428年︶に称光天皇が崩御し、後花園天皇が即位すると摂政に転じた[1]。永享5年︵1433年︶に関白となる[1]。官位は従一位太政大臣になった[1]。 書道や歌道にも優れ、京都郊外の岩倉の別邸で歌会を何度も催している[1]。﹃新続古今和歌集﹄には持基の詠歌が収められている[1]。 文安2年︵1445年︶11月3日に死去。享年56[1]。家督は子の持通が継いだ。経歴[編集]
※ 日付=旧暦
●応永16年︵1409年︶、正五位下左近衛少将
●応永17年︵1410年︶、従四位下、正四位下備前権介権中納言、従三位
●応永18年︵1411年︶、正三位権大納言
●応永19年︵1412年︶、従二位
●応永21年︵1414年︶、正二位
●応永26年︵1419年︶、左近衛大将内大臣。翌年に両職とも辞職。
●応永27年︵1420年︶、左大臣。応永32年︵1425年︶に辞職。
●応永28年︵1421年︶、従一位
●応永31年︵1424年︶、関白。正長元年︵1428年︶に辞職。
●応永33年︵1427年︶、左大臣。永享元年︵1429年︶に辞職。
●正長元年︵1428年︶、摂政。永享4年︵1432年︶に辞職。
●永享4年︵1432年︶、摂政。太政大臣。翌年に辞職。
●永享5年︵1433年︶、関白。死去まで。