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骨壺の風景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
骨壺の風景
本作の舞台の一つとなる、北九州市小倉北区にある大満寺
本作の舞台の一つとなる、北九州市小倉北区にある大満寺
作者 松本清張
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 短編小説
発表形態 雑誌掲載
初出情報
初出新潮1980年2月
出版元 新潮社
刊本情報
収録 『岸田劉生晩景』
出版元 新潮社
出版年月日 1980年10月20日
装画 正井和行
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
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調


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姿[2]

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「以前の小姓町筋は道路が広くなって小文字通りという新しい名になっていた。図上ではその角に寺の記号も名もなかった。道路の拡張工事で、あの寺はどこかに移転させられたのかもしれない」
「以前の小姓町筋は道路が広くなって小文字通りという新しい名になっていた。図上ではその角に寺の記号も名もなかった。道路の拡張工事で、あの寺はどこかに移転させられたのかもしれない」
  • 「この清水というのは、そこにある清水小学校の前名板櫃尋常高等小学校に通っていたので、なつかしい土地の名でもあった」
    「この清水というのは、そこにある清水小学校の前名板櫃尋常高等小学校に通っていたので、なつかしい土地の名でもあった」
  • 「紫川橋に近いその通りの南側が今の地名で中島一丁目の11番地となっている」「低地には小さな家が密集していた。その裏の板壁の小屋が私たちの家であった」
    「紫川橋に近いその通りの南側が今の地名で中島一丁目の11番地となっている」「低地には小さな家が密集していた。その裏の板壁の小屋が私たちの家であった」
  • 「兵庫屋の臨時雇のあと、峯太郎は旦過市場の魚屋から塩鮭と塩鱒とを分けてもらい、旦過橋から一つ南の天神橋の上に立って売った。幅の狭い神岳川だが水面から吹き上げる川風は冷く、彼は水洟を手の甲で拭き拭きして、橋の上を往復する通行人を客引きのようにきょろきょろと見ていた」
  • 「見おぼえの石垣が眼の前に現れた。横に長かった石垣は削られて短かくはなっているが、たしかに私が清水の板櫃尋常高等小学校に通っているとき毎日見ていた石垣だった」
    「見おぼえの石垣が眼の前に現れた。横に長かった石垣は削られて短かくはなっているが、たしかに私が清水の板櫃尋常高等小学校に通っているとき毎日見ていた石垣だった」
  • 「現在の稲荷社は二段の石垣で赤塗りの四つの鳥居と赤い欄干を持つ立派なものになっているが、あのころは一本の狭い石段の上の小さな祠であった」「母は私を背負い、危なっかしい急な石段を踏んでは油揚げを供えた」
    「現在の稲荷社は二段の石垣で赤塗りの四つの鳥居と赤い欄干を持つ立派なものになっているが、あのころは一本の狭い石段の上の小さな祠であった」「母は私を背負い、危なっかしい急な石段を踏んでは油揚げを供えた」
  • 「家は田中町に移った。重砲兵連隊のすぐ前に餅屋を出した。父が足踏みの餅つき器を踏み、母は石臼にしゃがむ。餅とり粉で真白な板の台に搗き上った餅が移される。そこには祖母が待っている。父の役目はそこまでだった」
  • 「祖母カネが晩年を迎えたのは、小倉の紺屋町ではなく、中島通りであった。そこは前に住んでいた製紙会社の汚水が流れる川の傍ではなく、香春口というところから陸軍橋にいたる本通りであった」「その家は表は本通りに面しているが、裏は落ち窪んだ低地で、そのために一段と低い四畳半の部屋があった」
  • 脚注[編集]

    出典[編集]

    1. ^ 著者による『清張日記』昭和五十五年二月十七日の項。
    2. ^ 中川里志「清張と下関 - 松本清張の地理的理解(二)」(『松本清張研究』第21号(2020年、北九州市立松本清張記念館))
    3. ^ 藤井省三「松本清張と魯迅 - 『骨壺の風景』と『朝花夕拾』における幼少年期の回想」(『松本清張研究』第15号(2014年、北九州市立松本清張記念館))