黒地の絵
黒地の絵 | |
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作者 | 松本清張 |
国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
ジャンル | 短編小説 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
初出情報 | |
初出 | 『新潮』1958年3月・4月号 |
出版元 | 新潮社 |
刊本情報 | |
収録 | 『黒地の絵』 |
出版元 | 光文社 |
出版年月日 | 1958年6月1日 |
装幀 | 伊藤明 |
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﹃黒地の絵﹄︵くろじのえ︶は、松本清張の短編小説。﹃新潮﹄1958年3月号および4月号に掲載され、同年6月に短編集﹃黒地の絵﹄収録の表題作として、光文社から刊行された。
あらすじ[編集]
朝鮮戦争でアメリカ軍が苦境に立たされていた1950年、小倉では7月12日と13日の祇園祭が近づき、太鼓の音が街に充満する中、街から一里ばかり離れた城野キャンプ内の兵士の数はふくれあがっていた。夜9時ごろ、キャンプの土堤にはめこまれた排水孔の土管に、自動小銃をにない手榴弾を背負った兵士たちの影が集まり、数々の村落に散った。 近所の小さな炭坑で事務員として働いていた前野留吉と妻の芳子の家の戸が鳴り、五・六人の大男が現れた。黒い兵隊は留吉を突き飛ばして中へあがりこみ、アルコールを飲んだのち、卑屈な笑いを浮かべシャツを脱ぎ、上半身の鷲の刺青を自慢そうに見せ、芳子の隠れていた押入れの襖を倒した。ナイフで脅された留吉はとっさにMPに訴えると云ったものの、近くにMPの姿は無く、だまされたと思ったらしい黒人兵は留吉を殴りつける。輪姦の間、大男が、留吉の目の前で、女陰の刺青を見せて踊る。暴風が過ぎたのち、留吉は表に駆け出るが、警察に被害を言うことはできなかった。 1951年に入り、おびただしいアメリカ軍兵士の戦死体が北九州に輸送され、エージャレスと呼ばれる城野キャンプの死体処理班の建物で、本国に帰すための、死者を化粧する工作が行われていた。死体処理班の日本人医師として勤務する歯科医の香坂二郎は、キャンプの労務者として死体処理に従事する留吉に声をかける。留吉は、黒人の黒地の皮膚に描かれた刺青の絵がおもしろいと目を笑わせずに答え、正体のわからぬ倦怠感を立ちのぼらせていた。﹁奥さんと別れたのは間がうまくいかなかったのかね﹂ときいた香坂歯科医に、留吉は﹁僕も妻も、別れたくなかったのです。そういう仕儀になったのです﹂と云う。しかし黒人兵が戦争の最前線に立たされていると聞くと留吉は、﹁黒んぼもかわいそうだな。かわいそうだが﹂とつぶやく。香坂歯科医は、鷲の刺青、続いて女陰の刺青が刻まれた黒人兵の死体を前に、絶望した黒人兵は生きて本国に還ることを計算しなかったのだと思った。留吉はナイフを手に持って、黒人の胴体に描かれた鷲と女陰を、一心不乱に切り刻んでいた。エピソード[編集]
幻の映画化[編集]
●本作は清張が後年映画化を強く望んだことで知られているが、その契機として清張は、映画監督の黒澤明の清張宅来訪を挙げ、以下の通り記している。﹁年月が経ったころ、黒澤明監督の来訪をうけた。当時の松江︵松江陽一︶プロデューサー帯同だった。黒澤氏とはその前に若干のつきあいがある。この日は雑談だが、題材さがしのようにも見うけられた。試みに﹃黒地の絵﹄の話をしたところ、氏はたちまち乗り気になり、わたしの眼の前で松江氏と握手をしたほどであった﹂﹁ところがそれから黒澤氏からなんの音沙汰もない。だいたいの予想はついたが、二か月ばかりして松江氏に電話できくと、心もとない返事だった。理由もはっきりといわない﹂﹁要するに黒澤氏とのこうしたちょっといきさつが、いままでの曖昧模糊たる﹃黒地の絵﹄の映画化が実現の可能性を見させたのである。黒澤氏の断念の理由は遂にわからなかったけれど、たとえ一時でも大監督が映画化の意欲を起こしたらしい︵?︶ことが、刺戟となったのだった﹂[14]。 ●のちに映画評論家の西村雄一郎が、プロデューサーの松江陽一に、黒澤の清張宅来訪の時期について聞いたところ、﹁ソ連で、黒澤さんが﹃デルス・ウザーラ﹄を撮った後ですよ。次回作に何を撮ろうかと題材を探していた時、清張さんの高井戸のお宅にお邪魔しました。ただ黒澤さんも、その時に﹃黒地の絵﹄に出会ったんじゃないんですよ。﹃赤ひげ﹄の前、僕が東宝の助監督時代に、黒澤さんはすでに﹁あの原作は素材としてすごい﹂と言ってましたからね﹂と松江は述べ、︵その後黒澤から音沙汰のなかった理由について︶﹁政治や人種差別の問題だったんですか?﹂と西村が確認すると、﹁そうですよ。やはりあの映画は、簡単にできる代物ではないですね﹂と松江は返答した[15]。 ●清張が1977年秋に映画監督の野村芳太郎に本作映画化のプランを相談したところ、野村は﹁やりましょう﹂と言ったが、松竹に直接話を持ち込んだのでは、断られる可能性があるとして、野村が企画プロダクション方式、つまり企画プロダクション側で充分に問題点を検討、下準備をして配給会社側のリスクを少なくさせ、話に乗りやすくさせる方式を提案し、1978年10月に清張と野村が代表取締役に就任する形で﹁霧プロダクション﹂が設立された。西村雄一郎は﹁外から見ると、すべての清張原作を映像化するために始められたかのように見えた霧プロも、出発点はあくまで清張が﹃黒地の絵﹄を映画化したかったために設立したものだった﹂と述べている[15]。 ●小説をもとに三つの撮影台本が創作された。各稿記載のスタッフは以下の通り。 ●第一稿︵1980年︶ - 企画‥霧プロダクション、原作‥松本清張、脚本‥古田求、ブッカー・ブラッドショー、撮影‥川又昂、美術‥森田郷平、音楽‥芥川也寸志、監督‥野村芳太郎 ●第二稿︵1982年︶ - 製作・原作‥松本清張、脚本‥井手雅人、古田求、ブッカー・ブラッドショウ、監督‥野村芳太郎 ●第三稿︵1984年︶ - 企画・原作‥松本清張、脚本‥井手雅人、監督‥野村芳太郎 ●霧プロ設立当初から﹃黒地の絵﹄映画化の準備が開始され、多数の黒人兵役出演者を確保するための方法や予算などを計算すればアメリカとタイアップして全世界のマーケットを視野に入れなければ費用の回収が見込めないことから、野村が渡米し、企画書をもってワーナー・ブラザースやMGMの重役に接触した。しかし、州によっては上映ボイコットや映画館で黒人暴動が起こる可能性もあるということで、この時点で話は進まなかった[16]。脚本は日本人とアメリカ人の脚本家による共同執筆の形を取り、野村は当初﹁これは私たちの視点のみで書いてもダメなんです﹂﹁今度はどうしても黒人のライターに入ってもらわねば﹂と述べ[17]、日本人、白人、黒人の三者三様の視点から多重構造的に描くこととされていた。主人公の留吉は進駐軍物資を扱う闇ブローカーに変更され、留吉役には高倉健が候補にあげられた[15]。脚本の日本部分は古田求、アメリカ部分は﹁刑事コロンボ﹂などの脚本を手掛けていたブッカー・ブラッドショーに依頼、1979年にブラッドショーが来日し取材を行ったが、ブラッドショーが本作の設定に難色を示し[16]、また翻訳に時間を要したことから、1981年に﹃点と線﹄や﹃鬼畜﹄の脚本を手掛けた井手雅人に執筆することに方針を変更した[15]。 ●井手は1982年8月に第二稿を脱稿、続いて自発的に追跡調査を行い1983年9月から追加原稿を書き始め、1984年3月に第三稿を完成させた。井手は留吉役に当時﹃戦場のメリークリスマス﹄に出演したばかりのビートたけしがいいと述べた[15]。しかしこの時期野村の製作意欲は他の作品に向けられ、﹁﹃黒地の絵﹄に関するかぎり、脚本が出てくるのを待っていて、それを読んで気に入らないと返していたのでは、いつまで経っても撮影にとりかかれっこはない。野村さんはどうして自分で構想を練り、対象にぶつかってゆこうとしないのだろうか。どうして﹃黒地の絵﹄の脚本を他力本願の風待ち主義にしているのだろうか。かつての情熱は冷めたようだとわたしは思わざるを得なかった﹂[14]と野村への不信感を募らせた清張が霧プロダクションの解散を決断し、映画化は頓挫した[16]。 ●清張は霧プロ解散後に本作の意図を﹁わたしとしては人道的な立場、とくにアメリカ黒人の生活と心情、その平和な日常生活へある日、突然やってきた絶望的な戦場への駆り立て、といったものがテーマであった﹂と述べている[14]。脚注・出典[編集]
(一)^ 著者による﹃半生の記﹄の﹁絵具﹂の節
(二)^ ﹃松本清張全集 第37巻﹄︵1973年、文藝春秋︶巻末の著者による﹁あとがき﹂
(三)^ 著者による﹁創作ヒント・ノート﹂︵﹃小説新潮﹄1980年3月号掲載、﹃作家の手帖﹄︵1981年、文藝春秋︶収録︶
(四)^ “﹁主婦が襲われた、夫の眼前で…﹂夏祭りの夜の惨劇…小倉でおこった米兵﹁250人﹂脱走事件” (jp). 文春オンライン. (2021年7月11日) 2023年4月16日閲覧。
(五)^ ab綾目広治﹁﹁黒地の絵﹂論 - 戦争のもう一つの悲劇に迫る虚構﹂︵﹃松本清張研究 第17号﹄︵2016年、北九州市立松本清張記念館︶収録︶
(六)^ 江藤淳﹃全文芸時評上巻﹄︵1989年、新潮社︶26頁
(七)^ ab李彦樺﹁松本清張﹁黒地の絵﹂論﹂﹃國文學﹄第99巻、関西大学国文学会、2015年3月、1-30頁、hdl:10112/9249、ISSN 0389-8628、NAID 120005688399、2023年4月25日閲覧。
(八)^ ﹃松本清張全集 第37巻﹄巻末の中野による解説。
(九)^ 阿刀田高﹁ストーリー・テラーの面目﹂︵﹃松本清張小説セレクション 第33巻 短篇集Ⅱ﹄︵1995年、中央公論社︶巻末収録︶
(十)^ ﹁黒地の絵﹂展 - 刻まれた記憶︵2005年、北九州市立松本清張記念館︶18-19頁
(11)^ 佐藤泰正﹁松本清張一面 - 初期作品を軸として﹂︵佐藤泰正編﹃松本清張を読む﹄︵2009年、笠間書院︶収録︶
(12)^ 佐藤泉﹁松本清張の占領期-﹃黒地の絵﹄﹃日本の黒い霧﹄﹂︵﹃季刊 前夜﹄第1期3号︵2005年4月、影書房︶収録︶
(13)^ マイク・モラスキー﹃占領の記憶 記憶の占領 - 戦後沖縄・日本とアメリカ﹄︵2006年、青土社︶185頁。また“Occupied Japan: The Kokura incident, “committing excesses”, and murder on the 4th of July ﹁黒地の絵﹂”. The Tokyo Files (2016年12月12日). 2023年4月15日閲覧。
(14)^ abc著者による﹁﹁霧プロ﹂始末記﹂︵﹃週刊朝日﹄1984年10月26日号掲載︶
(15)^ abcde西村雄一郎﹁幻の映画﹃黒地の絵﹄を夢みた男たち﹂︵﹃松本清張研究 第5号﹄︵1998年、砂書房︶収録︶
(16)^ abc林悦子﹃松本清張 映像の世界 霧にかけた夢﹄︵2001年、ワイズ出版︶14-18頁
(17)^ ﹁﹁黒地の絵﹂映画化へ一歩﹂︵﹃毎日新聞﹄1979年6月5日付掲載︶